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  • 2015⁄01⁄05(Mon)
  • 23:12

地球という名の母に抱かれて

 ベルナデット・ブリエットは、目の前に広がる景色に、心を奪われている。どこまでも深く、どこまでも続いているかの様な、青い海。飛行機の中から見た時も感動的だったが、玉砂利の海岸の上に立ち、自分の背の高さで感じる青い自然は、泣きたくなる程素晴らしかった。
「凄い……。これが本物の海、本物の自然なのね」
 緑色の瞳に映る青い海に、思わず声を上げる水着姿のベルナデット。手が、彼女の金髪の後ろを通って、ベルナデットの華奢な肩に触れる。抱き寄せた、少女を。
「僕も、初めて見た時は感動したよ。地球って、こんなに凄いんだなって」
 トビア・アロナクスの声。一度海を体験した事があるその少年も、抱き寄せている大きな目を持つ少女と同じ様に、深く澄んだ海に心を動かされた。
(あの時と違って、平和の中で海を感じる事が出来るんだ、今日は)
 心の歪んだ巨大な毒虫との戦いが終わった後、トビアはクロスボーンガンダム三号機のコアファイターの中で、海という物を初めて感じた。生きとし生ける者達の、青い母。命の星を包み込む、安らかな母。それが、海。
 何千年、何万年先まで、人が新しい時代を迎えるまで、深く澄んだこの海を守って行かなければならない。あの時、そう決意した。今でも、いや、永遠にその決意は変わらない。抱き寄せている少女の為にも。
 南フランスのニース。宇宙世紀になっても、リゾート地を続ける町。トビア達宇宙海賊の生き残りは、普段の生活の延長として、ここへやって来た。彼らが宇宙海賊でない時の仕事としているブラックロー運送の、社員旅行として。
 廃棄物の処理や輸送をしているブラックロー運送は、ブッホ・コンツェルン傘下の一企業だ、表向きは。だが、合法的に解決出来ない問題が宇宙で起こった時だけ、宇宙海賊クロスボーン・バンガードへと戻る。
 先日も、グレイ・ストークと名乗る男の依頼を、解決したばかりだ。その褒美として、ブッホ・コンツェルンの重役であるシェリンドン・ロナより、地球への旅行が与えられたのである。
 ブッホ・コンツェルンが所有する高級リゾートホテルの、プライベートビーチ。そこから見える青い海を、こうして二人で永遠に見ていたい。空色のトランクスを水着代わりに穿いているトビアは、そう思った。そして、ベルナデットも。
「ほら、何やってんのよ、二人共。ラブラブなのを、見せ付けるんじゃないの」
 二人のお姉さん的存在であるヨナが、肩を寄せ合っている少年と少女に、後ろから声を掛ける。驚きと恥ずかしさを連れて、振り向く二人。
「どお、ベルちゃん、トビア? 中々いいでしょ」
 明るい黄色のビキニを身に着けているヨナが、振り向いた視線達に向かってポーズを取る。程よい丸みを帯びた胸とお尻を包む、少し大胆なデザインの水着を、褒めてもらいたいらしい。
「今日の為に新しく買ったのよ、このビキニ。結構高かったんだから」
「あ……、あの、素敵です。水着も、ヨナさんも」
 紺色のAラインワンピース水着を着たベルナデットは、微かに頬を赤らめ、そう答える。ビキニ姿でも堂々としているヨナが、少し羨ましかった。やっぱり、ジェラドさんの為に着てるのかな――。
「やっだぁ、もぉ~、ベルちゃんたらぁ。ベルちゃんも、そんな地味なのじゃなくて、派手な水着でトビアを悩殺してあげたら?」
「そ、そんな、からかわないで下さいよ。だって、ベルナデットは……」
 焦りを示すトビア。確かに、ベルナテッドのビキニ姿を見たい。胸やお尻が少しづつ丸みを強めているベルナデットの体を、もっと見たい。だが流石に、他人にそれを指摘されるのは、やはり恥ずかしい。
「な~に言ってんだか。二人共、いつまでも子供じゃないんでしょ。ロマンチックなのも悪くないけど、そろそろ大胆になってもいいんじゃない?」
「ヨ、ヨナさん、何が言いたいんですか!?」
 恥ずかしさで、声を荒げるトビア。さらに頬を赤らめ、少しうつむくベルナデット。そんな少年と少女を見て、ヨナは呆れる。どーしようも無いわねぇ、この二人は――。
「地球にいる内に、やる事やっちゃいなさいって言いたいのよ。全く、じれったいんだから、二人共」
「ダーッ! 何言ってるんですか!!」
 恥ずかしさの中、トビアは必死に抗議する。ベルナテッドは、うつむきを深める。だが、年上の余裕を持つヨナには、そんな物は通用しない。それどころか、二人の態度を見ていると、じれったいカップルの背中をもっと押してあげたくなった。
「あのねぇ、知ってるのよ。ベルちゃんとトビアが、上手く出来ないでいるの。痛い痛いっていうベルちゃんの叫び声が、あなたの部屋から聞こえて来たわよ、先週」
 うわ、聞かれてたの!? 社員寮の自室でやった、先週の失敗を思い出す。
 ニヶ月前から、トビアとベルナデットは一つになろうとしているが、中々上手く行かない。最後はいつもベルナデットが痛がるので、手や口で慰め合って、二人は果てる。
「ごめんなさい、トビア……。でも、まだ痛いの」
「……うん、いいよ。ベルナデットに痛い思いをさせてまで、したくないから」
 常に、こんな会話で終わる。おかげで手や口で愛し合うのは上手くなった気がするが、それで終わりというのを続けるのは、やはり何か寂しい。それでは、一つになろうと決意する前と、変わりが無いからだ。もっと先へ進もうと、お互い頑張っているつもりだが、いつまで経っても最後は上手く行かない。
 指を二本入れても痛くなくなったとベルナデットが言うので、今度こそと思ったが、やはり先週も彼女は痛がった。無理矢理しようとしてみたが、いつもより大声で叫ぶベルナデットが可哀そうになって、トビアは途中でやめてしまう。その時、少女が発した痛みの大声を、ヨナに聞かれたのだ。
「ベルちゃんも。怖いかも知れないけど、少し我慢してあげなさい。トビアだって男なんだから、ベルちゃんが気持ち良くしてあげないと、いつか浮気しちゃうわよ」
 ヨナは、言葉の後半分を冗談で言ったつもりだが、ベルナデットには本当の事としか思えなかった。せっかく見つけた未来の家族になる少年が、自分から離れて行ってしまう。想像の中の事とは言え、それに耐えられる程、ベルナデットという少女は強くない。
 大きな目の世界が、潤んだ。想像の悲しみを見られたくないベルナデットは、両手で顔を覆い、玉砂利の海岸の上に膝を付く。声を上げたくないのに、すすり泣く声を、彼女は止める事が出来ない。
「あ……。ごめん、ベルちゃん。冗談よ、冗談。――トビア、あんた幸せ者よ。こんな女の子に、惚れられてるんだから」
 ヨナは中腰になって、膝を付いたベルナデットの両肩に掌を置き、彼女を慰める。その後トビアの方に顔を向けて、言葉を続けた。トビアは何か言いたそうだが、オロオロするばかりで、どんな言葉を発せば良いのか分からないでいる。
「ハァ……。もう、しょうがないわね、二人共。向こうの方に行って、デートでもして来なさい」
 立ち上がり、ひと気の無い岩場の方を指差すヨナ。トビアは、泣き声のやみつつあるベルナデットを抱き起こして、ヨナの指示に従おうとした。ベルナデットも、そうする気でいる。
 元に戻りつつある一線を越えられないカップルに、ヨナは声を掛けた。
「いつまでも怖がってちゃあ、先に進めないわよ、ベルちゃんもトビアも。幸せになりたいんでしょ、お互い」
 感謝の微笑みを浮かべ、頷くトビア。目に残った涙を左手で消しながら、同じ事をするベルナデット。そんな二人を、ヨナの両手が押す。行ってらっしゃいと、言いた気に。
 ヨナに促された通りに、誰もいない岩場へと向かう少年と少女。それを離れてつけて行く、二つの人影があった。

「綺麗ね、海」
 入り江になっている岩場の上で、膝を抱えたベルナデットが、トビアに向けて言う。大きな目を、青い海へと向けたまま。その声には、僅かに寂しさと悲しさが乗っていた。
 少女の隣に座っているトビアは、それに気付いた。声の方を向く。だが、ベルナデットの大きな目は、深く澄んだ海を見詰めたままだ。波の音以外、何も広がらない時間が続く。
 風が、吹いた。
「父さん、幸せかな……」
 地球を求め、自然を求め、心を歪めて行った父を思う。隣にいる少年が、父をその歪みから解き放ってくれた。地球の海で、命を懸けて。
 父の心が眠る海と、目の前に広がる海は、つながっている。それが、地球の海だから。
 ベルナデットの目に、涙が浮かぶ。その涙が何を意味するのか、トビアには分からない。誤解したトビアが、声を掛けた。
「ごめん……。僕が、君の父さんを……」
 その謝罪が届いたベルナデットは、潤んだ瞳をトビアへ向ける。優しく、微笑んだ。
「ううん、いいの。あのままでいたら、父さんと母さん、分かり合えなかったでしょうから。今はきっと、二人は分かり合って、幸せに暮らしてるわ」
 何も言えない、何も言う事が出来ない、トビアは。
 掌を見る。憎しみの光を、歪んだ心をはね返した、二つの掌を。クロスボーンガンダム三号機を通して感じたあの時の感触が、再び感じられる。
 あの時は、ああするしか無かった。地球を、すぐ傍に広がる青い海を守る為には、ああするしか無かった。人が生み出した憎しみと悲しみから、人が生み出す未来を守る為には、ああするしか無かった。だが、その結果が――。
「ごめん、ほんとにごめん。君の、たった一人の家族だったのに……」
 トビアの目にも、涙が浮かぶ。涙でぼやけた視界で、必死にベルナデットの顔を探した。不確かな視界の先にある顔が、微笑みで少年を慰める。
「いいの、トビア。もう、悲しくないから。だって私、家族が増えたんですもの。
 ヨナさん、ジェラドさん、ウモンお爺さん、オンモ社長、キンケドゥさん、ベラ艦長、それにトビア。血はつながっていなくても、私の大切な家族よ、みんな。だから、あなたまで泣かないで、お願い……」
 今まで慰められていたベルナデットが、今度はトビアの悲しみを消そうと必死になる。その思いが、通じた。トビアも、大きな目の少女と同じ微笑みを浮かべる。
 それを確認したベルナデットは、決意した。すぐ傍にいる優しい少年と、本当の家族になる事を。体を寄せる。顔を動かす。そしてトビアの唇に、自分の唇を重ねる事を望んだ。
 トビアは、それに応えた。心が、通じ合う。
 風が、吹いた。
「トビア……」
「ベルナデッド……」
 お互いの両腕で、お互いの体を優しさで包む。強く、抱き締め合った。二人共、目の前の人を放したくないから。二人共、目の前の人を本当の家族にしたいから。
 再び、唇を重ね合う。
 通じ合う心。重なり合う優しさ。海からの風が、寄せては帰す波の音が、傾き始めた太陽の光が、二人の心を一つにする。お互いの想いを、大きく膨らませながら。
 唇が、離れた。だが、通じ合った心は離れない。トビアの瞳が、すぐ傍の緑色の瞳に自分の想いを伝える。真剣な眼差しを受け取ったベルナデッドは、無言で頷いた。
 ベルナデットの肩へ、手を伸ばす。ニヶ月前は、震えながら同じ事をした。だが、今は違う。力強いトビアの右手が、ベルナデットの左肩に掛かった。水着の肩紐が、元の位置から動く。
 トビアの左手が右手と同じ事をしようとした、その時。
「ぐわーっ!」
 少し離れた岩陰から、二つの人影が、もつれ合いながら倒れた。
「ガーッ! 年寄りの体の上にそんなに体重を掛けるなと、さっきから言っとるじゃろーが!」
 倒れたアロハシャツ姿のウモンが、背中の上にいる人影に向かって、悪態をつく。
「何よ、爺さんがもっと前にいれば、アタシだって良く見えたのよ!」
 赤いワンピース水着を着たオンモが、悪態を返しながら、ウモンの背中から離れた。視線をウモンへ向けたまま、罵倒を続ける。
「大体、歳甲斐も無く覗きをしようっていう爺さんが、悪いんでしょーが!」
「それにノコノコ付いて来たのは、どこの誰じゃい! 嫌なら、少しは泳いでダイエットでもせんか!」
「何ですってー! アタシが太ってるとでも言いたいの!」
「その通りじゃ! 言って悪いか!」
「悪いに決まってるでしょ! 標準体重なのよ、アタシは! この、嘘つきジジイ!」
「何じゃと、覗きババア!」
「歳が半分以下の女に向かって、ババアって言うなー!」
 戸惑う恋人達を無視して、覗き魔の二人は罵り合う。あっ気に取られた状態を続けるしかない、トビアも、ベルナデットも。そこに、新しい人影が現れた。「社長ぉ~、爺さ~ん。何やってるんですかっ!」
 怒りの表情を浮かべる、ヨナ。不器用なカップルを冷やかし半分で覗いていた二人に、本気で怒っている。オンモもウモンも、こんな表情のヨナを、今まで見た事が無い。
「あ、あらぁ、ヨナちゃん、こんにちはぁ~」
 わざとらしい声で、オンモが苦し紛れの挨拶をした。
「ヨ、ヨナ、これはじゃな……」
 ウモンの言い訳など聞こえないかの様に、ヨナが二人に近付いて来る。
「二人共姿が見えないから、まさかとは思ったけど……。あんた達、さっさとどっか行きなさい!!」
 恐ろしい怒声が、覗き魔の二人を襲った。
「アハハ……。ヨナちゃん、バイバーイ」
「わわ、社長、待ってくれーっ」
 バツの悪いオンモは、引きつった声でそう言って、全力で走り去る。その後すぐ、ヨナの怒りが集中する前に、ウモンもそこから逃げ出した。
「全く、あの二人は……」
 ヨナが呆れてそう言った後、泣き声がした。ベルナデットが顔を空へ向けて、大声で泣き始める。恐怖と混乱と羞恥心が大きくなって行く彼女は、泣く以外の事が出来なかった。視界を涙で遮り、空に向かって泣き声を飛ばせる事しか出来なかった。
「あ……。ほら、ベルちゃん、泣かないの。……ごめんなさいね」
 ヨナは、ベルナデットの傍にすぐさま寄って、彼女の右手を二つの掌で握る。泣き声を止める為に。
 我に返ったトビアも、ベルナデットの泣き声を止めようとする。右手で彼女の左手を握り、残った左手で、大きな目から零れる涙を必死になって拭ってあげた。

 あの後ヨナが連れて行った切り、ベルナデットの姿を見ていない。部屋にはベルナデットの鞄はあるが、持ち主の少女の姿は無かった。
(大丈夫かな、ベルナデット)
 大きなベッドの上で、両手を後ろに組んで枕にしているトビア。部屋に入ってすぐ、Tシャツとトランクス姿になって、ベッドの上に仰向けになった。長い時間ダブルベッドの天蓋を見ているが、同じ言葉が、何度も繰り返し頭の中に浮かぶだけだ。
 大きな目を持つ少女の事しか、少年の心の中には生まれない。夕食の時も、風呂に入っていた時も、ベルナデットの緑色の瞳の輝きが、頭から離れなかった。大きなベッドの上で仰向けになっている今も、トビアはベルナデットの事しか考えられない。
 トビアとベルナデットには、ベッドが一つしか無い二人部屋を与えられた。だが、同室する筈の少女は、いつまで経っても部屋にはやって来ない。隣の二人部屋で、ヨナが上手くやってくれているとは思うが、やはりトビアは心配だ。
(行った方が、いいのか?)
 あたしに任せてというヨナの言葉を信じてはいるが、じっとしてはいられない。起き上がった。だがすぐに、横になる。あても無くホテルの中と外をうろついた後、部屋に戻ってから、飽きもせずに同じ事を繰り返している。だがトビアの心には、そんな事を気にとめる余裕すら無かった。
 何をしても、ベルナデットの大きな目が、頭から離れない。
 ニヶ月前は、恐怖の色が濃かった、緑色の瞳。先週は、未来への期待で輝いていた、大きな目。今日のその目は、悲しみから決意へ変わった後、涙で濡れた。
(ベルナデットと分かり合う事が出来るのか、本当に)
 不安になるトビア。地球圏で生まれた自分も、木星圏で生まれたベルナデットも、同じ人間の筈だ。いつか、分かり合える。そう自分に言い聞かせる、トビアは。
 だが、それはいつなのか。少なくとも、今日とは思えない。長い時間が掛かるとしか、思えない。
 木星戦役を共に戦い抜いたキンケドゥ・ナウとベラ・ロナは、分かり合うまで、十年掛かった。シーブック・アノーが、ベラ・ロナからセシリー・フェアチャイルドを取り戻すまで、十年掛かった。自分が、テテニス・ドゥガチからベルナデット・ブリエットを取り戻す為の時間は、それよりも掛かる様な気がする、今は。
 仰向けのまま、顔を横へ向ける。三階にある部屋のガラス窓から、無数の星達の瞬きが見える。遠い宇宙の彼方から、とてつもない時間を掛けて届いた光。光を生み出す星の一生は、そのとてつもない時間よりも、遥かに長いのだ。
 無性に、悲しくなった。星の寿命に比べれば、人の歴史など、ほんの一瞬でしかない。その一瞬の中で、人は憎しみ、傷付き、倒れて行った。多くの血が流れ、多くの悲しみが生まれた。
 だが人は、愛する事も忘れなかった。自分とベルナデットを導いてくれたキンケドゥとベラが、そうだった。十年間という人にとって長い時間を、二人は離れたまま惹かれ合い、愛し合った、心だけで。そして二人は、元の名前を取り戻した。
 自分も、ベルナデットをテテニスから取り戻さなくてはいけない。例え、どんなに時間が掛かろうとも。星々の瞬きの光が、ベルナデットの緑色の瞳にある光と同じ物に見えたトビアは、そう決意した。
 ガラス窓の反対側から、現状を弾く音がした。上半身を起こしながら、トビアは音の方へ頭を向ける。部屋のドアの向こうに、大きな目をしたベルナデットが、立っていた。
 向日葵の模様の入ったオレンジ色のパジャマを着たベルナデットは、少しうつむきながら、トビアの方へ近付いて来た。幾つもの向日葵を体に咲かせた少女は、両手で大切そうに、紙袋を胸に抱いている。それを、天蓋の陰のすぐ傍にある低い棚の上に、置いた。
 そしてダブルベッドに腰掛け、Tシャツとトランクスをパジャマ代わりに着ているトビアの方へ、顔を向ける。頬を赤く染め、大きな目を細めて、ベルナデットはトビアへの想いを示した。彼女が大好きな、向日葵の様な笑顔で。
「ごめんね、トビア。心配掛けちゃって」
 安心した、トビアは。ベルナデットの微笑みが、いつもの彼女と同じ物だったから。
「大丈夫?」
「うん。ヨナさんと町でお買い物をして、二人で一緒にご飯を食べてお風呂に入ったら、トビアに会いたくなったの。だから戻って来たわ、トビアの所へ」
 ベルナデットは、向日葵の様な笑顔を顔一杯に咲かせ、トビアへの想いを伝える。その笑顔を見て、トビアは確信した。テテニス・ドゥガチからベルナデット・ブリエットを取り戻す時が、遠くない事を。
 緑色の瞳が、消えた。目を閉じたベルナデットは、トビアへ向けて唇を差し出す。それに応えた、トビアは。
 唇を重ね、肩を抱く。二つの力を、共に強めた。ベルナデットも、トビアの体に腕を回す。テテニス・ドゥガチから自分を解放してくれようとする少年を、力を込めて抱き締めた。永遠に、ベルナデット・ブリエットでいる為に。
 長い長い時間を掛けて、心を通わせる二人。唇で愛を高め合う事を、やめようとはしない。
 ベルナデットの瞼の隙間から、涙が零れた。だがそれは、悲しみの涙ではない。トビアという少年が自分を受け止めてくれた事への、喜びの涙だ。トビアの優しい心と自分の心が、唇を通して一つになれた事への、嬉し涙だ。
 ずっとずっと、こうしていたい。だがベルナデットには、やらなければいけない事がある。その為に、トビアの所へ戻って来たのだから。
 両腕から、少年を放す。唇を、トビアから遠ざける。でも、心は通じ合ったままだ。
 トビアの真剣な眼差しが、その大きな目に飛び込んで来た。頷く。ベルナデットは立ち上がり、窓のカーテンを閉め、星々の瞬きを遮った。

「どうじゃ、聞こえるか?」
 コップの口を壁に当て、底に耳を寄せるウモンが、ドアに向かって同じ事をしているオンモに尋ねる。
「ううん。そっちは?」
「全然駄目じゃ」
 二人はまだ、懲りていないのだ。トビアとベルナデットの声を求めたウモンが、諦めの声で続ける。
「全く、高級ホテルも良し悪しじゃな。防音がしっかりしとるので、何も聞こえんわい」
「耳が遠くなっただけなんじゃないの、爺さん?」
「爺さんって言うな! 壁が悪いんじゃろーが、壁が!」
「文句言わないの。『さすが高級ホテル、ウマいウマい』って言って、晩ご飯、沢山食べてたくせに」
「それとこれとは、話が別じゃ!」
「じゃあ、やっぱり耄碌したんだぁ」
「違うと言っとろーが! この、タラコクチビル女!!」
「何よ! 耄碌スケベハゲ!!」
「言ったな!」
「そっちこそ!」
 コップを手にしたまま罵り合う覗き魔達の後ろで、ドアが開く音がした。
「社長ぉ~、爺さ~ん。まだやってるんですかっ!!」
 怒りのオーラを背負ったヨナが、振り向いた二人の視線の先に立っている。男物の大きなTシャツを下着の上に着ているだけだが、彼女から色気は微塵も感じられない。そんな物は、ヨナの怒りで吹き飛んでいる。
「あ、あらぁ、ヨナちゃん、こんばんはぁ~」
 わざとらしい声で、オンモが苦し紛れの挨拶をした。
「ヨ、ヨナ、これはじゃな……」
 ウモンの言い訳など聞こえないかの様に、ヨナが二人に近付いて来る。組んだ拳から、ポキポキと音を鳴らせながら。
「体に言って聞かせないと分からないみたいね、二人共」
 下手な男など余裕で張り倒すヨナの格闘術を、オンモもウモンも良く知っている。その恐ろしい彼女の手足が、自分達に向けられようとしているのが、二人には嫌という程感じられた。ヨナの怒りのオーラが、オンモとウモンを突き刺す。
 昼間よりもさらに恐ろしい顔付きのヨナが、二人の目の前までやって来た。腰が抜ける前に、逃げ出さねば。
「アハハ……。ヨナちゃん、お休みぃー」
「わわ、社長、待ってくれーっ」
 バツの悪いオンモは、引きつった声でそう言って、全力で走り去る。その後すぐ、ヨナの怒りが集中する前に、ウモンもそこから逃げ出した。
「全く、あの二人は……」
 ヨナはそう言いながら、二人の姿が消えるのを確認した。そして彼女は、着ているTシャツの持ち主であるジェラドの待つ部屋へと、戻ろうとする。
「上手くやりなさいよ、ベルちゃん、トビア」
 ベルナデットに渡した厚手の紙袋の事を思い出しながら、ヨナは優しい声でそう呟いた。

 トビアのTシャツを丁寧に畳む、ベルナデット。それを、畳んである向日葵のパジャマが置いてあるテーブルの上へと、運んだ。温もりが残る少年と少女を、重ねる。
「ど、どうかな、トビア、私の体」
 振り向いて、下着姿をトビアに見せるベルナデット。白いブラの谷間にある小さな赤いリボンが、トビアの目を引く。可愛い、とても。
「ヨナさんと違って、綺麗じゃないけど……」
 少し骨張った細身の体を、申し訳無く思うベルナデットは、思わずうつむいてしまう。だがトビアには、そんな事は関係無い。どんな姿でも、どんな体付きでも、ベルナデットは大切な存在だから。
「そんな事無いよ。可愛いよ、とっても」
「ほんと?」
「ああ。だって、ベルナデットなんだから」
 それを聞いたベルナデットは、大輪の笑顔を顔に咲かせる。そして、ベッドの上に座るトビアに飛び付き、力一杯抱き締めた。向日葵の笑顔にある大きな瞳を、トビアへ向ける。そしてすぐに目を閉じ、少年の唇を奪った。
 今までとは違う少女の大胆な行動に、少年は驚いた。いつものベルナデットは、キスをしたくても、唇をトビアへ向けるだけだったのに。だが、トビアの驚きは続く。舌を入れて来たのだ、大人しい筈のベルナデットが。
 拒否出来ない。拒否してはいけない。トビアはベルナデットの行為に、同じ事をして応えた。
 重なり合う唇の中で、二つの舌が絡み合った。目を閉じた二人は舌だけで、お互いの存在を確認し合う。
 でも、それだけでは足りない。お互い腕に力を入れ、これ以上無いという程体を寄せ合う、唇を寄せ合う。舌から、唇から、触れ合った体から、二人の心が通じ合う。
 ずっとずっと、こうしていたい。でも、先に進まないといけないと、ベルナデットは思った。目を開き、腕の力を緩め、トビアから離れる。
 背中に手を回し、赤いリボンの付いたブラを外そうとするベルナデット。トビアの声が、それを止めた。
「僕にやらせて。キスのお礼に」
 微笑みを浮かべ、少女は頷いた。トビアの手が、背中に回る。怖くはない。むしろ嬉しいくらいだ、ベルナデットは。
 少しぎこちなく、ホックを外すトビア。白いブラを導く為に、ベルナデットは両腕を前に伸ばす。小さな赤いリボンの付いた白いブラが、少女の体から離れて行った。
 トビアには眩しかった、ベルナデットの胸が。見慣れた筈なのに、いつもより眩しい。
「ごめんね、小さい胸で……」
 下着姿を向けた時と同じ様に、ベルナデットはうつむく。床の上に立っていても、ベッドの上に座っていても、同じ表情で同じ事をした。大きな目の少女は。だが、そんな少女を受け止める少年も、先程と同じ事をする。
「そんな事無いよ。可愛いよ、とっても」
「ほんと?」
「ああ。だって、ベルナデットなんだから」
 ベルナデットは、再び向日葵の笑顔を咲かせた。そしてトビアの左手を取り、自分の右胸へと導く。その掌が自分の胸に触れると、再び少女は微笑んだ。
「ど、どうしたの、ベルナデット!? こんな事ばかりして……」
 少女が続ける大胆な行動に驚いたトビアは、思わずそう問い掛ける。笑顔を続けるベルナデットは、それに答えた。
「ヨナさんが言ってたでしょ。いつまでも怖がってちゃあ、先に進めないって。地球にいる内に、私、もっと先に進みたいの。だから……」
「ベルナデット……。いいんだね」
 決意を求める少年に、微笑んだまま頷く。地球にいる内に、トビアと分かり合いたい。トビアと一つになりたい。テテニスという名を思い出にする為、ベルナデットはそう決めたのだ。
 トビアは、左手をベルナデットの胸に触れさせたまま、少女を優しく押し倒した。ベルナデットも、抵抗はしない。その証拠が、トビアの瞳に映る向日葵の笑顔だ。
 トビアの左手が、形を変える。少女の性格そっくりの、少し遠慮がちの胸を揉み始めた。熟れ切っていない青い果実の様な、少し硬いベルナデットの胸を愛し始めた。
「痛くない?」
「ううん、気持ちいいわ。……続けて、トビア」
 心配が外れて安堵したトビアは、右手にも同じ事をさせる。体をベルナデットのお腹に預け、少し硬い小さな胸を、両手で愛し始めた。
 それをする度、トビアの掌から消えて行く物がある。憎しみの光を、歪んだ心をはね返したあの感触が、少女の胸に吸い込まれて、消えて行く。木星の過去を断ち切り、地球の未来を支えたあの感触が、ベルナデットの心の中へと旅立って行く。
 嬉しかった。とても嬉しかった。ベルナデットが声を上げる度に、テテニスの影が、彼女から遠ざかって行くのだから。
 小さな胸へ、顔を寄せる。トビアは再び、唇でベルナデットと心を通わせるつもりだ。少女の大きな目に、一瞬だけ視線を向ける。ベルナデットもそれを望んでいる事を、理解した。
 朱い乳首が、トビアの口に含まれる。その時ベルナデットの背中に、流れ星が飛んだ。今まで何度も同じ事をされている筈なのに、全て違うのだ。今日だけは、今だけは。
 地球の上にいるからだ。地球の空気が、地球の重力が、地球の自然が、ベルナデットの喜びを深い物へと変えているのだ。気持ちいい、とても。トビアの全てが愛しくて愛しくてたまらない、今のベルナデットは。
「……して、もっとして、トビア。もっともっと口でして、お願い」
 喜ぶ体のせいで、少し高くなった少女の声。それが届いたトビアは、ベルナデットの望む通りにした。
 何度も口付け、何度も舐め、何度も吸う。大人になる途中の、少女の遠慮がちの胸を。持てる優しさを、全て口に乗せて。
 少女の胸の形を変える掌から、ベルナデットの胸を喜ばせる唇と舌から、人の温もりが伝わって来る。その温もりを感じる度に、少年の中にある木星の悲しみが、消えて行った。ベルナデットが近付き、テテニスが遠ざかって行く様に感じられた、トビアには。
 ベルナデットも、同じだ。トビアの口から、少年の手から伝わる、純粋な想い。伝わって来るトビアの想いが、過去の自分を優しく抱き締めてくれるのだ。
 そのおかげで、テテニスという名の思い出が、遠ざかって行く。木星という名の悲しみの思い出が、彼女の中の大切な宝物へと変わって行く。トビアが愛してくれる度に。
「下も……、して。トビア」
 飽く事も無く胸を愛していた口を、トビアは離す。星々の瞬きの光を持つ緑色の瞳と、視線を合わせた。頷く、お互いに。
 体を動かすトビア。白いショーツに、両手を掛けた。脚を軽く閉じ、腰を微かに浮かせるベルナデット。白が、爪先へ向かう。
 白いショーツが離れると、ベルナデットは軽く握った二つの拳を、口元へ寄せる。頬を赤らめ、少しだけ横に顔を背けた。そして。
「見て、トビア……。私を、……見て」
 ベルナデットはそう言いながら、自ら膝を広げた。その先はもう、泣き始めている。
「ど、どうしたんだよ、ベルナデット。いつもと違うじゃないか、今日は。そんな事しなくたって……」
 連続する少女の大胆な行動に、少年は戸惑いを隠せない。ベルナデットの顔に、視線を向けるトビア。その瞳に映った物は、あの向日葵の笑顔だった。
「だって、今日こそトビアと一つになりたいもの。地球にいる内に、トビアと分かり合いたいもの。地球の自然の中で、トビアと先に進みたいもの」
 言葉を続けている内に、自分の中の恥ずかしさが嬉しさへと変わって行くのを、ベルナデットは感じた。今言った言葉を、必ず実現させると決めたのだから、大きな目の少女は。
「む、無理しなくていいんだよ。僕は、どこにも逃げたりしないよ。ずっとずっと、ベルナデットの傍にいるんだから」
「ううん、そうじゃないの。地球は、母さんが生まれた星だもの。父さんが眠る星だもの。だから地球で、トビアと本当の家族になりたいの、私」
 短い静寂が流れる。決意に満ちたトビアの声が、それを止めた。
「……分かった。二人で、先に進もう。僕の手で、テテニス・ドゥガチをベルナデット・ブリエットにしてあげるよ、今から」
「トビア……」
 少女の大きな目に、再び嬉し涙が浮かんだ。悲しみの記憶を含んでいない涙と、顔一杯に咲いた向日葵の笑顔を、トビアに向けるベルナデット。優しい微笑みで、それに答えるトビア。二人共、お互いの全てが愛おしくてたまらなかった。
 望まれた場所へ、トビアは顔を動かす。ほんの申し訳程度にしか生えていない金色の靄の下へ、唇を近付けた。
 ベルナデットの木星の記憶へとつながる、快楽の朱い銀河。そこへ唇を寄せる、トビア。少年の優しさと自分の記憶が通じ合った時、大きな目の少女は声を上げた。もっと分かり合いたいと、もっと通じ合いたいと、もっと一つになりたいと。
「んぁっ! 舐めて、優しくして、トビア……」
 そうする。金色の無い朱い銀河の外側を、朱い舌で舐めた。銀河の境を、下から上へと動くトビア。ベルナデットの朱い銀河の外にある白を、何度もゆっくりと這う、朱い舌。だがトビアは、朱い舌を朱い銀河に沿わせようとは決してしない。
「嫌……。意地悪しないで、お願い……」
 大きな目と、記憶の銀河を涙で潤ませ、ベルナデットは哀願する。トビアの唇が、朱い銀河に再び口付けをした。お互いの優しさが、お互いの想いが、再び通じ合う。ベルナデットの口は喜びを響かせ、少女の朱い銀河は嬉し涙を流した。
「ベルナデット、もっと、もっとしてあげる。泣くのは、ここだけでいいよ。悲しい涙を、君の目から零れさせなくてもいいんだ、もう」
 顔を上げ、少女の大きな目に視線を向けるトビア。ベルナデッドの目の中にある緑色の瞳に、星々の瞬きと同じ光があった。その光が、二人の木星の記憶を、優しく照らしてくれる。
 ベルナデットの大きな目から、また、涙が零れ始めた。向日葵の笑顔を咲かせたまま、少女は泣き続ける。
 嬉しいのに、涙が止まらない。嬉しいから、涙が止まらない。いくら両手で拭っても、次から次へと溢れて来る、嬉し涙。トビアの優しさに触れた心が流す嬉し涙は、ベルナデットを輝かせ続けた。
「ごめんなさい、泣き虫の女の子で……。私の事、嫌いになった、トビア?」
 涙が止まらない事を謝罪する、ベルナデット。自分を受け止めてくれる少年の心を離すまいと問い掛ける、木星の少女。だがトビアは、そんなベルナデットが益々好きになった。向日葵の笑顔を自分に向ける為に、少年は囁く。
「そんな事無いよ。大好きだよ、とっても」
「ほんと?」
「ああ。だって、ベルナデットなんだから」
 そんな言葉を紡いだ唇を、記憶の銀河へと寄せるトビア。舌を出し、朱い色に沿って、ベルナデットを舐めてあげる。何度も何度も、飽きる事無く愛してあげる。その度に、木星の記憶を乗せた涙を流すのだ、ベルナデットの朱い銀河が。
 幾度となく舌を沿わせる、トビア。無数の喘ぎ声を飛び立たせる、ベルナデット。少女の放つ快楽の響きが、悲しみから喜びへと変わり続ける。
 朱い銀河が流す涙の味が、響きの変化に合わせて変わって行く様に感じられた、トビアには。木星の味から地球の味へと、記憶の涙が変わって行く様に感じられた、少年には。
 銀河の最上部にある星へ、目を向ける。トビアは手を伸ばし、快楽の星を守る星雲を、剥いた。朱い舌が、そこへ辿り着く。愛した、思いっ切り。
「ひゃうっ! ……いい、いいの、トビア。して、もっとして、もっと舐めて」
 声では応えない。舌で、唇で応えた、少年は。
 流星の様に、トビアの舌が快楽の星を何度も貫く。衛星の様に、トビアの舌が快楽の星に沿って回り続ける。引力の様に、トビアの吸う息が快楽の星を引き寄せる。
 快楽の星から伝わるトビアの想いで、ベルナデットの木星の悲しみが、遠ざかって行く。テテニスの記憶が、遠ざかって行く。大きな目を持つ木星の少女が、テテニス・ドゥガチからベルナデット・ブリエットへと、変わって行く。
 だが、一人で変わるのは怖い。付いて来て欲しい、トビア・アロナクスに。
「ねえ、トビア。やめて……」
 意外な要求に驚くトビア。朱い銀河から口を離して、ベルナデットに顔を向ける。少女の瞳に、悲しみの記憶の影は無い。安心して、体を遠ざける事が出来た。
「一人で先に進むのは、怖いの。トビアと一緒に、先に進みたいの。……仰向けに、なって」
 頷くトビア。トランクスを脱ぐ。べッドに沈み、天蓋の方へ体の正面を向けた。
 仰向けになったトビアの上を、ベルナデットの華奢な体が覆う。少年と体の向きを反対にし、朱い銀河をトビアの顔へ向けて。
「今度は私も、口でしてあげる。だから、二人で……」
 ベルナデットはそう言って、大きくなったトビアの星に、蝕を起こした。自分がされた様に、唇で、舌で、呼吸で愛してあげる。湿った音を、幾つも幾つも生みながら。
 唇を締め、舌を寄せる。上下に、左右に、舌を這わせる。トビアの星の周りに沿って、衛星の様に舌を絡める。頭を上下に動かし、唇の中にある舌の軌道を変えながら、ベルナデットは何度もトビアを愛し続けた。
 少女はトビアの星を隠したまま、息を吸い、吐く。息を吸う度、少年の想いが自分の中へと入って行く。息を吐く度、木星の記憶から悲しみの影が消えて行く。ベルナデットは、その嬉しさをトビアに伝えた。言葉ではなく、淫らな音で。
 トビアも、少女の朱い銀河を愛する事で、その想いに応える。向きが変わっても、ベルナデットに伝える想いは変わらない。記憶の銀河の朱に沿って、自分の朱い舌を動かし続ける。快楽の星を、自分の朱い舌で慰め続ける。
 二人の想いが、二つの快楽が、一つの彗星となってお互いの体をめぐり続けた。ベルナデットの口から伝わる想いを、トビアは口で少女に返す。トビアの口から伝わる想いを、ベルナデットは口で少年に返す。その度に、二人をめぐる彗星の尾が、優しさで長さを増して行く。
 絡み合う彗星の軌道から、快楽というメビウスの輪が生まれた。
 輪の上で、想いを伝え合うトビアとベルナデット。泣きやまないお互いの体を慰め合い、励まし合って、メビウスの輪の上を進み続ける。心の手をつなぎ、快楽の輪の上で愛し続ける。二人の木星の記憶を、宝物へと変える為に。
 快楽というメビウスの輪を、ベルナデットの声が、断ち切った。
「ねえ、トビア。……もう、いいでしょ。一つになりましょう、分かり合いましょう、今から」
 トビアも、快楽の輪から離れる。それを確認したベルナデットは体を起こし、ヨナのくれた紙袋を、棚から離した。少し湿った手をシーツで拭った後、少女は封を開け、紙袋の中に手を入れる。出てきた手の中には、買ったばかりの殺精子フィルムとコンドームの箱があった。
「そ、それ……」
「うん、ヨナさんからのプレゼント。トビアも用意してるだろうけど、今日はヨナさんのを使いましょう。だって、ヨナさんの優しさが詰まってるもの、この中に」
 ベルナデットはそう言って、二つの箱をトビアに向ける。一つを、ベッドの上に置いた。手に残った殺精子フィルムの箱を開け、中身を出す。フィルムを取り出し、折ろうとした。
「ま、待って。僕に折らせて」
 ベルナデットは少年の声に一瞬戸惑った後、向日葵の笑顔をトビアへ向けた。フィルムを一枚、望みの声の手に渡す。ヨナの優しさを持った少女は、その手をトビアの方へ示した。
「こうして、こうして、こう。――そう、それでいいわ」
 少女の示した見本通りに、フィルムを折るトビア。見本に折ったフィルムを、空になった紙袋に入れるベルナデット。少年はそれを見届けた後、小さく折られたヨナの優しさを、ベルナデットへ渡す。トビアの優しさを受け取った少女は、それを右手の人差し指と中指で挟み、自分の朱い銀河の奥へと旅立たせた。
「指を二本入れても痛くないから、今日こそ出来そうな気がするわ。フィルムが溶けるまで五分くらい掛かるけど、待てる、トビア?」
 ベルナデットは少し心配そうに、そう尋ねる。五分の間に、トビアが遠ざかってしまう気がしたから。少女の瞳に映る不安の光を消す為に、少年は優しく声を掛けた。
「五分くらい、どうって事ないよ。キンケドゥさんとベラ艦長は、十年も待ったんだから」
 その答えを聞いたベルナデットは、向日葵の笑顔で、トビアに嬉しさを伝える。その嬉しさを、もっとトビアに伝えてあげたい。置いてあるコンドームの箱を、手に取った。箱を開け、包みを一つだけ出す。
「フィルムを折ってくれたお礼に、私が付けてあげるわ、トビア」
 トビアの頷きを緑色の瞳で確認した後、ベルナデットはコンドームの包みを切ろうとする。傷付けない様中身を端に寄せた後、隅の切れ目を広げた。出す時に傷付けない為に、終わりまで完全に裂き、切れ端を包みから離す。ヨナの優しさを、丁寧に外へ導いた。
 取り出したコンドームの精液だまりを、唇で少しきつく挟む。残った空の包みと切れ端を、紙袋に入れた。ヨナの優しさを挟んだ唇を、大きくなったトビアの星へと向けようとするベルナデット。
「な、何をする気だよ……」
 上擦った声で、少女に問い掛けるトビア。頭を低くしたベルナデットは、向日葵の笑顔を上に向け、言葉を使わず少年に告げた。私に任せてと。
 トビアは自分の先に、ベルナデットの唇を感じる。ヨナの優しさ越しに。大きくなった少年の星の根元に、少女は手を掛けた。張り詰めた先から、ヨナの優しさを連れたベルナデットの唇が、降りて行く。破れない様、丁寧に。
「ど、どこでそんな事覚えたの!?」
 薄い膜で自分が包まれた後、驚き一色の声でトビアが尋ねた。満足そうな赤い頬を連れて、ベルナデットは問いに答える。
「いつも最後は痛がっていたから、トビアが可哀そうだなって思ってたの。お詫びをしたいから、いっぱい調べて、いっぱい練習したわ。トビアの心に、もっともっと好きになってもらいたいから」
 頬をさらに赤らめたまま、少しうつむくベルナデット。大きな目の少女は、恥ずかし気にトビアへ問い掛けた。
「……こんないやらしい女の子、嫌いになった、トビア?」
 抱き付くトビア。今度は、ベルナデットが驚く番だ。喜んでくれている、トビアが――。
「ありがとう、ベルナデット。僕を、こんなに好きになってくれて……。分かり合おう、一つになろう。今から、いや、これからもずっと」
「うん!」
 大きな目の少女の元気な返事を聞いて、トビアは体を離した。自分を受け止めてくれる少年から離れたベルナデットは、うつぶせ、腰の下へ枕を敷いた。枕の分だけ、僅かに腰が浮く。それを不思議に思うトビアは、素直に疑問を投げ掛けてみた。
「どうするの、ベルナデット?」
「うつぶせて少し腰を浮かせれば、そんなに痛くならないって、ヨナさんが教えてくれたの。枕じゃ、ちょっと高いかもしれないけど。――トビア、来て」
 顔だけを向けた少女に向かって頷いたトビアは、ベルナデットの華奢な背中の上に、覆い被さる。可能な限り体を重ね、華奢な背中と少しでも触れ合おうとした。少し不安気な少女の顔に自分の顔を寄せ、囁く。
「いいね、いくよ」
 ベルナデットは、頷く。トビアは飛んだ。木星の記憶へとつながる、少女の朱い銀河の中へと。
 無事、飛び立つ事が出来た。
(入った……。嬉しい……)
 そう思ったベルナデットの大きな目に、また、嬉し涙が溢れる。トビアと一つになれた事が、嬉しくて嬉しくてたまらない。嬉し過ぎて、思わず泣いてしまったのだ。
「……ごめん。痛かった?」
 誤解したトビアが、謝罪する。その誤解から少年を解き放つ為に、ベルナデットはすぐさま声を返した。
「違うの。痛くて泣いたんじゃないの。嬉しくて泣いちゃったの。――こんな泣き虫の女の子、嫌いになった、トビア?」
「ううん、大好きだよ。泣いたって笑ったって、ベルナデットはベルナデットなんだから」
 うつぶせているベルナデットは、さらに嬉しくなる。トビアの顔を、瞳に映したかった。トビアの体に、腕を絡ませたかった。でも、自分を受け止めてくれる少年は、背中の上にいる。
 少女の心に、少しだけ寂しさが広がる。それに気付かないトビアが、ベルナデットに向かって、問い掛けた。
「動いて、いいかな?」
「いいけど……」
「じゃ、動くよ」
 以前の様な痛みは、感じない。鈍く痺れた感覚が、少しづつ快楽へと変わる。トビアの体が、動く度に。ベルナデットは嬉しい反面、不思議な寂しさが広がって行くのを観測した。
 どんなに気持ち良くても、トビアの顔が見れない。嫌、こんなの――。
「ど、どうしたんだよ、ベルナデット。痛いの、やっぱり……」
 すすり泣きの声が届いたトビアが、動きを止める。顔を、ベルナデットの涙の傍へと近付けた。そしてトビアは、下から生まれる泣き声に向かって、尋ねる。
「……やめようか?」
 振り向くベルナデットの顔。伏せていた少女の大きな目が、トビアの瞳に映る。何かを訴えている、少女の大きな目が。寂しい、悲しい何かを。
「体は、……痛くないわ。でも、心が痛いの、心が悲しいの。だって、どんなに気持ち良くても、この格好じゃあ、トビアの顔が見えないんですもの……」
「でも、痛くなったら……」
「いいの。我慢する。トビアの顔が見えない方が、心が痛くなるから、今は」
 トビアは少女の背中から、体を遠ざけた。ベルナデットの心に、近付く為に。
 体を振り向かせる、ベルナデット。微笑んだ。向日葵の笑顔が、少女の顔一杯に咲いている。トビアの笑顔を、緑色の瞳で受け止める事が出来るから。
 頷くトビア。頷きを返すベルナデット。言葉を使わず、二人の心が一つになる。そして、体も。
「じゃあ、いくよ」
「うん」
 ベルナデットの朱い銀河の中へ、トビアは再び旅立つ。動く。微かな痛みの乗った少女の声が、静寂の軌道を外した。
「痛いの? やめようか?」
「いいの、続けて。そんなに……、痛くないから」
 その声は、少しだけ無理をしている様に聞こえた。トビアの決意が揺らぐ。ベルナデットに痛い思いをさせてまで、続けたくはないから。
「でも、続けたら……」
「言ったでしょ。地球にいる内に、トビアと一つになりたいって。だから、続けて。お願い、トビア」
 そうだった。ベルナデットの父さんが眠る星で、ベルナデットの母さんが生まれた星で、僕がベルナデットの新しい家族になるんだ。そう決意した、トビアは。
「分かったよ。……ごめんね、やめようとして」
「うふっ。トビアったら、謝ってばっかり」
「ベルナデットだって」
 この笑顔の為に、目の前にある向日葵の笑顔の為に、トビアは体を動かした。伝わる想いの為に、自分を受け止めてくれる少年の為に、ベルナデットは体を開いた。
 朱い銀河の中を、トビアは飛ぶ。その度に、ベルナデットの痛みが消える。今日は、今日こそは、一つになれる。そう思った、お互いに。
 二人の想いが、通じ合う。二つの優しさが、重なり合う。少年と少女の木星の記憶が、悲しみから遠ざかって行く。二人の中の木星が、悲しみの星ではなくなって行く。
 嬉しい、とても嬉しい。ベルナデットは泣いた。二つの大きな目で、記憶へとつながる朱い銀河で。もう私は、テテニスじゃない――。
 笑顔の中の涙を見ても、トビアは不安にならない。朱い銀河の涙を、感じるから。木星の記憶へとつながるベルナデットの銀河から、人の温もりが伝わるから。テテニスじゃない、ベルナデットなんだ、この女の子は――。
「痛くない? ベルナデット」
「うん。もう、痛くない。……続けて、トビア。気持ち良くなって来たから」
 嬉しくなった、もっと嬉しくなった、トビア・アロナクスは。その嬉しさを、もっともっと分かち合いたい。ベルナデット・ブリエットと。
「分かった。動くよ、ベルナデットの為に」
 ベルナデットの記憶の中を、旅するトビア。朱い銀河の中は、暖かさと安らかさに満ちている。暗く冷たい宇宙で、スペースコロニーの中で生まれた人でも、これ程の暖かさと安らかさを持っている。
 だから人は、いつか分かり合える。どんなに遠く離れていても。それを確かめる為に、トビアは動き続けた。それを証明する為に、ベルナデットは喘ぎ続けた。
 トビアの星の軌道が、激しさを増す。ベルナデットの銀河が、安らかさを増す。通じ合う心と重なり合う想いが、二人の宇宙を喜びの光で照らして行く。
「ふぁぅんっ! ……トビア、もっと、もっと、もっと」
 嬉し涙が、流れ続けた。ベルナデットの銀河から。その涙が、木星の少女の深くて遠い記憶の中へと、トビアを導いて行く。
 快楽というメビウスの輪が、再び生まれた。体が輪になっていなくても、想いが、喜びが、優しさが、輪になっているから。
 心の手をつなぎ、メビウスの輪の上を進む二人。トビアが少女を慰め、ベルナデットが少年を励ます。そうやって二人で、メビウスの輪の上にいる事を喜ぶのだ。快楽の輪の上にいると、木星という名の記憶が、二人の宝物へと変わって行くのだ。
「ぅくっ……。好きだ、好きだ、大好きだ、ベルナデット」
「んぁうっ……。私もよ、私もあなたが大好きよ。……一つに、一つになりましょう、トビア」
 木星の記憶へとつながる朱い銀河の旅を、もうすぐ終えそうだ、トビアは。テテニスが、もうすぐ手の届かない所へ行ってしまいそうだ、ベルナデットは。動き続ける、トビアの体。泣き続ける、ベルナデットの体。
 快楽の輪の上で、二人は心の手を取り合って、舞い続けた。人の喜びを称える舞いを。どこで生まれても人は人なのだと確かめる為、二人は喜びの舞いを必死に続ける。一つになって。
 通じて行く、重なって行く、一つになって行く。トビアの想いと、ベルナデットの想いが。快楽という、メビウスの輪の上で。生きる喜びを、称えながら。
「トビア、……私、いく、いっちゃう!」
「僕も、僕もだ、ベルナデット!」
 弾けた、二人の中の宇宙が。悲しみの星の記憶と共に。
「ふぁっ、みぁっ、ああぁぁっ……。トビア、トビアァァー!!」
「ベルナデット、ベルナデットォォーッ!!」
 心の手をつないだ二人が、一つの流星となって、快楽というメビウスの輪から同時に飛び立つ。その時、テテニス・ドゥガチがベルナデット・ブリエットに、「さよなら」を告げた。

 光の先には、向日葵のパジャマを来た少女が立っていた。カーテンと窓を開け、始まったばかりの朝を感じているベルナデットの傍に、目覚めたばかりのトビアが寄り添う。二人の視線の先では、海と空が、青さを取り戻し初めていた。
「夜が、明けちゃったね」
 ベルナデットは大きな目を向け、隣にいるTシャツとトランクス姿のトビアに、そう告げる。少年は頷いた。それを見た少女も、頷きを返した。明けたのだ、木星という二人の夜が。
「ねぇ、トビア」
「何?」
「『ベルナデット・ブリエット』って名前ね、実は、私の母さんの名前なの」
 ベルナデットは語り始めた。自分の事を、木星の事を。
 マザー・バンガードで二人が二度目の出会いをした時、親から与えられた名を名乗る訳にはいかなかった彼女は、咄嗟に母の名前を自分の名前としたのだ。その母は、地球の平和の為に木星へやって来て、木星の平和の為に必死に生き、死んで行った。
 だから母の名前が好きだ、木星の少女は。
「母さん、お花が大好きだったの」
 向日葵の笑顔を咲かせた顔をトビアに向け、少女は続ける。
「でも木星じゃあ、水は貴重品でしょ。食糧にしやすい野菜や穀物しか育てる事が出来ないから、寂しいって言ってたわ。大好きな向日葵の種を地球から持って来たのに、育てられないのが寂しいって言ってたわ。だから私、母さんの分まで、お花が好きになりたいの」
 少女は体をクルッと一回転させて、体中に咲かせた向日葵を、自分を受け止めてくれた少年に見て貰う。その後トビアに向けた顔には、大輪の向日葵が咲いていた。素敵な笑顔だと、トビアは思う。心の底から、素直に。
「母さんね、南フランスの生まれなの。昔の貴族の血を、引いてるらしいわ。だからここで、トビアと一つになりたかったの。母さんの生まれた土地で、父さんの眠る海の傍で、トビアと家族になりたかったの、私」
 向日葵の笑顔で、微笑み続ける少女。その笑顔は、「私はあなただけを見詰めています」と、語っていた。向日葵の花言葉通りに。
 どちらからともなく、お互いの両手をつなぎ合う。少年は頷いた。少女も頷いた。家族になれた、二人は。
「ありがとう、トビア」
 自分を受け止めてくれた少年に、少女は感謝の笑顔を向ける。嬉し涙を流した少女は、ベルナデット・ブリエットという名前を、取り戻した。

-完-
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