- 2015⁄08⁄29(Sat)
- 00:34
潔癖症
イジメ注意
掃除がスキ。物を綺麗にするのがスキ。
だけど自分の部屋だけはどうしても綺麗に保つことは出来なかった。
ほら、お母さんが掃除しなさいって階段の下で怒ってるのが聞こえる。それでも部屋を掃除することだけは出来なかった。
(空白)
今日も呼び出されて犯された。
お尻の穴の中にモップの柄を突き入れられ、ぐちょぐちょと掻き回される。ヒイヒイと泣き叫ぶ。頬を叩かれる。腫れ上がる。
モップの柄が抜かれた。ぱっくりと拡がった穴からどろりと精液が漏れる感じ。お尻の下には水を張ったバケツが用意されていて、溢れた精液はその中にぽちゃんと沈んだ。ぽちゃ、ぽちゃ。垂れ落ちる精液。
誰もいなくなった後、自分の中に入っていたモップとバケツの中の汚れた水で床掃除、後片付け。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋が汚れていく。お母さんが怒っている。
部活が終って疲れていた。机の上には埃が被っている。
(空白)
「お前最近、顔色悪いけど具合いでも悪いのか?」
心配そうな顔をした阿部君。阿部君は鋭い人だから、気を付けなきゃ気付かれてしまうかもしれない。
「な、なんでも、ないっ」
「そうか?そうには見えねェけど……」
「お腹減った、だけっ……だからヘーキなんだ、よ」
きゅるるるる。
丁度良いタイミングでお腹が鳴る。阿部君は少し笑って、腹の足しにしておけってガムをくれた。横で見ていた水谷君もガムを欲しがった。阿部君はイヤそうな顔をしていたけれど、結局ガムをあげていた。
水谷君がガムの包み紙を落とした。最初は気にしない振りをしていた。気になる。気にならない。気になる。でもダメ。気になる。
通りすぎて、戻って、包み紙を拾う。
掃除をすることはキライじゃなかった。
(空白)
今日も呼び出し。
持っていたスポーツバッグの中から筆箱を取り上げられた。ぐしゃぐしゃに落書きとかされるのがわかっていたから、教科書とノートは全部学校の机の中に置きっぱなしにしてある。
筆箱の中身が床に散乱した。えんぴつ、シャーペン、蛍光マーカー、消しゴム。一つ一つお尻の穴の中に挿れられる。挿れられて、えんぴつとシャーペンとマーカーの区別がつかないと唾を顔に掛けられた。
誰もいなくなった後、落ちていた消しゴムを拾って自分の腕に擦りつけた。
しゅっ、しゅっ、しゅっ。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
自分の部屋。埃を被った机の上でちょうちょが一匹死んでいた。疲れていたのでそのままにしてベッド倒れ込む。
(空白)
部活。三橋、と呼ぶ声。阿部君だった。
「……やっぱり、お前なんだかおかしいって」
「お、かしくなんか、ないんだ、よー」
「嘘吐け。体重は?睡眠はちゃんととってんのか?どうせ投球制限破って遅くまで投げてるんだろ」
「あ、あはは」
「アホ。ほどほどにしとけ」
気付かれなきゃ、なんでも良かった。
ズボンのポケットに手を入れるとガムの包み紙が出てきた。ゴミ箱に捨てる。ちょっとだけ気が晴れた。
(空白)
トイレに呼び出し。個室でフェラの練習をさせられる。顎が外れそう。苦しくて痛くて先っぽのところを少しだけ噛んでしまった。怒られる。便器の中に頭を押し付けられた。
ごめんなさい、もうしません、許してください、助けてください。
コックを捻る音。ジャーッと音がして水が流される。口からごぽごぽと水が入り込んできた。
この水がお腹の中の汚いものを全部洗い流してくれればいいのに……。
誰もいなくなった後、指を喉の奥に入れて胃の中のものを便器の内側に吐き出した。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
自分の部屋に戻る。ちょうちょはいなくなっていた。もしかしたらお母さんが片付けてしまったのかもしれない。とにかく自分で片付けた覚えはなかった。
机の上は相変わらず埃だらけのままだった。
(空白)
部活の朝練。今日も良く投げたつもり。
「……何があった」
阿部君が怖い顔をしている。でもいつもの顔だって十分怖いからヘイキ。きっと今回も上手くいくはず。
「ほ、捕手って、すごい、ねっ」
「は?」
「ピッチャーのこと、なんでもわかっちゃ、う」
「……みはし?」
「それとも、阿部君だからわかるのか、な……」
「…………」
阿部君の眉間に皺が寄る。怖い顔してる。目を逸らした。横を向いて、俯く。
「……お、お腹空いたなー、って」
阿部君はお弁当のおにぎりを一個くれた。直ぐに食べてしまうのが勿体なくて、食べたフリをして鞄にしまっておく。
チャイムが鳴って、練習が終って、着替えて、携帯を見る。
今日もまた、呼び出しのメールが入っている。溜め息一つ。
阿部君が心配そうな顔をして、こっちを見ていた。
(空白)
公園に呼び出し。
鉄棒に掴まらされて後ろから。乳首が棒に擦れて痛くて、それでも気持ちいいとか思ってしまって自己嫌悪。
面白いもの持ってないの?
鞄をひっくり返される。阿部君から貰ったおにぎりがころりと転がり出てくる。
それはダメ。やめて。触らないで。
言わなきゃ良かったのかもしれないし、言わなくても変わらなかったのかもしれない。笑われる。縄跳びで手を縛られる。
おにぎりのように地面に転がされて、目の前にラップを外した阿部君のおにぎりを置かれた。少し砂がついちゃったけどまだ大丈夫。
食べろ。
言われて口を開く。手が使えないから、犬食いみたいになってしまう。
一口目をかじった時、上から暖かいものを掛けられた。ツンと鼻に広がる臭い。びしょびしょびしょ。オシッコを掛けられていた。
阿部君にもらったおにぎりが水気を含んでぐちゃぐちゃになってしまう。
食べろ。
冷たい声が降りかかる。
泣きながら食べるとお米なのに変な味がした。酸っぱいような、苦いような。阿部君の心配そうな顔が浮かぶ。
じゃり、と口の中で音がする。小砂利を噛んでしまったみたいだった。
誰もいなくなった後、おにぎりを包んでいたラップを拾う。これはここにあっちゃいけないもの。おにぎりは今日の朝、ちゃんと美味しくいただきました。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
自分の部屋。なんだか違和感。
脱いだ洗濯物や辺り構わず積んでいた雑誌やマンガが小綺麗に整理整頓されている。机の上の埃もなかった。
今日はお母さんの仕事が休みだった。ありがとうって言って、お母さんはしようのない子ね、と笑う。
後で読みたいマンガがあったので本棚を探す。少し汚くなってしまったけど、まだまだ綺麗。
(空白)
学校の昼休み。田島君と泉君とお弁当を食べる。ハマちゃんは一個上の友達と食べるみたいで、今日は席が一つ空いていた。
「浜田の机に入れとこーぜ!」
田島君がいたずらでハマちゃんの机の中にコロッケパンが入っていたビニール袋を入れる。泉君が笑っていた。悪いと思いつつ、何も言えなかった。今日は別に綺麗にしたいとは思わなかったからだ。
(空白)
「ナイピッ!」
今日の阿部君は機嫌が良かった。怒られることもなかった。
「三橋、今日は調子いいじゃん」
「そ、そうか、な」
褒められると照れる。
「……そういやさ」
「な、なに?」
「こないだのおにぎり、ちゃんと食べた?」
どきり。急に胸を突き飛ばされたみたいな感じ。口をぱくぱくするけど、言葉が上手く出てこない。
「いや、別にいいんだけど。その場で食べてなかったみてェだから、どうしたのかなって……」
「あ……う……」
おにぎりは食べた。美味しくいただきました。
どこで?ここで。
違う、あの公園で。
でもあのおにぎりはちっとも美味しくなかった。思い出したら口の中がイガイガしてきて、すごく喉が渇いた。
「おいしかった、よ」
「本当か?無理して嘘言わなくてもいーよ。オレが作った訳じゃないし」
「うう、ん。ほ、ホントにおいしかったから、あの、梅のおにぎり……」
「……そっか。ならいいんだ。変な事訊いて悪かったな」
阿部君はそう言って、どこか悲しそうな顔をして笑った。花井君と栄口君に呼ばれて、阿部君は監督のところに行く。
そして今日も携帯にはメールが届く。
(空白)
何度目か忘れてしまった呼び出し。
マジックで乳首のまわりをぐりぐりと縁取られる。もどかしい刺激に身を捩ると、絵を描いてるだけなのに感じているのかとなじられた。
ぐりぐりぐり。独特の臭いから油性マジックだということが分かる。黒に塗られて、目みたいだと笑われる。これはきっと暫く落ちないと思う。着替えの時、気を付けなきゃ。
膝を抱えられて下から突き上げられる。気持ち良くなんかないのに、喘ぎが止まらなかった。
一度中に出されてぐったりしていると、髪を掴まれて目の前に出された瓶のラベルを読まさせられる。
“シンナー”
その瓶の中身を染み込ませたアンダーシャツで乳首を乱暴に擦られる。歯を食い縛って耐えた。それでも痛いし、恥ずかしかった。
誰もいなくなった後、アンダーシャツを拡げて見た。白かったところに黒い染みが広がっている。頭がふわふわする。シャツを丸めてゴミ箱に捨て、走って外の空気を吸いに行く。肺の中までおかしくされたくなかった。
胸いっぱい空気を吸い込んで吐き出す。さっきよりもずっと楽になった。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋に入る前に庭で久しぶりにマト投げ。頭がおかしくなってないか、手は震えないか確認。ピッチャーだから、それってすごく大事。コントロールしか取り柄ないけど、それだけが唯一の自信に繋がるって最近分かった。
ちゃんといつも通り投げられた。すごく嬉しかった。
部屋はまだ綺麗。この間、出しっぱなしにしていた本を片付けようと思ったけれど、途中で読み始めてしまったから全然片付かなかった。どうしてだろう。
(空白)
体育の時間。今日はサッカー。
田島君はフォワード、泉君はミッドフィールダー、ハマちゃんはキーパー。一人ぽつんとラインの外。審判だった。でも、全然寂しいとは思わなかった。
ここからみんなの頑張っている姿を見るのは楽しいし、嬉しくなる。走って、ボール追っかけて、蹴って、すごくどきどきする。
「三橋ー!そっちボール!」
いつの間にか目の前の試合に見入っていて、声を掛けられたことに反応するのが遅れてしまった。
「ふごっ!」
顔面にボール、直撃。衝撃。
痛いと思うより先に視界がまっくらになる。声は反射的に出てきた。
意識してなかったから、これってきっとリラックス。
「三橋ィー!!」
「三橋!?」
「大丈夫か三橋!」
「三橋!三橋じゃないか!」
審判がホイッスルを吹かれるのは、ちょっと情けないハナシなのかもしれない。
(暗転)
(再開)
起きたらまっしろな天井が目に入った。
保健室だと直ぐ分かる。保健の中村先生と田島君が話しているのが聞こえた。
「じゃあ、田島の蹴ったボールの軌道が逸れて、三橋の顔面に直撃したってこと?」
「あ、はい。ゲンミツに」
「……厳密?」
「いえ、お気遣いなく」
「一秒足りともお前に気は遣ってねえよ」
田島君の言葉使いはたまに当っているようで間違っている。でも、それは田島君らしくていいと思う。
先生との掛け合い漫才みたいな雰囲気が面白くて、ついつい吹き出してしまった。それがカーテン越しでも聞こえたらしい。二人が振り返る気配。白いカーテンが開く。二人がいた。
「平気か?」
「う、うん」
「ごめんな」
「だ、大丈夫だよ」
「そうか?」
「うん」
田島君と短い会話が続く。中村先生が腋で計るタイプの体温計を持って来た。
「ボーっとしてたんだって?もしかしたら熱あるかもしれないから、一応計っといてよ」
ジャージのチャックを下ろし、体操着の隙間から渡された体温計を腋に挟む。
「三橋ってワキ毛薄いのな、生えてないみてー」
田島君が言う。どくん。鼓動が早くなる。
肌を見られてしまった?
シンナーで少しは落ちたとは言え、乳首にはまだマジックの黒が残っている。そう思ったら急に恥ずかしくなって、身体全体を沸騰した血が駆け巡ったみたいに手の先や、顔、耳までもが真っ赤になった。
ピピピピピ。
体温計が鳴る。三十七度六分。
「うーん。顔も赤いし、多分風邪だろうな。今日は部活しないで帰れよ」
中村先生が笑う。
田島君は少し残念そうに笑う。
今日は田島君とキャッチの練習をする予定だったのだ。
「ごめん、ね……田島君」
「おー、気にすんなって!そんなことよりとっとと治す方に専念しろよー」
今気になっていたのは、風邪でも、田島君との練習のことでもなかった。ごめんね、田島君。
気付いてないのなら、ずっとそのままでいて。
きっと今頃、教室に置きっぱなしの携帯はメールを受信して震えている。
※虐待注意
(空白)
呼び出し。カンペを渡される。こしゅこしゅ。扱かれながら、読む。
大好きです、愛しています、あなただけのものです。
今までで一番楽だったけど、今までで一番泣いたのもこの日だった。
誰もいなくなった後、カンペで床を汚した精液を拭く。直ぐによれよれになって破れてしまった。指についた分は舐めて綺麗にする。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋がどんどん汚れていく。
田島君に貰ったグラビア写真集を鞄に入れっぱなしだったことを思い出す。水着の女の子が笑っていた。胸も大きくて、お尻はきゅっと引き締まっている。
いけないって分かっていたけど、ダメだった。止まらなかった。
名前も知らない女の子の顔が白で汚れる。
一緒だ。一緒。
汚される側じゃなくて、汚す側。
お風呂に入る。一時間浸かる。お母さんが見にきてくれなかったら、ユデダコになっていたかもしれない。それでも良かった。汚いままでいるのは嫌だった。
現実では洗っても洗っても、汚れたまま。
(幕間)
三橋の様子がおかしい。
最初に気付いたのはいつだったろう。そうだ。三橋の目が真っ赤に充血していたあの日。それから三橋は日に日にどこかおかしくなっていった。
元々、三橋はあまり律儀な性格ではない。いや、律儀ではないと言うと少し語弊がある。三橋は大雑把な性格をしているの方が遥かに正しい。
あの日を境目に三橋は変わっていった。周り対して気配りが出来るようになった。脅えるだけで自分から積極的に発言しようとしなかった三橋が、である。
例えば、花井にゴミをぶつけて遊ぶ田島を宥めたり、家の用事で途中抜けなければならなかった沖の代わりに掃除当番を変わったり、とにかく三橋は変わった。
気付いてる奴もいれば、そうでない奴もいる。
気配りが出来るのは悪いことじゃない。なのに違和感がある。三橋は何かを隠している気がする。
そういえば、あいつも。
(空白)
呼び出しは今日も止まらなかった。
ガムテープで目隠し。ガムテープで猿轡。両手、両足をダイノジに拡げさせられてガムテープで地面に張り付けにされる。
手や足や乳首、お腹、お尻の割れ目なんかを濡らした筆でちょいちょいと弄ばれる。擽ったくて胃がピクピクと痙攣した。時間が経つと筆を滑らせたところがベタベタしてくる。なんだろう。砂糖水だって。なんでだろう。
歯ァ食い縛って耐えろよ!
そんな声の後、お腹の上に何かをザーッと掛けられた。土の匂いがする。ぞわぞわぞわ。からだの上を何かが這い回る。
何これ何これ、怖いよイヤだよ。
声は出なかった。むーむーという音が出てくるだけ。
ちくり。
!!!!!!??
痛みが全身を駆け巡る。背中を反らせ、頭を振って逃げようとする。逃げられなかった当然だ。
ちくちく。
そんな生易しい痛みじゃない。針を尿道に突き刺して抉るような痛み。それだけじゃない。肌をたくさんの生き物が這い擦るような嫌悪感。痒い、痒くても、掻けない。動けない。
優しいオレが教えてやる……それ、蟻だよ。
咽の奥が震えるほど声を張り上げても誰かに届く訳もなく。
ちくり、ぞわぞわ、ちくり、ざわざわ。
最後はバケツの水を掛けられて終わり。ガムテープは最後までそのままだった。
誰もいなくなった後、水分を含んで粘着力のなくなったテープを自力で剥がす。最初に見たのはくっきり痕の残った手首。次に見たのは水溜まりに浮かんでいる大量の蟻の死骸。
気持ち悪い。
逃げようともがいたけれど、足にまだガムテープが張っていたので結局身動きが取れず、水溜まりに顎を打ち付けてしまう。
机の上で死んでいたちょうちょを思い出す。羽根を拡げて死んでいたちょうちょ。足を拡げて動けない今。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
家。部屋。埃を被った机。数ページ、くっついて開かなくなった写真集。写真集だけは夜中こっそり近くのゴミ置き場に捨てに行った。
部屋は相変わらず汚れっぱなし。
汚いのはイヤな筈なのに、どうしても部屋を片付けることは出来なかった。お母さん、ごめん。
(幕間)
三橋が手を洗っている。普通だ。普通だけれど、おかしい。石鹸を擦りつけて、さっきから何度も何度も繰り返し洗っている。擦りすぎて指先は赤くなっていた。
「何か変なものでも触ったのか?」
「う、うん……ちょっと」
「何触った?」
「え、う、う」
困ってる。困ってるというより、明らかに考えあぐねてるといった感じ。
「けっ、けっ、けけ、けけけけっ」
「!?な、なんだよ急に……!」
「けけ、けむっ、し!」
けむ し
毛虫のことか。いきなりケケケケ言い出すから、ついに壊れて笑い出したのかと思った。
「毛虫、触っちゃって、かゆくて!……えと、その……」
「あー……」
よく見ると三橋の腕や首辺りに小さな赤い発疹のようなものがポツポツできていた。所詮アレルギーというものだろうか。
「それじゃ洗ったって痒いままだよ。とりあえず保健室行って薬塗ってもらおう……」
「う、ん」
肩を叩いて促そうとしたら、酔拳のような足捌きで露骨に避けられた。
(幕間)
三橋が薬を塗られている間、保健室に置いてあった本を適当に選んで読んでいた。
うちの保健教諭の中村は元々精神医学を学んでいたようで、校内でも週一ぐらいの割合で生徒のメンタルカウンセリングも実施している。その所為か、保健室に置いてある書籍類もそういった系統が多い。
「はい、終ったよ」
「うお、あ、ありが、ありがと……」
「お礼なんていいって別に、これが仕事だから。もう戻っていいよ」
「お、三橋終ったか?」
「うん」
「じゃ、戻ろう」
「……あー、ちょっと待って」
中村が三橋を手招きで呼ぶ。てけてっと近寄る三橋。中村が三橋に何かを告げると、三橋はこくりと小さく相槌を打って先に保健室から出て行く。会釈だけして後を追おうとして、直ぐに呼び止められる。
「なんスか」
「んーと。三橋のあれさ、あれ、毛虫じゃないよ」
やっぱり。そう思ったけれど、敢えて口には出さなかった。
「小さいけど、なんか噛み痕が沢山付いてる感じだった。……あいつ、最近アマゾンの奥地にでも旅立ったりした?」
「まさか!」
「……だよなあ。だったらどこであんな痕付けてきたんだろ」
中村はそれ以上詮索してこようとはしなかった。気にはなっているけど、一応一教師として生徒のプライバシーは保守しようとしているみたいだ。口は悪いがなかなか好感を持てる。
「失礼しましたー」
「おー、お前も気をつけろよー」
毛虫に。
ぞくり。そう、肌が粟立つのを感じた。
(空白)
呼び出しのメール。まだ続く。受信しては消し、受信しては消し。もう何通届いたのかは覚えてなかった。
十通以上かもしれないし、五通くらいかもしれない。
そんなことを考えながら指定された場所へ急ぐ。
遅れるな、と殴られる。唾を掛けられる。頭を抱えてごめんなさいをする。
今日は何をされるんだろう。こわくてどきどきする。
ビー玉を五つ、ローターを一つ入れられる。お腹の中がごろごろする。そのまま、ブレザーを渡されて着替えるように言われた。スカートだから、男物じゃない。パンツは履かせてもらえなかった。
ファミレスに行く。座っていると中に入っているのを感じてしまってとても辛い。
クツクツと煮え滾るように熱を帯びる。ローターのスイッチが入る。かちゃかちゃとビー玉同士が擦れ合う音。
目の前に出されたカレーライスを食べろと言う。しかも犬食いで。他にもお客さんがいるお店で。
泣きながら一口食べたら、隣の席からひそひそ声。
やめて、おねがい、こっちみないで。
振動音、摩擦音、喧騒が鼓膜にこびりつく。
スカートに染みが出来た。見付けられ、罵られる。ベンチ席にじわりと染みが拡がる。それを見られ、笑われる。
立ち上がった時、ビー玉が一つ落ちてしまった。コロコロ転がって行ったそれは、家族連れのテーブルのところで止まった。小学校低学年ぐらいの子がそれに気付いて拾う。
臭い!何コレ!
騒ぎ出す子供の声を聞いていられず、逃げるように店を出た。酷く惨めだった。
手を洗う。何回も手を洗う。洗った手を拭いたタオルが汚い気がして、タオルも洗う。そして手を拭くものがなくなってしまった。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
学校を休む。お腹が痛くて、だるくて、頭の中がほわほわした。お母さんが仕事を休んで看病してくれる。
携帯が鳴る。メールが届く。きっと野球部のともだちから。
分かっていたけれど、差出人をろくに確認もせず消去。一斉消去。ちらっと、「田」の字が見えた。もう消してしまった。受信フォルダの中はからっぽになった。
夕飯前になって誰か来る。阿部君だった。野球部の誰一人もメールの返事がなかったから、心配してくれたみたいだ。阿部君は優しい。阿部君は優しい人なんだ。
部屋に入るなり、阿部君。
「こんな汚ェ部屋で寝るから病気すんだよ!」
部屋を片付け始める。ふわっと埃が舞う。窓を開けて、換気。埃がきらきら光って見えて綺麗。
粗方片付け終ってから、阿部君。
「……悪ィ。病気で寝てんのに余計なことした」
阿部君は優しい人だ。悪気があってやった訳じゃない。何気無い優しさ、気遣いが心にしんみり拡がっていく。
ありがとう阿部君、明日はダイジョウブ。
そのまま、阿部君にはうちでご飯を食べてもらう。阿部君は遠慮していたけれど、お母さんと二人っきりで食べる時より楽しく食べれた。
玄関までお見送り。阿部君が帰った後、バケツを用意する。中には水。掃除用具入れから漂泊剤を持ってきて、半分くらいバケツに入れた。プールの臭いがする。清潔そうな感じがするので、この臭いは好きだ。
漂泊剤と水を混ぜた液体で雑巾を洗う。その雑巾で部屋中を拭く。阿部君が触っていたところは、特に念入りに。何度も何度も拭く。
気が付くと手が真っ赤になっていた。
少し、かゆい。
(幕間)
三橋が朝練に参加している。良かった。だけどやっぱり、どこかおかしく思う。
練習が終って、着替えに部室に戻ろうとした時だ。前に花井と田島がいた。後ろに三橋がいた。
ここで監督に呼ばれて目を離した数秒の間。
田島が三橋に気付かず、部室の扉を閉めてしまったのだろうか。閉まった扉の前に三橋が立ち尽している。
閉まった、と言えども近頃立て付けの悪くなってきた扉は、野球ボール一個分あるかないかの隙間が空いていた。三橋はグローブを持っているが、決して両手が塞がっている訳ではない。
それなのに三橋は部室に入ろうとせず、困ったように辺りをうろうろしていた。どうして。
初めは何か落としたのかと思ったけれど、そうではないみたいである。
躊躇しているように見える。何を。ドアノブに触ることを、だ。
「三橋ー、どうした?」
「あ、う……ちょ、ちょっと」
ドアノブと地面を交互に見つめ、俯く。
「ちょっと、どうした?」
「ちょ……う、ちょ……」
「ドア、開けないの?」
「……うう」
「開けられない理由でもあるの」
「!……うう、ん!な、ないっ!ないんだっ」
「ふうん……」
なんともない振りをして三橋の横を通ろうとする。引っくり返した石の裏に張り付いている虫みたいな動きで後ずさる三橋。
バイキン扱いか、バイキン扱いなのか。
……流石に傷付くぞ、それは。
心の中で涙目になりながら、三橋が触ろうとしなかったドアノブを捻り、扉を開ける。ギギギイと錆びた鉄が擦れる音がする。
「あっ、ぶな……けてっ!」
危ない避けて。
うっかり見上げた頭上、迫り来る黒板消しの残像。
粉まみれで真っ白な視界の中、腹を抱えて爆笑する田島には、呆れて怒りさえ湧かなかった。
掃除がスキ。物を綺麗にするのがスキ。
だけど自分の部屋だけはどうしても綺麗に保つことは出来なかった。
ほら、お母さんが掃除しなさいって階段の下で怒ってるのが聞こえる。それでも部屋を掃除することだけは出来なかった。
(空白)
今日も呼び出されて犯された。
お尻の穴の中にモップの柄を突き入れられ、ぐちょぐちょと掻き回される。ヒイヒイと泣き叫ぶ。頬を叩かれる。腫れ上がる。
モップの柄が抜かれた。ぱっくりと拡がった穴からどろりと精液が漏れる感じ。お尻の下には水を張ったバケツが用意されていて、溢れた精液はその中にぽちゃんと沈んだ。ぽちゃ、ぽちゃ。垂れ落ちる精液。
誰もいなくなった後、自分の中に入っていたモップとバケツの中の汚れた水で床掃除、後片付け。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋が汚れていく。お母さんが怒っている。
部活が終って疲れていた。机の上には埃が被っている。
(空白)
「お前最近、顔色悪いけど具合いでも悪いのか?」
心配そうな顔をした阿部君。阿部君は鋭い人だから、気を付けなきゃ気付かれてしまうかもしれない。
「な、なんでも、ないっ」
「そうか?そうには見えねェけど……」
「お腹減った、だけっ……だからヘーキなんだ、よ」
きゅるるるる。
丁度良いタイミングでお腹が鳴る。阿部君は少し笑って、腹の足しにしておけってガムをくれた。横で見ていた水谷君もガムを欲しがった。阿部君はイヤそうな顔をしていたけれど、結局ガムをあげていた。
水谷君がガムの包み紙を落とした。最初は気にしない振りをしていた。気になる。気にならない。気になる。でもダメ。気になる。
通りすぎて、戻って、包み紙を拾う。
掃除をすることはキライじゃなかった。
(空白)
今日も呼び出し。
持っていたスポーツバッグの中から筆箱を取り上げられた。ぐしゃぐしゃに落書きとかされるのがわかっていたから、教科書とノートは全部学校の机の中に置きっぱなしにしてある。
筆箱の中身が床に散乱した。えんぴつ、シャーペン、蛍光マーカー、消しゴム。一つ一つお尻の穴の中に挿れられる。挿れられて、えんぴつとシャーペンとマーカーの区別がつかないと唾を顔に掛けられた。
誰もいなくなった後、落ちていた消しゴムを拾って自分の腕に擦りつけた。
しゅっ、しゅっ、しゅっ。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
自分の部屋。埃を被った机の上でちょうちょが一匹死んでいた。疲れていたのでそのままにしてベッド倒れ込む。
(空白)
部活。三橋、と呼ぶ声。阿部君だった。
「……やっぱり、お前なんだかおかしいって」
「お、かしくなんか、ないんだ、よー」
「嘘吐け。体重は?睡眠はちゃんととってんのか?どうせ投球制限破って遅くまで投げてるんだろ」
「あ、あはは」
「アホ。ほどほどにしとけ」
気付かれなきゃ、なんでも良かった。
ズボンのポケットに手を入れるとガムの包み紙が出てきた。ゴミ箱に捨てる。ちょっとだけ気が晴れた。
(空白)
トイレに呼び出し。個室でフェラの練習をさせられる。顎が外れそう。苦しくて痛くて先っぽのところを少しだけ噛んでしまった。怒られる。便器の中に頭を押し付けられた。
ごめんなさい、もうしません、許してください、助けてください。
コックを捻る音。ジャーッと音がして水が流される。口からごぽごぽと水が入り込んできた。
この水がお腹の中の汚いものを全部洗い流してくれればいいのに……。
誰もいなくなった後、指を喉の奥に入れて胃の中のものを便器の内側に吐き出した。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
自分の部屋に戻る。ちょうちょはいなくなっていた。もしかしたらお母さんが片付けてしまったのかもしれない。とにかく自分で片付けた覚えはなかった。
机の上は相変わらず埃だらけのままだった。
(空白)
部活の朝練。今日も良く投げたつもり。
「……何があった」
阿部君が怖い顔をしている。でもいつもの顔だって十分怖いからヘイキ。きっと今回も上手くいくはず。
「ほ、捕手って、すごい、ねっ」
「は?」
「ピッチャーのこと、なんでもわかっちゃ、う」
「……みはし?」
「それとも、阿部君だからわかるのか、な……」
「…………」
阿部君の眉間に皺が寄る。怖い顔してる。目を逸らした。横を向いて、俯く。
「……お、お腹空いたなー、って」
阿部君はお弁当のおにぎりを一個くれた。直ぐに食べてしまうのが勿体なくて、食べたフリをして鞄にしまっておく。
チャイムが鳴って、練習が終って、着替えて、携帯を見る。
今日もまた、呼び出しのメールが入っている。溜め息一つ。
阿部君が心配そうな顔をして、こっちを見ていた。
(空白)
公園に呼び出し。
鉄棒に掴まらされて後ろから。乳首が棒に擦れて痛くて、それでも気持ちいいとか思ってしまって自己嫌悪。
面白いもの持ってないの?
鞄をひっくり返される。阿部君から貰ったおにぎりがころりと転がり出てくる。
それはダメ。やめて。触らないで。
言わなきゃ良かったのかもしれないし、言わなくても変わらなかったのかもしれない。笑われる。縄跳びで手を縛られる。
おにぎりのように地面に転がされて、目の前にラップを外した阿部君のおにぎりを置かれた。少し砂がついちゃったけどまだ大丈夫。
食べろ。
言われて口を開く。手が使えないから、犬食いみたいになってしまう。
一口目をかじった時、上から暖かいものを掛けられた。ツンと鼻に広がる臭い。びしょびしょびしょ。オシッコを掛けられていた。
阿部君にもらったおにぎりが水気を含んでぐちゃぐちゃになってしまう。
食べろ。
冷たい声が降りかかる。
泣きながら食べるとお米なのに変な味がした。酸っぱいような、苦いような。阿部君の心配そうな顔が浮かぶ。
じゃり、と口の中で音がする。小砂利を噛んでしまったみたいだった。
誰もいなくなった後、おにぎりを包んでいたラップを拾う。これはここにあっちゃいけないもの。おにぎりは今日の朝、ちゃんと美味しくいただきました。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
自分の部屋。なんだか違和感。
脱いだ洗濯物や辺り構わず積んでいた雑誌やマンガが小綺麗に整理整頓されている。机の上の埃もなかった。
今日はお母さんの仕事が休みだった。ありがとうって言って、お母さんはしようのない子ね、と笑う。
後で読みたいマンガがあったので本棚を探す。少し汚くなってしまったけど、まだまだ綺麗。
(空白)
学校の昼休み。田島君と泉君とお弁当を食べる。ハマちゃんは一個上の友達と食べるみたいで、今日は席が一つ空いていた。
「浜田の机に入れとこーぜ!」
田島君がいたずらでハマちゃんの机の中にコロッケパンが入っていたビニール袋を入れる。泉君が笑っていた。悪いと思いつつ、何も言えなかった。今日は別に綺麗にしたいとは思わなかったからだ。
(空白)
「ナイピッ!」
今日の阿部君は機嫌が良かった。怒られることもなかった。
「三橋、今日は調子いいじゃん」
「そ、そうか、な」
褒められると照れる。
「……そういやさ」
「な、なに?」
「こないだのおにぎり、ちゃんと食べた?」
どきり。急に胸を突き飛ばされたみたいな感じ。口をぱくぱくするけど、言葉が上手く出てこない。
「いや、別にいいんだけど。その場で食べてなかったみてェだから、どうしたのかなって……」
「あ……う……」
おにぎりは食べた。美味しくいただきました。
どこで?ここで。
違う、あの公園で。
でもあのおにぎりはちっとも美味しくなかった。思い出したら口の中がイガイガしてきて、すごく喉が渇いた。
「おいしかった、よ」
「本当か?無理して嘘言わなくてもいーよ。オレが作った訳じゃないし」
「うう、ん。ほ、ホントにおいしかったから、あの、梅のおにぎり……」
「……そっか。ならいいんだ。変な事訊いて悪かったな」
阿部君はそう言って、どこか悲しそうな顔をして笑った。花井君と栄口君に呼ばれて、阿部君は監督のところに行く。
そして今日も携帯にはメールが届く。
(空白)
何度目か忘れてしまった呼び出し。
マジックで乳首のまわりをぐりぐりと縁取られる。もどかしい刺激に身を捩ると、絵を描いてるだけなのに感じているのかとなじられた。
ぐりぐりぐり。独特の臭いから油性マジックだということが分かる。黒に塗られて、目みたいだと笑われる。これはきっと暫く落ちないと思う。着替えの時、気を付けなきゃ。
膝を抱えられて下から突き上げられる。気持ち良くなんかないのに、喘ぎが止まらなかった。
一度中に出されてぐったりしていると、髪を掴まれて目の前に出された瓶のラベルを読まさせられる。
“シンナー”
その瓶の中身を染み込ませたアンダーシャツで乳首を乱暴に擦られる。歯を食い縛って耐えた。それでも痛いし、恥ずかしかった。
誰もいなくなった後、アンダーシャツを拡げて見た。白かったところに黒い染みが広がっている。頭がふわふわする。シャツを丸めてゴミ箱に捨て、走って外の空気を吸いに行く。肺の中までおかしくされたくなかった。
胸いっぱい空気を吸い込んで吐き出す。さっきよりもずっと楽になった。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋に入る前に庭で久しぶりにマト投げ。頭がおかしくなってないか、手は震えないか確認。ピッチャーだから、それってすごく大事。コントロールしか取り柄ないけど、それだけが唯一の自信に繋がるって最近分かった。
ちゃんといつも通り投げられた。すごく嬉しかった。
部屋はまだ綺麗。この間、出しっぱなしにしていた本を片付けようと思ったけれど、途中で読み始めてしまったから全然片付かなかった。どうしてだろう。
(空白)
体育の時間。今日はサッカー。
田島君はフォワード、泉君はミッドフィールダー、ハマちゃんはキーパー。一人ぽつんとラインの外。審判だった。でも、全然寂しいとは思わなかった。
ここからみんなの頑張っている姿を見るのは楽しいし、嬉しくなる。走って、ボール追っかけて、蹴って、すごくどきどきする。
「三橋ー!そっちボール!」
いつの間にか目の前の試合に見入っていて、声を掛けられたことに反応するのが遅れてしまった。
「ふごっ!」
顔面にボール、直撃。衝撃。
痛いと思うより先に視界がまっくらになる。声は反射的に出てきた。
意識してなかったから、これってきっとリラックス。
「三橋ィー!!」
「三橋!?」
「大丈夫か三橋!」
「三橋!三橋じゃないか!」
審判がホイッスルを吹かれるのは、ちょっと情けないハナシなのかもしれない。
(暗転)
(再開)
起きたらまっしろな天井が目に入った。
保健室だと直ぐ分かる。保健の中村先生と田島君が話しているのが聞こえた。
「じゃあ、田島の蹴ったボールの軌道が逸れて、三橋の顔面に直撃したってこと?」
「あ、はい。ゲンミツに」
「……厳密?」
「いえ、お気遣いなく」
「一秒足りともお前に気は遣ってねえよ」
田島君の言葉使いはたまに当っているようで間違っている。でも、それは田島君らしくていいと思う。
先生との掛け合い漫才みたいな雰囲気が面白くて、ついつい吹き出してしまった。それがカーテン越しでも聞こえたらしい。二人が振り返る気配。白いカーテンが開く。二人がいた。
「平気か?」
「う、うん」
「ごめんな」
「だ、大丈夫だよ」
「そうか?」
「うん」
田島君と短い会話が続く。中村先生が腋で計るタイプの体温計を持って来た。
「ボーっとしてたんだって?もしかしたら熱あるかもしれないから、一応計っといてよ」
ジャージのチャックを下ろし、体操着の隙間から渡された体温計を腋に挟む。
「三橋ってワキ毛薄いのな、生えてないみてー」
田島君が言う。どくん。鼓動が早くなる。
肌を見られてしまった?
シンナーで少しは落ちたとは言え、乳首にはまだマジックの黒が残っている。そう思ったら急に恥ずかしくなって、身体全体を沸騰した血が駆け巡ったみたいに手の先や、顔、耳までもが真っ赤になった。
ピピピピピ。
体温計が鳴る。三十七度六分。
「うーん。顔も赤いし、多分風邪だろうな。今日は部活しないで帰れよ」
中村先生が笑う。
田島君は少し残念そうに笑う。
今日は田島君とキャッチの練習をする予定だったのだ。
「ごめん、ね……田島君」
「おー、気にすんなって!そんなことよりとっとと治す方に専念しろよー」
今気になっていたのは、風邪でも、田島君との練習のことでもなかった。ごめんね、田島君。
気付いてないのなら、ずっとそのままでいて。
きっと今頃、教室に置きっぱなしの携帯はメールを受信して震えている。
※虐待注意
(空白)
呼び出し。カンペを渡される。こしゅこしゅ。扱かれながら、読む。
大好きです、愛しています、あなただけのものです。
今までで一番楽だったけど、今までで一番泣いたのもこの日だった。
誰もいなくなった後、カンペで床を汚した精液を拭く。直ぐによれよれになって破れてしまった。指についた分は舐めて綺麗にする。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋がどんどん汚れていく。
田島君に貰ったグラビア写真集を鞄に入れっぱなしだったことを思い出す。水着の女の子が笑っていた。胸も大きくて、お尻はきゅっと引き締まっている。
いけないって分かっていたけど、ダメだった。止まらなかった。
名前も知らない女の子の顔が白で汚れる。
一緒だ。一緒。
汚される側じゃなくて、汚す側。
お風呂に入る。一時間浸かる。お母さんが見にきてくれなかったら、ユデダコになっていたかもしれない。それでも良かった。汚いままでいるのは嫌だった。
現実では洗っても洗っても、汚れたまま。
(幕間)
三橋の様子がおかしい。
最初に気付いたのはいつだったろう。そうだ。三橋の目が真っ赤に充血していたあの日。それから三橋は日に日にどこかおかしくなっていった。
元々、三橋はあまり律儀な性格ではない。いや、律儀ではないと言うと少し語弊がある。三橋は大雑把な性格をしているの方が遥かに正しい。
あの日を境目に三橋は変わっていった。周り対して気配りが出来るようになった。脅えるだけで自分から積極的に発言しようとしなかった三橋が、である。
例えば、花井にゴミをぶつけて遊ぶ田島を宥めたり、家の用事で途中抜けなければならなかった沖の代わりに掃除当番を変わったり、とにかく三橋は変わった。
気付いてる奴もいれば、そうでない奴もいる。
気配りが出来るのは悪いことじゃない。なのに違和感がある。三橋は何かを隠している気がする。
そういえば、あいつも。
(空白)
呼び出しは今日も止まらなかった。
ガムテープで目隠し。ガムテープで猿轡。両手、両足をダイノジに拡げさせられてガムテープで地面に張り付けにされる。
手や足や乳首、お腹、お尻の割れ目なんかを濡らした筆でちょいちょいと弄ばれる。擽ったくて胃がピクピクと痙攣した。時間が経つと筆を滑らせたところがベタベタしてくる。なんだろう。砂糖水だって。なんでだろう。
歯ァ食い縛って耐えろよ!
そんな声の後、お腹の上に何かをザーッと掛けられた。土の匂いがする。ぞわぞわぞわ。からだの上を何かが這い回る。
何これ何これ、怖いよイヤだよ。
声は出なかった。むーむーという音が出てくるだけ。
ちくり。
!!!!!!??
痛みが全身を駆け巡る。背中を反らせ、頭を振って逃げようとする。逃げられなかった当然だ。
ちくちく。
そんな生易しい痛みじゃない。針を尿道に突き刺して抉るような痛み。それだけじゃない。肌をたくさんの生き物が這い擦るような嫌悪感。痒い、痒くても、掻けない。動けない。
優しいオレが教えてやる……それ、蟻だよ。
咽の奥が震えるほど声を張り上げても誰かに届く訳もなく。
ちくり、ぞわぞわ、ちくり、ざわざわ。
最後はバケツの水を掛けられて終わり。ガムテープは最後までそのままだった。
誰もいなくなった後、水分を含んで粘着力のなくなったテープを自力で剥がす。最初に見たのはくっきり痕の残った手首。次に見たのは水溜まりに浮かんでいる大量の蟻の死骸。
気持ち悪い。
逃げようともがいたけれど、足にまだガムテープが張っていたので結局身動きが取れず、水溜まりに顎を打ち付けてしまう。
机の上で死んでいたちょうちょを思い出す。羽根を拡げて死んでいたちょうちょ。足を拡げて動けない今。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
家。部屋。埃を被った机。数ページ、くっついて開かなくなった写真集。写真集だけは夜中こっそり近くのゴミ置き場に捨てに行った。
部屋は相変わらず汚れっぱなし。
汚いのはイヤな筈なのに、どうしても部屋を片付けることは出来なかった。お母さん、ごめん。
(幕間)
三橋が手を洗っている。普通だ。普通だけれど、おかしい。石鹸を擦りつけて、さっきから何度も何度も繰り返し洗っている。擦りすぎて指先は赤くなっていた。
「何か変なものでも触ったのか?」
「う、うん……ちょっと」
「何触った?」
「え、う、う」
困ってる。困ってるというより、明らかに考えあぐねてるといった感じ。
「けっ、けっ、けけ、けけけけっ」
「!?な、なんだよ急に……!」
「けけ、けむっ、し!」
けむ し
毛虫のことか。いきなりケケケケ言い出すから、ついに壊れて笑い出したのかと思った。
「毛虫、触っちゃって、かゆくて!……えと、その……」
「あー……」
よく見ると三橋の腕や首辺りに小さな赤い発疹のようなものがポツポツできていた。所詮アレルギーというものだろうか。
「それじゃ洗ったって痒いままだよ。とりあえず保健室行って薬塗ってもらおう……」
「う、ん」
肩を叩いて促そうとしたら、酔拳のような足捌きで露骨に避けられた。
(幕間)
三橋が薬を塗られている間、保健室に置いてあった本を適当に選んで読んでいた。
うちの保健教諭の中村は元々精神医学を学んでいたようで、校内でも週一ぐらいの割合で生徒のメンタルカウンセリングも実施している。その所為か、保健室に置いてある書籍類もそういった系統が多い。
「はい、終ったよ」
「うお、あ、ありが、ありがと……」
「お礼なんていいって別に、これが仕事だから。もう戻っていいよ」
「お、三橋終ったか?」
「うん」
「じゃ、戻ろう」
「……あー、ちょっと待って」
中村が三橋を手招きで呼ぶ。てけてっと近寄る三橋。中村が三橋に何かを告げると、三橋はこくりと小さく相槌を打って先に保健室から出て行く。会釈だけして後を追おうとして、直ぐに呼び止められる。
「なんスか」
「んーと。三橋のあれさ、あれ、毛虫じゃないよ」
やっぱり。そう思ったけれど、敢えて口には出さなかった。
「小さいけど、なんか噛み痕が沢山付いてる感じだった。……あいつ、最近アマゾンの奥地にでも旅立ったりした?」
「まさか!」
「……だよなあ。だったらどこであんな痕付けてきたんだろ」
中村はそれ以上詮索してこようとはしなかった。気にはなっているけど、一応一教師として生徒のプライバシーは保守しようとしているみたいだ。口は悪いがなかなか好感を持てる。
「失礼しましたー」
「おー、お前も気をつけろよー」
毛虫に。
ぞくり。そう、肌が粟立つのを感じた。
(空白)
呼び出しのメール。まだ続く。受信しては消し、受信しては消し。もう何通届いたのかは覚えてなかった。
十通以上かもしれないし、五通くらいかもしれない。
そんなことを考えながら指定された場所へ急ぐ。
遅れるな、と殴られる。唾を掛けられる。頭を抱えてごめんなさいをする。
今日は何をされるんだろう。こわくてどきどきする。
ビー玉を五つ、ローターを一つ入れられる。お腹の中がごろごろする。そのまま、ブレザーを渡されて着替えるように言われた。スカートだから、男物じゃない。パンツは履かせてもらえなかった。
ファミレスに行く。座っていると中に入っているのを感じてしまってとても辛い。
クツクツと煮え滾るように熱を帯びる。ローターのスイッチが入る。かちゃかちゃとビー玉同士が擦れ合う音。
目の前に出されたカレーライスを食べろと言う。しかも犬食いで。他にもお客さんがいるお店で。
泣きながら一口食べたら、隣の席からひそひそ声。
やめて、おねがい、こっちみないで。
振動音、摩擦音、喧騒が鼓膜にこびりつく。
スカートに染みが出来た。見付けられ、罵られる。ベンチ席にじわりと染みが拡がる。それを見られ、笑われる。
立ち上がった時、ビー玉が一つ落ちてしまった。コロコロ転がって行ったそれは、家族連れのテーブルのところで止まった。小学校低学年ぐらいの子がそれに気付いて拾う。
臭い!何コレ!
騒ぎ出す子供の声を聞いていられず、逃げるように店を出た。酷く惨めだった。
手を洗う。何回も手を洗う。洗った手を拭いたタオルが汚い気がして、タオルも洗う。そして手を拭くものがなくなってしまった。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
学校を休む。お腹が痛くて、だるくて、頭の中がほわほわした。お母さんが仕事を休んで看病してくれる。
携帯が鳴る。メールが届く。きっと野球部のともだちから。
分かっていたけれど、差出人をろくに確認もせず消去。一斉消去。ちらっと、「田」の字が見えた。もう消してしまった。受信フォルダの中はからっぽになった。
夕飯前になって誰か来る。阿部君だった。野球部の誰一人もメールの返事がなかったから、心配してくれたみたいだ。阿部君は優しい。阿部君は優しい人なんだ。
部屋に入るなり、阿部君。
「こんな汚ェ部屋で寝るから病気すんだよ!」
部屋を片付け始める。ふわっと埃が舞う。窓を開けて、換気。埃がきらきら光って見えて綺麗。
粗方片付け終ってから、阿部君。
「……悪ィ。病気で寝てんのに余計なことした」
阿部君は優しい人だ。悪気があってやった訳じゃない。何気無い優しさ、気遣いが心にしんみり拡がっていく。
ありがとう阿部君、明日はダイジョウブ。
そのまま、阿部君にはうちでご飯を食べてもらう。阿部君は遠慮していたけれど、お母さんと二人っきりで食べる時より楽しく食べれた。
玄関までお見送り。阿部君が帰った後、バケツを用意する。中には水。掃除用具入れから漂泊剤を持ってきて、半分くらいバケツに入れた。プールの臭いがする。清潔そうな感じがするので、この臭いは好きだ。
漂泊剤と水を混ぜた液体で雑巾を洗う。その雑巾で部屋中を拭く。阿部君が触っていたところは、特に念入りに。何度も何度も拭く。
気が付くと手が真っ赤になっていた。
少し、かゆい。
(幕間)
三橋が朝練に参加している。良かった。だけどやっぱり、どこかおかしく思う。
練習が終って、着替えに部室に戻ろうとした時だ。前に花井と田島がいた。後ろに三橋がいた。
ここで監督に呼ばれて目を離した数秒の間。
田島が三橋に気付かず、部室の扉を閉めてしまったのだろうか。閉まった扉の前に三橋が立ち尽している。
閉まった、と言えども近頃立て付けの悪くなってきた扉は、野球ボール一個分あるかないかの隙間が空いていた。三橋はグローブを持っているが、決して両手が塞がっている訳ではない。
それなのに三橋は部室に入ろうとせず、困ったように辺りをうろうろしていた。どうして。
初めは何か落としたのかと思ったけれど、そうではないみたいである。
躊躇しているように見える。何を。ドアノブに触ることを、だ。
「三橋ー、どうした?」
「あ、う……ちょ、ちょっと」
ドアノブと地面を交互に見つめ、俯く。
「ちょっと、どうした?」
「ちょ……う、ちょ……」
「ドア、開けないの?」
「……うう」
「開けられない理由でもあるの」
「!……うう、ん!な、ないっ!ないんだっ」
「ふうん……」
なんともない振りをして三橋の横を通ろうとする。引っくり返した石の裏に張り付いている虫みたいな動きで後ずさる三橋。
バイキン扱いか、バイキン扱いなのか。
……流石に傷付くぞ、それは。
心の中で涙目になりながら、三橋が触ろうとしなかったドアノブを捻り、扉を開ける。ギギギイと錆びた鉄が擦れる音がする。
「あっ、ぶな……けてっ!」
危ない避けて。
うっかり見上げた頭上、迫り来る黒板消しの残像。
粉まみれで真っ白な視界の中、腹を抱えて爆笑する田島には、呆れて怒りさえ湧かなかった。
(空白)
ドアノブが触れなかった。触りたくなかった。
今まではただ綺麗好きになったのかと思って、あまり気にしてなかった。でも、ドアノブが触れないのは困る。
色々な人が触るところ。外にはバイキンがいっぱいいて、手にはバイキンがいっぱいついていて、バイキンだらけの手が沢山触るドアノブ。
触ったら、そこからバイキンが感染してしまうんじゃないかと思う。指先からじわじわ、肉がどろどろに腐ってしまうんじゃないかと思う。
せめてタオルがあれば触れるのに、そのタオルも今は練習の後で汗でべたべた。バイキンだらけ。
誰にも気付かれたくないのにどうしよう。うろうろ、おろおろ。
「大丈夫だよ、三橋」
「……田島君?」
ひょっこり。ドアの陰から田島君。
「不自然に見えなきゃいいんだ。ほれ、ちょっとそこいて。そんでコレをさ、こうしとく……」
田島君がドアの隙間に黒板消しを挟む。
「これでお前がドアノブに触れないの、もし誰かが見ても黒板消しを警戒してるようにしか見えねーだろ?今日以外でも、誰かに何か言われたら『黒板消しがあると思った』って言っとけ」
ショックだった。上手く隠せていると思ったのに、田島君にはドアノブに触れないことがバレていたのだ。
「んな顔しなくても誰にも言わねェよ。オレとお前だけの秘密だ、ゲンミツに誓う」
にしし、と笑う田島君。田島君はいい人だ。そう思う。
いつか、もう一つのヒミツに気付かれなければいいと心から思う。
(空白)
※虐待注意
(空白)
終らない呼び出し。
目の前にお皿いっぱい詰まれたおにぎりを用意された。
おにぎり好きなんだろ?食えよ。
この間のことを思い出して、身構える。けれどオシッコは掛けられなかった。
白いご飯だけのおにぎりは、ほんの少しだけ塩の味がする。具なし・ノリなしの塩おにぎり。
お腹が空いていたので食べる。三個食べてお腹がいっぱいになる。結構大きかったし、同じ味ばかりで飽きてしまったんだ。
もう食べなくていいのかな?
見てみる。無言だった。口の形だけ変わって、声は聞こえない。それでも聞こえた。
食べろ。
おにぎりはあと十個ある。無理だ。試しに一個だけ無理矢理食べたけど、辛かった。あと九個は無理。
食べろ。
冷たい目に見下される。口だけニィと攣り上がっている。おにぎりの一つにナイフを突き立てるのを見た。
十三個が意味するものがなんとなく分かってしまう。部員と、マネジと、監督と、先生。
意地でも食べなければ。死んでも食べなければ。厳密に食べきらなければ。
七個目。お腹が痛い、苦しい、もう駄目、入らない、無理。
八個目、九個目。いつまで経っても最後の一口が飲み込めない。
十個目、胃が痛くて動くのも辛かった。動けなければ食べられない。
見る。笑っている。待っている。壊れるのを待っている。求めるのを待っている。
イヤだった。負けたくなかった。でもそれ以上に自分の意地で二度と人を傷付けたいとは思わなかった。
足を横に拡げ、お尻の穴を自分の指で拡げ、催促。
こっちでたべさせてください。
惨めで悔しかった。涙だけは堪える。
ぐにょぐにょと潰れた感触。細かいお米粒がちゃんと入る訳もなく、もうなんだかわからなかった。
十個目、十一個目、十二個目までは入った。ぐちゃぐちゃ。いつの間にかイッていた。
最後の十三個目、食べられる。目の前で。吐き捨てられる。目の前で。
お前だけは助けてやらないよ。
そう言って笑われた。お腹を蹴られた。
誰もいなくなった後、一人で処理。つぶつぶとした感じは治まらなかった。
痒い。ごろごろする。違和感。ホースを自分で。水が溢れる。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋。机の埃。ゴミ。ティッシュの山。
手が止まらなかった。
(空白)
部活の朝練。阿部君から呼ばれる。
「三橋にやる」
「……う?」
「いつも腹減ったとか言ってるから……オレが作って来た」
「あ、ありがと、阿部君」
渡された袋の中には。
「お前見た目と違って食い意地張ってっから、多目に作ったんだ」
「う、あああ……」
「ちゃんと食えよ」
たくさんのおにぎり。
(空白)
昼休み。手を洗いに行きたかった。教室のドアが閉まっていた。
あっちにきょろきょろ、こっちにきょろきょろ。
田島君と目が合う。気付いてくれる。
「オレしょんべん!」
「お、オレも!」
田島君の後を追う。田島君は本当にトイレに行った。その間、手を洗い続ける。
洗っても洗っても、ねっとりした感覚が付き纏って離れない。
(幕間)
昼休み。三橋が手を洗っているのを見た。三橋はずっと手を洗っていた。田島がトイレから出てきて、やっと三橋は蛇口を捻り、水を止めた。名残り惜しそうな顔。
三橋と田島がいなくなった後、試しに蛇口から水を出してみた。屋上の貯水タンクに貯められた水がこんこんと流れ出てくる。
ぬるくて少し、心地好かった。
(空白)
呼び出しがあるとユーウツになる癖に呼び出しがないとないで不安になってしまう独りでいることが恐ろしくなってしまう。
「……行こっ、かな」
誰かの家に。部屋に。
きっと忙しくて、散らかしてる。
それをキレイにするだけ。ほんのちょっぴり、キレイにするだけ。
ピンポーン。チャイムの音。間。足音。
がちゃり。ドアが開く。ちょっとだけ驚いた顔、してる。いきなり来たら、やっぱり迷惑だったかも。反省。でも、独りで自分の部屋に戻りたくなかったんだ。この時は。
「どうした?」
「あ、あのっ、そのっ!」
「いいから落ち着けよ、まず」
「う、う、あ……え、そ、そう、じ……」
「……そうじ?」
「部屋!そ、掃除しても……いいです、か?」
すごく……呆れた顔してます。
(幕間)
あらすじ。
突然「掃除させてください」と部屋に上がり込んできた三橋は何故かメイド服で、メガネで、人の部屋に入るや否や問答無用で掃除を始めた。
あらすじおわり。
三橋の上擦った声。
「……くんは、片付け、キライなのか、な」
「……あー、うん。見ての通り」
とは言っても、蜘蛛の巣が張ってあったり、机に埃が被っている訳でもない。決して言い訳にするつもりはないが、不潔にしておくのは内なるポリシーが許さないのだ。
ただ、物が多すぎて上手く収納出来ず、辺りにほったらかし状態になっているだけである。
「今度からちゃんと……お、おかたし、しなきゃ、めっ!する、よー」
三橋がモップの柄の部分で床をトンと叩くと、鼻からメガネがずりっと落ちる。ベタベタだ。ベタベタ過ぎる。だがそれがいい。
レースがたっぷり付いたスカートから覗く男の膝が直視出来ず、胡座を掻く足の上に雑誌を拡げてテントを隠す。三橋がこっちを見て微笑む。
だからって、この展開はまるで予想外だ。三橋は今、同じ学校に通う同じ部活の同じ性別の人間の股に顔を埋め、いそいそと掃除に励んでいる。
「ふあ……んっ、む……ちゃ、ちゃん、とキレイ、にしなきゃ……」
ちゅぱちゅぱ、ぴちゃぴちゃ。
一定のリズムを刻む水気を含んだ音。犬が長い舌を伸ばして水を飲むような、それでいてまた全くの別物。
亀頭を柔かく包む頬肉の質感、筋に伝う先走りを追う舌の動き、鼻から漏れた熱い吐息が根本に吹き掛る度、腰が引けそうになる。一方的に翻弄される。
赤い舌、赤く染まった頬、少し充血した瞳。
「三橋、お前はいいのかよ」
ほんの少し悪戯心。足を三橋の股間に伸ばし、意地悪く踏み付ける。三橋の身体が小さく跳ねる。
「っあ……オ、レはいい。キレイにするだけでキモチ、いいか、ら……んっう、は……でも」
唾液だらけの口元を舌で舐め取りながら、三橋が顔を上げる。四ん這いになり、こっちに尻を突き出す格好。自分からスカートの裾を捲り上げる。下着は履いていなかった。
「し、仕上げはこっちで……キレイにっ、させてもらって、もイイ……?」
尻の穴に両手の人指し指を一本ずつ突き入れ、拡げて見せる三橋。
キレイにする。キレイにする。
一つの単語ばかりが頭の中で反芻される。目の前の過激すぎる行動からの現実逃避。気付く。三橋の行動の異常性。手を洗う学校の三橋。
「……お前、もしかして」
これは夢精したある日のはなし。
(幕間)
部活が終って保健室に直行。
確かめなければいけないことがあった。この間読んだ本をもう一度読まなければいけない気がした。
「先生、この本借りていーっすか?」
「イカ臭くしないならどうぞ。保健室の本だからって、やましい事ばっか書いてある訳じゃないからな」
「しませんよ!」
中村との遣り取りもそこそこ、目当ての本を借りると保健室を後にする。ページを捲る。
三橋のことを考えていたら、いつの間にか“三橋”の文字を探すようになっていたらしく、気が付けば最後の目次のページだった。違う。探しているのは“三橋の症状”についてだ。
「……これ、か?」
――強迫性障害について。
強迫性障害(OCD)とは?
・強烈な強迫観念(払拭しようとしても消えない不安・イメージ)に取り付かれ、※人から見れば異常な儀式的行動、無駄な動作を繰り返す。
※強迫行為(強迫観念を打ち消そうとする行動)
主な症例。手を洗う・ドアノブに触れない・いつも不安そうにしている・汚いものに触れない……。
三橋が変わってしまった原因がここにある気がした。
(空白)
試験が近くなったので久しぶりに部活の皆を家に呼び勉強会。
嬉しいけど、すごく嬉しいのに何かが嫌だった。その何かはまだ分からない。
埃だらけの机を見て、げんなりした顔をする花井君。
不思議そうな顔をする田島君。
片付けようかと気を遣ってくれる栄口君。
前に来た時、掃除してくれた阿部君だけはちょっとだけ怒ってた。
だけど皆、すごくいい人たちばかりだ。
どうしてその人たちの好意を嫌に思ってしまうのだろう。こんなに優しくて、こんなに暖かくしてくれてるのに。
汚れていく。どろどろになっていく身体と心。こんなに手を洗っても自分独りだけ汚れていく。
机の上に置いておいた携帯が震えている。幸せで辛かった時間が終る合図。
皆にさよならして、一人で向かう道すがら。
通りすがる人たちが汚いものを見るような目をしているみたいに見えて、出来るだけ身体を縮こませて、トイレに駆け込む。
蛇口を捻り、水を出す。赤ぎれてしまったところに染みて痛かった。でも一人だけ汚いなんて、そんなのイヤで洗い続けた。
足音がした。顔を上げる。鏡に映った自分の顔。その後ろ。
あの人がいた。
今日もまた、汚れていく。
※精神障害描写注意
(幕間)
・強迫性障害を発症する原因
元々几帳面であったり、融通の利かない性格の持ち主が多く発症した事例を挙げられるが、詳しくは不明。
(融通の……っつーとこか)
・不潔強迫
身体の汚れが常に気にかかり、必要以上に洗浄行為を繰り返す。
(三橋が手を洗う場面はこれまでに何度か見てるけど、あれは確かにおかしかった)
・縁起恐怖
宗教的、もしくは社会的に不道徳な行為をしている・してしまったのではないかと恐れるもの。
(常に周りの様子気にしてビクついてんのはコレか)
・数唱強迫
不吉な数字や、ある規則に則った数字に異常に固執することがある。または、その数を回避する傾向がある。
(エースナンバーと……そういやこの間、13がどうとか言ってたっけ……)
(幕間)
どうやら鍵は揃ったみたいだ。
本に書いてあることを信じるなら、三橋はほぼ間違いなく強迫性障害を発症している。そして三橋の性格のことだ。他人に迷惑懸けるまいと、誰にも言わずに一人で抱え込んで来たのだろう。
今まで、三橋はずっと西浦のチームに馴染んでいると思っていた。過去のことを清算して、チームメイトの一員として、エースとして、仲間を頼ることも出来るようになったのだと思っていた。けれどその考えが間違いだった。
人は簡単には変われない。まして辛い過去を通過してきたなら、疑心も並大抵のことでは解れない。
三橋は変わったフリをして、ずっと遠慮をしていたのだ。誰にも迷惑をかけないように、自分だけ辛ければいいとすべてを背負い込んで……。
それでも、三橋は心のどこかで助けを望んでいた。そうして次第に自分を追い込むようになり、それが手を洗ったり、ドアノブに触れなかったりという強迫行為に繋がっていったのだ。
誰かに気付いてもらいたかった。だけど誰も気付かなかった。
三橋はいつも笑っていた。
『なんでもない、よー』
その時は既にボロボロに傷付いていたというのに……。
三橋は、三橋の癖に嘘を吐いていたのだ。チームメイトを、仲間を騙してきたのだ。
気付いてやれなかった自分に今更腹が立つ。
何が友達だ、何が副主将だ、仲間一人の異変にも気付けないで、今まで何をしていたんだ。
仲間。
ふと、気付く。
そういえば、あいつは。三橋と。三橋に。三橋の。三橋を。
そうだ。あいつだけ。あいつだけは。
ひょっとしなくても。
確かめなければ。
(空白)
久しぶりのメントレ。輪になって、手を繋ぐ。両隣は阿部君と田島君だった。
(手、繋げる?)
田島君が小声で訊いてくる。些細な気遣いが嬉しかった。
試しに田島君の手を繋ごうとする。目を瞑って、あまり意識しないようにして、手を伸ばす。指先が触れた瞬間、それだけで体が跳ねた。拒絶反応――違う、そんな言葉で片付けたくない、逃げ出したくない。
(無理すんな、足震えてっから。繋ぐフリだけしよう)
(う、ん……でも)
(三橋がオレのこと嫌ってる訳じゃないって知ってる。オレもお前のこと嫌いになんかなんねえ。だから……)
――心配いらねーよ。
一つ一つの言葉に涙が出そうになるのを堪える。
そうだ。ずっと嫌われたくなかった。やっと自分を認めてくれるチームと巡り会えたのに、こんなことで嫌われたくなかったのだ。面倒で気持ちの悪いダメピー扱いされたくなかった。だから耐えてきた。
助けて、って言ったら、あとじゃなくて今目の前にいる田島君なら、助けてくれるかもしれない。話を訊いてくれるかもしれな……。
「……ヒイああッ!」
急に手を握られて思わず声が漏れる。田島君のではない、阿部君の手だ。
「みは……」
「ッ、ごめ……ちょっとトイ、レ!」
「!おい、ちょっ待て……」
嫌々をするように首を横に振り、阿部君の手を解くと校内のトイレに向かってひたすら走った。誰も追って来なかった。だけど後から後から尾を引くものがあった。
手を払った時の阿部君の顔。怒っている風にも、悲しんでいる風にも見えなかった。
そこにあったのは、信じていた相手に裏切られた時の――絶望。
約束。絶対に首は振らないとあの日誓った約束を、こんなにも簡単に破ってしまった。後から後から涙が溢れてくる。
もう二度と阿部君や田島君、皆の手の温もりを感じられないと思うと胸が張り裂けそうだ。
あの時、たくさんの勇気をくれた手を自分から拒否してしまったのだ。なんてバカなことをしてしまったのだろう。
手を洗いながら涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔も洗う。冷たい水を何度も叩きつける。それでも、涙は止まらなかった。
最後に触れた指は、少し冷たかった。
(幕間)
突然の三橋の奇行に周囲は暫し騒然となった。
三橋の行動の色々は確証を得ていた筈なのに、目の当たりにした拒絶の生々しさは流石にショックだった。だけどこれで確信する。
「三橋のことで話があるんだけど……いいか?」
話を切り出すなら、今しかないだろう。
(幕間)
「お前、三橋のアレに気付いてるだろ?」
単刀直入。反応を見る。眉の端が跳ね上がった。
やっぱり。こいつは。
「……気付いてるよ。あいつの近くに居ること多いから、イヤでも気付く」
「そりゃそうか、お前は三橋と……」
「で、どうするつもりなんだ?」
空気が一変した。
普段の、……じゃない。まるで常の自然体こそ、マスク一枚越しで素顔を隠していたかのような豹変。
剣呑さを秘めた瞳に真っ向から見据えられ、輪郭を一筋の汗が伝い落ちる。膝の力が抜けそうになる。雰囲気に完全に飲み込まれそうになる。同級生との対峙だというのに、一回り体格の違う相手を目の前にしているみたいだ。
「お前はオレが三橋の異常に気付いてるって知って、どうするつもりだよ。脅すつもり?」
「そんなんじゃ!……オレはただ、三橋を助けてやりたいって……」
「どうやってだよ!?あいつ、オレらに迷惑掛けたくねェからって誰にも相談しねえし、自分が参ってることにも気付いてないんだぞ!それを、どうやって!どうするんだ!?」
――考えたこともなかった。ただ、三橋が病気になったことを知って、それを救ってやりたいと漠然に思っただけ、思った“だけ”なんだ。三橋をどうすれば救ってやれるかなんて頭になかった。
三橋の病気を治す為に、三橋を助けること、三橋が助かること。
「なあ、お前に何が分かるんだよ。三橋のこと、ちゃんと考えたことあんのか?……無いだろ」
「そんなことな……」
「あるよ。今だってオレの言ったことで頭ン中ぐるぐるしてる癖に……良く考えもしないでキレイゴトばっか言ってんじゃねェよ!」
鼻で笑われる。そうだ、きっと。誰よりもこいつは三橋に、三橋の、三橋を。
三橋は隠している。隠すというのは知られたくないと思っているのと同義。それをわざわざ暴く真似をして、三橋が傷付かない訳がない。
何ができるか。常時消毒したタオルを持ち歩くとか、三橋に触らないようにするとか。
考えれば考えるほど泥沼に陥る。三橋にしてやれることの少なさ、それもすべて問題解決にまで至らないものばかり。だけど。
「っ……それでも、何かしてやんなきゃ……だってオレらチームメイトじゃん。あいつ一人で苦しんでんの、見逃していいのか?」
ページを拡げ、本を差し出す。
「中村、先生に訊こう」
キレイゴトだって。
偽善だって。
何もしないよりは、遥かにマシだ。
(寸劇)
「……が強迫性障害?」
「手を洗っ……汚い……り、ドアも開けら……」
「残念だけど……」
「なんでだよ!?……三橋は……」
「所詮カウンセリングもどき……あとは病院へ……」
「三橋が強迫性障害なら、なんであいつの部屋は……」
「……推測の域でしかないけど、持ち主の深層心理をダイレクトに表したんだろうな」
「深層心理?」
「一般的家庭の子供が一人います。例えば、住む家が頭と手足の五体、内部から支える居住人の家族を五臓六腑にするなら、自分の部屋、つまり子供にとって唯一の占有スペースってのは本心……ココロになる」
「ややこしいな」
「要するに、自分の部屋っていうのは心の深いところを映す鏡だと思え。汚れていれば気は荒むか、退廃する。綺麗ならやる気が充実するっつう具合い」
「最初からそっちを説明してくれれば……」
「うっせ」
「つか、三橋のココロは汚れてるってことか?」
「あ」
「うんや、三橋の場合は恐らくSOSだな」
「Soんなに、Oナニー、Shiちゃ……」
「あ?」
「なんか電波が……」
「続けてください」
「……人前でやたら汚れを気にする癖に部屋だけは汚い。自分をキレイに見せたいってのは、嫌われたくない願望の表れ。だけど部屋は汚い。誰かに助けてもらいたいって本音なんだよ、それが」
「取り敢えず、明日にでも三橋の調子を看てみよう。今日は余計な刺激を与えないように出来るだけ近付かないこと、いいな?」
「はい!」
「っス」
※嘔吐・虐待描写注意
(空白)
授業が終って部活の時間。いつもと変わらずマウンドに立つ。
顔を上げると、阿部君がキャッチャーマスクを下ろしているところだった。こっちを見て、持っていたボールを投げる。左手のグローブでキャッチする。掌や指の肉を打ち、骨を震わせる心地好い衝撃に小さく息を吐いた。
この瞬間。やっぱり、野球が好きなんだと実感する。野球をしてる間だけはイヤなことを忘れられた。いや、忘れられるというより、考えられなくなる感じ。
どうすれば打たれない球を投げられるとか、ピッチャーの所為で負けたらどうしようとか、阿部君の配給を自分なりに考えてみてぐるぐるしたりとか。
頭の中、それしかなくなる。集中できてるんだと思う。
足元の土をスパイクで踏み均して、息一つ整えようとするだけで心臓の音が早くなる。指先に血が巡り、手がすごく熱くなったみたいだ。
阿部君から投球の指示が出る。
グローブから右手にボールを持ち変える。左足を胸に引き寄せるみたく直角に上げ、引いた右腕を肩上くらいの高さからストライクゾーンに目掛け、肘を使い、力を入れずに重力で振り下ろす――――その時だ。
いつもとなんら変わらないフォームだった。左足を踏ん張り、ボールを持つ指の力を緩める。それだけでボールは軌道を残し、阿部君のミットに収まる筈だった。
ボールが指先を離れる瞬間か、それより少し前。硬球の縫い目が指に掛った。初めて硬球を投げた時に感じたものと似ていて、全く違う違和感。
縫い目からじわじわ漏れ出した目に見えない液体が、指先を汚していくイメージ。このボールは阿部君が触っていた。阿部君はいい人で、だけど人間の手はバイキンで汚れていて、阿部君の手もバイキンで汚れている。
阿部君が触る前にだって、絶対誰かが触っているボール。使ったボールは磨く。指紋や汚れのついたボールを雑巾や靴磨きで磨く。それは汚れを取る仕草ではなく、染み込ませているように見えた。
瞼の裏側でアリの大群が指から腕、肩へと行進していく映像が再生される。妄想だってわかっている。わかっていても、気味が悪くて嫌悪でごちゃごちゃになる。
(気持ち、悪い……)
――全身の感覚がきえた。
ボールが手を離れた。目の前にあったものがぐるりと反転する。
阿部君の黒いミットから、地面の赤土、投手板。胃の下の方が迫り上がってくる。咽の奥が熱くて焼き切れそう。苦しくて息がしたくて、堪らずに口を開ける。食道を衝撃のかたまりが駆け上がった。
「ぐええええええ……!」
びちゃびちゃ。マウンドを汚していく。いつから自分は垂れ流しの水道になってしまったのだろう。阿部君がつくったマウンドを汚していく。びちゃびちゃ。
いけないダメだ。そう。わかっている。わかっているのに止まらない。口の中が苦くて、酸っぱくて、最後の一滴まで吐き出す。
(……吐いちゃっ……た)
二本の足で立つ力もなくなっていて、へなへなと地面にへたり込む。イヤな臭いがする。ユニフォームに掛った嘔吐物からだ。
何が辛いのか、鼻水と涙が次々に出てくる。
もう何がなんだかよくわからない。この後どうしようとかさえ、考えられなかった。
「……三橋」
足音。影。阿部君の声。ぐちゃぐちゃで惨めの顔を見られたくなくて、う、とだけ返した。言葉は出なかった。
すっ、と顔の前に水の入ったペットボトルを差し出される。こんなに汚いピッチャーなのに、こんな時でも阿部君は気を遣ってくれる。嬉しかった。縋り付くようにペットボトルを受け取り、中の水を咽を鳴らして飲み干す。
「ぷは…………あ、阿部君……ごめんな……」
ぐっ。
押し付けられる。それはホウキとチリトリ。阿部君を見る。阿部君はこっちを見ていなかった。違うところを見て、眉を顰めていた。
「自分の始末は自分でしろよ」
当然のことだと思う。思うけれど、ショックだった。
いつから、困った時は阿部君が助けてくれるなんて、都合のいいことを“当然”だと思ってしまうようになっていたんだろう。阿部君だってこんな投手、本当はイヤに決まってるのに……。
阿部君を頼り過ぎていた。そして重荷になって、呆れられて、嫌われた。汚れてしまった。
泉君や西広君、花井君達が駆け寄ってくるのを見ながら、吐き出した昼食の上に倒れ込む。ぐちゃり。
(暗転)
(再開)
「……簡単に気絶してんじゃねえよ、ッらァ!」
「っひぐ……!」
鼓膜を破る勢いの怒鳴り声と、腸をぐいぐいと圧迫する突き上げに意識が戻ってくる。出来れば、ずっと気絶したままでいたかった。
いつもの呼び出し。いつものように抱かれている。
気を失っていた少しの間、部活の時のことを思い出していたみたいだった。ここにはマウンドもなければ、野球部の皆だっていない。阿部君だっていない。けれど一瞬浮かんだ平和な光景はなかなか離れなかった。
野球をしている自分と、呼び出され犯される自分。ついに、どちらも汚れてしまった。汚れてしまったのだ。涙が浮かぶ。溢れる。手の甲で拭うことは許されていなかった。
「あれだけ周りにはバレないように振る舞えって教え込んだのに……薬の摂り過ぎでとうとう脳味噌すっからかんになっちまったか?あ?」
前髪を引っ張られ、顔を上げさせられる。目に唾を吹き掛けられる。首を捻って逃げようとすると頬を叩かれた。頭、ぐらぐら。
「いっ、あ……あ、うあ、ああああ……!」
狭い箇所をみちみちと押し拡げ侵入してくるもの。腰を打ち付けられる度、言葉にならない悲鳴が漏れる。反らした喉笛に噛みつかれ、外側と内側から与えられる痛みに何も考え及ばなくなった。
もう一度吐き出したい。上からも、下で出入りするやつも、全部。
「約束も守れない奴がチームのエースやってていいのか?」
「うぐ……い、……せん……」
「もう一度」
「……ひっ……い、けまぜ、ん……!」
「……よし、罰をくれてやる」
鼻が詰まって上手く発音できなかったけれど、それについての罰はないようだったのでほっとする。ほっとした次の瞬間、ぞっとした。
銀色に光る安全ピンの針先を、目の近くでちらつかされたのだった。
「やだ……イヤだ……」
「駄目」
「……な、んでもします、なんでもやります……だから、おちんちんの穴に入れるのは……お願いですから……お願い、おねがい……」
本当にやめてほしくて、自分から首に抱きついて、腰を動かしながらお願いする。ぐちゅぐちゅとお尻の下から音がする。内股がぴくぴく震える。
穴の奥深くまで潜り込んだものが中の肉を擦ると、気持ち良くなって動くのが止まってしまうから、それだけ注意。
「……お前って」
「……ふえ」
優しい声がしたと思って、目を開ける。安全ピンが視界から消えていた。
――助かった。
そう思った。それが甘かったのだ。
「!?っらああああああああ!!」
「本当に救いようのないバカだよ」
突然、耳に激痛が走った。
柔かい耳たぶより内側の、軟骨のところ。そこを尖がったものがぐりぐりと進んでいく。進んでいくけれど、元々穴が空いている場所ではないから、なかなか進まないんだ。
足をばたつかせようにも縛られている。手で跳ね避けようものなら、きっともっと酷くなる。ならばせめてもと抱き縋った。
耳に熱が集まってくる。
「痛い痛い痛い痛い!もうやだ!もっ……許してえ!おねがいゆるしてえ!イタイのやだ!いやだああ!おねがいだからああああ!」
ぶつり、ぶつりと針が肉を貫き進んでいく。
耳だからなのか、刺さる音がすごく生々しく聞こえて、聞きたくなくて塞ぎたくて、でもそこは耳で、何を言っているのか考えているのか。
ぐぐっと力が入る。それを押し返す肉厚。いっそ早く刺さってほしいと思う。苦痛の時間ばかり続く。
ずっ。
「っ!」
貫通、したのだと、これだけはわかった。
開きっぱなしの口から唾液がとめどなく溢れる。息が追い付かなくて、水から上げられた魚のように口をぱくつかせた。目もずっと開けっぱなしでいたので乾燥して少し痛かった。
「はあ、は……ふ……はあ……」
「……落ち着いたか?」
宥めるように背中を撫でられ、こくんと相槌だけ打つ。耳が火傷を負ったみたいに熱かったけど、さっきよりは痛くなかった。これで終りだと思えば、もうどうでも良いことだった。
――だから、それが甘いんだって、いったい何度、繰り返せば――
「じゃ、穴拡張すっから」
(空白)
安全ピンを三本使って穴を拡げた後、拡張用の先端が尖がったピアスを耳の内側に通された。帰される。
ピアスを外したら次は…………。
最後の脅し文句。
考えるだけで震えが止まらなかった。
雨が降っている。傘は持っていなかった。結構降っている。さっきから震えが止まらないのは、怖いだけじゃなかったみたいだ。
歯がガチガチと鳴る。膝に力が入らず、ふらふらと右に左へ。家までの道のりがひたすら遠く感じる。
なんとなく耳を触った。ピアスをしている方。ぬるっとして、指が滑る。血が出ているのかと思ったけど、指についている液体の赤みが少なかったから、膿が出たのかもしれない。
濡れた服が身体に張り付く。気持ち悪かった。寒くて死にそうだと思った。それでも手を洗うことがやめられない、とまらない、とめられなかった。
感覚がなくなるまで洗えば、それで心が何も感じなくなるまで洗い流せるならば、どんなに救われたただろう。
ピッチャーでいる自分、汚れてしまった自分。今日まで別けているつもりだった。けれど今日で一緒になってしまった。軽蔑されてしまった。
誰にだって人に知られたくない、知らない一面はある。それは……も一緒だ。……は変わってしまう。まるで二重人格。最初は信じられなかったし、演技に見えたので冗談だと思った。でも違った。
日に日にエスカレートしていく要求。目の色が変わっていく。
最初は。次には。そして。もうこんなところまで堕ちてきていた。
雨が降っている。歩き出す。びしょびしょのぐちゃぐちゃな格好で歩く。通りすがる人達は、みんな傘の影に隠れるように俯いて歩く。始めからそこに存在していないみたいな扱いだ。今は逆にそれが嬉しかった。
今の汚れてしまった自分を、三橋廉として誰にも認められたくなかったから。
明日も学校。部活もある。呼び出しもきっとあるだろう。
今度こそ他の誰にも気付かれないように、キレイにできるだろうか、キレイにできるだろうか。
(幕間)
何気無く外を見ると、降り始めた雨が窓ガラスをぽつぽつと打っていた。
ぼんやりとつい考え込んでしまうのは、今日の部活で起こった出来事。近付くな、と言われたからといって、チームメイト、しかもあの三橋を放置してしまった。
マウンドで嘔吐を繰り返す三橋の凄惨さに躊躇したことも認める。臭気の漂う中、必死に笑顔を取り繕うとしていた様には些か戦慄さえ覚えた。近寄り難い雰囲気は確かにあった。
けれど、かと言って、何もしてやれなかったのは、それは自分の脆弱。
何も考えずに動けたメンバーが羨ましくあり、心底助かったと思った。花井達が倒れた三橋を養護している間、咄嗟に判断できなかった一部でマウンドの掃除をする。どいつも陰の落ちた浮かない顔をしていた。交わす軽口すら見付からない。
ぼろぼろの三橋を目の当たりにした後では、気の利いた冗談一つ浮かばなかった。そして、ここまで三橋を追い込んだものの正体に気付けないでいる自分自身に腹が立って仕方なかった。
これでどうして三橋を助けてやるなんて、上目線で物が言えたのだろう。困っている仲間に手を差し延べることすら出来ないで、一体どの口でキレイゴトを並べたのだろう。
無力で、無知で、幼すぎた。無謀だったのだ。人一人を救うということを、生半可な覚悟で実践しようなんてそれこそ無茶なのだ。
切り替えなければならない。三橋を助けると決めたなら、戸惑っていては何も解決しないのだ。
「……っしゃ」
明日になれば、明日こそは解決の糸口が見付かる。そう思うと心の中が少し晴れた気がした。
空は相変わらず雨模様。
点けっぱなしのテレビから流れる天気予報に耳を傾ける。
『……地方で…………の雨は暫くの間、雨雲が停滞し…………晴れる兆しは…………まだまだ先に……』
アナウンサーの淀みのない滑舌に、どもりだらけのチームメイトの喋りが重なり、少しだけ笑えてしまった。
(幕切)
※神経症・虐待描写・キャラ、背景改編注意
====================================
(ト書き)
役者から、第三者へと視点が切り替わる。
(開幕)
* * *
みにくいアヒルの子はハクチョウの子供でした。
ハクチョウになれたアヒルの子は翼を一生懸命羽ばたかせます。
しかし、一度傷付いた片翼では空に舞い上がる事はできません。
廉潔なハクチョウはいつまでも冷たい湖に囚われたまま。
ハクチョウはそれが悲しくて聲を閉ざしました。
たとえ、ヒバリの歌声に誘われようとも、
すっかり打ち解けたハクチョウの仲間に翼を引かれても、
空っぽになってしまった心はもう何も感じません。
ながした涙の一滴さえ、湖は飲み込んでしまうからです。
いつか世界の果てから、救いの陽が昇る事を願う一羽のハクチョウ。
(押収したメモより一部抜粋)
* * *
学校という組織の一部で、唯一医療行為を主とする機関がこの保健室である。そして保健室と言えば決まり事項のようになっている消毒薬の匂い。それを些か疎ましく思いながら、浜田は目の前で行われているクラスメイトのカウンセリングを見守っていた。
クラスメイトの名前は三橋廉。西浦硬式野球部のピッチャーでエースナンバーを背負っている。
――三橋の様子がおかしい。
それは先日より、他の野球部員達の間で密かに囁かれていたことなのだが、今朝登校してきた三橋はいよいよその奇抜さを前面に押し出していた。
まず、目についたのは左耳を隠すように貼りつけられた大きなガーゼ。滅茶苦茶に巻き付けてあるテーピングが、その処置を三橋自身の手によって成されたものだと物語る。
開口一番にそれを指摘した田島に三橋は「うっかり冷蔵庫に挟んだ」等と、端からバレバレの嘘で誤魔化していた。けれど、目の下に隈を作りはにかむ三橋を見て、誰も追求を重ねることは出来なかったのだ。
次に態度。三橋は普段から挙動不審の気のある少年だった。だがしかし、今朝の振る舞いは特に酷かった。
まるで猟奇犯にでも付け狙われているかの如く、始終辺りに警戒の目を向けては、小さく縮こまって何かをぶつぶつぼやく三橋。そうかと思えば、いきなり駆け出して水場に手を洗いに行く始末。
これには流石の百枝も声を失い、三橋単体の練習メニューを打ち切ることを宣言した。疲労の色を濃く見せる三橋には休息の場をと、授業開始の時間まで保健室で寝かせることになる。
そこで付き添いに抜擢されたのは応援団の浜田だった。
浜田は三橋を保健室前の廊下に待たせ、鍵を拝借すべく職員室に向かう。奇遇なことに、その場で出くわしたのが養護教諭の中村である。
事情を説明すると中村は暫し俯き、思案に入る。だが直ぐに了承を出し、保健室の施錠を解いたのであった。
だからこそ、浜田には今一つカウンセリングの流れが理解出来ないでいる。
三橋を休ませることが第一の目的であった。それが何故、カウンセリングに変わってしまったのだろう。そもそも、三橋がカウンセリングを受ける理由がどこにあるのだろう。
浜田は頭を悩ませた。まだ内情を知らないのだから、当然だ。
無彩色の紙芝居が捲られる度、三橋は喉奥に物を詰まらせたような喋り方で中村の問いに応答する。
その紙芝居は桃太郎や白雪姫といったお伽話の類ではない。一枚には男と女の対峙。次の一枚には海底を漂う魚といった具合いに、一枚一枚の絵が連立せずに独立している。
もう一つの特筆として挙げられるのは、語り手は用紙を捲る中村ではなく、三橋自身であること。
どうやら関連性の無い絵に対し、自身の発想を述べることで心理状態を探るタイプのカウンセリングらしい。中村は三橋の発言の一語一句を手元のノートに記録していた。
馴れない形式での対話は、さぞ居心地が悪いのであろう。三橋は事あるごとに浜田に視線を配り、気に懸ける素振りを見せていた。その都度、浜田は暇潰しがてらに選んだ本から顔を上げ、安堵を誘う笑みを返してやる。
その瞬間だけ、三橋の脚を揺らす癖は治まった。
次第に廊下が騒がしくなってくる。登校時間になり、生徒が集まり出したのだ。
カウンセリングはまだ続けられていた。保健室には鍵が掛けられ、廊下側の戸には『先生は不在です』の札が提げられている。それで他者の介入を防いでいるのだ。誰でも奇異の目に晒されるのは躊躇する。三橋だとしたら、それは尚更。
「……あ、アヒルは、実はハクチョウで、みんなに認められて、空を飛ぼうと、して……。でも、ハクチョウは怪我してて、やっぱり飛べなく、て……その、う、う……」
少し離れた場所にいる浜田には、三橋のか細い声が全て聞き取れている訳ではない。それでもたまに聞こえてくる話の断片は、どこかもの哀しさを覚える造りになっている気がした。
そしてまた、視線がかち合う。
一方で朝練を終えた阿部、栄口の両副主将は職員室にグランドの鍵を返却へ。泉、田島の二人は同じ組に属する三橋を様子見、迎えを兼ねて保健室へと向かっていた。
西浦では保健室の先に職員室がある構造になっていたので、四人の足並みは必然と揃う。途中まで、高校男児らしく特に他愛もない談笑を重ねていた。向かう廊下の先から、よれた白衣を着た男が現れるまでは――……。
「……分裂症?」
「ああ。まだはっきりと結果が出た訳じゃないけど、恐らく」
阿部のオウム返しの問いに中村は至って平静に対応する。それに対し、状況把握の追い付かない泉は怪訝に首を傾げた。
「分裂症って……何?つうか、三橋って病気なんスか」
「分裂症、別名、統合失調症は躁鬱病と並ぶ精神病。立派な脳の病気だよ」
「症状は?」
「陽性だと思考、知覚、感情のあらゆる精神面に異常が出る。具体的に言うと、いきなり泣く、笑い出す、前後で繋がらない会話をし始めたり、ありえないくらいマイナス思考だったりする――……覚えは?」
全員合致で頷く。全項目に覚えがあり過ぎる。
「オレ、三橋は潔癖症じゃないかと思ってた。なんかいきなり手洗い出すわ、やけに掃除に念入りだわで……」
三人の視線が泉に集中した。
「分裂症にはもう一つ、幻覚、幻聴が見える聴こえるって症状があるんだ。中でも特異なのが負の思考の幻聴だから、『汚い』『汚れている』的なものが始終聞こえて、それっぽい幻覚の一つでも見えりゃ掃除もするし手も洗うだろうよ」
「ふうん」
納得したのか、それとも内容を曖昧のまま聞き流したのか。どちらともとれる微妙な相槌を田島が打つ。
阿部と栄口は今まで挙げられた例を三橋の行動に当てはめ、脳内で再生しているといったところか、無言でいる。泉は突然詰め込まれた情報量を整理しようとしている様子だった。
「つっても所詮素人判断だから、診断は医者に任せるつもりだけど」
「え、なんでだよ」
「前にこの顔ぶれの一部には説明したよな?保健のセンセーに医療行為はできないの。できるのは、あくまでもカウンセリングだけ」
「はあ!?じゃ、今まで得意気に説明してたのは何だったんだ!?」
「……教えなきゃ、絶対お前らは自分で調べようとする。それが怖いんだよ」
トーンの下がった声質が不平を遮る。
「どうせ野球部は馴れ合いの延長線で世話焼くつもりだろ?それが三橋の為になるとは思わないから、予想の範疇で教えてやった」
言っていることの正論性をこの時の四人は十分に理解できた。
確かに、知らなければあれこれと詮索していたことだろう。身辺を探り、質問を重ね、余剰のストレスを三橋に与えていたかもしれない。
それは過去に、三橋と三星との因縁の決着に野球部が絡んだことも大きかった。その件があったからこそ、今回の事態も解決できると、どこかで盲信しているところがあったのだ。
大人と子供の考えの違いをまざまざと見せ付けられたようで歯噛みする。
「ただ、さっきも言ったようにあくまでも一素人の判断だから、鵜呑みにはすんなよ。それと先生が病名ぺらぺらうんちくったことも内密に」
「らーじゃっ」
「おう」
「っし。なら、野球部の監督に三橋は部活休ませるって後で伝えておいてくれ。授業終ったら知り合いの医者ンとこ連れてく。保護者にはこっちから連絡するから……」
それは端から聞く分にはごく自然な会話の流れであった。けれど四人の中で唯一阿部だけは、そこはかとなく不審感を抱いていた。
――手際が良すぎる。
三橋の様子がおかしく、精神病の恐れがあることは承知の上だとしても、だ。
中村自身が言うように養護教諭の肩書き一つで、はたしてここまで動こうとするのだろうか。本人ではなく、友人に詳しく病状の説明を施すものなのだろうか。
普通に考えてノーである。保護者を呼び出すなり連絡するなりして対処するのが一番適切だ。まして、プライバシーに関わる問題を他人に口外することも常識から逸する。
勿論、阿部は教師の諸事情なぞ知る由もない。それでも先程までの口振りから、この程度の予想を固めることなら雑作なかった。
「……そこまではあんたの管轄じゃ、ないんじゃないっスかね」
「は」
「何言ってんの、阿部」
「ちょっと、その発言は無責任過ぎるんじゃない」
「……ちっ」
不味い、と思った頃には時既に遅く、他方向から非難の目が阿部に注がれていた。舌を打つ。しかし肝心の中村の態度は平静としたもので。
「あー、お前の言わんとしてることはわかるよ。迂濶に動いちゃいけないのは傍観者側だってのも。けどな、それ以上に三橋の状態がよろしくなさすぎる」
「つうと?」
「あの耳のでっかいガーゼ。ありゃ十中八九自傷だ。……あんな場所に穴空けるなんて、よっぽど追い詰まってるんだろうよ」
「あ……、あれ自分でやったのか?三橋が?マジかよ!?」
中村と田島が交互に喋るのを三人は愕然と聞いていた。
野球部全員が今朝の三橋を見ている。三橋は誰の目から見ても、一目で衰弱が見て取れる顔をしていた。それでも、周囲に心配させまいと振る舞っていた。
部員達は三橋の気持ちを汲んだつもりで、懸念を口に出すことはしなかった。その時、三橋は気恥ずかしそうにガーゼの貼った耳をずっと気に懸けていた。
本当は、心配して欲しかったのだろう。
無器用な三橋なりの、SOSのサインだった。それに一人も気付いてやれなかったのだ。誰もの胸中に後悔が渦を巻く。
「三橋は浜田が教室戻したから、九組の連中は三橋の言動がおかしくてもフォローしてやって」
「あいよ」
「被害妄想を変に宥めようとすんなよ。余計パニくる。あんまり酷いようだったら直ぐに……」
(…………あれ)
その違和感に気付いたのは――……。
* * *
「でも三橋ってさー。たまに別人みたく変わる時あるよなー」
まるで妙案でも思い付いたが如く、水谷の口が縦に開く。
時は変わって放課後。部室に集合した野球部員の話題は、図らずともエースの容態に集中する。
この日、九組は後期の委員会所属を決めるホームルームが長引き、話題の中心人物を含む数人の集合が遅れていた。それがこの議論を助長させる役割を担う。
悪意、もしくは敬意を払う際は別として、本人を目の前にして根本の噂を拡めようとする配慮の欠けた人種は少ない。それは成人に満たない若歳の集う野球部間にだって言える。
けれど、この些細な時間ばかりは別だった。一人のチームメイトに湧き上がる好奇心が、あるいは懸念か不安が、部員の心境を揺るがした。
こうして仲間内で意見を交換することで、唐突に生まれ出た感情を抑え込もうとしているのだ。若さ故の衝動は、そういったところから発生する。
「……うん。マウンドで投げてる時は別人みたいだと思ってた」
「そうかと思えばいきなり泣き出したりな」
「臆病のくせに頑固だし」
「そーそー」
ボール回しをしているのと変わらない調子で、会話が部員の口から口へ回されていく。内情の断片に触れた副主将の二人を除いて。
そしてこういった話題が上がった時、どういう訳が核心に迫る発言をする人間は大体決まっている。
「ひょっとして、三橋って二重人格だったりして?」
水谷の思慮無しの発言に、何故か二人の心臓がどきり、と強く脈打つ。核心も根拠もそこに存在していないにもかかわらず、駆り立てられる。
「……ないない。あの三橋が?……まさか!」
「てめえは会話のキャッチすらまともにできねェのかよ」
二人分の非難を浴び、一瞬たじろぐ。だが水谷とて引いてばかりではない。
「けどさあ、あいつ最近おかしいじゃん。なんか変なものに取り憑かれてるみたいに……」
その一言を受け、今まで閉口していた西広が静かに述べた。
「……それって、ビリーみたいだよね」
「……ビリー?」
「それ、誰」
「犬の名前とか」
「ブートキャンプの人か?」
(……低脳ばかりめ)
――思ったが、自重する。
「……ええと、違くて。24人のビリー・ミリガンとか読んだことない?実際にあった多重人格者の半生を綴った話なんだけど……」
歯切れの悪い言葉と共に、やや消極気味に各部員の顔色を探る。野球一筋でやってきた中に勤勉な読書家がいるとは思えなかったからだ。現に西広自身でさえ、その作品を知っていたのは中学三年の夏、読書感想文の題材に選んだからに過ぎなかった。
案の定、西広を除くその場の各自で、見当つかぬ風を窺い知れるリアクションを為している。自然と溢れようとする溜め息を、意のままに吐き出そうとした。
「……あ、あれだよな。犯罪をしたんだけど、裁判で自分は多重人格だって主張した……」
「!……そう!それ!それだよ!」
栄口から発せられた一言に対し、まるで天から与えられた助言を扱うかのようにして何度も頷く。
栄口はと言うと、何気無い発言に過剰の反応を示す西広に面食らっていた。やがて西広もそれに気付いたか、小さな咳払いを一つして真剣な表情を繕う。
「っほん!……まあ、そのビリーの話をかい摘むと、ビリー自身が主人格だとして、他に現れる“好ましくない人格”が色々悶着を起こして事件に発展していくんだ」
「へえ」
「マンガみたいな話だな」
「それノンフィクションなんだろ?今度読んでみる」
各々の異なった見解が交錯する。
それによって、軌道を逸れた話題の方向に阿部は内心で毒吐く。一貫性のない話は、阿部の中で常にバッドゾーンの上位キープをしていた。何より身近で起こった日常の出来事を、根拠のないSFじみた話で塗り堅められていくのが釈然としない。
現状苦しんでいるのは、ここから何千キロも離れた地平の人間でもなければ、仮想の存在でもない。西浦硬式野球部員の三橋廉なのだ。それを、まるで既存のキャラクターと同等の扱いをする同輩が俄かに信じ難かった。
阿部の機嫌がみるみる内に降下していく。表情には出さないようにしているが、纏うオーラが全てを物語っている。
初めにそれに気付いたのは、向かいに陣取っていた沖であった。今にも壁を殴りつけ兼ねない阿部の様子に、なんとかせねばと、停止していた脳をフル活動させる。
「つ、つまり……いや、例えばだけど、普段の挙動不審の三橋を主人格として、投手の三橋、やったら綺麗好きな三橋がいるってこと…………うわああああああ!?」
突如、上がった沖の絶叫。封鎖された空間でまず起こりえない現象は、即座にその場の部員全員の身を竦ませた。
騒ぎの発端である沖は無様に床にしりもちを着き、震える指をドアの方に向け「あ、あ……」と母音ばかりを繰り返している。
「……何だよ急に。ゴキブリでも出たの……か」
一早く硬直から脱し、沖を助け起こそうと動いた阿部も直ぐに言葉を失う。
ぎょろぎょろと血走った赤い目が、開いたドアの僅かな隙間から室内を覗き見ていたのだ。
その視点は暫く辺りをランダムに彷徨っていたが、やがて阿部の視線に気付いたのか一点に絞られ、侵蝕するように瞳孔がじわじわと開かれていく。
「……何のハナシ、してる、のー」
ギイ、とドアが押し開かれた先。
そこには普段通り、締まりのない笑みを浮かべた三橋が立っていた。
「阿部君。何のハナシ、してたの?」
じりじりと近寄ってくる三橋と、距離を置こうと後ずさる阿部の対立図が成立する。しりもちを着いたままの沖が目線で他の部員に助けを求めるも、誰一人として動こうとしなかった。動くことができなかった。
「……お前こそ、その目どーしたんだよ」
「こ、コレ?コレ、は、最近少しだけ、眠れなくて……それでちょっと……」
ぴたり。足を止め、ぐるぐると指を回し、言い訳を必死に紡ごうとする三橋。その、いつもと変わらないどもりの口調に内心安堵する。周囲からは、安堵の溜め息。
「……アホ。どーせまた余計なこと考えて夜更かし……」
「阿部君」
はっきりとした発声が、阿部の言葉を遮った。三橋の足が一歩、前に出る。
「今はそんなハナシ、してないよ」
口角を持ち上げ、三橋は笑む。だが充血した目はどろりと淀み、光彩を失った――まるで亡者の瞳。生きた死人。
「オレがダメピーだから、みんな、きっと信じてくれ、ない。でも、すごく汚くて、触れなくて、辛くて……虫が手の上を……肩を……這いずり回るのは……コワイ、ぞくぞく…………わっ、わ、わわ、わかる?あ、阿部君も、そう?わかる?」
『思考、知覚、感情のあらゆる精神面に異常が……前後で繋がらない会話を……マイナス思考……』
『幻覚、幻聴が見える聴こえる……』
中村の声が脳内でリフレインされる。三橋の現状態と、その一字一句がパズルのピースをはめ込むように合致していく。
「み、三橋は疲れてんだよ。寝てないと頭グラグラして幻覚とか見る……」
「幻覚なんかじゃ、ない!」
宥めようと口を挟んだはがりに三橋からの譴責を受け、栄口は言葉を詰まらせる。三橋は頭を抱え、ぶつぶつと独り言を呟きだす。
「……一人じゃない、二人、二人だ、二人いるんだ……。はやく……他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ……」
「ッ、三橋!お前いいかげんしっかりしろよ!」
阿部の伸ばした右手が三橋の左手首を掴み挙げた、刹那。
「うああああああああああ!!!!」
――絶叫が部室にこだました。
「はっ、なしてっ!はなしてええ!イヤだ!はやく、離してよおおおお!」
「ちょっ、みはっ!やめ……落ち着けって!」
阿部の手を振り解こうと全身で拒否し、頭を振り被る三橋。阿部は突然の豹変にたじろぎつつ、それでも三橋を宥めすかそうと手首を持ち上げ、目を見開く。
「かゆいかゆいかゆい!汚い!汚い!汚いから触らないで!あ、あ、やめろイヤだ……!」
錯乱し、恐慌状態に陥った三橋は、もう自分でも何を言っているのかわかっていないのであろう。爪を立て、がりがりと手首を引っ掻こうとする。
そうしてただがむしゃらに、阿部の手を振り解こうと躍起になっていた。
――パンッ!
そして、肉を打つ、乾いた音が部室内に響く。
そこには、頬を押さえ呆然とする三橋と、振り上げた手をゆっくりと下ろす阿部の二人。三橋は何が起こったかよくわからないといった顔をして、定まらない瞳をうつろわせていた。
「……お前の気持ち、よくわかった」
「…………う、あ……」
「嫌いなんだろ、要するに。オレのことが。
おにぎりだって、家行ったのだって、迷惑でしかなかったんだ。……ちゃんと食えなかったもんなあ、お前?マウンドじゃゲーゲー吐き出すしよ。
病気のフリして、そこまでしてオレのこと避けたかったんだよな。
……どうなんだ三橋、言えよ。あ?黙ってんじゃねェよ!ガキみてェにびーびー泣いて済むと思うな!お前みたいな奴見てっと殴りたくなんだよ!」
阿部の無茶苦茶な叱責が三橋の心を深く抉り取っていく。一言放たれる度に肩を震わせ、先程の動とは異なる静の泣きを見せた。
ぽたり、ぽたり。リノリウムの床の上に小さな水たまりを作る。日焼けの目立たない肌が次第と赤みを帯びだす。
「……い、で」
「……ンだよ……」
「も……、これ以上オレに、かかわる、な……っ!」
* * *
三橋が部室を飛び出して直ぐ、田島と泉が入れ代わりで現れた。
「お前ら、サイッテーだな」
軽蔑を含む冷ややかな物言いで一言残し、田島はその場を去った。泉もその後を追った。
他のメンバーは阿部が部室のドアを蹴り、その場から退場するまでの間、金ダライの直撃を受けたかの如く意識を混濁させていたのであった。
* * *
「あ、泉……三橋は?」
「……田島がひっつかまえて様子見てる」
「そっか」
「うん」
「阿部は見なかった?」
「知らねえ」
「……そっか」
「よっす、健全でイカ臭い野球部員諸君」
「中村!」
「三橋迎えに教室行ったらいなかったから、こっち来てないかと思って来たんだけど……ここもハズレか」
「三橋なら、今は田島が面倒見てます。もしかしたら入れ違いで保健室に行ってるかも……」
「あ、そう。わかった。そっち行ってみるわ」
「……中村先生。三橋のこと……マジで頼みましたから」
「おう、任せとけ」
(――……なんだ、この胸騒ぎ……)
一人の少年の懸念だけは晴れず、心の奥底に蓄積するばかり。少年にもその正体はわからなかった。漠然と不安だけが募る。
本当に三橋は統合失調症で、被害妄想の類を見ているのだろうか。それとも実は多重人格で、別の人格の三橋が為したことであったのだろうか。すべてが疑わしく思えた。
『一人じゃない、二人いる』
三橋の言葉が脳内で反芻される。三橋はあの時、助けを求めに現れたかのように思えた。けれど結局踏ん切りをつけることができず、自分の中で考え込み、暴走した。そんな印象を覚えたのだ。
一人じゃなく、二人いるもの。おかしかった人物、おかしくなった人物。態度が、言動が不審に見えた人物。別の人格。
(ヤバい……ヤバいぞ……もしこの推理が当たっていたら……)
その推理には確信など何一つなかった。それでも、動かずにはいられなかった。
「三橋が危ない……!」
結論に達した栄口は部室を飛び出して行く。
その胸中を知る者は、今はまだ、あまりに少なかった。
* * *
――プレイバック――
1~2((空白)、(幕間)の二人の一人称)
あるところに部屋を掃除できない三橋がいました。三橋はいつも誰かに呼び出され、精神及び肉体的凌辱を受けていました。
そして三橋は自分でも気付かない内に何故かキレイ好きになっていました。野球部員の中にはその変化に気付いている者もいて、三橋のことを心配しています。しかし、三橋は隠しごとが他人にバレるのを恐れ、他言にしようとはしませんでした。
唯一、同クラの田島にキレイ好き(潔癖症)であることを見破られましたが、やはり自ら境遇を話そうとはしません。
ところで、今の若い世代が同じ中学出身をオナチュウと呼ぶのを、オナニー中毒のことかと思ってびっくりしました。
田島以外にも三橋の異常に気付いた部員はいました。その部員は副主将であり、三橋のことを一人のチームメイトとして心配していました。
そんなある日、三橋に付き添って行った保健室で見た本が気になった副主将は、本を養護教諭の中村から借り、三橋が強迫性障害(潔癖症)ではないかと突き止めます。そして副主将は部員を一人を連れ、中村の元に相談に行きました。
一方、三橋の症状は悪化するばかり。ついにはキャッチボール中にマウンドで嘔吐し、昏倒する始末。三橋を救ってやる決意を再三にする副主将。
3(三人称)
ところが、翌日になって登校してきた三橋は、前日よりもぼろぼろの様子でした。耳につけているガーゼを気に懸けつつ、浜田が保健室へ連れていきます。そこではカウンセリングが行われました。
そこで中村が出した診断は統合失調症(旧称・分裂病)。授業が終り次第、病院に連れていくことを示唆するも、不審を抱いた阿部は反感を持ちます。
そして午後の部活。野球部員の間では三橋の話題で持ちきり。中でも水谷が提示した『三橋多重人格説』は、西広の多彩な知識も加わり、有力株になりました。
それをあまりよく思わない副主将両名は、反発します。
そんな時、タイミングよく現れた三橋は阿部に「何の話をしていた?」と執拗に詰め寄ります。
最初の内こそ宥めようとしていた阿部ですが、三橋の、心からの拒絶を受けてビンタ。両者共に深い痛手を追い、部室を後にしました。
部内が騒然となる中、ただ一人だけは別の考察をしていました。やがて、自分の中で一つの推理が組み上がると、副主将――栄口は駆け出したのでした。
* * *
(ト書き)
第三者から、再び役者へと視点が切り替わる。
(アナウンス)
『……舞台は…………いかがでしたでしょうか?』
『至らず……大変申し訳ございま……』
『ですが……を見極める必要性など……』
『肝心なのは……ではなく……』
『……を、救いだすこと――……』
(空間)
そう。気が付けば空っぽだった。現実世界に望みなんてなかった。
遠くに見える微かな光も、絶対にあるとは――それでも――だけれど。
憧憬は所詮個人の思いでしかなく、思考通りに事が運ぶ現実なんて存在しえない。だからこそ、人類は砂漠のオアシスを蜃気楼と知っていて、縋る。そして各々の想い描く理想郷を論ずるのだ。口やかましく。
どうして――そう問われれば、失った場所がスタート地点だったとしか言い様がない。
分岐の潰えた十字路にいたのは、“アレ”。
その時、“アレ”自身は暗闇であり、自分にとっては光彩だった。唯一だったのだ。
(空間)
――みにくいアヒルの子が一羽だと、誰が言ったの?
(空間)
人の苦労など露知らず、“アレ”はベッドの上で、呑気に鼾を掻いていた。
連れ去ることは、決して楽ではなかった。“アレ”だけならまだしも、もう一人いたのだから。
これまで指示することなく、思い通りに動いてくれた人物だ。あとでいい目の一つくらい見せてやろうと思う。
起きろ、と肩を揺すると寝返りを打つ。口の端からは、涎。相変わらずだらしのない“アレ”。
シートからカプセルを二錠。口に。コップの水を口に。そのまま口唇を重ね合わせ、腔内のものを舌で無理矢理押し込める。
こんなものと口を付けて、病気にならないだろうかとか、そんなの、今更。
水はほとんど、隙間から溢れてシーツの染みに変わる。錠剤だけ飲み込ませられれば良かった。
「ん……んっ……」
息苦しいのか、鼻に掛る吐息が上がる。煩わしく思いながら、押し込めた舌で腔内を探ると、目の前の顔に色味が帯びた。
もう一度、起きろ、と覚醒を促し、頬を軽く叩く。厚ぼったい瞼が押し上げられ、虚ろな眼差しに晒される。
舌、と指示を出せば、拙いながらもその通りに絡めてきた。そう教えたのだから、当然だ。
「ふうっ、んむ……っ、んぅ……」
敏感な部位である舌先を甘噛みすると、早くも色艶めいた声が上がった。今までの経験に相乗し、薬も効果を表しているようだ。
互いの混ざり合った唾液が顎を伝い落ちる。ちゅくちゅくと、漏れる粘着質な音はあまり好ましいと思えなかった。
いい加減ダルくなり、顔を離そうとすると“アレ”の手が首に回された。これが恋人のとる行動だとしたら、さぞ寵愛の対象になったことだろう。
けれど、違う。この行為は口付けを深めるものでも、ましてや誘うものでもない。
“アレ”の脳は非常に単純に構築されていて、キスが終れば非道徳な暴行が始まると認知しているのだ。だからこそ、“アレ”と口付けを交す時間は長めになる。
「……やめろ」
「ふ、あ…………ま、まだ……」
「いいから、やめるんだ。三橋……」
未だ、名残り惜しそうに口唇に舌を這わせてくる存在。
これを愚かと呼ばず、一体何と呼ぼうか。
(空白)
キスが終ったら、また繰り返される。
終らなければ進まない。進まなければ終らない。でも、終って、また始まることが怖かった。
ペロペロと犬みたいに舌を這わせて顎を舐める。無理矢理引き剥がされる。
ばすん!
ベッドのマットが衝撃を抑えてくれたから、背中は痛くなかった。
ぱちり。誰かと目が合う。それはよく知った人だった。身長はそんなに高くなくて、同じクラスで、同じ野球部で、いつも一緒にいてくれる人。
なのに、どうして。
この手を伸ばすことも、名前を呼ぶことも、できないのだろう。
(幕間)
まさか、どうして。
けれど、やはり思った通りだった。
下校時間なんかとっくに過ぎてる学校の保健室。そこに絶対いる筈のない三橋を見つけた。探し当てた。
手掛りなんかなかった。すべて直感だった。
様子のおかしかった三橋。噛み合わない言動。嘘をつく必要性。そして、あの時の――……調べてみれば、直ぐにわかることだった。
ただ、それを知ってしまったことが、今後三橋を傷付ける材料になりそうで恐ろしかった。決して、興味本意で知りたがった訳ではないと、どうすればストレートに伝えることができるだろうか。
いや、今は目の前の事態を収集することの方が先決だ。
とは言え、現状が掴みきれていない今、下手に動くのは禁物だ。午後の三橋の様子を見た後では、警戒心も強まっているように思える。
とりあえず、様子見とばかりにドアの後ろに身を潜め、中を窺う。
――そこには、二度目の“まさか”があった。
明かりの消えた薄暗い室内。見間違え、もしくは目の錯覚と片付けてしまうのが一番理論的だ。
だけど、見えてしまったのだ。
三橋と、もう一人いる三橋の姿を。
(空間)
薬の効果が出てきたのか、“アレ”の頬が次第に赤味を帯びだす。顔を近付けると、ハアハアと、間隔が短くなった息遣いが聞こえる。
犬か、お前。犬なら犬らしく、主人に尻尾振ってりゃ上等。
「言われなくてもわかるだろ?」
「……は、はい。仰せの、ままに」
きっと意味もわからず、教えられた台詞を、教えられた通りに言っているのだろう。出来損ないの三流役者以下の棒読み、舌ったらず。むしゃくしゃしてくる。
あんまり腹が立つので、のたのたと腰に掛けられる手の甲に、持っていたマグカップからコーヒーを垂らしてやった。
ぎゃ!と、まるで化け物そのものの叫び声。
その声に気付いたのか、隣の空きベッドの上の影がゆらりと揺らめく。そうでなくとも、代謝機能に優れた奴だ。これだけ騒いで、気付いていない筈がない。
丁度、“アレ”はスラックスと下着を脱ぎ下ろすところだった。シャツはそのまま。これも躾の甲斐。
甲を口先でもごもごと啄みながら、ごめんなさいごめんなさい、と小声で謝罪を述べている“アレ”。煩わしかった。
「……なあ、もう起きてんだろ田島ァ。お前もこっち混ざれよ?」
(空白)
うー、うー。
声を塞がれて、唸っているような音、衣擦れ。
やっと、この暗い部屋に目が慣れてきた。灰色っぽい視界の中、ぼんやりと浮かび上がるベッドのパイプ、白いカーテン、机、椅子。
隣のベッドにいたのは、田島君だった。田島君は、口にガムテームを貼られ、手を背中で纏められ、両足首をビニールテープでキツく縛られている。
それでも、田島君は田島君だった。
よくわからないけど、普段と雰囲気が違う。バッターボックスでピッチャーを睨んでる時みたいな真剣さ――ううん、それとはまた少し違った怖さがある。
視線だけで人を殺すようなとか、聞いたことがあるけど、今の田島君はそれができそうだった。睨まれているのは……じゃない、違うのに震えが止まらなかった。
止まらなかったのは、震えだけじゃない。
昼間、掻き過ぎてひっかき痕が残った手首。いつの間にか、また掻いていた。かゆかったから、どうにかしたかったから。
バリバリバリ。
(空間)
隠そうとしてるけど、バレバレ。
喧騒から外れた夜の校舎。それもこんな密着している状態で、だ。爪が肉を掻く音なんて些細なものだって、それはそれは鮮明に聞こえたわけで。
「まーた症状出てんのか、お前」
「っ……で、出てませ」
「嘘つけ。……あーあー、手首から血出てんじゃん」
「っ……」
肌に舌を這わせ、舐めあげる。生臭さと鉄の味。不愉快だった。
「言ったよな、目の前でそれすんのやめろって」
何度も、何度も。
「ごめんなさっ、ごめんなさ……」
「っぜーな。キレイにしてやっから、こっち来な」
それでも、まだ蹲ってグズグズ。この鬱陶しい性格は、いつまで経っても治る兆しが見えない。ホント、何の為に西浦まで来たんだ、コイツ。
「ほら、おいでよ」
できるだけ、優しく言ってやる。すると、ふらふらと近寄ってきて、胡座の上にぺたりと腰を下ろす。背中を凭せてくるので尻肉を抓ってやる。不細工な顔を更に歪めて、痛みに耐えようとしてるのが滑稽だ。
「キレイにして欲しいんだろ?」
力無く打たれる相槌。だから合意の上だ。決して法に反しているわけじゃない。
一度貼り代えられたガーゼを剥がすと、膿が溜って鬱血した耳が見えた。剥がす時にテーピングが触れたらしく、ヒィと小さな悲鳴。
直ぐに、隣のベッドがギシギシと軋む。それで牽制のつもりなのだろうか。早く自分の無力さを思い知れよ、お前。
自分のポケットの中から、細い棒状のものを手探りで取り出す。銀色のそれは、ワイヤーを曲げて作られた耳掻きだ。
「ッがァああああ……!!」
「はーい、痛くないですよー」
付けっぱなしのピアスを引き抜こうとする。これが腫れ上がった肉が引っ掛かり、なかなか抜けない。何度も錐状のピアスを引っ張っては、もう一度深く刺す。再生しかけていた組織が破壊され、膿と血が混ざったものが手を汚した。
「あっ、あ……もう痛いィィィ、のっ、イヤ……っぐゥゥゥゥ!」
ズッ、と勢いつけてピアスを抜く。痛みのあまり、顔を伏せ、肩で呼吸していた。耳の内側、軟骨に開けたものだから、穴に血の溜りができている。望み通り、キレイにしてやろうと思う。
「っぎィイイ……っ」
ピアスホールに耳掻きを突っ込み、膿を掻き出してやる。ゆっくり丁寧に掻き回す。これもキレイになりたい奴のため、最高の慈善活動。
隣がバタバタ煩いけど、お前の出番は――まだ、これから。
(幕間)
ベッドのスプリングが軋む音と、三橋の絶叫が交互に聞こえる。
三橋は何をされてる?三橋を助けるには、どう動けばいい?
頭の中がごっちゃになっていた。
助けなければいけないのは、わかっている。その為にここにいるのだから。それは何が何でも、遂行しなければならない事項だ。
でもそれ以上に、この非日常の空間にいることが恐ろしかった。
(空間)
さっき尻を抓られたのも忘れ、ぐったりと背中を預けてくるバカ一匹。その、だらしなく開いた口端から涎が溢れ、顎の輪郭を伝ってふとももに落ちる。
ピアスホールにもう一度拡張用ピアスを突っ込む。ビクン!と、お決まりの反応。
ふと見ると、足の合間のブツが反応しているのに気付く。神経の集まる耳も性感帯だ。だからと言って、痛みだけで勃起する真性のマゾヒストはコイツくらいのもんだろう。しかも、皮被り気味の亀頭は、もう既にてらてらと濡れている。
「じゃ、次な」
「っ、そっち、は……っンあ……!」
背後から覗くようにして、皮を指で摘み、内側を耳掻きで軽めにくりっとひっかく。シーツに耳掻きの先を擦りつけるとカスがこびりついた。何度か繰り返しやってやると、それに比例するように生っちろいペニスも膨らんでくる。
「い、っ……た……」
痛いと言いながら、しっかり濡らしてやがる。小さな穴は粘液を垂れ流し続けていた。
折角だから、こっちも。
「ひいいいいッ!!」
鈴口に耳掻きの先端をずぶりと捻じ入れた途端、やかましい悲鳴を上げられる。この状態で黙れと言っても、どうせ黙らないだろう。
ならば、押し込んでやるまでだ。先端の返しの部分で掘り進むようにして、少しずつ、つぷつぷと侵入させていく。排出する器官を逆流される感覚は、強烈な痛みとなっているのだろう。
「ああ……ムリ、むり、ですゥゥ……も、無理ィ……っ!痛いのォ、ち、ちんちんのさきっぽ、痛いの……痛くて死んぢゃう……!」
手足の先を痙攣させながら、訴えられて別に悪い気はしなかった。
頭を撫でてやり、笑いかけてやると“アレ”はきょとんとして、次にほっと息を吐いた。それを見て、手の中の耳掻きをぐりっ、と反転させる。
「ッンァああああああ!!!!」
鈴口の中から耳掻きを出す。くぴゅ、と溢れ滴る赤の入り混じった白。
「キレイになってよかったね」
それすら既に上の空。開けっぱなしの口から、だらだらと溢れる唾液。鼻孔から鼻水。
汚らしいものへの嫌悪から、顔に床拭き用のボロぞうきんをなすりつけてやった。なんというヒューマニストなオレ。
次に目を付けたのは臍だった。シャツを持ち上げ、腹部にぽちっと存在する窪みに耳掻きを沿わせる。たったそれだけのことで泣き出す。
奥へ奥へと、そして、くるりと捻る。皮膚を巻き込むように、くいくいとひっかく。ひうっ、と小さな悲鳴。
出るわ出るわ、臍から白っぽいカスがたんまりと取れた。
臍への刺激は下腹部に直撃するらしく、暫くカス取りに専念していると、ペニスがゆるゆると勃起する。
細身で小柄のくせして。毎夜毎晩弄び続けたのが原因か、性器の周囲には、独特のクセがついた毛がちゃんと生え揃っている。
「やめて、みないで」
止めろと言われると、止めたくなくなるのが人間の性というもの。
しかし、キレイにすればするほど、空になり、何故か虚しく。
そこには、虚しさを削ぎ落とすナイフなんて無くても、毛を剃り落とす剃刀くらいはあった。
シェービング用のジェルを垂らす。ぴくぴくと震えるペニスと二つの睾丸。その上にまんべんなく垂らす。ぼたぼた垂らす。
「じゃ、剃っから。動いたらチンポごと剃り落とす」
「やめっ……も、ホントに嫌なんで、す。バレちゃう、よ、おしっこ、行けなくなっちゃ……」
「行かなきゃいいじゃん。教室で漏らせば?――したら、あいつが面倒見てくれんだろ」
相変わらず、隣のベッドで暴れている田島。一瞥くれると、射抜く勢いを秘めた殺気で返された。
ちゃりちゃりと、毛が剃れる。わざとペニスに刃をひたひたとつけると、“アレ”は目の奥から涙を溢れさせた。ぼたぼた溢れさせた。
「っ、く……む……」
ジェルと毛の混ざったものが、シーツを汚していく。それを人指し指で掬い取り、用意しておいたものに付けてやる。そろそろ、腹が減った頃だろう。
「ハイ、昆布おにぎり」
ああ、なんというエコロジストなオレ。
(空間)
――なみだの数だけ泣き方があり
、涙を流すだけが泣くことではなく。
(空白)
口の中には、まだじゃりじゃりとした感触。毛が喉奥に絡み付いて、軽く咳込む。
どろどろジェルの“のり”っぽい甘味と、お米のでんぷんの甘味の相性は最悪だった。
カルピス飲んだ後に喉に絡む、ぬめぬめした“たん”がずっとまずくなったもの。そんな感じ。
なんだか股の間がすっきりと言うか、ちくちくと言うか、とにかく違和感たっぷり。
あとは耳がじくじくと痛かった。ちんちんの先っぽがひりひりする。お腹の真ん中がじわじわして、体中が異変だらけ。
手首がどうしようもなくかゆかった。例えるならヘドロの水槽に手を突っ込んだような、気持ちの悪さ。嫌悪感。
更に、こんな時でもどうしようもない思考回路は、まだ嫌悪感情が湧き上がることを嬉しがっていた。
男なのに女みたいに犯され続け、罵倒され、ゴミのように扱われることの繰り返し。
いつからか、それらが“当たり前”として日常に組み込まれていた。
学校に行って、呼び出しを受けることが当然になっていた。それはもはや義務だったのだ。
三星時代、学校に通うのが億劫に思えた時があった。でも、中学は義務教育だった。
イヤだと思っても、それがやらなきゃいけない義務なら、やるしかない。
逆にマウンドに立つことはスキだった。スキだったから、エースを譲れなかったマウンドを降りなかった。エースはマウンドに立つのが常識、それはある意味――義務だ。
こうして一度義務に縛られてしまえば、あとはそれに従うのみ。
だって、自分から行動するのが怖かった。何かをして、失敗したり、これ以上嫌われるのが怖かった。
スキもイヤも、義務なら、誰かに課せられたことなら、何かあった時、その誰かにも肩代わりしてもらえる。
マウンドでの義務は、こうして西浦に繋がった。通学の義務があったから、西浦で野球を続けられた。
誰かに指示されなきゃ動けないなんて、そんなのすごくカッコ悪いと思う。でも、自分が行動した結果、誰かに不快な思いをさせて嫌われるくらいなら……。
嫌われたくない、野球を続けたい。
でも野球、続けられるのかな。
投手のために用意されたマウンドを汚したのは、他の誰でもない自分自身だと言うのに――。
キレイにすれば、まだあそこに立っていられるだろうか。
だったら、キレイにしなきゃ、気付かれないように。
キレイにしなきゃ、傷付かないように。
(空間)
田島の拘束を解いてやる。
勿論、逃がす為ではないし、こいつにメッタ打ちにされる気もない。
「下手な真似したら三橋の腕折るから」
本気だとの示唆として、“アレ”の腕を背中側に捻じ曲げてやった。
骨の軋む痛みに苦悶を浮かべる姿。田島は目を逸らしている。
腕に力を込めると、意味を為さない謝罪と絶叫が響く。田島の表情が一瞬歪み、そして静かに相槌を打った。
おとなしくなった田島に、エタノールを染み込ませた綿棒を渡す。
最初は訝しげな顔をしていた。だが、“アレ”に犬這いで尻を向けろと指示したら、漸く意図が掴めたのか、顔色を青ざめさせた。
「浣腸は済んでっから、入り口キレイにしてやって」
(空白)
イヤだ。だってそんなの、酷すぎる。
知ってる人。クラスメイトで同じ部活の田島君。
その人にこんな恥ずかしい格好を、場所を見られて――しかも、キレイにしろってどういうこと?
どうして、他の人を巻き込もうとするの?
――……もう、どうだっていいんだ。諦めているんだ。自分がこの先どうなろうと、野球さえ続けていられるなら良かった。
恥ずかしいと思うより、後ろめたい気持ちになるのがイヤだった。
なのになぜ、こうやって嫌われるようなこと仕向けるんだろう。
きっと阿部君には嫌われてしまった。田島君にもこれから嫌われてしまうだろう。
腕折られて野球できなくなるのと、こうなってしまうのと、どっちが正しい選択なんだろう。もう、わからなかった。
シーツの上をガサガサと這う衣擦れの音。背後に人の視線を感じる。田島君だ。
そろそろと、手がお尻の上の方に乗せられる。すごく冷たい手だった。悲しくなった。
お尻にぽつんと冷たい何かが落ちてきた。
「ごめん、三橋、ごめん」
どうして。謝らなきゃいけないのは、田島君じゃないだろう。
でも、その時はなんて言ったらいいのかわからなかったから、黙っていた。ごめん。
(幕間)
携帯に繋がらない。家に掛けても誰も出ない。誰に聞いても返答は同じ。「知らない」「見ていない」「聞いてない」の羅列。
決断までして、ここまで来て。
此の期に及んで、まだ一人じゃ心細いと言うのか。
(空白)
ひんやり。お尻の窪んだところに冷たい感触がして、身体がふるりと震えた。
田島君の吐く息がお尻に当たる。手は氷のように冷たいのに、息は燃えているように熱かった。二人の田島君が後ろにいるみたいだ。
お尻の穴の入り口のところでこちょこちょ動く綿棒。擽ったいようで気持ち悪いような、ふしぎな感覚。
綿棒の先端が皺の一本一本を念入りに這っていく。見られている。
ひんやり。お尻じゃなくて、腕とかお腹とか、胸の辺りに冷たい空気が触れた。
ジョキリ、ジョキリとハサミで布を裁断されている。白い布。シーツじゃなくてシャツ。
するり。元シャツだったものが肩から垂れ下がって、ひらりはらりと床に落ちた。それを目で追って、ゆっくり、視線を正面に向ける。
そこには知っている人の顔。同じクラスで、同じ部活で、いつも一緒の人。
この顔が自分じゃなければ、自分がこの顔じゃなければ――そう願ったところで変わる筈もなく。
だってこれは、隠していたかった(鏡に映った。違う、もう一人の)“オレ”自身なのだから――……。
(もしも、自分が二人いたなら……)
マウンドに立つエースのオレと、いつもの自分。二人は同じだけれど違って、別々の存在。
自分は、ずっとオレになりたがっていた。みんなのエースでいたかった。理想のピッチャーでいたかった。
だけど、いつもの自分は何やってもダメ。ダメなまんまマウンドに立つから、オレはオレにはなれず、自分でしかいられなかった。
そして自分は、オレを逃げ場にすることを選ぶ。自分とオレ、二人の三橋廉を頭の中で創り出したのだ。演じたのだ。
きっかけは、なにかで読んだ多重人格の話。てんでバラバラの事をしても、病気だからってちやほやされてるのを見て羨ましくなった。
勿論、都合よく多重人格になんかなれるわけナイ。だから、そう思い込むだけ。二人いるって、思うだけ。
今苦しかったり、辛かったりしているのはオレじゃない自分。マウンドに立っている時の三橋廉がオレ。
そうやって騙していたのだ。ずっと、ずっと、長い間。それが逃げ道だった。それしかないと思っていた。
惨めな自分は、自分であって自分じゃない別のものだと錯覚し続けていたのだ。
「あ、う……」
鏡の中のオレが泣いていた。田島君にお尻を向けた恥ずかしい姿のオレ。
泣きたいのは田島君の方だろう。
オレが泣いたり悲しいとか悔しいって思うのは、なんておこがましいことなんだろう。
オレはもう、マウンドに立っているだけのエースじゃない。こんなの、理想でもなんでもない。
自分とオレは二人でひとつ。多重人格になれたって、別々になんかなれやしないのだ。
証拠として、ここにこんなにも汚れてしまった人間がひとり。それが事実。
(幕間)
秤のように傾いて、ふりこのように揺れて。
どっちつかずの心は、まだ決め兼ねている。
救うことが正解なのか――それとも現状を維持し、変化を待つことが得策なのか。
歩みが止まる。あと一歩。踏み出すための理由を足が欲しがった。
キレイゴトだけじゃ駄目なんだと、近付けば近付くほど冷静に働きだす思考が訴える。
三橋が色々隠してきたのは、自身の性格と周囲の環境を考えてのことだろう。
事が事だけにおおやけになれば、部の存続すら危ぶまれるかもしれない事態。
――……望むだろうか、あいつが。
他者の落胆の引き金となることを、自ら望むだろうか。
かと言って大人に助けを求めるのは、あいつの自尊心とか決断とか、ずっと耐えて受け入れてきていた全てを否定し、
壊してしまう結果に陥りそうではないか。
どうしたって不安だ。悪いことばかりに考えが傾く。こんなの、らしくないとわかっていても。
救いになると信じて差し延べる手が、咽笛を握り潰すとどめになりそうで恐ろしかった。
( )
嘲笑に胸を焼かれ、罵倒で脳髄を焦がし、虚勢が全身を満たす。
空蝉と化した肉体の中身なんて、そんなもの。不必要なものだらけ。
パンドラのように希望が残されているわけでもなければ、置き去りにした名残りがあるわけでもなく。
どす黒いものばかり溜る。容量を越えて、あふれて、それでもまだ注ぎ足される。
こぼれたものは足元を浸蝕し、内側と外側からじわじわと、
まるで砂壁をスプーンの裏側で、ガリガリと削り取るように破壊していく。
脳内麻薬――エンドルフィンの過剰分泌。痛覚の伝達すら、歪め、緩和してしまう。
このカラダは、何も感じない、何も感じられない、何も感じたくない……と、願う、願えば、強く願った。懇願した。
【診断結果、サクリファイス。自己犠牲からなり立つ、自己の保身。周囲への恐れ。】
(空白)
だから今、身に起こっていることなんて、全部うそっぱちのニセモノのよう。
命令されて、田島君の手が前に突き出される。二本の指が摘んでいるのは、お尻の穴をくりくりしていた綿棒。
綿のところが黄ばんでいて、それを見て顔がカッと熱くなるのがわかった。
恥ずかしい、死にたい、苦しい。できるなら、ここから今直ぐ逃げ出してしまいたい。
だけど、そんなことは到底許されるわけなくて、それがわかっているから、尚更苦しかった。
でも、もうダイジョウブ。腫れた目瞼が重くても、涙なんて一滴も溢れなくて、それどころかちょっと眠いくらいに思えてる。
最初になくなったのは、悔しいって思うので、次になくなったのは、逃げようと思う、の。
慣れた。だって何をしたって言ったってされたって、この先が辛いことには変わりないのだろうから、反応するだけ疲れてしまう。
だから、あとは何にも考えなければいい。黙って、従って、時々嫌がるみたいなフリして、満足させればいいんだ。
そうすれば、相手も慣れてきて、慣れはいつかきっと飽きる方向にいくんじゃないかと思う。
それまで根気強く、待つ。耐えるのも待つのも続けるのも、今までずっとそうだったから、得意分野だ。
ダイジョウブ、まだ負けてない。まだ、続けられる、ココロが何も感じなければ、続けていられる。
今まで通り、投げ続けられるよ。マウンドに立てる。野球ができる。
ダイジョウブ――辛いことなんて手を洗ってすっきりすれば、みんな水に流れて忘れられるから。
可哀想なのはオレじゃなくて、田島君。
田島君は、オレのせいでこんな目に合ってしまって、巻き込んでしまって。
違う、いやそうだ。田島君だけじゃなくて、チームのメンバー全員巻き込んでしまってるじゃないか。迷惑かけたじゃないか。
どんなにやりたくても、続けられても、必要とされてなきゃ、オレはゴミ以下の存在価値にしかならないだろう。
そういえば、前に言わされて、言った覚えがある。びりびりと痛む耳に触りながら、思い出す。穴を開けられたあの日。
傷口からじわじわ拡がる痛みが思い出させてくれる。
「オレは……チームのエース……やってちゃ、いけない……?」
ああ、やっぱり。このチームに必要ないのは、十三人目のたったヒトリだけ。
ごめん、シュウちゃん。
(空間)
人間という生き物は、一時の幸せを堪能するより、一秒の不幸を回避しようとする思考にある。
例えばの話。一般家庭に育った子供が高級フランス料理を食べて、舌がとろけるような逸品を味わったとする。
脳はフランス料理を美味いと認識するだろう。しかし、翌日も食べようとは思わない。
平凡な家庭で育った子供は、意識レベルで高級料理を日々の食卓に望む環境にいないことを、悟っている。
人々はこれを環境に順応すると言う。それは決して悪いことではなく、寧ろ称賛されるべき能力だ。
美味いものを毎日食べ続けるより、質素でも腹に溜る食事を確実に消化することを、大抵の人間は選ぶ。
それが生命力であり、現代風に言い換えるならば生活力になる。
人は知らずの内、自身の生命を長らえさせる術を取ろうとするのだ。
人は喜びや楽しむといった、正の感情より、悲しみや怒りの負の感情を、強く根深く心に宿す。
負を知って、それを忌避しようとする。だからこそ、負は消えない。記憶される。
だとしたら、負の感情で覆い尽された場合に人はどう変わるのか――興味深いところである。
(幕間)
考えた。どうすれば誰も傷付けず、誰かを救うことができるか。
けれど、それは無理だった。何度頭の中で考えてみても、結局は傷付けてしまう。
被害者がいて、加害者がいる関係なら、どちらか一方を救えばどちらか一方は必ず傷付く。
何か理由がある。そう信じたい。だって仲間だ。このチームで今まで良くやってきたじゃないか。
――一人じゃなく二人いるのは、副主将?
――ちゃんと食べれず、吐き出したのはおにぎり?
――態度を急変させた。心配する真似をしていた?
「なあ、お前なんだろ……阿部……!」
安否の知れない田島と三橋。そして姿をくらませた阿部を追って、走る。膝を叱咤する。
吐く息ばかり熱が篭って、指先の感覚が失せて冷えきっていく。
どうして自分はこう肝心な時にいつも、臆病なのだろう。失笑。そして暗礁に乗り上げる脆弱なこころ。
――確信に到って、拭えない違和感があるというのは……気のせいだといいのだけれども。
(空間)
一般に人は肉体の痛みより、精神における苦痛に弱いと聞く。なのでまずは、肉体に痛みを与えた。
割り開かれ、捻じ込まれ、暴かれる痛みと屈辱。相当なストレスになったと予測。
ちくちくと、直ぐに壊れてしまわない程度にダメージを与え続ける。それは精神にも影響を及ぼす。
けれど、これはまだだ。まだ、精神面への痛ぶりは開始したばかりなのだ。
日頃の動向から察するに、インフォーマントは対人関係に過敏気味の傾向がある。
人の欠点を見い出さない・人に嫌悪しないというのは、逆に自身をそういった評価の対象に見て欲しくないという現れ。
ならば、それらの危惧を順ぐりにぶつけてやればいい。心を許す友人に嫌悪されるようなことを、させてやればいい。
友人の田島に肛門の皺を延ばされ、消毒され、最後の砦――つまらない自衛概念が創り出した虚像の人格――を崩してやる。
「……エース……やってちゃ、いけない……?」
瞳孔の開き具合い、呼吸数から見て心身へのストレス過多は明白。
ごそり、と音。まさか、気付かれていないとでも思っているのだろうか。
それにしても、上手いこと突き落とすに適正な役者ばかりが揃ったものだ。
神が味方したのか、それとも悪魔かついたか。
どちらにしろありがたい。これから、また面白いものが見れる。
「なあ、そこにいんの、わかってんだよ。
――とっとと入ってこい…………阿部」
動揺が空気を伝って、届いた。
(空間)
――お友達は誰と誰?
(アタラクシアを追求し、幕間を奔走し続けるのは一人じゃなく、二人の役者)
(幕間A)
走る、走る、ひたすら走る。目指す目的地は学校。
もうそこぐらいしか、思い当たる場所は残されていなかった。
どうか、無事でいてくれ――と願った途端に下っ腹に鋭く走る痛み。
常識的に考えて、腹を下してる場合ではないだろう。
(幕間B)
急に名前を呼ばれ、心臓が口から飛び出るかと思ったくらい驚いた。
どうする?素直に応じるべきか?それともしらを切るか?
考えあぐねたところでまた声をかけられる。
「来ないならいーよ。三橋の腕折るだけだから」
……出ないわけにはいかないだろう常考。
頬を叩き、喝を入れ、覚悟を決めて挑む。
あいつが自ら、後戻りできないところまで後押ししてくれたのだから、甘んじて受けとってやる。
一歩踏み出す。もう一歩、進む。相手の姿が現れる。くたびれた白衣のあいつ。
「……教師が生徒に体罰していーんスか」
「あー、最近の親御さんは学校で何かあると直ぐにそう言い出すよなあ。
おめでとう。お前にはモンスターペアレントの傾向がある」
「……そりゃどうも、中村先生?」
アメリカンっぽく肩を竦め、中村は苦虫を噛み潰したような顔をした。いかにも演技だと丸わかりな、胡散臭過ぎる対応。
「先生、役者向いてないですね」
「自分でもそう思う。でも、舞台に立つのは今回はお前らだから」
何のことかと思うより早く、背後に回った中村に腕を捻じ上げられる。軽口の叩きあいについ油断していた。うっかりだ。
あっという間に後ろ手に縛られ、身動きが取れなくなる。手慣れていた。
当たり前と言えば、当たり前なのかもしれない。この男は三橋だけじゃなく、あの田島の動きさえ権勢できているのだ。
体格はあちらの方がやや優れている程度。元々基礎身体能力が高いのだろうが、それだけじゃない気がする。
底の知れない何かが、執拗に中村を駆り立てている。纏っている雰囲気からそんな風に感じた。確証はないけれど。
「っ!……こんなことして、何するつもりだよ。オレに口外するなとでも、脅しかけるつもりか?」
「半分あたりで半分はずれ。脅しをかける相手はお前じゃない……あいつだ」
中村が顎でしゃくった先に三橋がいた。三橋は、まるで自分が指名されたことがわかっていないようで、虚ろな視線を返してくる。
その横で田島は小刻みに震える腕を抑え込んでいた。わかっている、田島も、そしてオレも。
無防備なように見えて中村が罠を張っていること。仕掛けたら、三橋が更に危険に晒されること。
そして……。
「三橋、お前もこっちに来いよ。痛ぶられるばかりじゃなく、痛ぶる面白さっつーの……教えてやる」
既にその罠は、この場にいる全員を纏めて取り込んでしまっていること。
(空白)
阿部君が出てきて、先生に捕まって、オレは呼ばれた。
田島君が気を付けろと小声で言ってくれたけど、何をどう気を付けたらいいのかわからなかった。
だから、ベッドから降りて歩くだけ。上履きは見付からなかったから、裸足。
爪先が冷たくて、踵も冷たくて、頭の中がちょっとだけすっきりした気がする。
そうやって、阿部君まで深いところにまで巻き込んでしまったこと、都合良く忘れようとしてる。なんて浅ましいのだろう。
ふらり、ゆらり、近寄って、ぱしっ、ぐっ。
何かをてのひらに押し付けられた。なんだろう。そう思って見ると、金属バットだった。
どうしろって言うんだこんなもの。
ほんの少しだけ残しておいた気力で先生を見上げる。今出来る限りの精一杯の威嚇、抵抗。
「それで阿部の骨、どこでもいいから一ヶ所砕け」
抵抗なんてするだけ無駄。改めて、思い知る。なんて無力。
(空間)
「……で、きませ……」
「あ?ちっとも聞こえねえよ。もう一回」
「む、りで……す……」
「もう一回。次聞こえなかったら、どうしようかなーっと」
「ッ、オレに、は……オレにはできません……!」
バットが三橋の手をすり抜けて落ち、カランカランと無機質な音を立てて転がった。
揺れているのが手に取るようにわかる。あと二押しほどしてやれば、崖を転がり落ちる範囲まで来た。
阿部の腹を蹴って転がす。それだけで足元に縋り付き、頭を床に押し付け尻を振りながら謝り続けている。
「ごめんなさいっ、ごめなさ……お願いします、他のコト、なんだってします、から、阿部君は関係ないですから……助けて、お願い……」
それを聞いて、天使が浮かべるような笑みを見せてやる。阿部が言う胡散臭い演技とやらで、たっぷりと……。
「わかった。お前ができないなら……田島にでもやらせるとすっか」
もちろん、見開かれた瞳に映るものが絶望以外のはずがなく。
(空白)
先生がバットを拾い上げ、田島君に渡そうと近付いて行く。気付いた田島君は身構えた。
阿部君は、どこか観念したような顔に見えた。駄目だ、阿部君がそんな顔しちゃいけない。まだ、諦めてほしくない。
阿部君と目が合う。阿部君は言葉にして喋らなかったけど、口唇がぱくぱくと動いて、何かを知らせようとしてくれている。
(ダ・イ・ジョ・ウ・ブ……?)
ニカッ。そんな効果音が似合いそうな笑顔を阿部君は見せてくれた。
どうしてだろう。どうして、こうまでしてオレを励まそうとしてくれるんだろう。
胸と頭がずきずき痛くて死にそうになる。いっそ、ここで死んでしまえば楽なのだろうけど、そんなの無理だ。
田島君に近付いて行くあしおと。バットが田島君の手に渡ったら、田島君をまた深い深いところまで巻き込んでしまう。
阿部君ならいいのか?違う、そんなことじゃなくて……もっと根本的なことだ。
田島君を巻き込むのも、阿部君も巻き込むのも、これっきりにしたかった。
枯れたと思った涙がぽろりとこぼれる。
悲しくて、恐ろしくて、こんなことしか選択できない自分がバカすぎて。
「…………オレがやりま、す」
ごめんという言葉は、全部終るまで待っていてくれますか。
(幕間B)
そう。それでいいんだ。
それが三橋が決断した結果なら、骨の一本くらい安いものだと思う。
こんな状況にいて、内心ほっとできる自分の気が知れない。狂っているのかもしれない。それでも良かった。
気付いてやれなかった報いだ、これは。三橋に巣食う病巣に気付いてやれず、放置していた罰なんだ。
それに残されるのが田島なら、なんとかやれるような気もした。順番がこれで良かった。
良いとか、良くないとか、本当はそんなことを考える権利すら無いこの身。とっくの昔に自由は剥奪され、動けなくなっているのだから。
さっきから体が震えるのは、骨を折られる痛みが怖いとか、そういうのじゃない。武者震いに近い部類だ。
震いと部類の語感が近いけどシャレとか、そういうのじゃない。偶然だ。
ふと視線を上げると、バットを振り上げた三橋がぐずっているのが見えた。それがなんだかおかしくて、笑ってしまう。
お前、そこまでできたんなら最後まで責任持てよ。覚悟したんだろ?
「……やれよ、三橋。オレはもう、覚悟出来てっから」
(幕間A)
しん、と静まりかえった廊下を歩く。
この時間だから、警備とかの問題で校舎内には入れないと思っていたけど、渡り廊下からすんなり入れてしまった。
西浦の警備システムに不安を覚えつつ、ゆっくりと足を運ぶ。
コツコツと後をついてくるのが自分の足音だってわかっていても、やはり夜の学校は少し気味が悪く感じる。
携帯の液晶の光で足元を照らしながら、一歩一歩確実に進む。暫くすると、薄暗い中にぼやんと白い表札が浮かんだ。
携帯の画面を向けた。
『保健室』の三文字。体調が悪い時や怪我した時に頼って訪れる場所なのに、今は何故か頼りなく見える。
この中に阿部や田島や、三橋がいる(かもしれない)。
そう思うと、いつも顔を合わせるチームメイト相手だと言うのに鼓動が早まった。手が汗でぬるついていた。
口内に溜って唾を飲み込み、ついでに大きく深呼吸をして扉に手を掛ける。
「……だっ、誰かいるのか!」
ガラララララ。あっけなくスライドした扉に心臓が一際強く脈打つ。
鍵が閉まってて開かなくて、中には誰もいなくて――……そんなシチュエーションを予想していたからだ。
予想は見事に打ち砕かれた。しかし、保健室の中は想定の内の、最悪のものとも違っていた。
「……誰かいますかー」
返事なんかないとわかっていても、聞かずにはいられなくて声をあげる。
部屋には、誰もいなかった。阿部もいなければ田島もいないし、三橋もいなければ中村先生もいなかった。
教職員だってとっくに帰宅している頃合いだ。当然だ。この部屋におかしいことなんて何一つないじゃないか。
でも、気付く。気付いてしまった。
薬品類を置いてある部屋に施錠をせず、帰ることはありえないだろう。
施錠する側だって人間なんだ。万が一、忘れていたという可能性もあるが、あの人に限ってはありえない気もした。
ガタンッ!
「ひいっ……!」
突然聞こえた物音に今度こそ寿命が縮まった。しかもその音は今もまだ、どこからともなくガタガタと聞こえてきている。
どこから?いったいどこから聞こえてくる?
得体の知れない恐怖に身を竦ませながら、辺りを携帯のぼんやりとした明かりで照らす。
ベッドの下や物陰のうしろから、殺人鬼が飛び出してくるのではないか。
そんな緊張で胸を押し潰しながら詮索する。
すると、またしても気付いてしまった。出来れば気付かないフリをしたまま、ドアから逃げ出してしまいたかった。
掃除用具入れの中から、ガタガタと何かが動く音がしている。中に誰かいるのだろう。
けれど、立て掛けてある箒がつっかえになって、中からじゃ戸が開かなくなっているのだ。
そこまでは瞬時に理解できた。理解できても、まだ恐ろしかった。
中にいるのは三橋かもしれないし、田島かもしれないし、阿部かもしれない。もしかしたら、別の誰かかもしれない。
中にいるのが必ずしも友好的な存在とは限らない。戸を開けた瞬間、ナイフで殺されてしまう危険だってある。
それでも、もう無視できる状況にいないことだってわかっていた。どうにかしよう。してみようと思う。
キリキリと痛む下っ腹を擦りながら、出来るだけ足音を立てずに掃除用具入れに近付く。
こちらの接近を気付かれないようにするためだ。
こうしておいていきなり戸を開ければ、たとえ中にいるのが殺人鬼だろうが阿部だろうが、
不意をつかれる形になって襲って来れないだろう。
胸に手を当て、浅く呼吸を何度も繰り返して、心拍数が治まるのを待つ。
(…………よし)
やるなら今しかないと覚悟を決め、素早くつっかえの箒を取り、金具のとってを掴んで戸を開ける。
ゴロン、ガタガタ!
「っうわああああああ!?」
中から転がり出たものに覆い被さられる格好で、床の上に縫いつけられる。
身動きが取れないのと、いきなり現れたものによって脳がパニックを起こし、わけもわからず手足をバタつかせた。
そして――……目が合う。
「……あ……おま…………阿部、なのか……?」
「…………っ」
答えがないのは猿轡を噛まされているから、動こうとしないのは体を縄でがんじ絡めに縛られているから。
いったいこれは、どうなっているのだろう。
※厨二病三橋注意/病み栄口注意
(空白)
あの、感触が、振動が、手に残っている。
肉に食い込む、骨を砕く、砕いた骨が筋肉を断裂して、音も、声も、なにもかも、まだ、この手の中に残っている。
冷たい呪いのように纏わりつき、離れない恐怖。そして、視線。
覚悟を決めた瞳の奥に映ったもの。それは、逃げ出した弱い自分の姿だった。
そして、阿部君を置いて、移動することになる。シャツはビリビリに切られてしまっていたから、渡された先生の白衣に袖を通す。
車に乗り込む時、かちゃりと何か音がした。田島君と目が合う。笑みを返してくれた。
車が発進する。段々遠くなっていく学校。
阿部君は大丈夫だろうか……なんて、心配する権利だって、どこかに置いてきてしまった。
(三橋、三橋)
田島君の声が聞こえる。小さな声。田島君もオレも、手を縛られているから動くのは不自由。でも喋るくらいは平気。
(守ってやれなくて、ごめん)
違う。巻き込んだのは、守ってあげられなかったのは、オレの方。
(明日から一ヶ月、お前の宿題オレがやってきてやっから許せ。……当ってるかどうかは別として)
違う、違う。今の田島君はちっとも悪くないんだ。気付いてるから、だから気付かないで。
(前にも言ったろ?オレはお前のこと嫌ったりしないって!……それでも不安なら、何度だって言ってやる)
うまく言葉が出てこない。見付からない。
口をこじ開けて声にしたら、苦しいとか辛いとか、弱音ばっかり出てきそうだったから、閉じていた。
(……心配、いらねーよ)
あの時の、朝のメントレとまったく同じ。こうして手を握らなくても、あたたかさを田島君は与えてくれる。無償で授けてくれる。
だからこそ、闘わなきゃいけないんだろう。歯を食い縛らなきゃ駄目なんだろう。だって、ここが踏ん張りどころなんだ。
けれど、もうおわり。
どうしたって苦しいの終りが見えてこないのも、誰かが自分の代わりに傷付くのも全部ナシにしたい。逃げ出してしまいたい。
――感じる。まるで左の手首を蟻が這ってるみたいな、ぞわぞわ。
とっても気持ち悪くて、かゆかった。
かゆかったから、手を擦り合わせるようにして掻いてみる。スリス……バリバリバリ。
(ドナドナドーナードーナー)
車が揺れる。洗っても落ちないなら削り取って、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ
(幕間A)
犯人だと決めつけていた相手と意外な形で再会して、色々と知ったことがある。
――そもそも、犯人ってなんだろう。
阿部の言動がおかしくて、三橋の言動と照らし合わせてみたら、なんだか阿部が怪しく思えた。
それでなんとなく阿部の行方を追ってみたのだけれど、それもよく考えてみれば変な話だ。
元々は、様子のおかしい三橋をどうにか助けてやりたいと思って、偶然見た本にそれっぽいことが書いてあったから、
病気なら治してやればいいと考えたところから始まった。
犯人探しなんて要素はみじんも含まれてない。当たり前だ。病気の原因が人の手によるものだなんて、普通は一つに繋がるわけないのだ。
阿部が三橋に冷たくなったかと思いきや、急に心配しだしたって、その時の気分とか調子とか、考えれば幾等だって理由があがる。
ならばどうして、犯人なんて明らかな敵視で阿部を見てしまったのだろう。
阿部が三橋に何かすると思った。そう理由づければそれで済んでしまうような気もする。でも、そうじゃない。
阿部はそうじゃなかったけれど、違和感があった。人為的な作意を感じた。だから、三橋にこれから何かがあるのではと考え付く。
その結果、やっぱり“何か”はあったわけで……。
自分の場合は推理と言うよりは、第六感に近いものだった。
しかし、阿部の場合は自分なりの推理を組み立てていたらしい。さすがは、西浦の誇るスーパー捕手と言ったところか。
Q.いつ、三橋の異常に気付きましたか?
「様子がおかしいと思ったのは、弁当のおにぎりを分けてやった時」
Q.それはなぜ?
「『食ったか?』って聞いたら、あいつは『梅のおにぎりがおいしかった』って言ったんだ。
あの時あげたのは“昆布のおにぎり”だったのに、そりゃおかしいだろ?
――そん時は食べてないくらいにしか思わなくて、ちょっと凹んだだけだったけど……」
Q.けど?
「ムキになって、あとでその倍のおにぎり差し入れてやったかな」
Q.スイーツ(笑)
――で?
「その後、家に部屋掃除しに来たと思ったらやたら避けられるようになった。
あとは、保健室の前通ったらお前らが話してんの、偶然聞いちまったぐらいか?
そんで刺激しちゃ悪いのかってなって、マウンドで吐いた時は意識して避けようとした。
だけど、あんな奴見て放っとくのも酷だったから、水だけは渡しちまった。吐いたの、オレがやったおにぎりだったし……」
Q.それでは、“彼”が怪しいと睨んだのはなぜ?
「お前も聞いてた通り、まず一介の養護教諭が口を挟む範囲を越えてたから。
次に、ガーゼとテーピングだらけの三橋の耳に穴が空いてるとか言ってたからさ、おかしいと思ったんだよ。
見えないのにわかるわけ、ないじゃん」
Q.……それは、気付きませんでした。
――で?
「これは……あんまり、他人の口から人に言っていい話じゃない。きっと三橋にとって、誰にも知られたくないと思う話だ」
Q.それじゃあ……。
「――…………部室で三橋を押さえようとして、手首を掴んだ。それは左手首だった。それで……見付けた」
Q.何を見付けたのですか?
「手首の、血管の上を走る、スジ状の傷痕」
Q.………………。
「……頭ン中ごっちゃになるよ、あれ見たら。
何て言っていいのかわかんなくなって、三橋も……あんな状態だったし、つい手が出た。それは悪いと思ってる。
その後、冷静になろうとして辺りぶらついてると、これも本当に偶然、あいつの従姉妹に会った。
前に一回顔合わせたことがあって、向こうも覚えてたみたいだったから、チャンスだと思って――……。
昔、三橋に何があったのか、直接訊いてみたんだ……」
(寸劇)
略、略、略、略、略、略、略、略、略、略、略、略、略。
「レンレン……じゃなくて、廉はうちにいる間、ずっと一人だったの。
ううん、私やリューやお母さんもいるから、一人ぼっちとは違う。独りだった。
でも、廉が帰ってくるうちは、きっと廉の居場所にはなれなかったんだと思う」
「おじいちゃんの学校だからっていうのもあって、私や廉は先生たちに普通とは少し違った目で見られることがあった。
向こうは意識してるわけじゃないんだろうけど、なんだろう……過保護とは違う何か……。
それは挨拶のちょっとした語尾だったり、授業で指された時の話し方だったり、ホントに些細なところでわかるくらいの何か。
でも、それこそ普通に授業受けに来てる子にはわかっちゃうんだ。『自分と接するのと何か態度が違うぞ』って」
「私はそれなりにうまくやっていけてた。
特別扱いはずるい!って視線を頭にビシビシ受けても、普通なフリして明るくしてれば、みんなにとけこむことができた。
――……だけど、廉は違う」
「廉はぶきっちょさんだから……。だから、自分がヒイキされてるのをわかってても、うまく自分を周囲にとけこませられなかった」
「……それで、野球部で誰の目からも明らかな贔屓を受けて」
「うん。一人だけ、ぽつんと浮いちゃったんだ。
……わ、私だって、もしそんなやつが一緒の部活にいたら面白いわけないもん。その時はちょっとだけ、野球部のやつらに同情もした。
『うちのレンレンがごめんなさい』って感じ」
「だけど、学校の部活であったことは、部活の中だけで収まる話にはならなかった。
部活で一緒のチームメイトはクラスメイトだったり、違うクラスのやつだったり、先輩だったりする。
……そういうのがクラスで愚痴溢したら……あとは早かった。廉が学校中から孤立するのは」
「先生たちの目があるから、わかりやすいイジメみたいなのはなかった。
その代わり、誰からも無視されるようになる。空気以下の存在に廉は……。
話掛けられもしないし、話掛けてもおばけの独り言みたいに片付けられて……最初いた友達も周りに流されて、いつしか誰も」
「叶はそれでも気を遣ってくれてたみたいだけど、それをよく思わない周りが叶と廉を遠去けた。
……集団生活って、ゾッとするよね。間違ってることだって、みんながそれをしてれば許されることって、勘違いしちゃう……。
言葉の暴力で傷付けられるのも痛いよ?でも、それより“いる”のに“いない”ことにされる方が、ずっと辛くて、痛いコト。
悪口は耳を塞げば聞こえなくなるけど、存在が認められないのは、どうにもしようがないじゃない?」
「廉はそれを自分の所為だって、一人で背負い込んだ。もしかしたら叶や私を頼ったら、巻き込むと思ってたのかも……。
でも、そんな状態がずっと続いて、大丈夫なわけがなかった。廉は……」
「部室でカッターを手首に押し付けて、何度も何度も切ってたんだって」
「だって、って?」
「叶に聞いたの。忘れ物取りに部室戻ったら、電気も点けないで部屋の真ん中に廉が座り込んで……。
『手が野球できなくなれば、マウンドに立てなくなればいい』……そう言ってたみたい。
叶は廉をひっぱたいて、『エースがいなくなったらチームはどうなる!?』って。
それから廉は手首を切ることがなくなって、その時以上に投球練習に精を出すようになった。
まるで投球中毒みたいに、叶のため、チームのために投げ続けた。……あんまり、報われなかったけど」
「自傷行為って、自分を見てほしいって自己主張の現れなんだってね。先生からそう聞いた。
廉の傷だらけの腕を初めて見た時、私は今まで見なかった、目を背けてた――……本当の廉を見付けたような気がした」
「?……ちょっと待ってくれ。その、先生って……」
「……教室に居場所がなくなった廉は、保健室によく逃げ込んでたみたいなの。
あの頃の先生は、たぶん廉の一番の理解者で身近にいた存在だった。なのに、廉の傷には気付けなかった……。
先生はメンタルカウンセリングとかしてたから、そういうの詳しい筈なのに……気付かなかった……気付いてたのかも、だけど……。
レンの一件があってから暫くして、先生は転任することになった」
「――……なあ。もしかして、その、先生の名前ってのは中……」
(幕間A)
阿部の口から語られた生々しい話は、少なくともこの後、三橋と目を合わせて喋る自信を根こそぎ奪っていった。
自分の居場所を、ある日唐突に失くす恐怖を、まだ、覚えていたから尚のこと。
苦しいのも悲しいのも、決して自分だけじゃない。
世界は広いもので、自分より不幸な人たちなんて掃いて捨てるほどいる。
両親共に亡くした子供だっているだろうし、難病を抱えて治療できない人だって、沢山いる。その中で姉弟も父もいて、野球もできる自分は、なんて恵まれたことか。
でも、ふとした瞬間に気付く。隣の席の人間が母に叱られたと愚痴るのを、妬ましく思う自分がいることを。
そして、足元にぼっかり空いた穴に落ちる。自分の居場所を見失う。自分の世界から自分の存在だけが消えていく。
(――……ああ、そっか。だからか)
だから、三橋を助けてやりたいと思った。
チームメイト、副主将、そんなの後回しにしたって、そこにいるのは“一人じゃない”って、教えてやりたかったんだ。
「助けに行こう、三橋を」
神妙な面持ちで阿部も頷く。阿部から聞いた様子から察して、三橋も中村(もう敬称は必要ないだろう)も色々と危ない状態だ。
その上、あの田島まで手も足も出なかったとなると――……これ以上事態が進展する前に、なるべく迅速に対処した方がいい。
……本当は恐ろしかった。殺されるかもしれないって、思っている。でも、それでも。
ひんやりした床から腰を上げる。きっと座っていた場所だけは、生ぬくくなっているのだろう。気を抜けば、またそこに座り直したくなる。でも、二本の足で立って、歩かなくては。
「命張って助けるなら、スタイリッシュな女の人とかの方がサマになりそうだけどね……」
「はは、言えてら。……まあ、今回はダ〇ビッシュ(投手・髪型的な意味で)で我慢しとけ」
顔を見合わせて吹き出す。指先はまだ震えているけど、こうして軽口を叩く余裕も生まれた。一人じゃないことが、こんなにも心強く思える。
しかし、阿部は居心地悪そうに視線を外し、座ったまま動こうとしない。
「どうした、阿部」
「……あー。悪いんだけど、ちょっと先に行っててもらえねェ?直ぐに追い付くからさ」
「…………」
いきなり出鼻をくじく発言だったけど、敢えて何も追求はしなかった。土壇場での腹痛の苦しみは、誰よりも理解しているつもりだ。
「……ん?」
見ると、足元に一枚の紙きれが落ちていた。
今まで気付かなかったのは、暗がりにまだ視界が慣れていなかったのだろう。ゴミかとも思ったけれど、気になったので拾い上げてみる。
「えーと……『みにくいアヒルの子はハクチョウでした』……って何だ、コレ。ヒバリとか、湖とか」
「……そういや、ここ出る前に中村が言ってたな。
『お前は仲間のハクチョウだけど、あの時のヒバリみたいに結局アヒルの子は助けられない』って」
「阿部がハクチョウで、あの時のヒバリ?」
もう一度、拾った紙と睨み合う。
みにくいアヒルの子だったハクチョウを歌で誘うヒバリ。誘うということは、ハクチョウをその場から連れていこうとしたヒバリ。
阿部が打ち解けた仲間のハクチョウ?
みにくいアヒルの子の翼を引いてるのが阿部なら、アヒルの子は三橋だ。
ハクチョウを歌で誘う“あの時のヒバリ”。
ヒバリの正体は、きっと叶だ。
つまり、これは三橋の身辺を表したメモということ。
いったい何のためか――……そう思って見返すと、隅に小さく『三橋/カウンセリング結果3』と書かれていた。その通りなんだろう。
それならば、この続き。
「世界の果てから、救いの陽が……か」
そんな大袈裟なものになるつもりなんて、ちっともないけれど。
足を踏み出すことに躊躇いはもう、感じなくなっていた。一人じゃないって、わかったから。
(幕間B)
なんであいつ、こんな時にちょっと嬉しそうな顔ができるわけ。
紙っきれを拾った栄口の顔からは、さっきまで感じていた不安や迷いが払拭されたように見えた。
いや、見えるだけで根本的なものは変わっていないのだろう。膝が震えてるのがわかる。
それでも、前に進もう、今を打開しようとする気持ちは十分に伝わった。
ポケットの中を探る――……持ってきていた、良かった。
指に触れた細い紐を引っ張り、取り出したものを投げてよこす。
「栄口!」
「え?……っと、これは?」
「見ての通り、お守り。三橋が前にくれたやつなんだけど、今はお前が持ってた方が良さそうだから」
その三橋も、前に同じものを叶に貰ったとか言っていたような気がする。受け売りかよとツッコんだ日が懐かしく思えて、縁起でもないと頭を振った。
走馬灯を見るには、まだ早すぎる。
「サンキュー。じゃあ、待ってるから、また後で」
「おう。また、な……」
栄口がドアから出て行くのを見届け、ついでに廊下をパタつく足音が聞こえなくなるのを聞き届けて、ほっと息をつく。
途端に足に鈍痛が走った。忘れていた波がじわじわと打ち寄せ、額に脂汗が滲み出してくる。
二倍近くに腫れ上がった足は、ズボンの繊維が擦れるだけでも、火を押し付けられたような強烈な痛みを発した。
動くのも、触るのも、しんどくて吐きそうだった。口を開けば、弱音ばっかり漏れそうで、シャツの袖を噛む。
呻いたって泣いたって、どうにかなるわけじゃないなら無駄だ。今自分にできる精一杯の範囲を見極め、実践すること。
それが役者として割り当てるなら、自分の立ち位置として一番ふさわしい役所の気がした。
「あとは頼む……」
携帯のボタンを押しながら、遠くなる意識を掻き集めて、演じてやる。
誰のシナリオかは知らないけれど、こんなところで終るのなんかクソ食らえ。
(幕間A)
阿部から受け取ったお守りを手の上で転がしつつ、さあこれからどこへ行こう困ったぞという現在の地点。
よく考えてみれば、中村の住居どころか行き先の宛てもなかった。
勢いが空回りし過ぎて、どん詰まり。
あまりの情けなさにさっきまでの腹痛も、どこか遠くへ飛んでいってしまった。
取り敢えず、校舎を出て、校門に向かう。車の跡が残っているとか、そんな都合のいい展開を期待してみる。
しかし、世の中そんなに都合のいいことが起こる筈もなく、アスファルトの上には断層一つない――……が、その代わり。
「……ケータイ?」
道端にぽつんと落ちていたのは、見覚えのある携帯の機種。これは確か、田島が持っていたものと同じだったような気がする。
まさか、と思いつつも、拾う。
さっきからバクバクと煩い心臓を無視し、震える指先をもどかしく思いながらボタンを押す。
「さすが、うちのチームの四番はやってくれるよ……」
ディスプレイに表示されたメッセージは予想通り、三人の行き着く先の手掛りに違いなかった。
ナイスメッセージ田島。
※神経症・虐待描写・キャラ、背景改編注意
※統合失調症を旧称で呼ぶのは、高校生が一度聞いて使うには少し違和感があったからです。
(裏方)
「なあ、水谷の作ったクワガタ……ぶっちゃけどうよ?」
「ナイナイ」
「オレには貧弱なエスタークにしか見えねえ」
「エスターク(笑)
ラスボス倒したと思ったら隠しラスボスってのは卑怯っつーか、二度楽しめるっつーか……」
「……でさー、やっと玉座まで着いたと思ったら魔王いねえの。何?あれってバグ?」
「お前、玉座の裏ちゃんと調べた?」
「は?」
「玉座の裏。隠し階段ある」
「嘘、マジで!?くっそ、気付かなかったわ」
「勇者がいて魔王がいないRPGなんておかしいだろ。考察力が欠けてるよ、明智君」
「花井はあんまりゲームとか得意じゃ無さそうだしなー」
「じゃあそのエスターク、ばみりの所で殺しといて」
「ちょ、まっ……巣山ひど!確かにヘタクソかもしんねえけど、これでも一生懸命作ったんだぞ!」
「はあ?」
「オレのクワガタは不滅だ!田島にとて討ち取らせん!」
「っ、アホ!水谷、てめェ何年舞台やってんだ!いい加減、業界用語の一つ二つ覚えろ!」
「(*´∀`)b<日本語でおk」
「それが水谷クオリティ」
「……沖、水谷。次押してんだから言い争うな」
「巣山……。今、ツッコミがオレ一人じゃなくて良かったと思った」
「ばみり」:役者の立ち位置や装置の位置を決める為、床に貼るテープ。
「殺す」 :セットなどを固定すること。
(幕間A)
目的地までそう遠くないが、決して近くもない道のりを自転車でひた走る。
閑散とした夜の住宅街の人通りはまばら。通行人を気にせず、ペダルを漕ぐことに専念出来た。
こんな非日常の時間を過ごして、息が上がれば、心拍数が上がれば上がるほど、落ち着いていく自分がいる。
ドキドキしていた。でも、このドキドキは恐怖や不安から来るものではなく、目の前に置かれたプレゼントの箱を開ける直前みたいな緊張感だ。
目印の『ガソリンスタンド石油王』を右折した先、天高く続いているような錯覚を覚える坂を見上げる。自転車は置いていくことにした。
ポケットから携帯を取り出す。あの後、何度リダイヤルをしても阿部の携帯には繋がらなかった。行き先を伝えようにも、連絡が取れなければそれは不可能。
信頼出来る仲間が一人欠けてしまったように思え、途端に心細く感じる。
――人の思考とは、なんていい加減に創造されたものなのだろう。それとも、これは自分に限ってのことなのだろうか。
移動中なのかも……。そう思って阿部の携帯にメールを打ちながら歩いている所為か、なかなか執着点に辿り着かない。
同じ場所で足踏みをしているみたいだ、まるで。
今は外灯の明かりと携帯のディスプレイが放つ、ぼんやりとした光量だけが頼りみたいなもの。そうやってなんとなく、カンダタを思い出す。
先にあるものを希望だと信じて、足元を見れなくなって、結局は地獄に戻ったカンダタ……。それは何故か三橋と様子が重なった。
「うわっ!」
急に地面が無くなり、バランスを崩して前方に倒れ込みそうになる。
このまま地獄にまでまっさかさま――……なんてことにはならず、遅れて持ち上がった足がしっかりと地面を踏みしめた。
気が付くと、いつの間にかそこは坂の頂上。まだ坂が続くつもりで進めた足が、傾斜の変わった地面を捉え切れなかったのだ。
遅れて転倒を恐れ、心臓が強く脈打つ。このドキドキは、純粋にこれから身に降りかかるであろう恐怖に構えた鼓動。
眼前に現れた錆びれた雑居ビル。傾いた看板の文字は欠けていて、そこが何をする場所なのかは分からなかった。
地下へと続く階段を俯瞰する。暗い。非常灯だけが唯一視界を照らしている。
もう後戻りは出来ないのだと、携帯を握り締めて一歩を踏み出す。隅に張った蜘蛛の巣に蜘蛛はいなかった。
――……決して切れない蜘蛛の糸になれれば、三橋を救い出せるような気がしなくもない。
(空間)
本来ならば、ここは自分の城になっていた場所。
どんなに小さくても構わなかった。夢が叶うなら、どんな形だって嬉しかった。叶った夢を“あの人”に報告するのがずっと楽しみだった。
資金を集めるのに費やした苦難の日々があって、それでも両親に頭を下げようとは思わなかった。がむしゃらに働き、がむしゃらに堅実に生きてきた。それでも叶わないと知った時の絶望は、現実に愛想を尽かした瞬間――……すべてがどうでもよくなる。
田島には眠ってもらった。“アレ”の活力を奪う為に用意した位置だったから、もう用済み。“アレ”は虚ろな目をして、天井を見つめることしか出来ないでいた。
“アレ”は素肌に白衣という装い。そして、自分の片手には真っ赤なロープが握られている。我ながら趣味の悪さに苦笑が浮かぶ。
首に掛けたロープの、急所に当たる位置に結び目を作っていく。特に声帯を圧迫する喉元の結びと、股間に食い込む箇所は大き目に。
股の間から背中に回したロープを引くと、“アレ”の手がオレの服の裾をぎゅっと掴んできた。そんな細やかな抵抗、どうってことない。構わず作業を続ける。
結びに縄を通して白衣の上から胸を強調する網を作るが、何せ痩せた男の体では乳の強調もへったくれもない。薄い胸板を掴んで無理矢理寄せてみても、眉を顰めるだけだった。
そんな単調な作業の繰り返しで出来上がったのは亀甲縛り。少しアレンジを加え、後ろ手に縛る両手は纏めて天井から吊す。
爪先立ちで足が着くように調節してやれば、息苦しさに“アレ”は身を捩って悶えた。喉に作った結び目が気管を絞めるのか、ぐうとカエルが潰れたみたいな声がする。
「はあ、う……っぐ、あ、あ……」
ギシッギシッ、キュ。ロープが“アレ”の重みで軋む。通常の呼吸もままならず熱く吐息を吐き出す姿は、女だったらさぞかし菅能的に映ったのだろう。
太腿に食い込んだ赤い縄の繋ぎから、むっちりとした白い肉がこぼれている。シロブタっぽいとか、思う。
白衣の上から胸板を撫でると、ナイロン生地の摩擦が痛みに繋がるのか眉間に皺を寄せた。それでも執拗に撫でる。続ける。
「や、らあ……おっぱい、潰れちゃ、う……ン」
はあはあと荒くなる息を聞きながら、布越しに胸にしゃぶりつく。唾液で濡れた生地が肌にじっとりと張り付く感覚に、“アレ”は爪先を震わせた。
「も、もうやめ、て……」
顔面をぐちゃぐちゃにして泣く様子が哀れだ。いい気味だと思う。もっと哀れに、もっとどん底にまで落ちてしまえ。
ロープの網目から白衣をずらしてやると、濡れて赤く隆起した乳首が露になる。ここ数ヶ月の調教ですっかり過敏に反応するようになった箇所だ。
ねっとりと唾液を絡めた舌先で乳輪をなぞる。肌にぽつぽつと鳥肌が浮かんでいた。感じているのだろう。
対の乳首も同じように、人指し指の先を乳輪に沿わせて動かす。嫌々と頭を振るが、勿論それで止めようとも思わない。
ぷくりと勃ち上がり、存在を主張する突起を爪先で弾くと大袈裟に背筋をしならせた。それを口唇の合間に挟み、軽く吸いあげてやる。
「っふ、は、あ……あ……」
ぽたり。何かが頬に落ちてきた。見ると、“アレ”が目の縁に溜めた涙を垂れ流している。生理現象で浮かぶ涙なら、乳首一つでよくぞここまで開発されたものだ。自分を誉めてやりたくなる。
舌で突起をねぶりながら、もう片方の粒を指でこねくり回す。“アレ”の膝が震え、ロープがしなった。
「ひうっ……!っが、あ……んんっ」
芯を押し潰すようにして、前歯で乳首を噛む。グリンピース大のくにゅくにゅと弾力を持ったそこは、まるでグミでも食べているような歯応え。吸って、摘み、噛み、銜えて。
ギシ、ギュ、ギシ。
“アレ”が内股を擦り合わせ悶えるので、膝裏を抱えて開帳させてやる。
「なんだ、縛られて感じてんのか?変態だなァ、お前」
「っン……は、あ!」
無意識なのか意識的なのか。既に勃起したペニスをロープの結び目に押し付け、腰を揺らす“アレ”。亀頭から漏れた先走りが睾丸の皺の間を濡らし、粘着質な光沢を放っている。
もがけばもがくほど、ロープは股間を締め付ける。堅く結んだ結び目に些細な圧迫さえ、今の身体には強烈な快楽を生むのだろう。
(……こんなヤツをいったい誰が助けたいと思うか?)
――いる筈がない。男の身体で女のように、女よりも悦がり狂う姿を見て、少しでも嫌悪を抱かない人間がいるのだろうか。
ましてや、性の関心が強いこの年頃。好奇心の延長で常識と異なる未知に直面して、躊躇しない者はいないだろう――……特に西浦の中では。
「…………三橋を、解放してください」
……ああ、やっぱり追い付いてしまった。
予測していたけれど、終幕のベルの時刻が近付くのはやはり名残り惜しく。
(――……ずっと、三橋先輩のことを……)
(幕間A)
「どうやってここを知ったか……なんつうヤボはこの際置いといて、だ。お前、一人で来たのか?」
碓暗いその部屋で中村の声が反響する。真四角の部屋は広さの割りに物が少なく、端に段ボールや空の棚が置いてあるくらい。
その並びにみの虫みたいに拘束された田島を見付けた時は、思わず声を上げそうになったがぐっと堪えた。上下する肩が、田島の生存を語っている。
(……それよりも、中村だ)
こちらに背を向けて立っている中村から、その表情は探れない。三橋の姿が辺りに見えないのも気に掛かる。
それとギシギシと、不定期に鳴る謎の音の正体も……。
「……一人で来た。オレ以外に今ここを知ってるのはいないよ」
嘘は言っていない。阿部にメールはしたけれど、それを阿部が見ている可能性は低い気がした。だから、嘘を言ったつもりはなかった。
「指導者の立場としてなら叱ってやれたんだけどね、『どうして警察に言わなかった?』って」
「……」
頭の隅の方では判っていたのだと思う。それも一つの方法だ。寧ろ、警察に通報して場をおさめるべき事態なんだろう。
けれど、それで壊れてしまうものが怖くて、その手段を諦めた。部活も、友情も、三橋も、事が公になればそれだけ壊れていってしまう。それが心のどこかで恐ろしかった。……エゴなんだ、これは。わかっている。承知の上。
「漫画やアニメの見すぎだよ、最近の子供は。皆自分の手でなんとかなると思ってる……それが手遅れなんだ、狂ってるよ。物事がそんな上手く運ぶなら自殺者なんか出ないっつの。
……なあ、お前もそうなんだろ?」
ぞくり――……また、だ。あの時と、毛虫の忠告をされた時と一緒。肌がぞわぞわ粟立つ。
「高校生探偵気取りの栄口君に訊こう。どうして中村センセーは、君達に分裂症なんて嘘を教えたんだと思う?」
じりじりと、首の後ろ辺りが熱くなっていく。
ありがちでチープな展開。これを漫画やアニメで見たなら、ありふれたワンシーンだとコケ落とすのだろうが、実際に直面してみると足が竦む。
「……多分だけど、そう思い込ませようとしたから?」
あの時、中村はやけに症状について説明的であった。中でも幻覚・幻聴といった症状については殊更詳しかった。それは、則ち。
「三橋の証言から、信憑性を欠かすため……」
不安定な三橋。意味深な言動の数々。加えて、中村の診断。
教師から発っせられたというだけで、途端に現実味を帯びてしまう虚言。それらすべてを鵜呑みにして、悪循環に陥っていた。
そうだ。幻覚、幻聴なんて単語を聞きさえしなければ、あの時、オレと阿部は多重人格説を笑って吹き飛ばせただろう。
恐らく、中村の作為はこうだ。三橋を分裂症だと周囲に思い込ませ、もし何か相談ごとを三橋が持ちかけても『幻覚・幻聴』の所為にさせてしまおうと目論んだのだろう。
だからこそ、三橋が相談相手に選びそうな人物――阿部、同じクラスの泉と田島、そして三橋の症状を調べようとした自分の前で、あの話をした。実に周到と言える。
ただ、その周到さが阿部の不審を煽る形になり、結局はそこから芋づる式に破綻する結果になった。
中村を阿部が疑い、その阿部をオレが疑う。だけど、阿部もオレも心のどこかでは三橋を疑っていた。そうやってまんまと中村の用意した疑心暗鬼に囚われていたのだ。
「……阿部から聞きました。あんたが以前三星学園の養護教諭だったこと、三橋の一件が絡んだあとに三星から転任することになったのも、全部」
「それで?」
「っ、あんたは自分が三星を辞めることになったのを逆恨みして三橋を……!」
「それで三橋に嫌がらせをしたとでも言うのか?……憶測で喋んなよ、クソが」
ここに来て、初めて恐怖を感じた。
自分の非力さ、無力。それらが一体となって肩に重圧として乗し掛る。
ギイギイ。この、何かが軋む音はなんだろう。それに詰まった空調みたいな掠れ声。緊張が極限に達すると、どうでもいいことばかりが鮮明に見えてくる。
例えば、段ボールに印字された『あべたか運送』の文字だったり、部屋の四つ角に張られた蜘蛛の巣のだったり。それは様々。
「お前らみたいのが憶測で行動するからいけないんだ。後先考えず、自分のことしか見ないから、だから苦労する……」
相変わらず、目は室内詮索をしている。相手がこちらに顔を向けてない分、視点が定まりにくかったのだ。
「なあ、お前も親のことなんて何も考えちゃないんだろ?」
(空間)
記憶の蓋を開けると内気で捻くれた自分がいた。親の前でも、教師の前でも、友人の前でも仮面一枚越しの態度で接し、毎日をつまらなく過ごしていた時期があった。
そんな可愛げのない子供が好かれる筈もなく、いつしか周りから人は消え、孤立。それでいいと、表面上では涼しい顔をして実際は酷く孤独だった。
それは月日を重ねた今だからこそ認められる。あの頃は自分の為すことが間違っているなんて、認めるには若すぎた。
そんなどうしようもないガキを救ってくれた人がいる。一つ年上の先輩だ。
あの人に出会わなければ、ずっと何も変われなかっただろう。あの人に存在を認められなければ、今も空気同然で生きていただろう。
恋にも似ていて、きっと尊敬や憧れに近い感情で先輩を見ていた。結婚してからも、子供が産まれてからもそれは同じ。
自分を救った恩人を暖かく見守っていきたいと思っていた。同時に自分を救ってくれた恩人のようになりたいと願って、心療内科の道を目指していた。
しかし、あの出来の悪い息子は先輩の期待を裏切り、追い討ちをかけるような真似までしてくれた。
内の殻に閉じ籠り、ひたすら耐えることで誰が救われると言うのか。誰も助けてはくれないではないか。
先輩は自分の息子が受けていた境遇を知らない。それ故、リストカット等という断命に繋がる行為を知った時の、精神的苦痛は並ではなかった。
仕事と世間体の間で板挟みになり、けれども家庭の為、息子の為にと身を擦り減らした先輩。一度目(かけおち)も、二度目のこれも、“アレ”さえいなければこんなことにはならなかった筈である。
「お前達からしたら“犯人は中村”で、自分達は“正義の味方”なんだろうな……でも、オレから見た世界での“犯人はお前ら”なんだよ」
大人は責任がある、良識がある、嘘をつかない――……そう思ってるならどうして隠す?何故知らせない?何故黙り込む?
都合のいい時だけ利用するのか、大人を。実の親を。それがどんなに残虐に彼らを苦しめているのかも知らないで。
頼りにできない親は役立たず。頼りにされない親は空気と同然。
どうしても理解出来なくて、過ちを犯す。それが過ちと知ってて尚、止まらないのは自分も“アレ”も同じだから。認めたくないから。
要するに、まだ殻の中にいるみにくいアヒルの子が二羽。
(空間)
――つまり、そういうこと。
(ベールの向こうの犯人は虚像。役者不定の為、空間)
(幕間A)
「……あんたが医者になれなかった理由が分かった気がする」
普段は理知的な大人の姿を演じていて、中身は我が儘放題の子供と変わりない。
子供ながらの子供じみた、遠慮も駆け引きも無い策で手段を問わず実践する。自分が絶対正しいと信じ、曲げることなく行為に移すことが出来る。
「…………三橋を返せ」
――だから恐ろしいのだ。
次の手が読めない、何を考えているのか分からない。もしや次の瞬間、自分はナイフで串刺しになってしまうかもしれない。そんな畏怖が背中にべっとりと染み付く。
だけど裏を返せば、中村にはもう後が無いということ。こうして自供したことに加え、三橋と田島を拉致した事実もある。つまり、今さえ凌ぎきれば後の勝算は揺るがない。
「子供に悟られたいなんて一言も言った覚えないけど」
しゅるり。空気を何かが断裂する音がした。
ぱさり。よくは見えないけれど、中村の足元に赤い蛇がのたくって見える。なんだ、あれ。
「……こんなんでも返してほしいの?」
中村がゆっくりと振り返る。革靴で赤い蛇を踏みつけたから、どうやらあれは蛇ではないようだ――……そんなことはどうてもよくて。
中村の腕に抱えられた白いもの、それは三橋の姿をしていた。一目見て三橋と分からなかったのは格好の所為。
三橋はほぼ全裸と言っていい格好をしていた。素肌に白衣を身に付け、ひらひらとした裾の下からにょきりと生えた太腿。それだけで十分異質だと言うのに、だ。
赤いロープががんじ絡めにするみたいにして、全身に巻き付いている。首に掛ったロープを引っ張られ、喉の大きな結び目が食い込んで苦しいのか、三橋はうぐっ、と喉を詰まらせた音を発した。
「み、はし……?」
「はう、あ……う、やあ……」
急に内股を擦り合わせるような動きをするものだから、どうしたのかと尋ねてみる。けれど三橋から回答になる返事はなくて、その代わり中村がたっぷりと時間を取って答えた。
「三橋君は縛られて感じちゃうような淫乱な男の子なんですゥー。うンわあ、きんもー!」
「っ!?」
前に押し出された三橋のからだの変化を見て、思わず床に目を伏せてしまう。
同性の性器を見たことがない訳ではないが、同じチームメイトの勃起したモノを見せ付けられるというのは、なかなか強烈だった。
目を背けた今も、嫌悪に似たもやもやが胸の内側を占めている。
「はははは!なあ、本当にこんなんでも返してほしいの?コイツ豚だよ、豚!ただのシロブタ!……オラ、証拠に鳴いてみろよ豚!」
「あぐっ、う……ううっン!」
中村が手を振り上げたと思ったら、パシッと肉を打つ小気味の良い音が聞こえた。
それは立て続けに聞こえ、その度に三橋が喉を反らせて呻く――臀部を容赦無くに叩かれ、痛みに苦悶しているのだ。
「痛……やめ、て……っ」
「……違うだろ、シロブタ。鳴けって言ってんだよァア?ブヒブヒって、馬鹿みたいにさァ」
「ァああああ……!?」
三橋の裸足の甲を革靴が踏みにじる。皮膚が捩れ、重圧で骨が軋み、激痛で見開かれた瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
そうして、口がゆっくりと縦に開かれていく。負けちゃ駄目だって言いたかったけど、身体が氷付いてしまったみたいに動かなくて。
「っっ、……ぶ、ブヒ……ブヒ、ィ……っく、う……!」
泣きじゃくりながら、豚の真似をする三橋に罵倒を浴びせる中村の姿を見て、腹の底がカッと熱く滾る感覚を覚える。
気が付いた時にはがむしゃらに、何の算段もなく中村に突進している自分がいた。考えることを放棄し、ただ三橋の足からあの革靴をどけてやりたくて必死だった。
けれど、中村にはこんな感情の起伏すら予測の範疇だったようだ。
接触するかしないかという瀬戸際。こちらを見据え、嫌味ったらしい笑みを浮かべた刹那、革靴の爪先が横っ腹を蹴りあげた。
あれでも衣服が衝撃を多少緩和するくらいの役割りを果たしたのだろうか。
目の前に火花が散り、蹴られたという実感も湧かない内に情けなく床を転がる。
内臓器官が押し潰される圧迫に嘔吐しそうになりながら、次に押し寄せてきた全身強打の鈍痛に目の奥が潤う。
「シロブタに突進しか脳の無いイノシシ……西浦の野球部は豚小屋みてェなもんだな」
吐き捨てるような物言いに悔しさばかりが募る。それと同時に三橋が、あの内気な三橋が今までずっとこの仕打ちに耐えてきたのだと思うと、何とも言えない感情が起こった。
――……誉めてやりたい?抱き締めて、頭を撫でてやりたい?
違う、そんな格好付けたものではない。
たった一言、「お前のことが好きだ」って伝えてやりたい。慕情とかじゃなく、人として。一人の人間として三橋廉に好きだ(=認める?)と言ってやりたかった。
出来ることなら、気絶したフリでも何でもしてこの場をやり過ごしたい気持ちもあった。
それでも、反射的に腕は上体を支え、起き上がろうとする身体の補助をする。まだ、闘おうとする。だって、どうしたって負ける訳にはいかないじゃないか。
三橋は、さっきの瞬間に中村に投げ出されたのだろう、自分とは反対側の床に人形みたいに転がっていた。
三橋……そう呼ぼうとして、押し黙る。金属バットを持った中村が不気味な笑みを浮かべ、こっちに歩み寄ってくる。
「阿部は足で済んだけど、お前はもう知りすぎだし……いっちょ頭でもやっとく?」
おいおいおい。これはOLがランチ誘うシーンじゃないぞチクショウ。
それに阿部の足って、まさか。
あの時もう既に阿部は……。
様々な考え、これからの予想が頭の中をごっちゃにする頃、中村の持つバットが垂直に掲げられた。
「アデュー、栄口」
(…………終わり、か……)
ああもう駄目だって、目を瞑った――……その時だった。
「そこまでだ!!」
お決まりの文句。しかし、それ一つで相手の注意を反らすには十分。
「……あ、べ?」
「……おう、遅くなって悪ィ」
入り口の所に寄り掛って立っているのは、ふてぶてしい顔をしたもう一人の副主将に見えた。
先程とは様子が代わり、松葉杖と足に巻かれたギブスが痛々しい――……とか思ったけど、お前それ今年二回目じゃん。
何がおかしいのか、そんなことちっとも分からなかった。でも、この非常識の空間で吹き出しそうになった自分がいるのも事実。
「なんだ、やっぱりお前一人じゃないじゃんか」
拗ねた子供みたいな口調で中村がひとりごちた。首の後ろをバットで軽く小突きながら、現れた阿部の方へと足を向けていく。
「警察を呼んだ。あと数分もすりゃここに来る――……お前は終りだ、中村」
表情が一瞬綻んだように見えて、直ぐに変わる。
「阿部も学ばないなァ。一回やられてさ、自分一人じゃどうにもならないって分かっただろ?折角センセーが教えてやったのに……まーた一人のこのこ戻って来やがって」
阿部がどこまで話したのかは知らないけれど、通報されたと知って中村の、この強気はどこから来るのだろう。
その、底の知れない凶器にまた肌が粟立つ。まだ、助かった気がしないのは一体何故。
「ミハシレンは助からない」
低く、地の底から響くような、まるでそれは。
「しょっぴかれて罰になるのは田島の拉致ぐらいだ。三橋は絶対、この件に関しては一切口を割らない」
「……ッ、どうしてそう言い切れる!?」
「お・い・め」
――……負い目。
三橋の負い目。考えなくても、直ぐに分かる。分かってしまう。ここに辿り着くまで、見えていなかった三橋の一面を裏側まで見てきた。
「コイツが何かを得る時は失う時だ。三橋を助けようとしたら、三星を犠牲にしなきゃならない――……出来る訳ないよな?
高校入って確執も無くなって順風満帆できたのに、今更過去の話題を掘り返すなんつうことを、よ」
それは三橋の喉を潰していた三星での過去。三橋がずっと洗い流そうと、キレイにしてしまおうとした手首の傷。
三橋と中村の発端、根底はそこから始まった。だけど、三橋の居場所を奪ったのは中村じゃない。当時の三星の連中だ。
中村の言う通り、三橋は口を閉ざすだろう。
三橋はずっと三星の連中と復縁を望んでいた。野球を通じて、抱えた負い目の払拭を願っていた。
それがやっと念願叶ったのだ。あの練習試合ですべて清算された。だから、だからこそ三橋は語らなかった。一人で抱え込んだ。
自己を見失って、傷付いて、それでも許そうとした、隠そうとした。
叶や従姉妹のルリちゃんは、それを知っていて口を閉ざした。三橋の意思を尊重し、三橋を護るため。
三橋は、三星の連中の、畠や宮川達の所為にすることを拒む。すべて自分が悪いと思い込んでいるから、水に流そうとする。
誰にも知られないように、他の誰にも気付かれないように、キレイにしてしまおうとした。
三橋を潔癖症にまで追い込んだのは他でもない、三橋自身だったのだ――……。
「阿部の骨折はこいつがやったし……お前らが幾等束になって証言したって、本人がうんと言わなきゃ無罪放免ってやつだ。なあ、三橋?」
「…………」
中村の腕に抱き上げられた三橋は何も答えなかった。ぶらんと腕を投げ出し、虚空を見つめている。
流石の中村も、三橋が拘束状態のままでは不味いと思ったのだろう。
蜘蛛の巣のように張り巡らせられたロープを解き、三橋を自由にしてやる。それでも、三橋はぴくりとも動かなかった。
歯痒くて、やるせなくて、どうしようもなくなる。それは阿部も同じようで、俯いて下唇を噛む様子がここからでも分かった。
どうすればいいのだろうか。このままでは、警察が来て中村が捕まったとしても、三橋は二度と心を開かないだろう。
「っくしょ……!」
何にも浮かばない。何にも思い付かない。
自分一人では何にも出来ないという実感が波のように押し寄せ、それは引かずに滞留する。
どうにかならないか、なんとかできないか。
悪あがきで漁るポケット。四次元でもないからに、便利な道具が見付かる訳も――……と思ったのに、指先に触れた感触。それからは本当にやけっぱちだった。
「ふざけんな、三橋!こんなところで負けてんなよ!お前、オレらと甲子園目指してんだろ?チームのエースなんだろ?
勝ちたいって、そう思ったから野球続けたんだろ!?」
阿部から渡されて携帯にくくり付けておいたお守り。外しちゃ届かないだろうから、そのままで投げつけてやる。
三橋が阿部に渡したお守りは、オレにとっても、三橋にとっても重要な意味を持つもの。
この――……“必勝祈願”のお守りは。
「……っ、さか、えぐちく、ん」
三橋の手が上手いこと携帯をキャッチする。中村はこの状況を茶番劇だとでも思っているのか、傍観の姿勢にあった。
突き崩すなら、今しかない。残されていない。
「お前の世界はそっちじゃないんだ……!」
暗く淀んだ場所。濁った水が溜った湖のような、そこ。
逃げてばかりいた。追い詰め、追い詰められ、気が触れそうになる。けれども空気の如く漂い続けて、ずっと居場所を探していた。
それが自分の居るべき世界、自分が認められる世界。
西浦に必要なエースになった。三星でも力を認められた。三橋の姿はもう、空気よりもはっきりと見えているではないか。
「三橋!」
「負けんな三橋!お前は……お前はうちの最高のエースだよ!」
説得と言うより、それは祈りに近かった。
だから三橋の手からするりと携帯が落ちた時は、この世には神も仏もあったもんじゃないと絶望した。
それは言葉で言われるより、ずっと分かりやすい諦めだった。終ってしまった、何もかも。
もう、これで……。
(空白)
「うあああああっ……!!」
「な、何すっ……」
激痛に涙が浮かぶ。でも、身体の痛みなら、心の痛みなら今までだって何度も体験してきたから、ダイジョーブ。
からっぽになった手で、耳に刺さりっぱなしだったピアスを取るべく耳ごと引き千切る。
こういうのって勢いが大事なんだと思う。頭の中はぐちゃぐちゃで何も考えてなかった。ただ、今腰を抱く手が居場所ではないと理解していた。
「もう、知らないとこに行きたくない……っ!あの車の中みたいに、震えてたくなんかないんだ……!」
たすけてくれて、ありがとう。
無器用で、どもりで、言葉ではきっとうまく伝えられないから、態度で示す。
車の中で歌ったドナドナ。子牛とオレが重なったんだ、あの時。
これから向かう自分の知らない世界、まず間違いなく自分に不利益な世界に連れてかれる不安。怖くて怖くて仕方がなかった。でも、今は違う。
「っでええええ!」
手の甲にピアスのとがった先端を刺した、たったそれだけ。きっと痛いだろう。それが申し訳なかった。
そんなことを考えていたら、オレは吹っ飛んでいた。痛いから暴れて、オレは巻き添え。こんなの常識。
中村先生がバットを振りかぶる。それで頭を叩かれても、足の骨を砕かれてもいいと思った。自分の居場所を見付けることができたから……。
「……三橋、いつまで目ェつぶってんの?」
痛いとか思うより先に声が聞こえてきた。どうして痛くないんだろう。そう思いながら見上げると、そこには田島君が立っていて、横には中村先生が倒れていた。
「言ったろ?心配いらねーって」
――……これは後から聞いたハナシ。
オレと中村先生がやりあってる隙に、阿部君が田島君の縄を解いたんだって。
一人じゃないこと。みんながいること。
やっぱりチームプレイってすごくタイセツ。
(空間)
――彼だけは、すべてを知っていました。
(ディノテーション、その意味は文字通り。空白の×××)
(幕間A)
それから直ぐに駆け付けた警察によって、中村は拘束された。
あっけないと言えばあっけなさ過ぎる幕切れに皆脱力し、後は抜け殻のようだった。
そして、オレら四人は病院に搬送された。呼び出されたそれぞれの親達は、息子の姿を見て怒り出したり卒倒したり、反応も様々。
父さんは――……心配かけさせるな、と言って抱き締めてくれた。オレはその時になってやっと助かったのだと実感して、ほんの少しだけ、泣いてしまった。
その日はもう遅いからと病院に泊まることになる。明日からは警察の事情聴取だったり何だったりで忙しくなりそうだ。
簡素なベッドに倒れ込み、泥のように眠る。次に目を開けた時に映った世界はハクチョウのように真っ白だった。……病院だから当たり前なのだけれども。
朝食を摂って、エントランスへ。
暫く待っていると田島が来た。何でも、阿部は肉体的、三橋は精神的ダメージが思ったより悪いと判断され、聴取はまた後日になるそうだ。
オレも田島もかすり傷程度で済んだけれど、あの二人は――……そう思うと進む足も進まなくなる。正直、ここ数日の精神疲労が辛かった。
けれど、一刻だって早くこの事件を終りにしたかった。その思いで警察署まで向かう。
聴取中、オレはたまにうわのそらになってしまって、なんとなく田島の話を聞いていた。
「オレは三橋が……人格なんて信じなかった。だって、多重……なんて都市伝説だろ?」
――……これはいったいなんだろう。この、ざわざわと胸を撫でる違和感は。
(空間)
――さあ、もう一度最初から考えましょう。
(リアリストの抱く希望こそが夢、幻想)
(幕間A)
長い拘束から解き放たれ、漸く外の新鮮な空気を吸えた。
まったく、これではどっちが犯人か分からないじゃないか。口を開けばそう愚痴ってしまいそうだから、ぐっと堪えた。
これからもう一度病院に行って、三橋と阿部にもこの話をしてやろう。そうしたら二人はどんな顔をするだろう。想像するだけでおかしかった。
先を歩く田島。ふと、それを見て気になったことが思い浮かぶ。
(……どうして田島は中村の行き先を知っていたんだ?)
中村が話したのかとも思ったけど、三橋が中村に抵抗した時、どこに行くかわからないようなことを言っていた。
――中村は田島にだけ行き先を教えていた?どうして?不自然だ。
一度浮かんだ疑念はなかなか晴れず、次から次へと新しいものが湧き上がる。
一番初めにおかしいと思ったのはあの時だ。
阿部に言われるまで、中村が耳の状態を知っているのはおかしくないと思っていた。
何故なら中村は保健医である。三橋のあの、無器用加減が全面に押し出されたガーゼを見て、治療しようとしてもおかしくない。
それよりも気にかかったのは中村の次の、誰かの発言。
『あれ自分でやったのか?』
まるでそれを見て知っていたかのような物言いも、何の疑問も持たずに受け入れる様子も気に掛った。
それにもう一つ。
三橋の「一人じゃない、二人いる」という発言の意味は一体?
「オレは三橋が多重人格なんて信じなかった。だって、多重人格なんて都市伝説だろ?……栄口もそう思うよな」
「うええ?」
突然、田島に話を振られて間抜けな声をあげてしまう。田島は笑顔だった。
「人のキモチなんていー加減だからさ、人格?性格を偽るなんて簡単にできるんだよねー。あ、ほら身近な例だと嘘ってのもそうだし」
「田島……お前、何言って……」
「三橋、今度は助かるといいよな!」
『他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ』
――仮説がある。
もしも、もしもの話だ。三橋が田島を多重人格だと思っていて、三橋はずっとそれを隠そうとしていたなら……。
田島は、初めから中村の協力し(ry
(――……なあ、三橋。お前がキレイにしようとしてたものって幾つあるんだよ)
きっと三橋の潔癖症は治るだろう。
けれども、この何とも言えないもやもやだけは執拗にこびりついていて、キレイに洗い流せないでいる。
それはこれからも、オレの中でずっと。
(空間)
――まだ、何も始まってすらいないのですから。
(カーテンコールなど、もっての他の茶番劇でした。ちゃんちゃん)
(終幕)
***
舞台の話だと思ってくれてもいいし、一つ一つが別の話だと思ってくれてもいいですハイ。
↓本編の中のヒントは縦読みでよろしく。
――みにくいアヒルの子が一羽だと、誰が言ったの?
――なみだの数だけ泣き方があり
、なみだを流すだけが泣くことではなく。
――お友達は誰と誰?
――つまり、そういうこと。
――彼だけは、すべてを知っていました。
――さあ、もう一度最初から考えましょう。
――まだ、何も始まってすらいないのですから。
ドアノブが触れなかった。触りたくなかった。
今まではただ綺麗好きになったのかと思って、あまり気にしてなかった。でも、ドアノブが触れないのは困る。
色々な人が触るところ。外にはバイキンがいっぱいいて、手にはバイキンがいっぱいついていて、バイキンだらけの手が沢山触るドアノブ。
触ったら、そこからバイキンが感染してしまうんじゃないかと思う。指先からじわじわ、肉がどろどろに腐ってしまうんじゃないかと思う。
せめてタオルがあれば触れるのに、そのタオルも今は練習の後で汗でべたべた。バイキンだらけ。
誰にも気付かれたくないのにどうしよう。うろうろ、おろおろ。
「大丈夫だよ、三橋」
「……田島君?」
ひょっこり。ドアの陰から田島君。
「不自然に見えなきゃいいんだ。ほれ、ちょっとそこいて。そんでコレをさ、こうしとく……」
田島君がドアの隙間に黒板消しを挟む。
「これでお前がドアノブに触れないの、もし誰かが見ても黒板消しを警戒してるようにしか見えねーだろ?今日以外でも、誰かに何か言われたら『黒板消しがあると思った』って言っとけ」
ショックだった。上手く隠せていると思ったのに、田島君にはドアノブに触れないことがバレていたのだ。
「んな顔しなくても誰にも言わねェよ。オレとお前だけの秘密だ、ゲンミツに誓う」
にしし、と笑う田島君。田島君はいい人だ。そう思う。
いつか、もう一つのヒミツに気付かれなければいいと心から思う。
(空白)
※虐待注意
(空白)
終らない呼び出し。
目の前にお皿いっぱい詰まれたおにぎりを用意された。
おにぎり好きなんだろ?食えよ。
この間のことを思い出して、身構える。けれどオシッコは掛けられなかった。
白いご飯だけのおにぎりは、ほんの少しだけ塩の味がする。具なし・ノリなしの塩おにぎり。
お腹が空いていたので食べる。三個食べてお腹がいっぱいになる。結構大きかったし、同じ味ばかりで飽きてしまったんだ。
もう食べなくていいのかな?
見てみる。無言だった。口の形だけ変わって、声は聞こえない。それでも聞こえた。
食べろ。
おにぎりはあと十個ある。無理だ。試しに一個だけ無理矢理食べたけど、辛かった。あと九個は無理。
食べろ。
冷たい目に見下される。口だけニィと攣り上がっている。おにぎりの一つにナイフを突き立てるのを見た。
十三個が意味するものがなんとなく分かってしまう。部員と、マネジと、監督と、先生。
意地でも食べなければ。死んでも食べなければ。厳密に食べきらなければ。
七個目。お腹が痛い、苦しい、もう駄目、入らない、無理。
八個目、九個目。いつまで経っても最後の一口が飲み込めない。
十個目、胃が痛くて動くのも辛かった。動けなければ食べられない。
見る。笑っている。待っている。壊れるのを待っている。求めるのを待っている。
イヤだった。負けたくなかった。でもそれ以上に自分の意地で二度と人を傷付けたいとは思わなかった。
足を横に拡げ、お尻の穴を自分の指で拡げ、催促。
こっちでたべさせてください。
惨めで悔しかった。涙だけは堪える。
ぐにょぐにょと潰れた感触。細かいお米粒がちゃんと入る訳もなく、もうなんだかわからなかった。
十個目、十一個目、十二個目までは入った。ぐちゃぐちゃ。いつの間にかイッていた。
最後の十三個目、食べられる。目の前で。吐き捨てられる。目の前で。
お前だけは助けてやらないよ。
そう言って笑われた。お腹を蹴られた。
誰もいなくなった後、一人で処理。つぶつぶとした感じは治まらなかった。
痒い。ごろごろする。違和感。ホースを自分で。水が溢れる。
他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ。
(空白)
部屋。机の埃。ゴミ。ティッシュの山。
手が止まらなかった。
(空白)
部活の朝練。阿部君から呼ばれる。
「三橋にやる」
「……う?」
「いつも腹減ったとか言ってるから……オレが作って来た」
「あ、ありがと、阿部君」
渡された袋の中には。
「お前見た目と違って食い意地張ってっから、多目に作ったんだ」
「う、あああ……」
「ちゃんと食えよ」
たくさんのおにぎり。
(空白)
昼休み。手を洗いに行きたかった。教室のドアが閉まっていた。
あっちにきょろきょろ、こっちにきょろきょろ。
田島君と目が合う。気付いてくれる。
「オレしょんべん!」
「お、オレも!」
田島君の後を追う。田島君は本当にトイレに行った。その間、手を洗い続ける。
洗っても洗っても、ねっとりした感覚が付き纏って離れない。
(幕間)
昼休み。三橋が手を洗っているのを見た。三橋はずっと手を洗っていた。田島がトイレから出てきて、やっと三橋は蛇口を捻り、水を止めた。名残り惜しそうな顔。
三橋と田島がいなくなった後、試しに蛇口から水を出してみた。屋上の貯水タンクに貯められた水がこんこんと流れ出てくる。
ぬるくて少し、心地好かった。
(空白)
呼び出しがあるとユーウツになる癖に呼び出しがないとないで不安になってしまう独りでいることが恐ろしくなってしまう。
「……行こっ、かな」
誰かの家に。部屋に。
きっと忙しくて、散らかしてる。
それをキレイにするだけ。ほんのちょっぴり、キレイにするだけ。
ピンポーン。チャイムの音。間。足音。
がちゃり。ドアが開く。ちょっとだけ驚いた顔、してる。いきなり来たら、やっぱり迷惑だったかも。反省。でも、独りで自分の部屋に戻りたくなかったんだ。この時は。
「どうした?」
「あ、あのっ、そのっ!」
「いいから落ち着けよ、まず」
「う、う、あ……え、そ、そう、じ……」
「……そうじ?」
「部屋!そ、掃除しても……いいです、か?」
すごく……呆れた顔してます。
(幕間)
あらすじ。
突然「掃除させてください」と部屋に上がり込んできた三橋は何故かメイド服で、メガネで、人の部屋に入るや否や問答無用で掃除を始めた。
あらすじおわり。
三橋の上擦った声。
「……くんは、片付け、キライなのか、な」
「……あー、うん。見ての通り」
とは言っても、蜘蛛の巣が張ってあったり、机に埃が被っている訳でもない。決して言い訳にするつもりはないが、不潔にしておくのは内なるポリシーが許さないのだ。
ただ、物が多すぎて上手く収納出来ず、辺りにほったらかし状態になっているだけである。
「今度からちゃんと……お、おかたし、しなきゃ、めっ!する、よー」
三橋がモップの柄の部分で床をトンと叩くと、鼻からメガネがずりっと落ちる。ベタベタだ。ベタベタ過ぎる。だがそれがいい。
レースがたっぷり付いたスカートから覗く男の膝が直視出来ず、胡座を掻く足の上に雑誌を拡げてテントを隠す。三橋がこっちを見て微笑む。
だからって、この展開はまるで予想外だ。三橋は今、同じ学校に通う同じ部活の同じ性別の人間の股に顔を埋め、いそいそと掃除に励んでいる。
「ふあ……んっ、む……ちゃ、ちゃん、とキレイ、にしなきゃ……」
ちゅぱちゅぱ、ぴちゃぴちゃ。
一定のリズムを刻む水気を含んだ音。犬が長い舌を伸ばして水を飲むような、それでいてまた全くの別物。
亀頭を柔かく包む頬肉の質感、筋に伝う先走りを追う舌の動き、鼻から漏れた熱い吐息が根本に吹き掛る度、腰が引けそうになる。一方的に翻弄される。
赤い舌、赤く染まった頬、少し充血した瞳。
「三橋、お前はいいのかよ」
ほんの少し悪戯心。足を三橋の股間に伸ばし、意地悪く踏み付ける。三橋の身体が小さく跳ねる。
「っあ……オ、レはいい。キレイにするだけでキモチ、いいか、ら……んっう、は……でも」
唾液だらけの口元を舌で舐め取りながら、三橋が顔を上げる。四ん這いになり、こっちに尻を突き出す格好。自分からスカートの裾を捲り上げる。下着は履いていなかった。
「し、仕上げはこっちで……キレイにっ、させてもらって、もイイ……?」
尻の穴に両手の人指し指を一本ずつ突き入れ、拡げて見せる三橋。
キレイにする。キレイにする。
一つの単語ばかりが頭の中で反芻される。目の前の過激すぎる行動からの現実逃避。気付く。三橋の行動の異常性。手を洗う学校の三橋。
「……お前、もしかして」
これは夢精したある日のはなし。
(幕間)
部活が終って保健室に直行。
確かめなければいけないことがあった。この間読んだ本をもう一度読まなければいけない気がした。
「先生、この本借りていーっすか?」
「イカ臭くしないならどうぞ。保健室の本だからって、やましい事ばっか書いてある訳じゃないからな」
「しませんよ!」
中村との遣り取りもそこそこ、目当ての本を借りると保健室を後にする。ページを捲る。
三橋のことを考えていたら、いつの間にか“三橋”の文字を探すようになっていたらしく、気が付けば最後の目次のページだった。違う。探しているのは“三橋の症状”についてだ。
「……これ、か?」
――強迫性障害について。
強迫性障害(OCD)とは?
・強烈な強迫観念(払拭しようとしても消えない不安・イメージ)に取り付かれ、※人から見れば異常な儀式的行動、無駄な動作を繰り返す。
※強迫行為(強迫観念を打ち消そうとする行動)
主な症例。手を洗う・ドアノブに触れない・いつも不安そうにしている・汚いものに触れない……。
三橋が変わってしまった原因がここにある気がした。
(空白)
試験が近くなったので久しぶりに部活の皆を家に呼び勉強会。
嬉しいけど、すごく嬉しいのに何かが嫌だった。その何かはまだ分からない。
埃だらけの机を見て、げんなりした顔をする花井君。
不思議そうな顔をする田島君。
片付けようかと気を遣ってくれる栄口君。
前に来た時、掃除してくれた阿部君だけはちょっとだけ怒ってた。
だけど皆、すごくいい人たちばかりだ。
どうしてその人たちの好意を嫌に思ってしまうのだろう。こんなに優しくて、こんなに暖かくしてくれてるのに。
汚れていく。どろどろになっていく身体と心。こんなに手を洗っても自分独りだけ汚れていく。
机の上に置いておいた携帯が震えている。幸せで辛かった時間が終る合図。
皆にさよならして、一人で向かう道すがら。
通りすがる人たちが汚いものを見るような目をしているみたいに見えて、出来るだけ身体を縮こませて、トイレに駆け込む。
蛇口を捻り、水を出す。赤ぎれてしまったところに染みて痛かった。でも一人だけ汚いなんて、そんなのイヤで洗い続けた。
足音がした。顔を上げる。鏡に映った自分の顔。その後ろ。
あの人がいた。
今日もまた、汚れていく。
※精神障害描写注意
(幕間)
・強迫性障害を発症する原因
元々几帳面であったり、融通の利かない性格の持ち主が多く発症した事例を挙げられるが、詳しくは不明。
(融通の……っつーとこか)
・不潔強迫
身体の汚れが常に気にかかり、必要以上に洗浄行為を繰り返す。
(三橋が手を洗う場面はこれまでに何度か見てるけど、あれは確かにおかしかった)
・縁起恐怖
宗教的、もしくは社会的に不道徳な行為をしている・してしまったのではないかと恐れるもの。
(常に周りの様子気にしてビクついてんのはコレか)
・数唱強迫
不吉な数字や、ある規則に則った数字に異常に固執することがある。または、その数を回避する傾向がある。
(エースナンバーと……そういやこの間、13がどうとか言ってたっけ……)
(幕間)
どうやら鍵は揃ったみたいだ。
本に書いてあることを信じるなら、三橋はほぼ間違いなく強迫性障害を発症している。そして三橋の性格のことだ。他人に迷惑懸けるまいと、誰にも言わずに一人で抱え込んで来たのだろう。
今まで、三橋はずっと西浦のチームに馴染んでいると思っていた。過去のことを清算して、チームメイトの一員として、エースとして、仲間を頼ることも出来るようになったのだと思っていた。けれどその考えが間違いだった。
人は簡単には変われない。まして辛い過去を通過してきたなら、疑心も並大抵のことでは解れない。
三橋は変わったフリをして、ずっと遠慮をしていたのだ。誰にも迷惑をかけないように、自分だけ辛ければいいとすべてを背負い込んで……。
それでも、三橋は心のどこかで助けを望んでいた。そうして次第に自分を追い込むようになり、それが手を洗ったり、ドアノブに触れなかったりという強迫行為に繋がっていったのだ。
誰かに気付いてもらいたかった。だけど誰も気付かなかった。
三橋はいつも笑っていた。
『なんでもない、よー』
その時は既にボロボロに傷付いていたというのに……。
三橋は、三橋の癖に嘘を吐いていたのだ。チームメイトを、仲間を騙してきたのだ。
気付いてやれなかった自分に今更腹が立つ。
何が友達だ、何が副主将だ、仲間一人の異変にも気付けないで、今まで何をしていたんだ。
仲間。
ふと、気付く。
そういえば、あいつは。三橋と。三橋に。三橋の。三橋を。
そうだ。あいつだけ。あいつだけは。
ひょっとしなくても。
確かめなければ。
(空白)
久しぶりのメントレ。輪になって、手を繋ぐ。両隣は阿部君と田島君だった。
(手、繋げる?)
田島君が小声で訊いてくる。些細な気遣いが嬉しかった。
試しに田島君の手を繋ごうとする。目を瞑って、あまり意識しないようにして、手を伸ばす。指先が触れた瞬間、それだけで体が跳ねた。拒絶反応――違う、そんな言葉で片付けたくない、逃げ出したくない。
(無理すんな、足震えてっから。繋ぐフリだけしよう)
(う、ん……でも)
(三橋がオレのこと嫌ってる訳じゃないって知ってる。オレもお前のこと嫌いになんかなんねえ。だから……)
――心配いらねーよ。
一つ一つの言葉に涙が出そうになるのを堪える。
そうだ。ずっと嫌われたくなかった。やっと自分を認めてくれるチームと巡り会えたのに、こんなことで嫌われたくなかったのだ。面倒で気持ちの悪いダメピー扱いされたくなかった。だから耐えてきた。
助けて、って言ったら、あとじゃなくて今目の前にいる田島君なら、助けてくれるかもしれない。話を訊いてくれるかもしれな……。
「……ヒイああッ!」
急に手を握られて思わず声が漏れる。田島君のではない、阿部君の手だ。
「みは……」
「ッ、ごめ……ちょっとトイ、レ!」
「!おい、ちょっ待て……」
嫌々をするように首を横に振り、阿部君の手を解くと校内のトイレに向かってひたすら走った。誰も追って来なかった。だけど後から後から尾を引くものがあった。
手を払った時の阿部君の顔。怒っている風にも、悲しんでいる風にも見えなかった。
そこにあったのは、信じていた相手に裏切られた時の――絶望。
約束。絶対に首は振らないとあの日誓った約束を、こんなにも簡単に破ってしまった。後から後から涙が溢れてくる。
もう二度と阿部君や田島君、皆の手の温もりを感じられないと思うと胸が張り裂けそうだ。
あの時、たくさんの勇気をくれた手を自分から拒否してしまったのだ。なんてバカなことをしてしまったのだろう。
手を洗いながら涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔も洗う。冷たい水を何度も叩きつける。それでも、涙は止まらなかった。
最後に触れた指は、少し冷たかった。
(幕間)
突然の三橋の奇行に周囲は暫し騒然となった。
三橋の行動の色々は確証を得ていた筈なのに、目の当たりにした拒絶の生々しさは流石にショックだった。だけどこれで確信する。
「三橋のことで話があるんだけど……いいか?」
話を切り出すなら、今しかないだろう。
(幕間)
「お前、三橋のアレに気付いてるだろ?」
単刀直入。反応を見る。眉の端が跳ね上がった。
やっぱり。こいつは。
「……気付いてるよ。あいつの近くに居ること多いから、イヤでも気付く」
「そりゃそうか、お前は三橋と……」
「で、どうするつもりなんだ?」
空気が一変した。
普段の、……じゃない。まるで常の自然体こそ、マスク一枚越しで素顔を隠していたかのような豹変。
剣呑さを秘めた瞳に真っ向から見据えられ、輪郭を一筋の汗が伝い落ちる。膝の力が抜けそうになる。雰囲気に完全に飲み込まれそうになる。同級生との対峙だというのに、一回り体格の違う相手を目の前にしているみたいだ。
「お前はオレが三橋の異常に気付いてるって知って、どうするつもりだよ。脅すつもり?」
「そんなんじゃ!……オレはただ、三橋を助けてやりたいって……」
「どうやってだよ!?あいつ、オレらに迷惑掛けたくねェからって誰にも相談しねえし、自分が参ってることにも気付いてないんだぞ!それを、どうやって!どうするんだ!?」
――考えたこともなかった。ただ、三橋が病気になったことを知って、それを救ってやりたいと漠然に思っただけ、思った“だけ”なんだ。三橋をどうすれば救ってやれるかなんて頭になかった。
三橋の病気を治す為に、三橋を助けること、三橋が助かること。
「なあ、お前に何が分かるんだよ。三橋のこと、ちゃんと考えたことあんのか?……無いだろ」
「そんなことな……」
「あるよ。今だってオレの言ったことで頭ン中ぐるぐるしてる癖に……良く考えもしないでキレイゴトばっか言ってんじゃねェよ!」
鼻で笑われる。そうだ、きっと。誰よりもこいつは三橋に、三橋の、三橋を。
三橋は隠している。隠すというのは知られたくないと思っているのと同義。それをわざわざ暴く真似をして、三橋が傷付かない訳がない。
何ができるか。常時消毒したタオルを持ち歩くとか、三橋に触らないようにするとか。
考えれば考えるほど泥沼に陥る。三橋にしてやれることの少なさ、それもすべて問題解決にまで至らないものばかり。だけど。
「っ……それでも、何かしてやんなきゃ……だってオレらチームメイトじゃん。あいつ一人で苦しんでんの、見逃していいのか?」
ページを拡げ、本を差し出す。
「中村、先生に訊こう」
キレイゴトだって。
偽善だって。
何もしないよりは、遥かにマシだ。
(寸劇)
「……が強迫性障害?」
「手を洗っ……汚い……り、ドアも開けら……」
「残念だけど……」
「なんでだよ!?……三橋は……」
「所詮カウンセリングもどき……あとは病院へ……」
「三橋が強迫性障害なら、なんであいつの部屋は……」
「……推測の域でしかないけど、持ち主の深層心理をダイレクトに表したんだろうな」
「深層心理?」
「一般的家庭の子供が一人います。例えば、住む家が頭と手足の五体、内部から支える居住人の家族を五臓六腑にするなら、自分の部屋、つまり子供にとって唯一の占有スペースってのは本心……ココロになる」
「ややこしいな」
「要するに、自分の部屋っていうのは心の深いところを映す鏡だと思え。汚れていれば気は荒むか、退廃する。綺麗ならやる気が充実するっつう具合い」
「最初からそっちを説明してくれれば……」
「うっせ」
「つか、三橋のココロは汚れてるってことか?」
「あ」
「うんや、三橋の場合は恐らくSOSだな」
「Soんなに、Oナニー、Shiちゃ……」
「あ?」
「なんか電波が……」
「続けてください」
「……人前でやたら汚れを気にする癖に部屋だけは汚い。自分をキレイに見せたいってのは、嫌われたくない願望の表れ。だけど部屋は汚い。誰かに助けてもらいたいって本音なんだよ、それが」
「取り敢えず、明日にでも三橋の調子を看てみよう。今日は余計な刺激を与えないように出来るだけ近付かないこと、いいな?」
「はい!」
「っス」
※嘔吐・虐待描写注意
(空白)
授業が終って部活の時間。いつもと変わらずマウンドに立つ。
顔を上げると、阿部君がキャッチャーマスクを下ろしているところだった。こっちを見て、持っていたボールを投げる。左手のグローブでキャッチする。掌や指の肉を打ち、骨を震わせる心地好い衝撃に小さく息を吐いた。
この瞬間。やっぱり、野球が好きなんだと実感する。野球をしてる間だけはイヤなことを忘れられた。いや、忘れられるというより、考えられなくなる感じ。
どうすれば打たれない球を投げられるとか、ピッチャーの所為で負けたらどうしようとか、阿部君の配給を自分なりに考えてみてぐるぐるしたりとか。
頭の中、それしかなくなる。集中できてるんだと思う。
足元の土をスパイクで踏み均して、息一つ整えようとするだけで心臓の音が早くなる。指先に血が巡り、手がすごく熱くなったみたいだ。
阿部君から投球の指示が出る。
グローブから右手にボールを持ち変える。左足を胸に引き寄せるみたく直角に上げ、引いた右腕を肩上くらいの高さからストライクゾーンに目掛け、肘を使い、力を入れずに重力で振り下ろす――――その時だ。
いつもとなんら変わらないフォームだった。左足を踏ん張り、ボールを持つ指の力を緩める。それだけでボールは軌道を残し、阿部君のミットに収まる筈だった。
ボールが指先を離れる瞬間か、それより少し前。硬球の縫い目が指に掛った。初めて硬球を投げた時に感じたものと似ていて、全く違う違和感。
縫い目からじわじわ漏れ出した目に見えない液体が、指先を汚していくイメージ。このボールは阿部君が触っていた。阿部君はいい人で、だけど人間の手はバイキンで汚れていて、阿部君の手もバイキンで汚れている。
阿部君が触る前にだって、絶対誰かが触っているボール。使ったボールは磨く。指紋や汚れのついたボールを雑巾や靴磨きで磨く。それは汚れを取る仕草ではなく、染み込ませているように見えた。
瞼の裏側でアリの大群が指から腕、肩へと行進していく映像が再生される。妄想だってわかっている。わかっていても、気味が悪くて嫌悪でごちゃごちゃになる。
(気持ち、悪い……)
――全身の感覚がきえた。
ボールが手を離れた。目の前にあったものがぐるりと反転する。
阿部君の黒いミットから、地面の赤土、投手板。胃の下の方が迫り上がってくる。咽の奥が熱くて焼き切れそう。苦しくて息がしたくて、堪らずに口を開ける。食道を衝撃のかたまりが駆け上がった。
「ぐええええええ……!」
びちゃびちゃ。マウンドを汚していく。いつから自分は垂れ流しの水道になってしまったのだろう。阿部君がつくったマウンドを汚していく。びちゃびちゃ。
いけないダメだ。そう。わかっている。わかっているのに止まらない。口の中が苦くて、酸っぱくて、最後の一滴まで吐き出す。
(……吐いちゃっ……た)
二本の足で立つ力もなくなっていて、へなへなと地面にへたり込む。イヤな臭いがする。ユニフォームに掛った嘔吐物からだ。
何が辛いのか、鼻水と涙が次々に出てくる。
もう何がなんだかよくわからない。この後どうしようとかさえ、考えられなかった。
「……三橋」
足音。影。阿部君の声。ぐちゃぐちゃで惨めの顔を見られたくなくて、う、とだけ返した。言葉は出なかった。
すっ、と顔の前に水の入ったペットボトルを差し出される。こんなに汚いピッチャーなのに、こんな時でも阿部君は気を遣ってくれる。嬉しかった。縋り付くようにペットボトルを受け取り、中の水を咽を鳴らして飲み干す。
「ぷは…………あ、阿部君……ごめんな……」
ぐっ。
押し付けられる。それはホウキとチリトリ。阿部君を見る。阿部君はこっちを見ていなかった。違うところを見て、眉を顰めていた。
「自分の始末は自分でしろよ」
当然のことだと思う。思うけれど、ショックだった。
いつから、困った時は阿部君が助けてくれるなんて、都合のいいことを“当然”だと思ってしまうようになっていたんだろう。阿部君だってこんな投手、本当はイヤに決まってるのに……。
阿部君を頼り過ぎていた。そして重荷になって、呆れられて、嫌われた。汚れてしまった。
泉君や西広君、花井君達が駆け寄ってくるのを見ながら、吐き出した昼食の上に倒れ込む。ぐちゃり。
(暗転)
(再開)
「……簡単に気絶してんじゃねえよ、ッらァ!」
「っひぐ……!」
鼓膜を破る勢いの怒鳴り声と、腸をぐいぐいと圧迫する突き上げに意識が戻ってくる。出来れば、ずっと気絶したままでいたかった。
いつもの呼び出し。いつものように抱かれている。
気を失っていた少しの間、部活の時のことを思い出していたみたいだった。ここにはマウンドもなければ、野球部の皆だっていない。阿部君だっていない。けれど一瞬浮かんだ平和な光景はなかなか離れなかった。
野球をしている自分と、呼び出され犯される自分。ついに、どちらも汚れてしまった。汚れてしまったのだ。涙が浮かぶ。溢れる。手の甲で拭うことは許されていなかった。
「あれだけ周りにはバレないように振る舞えって教え込んだのに……薬の摂り過ぎでとうとう脳味噌すっからかんになっちまったか?あ?」
前髪を引っ張られ、顔を上げさせられる。目に唾を吹き掛けられる。首を捻って逃げようとすると頬を叩かれた。頭、ぐらぐら。
「いっ、あ……あ、うあ、ああああ……!」
狭い箇所をみちみちと押し拡げ侵入してくるもの。腰を打ち付けられる度、言葉にならない悲鳴が漏れる。反らした喉笛に噛みつかれ、外側と内側から与えられる痛みに何も考え及ばなくなった。
もう一度吐き出したい。上からも、下で出入りするやつも、全部。
「約束も守れない奴がチームのエースやってていいのか?」
「うぐ……い、……せん……」
「もう一度」
「……ひっ……い、けまぜ、ん……!」
「……よし、罰をくれてやる」
鼻が詰まって上手く発音できなかったけれど、それについての罰はないようだったのでほっとする。ほっとした次の瞬間、ぞっとした。
銀色に光る安全ピンの針先を、目の近くでちらつかされたのだった。
「やだ……イヤだ……」
「駄目」
「……な、んでもします、なんでもやります……だから、おちんちんの穴に入れるのは……お願いですから……お願い、おねがい……」
本当にやめてほしくて、自分から首に抱きついて、腰を動かしながらお願いする。ぐちゅぐちゅとお尻の下から音がする。内股がぴくぴく震える。
穴の奥深くまで潜り込んだものが中の肉を擦ると、気持ち良くなって動くのが止まってしまうから、それだけ注意。
「……お前って」
「……ふえ」
優しい声がしたと思って、目を開ける。安全ピンが視界から消えていた。
――助かった。
そう思った。それが甘かったのだ。
「!?っらああああああああ!!」
「本当に救いようのないバカだよ」
突然、耳に激痛が走った。
柔かい耳たぶより内側の、軟骨のところ。そこを尖がったものがぐりぐりと進んでいく。進んでいくけれど、元々穴が空いている場所ではないから、なかなか進まないんだ。
足をばたつかせようにも縛られている。手で跳ね避けようものなら、きっともっと酷くなる。ならばせめてもと抱き縋った。
耳に熱が集まってくる。
「痛い痛い痛い痛い!もうやだ!もっ……許してえ!おねがいゆるしてえ!イタイのやだ!いやだああ!おねがいだからああああ!」
ぶつり、ぶつりと針が肉を貫き進んでいく。
耳だからなのか、刺さる音がすごく生々しく聞こえて、聞きたくなくて塞ぎたくて、でもそこは耳で、何を言っているのか考えているのか。
ぐぐっと力が入る。それを押し返す肉厚。いっそ早く刺さってほしいと思う。苦痛の時間ばかり続く。
ずっ。
「っ!」
貫通、したのだと、これだけはわかった。
開きっぱなしの口から唾液がとめどなく溢れる。息が追い付かなくて、水から上げられた魚のように口をぱくつかせた。目もずっと開けっぱなしでいたので乾燥して少し痛かった。
「はあ、は……ふ……はあ……」
「……落ち着いたか?」
宥めるように背中を撫でられ、こくんと相槌だけ打つ。耳が火傷を負ったみたいに熱かったけど、さっきよりは痛くなかった。これで終りだと思えば、もうどうでも良いことだった。
――だから、それが甘いんだって、いったい何度、繰り返せば――
「じゃ、穴拡張すっから」
(空白)
安全ピンを三本使って穴を拡げた後、拡張用の先端が尖がったピアスを耳の内側に通された。帰される。
ピアスを外したら次は…………。
最後の脅し文句。
考えるだけで震えが止まらなかった。
雨が降っている。傘は持っていなかった。結構降っている。さっきから震えが止まらないのは、怖いだけじゃなかったみたいだ。
歯がガチガチと鳴る。膝に力が入らず、ふらふらと右に左へ。家までの道のりがひたすら遠く感じる。
なんとなく耳を触った。ピアスをしている方。ぬるっとして、指が滑る。血が出ているのかと思ったけど、指についている液体の赤みが少なかったから、膿が出たのかもしれない。
濡れた服が身体に張り付く。気持ち悪かった。寒くて死にそうだと思った。それでも手を洗うことがやめられない、とまらない、とめられなかった。
感覚がなくなるまで洗えば、それで心が何も感じなくなるまで洗い流せるならば、どんなに救われたただろう。
ピッチャーでいる自分、汚れてしまった自分。今日まで別けているつもりだった。けれど今日で一緒になってしまった。軽蔑されてしまった。
誰にだって人に知られたくない、知らない一面はある。それは……も一緒だ。……は変わってしまう。まるで二重人格。最初は信じられなかったし、演技に見えたので冗談だと思った。でも違った。
日に日にエスカレートしていく要求。目の色が変わっていく。
最初は。次には。そして。もうこんなところまで堕ちてきていた。
雨が降っている。歩き出す。びしょびしょのぐちゃぐちゃな格好で歩く。通りすがる人達は、みんな傘の影に隠れるように俯いて歩く。始めからそこに存在していないみたいな扱いだ。今は逆にそれが嬉しかった。
今の汚れてしまった自分を、三橋廉として誰にも認められたくなかったから。
明日も学校。部活もある。呼び出しもきっとあるだろう。
今度こそ他の誰にも気付かれないように、キレイにできるだろうか、キレイにできるだろうか。
(幕間)
何気無く外を見ると、降り始めた雨が窓ガラスをぽつぽつと打っていた。
ぼんやりとつい考え込んでしまうのは、今日の部活で起こった出来事。近付くな、と言われたからといって、チームメイト、しかもあの三橋を放置してしまった。
マウンドで嘔吐を繰り返す三橋の凄惨さに躊躇したことも認める。臭気の漂う中、必死に笑顔を取り繕うとしていた様には些か戦慄さえ覚えた。近寄り難い雰囲気は確かにあった。
けれど、かと言って、何もしてやれなかったのは、それは自分の脆弱。
何も考えずに動けたメンバーが羨ましくあり、心底助かったと思った。花井達が倒れた三橋を養護している間、咄嗟に判断できなかった一部でマウンドの掃除をする。どいつも陰の落ちた浮かない顔をしていた。交わす軽口すら見付からない。
ぼろぼろの三橋を目の当たりにした後では、気の利いた冗談一つ浮かばなかった。そして、ここまで三橋を追い込んだものの正体に気付けないでいる自分自身に腹が立って仕方なかった。
これでどうして三橋を助けてやるなんて、上目線で物が言えたのだろう。困っている仲間に手を差し延べることすら出来ないで、一体どの口でキレイゴトを並べたのだろう。
無力で、無知で、幼すぎた。無謀だったのだ。人一人を救うということを、生半可な覚悟で実践しようなんてそれこそ無茶なのだ。
切り替えなければならない。三橋を助けると決めたなら、戸惑っていては何も解決しないのだ。
「……っしゃ」
明日になれば、明日こそは解決の糸口が見付かる。そう思うと心の中が少し晴れた気がした。
空は相変わらず雨模様。
点けっぱなしのテレビから流れる天気予報に耳を傾ける。
『……地方で…………の雨は暫くの間、雨雲が停滞し…………晴れる兆しは…………まだまだ先に……』
アナウンサーの淀みのない滑舌に、どもりだらけのチームメイトの喋りが重なり、少しだけ笑えてしまった。
(幕切)
※神経症・虐待描写・キャラ、背景改編注意
====================================
(ト書き)
役者から、第三者へと視点が切り替わる。
(開幕)
* * *
みにくいアヒルの子はハクチョウの子供でした。
ハクチョウになれたアヒルの子は翼を一生懸命羽ばたかせます。
しかし、一度傷付いた片翼では空に舞い上がる事はできません。
廉潔なハクチョウはいつまでも冷たい湖に囚われたまま。
ハクチョウはそれが悲しくて聲を閉ざしました。
たとえ、ヒバリの歌声に誘われようとも、
すっかり打ち解けたハクチョウの仲間に翼を引かれても、
空っぽになってしまった心はもう何も感じません。
ながした涙の一滴さえ、湖は飲み込んでしまうからです。
いつか世界の果てから、救いの陽が昇る事を願う一羽のハクチョウ。
(押収したメモより一部抜粋)
* * *
学校という組織の一部で、唯一医療行為を主とする機関がこの保健室である。そして保健室と言えば決まり事項のようになっている消毒薬の匂い。それを些か疎ましく思いながら、浜田は目の前で行われているクラスメイトのカウンセリングを見守っていた。
クラスメイトの名前は三橋廉。西浦硬式野球部のピッチャーでエースナンバーを背負っている。
――三橋の様子がおかしい。
それは先日より、他の野球部員達の間で密かに囁かれていたことなのだが、今朝登校してきた三橋はいよいよその奇抜さを前面に押し出していた。
まず、目についたのは左耳を隠すように貼りつけられた大きなガーゼ。滅茶苦茶に巻き付けてあるテーピングが、その処置を三橋自身の手によって成されたものだと物語る。
開口一番にそれを指摘した田島に三橋は「うっかり冷蔵庫に挟んだ」等と、端からバレバレの嘘で誤魔化していた。けれど、目の下に隈を作りはにかむ三橋を見て、誰も追求を重ねることは出来なかったのだ。
次に態度。三橋は普段から挙動不審の気のある少年だった。だがしかし、今朝の振る舞いは特に酷かった。
まるで猟奇犯にでも付け狙われているかの如く、始終辺りに警戒の目を向けては、小さく縮こまって何かをぶつぶつぼやく三橋。そうかと思えば、いきなり駆け出して水場に手を洗いに行く始末。
これには流石の百枝も声を失い、三橋単体の練習メニューを打ち切ることを宣言した。疲労の色を濃く見せる三橋には休息の場をと、授業開始の時間まで保健室で寝かせることになる。
そこで付き添いに抜擢されたのは応援団の浜田だった。
浜田は三橋を保健室前の廊下に待たせ、鍵を拝借すべく職員室に向かう。奇遇なことに、その場で出くわしたのが養護教諭の中村である。
事情を説明すると中村は暫し俯き、思案に入る。だが直ぐに了承を出し、保健室の施錠を解いたのであった。
だからこそ、浜田には今一つカウンセリングの流れが理解出来ないでいる。
三橋を休ませることが第一の目的であった。それが何故、カウンセリングに変わってしまったのだろう。そもそも、三橋がカウンセリングを受ける理由がどこにあるのだろう。
浜田は頭を悩ませた。まだ内情を知らないのだから、当然だ。
無彩色の紙芝居が捲られる度、三橋は喉奥に物を詰まらせたような喋り方で中村の問いに応答する。
その紙芝居は桃太郎や白雪姫といったお伽話の類ではない。一枚には男と女の対峙。次の一枚には海底を漂う魚といった具合いに、一枚一枚の絵が連立せずに独立している。
もう一つの特筆として挙げられるのは、語り手は用紙を捲る中村ではなく、三橋自身であること。
どうやら関連性の無い絵に対し、自身の発想を述べることで心理状態を探るタイプのカウンセリングらしい。中村は三橋の発言の一語一句を手元のノートに記録していた。
馴れない形式での対話は、さぞ居心地が悪いのであろう。三橋は事あるごとに浜田に視線を配り、気に懸ける素振りを見せていた。その都度、浜田は暇潰しがてらに選んだ本から顔を上げ、安堵を誘う笑みを返してやる。
その瞬間だけ、三橋の脚を揺らす癖は治まった。
次第に廊下が騒がしくなってくる。登校時間になり、生徒が集まり出したのだ。
カウンセリングはまだ続けられていた。保健室には鍵が掛けられ、廊下側の戸には『先生は不在です』の札が提げられている。それで他者の介入を防いでいるのだ。誰でも奇異の目に晒されるのは躊躇する。三橋だとしたら、それは尚更。
「……あ、アヒルは、実はハクチョウで、みんなに認められて、空を飛ぼうと、して……。でも、ハクチョウは怪我してて、やっぱり飛べなく、て……その、う、う……」
少し離れた場所にいる浜田には、三橋のか細い声が全て聞き取れている訳ではない。それでもたまに聞こえてくる話の断片は、どこかもの哀しさを覚える造りになっている気がした。
そしてまた、視線がかち合う。
一方で朝練を終えた阿部、栄口の両副主将は職員室にグランドの鍵を返却へ。泉、田島の二人は同じ組に属する三橋を様子見、迎えを兼ねて保健室へと向かっていた。
西浦では保健室の先に職員室がある構造になっていたので、四人の足並みは必然と揃う。途中まで、高校男児らしく特に他愛もない談笑を重ねていた。向かう廊下の先から、よれた白衣を着た男が現れるまでは――……。
「……分裂症?」
「ああ。まだはっきりと結果が出た訳じゃないけど、恐らく」
阿部のオウム返しの問いに中村は至って平静に対応する。それに対し、状況把握の追い付かない泉は怪訝に首を傾げた。
「分裂症って……何?つうか、三橋って病気なんスか」
「分裂症、別名、統合失調症は躁鬱病と並ぶ精神病。立派な脳の病気だよ」
「症状は?」
「陽性だと思考、知覚、感情のあらゆる精神面に異常が出る。具体的に言うと、いきなり泣く、笑い出す、前後で繋がらない会話をし始めたり、ありえないくらいマイナス思考だったりする――……覚えは?」
全員合致で頷く。全項目に覚えがあり過ぎる。
「オレ、三橋は潔癖症じゃないかと思ってた。なんかいきなり手洗い出すわ、やけに掃除に念入りだわで……」
三人の視線が泉に集中した。
「分裂症にはもう一つ、幻覚、幻聴が見える聴こえるって症状があるんだ。中でも特異なのが負の思考の幻聴だから、『汚い』『汚れている』的なものが始終聞こえて、それっぽい幻覚の一つでも見えりゃ掃除もするし手も洗うだろうよ」
「ふうん」
納得したのか、それとも内容を曖昧のまま聞き流したのか。どちらともとれる微妙な相槌を田島が打つ。
阿部と栄口は今まで挙げられた例を三橋の行動に当てはめ、脳内で再生しているといったところか、無言でいる。泉は突然詰め込まれた情報量を整理しようとしている様子だった。
「つっても所詮素人判断だから、診断は医者に任せるつもりだけど」
「え、なんでだよ」
「前にこの顔ぶれの一部には説明したよな?保健のセンセーに医療行為はできないの。できるのは、あくまでもカウンセリングだけ」
「はあ!?じゃ、今まで得意気に説明してたのは何だったんだ!?」
「……教えなきゃ、絶対お前らは自分で調べようとする。それが怖いんだよ」
トーンの下がった声質が不平を遮る。
「どうせ野球部は馴れ合いの延長線で世話焼くつもりだろ?それが三橋の為になるとは思わないから、予想の範疇で教えてやった」
言っていることの正論性をこの時の四人は十分に理解できた。
確かに、知らなければあれこれと詮索していたことだろう。身辺を探り、質問を重ね、余剰のストレスを三橋に与えていたかもしれない。
それは過去に、三橋と三星との因縁の決着に野球部が絡んだことも大きかった。その件があったからこそ、今回の事態も解決できると、どこかで盲信しているところがあったのだ。
大人と子供の考えの違いをまざまざと見せ付けられたようで歯噛みする。
「ただ、さっきも言ったようにあくまでも一素人の判断だから、鵜呑みにはすんなよ。それと先生が病名ぺらぺらうんちくったことも内密に」
「らーじゃっ」
「おう」
「っし。なら、野球部の監督に三橋は部活休ませるって後で伝えておいてくれ。授業終ったら知り合いの医者ンとこ連れてく。保護者にはこっちから連絡するから……」
それは端から聞く分にはごく自然な会話の流れであった。けれど四人の中で唯一阿部だけは、そこはかとなく不審感を抱いていた。
――手際が良すぎる。
三橋の様子がおかしく、精神病の恐れがあることは承知の上だとしても、だ。
中村自身が言うように養護教諭の肩書き一つで、はたしてここまで動こうとするのだろうか。本人ではなく、友人に詳しく病状の説明を施すものなのだろうか。
普通に考えてノーである。保護者を呼び出すなり連絡するなりして対処するのが一番適切だ。まして、プライバシーに関わる問題を他人に口外することも常識から逸する。
勿論、阿部は教師の諸事情なぞ知る由もない。それでも先程までの口振りから、この程度の予想を固めることなら雑作なかった。
「……そこまではあんたの管轄じゃ、ないんじゃないっスかね」
「は」
「何言ってんの、阿部」
「ちょっと、その発言は無責任過ぎるんじゃない」
「……ちっ」
不味い、と思った頃には時既に遅く、他方向から非難の目が阿部に注がれていた。舌を打つ。しかし肝心の中村の態度は平静としたもので。
「あー、お前の言わんとしてることはわかるよ。迂濶に動いちゃいけないのは傍観者側だってのも。けどな、それ以上に三橋の状態がよろしくなさすぎる」
「つうと?」
「あの耳のでっかいガーゼ。ありゃ十中八九自傷だ。……あんな場所に穴空けるなんて、よっぽど追い詰まってるんだろうよ」
「あ……、あれ自分でやったのか?三橋が?マジかよ!?」
中村と田島が交互に喋るのを三人は愕然と聞いていた。
野球部全員が今朝の三橋を見ている。三橋は誰の目から見ても、一目で衰弱が見て取れる顔をしていた。それでも、周囲に心配させまいと振る舞っていた。
部員達は三橋の気持ちを汲んだつもりで、懸念を口に出すことはしなかった。その時、三橋は気恥ずかしそうにガーゼの貼った耳をずっと気に懸けていた。
本当は、心配して欲しかったのだろう。
無器用な三橋なりの、SOSのサインだった。それに一人も気付いてやれなかったのだ。誰もの胸中に後悔が渦を巻く。
「三橋は浜田が教室戻したから、九組の連中は三橋の言動がおかしくてもフォローしてやって」
「あいよ」
「被害妄想を変に宥めようとすんなよ。余計パニくる。あんまり酷いようだったら直ぐに……」
(…………あれ)
その違和感に気付いたのは――……。
* * *
「でも三橋ってさー。たまに別人みたく変わる時あるよなー」
まるで妙案でも思い付いたが如く、水谷の口が縦に開く。
時は変わって放課後。部室に集合した野球部員の話題は、図らずともエースの容態に集中する。
この日、九組は後期の委員会所属を決めるホームルームが長引き、話題の中心人物を含む数人の集合が遅れていた。それがこの議論を助長させる役割を担う。
悪意、もしくは敬意を払う際は別として、本人を目の前にして根本の噂を拡めようとする配慮の欠けた人種は少ない。それは成人に満たない若歳の集う野球部間にだって言える。
けれど、この些細な時間ばかりは別だった。一人のチームメイトに湧き上がる好奇心が、あるいは懸念か不安が、部員の心境を揺るがした。
こうして仲間内で意見を交換することで、唐突に生まれ出た感情を抑え込もうとしているのだ。若さ故の衝動は、そういったところから発生する。
「……うん。マウンドで投げてる時は別人みたいだと思ってた」
「そうかと思えばいきなり泣き出したりな」
「臆病のくせに頑固だし」
「そーそー」
ボール回しをしているのと変わらない調子で、会話が部員の口から口へ回されていく。内情の断片に触れた副主将の二人を除いて。
そしてこういった話題が上がった時、どういう訳が核心に迫る発言をする人間は大体決まっている。
「ひょっとして、三橋って二重人格だったりして?」
水谷の思慮無しの発言に、何故か二人の心臓がどきり、と強く脈打つ。核心も根拠もそこに存在していないにもかかわらず、駆り立てられる。
「……ないない。あの三橋が?……まさか!」
「てめえは会話のキャッチすらまともにできねェのかよ」
二人分の非難を浴び、一瞬たじろぐ。だが水谷とて引いてばかりではない。
「けどさあ、あいつ最近おかしいじゃん。なんか変なものに取り憑かれてるみたいに……」
その一言を受け、今まで閉口していた西広が静かに述べた。
「……それって、ビリーみたいだよね」
「……ビリー?」
「それ、誰」
「犬の名前とか」
「ブートキャンプの人か?」
(……低脳ばかりめ)
――思ったが、自重する。
「……ええと、違くて。24人のビリー・ミリガンとか読んだことない?実際にあった多重人格者の半生を綴った話なんだけど……」
歯切れの悪い言葉と共に、やや消極気味に各部員の顔色を探る。野球一筋でやってきた中に勤勉な読書家がいるとは思えなかったからだ。現に西広自身でさえ、その作品を知っていたのは中学三年の夏、読書感想文の題材に選んだからに過ぎなかった。
案の定、西広を除くその場の各自で、見当つかぬ風を窺い知れるリアクションを為している。自然と溢れようとする溜め息を、意のままに吐き出そうとした。
「……あ、あれだよな。犯罪をしたんだけど、裁判で自分は多重人格だって主張した……」
「!……そう!それ!それだよ!」
栄口から発せられた一言に対し、まるで天から与えられた助言を扱うかのようにして何度も頷く。
栄口はと言うと、何気無い発言に過剰の反応を示す西広に面食らっていた。やがて西広もそれに気付いたか、小さな咳払いを一つして真剣な表情を繕う。
「っほん!……まあ、そのビリーの話をかい摘むと、ビリー自身が主人格だとして、他に現れる“好ましくない人格”が色々悶着を起こして事件に発展していくんだ」
「へえ」
「マンガみたいな話だな」
「それノンフィクションなんだろ?今度読んでみる」
各々の異なった見解が交錯する。
それによって、軌道を逸れた話題の方向に阿部は内心で毒吐く。一貫性のない話は、阿部の中で常にバッドゾーンの上位キープをしていた。何より身近で起こった日常の出来事を、根拠のないSFじみた話で塗り堅められていくのが釈然としない。
現状苦しんでいるのは、ここから何千キロも離れた地平の人間でもなければ、仮想の存在でもない。西浦硬式野球部員の三橋廉なのだ。それを、まるで既存のキャラクターと同等の扱いをする同輩が俄かに信じ難かった。
阿部の機嫌がみるみる内に降下していく。表情には出さないようにしているが、纏うオーラが全てを物語っている。
初めにそれに気付いたのは、向かいに陣取っていた沖であった。今にも壁を殴りつけ兼ねない阿部の様子に、なんとかせねばと、停止していた脳をフル活動させる。
「つ、つまり……いや、例えばだけど、普段の挙動不審の三橋を主人格として、投手の三橋、やったら綺麗好きな三橋がいるってこと…………うわああああああ!?」
突如、上がった沖の絶叫。封鎖された空間でまず起こりえない現象は、即座にその場の部員全員の身を竦ませた。
騒ぎの発端である沖は無様に床にしりもちを着き、震える指をドアの方に向け「あ、あ……」と母音ばかりを繰り返している。
「……何だよ急に。ゴキブリでも出たの……か」
一早く硬直から脱し、沖を助け起こそうと動いた阿部も直ぐに言葉を失う。
ぎょろぎょろと血走った赤い目が、開いたドアの僅かな隙間から室内を覗き見ていたのだ。
その視点は暫く辺りをランダムに彷徨っていたが、やがて阿部の視線に気付いたのか一点に絞られ、侵蝕するように瞳孔がじわじわと開かれていく。
「……何のハナシ、してる、のー」
ギイ、とドアが押し開かれた先。
そこには普段通り、締まりのない笑みを浮かべた三橋が立っていた。
「阿部君。何のハナシ、してたの?」
じりじりと近寄ってくる三橋と、距離を置こうと後ずさる阿部の対立図が成立する。しりもちを着いたままの沖が目線で他の部員に助けを求めるも、誰一人として動こうとしなかった。動くことができなかった。
「……お前こそ、その目どーしたんだよ」
「こ、コレ?コレ、は、最近少しだけ、眠れなくて……それでちょっと……」
ぴたり。足を止め、ぐるぐると指を回し、言い訳を必死に紡ごうとする三橋。その、いつもと変わらないどもりの口調に内心安堵する。周囲からは、安堵の溜め息。
「……アホ。どーせまた余計なこと考えて夜更かし……」
「阿部君」
はっきりとした発声が、阿部の言葉を遮った。三橋の足が一歩、前に出る。
「今はそんなハナシ、してないよ」
口角を持ち上げ、三橋は笑む。だが充血した目はどろりと淀み、光彩を失った――まるで亡者の瞳。生きた死人。
「オレがダメピーだから、みんな、きっと信じてくれ、ない。でも、すごく汚くて、触れなくて、辛くて……虫が手の上を……肩を……這いずり回るのは……コワイ、ぞくぞく…………わっ、わ、わわ、わかる?あ、阿部君も、そう?わかる?」
『思考、知覚、感情のあらゆる精神面に異常が……前後で繋がらない会話を……マイナス思考……』
『幻覚、幻聴が見える聴こえる……』
中村の声が脳内でリフレインされる。三橋の現状態と、その一字一句がパズルのピースをはめ込むように合致していく。
「み、三橋は疲れてんだよ。寝てないと頭グラグラして幻覚とか見る……」
「幻覚なんかじゃ、ない!」
宥めようと口を挟んだはがりに三橋からの譴責を受け、栄口は言葉を詰まらせる。三橋は頭を抱え、ぶつぶつと独り言を呟きだす。
「……一人じゃない、二人、二人だ、二人いるんだ……。はやく……他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ……」
「ッ、三橋!お前いいかげんしっかりしろよ!」
阿部の伸ばした右手が三橋の左手首を掴み挙げた、刹那。
「うああああああああああ!!!!」
――絶叫が部室にこだました。
「はっ、なしてっ!はなしてええ!イヤだ!はやく、離してよおおおお!」
「ちょっ、みはっ!やめ……落ち着けって!」
阿部の手を振り解こうと全身で拒否し、頭を振り被る三橋。阿部は突然の豹変にたじろぎつつ、それでも三橋を宥めすかそうと手首を持ち上げ、目を見開く。
「かゆいかゆいかゆい!汚い!汚い!汚いから触らないで!あ、あ、やめろイヤだ……!」
錯乱し、恐慌状態に陥った三橋は、もう自分でも何を言っているのかわかっていないのであろう。爪を立て、がりがりと手首を引っ掻こうとする。
そうしてただがむしゃらに、阿部の手を振り解こうと躍起になっていた。
――パンッ!
そして、肉を打つ、乾いた音が部室内に響く。
そこには、頬を押さえ呆然とする三橋と、振り上げた手をゆっくりと下ろす阿部の二人。三橋は何が起こったかよくわからないといった顔をして、定まらない瞳をうつろわせていた。
「……お前の気持ち、よくわかった」
「…………う、あ……」
「嫌いなんだろ、要するに。オレのことが。
おにぎりだって、家行ったのだって、迷惑でしかなかったんだ。……ちゃんと食えなかったもんなあ、お前?マウンドじゃゲーゲー吐き出すしよ。
病気のフリして、そこまでしてオレのこと避けたかったんだよな。
……どうなんだ三橋、言えよ。あ?黙ってんじゃねェよ!ガキみてェにびーびー泣いて済むと思うな!お前みたいな奴見てっと殴りたくなんだよ!」
阿部の無茶苦茶な叱責が三橋の心を深く抉り取っていく。一言放たれる度に肩を震わせ、先程の動とは異なる静の泣きを見せた。
ぽたり、ぽたり。リノリウムの床の上に小さな水たまりを作る。日焼けの目立たない肌が次第と赤みを帯びだす。
「……い、で」
「……ンだよ……」
「も……、これ以上オレに、かかわる、な……っ!」
* * *
三橋が部室を飛び出して直ぐ、田島と泉が入れ代わりで現れた。
「お前ら、サイッテーだな」
軽蔑を含む冷ややかな物言いで一言残し、田島はその場を去った。泉もその後を追った。
他のメンバーは阿部が部室のドアを蹴り、その場から退場するまでの間、金ダライの直撃を受けたかの如く意識を混濁させていたのであった。
* * *
「あ、泉……三橋は?」
「……田島がひっつかまえて様子見てる」
「そっか」
「うん」
「阿部は見なかった?」
「知らねえ」
「……そっか」
「よっす、健全でイカ臭い野球部員諸君」
「中村!」
「三橋迎えに教室行ったらいなかったから、こっち来てないかと思って来たんだけど……ここもハズレか」
「三橋なら、今は田島が面倒見てます。もしかしたら入れ違いで保健室に行ってるかも……」
「あ、そう。わかった。そっち行ってみるわ」
「……中村先生。三橋のこと……マジで頼みましたから」
「おう、任せとけ」
(――……なんだ、この胸騒ぎ……)
一人の少年の懸念だけは晴れず、心の奥底に蓄積するばかり。少年にもその正体はわからなかった。漠然と不安だけが募る。
本当に三橋は統合失調症で、被害妄想の類を見ているのだろうか。それとも実は多重人格で、別の人格の三橋が為したことであったのだろうか。すべてが疑わしく思えた。
『一人じゃない、二人いる』
三橋の言葉が脳内で反芻される。三橋はあの時、助けを求めに現れたかのように思えた。けれど結局踏ん切りをつけることができず、自分の中で考え込み、暴走した。そんな印象を覚えたのだ。
一人じゃなく、二人いるもの。おかしかった人物、おかしくなった人物。態度が、言動が不審に見えた人物。別の人格。
(ヤバい……ヤバいぞ……もしこの推理が当たっていたら……)
その推理には確信など何一つなかった。それでも、動かずにはいられなかった。
「三橋が危ない……!」
結論に達した栄口は部室を飛び出して行く。
その胸中を知る者は、今はまだ、あまりに少なかった。
* * *
――プレイバック――
1~2((空白)、(幕間)の二人の一人称)
あるところに部屋を掃除できない三橋がいました。三橋はいつも誰かに呼び出され、精神及び肉体的凌辱を受けていました。
そして三橋は自分でも気付かない内に何故かキレイ好きになっていました。野球部員の中にはその変化に気付いている者もいて、三橋のことを心配しています。しかし、三橋は隠しごとが他人にバレるのを恐れ、他言にしようとはしませんでした。
唯一、同クラの田島にキレイ好き(潔癖症)であることを見破られましたが、やはり自ら境遇を話そうとはしません。
ところで、今の若い世代が同じ中学出身をオナチュウと呼ぶのを、オナニー中毒のことかと思ってびっくりしました。
田島以外にも三橋の異常に気付いた部員はいました。その部員は副主将であり、三橋のことを一人のチームメイトとして心配していました。
そんなある日、三橋に付き添って行った保健室で見た本が気になった副主将は、本を養護教諭の中村から借り、三橋が強迫性障害(潔癖症)ではないかと突き止めます。そして副主将は部員を一人を連れ、中村の元に相談に行きました。
一方、三橋の症状は悪化するばかり。ついにはキャッチボール中にマウンドで嘔吐し、昏倒する始末。三橋を救ってやる決意を再三にする副主将。
3(三人称)
ところが、翌日になって登校してきた三橋は、前日よりもぼろぼろの様子でした。耳につけているガーゼを気に懸けつつ、浜田が保健室へ連れていきます。そこではカウンセリングが行われました。
そこで中村が出した診断は統合失調症(旧称・分裂病)。授業が終り次第、病院に連れていくことを示唆するも、不審を抱いた阿部は反感を持ちます。
そして午後の部活。野球部員の間では三橋の話題で持ちきり。中でも水谷が提示した『三橋多重人格説』は、西広の多彩な知識も加わり、有力株になりました。
それをあまりよく思わない副主将両名は、反発します。
そんな時、タイミングよく現れた三橋は阿部に「何の話をしていた?」と執拗に詰め寄ります。
最初の内こそ宥めようとしていた阿部ですが、三橋の、心からの拒絶を受けてビンタ。両者共に深い痛手を追い、部室を後にしました。
部内が騒然となる中、ただ一人だけは別の考察をしていました。やがて、自分の中で一つの推理が組み上がると、副主将――栄口は駆け出したのでした。
* * *
(ト書き)
第三者から、再び役者へと視点が切り替わる。
(アナウンス)
『……舞台は…………いかがでしたでしょうか?』
『至らず……大変申し訳ございま……』
『ですが……を見極める必要性など……』
『肝心なのは……ではなく……』
『……を、救いだすこと――……』
(空間)
そう。気が付けば空っぽだった。現実世界に望みなんてなかった。
遠くに見える微かな光も、絶対にあるとは――それでも――だけれど。
憧憬は所詮個人の思いでしかなく、思考通りに事が運ぶ現実なんて存在しえない。だからこそ、人類は砂漠のオアシスを蜃気楼と知っていて、縋る。そして各々の想い描く理想郷を論ずるのだ。口やかましく。
どうして――そう問われれば、失った場所がスタート地点だったとしか言い様がない。
分岐の潰えた十字路にいたのは、“アレ”。
その時、“アレ”自身は暗闇であり、自分にとっては光彩だった。唯一だったのだ。
(空間)
――みにくいアヒルの子が一羽だと、誰が言ったの?
(空間)
人の苦労など露知らず、“アレ”はベッドの上で、呑気に鼾を掻いていた。
連れ去ることは、決して楽ではなかった。“アレ”だけならまだしも、もう一人いたのだから。
これまで指示することなく、思い通りに動いてくれた人物だ。あとでいい目の一つくらい見せてやろうと思う。
起きろ、と肩を揺すると寝返りを打つ。口の端からは、涎。相変わらずだらしのない“アレ”。
シートからカプセルを二錠。口に。コップの水を口に。そのまま口唇を重ね合わせ、腔内のものを舌で無理矢理押し込める。
こんなものと口を付けて、病気にならないだろうかとか、そんなの、今更。
水はほとんど、隙間から溢れてシーツの染みに変わる。錠剤だけ飲み込ませられれば良かった。
「ん……んっ……」
息苦しいのか、鼻に掛る吐息が上がる。煩わしく思いながら、押し込めた舌で腔内を探ると、目の前の顔に色味が帯びた。
もう一度、起きろ、と覚醒を促し、頬を軽く叩く。厚ぼったい瞼が押し上げられ、虚ろな眼差しに晒される。
舌、と指示を出せば、拙いながらもその通りに絡めてきた。そう教えたのだから、当然だ。
「ふうっ、んむ……っ、んぅ……」
敏感な部位である舌先を甘噛みすると、早くも色艶めいた声が上がった。今までの経験に相乗し、薬も効果を表しているようだ。
互いの混ざり合った唾液が顎を伝い落ちる。ちゅくちゅくと、漏れる粘着質な音はあまり好ましいと思えなかった。
いい加減ダルくなり、顔を離そうとすると“アレ”の手が首に回された。これが恋人のとる行動だとしたら、さぞ寵愛の対象になったことだろう。
けれど、違う。この行為は口付けを深めるものでも、ましてや誘うものでもない。
“アレ”の脳は非常に単純に構築されていて、キスが終れば非道徳な暴行が始まると認知しているのだ。だからこそ、“アレ”と口付けを交す時間は長めになる。
「……やめろ」
「ふ、あ…………ま、まだ……」
「いいから、やめるんだ。三橋……」
未だ、名残り惜しそうに口唇に舌を這わせてくる存在。
これを愚かと呼ばず、一体何と呼ぼうか。
(空白)
キスが終ったら、また繰り返される。
終らなければ進まない。進まなければ終らない。でも、終って、また始まることが怖かった。
ペロペロと犬みたいに舌を這わせて顎を舐める。無理矢理引き剥がされる。
ばすん!
ベッドのマットが衝撃を抑えてくれたから、背中は痛くなかった。
ぱちり。誰かと目が合う。それはよく知った人だった。身長はそんなに高くなくて、同じクラスで、同じ野球部で、いつも一緒にいてくれる人。
なのに、どうして。
この手を伸ばすことも、名前を呼ぶことも、できないのだろう。
(幕間)
まさか、どうして。
けれど、やはり思った通りだった。
下校時間なんかとっくに過ぎてる学校の保健室。そこに絶対いる筈のない三橋を見つけた。探し当てた。
手掛りなんかなかった。すべて直感だった。
様子のおかしかった三橋。噛み合わない言動。嘘をつく必要性。そして、あの時の――……調べてみれば、直ぐにわかることだった。
ただ、それを知ってしまったことが、今後三橋を傷付ける材料になりそうで恐ろしかった。決して、興味本意で知りたがった訳ではないと、どうすればストレートに伝えることができるだろうか。
いや、今は目の前の事態を収集することの方が先決だ。
とは言え、現状が掴みきれていない今、下手に動くのは禁物だ。午後の三橋の様子を見た後では、警戒心も強まっているように思える。
とりあえず、様子見とばかりにドアの後ろに身を潜め、中を窺う。
――そこには、二度目の“まさか”があった。
明かりの消えた薄暗い室内。見間違え、もしくは目の錯覚と片付けてしまうのが一番理論的だ。
だけど、見えてしまったのだ。
三橋と、もう一人いる三橋の姿を。
(空間)
薬の効果が出てきたのか、“アレ”の頬が次第に赤味を帯びだす。顔を近付けると、ハアハアと、間隔が短くなった息遣いが聞こえる。
犬か、お前。犬なら犬らしく、主人に尻尾振ってりゃ上等。
「言われなくてもわかるだろ?」
「……は、はい。仰せの、ままに」
きっと意味もわからず、教えられた台詞を、教えられた通りに言っているのだろう。出来損ないの三流役者以下の棒読み、舌ったらず。むしゃくしゃしてくる。
あんまり腹が立つので、のたのたと腰に掛けられる手の甲に、持っていたマグカップからコーヒーを垂らしてやった。
ぎゃ!と、まるで化け物そのものの叫び声。
その声に気付いたのか、隣の空きベッドの上の影がゆらりと揺らめく。そうでなくとも、代謝機能に優れた奴だ。これだけ騒いで、気付いていない筈がない。
丁度、“アレ”はスラックスと下着を脱ぎ下ろすところだった。シャツはそのまま。これも躾の甲斐。
甲を口先でもごもごと啄みながら、ごめんなさいごめんなさい、と小声で謝罪を述べている“アレ”。煩わしかった。
「……なあ、もう起きてんだろ田島ァ。お前もこっち混ざれよ?」
(空白)
うー、うー。
声を塞がれて、唸っているような音、衣擦れ。
やっと、この暗い部屋に目が慣れてきた。灰色っぽい視界の中、ぼんやりと浮かび上がるベッドのパイプ、白いカーテン、机、椅子。
隣のベッドにいたのは、田島君だった。田島君は、口にガムテームを貼られ、手を背中で纏められ、両足首をビニールテープでキツく縛られている。
それでも、田島君は田島君だった。
よくわからないけど、普段と雰囲気が違う。バッターボックスでピッチャーを睨んでる時みたいな真剣さ――ううん、それとはまた少し違った怖さがある。
視線だけで人を殺すようなとか、聞いたことがあるけど、今の田島君はそれができそうだった。睨まれているのは……じゃない、違うのに震えが止まらなかった。
止まらなかったのは、震えだけじゃない。
昼間、掻き過ぎてひっかき痕が残った手首。いつの間にか、また掻いていた。かゆかったから、どうにかしたかったから。
バリバリバリ。
(空間)
隠そうとしてるけど、バレバレ。
喧騒から外れた夜の校舎。それもこんな密着している状態で、だ。爪が肉を掻く音なんて些細なものだって、それはそれは鮮明に聞こえたわけで。
「まーた症状出てんのか、お前」
「っ……で、出てませ」
「嘘つけ。……あーあー、手首から血出てんじゃん」
「っ……」
肌に舌を這わせ、舐めあげる。生臭さと鉄の味。不愉快だった。
「言ったよな、目の前でそれすんのやめろって」
何度も、何度も。
「ごめんなさっ、ごめんなさ……」
「っぜーな。キレイにしてやっから、こっち来な」
それでも、まだ蹲ってグズグズ。この鬱陶しい性格は、いつまで経っても治る兆しが見えない。ホント、何の為に西浦まで来たんだ、コイツ。
「ほら、おいでよ」
できるだけ、優しく言ってやる。すると、ふらふらと近寄ってきて、胡座の上にぺたりと腰を下ろす。背中を凭せてくるので尻肉を抓ってやる。不細工な顔を更に歪めて、痛みに耐えようとしてるのが滑稽だ。
「キレイにして欲しいんだろ?」
力無く打たれる相槌。だから合意の上だ。決して法に反しているわけじゃない。
一度貼り代えられたガーゼを剥がすと、膿が溜って鬱血した耳が見えた。剥がす時にテーピングが触れたらしく、ヒィと小さな悲鳴。
直ぐに、隣のベッドがギシギシと軋む。それで牽制のつもりなのだろうか。早く自分の無力さを思い知れよ、お前。
自分のポケットの中から、細い棒状のものを手探りで取り出す。銀色のそれは、ワイヤーを曲げて作られた耳掻きだ。
「ッがァああああ……!!」
「はーい、痛くないですよー」
付けっぱなしのピアスを引き抜こうとする。これが腫れ上がった肉が引っ掛かり、なかなか抜けない。何度も錐状のピアスを引っ張っては、もう一度深く刺す。再生しかけていた組織が破壊され、膿と血が混ざったものが手を汚した。
「あっ、あ……もう痛いィィィ、のっ、イヤ……っぐゥゥゥゥ!」
ズッ、と勢いつけてピアスを抜く。痛みのあまり、顔を伏せ、肩で呼吸していた。耳の内側、軟骨に開けたものだから、穴に血の溜りができている。望み通り、キレイにしてやろうと思う。
「っぎィイイ……っ」
ピアスホールに耳掻きを突っ込み、膿を掻き出してやる。ゆっくり丁寧に掻き回す。これもキレイになりたい奴のため、最高の慈善活動。
隣がバタバタ煩いけど、お前の出番は――まだ、これから。
(幕間)
ベッドのスプリングが軋む音と、三橋の絶叫が交互に聞こえる。
三橋は何をされてる?三橋を助けるには、どう動けばいい?
頭の中がごっちゃになっていた。
助けなければいけないのは、わかっている。その為にここにいるのだから。それは何が何でも、遂行しなければならない事項だ。
でもそれ以上に、この非日常の空間にいることが恐ろしかった。
(空間)
さっき尻を抓られたのも忘れ、ぐったりと背中を預けてくるバカ一匹。その、だらしなく開いた口端から涎が溢れ、顎の輪郭を伝ってふとももに落ちる。
ピアスホールにもう一度拡張用ピアスを突っ込む。ビクン!と、お決まりの反応。
ふと見ると、足の合間のブツが反応しているのに気付く。神経の集まる耳も性感帯だ。だからと言って、痛みだけで勃起する真性のマゾヒストはコイツくらいのもんだろう。しかも、皮被り気味の亀頭は、もう既にてらてらと濡れている。
「じゃ、次な」
「っ、そっち、は……っンあ……!」
背後から覗くようにして、皮を指で摘み、内側を耳掻きで軽めにくりっとひっかく。シーツに耳掻きの先を擦りつけるとカスがこびりついた。何度か繰り返しやってやると、それに比例するように生っちろいペニスも膨らんでくる。
「い、っ……た……」
痛いと言いながら、しっかり濡らしてやがる。小さな穴は粘液を垂れ流し続けていた。
折角だから、こっちも。
「ひいいいいッ!!」
鈴口に耳掻きの先端をずぶりと捻じ入れた途端、やかましい悲鳴を上げられる。この状態で黙れと言っても、どうせ黙らないだろう。
ならば、押し込んでやるまでだ。先端の返しの部分で掘り進むようにして、少しずつ、つぷつぷと侵入させていく。排出する器官を逆流される感覚は、強烈な痛みとなっているのだろう。
「ああ……ムリ、むり、ですゥゥ……も、無理ィ……っ!痛いのォ、ち、ちんちんのさきっぽ、痛いの……痛くて死んぢゃう……!」
手足の先を痙攣させながら、訴えられて別に悪い気はしなかった。
頭を撫でてやり、笑いかけてやると“アレ”はきょとんとして、次にほっと息を吐いた。それを見て、手の中の耳掻きをぐりっ、と反転させる。
「ッンァああああああ!!!!」
鈴口の中から耳掻きを出す。くぴゅ、と溢れ滴る赤の入り混じった白。
「キレイになってよかったね」
それすら既に上の空。開けっぱなしの口から、だらだらと溢れる唾液。鼻孔から鼻水。
汚らしいものへの嫌悪から、顔に床拭き用のボロぞうきんをなすりつけてやった。なんというヒューマニストなオレ。
次に目を付けたのは臍だった。シャツを持ち上げ、腹部にぽちっと存在する窪みに耳掻きを沿わせる。たったそれだけのことで泣き出す。
奥へ奥へと、そして、くるりと捻る。皮膚を巻き込むように、くいくいとひっかく。ひうっ、と小さな悲鳴。
出るわ出るわ、臍から白っぽいカスがたんまりと取れた。
臍への刺激は下腹部に直撃するらしく、暫くカス取りに専念していると、ペニスがゆるゆると勃起する。
細身で小柄のくせして。毎夜毎晩弄び続けたのが原因か、性器の周囲には、独特のクセがついた毛がちゃんと生え揃っている。
「やめて、みないで」
止めろと言われると、止めたくなくなるのが人間の性というもの。
しかし、キレイにすればするほど、空になり、何故か虚しく。
そこには、虚しさを削ぎ落とすナイフなんて無くても、毛を剃り落とす剃刀くらいはあった。
シェービング用のジェルを垂らす。ぴくぴくと震えるペニスと二つの睾丸。その上にまんべんなく垂らす。ぼたぼた垂らす。
「じゃ、剃っから。動いたらチンポごと剃り落とす」
「やめっ……も、ホントに嫌なんで、す。バレちゃう、よ、おしっこ、行けなくなっちゃ……」
「行かなきゃいいじゃん。教室で漏らせば?――したら、あいつが面倒見てくれんだろ」
相変わらず、隣のベッドで暴れている田島。一瞥くれると、射抜く勢いを秘めた殺気で返された。
ちゃりちゃりと、毛が剃れる。わざとペニスに刃をひたひたとつけると、“アレ”は目の奥から涙を溢れさせた。ぼたぼた溢れさせた。
「っ、く……む……」
ジェルと毛の混ざったものが、シーツを汚していく。それを人指し指で掬い取り、用意しておいたものに付けてやる。そろそろ、腹が減った頃だろう。
「ハイ、昆布おにぎり」
ああ、なんというエコロジストなオレ。
(空間)
――なみだの数だけ泣き方があり
、涙を流すだけが泣くことではなく。
(空白)
口の中には、まだじゃりじゃりとした感触。毛が喉奥に絡み付いて、軽く咳込む。
どろどろジェルの“のり”っぽい甘味と、お米のでんぷんの甘味の相性は最悪だった。
カルピス飲んだ後に喉に絡む、ぬめぬめした“たん”がずっとまずくなったもの。そんな感じ。
なんだか股の間がすっきりと言うか、ちくちくと言うか、とにかく違和感たっぷり。
あとは耳がじくじくと痛かった。ちんちんの先っぽがひりひりする。お腹の真ん中がじわじわして、体中が異変だらけ。
手首がどうしようもなくかゆかった。例えるならヘドロの水槽に手を突っ込んだような、気持ちの悪さ。嫌悪感。
更に、こんな時でもどうしようもない思考回路は、まだ嫌悪感情が湧き上がることを嬉しがっていた。
男なのに女みたいに犯され続け、罵倒され、ゴミのように扱われることの繰り返し。
いつからか、それらが“当たり前”として日常に組み込まれていた。
学校に行って、呼び出しを受けることが当然になっていた。それはもはや義務だったのだ。
三星時代、学校に通うのが億劫に思えた時があった。でも、中学は義務教育だった。
イヤだと思っても、それがやらなきゃいけない義務なら、やるしかない。
逆にマウンドに立つことはスキだった。スキだったから、エースを譲れなかったマウンドを降りなかった。エースはマウンドに立つのが常識、それはある意味――義務だ。
こうして一度義務に縛られてしまえば、あとはそれに従うのみ。
だって、自分から行動するのが怖かった。何かをして、失敗したり、これ以上嫌われるのが怖かった。
スキもイヤも、義務なら、誰かに課せられたことなら、何かあった時、その誰かにも肩代わりしてもらえる。
マウンドでの義務は、こうして西浦に繋がった。通学の義務があったから、西浦で野球を続けられた。
誰かに指示されなきゃ動けないなんて、そんなのすごくカッコ悪いと思う。でも、自分が行動した結果、誰かに不快な思いをさせて嫌われるくらいなら……。
嫌われたくない、野球を続けたい。
でも野球、続けられるのかな。
投手のために用意されたマウンドを汚したのは、他の誰でもない自分自身だと言うのに――。
キレイにすれば、まだあそこに立っていられるだろうか。
だったら、キレイにしなきゃ、気付かれないように。
キレイにしなきゃ、傷付かないように。
(空間)
田島の拘束を解いてやる。
勿論、逃がす為ではないし、こいつにメッタ打ちにされる気もない。
「下手な真似したら三橋の腕折るから」
本気だとの示唆として、“アレ”の腕を背中側に捻じ曲げてやった。
骨の軋む痛みに苦悶を浮かべる姿。田島は目を逸らしている。
腕に力を込めると、意味を為さない謝罪と絶叫が響く。田島の表情が一瞬歪み、そして静かに相槌を打った。
おとなしくなった田島に、エタノールを染み込ませた綿棒を渡す。
最初は訝しげな顔をしていた。だが、“アレ”に犬這いで尻を向けろと指示したら、漸く意図が掴めたのか、顔色を青ざめさせた。
「浣腸は済んでっから、入り口キレイにしてやって」
(空白)
イヤだ。だってそんなの、酷すぎる。
知ってる人。クラスメイトで同じ部活の田島君。
その人にこんな恥ずかしい格好を、場所を見られて――しかも、キレイにしろってどういうこと?
どうして、他の人を巻き込もうとするの?
――……もう、どうだっていいんだ。諦めているんだ。自分がこの先どうなろうと、野球さえ続けていられるなら良かった。
恥ずかしいと思うより、後ろめたい気持ちになるのがイヤだった。
なのになぜ、こうやって嫌われるようなこと仕向けるんだろう。
きっと阿部君には嫌われてしまった。田島君にもこれから嫌われてしまうだろう。
腕折られて野球できなくなるのと、こうなってしまうのと、どっちが正しい選択なんだろう。もう、わからなかった。
シーツの上をガサガサと這う衣擦れの音。背後に人の視線を感じる。田島君だ。
そろそろと、手がお尻の上の方に乗せられる。すごく冷たい手だった。悲しくなった。
お尻にぽつんと冷たい何かが落ちてきた。
「ごめん、三橋、ごめん」
どうして。謝らなきゃいけないのは、田島君じゃないだろう。
でも、その時はなんて言ったらいいのかわからなかったから、黙っていた。ごめん。
(幕間)
携帯に繋がらない。家に掛けても誰も出ない。誰に聞いても返答は同じ。「知らない」「見ていない」「聞いてない」の羅列。
決断までして、ここまで来て。
此の期に及んで、まだ一人じゃ心細いと言うのか。
(空白)
ひんやり。お尻の窪んだところに冷たい感触がして、身体がふるりと震えた。
田島君の吐く息がお尻に当たる。手は氷のように冷たいのに、息は燃えているように熱かった。二人の田島君が後ろにいるみたいだ。
お尻の穴の入り口のところでこちょこちょ動く綿棒。擽ったいようで気持ち悪いような、ふしぎな感覚。
綿棒の先端が皺の一本一本を念入りに這っていく。見られている。
ひんやり。お尻じゃなくて、腕とかお腹とか、胸の辺りに冷たい空気が触れた。
ジョキリ、ジョキリとハサミで布を裁断されている。白い布。シーツじゃなくてシャツ。
するり。元シャツだったものが肩から垂れ下がって、ひらりはらりと床に落ちた。それを目で追って、ゆっくり、視線を正面に向ける。
そこには知っている人の顔。同じクラスで、同じ部活で、いつも一緒の人。
この顔が自分じゃなければ、自分がこの顔じゃなければ――そう願ったところで変わる筈もなく。
だってこれは、隠していたかった(鏡に映った。違う、もう一人の)“オレ”自身なのだから――……。
(もしも、自分が二人いたなら……)
マウンドに立つエースのオレと、いつもの自分。二人は同じだけれど違って、別々の存在。
自分は、ずっとオレになりたがっていた。みんなのエースでいたかった。理想のピッチャーでいたかった。
だけど、いつもの自分は何やってもダメ。ダメなまんまマウンドに立つから、オレはオレにはなれず、自分でしかいられなかった。
そして自分は、オレを逃げ場にすることを選ぶ。自分とオレ、二人の三橋廉を頭の中で創り出したのだ。演じたのだ。
きっかけは、なにかで読んだ多重人格の話。てんでバラバラの事をしても、病気だからってちやほやされてるのを見て羨ましくなった。
勿論、都合よく多重人格になんかなれるわけナイ。だから、そう思い込むだけ。二人いるって、思うだけ。
今苦しかったり、辛かったりしているのはオレじゃない自分。マウンドに立っている時の三橋廉がオレ。
そうやって騙していたのだ。ずっと、ずっと、長い間。それが逃げ道だった。それしかないと思っていた。
惨めな自分は、自分であって自分じゃない別のものだと錯覚し続けていたのだ。
「あ、う……」
鏡の中のオレが泣いていた。田島君にお尻を向けた恥ずかしい姿のオレ。
泣きたいのは田島君の方だろう。
オレが泣いたり悲しいとか悔しいって思うのは、なんておこがましいことなんだろう。
オレはもう、マウンドに立っているだけのエースじゃない。こんなの、理想でもなんでもない。
自分とオレは二人でひとつ。多重人格になれたって、別々になんかなれやしないのだ。
証拠として、ここにこんなにも汚れてしまった人間がひとり。それが事実。
(幕間)
秤のように傾いて、ふりこのように揺れて。
どっちつかずの心は、まだ決め兼ねている。
救うことが正解なのか――それとも現状を維持し、変化を待つことが得策なのか。
歩みが止まる。あと一歩。踏み出すための理由を足が欲しがった。
キレイゴトだけじゃ駄目なんだと、近付けば近付くほど冷静に働きだす思考が訴える。
三橋が色々隠してきたのは、自身の性格と周囲の環境を考えてのことだろう。
事が事だけにおおやけになれば、部の存続すら危ぶまれるかもしれない事態。
――……望むだろうか、あいつが。
他者の落胆の引き金となることを、自ら望むだろうか。
かと言って大人に助けを求めるのは、あいつの自尊心とか決断とか、ずっと耐えて受け入れてきていた全てを否定し、
壊してしまう結果に陥りそうではないか。
どうしたって不安だ。悪いことばかりに考えが傾く。こんなの、らしくないとわかっていても。
救いになると信じて差し延べる手が、咽笛を握り潰すとどめになりそうで恐ろしかった。
( )
嘲笑に胸を焼かれ、罵倒で脳髄を焦がし、虚勢が全身を満たす。
空蝉と化した肉体の中身なんて、そんなもの。不必要なものだらけ。
パンドラのように希望が残されているわけでもなければ、置き去りにした名残りがあるわけでもなく。
どす黒いものばかり溜る。容量を越えて、あふれて、それでもまだ注ぎ足される。
こぼれたものは足元を浸蝕し、内側と外側からじわじわと、
まるで砂壁をスプーンの裏側で、ガリガリと削り取るように破壊していく。
脳内麻薬――エンドルフィンの過剰分泌。痛覚の伝達すら、歪め、緩和してしまう。
このカラダは、何も感じない、何も感じられない、何も感じたくない……と、願う、願えば、強く願った。懇願した。
【診断結果、サクリファイス。自己犠牲からなり立つ、自己の保身。周囲への恐れ。】
(空白)
だから今、身に起こっていることなんて、全部うそっぱちのニセモノのよう。
命令されて、田島君の手が前に突き出される。二本の指が摘んでいるのは、お尻の穴をくりくりしていた綿棒。
綿のところが黄ばんでいて、それを見て顔がカッと熱くなるのがわかった。
恥ずかしい、死にたい、苦しい。できるなら、ここから今直ぐ逃げ出してしまいたい。
だけど、そんなことは到底許されるわけなくて、それがわかっているから、尚更苦しかった。
でも、もうダイジョウブ。腫れた目瞼が重くても、涙なんて一滴も溢れなくて、それどころかちょっと眠いくらいに思えてる。
最初になくなったのは、悔しいって思うので、次になくなったのは、逃げようと思う、の。
慣れた。だって何をしたって言ったってされたって、この先が辛いことには変わりないのだろうから、反応するだけ疲れてしまう。
だから、あとは何にも考えなければいい。黙って、従って、時々嫌がるみたいなフリして、満足させればいいんだ。
そうすれば、相手も慣れてきて、慣れはいつかきっと飽きる方向にいくんじゃないかと思う。
それまで根気強く、待つ。耐えるのも待つのも続けるのも、今までずっとそうだったから、得意分野だ。
ダイジョウブ、まだ負けてない。まだ、続けられる、ココロが何も感じなければ、続けていられる。
今まで通り、投げ続けられるよ。マウンドに立てる。野球ができる。
ダイジョウブ――辛いことなんて手を洗ってすっきりすれば、みんな水に流れて忘れられるから。
可哀想なのはオレじゃなくて、田島君。
田島君は、オレのせいでこんな目に合ってしまって、巻き込んでしまって。
違う、いやそうだ。田島君だけじゃなくて、チームのメンバー全員巻き込んでしまってるじゃないか。迷惑かけたじゃないか。
どんなにやりたくても、続けられても、必要とされてなきゃ、オレはゴミ以下の存在価値にしかならないだろう。
そういえば、前に言わされて、言った覚えがある。びりびりと痛む耳に触りながら、思い出す。穴を開けられたあの日。
傷口からじわじわ拡がる痛みが思い出させてくれる。
「オレは……チームのエース……やってちゃ、いけない……?」
ああ、やっぱり。このチームに必要ないのは、十三人目のたったヒトリだけ。
ごめん、シュウちゃん。
(空間)
人間という生き物は、一時の幸せを堪能するより、一秒の不幸を回避しようとする思考にある。
例えばの話。一般家庭に育った子供が高級フランス料理を食べて、舌がとろけるような逸品を味わったとする。
脳はフランス料理を美味いと認識するだろう。しかし、翌日も食べようとは思わない。
平凡な家庭で育った子供は、意識レベルで高級料理を日々の食卓に望む環境にいないことを、悟っている。
人々はこれを環境に順応すると言う。それは決して悪いことではなく、寧ろ称賛されるべき能力だ。
美味いものを毎日食べ続けるより、質素でも腹に溜る食事を確実に消化することを、大抵の人間は選ぶ。
それが生命力であり、現代風に言い換えるならば生活力になる。
人は知らずの内、自身の生命を長らえさせる術を取ろうとするのだ。
人は喜びや楽しむといった、正の感情より、悲しみや怒りの負の感情を、強く根深く心に宿す。
負を知って、それを忌避しようとする。だからこそ、負は消えない。記憶される。
だとしたら、負の感情で覆い尽された場合に人はどう変わるのか――興味深いところである。
(幕間)
考えた。どうすれば誰も傷付けず、誰かを救うことができるか。
けれど、それは無理だった。何度頭の中で考えてみても、結局は傷付けてしまう。
被害者がいて、加害者がいる関係なら、どちらか一方を救えばどちらか一方は必ず傷付く。
何か理由がある。そう信じたい。だって仲間だ。このチームで今まで良くやってきたじゃないか。
――一人じゃなく二人いるのは、副主将?
――ちゃんと食べれず、吐き出したのはおにぎり?
――態度を急変させた。心配する真似をしていた?
「なあ、お前なんだろ……阿部……!」
安否の知れない田島と三橋。そして姿をくらませた阿部を追って、走る。膝を叱咤する。
吐く息ばかり熱が篭って、指先の感覚が失せて冷えきっていく。
どうして自分はこう肝心な時にいつも、臆病なのだろう。失笑。そして暗礁に乗り上げる脆弱なこころ。
――確信に到って、拭えない違和感があるというのは……気のせいだといいのだけれども。
(空間)
一般に人は肉体の痛みより、精神における苦痛に弱いと聞く。なのでまずは、肉体に痛みを与えた。
割り開かれ、捻じ込まれ、暴かれる痛みと屈辱。相当なストレスになったと予測。
ちくちくと、直ぐに壊れてしまわない程度にダメージを与え続ける。それは精神にも影響を及ぼす。
けれど、これはまだだ。まだ、精神面への痛ぶりは開始したばかりなのだ。
日頃の動向から察するに、インフォーマントは対人関係に過敏気味の傾向がある。
人の欠点を見い出さない・人に嫌悪しないというのは、逆に自身をそういった評価の対象に見て欲しくないという現れ。
ならば、それらの危惧を順ぐりにぶつけてやればいい。心を許す友人に嫌悪されるようなことを、させてやればいい。
友人の田島に肛門の皺を延ばされ、消毒され、最後の砦――つまらない自衛概念が創り出した虚像の人格――を崩してやる。
「……エース……やってちゃ、いけない……?」
瞳孔の開き具合い、呼吸数から見て心身へのストレス過多は明白。
ごそり、と音。まさか、気付かれていないとでも思っているのだろうか。
それにしても、上手いこと突き落とすに適正な役者ばかりが揃ったものだ。
神が味方したのか、それとも悪魔かついたか。
どちらにしろありがたい。これから、また面白いものが見れる。
「なあ、そこにいんの、わかってんだよ。
――とっとと入ってこい…………阿部」
動揺が空気を伝って、届いた。
(空間)
――お友達は誰と誰?
(アタラクシアを追求し、幕間を奔走し続けるのは一人じゃなく、二人の役者)
(幕間A)
走る、走る、ひたすら走る。目指す目的地は学校。
もうそこぐらいしか、思い当たる場所は残されていなかった。
どうか、無事でいてくれ――と願った途端に下っ腹に鋭く走る痛み。
常識的に考えて、腹を下してる場合ではないだろう。
(幕間B)
急に名前を呼ばれ、心臓が口から飛び出るかと思ったくらい驚いた。
どうする?素直に応じるべきか?それともしらを切るか?
考えあぐねたところでまた声をかけられる。
「来ないならいーよ。三橋の腕折るだけだから」
……出ないわけにはいかないだろう常考。
頬を叩き、喝を入れ、覚悟を決めて挑む。
あいつが自ら、後戻りできないところまで後押ししてくれたのだから、甘んじて受けとってやる。
一歩踏み出す。もう一歩、進む。相手の姿が現れる。くたびれた白衣のあいつ。
「……教師が生徒に体罰していーんスか」
「あー、最近の親御さんは学校で何かあると直ぐにそう言い出すよなあ。
おめでとう。お前にはモンスターペアレントの傾向がある」
「……そりゃどうも、中村先生?」
アメリカンっぽく肩を竦め、中村は苦虫を噛み潰したような顔をした。いかにも演技だと丸わかりな、胡散臭過ぎる対応。
「先生、役者向いてないですね」
「自分でもそう思う。でも、舞台に立つのは今回はお前らだから」
何のことかと思うより早く、背後に回った中村に腕を捻じ上げられる。軽口の叩きあいについ油断していた。うっかりだ。
あっという間に後ろ手に縛られ、身動きが取れなくなる。手慣れていた。
当たり前と言えば、当たり前なのかもしれない。この男は三橋だけじゃなく、あの田島の動きさえ権勢できているのだ。
体格はあちらの方がやや優れている程度。元々基礎身体能力が高いのだろうが、それだけじゃない気がする。
底の知れない何かが、執拗に中村を駆り立てている。纏っている雰囲気からそんな風に感じた。確証はないけれど。
「っ!……こんなことして、何するつもりだよ。オレに口外するなとでも、脅しかけるつもりか?」
「半分あたりで半分はずれ。脅しをかける相手はお前じゃない……あいつだ」
中村が顎でしゃくった先に三橋がいた。三橋は、まるで自分が指名されたことがわかっていないようで、虚ろな視線を返してくる。
その横で田島は小刻みに震える腕を抑え込んでいた。わかっている、田島も、そしてオレも。
無防備なように見えて中村が罠を張っていること。仕掛けたら、三橋が更に危険に晒されること。
そして……。
「三橋、お前もこっちに来いよ。痛ぶられるばかりじゃなく、痛ぶる面白さっつーの……教えてやる」
既にその罠は、この場にいる全員を纏めて取り込んでしまっていること。
(空白)
阿部君が出てきて、先生に捕まって、オレは呼ばれた。
田島君が気を付けろと小声で言ってくれたけど、何をどう気を付けたらいいのかわからなかった。
だから、ベッドから降りて歩くだけ。上履きは見付からなかったから、裸足。
爪先が冷たくて、踵も冷たくて、頭の中がちょっとだけすっきりした気がする。
そうやって、阿部君まで深いところにまで巻き込んでしまったこと、都合良く忘れようとしてる。なんて浅ましいのだろう。
ふらり、ゆらり、近寄って、ぱしっ、ぐっ。
何かをてのひらに押し付けられた。なんだろう。そう思って見ると、金属バットだった。
どうしろって言うんだこんなもの。
ほんの少しだけ残しておいた気力で先生を見上げる。今出来る限りの精一杯の威嚇、抵抗。
「それで阿部の骨、どこでもいいから一ヶ所砕け」
抵抗なんてするだけ無駄。改めて、思い知る。なんて無力。
(空間)
「……で、きませ……」
「あ?ちっとも聞こえねえよ。もう一回」
「む、りで……す……」
「もう一回。次聞こえなかったら、どうしようかなーっと」
「ッ、オレに、は……オレにはできません……!」
バットが三橋の手をすり抜けて落ち、カランカランと無機質な音を立てて転がった。
揺れているのが手に取るようにわかる。あと二押しほどしてやれば、崖を転がり落ちる範囲まで来た。
阿部の腹を蹴って転がす。それだけで足元に縋り付き、頭を床に押し付け尻を振りながら謝り続けている。
「ごめんなさいっ、ごめなさ……お願いします、他のコト、なんだってします、から、阿部君は関係ないですから……助けて、お願い……」
それを聞いて、天使が浮かべるような笑みを見せてやる。阿部が言う胡散臭い演技とやらで、たっぷりと……。
「わかった。お前ができないなら……田島にでもやらせるとすっか」
もちろん、見開かれた瞳に映るものが絶望以外のはずがなく。
(空白)
先生がバットを拾い上げ、田島君に渡そうと近付いて行く。気付いた田島君は身構えた。
阿部君は、どこか観念したような顔に見えた。駄目だ、阿部君がそんな顔しちゃいけない。まだ、諦めてほしくない。
阿部君と目が合う。阿部君は言葉にして喋らなかったけど、口唇がぱくぱくと動いて、何かを知らせようとしてくれている。
(ダ・イ・ジョ・ウ・ブ……?)
ニカッ。そんな効果音が似合いそうな笑顔を阿部君は見せてくれた。
どうしてだろう。どうして、こうまでしてオレを励まそうとしてくれるんだろう。
胸と頭がずきずき痛くて死にそうになる。いっそ、ここで死んでしまえば楽なのだろうけど、そんなの無理だ。
田島君に近付いて行くあしおと。バットが田島君の手に渡ったら、田島君をまた深い深いところまで巻き込んでしまう。
阿部君ならいいのか?違う、そんなことじゃなくて……もっと根本的なことだ。
田島君を巻き込むのも、阿部君も巻き込むのも、これっきりにしたかった。
枯れたと思った涙がぽろりとこぼれる。
悲しくて、恐ろしくて、こんなことしか選択できない自分がバカすぎて。
「…………オレがやりま、す」
ごめんという言葉は、全部終るまで待っていてくれますか。
(幕間B)
そう。それでいいんだ。
それが三橋が決断した結果なら、骨の一本くらい安いものだと思う。
こんな状況にいて、内心ほっとできる自分の気が知れない。狂っているのかもしれない。それでも良かった。
気付いてやれなかった報いだ、これは。三橋に巣食う病巣に気付いてやれず、放置していた罰なんだ。
それに残されるのが田島なら、なんとかやれるような気もした。順番がこれで良かった。
良いとか、良くないとか、本当はそんなことを考える権利すら無いこの身。とっくの昔に自由は剥奪され、動けなくなっているのだから。
さっきから体が震えるのは、骨を折られる痛みが怖いとか、そういうのじゃない。武者震いに近い部類だ。
震いと部類の語感が近いけどシャレとか、そういうのじゃない。偶然だ。
ふと視線を上げると、バットを振り上げた三橋がぐずっているのが見えた。それがなんだかおかしくて、笑ってしまう。
お前、そこまでできたんなら最後まで責任持てよ。覚悟したんだろ?
「……やれよ、三橋。オレはもう、覚悟出来てっから」
(幕間A)
しん、と静まりかえった廊下を歩く。
この時間だから、警備とかの問題で校舎内には入れないと思っていたけど、渡り廊下からすんなり入れてしまった。
西浦の警備システムに不安を覚えつつ、ゆっくりと足を運ぶ。
コツコツと後をついてくるのが自分の足音だってわかっていても、やはり夜の学校は少し気味が悪く感じる。
携帯の液晶の光で足元を照らしながら、一歩一歩確実に進む。暫くすると、薄暗い中にぼやんと白い表札が浮かんだ。
携帯の画面を向けた。
『保健室』の三文字。体調が悪い時や怪我した時に頼って訪れる場所なのに、今は何故か頼りなく見える。
この中に阿部や田島や、三橋がいる(かもしれない)。
そう思うと、いつも顔を合わせるチームメイト相手だと言うのに鼓動が早まった。手が汗でぬるついていた。
口内に溜って唾を飲み込み、ついでに大きく深呼吸をして扉に手を掛ける。
「……だっ、誰かいるのか!」
ガラララララ。あっけなくスライドした扉に心臓が一際強く脈打つ。
鍵が閉まってて開かなくて、中には誰もいなくて――……そんなシチュエーションを予想していたからだ。
予想は見事に打ち砕かれた。しかし、保健室の中は想定の内の、最悪のものとも違っていた。
「……誰かいますかー」
返事なんかないとわかっていても、聞かずにはいられなくて声をあげる。
部屋には、誰もいなかった。阿部もいなければ田島もいないし、三橋もいなければ中村先生もいなかった。
教職員だってとっくに帰宅している頃合いだ。当然だ。この部屋におかしいことなんて何一つないじゃないか。
でも、気付く。気付いてしまった。
薬品類を置いてある部屋に施錠をせず、帰ることはありえないだろう。
施錠する側だって人間なんだ。万が一、忘れていたという可能性もあるが、あの人に限ってはありえない気もした。
ガタンッ!
「ひいっ……!」
突然聞こえた物音に今度こそ寿命が縮まった。しかもその音は今もまだ、どこからともなくガタガタと聞こえてきている。
どこから?いったいどこから聞こえてくる?
得体の知れない恐怖に身を竦ませながら、辺りを携帯のぼんやりとした明かりで照らす。
ベッドの下や物陰のうしろから、殺人鬼が飛び出してくるのではないか。
そんな緊張で胸を押し潰しながら詮索する。
すると、またしても気付いてしまった。出来れば気付かないフリをしたまま、ドアから逃げ出してしまいたかった。
掃除用具入れの中から、ガタガタと何かが動く音がしている。中に誰かいるのだろう。
けれど、立て掛けてある箒がつっかえになって、中からじゃ戸が開かなくなっているのだ。
そこまでは瞬時に理解できた。理解できても、まだ恐ろしかった。
中にいるのは三橋かもしれないし、田島かもしれないし、阿部かもしれない。もしかしたら、別の誰かかもしれない。
中にいるのが必ずしも友好的な存在とは限らない。戸を開けた瞬間、ナイフで殺されてしまう危険だってある。
それでも、もう無視できる状況にいないことだってわかっていた。どうにかしよう。してみようと思う。
キリキリと痛む下っ腹を擦りながら、出来るだけ足音を立てずに掃除用具入れに近付く。
こちらの接近を気付かれないようにするためだ。
こうしておいていきなり戸を開ければ、たとえ中にいるのが殺人鬼だろうが阿部だろうが、
不意をつかれる形になって襲って来れないだろう。
胸に手を当て、浅く呼吸を何度も繰り返して、心拍数が治まるのを待つ。
(…………よし)
やるなら今しかないと覚悟を決め、素早くつっかえの箒を取り、金具のとってを掴んで戸を開ける。
ゴロン、ガタガタ!
「っうわああああああ!?」
中から転がり出たものに覆い被さられる格好で、床の上に縫いつけられる。
身動きが取れないのと、いきなり現れたものによって脳がパニックを起こし、わけもわからず手足をバタつかせた。
そして――……目が合う。
「……あ……おま…………阿部、なのか……?」
「…………っ」
答えがないのは猿轡を噛まされているから、動こうとしないのは体を縄でがんじ絡めに縛られているから。
いったいこれは、どうなっているのだろう。
※厨二病三橋注意/病み栄口注意
(空白)
あの、感触が、振動が、手に残っている。
肉に食い込む、骨を砕く、砕いた骨が筋肉を断裂して、音も、声も、なにもかも、まだ、この手の中に残っている。
冷たい呪いのように纏わりつき、離れない恐怖。そして、視線。
覚悟を決めた瞳の奥に映ったもの。それは、逃げ出した弱い自分の姿だった。
そして、阿部君を置いて、移動することになる。シャツはビリビリに切られてしまっていたから、渡された先生の白衣に袖を通す。
車に乗り込む時、かちゃりと何か音がした。田島君と目が合う。笑みを返してくれた。
車が発進する。段々遠くなっていく学校。
阿部君は大丈夫だろうか……なんて、心配する権利だって、どこかに置いてきてしまった。
(三橋、三橋)
田島君の声が聞こえる。小さな声。田島君もオレも、手を縛られているから動くのは不自由。でも喋るくらいは平気。
(守ってやれなくて、ごめん)
違う。巻き込んだのは、守ってあげられなかったのは、オレの方。
(明日から一ヶ月、お前の宿題オレがやってきてやっから許せ。……当ってるかどうかは別として)
違う、違う。今の田島君はちっとも悪くないんだ。気付いてるから、だから気付かないで。
(前にも言ったろ?オレはお前のこと嫌ったりしないって!……それでも不安なら、何度だって言ってやる)
うまく言葉が出てこない。見付からない。
口をこじ開けて声にしたら、苦しいとか辛いとか、弱音ばっかり出てきそうだったから、閉じていた。
(……心配、いらねーよ)
あの時の、朝のメントレとまったく同じ。こうして手を握らなくても、あたたかさを田島君は与えてくれる。無償で授けてくれる。
だからこそ、闘わなきゃいけないんだろう。歯を食い縛らなきゃ駄目なんだろう。だって、ここが踏ん張りどころなんだ。
けれど、もうおわり。
どうしたって苦しいの終りが見えてこないのも、誰かが自分の代わりに傷付くのも全部ナシにしたい。逃げ出してしまいたい。
――感じる。まるで左の手首を蟻が這ってるみたいな、ぞわぞわ。
とっても気持ち悪くて、かゆかった。
かゆかったから、手を擦り合わせるようにして掻いてみる。スリス……バリバリバリ。
(ドナドナドーナードーナー)
車が揺れる。洗っても落ちないなら削り取って、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ
(幕間A)
犯人だと決めつけていた相手と意外な形で再会して、色々と知ったことがある。
――そもそも、犯人ってなんだろう。
阿部の言動がおかしくて、三橋の言動と照らし合わせてみたら、なんだか阿部が怪しく思えた。
それでなんとなく阿部の行方を追ってみたのだけれど、それもよく考えてみれば変な話だ。
元々は、様子のおかしい三橋をどうにか助けてやりたいと思って、偶然見た本にそれっぽいことが書いてあったから、
病気なら治してやればいいと考えたところから始まった。
犯人探しなんて要素はみじんも含まれてない。当たり前だ。病気の原因が人の手によるものだなんて、普通は一つに繋がるわけないのだ。
阿部が三橋に冷たくなったかと思いきや、急に心配しだしたって、その時の気分とか調子とか、考えれば幾等だって理由があがる。
ならばどうして、犯人なんて明らかな敵視で阿部を見てしまったのだろう。
阿部が三橋に何かすると思った。そう理由づければそれで済んでしまうような気もする。でも、そうじゃない。
阿部はそうじゃなかったけれど、違和感があった。人為的な作意を感じた。だから、三橋にこれから何かがあるのではと考え付く。
その結果、やっぱり“何か”はあったわけで……。
自分の場合は推理と言うよりは、第六感に近いものだった。
しかし、阿部の場合は自分なりの推理を組み立てていたらしい。さすがは、西浦の誇るスーパー捕手と言ったところか。
Q.いつ、三橋の異常に気付きましたか?
「様子がおかしいと思ったのは、弁当のおにぎりを分けてやった時」
Q.それはなぜ?
「『食ったか?』って聞いたら、あいつは『梅のおにぎりがおいしかった』って言ったんだ。
あの時あげたのは“昆布のおにぎり”だったのに、そりゃおかしいだろ?
――そん時は食べてないくらいにしか思わなくて、ちょっと凹んだだけだったけど……」
Q.けど?
「ムキになって、あとでその倍のおにぎり差し入れてやったかな」
Q.スイーツ(笑)
――で?
「その後、家に部屋掃除しに来たと思ったらやたら避けられるようになった。
あとは、保健室の前通ったらお前らが話してんの、偶然聞いちまったぐらいか?
そんで刺激しちゃ悪いのかってなって、マウンドで吐いた時は意識して避けようとした。
だけど、あんな奴見て放っとくのも酷だったから、水だけは渡しちまった。吐いたの、オレがやったおにぎりだったし……」
Q.それでは、“彼”が怪しいと睨んだのはなぜ?
「お前も聞いてた通り、まず一介の養護教諭が口を挟む範囲を越えてたから。
次に、ガーゼとテーピングだらけの三橋の耳に穴が空いてるとか言ってたからさ、おかしいと思ったんだよ。
見えないのにわかるわけ、ないじゃん」
Q.……それは、気付きませんでした。
――で?
「これは……あんまり、他人の口から人に言っていい話じゃない。きっと三橋にとって、誰にも知られたくないと思う話だ」
Q.それじゃあ……。
「――…………部室で三橋を押さえようとして、手首を掴んだ。それは左手首だった。それで……見付けた」
Q.何を見付けたのですか?
「手首の、血管の上を走る、スジ状の傷痕」
Q.………………。
「……頭ン中ごっちゃになるよ、あれ見たら。
何て言っていいのかわかんなくなって、三橋も……あんな状態だったし、つい手が出た。それは悪いと思ってる。
その後、冷静になろうとして辺りぶらついてると、これも本当に偶然、あいつの従姉妹に会った。
前に一回顔合わせたことがあって、向こうも覚えてたみたいだったから、チャンスだと思って――……。
昔、三橋に何があったのか、直接訊いてみたんだ……」
(寸劇)
略、略、略、略、略、略、略、略、略、略、略、略、略。
「レンレン……じゃなくて、廉はうちにいる間、ずっと一人だったの。
ううん、私やリューやお母さんもいるから、一人ぼっちとは違う。独りだった。
でも、廉が帰ってくるうちは、きっと廉の居場所にはなれなかったんだと思う」
「おじいちゃんの学校だからっていうのもあって、私や廉は先生たちに普通とは少し違った目で見られることがあった。
向こうは意識してるわけじゃないんだろうけど、なんだろう……過保護とは違う何か……。
それは挨拶のちょっとした語尾だったり、授業で指された時の話し方だったり、ホントに些細なところでわかるくらいの何か。
でも、それこそ普通に授業受けに来てる子にはわかっちゃうんだ。『自分と接するのと何か態度が違うぞ』って」
「私はそれなりにうまくやっていけてた。
特別扱いはずるい!って視線を頭にビシビシ受けても、普通なフリして明るくしてれば、みんなにとけこむことができた。
――……だけど、廉は違う」
「廉はぶきっちょさんだから……。だから、自分がヒイキされてるのをわかってても、うまく自分を周囲にとけこませられなかった」
「……それで、野球部で誰の目からも明らかな贔屓を受けて」
「うん。一人だけ、ぽつんと浮いちゃったんだ。
……わ、私だって、もしそんなやつが一緒の部活にいたら面白いわけないもん。その時はちょっとだけ、野球部のやつらに同情もした。
『うちのレンレンがごめんなさい』って感じ」
「だけど、学校の部活であったことは、部活の中だけで収まる話にはならなかった。
部活で一緒のチームメイトはクラスメイトだったり、違うクラスのやつだったり、先輩だったりする。
……そういうのがクラスで愚痴溢したら……あとは早かった。廉が学校中から孤立するのは」
「先生たちの目があるから、わかりやすいイジメみたいなのはなかった。
その代わり、誰からも無視されるようになる。空気以下の存在に廉は……。
話掛けられもしないし、話掛けてもおばけの独り言みたいに片付けられて……最初いた友達も周りに流されて、いつしか誰も」
「叶はそれでも気を遣ってくれてたみたいだけど、それをよく思わない周りが叶と廉を遠去けた。
……集団生活って、ゾッとするよね。間違ってることだって、みんながそれをしてれば許されることって、勘違いしちゃう……。
言葉の暴力で傷付けられるのも痛いよ?でも、それより“いる”のに“いない”ことにされる方が、ずっと辛くて、痛いコト。
悪口は耳を塞げば聞こえなくなるけど、存在が認められないのは、どうにもしようがないじゃない?」
「廉はそれを自分の所為だって、一人で背負い込んだ。もしかしたら叶や私を頼ったら、巻き込むと思ってたのかも……。
でも、そんな状態がずっと続いて、大丈夫なわけがなかった。廉は……」
「部室でカッターを手首に押し付けて、何度も何度も切ってたんだって」
「だって、って?」
「叶に聞いたの。忘れ物取りに部室戻ったら、電気も点けないで部屋の真ん中に廉が座り込んで……。
『手が野球できなくなれば、マウンドに立てなくなればいい』……そう言ってたみたい。
叶は廉をひっぱたいて、『エースがいなくなったらチームはどうなる!?』って。
それから廉は手首を切ることがなくなって、その時以上に投球練習に精を出すようになった。
まるで投球中毒みたいに、叶のため、チームのために投げ続けた。……あんまり、報われなかったけど」
「自傷行為って、自分を見てほしいって自己主張の現れなんだってね。先生からそう聞いた。
廉の傷だらけの腕を初めて見た時、私は今まで見なかった、目を背けてた――……本当の廉を見付けたような気がした」
「?……ちょっと待ってくれ。その、先生って……」
「……教室に居場所がなくなった廉は、保健室によく逃げ込んでたみたいなの。
あの頃の先生は、たぶん廉の一番の理解者で身近にいた存在だった。なのに、廉の傷には気付けなかった……。
先生はメンタルカウンセリングとかしてたから、そういうの詳しい筈なのに……気付かなかった……気付いてたのかも、だけど……。
レンの一件があってから暫くして、先生は転任することになった」
「――……なあ。もしかして、その、先生の名前ってのは中……」
(幕間A)
阿部の口から語られた生々しい話は、少なくともこの後、三橋と目を合わせて喋る自信を根こそぎ奪っていった。
自分の居場所を、ある日唐突に失くす恐怖を、まだ、覚えていたから尚のこと。
苦しいのも悲しいのも、決して自分だけじゃない。
世界は広いもので、自分より不幸な人たちなんて掃いて捨てるほどいる。
両親共に亡くした子供だっているだろうし、難病を抱えて治療できない人だって、沢山いる。その中で姉弟も父もいて、野球もできる自分は、なんて恵まれたことか。
でも、ふとした瞬間に気付く。隣の席の人間が母に叱られたと愚痴るのを、妬ましく思う自分がいることを。
そして、足元にぼっかり空いた穴に落ちる。自分の居場所を見失う。自分の世界から自分の存在だけが消えていく。
(――……ああ、そっか。だからか)
だから、三橋を助けてやりたいと思った。
チームメイト、副主将、そんなの後回しにしたって、そこにいるのは“一人じゃない”って、教えてやりたかったんだ。
「助けに行こう、三橋を」
神妙な面持ちで阿部も頷く。阿部から聞いた様子から察して、三橋も中村(もう敬称は必要ないだろう)も色々と危ない状態だ。
その上、あの田島まで手も足も出なかったとなると――……これ以上事態が進展する前に、なるべく迅速に対処した方がいい。
……本当は恐ろしかった。殺されるかもしれないって、思っている。でも、それでも。
ひんやりした床から腰を上げる。きっと座っていた場所だけは、生ぬくくなっているのだろう。気を抜けば、またそこに座り直したくなる。でも、二本の足で立って、歩かなくては。
「命張って助けるなら、スタイリッシュな女の人とかの方がサマになりそうだけどね……」
「はは、言えてら。……まあ、今回はダ〇ビッシュ(投手・髪型的な意味で)で我慢しとけ」
顔を見合わせて吹き出す。指先はまだ震えているけど、こうして軽口を叩く余裕も生まれた。一人じゃないことが、こんなにも心強く思える。
しかし、阿部は居心地悪そうに視線を外し、座ったまま動こうとしない。
「どうした、阿部」
「……あー。悪いんだけど、ちょっと先に行っててもらえねェ?直ぐに追い付くからさ」
「…………」
いきなり出鼻をくじく発言だったけど、敢えて何も追求はしなかった。土壇場での腹痛の苦しみは、誰よりも理解しているつもりだ。
「……ん?」
見ると、足元に一枚の紙きれが落ちていた。
今まで気付かなかったのは、暗がりにまだ視界が慣れていなかったのだろう。ゴミかとも思ったけれど、気になったので拾い上げてみる。
「えーと……『みにくいアヒルの子はハクチョウでした』……って何だ、コレ。ヒバリとか、湖とか」
「……そういや、ここ出る前に中村が言ってたな。
『お前は仲間のハクチョウだけど、あの時のヒバリみたいに結局アヒルの子は助けられない』って」
「阿部がハクチョウで、あの時のヒバリ?」
もう一度、拾った紙と睨み合う。
みにくいアヒルの子だったハクチョウを歌で誘うヒバリ。誘うということは、ハクチョウをその場から連れていこうとしたヒバリ。
阿部が打ち解けた仲間のハクチョウ?
みにくいアヒルの子の翼を引いてるのが阿部なら、アヒルの子は三橋だ。
ハクチョウを歌で誘う“あの時のヒバリ”。
ヒバリの正体は、きっと叶だ。
つまり、これは三橋の身辺を表したメモということ。
いったい何のためか――……そう思って見返すと、隅に小さく『三橋/カウンセリング結果3』と書かれていた。その通りなんだろう。
それならば、この続き。
「世界の果てから、救いの陽が……か」
そんな大袈裟なものになるつもりなんて、ちっともないけれど。
足を踏み出すことに躊躇いはもう、感じなくなっていた。一人じゃないって、わかったから。
(幕間B)
なんであいつ、こんな時にちょっと嬉しそうな顔ができるわけ。
紙っきれを拾った栄口の顔からは、さっきまで感じていた不安や迷いが払拭されたように見えた。
いや、見えるだけで根本的なものは変わっていないのだろう。膝が震えてるのがわかる。
それでも、前に進もう、今を打開しようとする気持ちは十分に伝わった。
ポケットの中を探る――……持ってきていた、良かった。
指に触れた細い紐を引っ張り、取り出したものを投げてよこす。
「栄口!」
「え?……っと、これは?」
「見ての通り、お守り。三橋が前にくれたやつなんだけど、今はお前が持ってた方が良さそうだから」
その三橋も、前に同じものを叶に貰ったとか言っていたような気がする。受け売りかよとツッコんだ日が懐かしく思えて、縁起でもないと頭を振った。
走馬灯を見るには、まだ早すぎる。
「サンキュー。じゃあ、待ってるから、また後で」
「おう。また、な……」
栄口がドアから出て行くのを見届け、ついでに廊下をパタつく足音が聞こえなくなるのを聞き届けて、ほっと息をつく。
途端に足に鈍痛が走った。忘れていた波がじわじわと打ち寄せ、額に脂汗が滲み出してくる。
二倍近くに腫れ上がった足は、ズボンの繊維が擦れるだけでも、火を押し付けられたような強烈な痛みを発した。
動くのも、触るのも、しんどくて吐きそうだった。口を開けば、弱音ばっかり漏れそうで、シャツの袖を噛む。
呻いたって泣いたって、どうにかなるわけじゃないなら無駄だ。今自分にできる精一杯の範囲を見極め、実践すること。
それが役者として割り当てるなら、自分の立ち位置として一番ふさわしい役所の気がした。
「あとは頼む……」
携帯のボタンを押しながら、遠くなる意識を掻き集めて、演じてやる。
誰のシナリオかは知らないけれど、こんなところで終るのなんかクソ食らえ。
(幕間A)
阿部から受け取ったお守りを手の上で転がしつつ、さあこれからどこへ行こう困ったぞという現在の地点。
よく考えてみれば、中村の住居どころか行き先の宛てもなかった。
勢いが空回りし過ぎて、どん詰まり。
あまりの情けなさにさっきまでの腹痛も、どこか遠くへ飛んでいってしまった。
取り敢えず、校舎を出て、校門に向かう。車の跡が残っているとか、そんな都合のいい展開を期待してみる。
しかし、世の中そんなに都合のいいことが起こる筈もなく、アスファルトの上には断層一つない――……が、その代わり。
「……ケータイ?」
道端にぽつんと落ちていたのは、見覚えのある携帯の機種。これは確か、田島が持っていたものと同じだったような気がする。
まさか、と思いつつも、拾う。
さっきからバクバクと煩い心臓を無視し、震える指先をもどかしく思いながらボタンを押す。
「さすが、うちのチームの四番はやってくれるよ……」
ディスプレイに表示されたメッセージは予想通り、三人の行き着く先の手掛りに違いなかった。
ナイスメッセージ田島。
※神経症・虐待描写・キャラ、背景改編注意
※統合失調症を旧称で呼ぶのは、高校生が一度聞いて使うには少し違和感があったからです。
(裏方)
「なあ、水谷の作ったクワガタ……ぶっちゃけどうよ?」
「ナイナイ」
「オレには貧弱なエスタークにしか見えねえ」
「エスターク(笑)
ラスボス倒したと思ったら隠しラスボスってのは卑怯っつーか、二度楽しめるっつーか……」
「……でさー、やっと玉座まで着いたと思ったら魔王いねえの。何?あれってバグ?」
「お前、玉座の裏ちゃんと調べた?」
「は?」
「玉座の裏。隠し階段ある」
「嘘、マジで!?くっそ、気付かなかったわ」
「勇者がいて魔王がいないRPGなんておかしいだろ。考察力が欠けてるよ、明智君」
「花井はあんまりゲームとか得意じゃ無さそうだしなー」
「じゃあそのエスターク、ばみりの所で殺しといて」
「ちょ、まっ……巣山ひど!確かにヘタクソかもしんねえけど、これでも一生懸命作ったんだぞ!」
「はあ?」
「オレのクワガタは不滅だ!田島にとて討ち取らせん!」
「っ、アホ!水谷、てめェ何年舞台やってんだ!いい加減、業界用語の一つ二つ覚えろ!」
「(*´∀`)b<日本語でおk」
「それが水谷クオリティ」
「……沖、水谷。次押してんだから言い争うな」
「巣山……。今、ツッコミがオレ一人じゃなくて良かったと思った」
「ばみり」:役者の立ち位置や装置の位置を決める為、床に貼るテープ。
「殺す」 :セットなどを固定すること。
(幕間A)
目的地までそう遠くないが、決して近くもない道のりを自転車でひた走る。
閑散とした夜の住宅街の人通りはまばら。通行人を気にせず、ペダルを漕ぐことに専念出来た。
こんな非日常の時間を過ごして、息が上がれば、心拍数が上がれば上がるほど、落ち着いていく自分がいる。
ドキドキしていた。でも、このドキドキは恐怖や不安から来るものではなく、目の前に置かれたプレゼントの箱を開ける直前みたいな緊張感だ。
目印の『ガソリンスタンド石油王』を右折した先、天高く続いているような錯覚を覚える坂を見上げる。自転車は置いていくことにした。
ポケットから携帯を取り出す。あの後、何度リダイヤルをしても阿部の携帯には繋がらなかった。行き先を伝えようにも、連絡が取れなければそれは不可能。
信頼出来る仲間が一人欠けてしまったように思え、途端に心細く感じる。
――人の思考とは、なんていい加減に創造されたものなのだろう。それとも、これは自分に限ってのことなのだろうか。
移動中なのかも……。そう思って阿部の携帯にメールを打ちながら歩いている所為か、なかなか執着点に辿り着かない。
同じ場所で足踏みをしているみたいだ、まるで。
今は外灯の明かりと携帯のディスプレイが放つ、ぼんやりとした光量だけが頼りみたいなもの。そうやってなんとなく、カンダタを思い出す。
先にあるものを希望だと信じて、足元を見れなくなって、結局は地獄に戻ったカンダタ……。それは何故か三橋と様子が重なった。
「うわっ!」
急に地面が無くなり、バランスを崩して前方に倒れ込みそうになる。
このまま地獄にまでまっさかさま――……なんてことにはならず、遅れて持ち上がった足がしっかりと地面を踏みしめた。
気が付くと、いつの間にかそこは坂の頂上。まだ坂が続くつもりで進めた足が、傾斜の変わった地面を捉え切れなかったのだ。
遅れて転倒を恐れ、心臓が強く脈打つ。このドキドキは、純粋にこれから身に降りかかるであろう恐怖に構えた鼓動。
眼前に現れた錆びれた雑居ビル。傾いた看板の文字は欠けていて、そこが何をする場所なのかは分からなかった。
地下へと続く階段を俯瞰する。暗い。非常灯だけが唯一視界を照らしている。
もう後戻りは出来ないのだと、携帯を握り締めて一歩を踏み出す。隅に張った蜘蛛の巣に蜘蛛はいなかった。
――……決して切れない蜘蛛の糸になれれば、三橋を救い出せるような気がしなくもない。
(空間)
本来ならば、ここは自分の城になっていた場所。
どんなに小さくても構わなかった。夢が叶うなら、どんな形だって嬉しかった。叶った夢を“あの人”に報告するのがずっと楽しみだった。
資金を集めるのに費やした苦難の日々があって、それでも両親に頭を下げようとは思わなかった。がむしゃらに働き、がむしゃらに堅実に生きてきた。それでも叶わないと知った時の絶望は、現実に愛想を尽かした瞬間――……すべてがどうでもよくなる。
田島には眠ってもらった。“アレ”の活力を奪う為に用意した位置だったから、もう用済み。“アレ”は虚ろな目をして、天井を見つめることしか出来ないでいた。
“アレ”は素肌に白衣という装い。そして、自分の片手には真っ赤なロープが握られている。我ながら趣味の悪さに苦笑が浮かぶ。
首に掛けたロープの、急所に当たる位置に結び目を作っていく。特に声帯を圧迫する喉元の結びと、股間に食い込む箇所は大き目に。
股の間から背中に回したロープを引くと、“アレ”の手がオレの服の裾をぎゅっと掴んできた。そんな細やかな抵抗、どうってことない。構わず作業を続ける。
結びに縄を通して白衣の上から胸を強調する網を作るが、何せ痩せた男の体では乳の強調もへったくれもない。薄い胸板を掴んで無理矢理寄せてみても、眉を顰めるだけだった。
そんな単調な作業の繰り返しで出来上がったのは亀甲縛り。少しアレンジを加え、後ろ手に縛る両手は纏めて天井から吊す。
爪先立ちで足が着くように調節してやれば、息苦しさに“アレ”は身を捩って悶えた。喉に作った結び目が気管を絞めるのか、ぐうとカエルが潰れたみたいな声がする。
「はあ、う……っぐ、あ、あ……」
ギシッギシッ、キュ。ロープが“アレ”の重みで軋む。通常の呼吸もままならず熱く吐息を吐き出す姿は、女だったらさぞかし菅能的に映ったのだろう。
太腿に食い込んだ赤い縄の繋ぎから、むっちりとした白い肉がこぼれている。シロブタっぽいとか、思う。
白衣の上から胸板を撫でると、ナイロン生地の摩擦が痛みに繋がるのか眉間に皺を寄せた。それでも執拗に撫でる。続ける。
「や、らあ……おっぱい、潰れちゃ、う……ン」
はあはあと荒くなる息を聞きながら、布越しに胸にしゃぶりつく。唾液で濡れた生地が肌にじっとりと張り付く感覚に、“アレ”は爪先を震わせた。
「も、もうやめ、て……」
顔面をぐちゃぐちゃにして泣く様子が哀れだ。いい気味だと思う。もっと哀れに、もっとどん底にまで落ちてしまえ。
ロープの網目から白衣をずらしてやると、濡れて赤く隆起した乳首が露になる。ここ数ヶ月の調教ですっかり過敏に反応するようになった箇所だ。
ねっとりと唾液を絡めた舌先で乳輪をなぞる。肌にぽつぽつと鳥肌が浮かんでいた。感じているのだろう。
対の乳首も同じように、人指し指の先を乳輪に沿わせて動かす。嫌々と頭を振るが、勿論それで止めようとも思わない。
ぷくりと勃ち上がり、存在を主張する突起を爪先で弾くと大袈裟に背筋をしならせた。それを口唇の合間に挟み、軽く吸いあげてやる。
「っふ、は、あ……あ……」
ぽたり。何かが頬に落ちてきた。見ると、“アレ”が目の縁に溜めた涙を垂れ流している。生理現象で浮かぶ涙なら、乳首一つでよくぞここまで開発されたものだ。自分を誉めてやりたくなる。
舌で突起をねぶりながら、もう片方の粒を指でこねくり回す。“アレ”の膝が震え、ロープがしなった。
「ひうっ……!っが、あ……んんっ」
芯を押し潰すようにして、前歯で乳首を噛む。グリンピース大のくにゅくにゅと弾力を持ったそこは、まるでグミでも食べているような歯応え。吸って、摘み、噛み、銜えて。
ギシ、ギュ、ギシ。
“アレ”が内股を擦り合わせ悶えるので、膝裏を抱えて開帳させてやる。
「なんだ、縛られて感じてんのか?変態だなァ、お前」
「っン……は、あ!」
無意識なのか意識的なのか。既に勃起したペニスをロープの結び目に押し付け、腰を揺らす“アレ”。亀頭から漏れた先走りが睾丸の皺の間を濡らし、粘着質な光沢を放っている。
もがけばもがくほど、ロープは股間を締め付ける。堅く結んだ結び目に些細な圧迫さえ、今の身体には強烈な快楽を生むのだろう。
(……こんなヤツをいったい誰が助けたいと思うか?)
――いる筈がない。男の身体で女のように、女よりも悦がり狂う姿を見て、少しでも嫌悪を抱かない人間がいるのだろうか。
ましてや、性の関心が強いこの年頃。好奇心の延長で常識と異なる未知に直面して、躊躇しない者はいないだろう――……特に西浦の中では。
「…………三橋を、解放してください」
……ああ、やっぱり追い付いてしまった。
予測していたけれど、終幕のベルの時刻が近付くのはやはり名残り惜しく。
(――……ずっと、三橋先輩のことを……)
(幕間A)
「どうやってここを知ったか……なんつうヤボはこの際置いといて、だ。お前、一人で来たのか?」
碓暗いその部屋で中村の声が反響する。真四角の部屋は広さの割りに物が少なく、端に段ボールや空の棚が置いてあるくらい。
その並びにみの虫みたいに拘束された田島を見付けた時は、思わず声を上げそうになったがぐっと堪えた。上下する肩が、田島の生存を語っている。
(……それよりも、中村だ)
こちらに背を向けて立っている中村から、その表情は探れない。三橋の姿が辺りに見えないのも気に掛かる。
それとギシギシと、不定期に鳴る謎の音の正体も……。
「……一人で来た。オレ以外に今ここを知ってるのはいないよ」
嘘は言っていない。阿部にメールはしたけれど、それを阿部が見ている可能性は低い気がした。だから、嘘を言ったつもりはなかった。
「指導者の立場としてなら叱ってやれたんだけどね、『どうして警察に言わなかった?』って」
「……」
頭の隅の方では判っていたのだと思う。それも一つの方法だ。寧ろ、警察に通報して場をおさめるべき事態なんだろう。
けれど、それで壊れてしまうものが怖くて、その手段を諦めた。部活も、友情も、三橋も、事が公になればそれだけ壊れていってしまう。それが心のどこかで恐ろしかった。……エゴなんだ、これは。わかっている。承知の上。
「漫画やアニメの見すぎだよ、最近の子供は。皆自分の手でなんとかなると思ってる……それが手遅れなんだ、狂ってるよ。物事がそんな上手く運ぶなら自殺者なんか出ないっつの。
……なあ、お前もそうなんだろ?」
ぞくり――……また、だ。あの時と、毛虫の忠告をされた時と一緒。肌がぞわぞわ粟立つ。
「高校生探偵気取りの栄口君に訊こう。どうして中村センセーは、君達に分裂症なんて嘘を教えたんだと思う?」
じりじりと、首の後ろ辺りが熱くなっていく。
ありがちでチープな展開。これを漫画やアニメで見たなら、ありふれたワンシーンだとコケ落とすのだろうが、実際に直面してみると足が竦む。
「……多分だけど、そう思い込ませようとしたから?」
あの時、中村はやけに症状について説明的であった。中でも幻覚・幻聴といった症状については殊更詳しかった。それは、則ち。
「三橋の証言から、信憑性を欠かすため……」
不安定な三橋。意味深な言動の数々。加えて、中村の診断。
教師から発っせられたというだけで、途端に現実味を帯びてしまう虚言。それらすべてを鵜呑みにして、悪循環に陥っていた。
そうだ。幻覚、幻聴なんて単語を聞きさえしなければ、あの時、オレと阿部は多重人格説を笑って吹き飛ばせただろう。
恐らく、中村の作為はこうだ。三橋を分裂症だと周囲に思い込ませ、もし何か相談ごとを三橋が持ちかけても『幻覚・幻聴』の所為にさせてしまおうと目論んだのだろう。
だからこそ、三橋が相談相手に選びそうな人物――阿部、同じクラスの泉と田島、そして三橋の症状を調べようとした自分の前で、あの話をした。実に周到と言える。
ただ、その周到さが阿部の不審を煽る形になり、結局はそこから芋づる式に破綻する結果になった。
中村を阿部が疑い、その阿部をオレが疑う。だけど、阿部もオレも心のどこかでは三橋を疑っていた。そうやってまんまと中村の用意した疑心暗鬼に囚われていたのだ。
「……阿部から聞きました。あんたが以前三星学園の養護教諭だったこと、三橋の一件が絡んだあとに三星から転任することになったのも、全部」
「それで?」
「っ、あんたは自分が三星を辞めることになったのを逆恨みして三橋を……!」
「それで三橋に嫌がらせをしたとでも言うのか?……憶測で喋んなよ、クソが」
ここに来て、初めて恐怖を感じた。
自分の非力さ、無力。それらが一体となって肩に重圧として乗し掛る。
ギイギイ。この、何かが軋む音はなんだろう。それに詰まった空調みたいな掠れ声。緊張が極限に達すると、どうでもいいことばかりが鮮明に見えてくる。
例えば、段ボールに印字された『あべたか運送』の文字だったり、部屋の四つ角に張られた蜘蛛の巣のだったり。それは様々。
「お前らみたいのが憶測で行動するからいけないんだ。後先考えず、自分のことしか見ないから、だから苦労する……」
相変わらず、目は室内詮索をしている。相手がこちらに顔を向けてない分、視点が定まりにくかったのだ。
「なあ、お前も親のことなんて何も考えちゃないんだろ?」
(空間)
記憶の蓋を開けると内気で捻くれた自分がいた。親の前でも、教師の前でも、友人の前でも仮面一枚越しの態度で接し、毎日をつまらなく過ごしていた時期があった。
そんな可愛げのない子供が好かれる筈もなく、いつしか周りから人は消え、孤立。それでいいと、表面上では涼しい顔をして実際は酷く孤独だった。
それは月日を重ねた今だからこそ認められる。あの頃は自分の為すことが間違っているなんて、認めるには若すぎた。
そんなどうしようもないガキを救ってくれた人がいる。一つ年上の先輩だ。
あの人に出会わなければ、ずっと何も変われなかっただろう。あの人に存在を認められなければ、今も空気同然で生きていただろう。
恋にも似ていて、きっと尊敬や憧れに近い感情で先輩を見ていた。結婚してからも、子供が産まれてからもそれは同じ。
自分を救った恩人を暖かく見守っていきたいと思っていた。同時に自分を救ってくれた恩人のようになりたいと願って、心療内科の道を目指していた。
しかし、あの出来の悪い息子は先輩の期待を裏切り、追い討ちをかけるような真似までしてくれた。
内の殻に閉じ籠り、ひたすら耐えることで誰が救われると言うのか。誰も助けてはくれないではないか。
先輩は自分の息子が受けていた境遇を知らない。それ故、リストカット等という断命に繋がる行為を知った時の、精神的苦痛は並ではなかった。
仕事と世間体の間で板挟みになり、けれども家庭の為、息子の為にと身を擦り減らした先輩。一度目(かけおち)も、二度目のこれも、“アレ”さえいなければこんなことにはならなかった筈である。
「お前達からしたら“犯人は中村”で、自分達は“正義の味方”なんだろうな……でも、オレから見た世界での“犯人はお前ら”なんだよ」
大人は責任がある、良識がある、嘘をつかない――……そう思ってるならどうして隠す?何故知らせない?何故黙り込む?
都合のいい時だけ利用するのか、大人を。実の親を。それがどんなに残虐に彼らを苦しめているのかも知らないで。
頼りにできない親は役立たず。頼りにされない親は空気と同然。
どうしても理解出来なくて、過ちを犯す。それが過ちと知ってて尚、止まらないのは自分も“アレ”も同じだから。認めたくないから。
要するに、まだ殻の中にいるみにくいアヒルの子が二羽。
(空間)
――つまり、そういうこと。
(ベールの向こうの犯人は虚像。役者不定の為、空間)
(幕間A)
「……あんたが医者になれなかった理由が分かった気がする」
普段は理知的な大人の姿を演じていて、中身は我が儘放題の子供と変わりない。
子供ながらの子供じみた、遠慮も駆け引きも無い策で手段を問わず実践する。自分が絶対正しいと信じ、曲げることなく行為に移すことが出来る。
「…………三橋を返せ」
――だから恐ろしいのだ。
次の手が読めない、何を考えているのか分からない。もしや次の瞬間、自分はナイフで串刺しになってしまうかもしれない。そんな畏怖が背中にべっとりと染み付く。
だけど裏を返せば、中村にはもう後が無いということ。こうして自供したことに加え、三橋と田島を拉致した事実もある。つまり、今さえ凌ぎきれば後の勝算は揺るがない。
「子供に悟られたいなんて一言も言った覚えないけど」
しゅるり。空気を何かが断裂する音がした。
ぱさり。よくは見えないけれど、中村の足元に赤い蛇がのたくって見える。なんだ、あれ。
「……こんなんでも返してほしいの?」
中村がゆっくりと振り返る。革靴で赤い蛇を踏みつけたから、どうやらあれは蛇ではないようだ――……そんなことはどうてもよくて。
中村の腕に抱えられた白いもの、それは三橋の姿をしていた。一目見て三橋と分からなかったのは格好の所為。
三橋はほぼ全裸と言っていい格好をしていた。素肌に白衣を身に付け、ひらひらとした裾の下からにょきりと生えた太腿。それだけで十分異質だと言うのに、だ。
赤いロープががんじ絡めにするみたいにして、全身に巻き付いている。首に掛ったロープを引っ張られ、喉の大きな結び目が食い込んで苦しいのか、三橋はうぐっ、と喉を詰まらせた音を発した。
「み、はし……?」
「はう、あ……う、やあ……」
急に内股を擦り合わせるような動きをするものだから、どうしたのかと尋ねてみる。けれど三橋から回答になる返事はなくて、その代わり中村がたっぷりと時間を取って答えた。
「三橋君は縛られて感じちゃうような淫乱な男の子なんですゥー。うンわあ、きんもー!」
「っ!?」
前に押し出された三橋のからだの変化を見て、思わず床に目を伏せてしまう。
同性の性器を見たことがない訳ではないが、同じチームメイトの勃起したモノを見せ付けられるというのは、なかなか強烈だった。
目を背けた今も、嫌悪に似たもやもやが胸の内側を占めている。
「はははは!なあ、本当にこんなんでも返してほしいの?コイツ豚だよ、豚!ただのシロブタ!……オラ、証拠に鳴いてみろよ豚!」
「あぐっ、う……ううっン!」
中村が手を振り上げたと思ったら、パシッと肉を打つ小気味の良い音が聞こえた。
それは立て続けに聞こえ、その度に三橋が喉を反らせて呻く――臀部を容赦無くに叩かれ、痛みに苦悶しているのだ。
「痛……やめ、て……っ」
「……違うだろ、シロブタ。鳴けって言ってんだよァア?ブヒブヒって、馬鹿みたいにさァ」
「ァああああ……!?」
三橋の裸足の甲を革靴が踏みにじる。皮膚が捩れ、重圧で骨が軋み、激痛で見開かれた瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
そうして、口がゆっくりと縦に開かれていく。負けちゃ駄目だって言いたかったけど、身体が氷付いてしまったみたいに動かなくて。
「っっ、……ぶ、ブヒ……ブヒ、ィ……っく、う……!」
泣きじゃくりながら、豚の真似をする三橋に罵倒を浴びせる中村の姿を見て、腹の底がカッと熱く滾る感覚を覚える。
気が付いた時にはがむしゃらに、何の算段もなく中村に突進している自分がいた。考えることを放棄し、ただ三橋の足からあの革靴をどけてやりたくて必死だった。
けれど、中村にはこんな感情の起伏すら予測の範疇だったようだ。
接触するかしないかという瀬戸際。こちらを見据え、嫌味ったらしい笑みを浮かべた刹那、革靴の爪先が横っ腹を蹴りあげた。
あれでも衣服が衝撃を多少緩和するくらいの役割りを果たしたのだろうか。
目の前に火花が散り、蹴られたという実感も湧かない内に情けなく床を転がる。
内臓器官が押し潰される圧迫に嘔吐しそうになりながら、次に押し寄せてきた全身強打の鈍痛に目の奥が潤う。
「シロブタに突進しか脳の無いイノシシ……西浦の野球部は豚小屋みてェなもんだな」
吐き捨てるような物言いに悔しさばかりが募る。それと同時に三橋が、あの内気な三橋が今までずっとこの仕打ちに耐えてきたのだと思うと、何とも言えない感情が起こった。
――……誉めてやりたい?抱き締めて、頭を撫でてやりたい?
違う、そんな格好付けたものではない。
たった一言、「お前のことが好きだ」って伝えてやりたい。慕情とかじゃなく、人として。一人の人間として三橋廉に好きだ(=認める?)と言ってやりたかった。
出来ることなら、気絶したフリでも何でもしてこの場をやり過ごしたい気持ちもあった。
それでも、反射的に腕は上体を支え、起き上がろうとする身体の補助をする。まだ、闘おうとする。だって、どうしたって負ける訳にはいかないじゃないか。
三橋は、さっきの瞬間に中村に投げ出されたのだろう、自分とは反対側の床に人形みたいに転がっていた。
三橋……そう呼ぼうとして、押し黙る。金属バットを持った中村が不気味な笑みを浮かべ、こっちに歩み寄ってくる。
「阿部は足で済んだけど、お前はもう知りすぎだし……いっちょ頭でもやっとく?」
おいおいおい。これはOLがランチ誘うシーンじゃないぞチクショウ。
それに阿部の足って、まさか。
あの時もう既に阿部は……。
様々な考え、これからの予想が頭の中をごっちゃにする頃、中村の持つバットが垂直に掲げられた。
「アデュー、栄口」
(…………終わり、か……)
ああもう駄目だって、目を瞑った――……その時だった。
「そこまでだ!!」
お決まりの文句。しかし、それ一つで相手の注意を反らすには十分。
「……あ、べ?」
「……おう、遅くなって悪ィ」
入り口の所に寄り掛って立っているのは、ふてぶてしい顔をしたもう一人の副主将に見えた。
先程とは様子が代わり、松葉杖と足に巻かれたギブスが痛々しい――……とか思ったけど、お前それ今年二回目じゃん。
何がおかしいのか、そんなことちっとも分からなかった。でも、この非常識の空間で吹き出しそうになった自分がいるのも事実。
「なんだ、やっぱりお前一人じゃないじゃんか」
拗ねた子供みたいな口調で中村がひとりごちた。首の後ろをバットで軽く小突きながら、現れた阿部の方へと足を向けていく。
「警察を呼んだ。あと数分もすりゃここに来る――……お前は終りだ、中村」
表情が一瞬綻んだように見えて、直ぐに変わる。
「阿部も学ばないなァ。一回やられてさ、自分一人じゃどうにもならないって分かっただろ?折角センセーが教えてやったのに……まーた一人のこのこ戻って来やがって」
阿部がどこまで話したのかは知らないけれど、通報されたと知って中村の、この強気はどこから来るのだろう。
その、底の知れない凶器にまた肌が粟立つ。まだ、助かった気がしないのは一体何故。
「ミハシレンは助からない」
低く、地の底から響くような、まるでそれは。
「しょっぴかれて罰になるのは田島の拉致ぐらいだ。三橋は絶対、この件に関しては一切口を割らない」
「……ッ、どうしてそう言い切れる!?」
「お・い・め」
――……負い目。
三橋の負い目。考えなくても、直ぐに分かる。分かってしまう。ここに辿り着くまで、見えていなかった三橋の一面を裏側まで見てきた。
「コイツが何かを得る時は失う時だ。三橋を助けようとしたら、三星を犠牲にしなきゃならない――……出来る訳ないよな?
高校入って確執も無くなって順風満帆できたのに、今更過去の話題を掘り返すなんつうことを、よ」
それは三橋の喉を潰していた三星での過去。三橋がずっと洗い流そうと、キレイにしてしまおうとした手首の傷。
三橋と中村の発端、根底はそこから始まった。だけど、三橋の居場所を奪ったのは中村じゃない。当時の三星の連中だ。
中村の言う通り、三橋は口を閉ざすだろう。
三橋はずっと三星の連中と復縁を望んでいた。野球を通じて、抱えた負い目の払拭を願っていた。
それがやっと念願叶ったのだ。あの練習試合ですべて清算された。だから、だからこそ三橋は語らなかった。一人で抱え込んだ。
自己を見失って、傷付いて、それでも許そうとした、隠そうとした。
叶や従姉妹のルリちゃんは、それを知っていて口を閉ざした。三橋の意思を尊重し、三橋を護るため。
三橋は、三星の連中の、畠や宮川達の所為にすることを拒む。すべて自分が悪いと思い込んでいるから、水に流そうとする。
誰にも知られないように、他の誰にも気付かれないように、キレイにしてしまおうとした。
三橋を潔癖症にまで追い込んだのは他でもない、三橋自身だったのだ――……。
「阿部の骨折はこいつがやったし……お前らが幾等束になって証言したって、本人がうんと言わなきゃ無罪放免ってやつだ。なあ、三橋?」
「…………」
中村の腕に抱き上げられた三橋は何も答えなかった。ぶらんと腕を投げ出し、虚空を見つめている。
流石の中村も、三橋が拘束状態のままでは不味いと思ったのだろう。
蜘蛛の巣のように張り巡らせられたロープを解き、三橋を自由にしてやる。それでも、三橋はぴくりとも動かなかった。
歯痒くて、やるせなくて、どうしようもなくなる。それは阿部も同じようで、俯いて下唇を噛む様子がここからでも分かった。
どうすればいいのだろうか。このままでは、警察が来て中村が捕まったとしても、三橋は二度と心を開かないだろう。
「っくしょ……!」
何にも浮かばない。何にも思い付かない。
自分一人では何にも出来ないという実感が波のように押し寄せ、それは引かずに滞留する。
どうにかならないか、なんとかできないか。
悪あがきで漁るポケット。四次元でもないからに、便利な道具が見付かる訳も――……と思ったのに、指先に触れた感触。それからは本当にやけっぱちだった。
「ふざけんな、三橋!こんなところで負けてんなよ!お前、オレらと甲子園目指してんだろ?チームのエースなんだろ?
勝ちたいって、そう思ったから野球続けたんだろ!?」
阿部から渡されて携帯にくくり付けておいたお守り。外しちゃ届かないだろうから、そのままで投げつけてやる。
三橋が阿部に渡したお守りは、オレにとっても、三橋にとっても重要な意味を持つもの。
この――……“必勝祈願”のお守りは。
「……っ、さか、えぐちく、ん」
三橋の手が上手いこと携帯をキャッチする。中村はこの状況を茶番劇だとでも思っているのか、傍観の姿勢にあった。
突き崩すなら、今しかない。残されていない。
「お前の世界はそっちじゃないんだ……!」
暗く淀んだ場所。濁った水が溜った湖のような、そこ。
逃げてばかりいた。追い詰め、追い詰められ、気が触れそうになる。けれども空気の如く漂い続けて、ずっと居場所を探していた。
それが自分の居るべき世界、自分が認められる世界。
西浦に必要なエースになった。三星でも力を認められた。三橋の姿はもう、空気よりもはっきりと見えているではないか。
「三橋!」
「負けんな三橋!お前は……お前はうちの最高のエースだよ!」
説得と言うより、それは祈りに近かった。
だから三橋の手からするりと携帯が落ちた時は、この世には神も仏もあったもんじゃないと絶望した。
それは言葉で言われるより、ずっと分かりやすい諦めだった。終ってしまった、何もかも。
もう、これで……。
(空白)
「うあああああっ……!!」
「な、何すっ……」
激痛に涙が浮かぶ。でも、身体の痛みなら、心の痛みなら今までだって何度も体験してきたから、ダイジョーブ。
からっぽになった手で、耳に刺さりっぱなしだったピアスを取るべく耳ごと引き千切る。
こういうのって勢いが大事なんだと思う。頭の中はぐちゃぐちゃで何も考えてなかった。ただ、今腰を抱く手が居場所ではないと理解していた。
「もう、知らないとこに行きたくない……っ!あの車の中みたいに、震えてたくなんかないんだ……!」
たすけてくれて、ありがとう。
無器用で、どもりで、言葉ではきっとうまく伝えられないから、態度で示す。
車の中で歌ったドナドナ。子牛とオレが重なったんだ、あの時。
これから向かう自分の知らない世界、まず間違いなく自分に不利益な世界に連れてかれる不安。怖くて怖くて仕方がなかった。でも、今は違う。
「っでええええ!」
手の甲にピアスのとがった先端を刺した、たったそれだけ。きっと痛いだろう。それが申し訳なかった。
そんなことを考えていたら、オレは吹っ飛んでいた。痛いから暴れて、オレは巻き添え。こんなの常識。
中村先生がバットを振りかぶる。それで頭を叩かれても、足の骨を砕かれてもいいと思った。自分の居場所を見付けることができたから……。
「……三橋、いつまで目ェつぶってんの?」
痛いとか思うより先に声が聞こえてきた。どうして痛くないんだろう。そう思いながら見上げると、そこには田島君が立っていて、横には中村先生が倒れていた。
「言ったろ?心配いらねーって」
――……これは後から聞いたハナシ。
オレと中村先生がやりあってる隙に、阿部君が田島君の縄を解いたんだって。
一人じゃないこと。みんながいること。
やっぱりチームプレイってすごくタイセツ。
(空間)
――彼だけは、すべてを知っていました。
(ディノテーション、その意味は文字通り。空白の×××)
(幕間A)
それから直ぐに駆け付けた警察によって、中村は拘束された。
あっけないと言えばあっけなさ過ぎる幕切れに皆脱力し、後は抜け殻のようだった。
そして、オレら四人は病院に搬送された。呼び出されたそれぞれの親達は、息子の姿を見て怒り出したり卒倒したり、反応も様々。
父さんは――……心配かけさせるな、と言って抱き締めてくれた。オレはその時になってやっと助かったのだと実感して、ほんの少しだけ、泣いてしまった。
その日はもう遅いからと病院に泊まることになる。明日からは警察の事情聴取だったり何だったりで忙しくなりそうだ。
簡素なベッドに倒れ込み、泥のように眠る。次に目を開けた時に映った世界はハクチョウのように真っ白だった。……病院だから当たり前なのだけれども。
朝食を摂って、エントランスへ。
暫く待っていると田島が来た。何でも、阿部は肉体的、三橋は精神的ダメージが思ったより悪いと判断され、聴取はまた後日になるそうだ。
オレも田島もかすり傷程度で済んだけれど、あの二人は――……そう思うと進む足も進まなくなる。正直、ここ数日の精神疲労が辛かった。
けれど、一刻だって早くこの事件を終りにしたかった。その思いで警察署まで向かう。
聴取中、オレはたまにうわのそらになってしまって、なんとなく田島の話を聞いていた。
「オレは三橋が……人格なんて信じなかった。だって、多重……なんて都市伝説だろ?」
――……これはいったいなんだろう。この、ざわざわと胸を撫でる違和感は。
(空間)
――さあ、もう一度最初から考えましょう。
(リアリストの抱く希望こそが夢、幻想)
(幕間A)
長い拘束から解き放たれ、漸く外の新鮮な空気を吸えた。
まったく、これではどっちが犯人か分からないじゃないか。口を開けばそう愚痴ってしまいそうだから、ぐっと堪えた。
これからもう一度病院に行って、三橋と阿部にもこの話をしてやろう。そうしたら二人はどんな顔をするだろう。想像するだけでおかしかった。
先を歩く田島。ふと、それを見て気になったことが思い浮かぶ。
(……どうして田島は中村の行き先を知っていたんだ?)
中村が話したのかとも思ったけど、三橋が中村に抵抗した時、どこに行くかわからないようなことを言っていた。
――中村は田島にだけ行き先を教えていた?どうして?不自然だ。
一度浮かんだ疑念はなかなか晴れず、次から次へと新しいものが湧き上がる。
一番初めにおかしいと思ったのはあの時だ。
阿部に言われるまで、中村が耳の状態を知っているのはおかしくないと思っていた。
何故なら中村は保健医である。三橋のあの、無器用加減が全面に押し出されたガーゼを見て、治療しようとしてもおかしくない。
それよりも気にかかったのは中村の次の、誰かの発言。
『あれ自分でやったのか?』
まるでそれを見て知っていたかのような物言いも、何の疑問も持たずに受け入れる様子も気に掛った。
それにもう一つ。
三橋の「一人じゃない、二人いる」という発言の意味は一体?
「オレは三橋が多重人格なんて信じなかった。だって、多重人格なんて都市伝説だろ?……栄口もそう思うよな」
「うええ?」
突然、田島に話を振られて間抜けな声をあげてしまう。田島は笑顔だった。
「人のキモチなんていー加減だからさ、人格?性格を偽るなんて簡単にできるんだよねー。あ、ほら身近な例だと嘘ってのもそうだし」
「田島……お前、何言って……」
「三橋、今度は助かるといいよな!」
『他の誰にも気付かれないように、キレイにしなきゃ、キレイにしなきゃ』
――仮説がある。
もしも、もしもの話だ。三橋が田島を多重人格だと思っていて、三橋はずっとそれを隠そうとしていたなら……。
田島は、初めから中村の協力し(ry
(――……なあ、三橋。お前がキレイにしようとしてたものって幾つあるんだよ)
きっと三橋の潔癖症は治るだろう。
けれども、この何とも言えないもやもやだけは執拗にこびりついていて、キレイに洗い流せないでいる。
それはこれからも、オレの中でずっと。
(空間)
――まだ、何も始まってすらいないのですから。
(カーテンコールなど、もっての他の茶番劇でした。ちゃんちゃん)
(終幕)
***
舞台の話だと思ってくれてもいいし、一つ一つが別の話だと思ってくれてもいいですハイ。
↓本編の中のヒントは縦読みでよろしく。
――みにくいアヒルの子が一羽だと、誰が言ったの?
――なみだの数だけ泣き方があり
、なみだを流すだけが泣くことではなく。
――お友達は誰と誰?
――つまり、そういうこと。
――彼だけは、すべてを知っていました。
――さあ、もう一度最初から考えましょう。
――まだ、何も始まってすらいないのですから。
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