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  • 2015⁄08⁄20(Thu)
  • 03:20

Loves Life

闘技場から離れること数千キロ──こじんまりとした、だがふんだんに金をかけたと一目で解かるホテルの一室へ、ベイビーフェイスのボーイがワゴンを運んでいく。
廊下に敷き詰められた毛足の長い絨毯に、足を取られることもなく歩いて行く様子は、彼が幼いながら、かなりの熟練であることを証明していた。
ワゴンの上の、最高級の食材を惜しげも無く使ったオードブルの数々はさながら小さな宝石のように美しく、繊細なラインを誇張した2つのワイングラスとその傍らに置かれたワインボトルは、鮮血が詰められているのではないか、と疑うほどに深い紅──
(ふん…)
運びながら、彼はモノの価値もよく解からぬくせに、高いという理由だけでこのホテルのスィートへ泊まり、金持ちであることを見せびらかすためにこのようなルームサービスを注文したのであろう、高慢な客を鼻で笑った。
(いつだってそうだ…あの部屋に泊まりたがるのは、そんな成り金モノしかいやしないんだ)
職場を愛し、仕事を愛しているが、このホテルでの一番素晴らしい部屋を、そんな成り金オヤジが使っていると思うと、なんとなく腹立たしい。
そう思いながら、部屋の前へと立った。
(…どうせ、醜悪な顔をしているに決まってる)
若さゆえの思い込みで、その部屋の客を嫌悪しながら、すまし顔で呼び鈴を鳴らした。
数秒もしないうちに、ノブが回る。
キィ……
軽く、軋むような音がして重厚な扉が開いた。彼は中の客が姿を現す前に、深々と頭を下げ、恭しく挨拶を口にする。
「お待たせしました。ご注文の品をお持ちいたしました──」
(──?)
視線を落とした先にある、恐らくバスローブから伸びているのだろう脚を見て、ボーイは“醜悪な成り金オヤジ”のそれに違和感を覚えた。
そして、ゆっくりと頭を上げると、言葉も無く唖然と見上げるその長身の男──
「あ──」
彼の顔を視界に入れるために、思わずボーイは2、3歩後ずさってしまった。
それ程に大柄な男は、しかし無駄の無い美しい筋肉を肌蹴たバスローブの胸元から惜しげもなく披露している。
シャワーを浴びたところだったのだろう。濡れた前髪が額にかかっていた。
彫りの深い顔、つり上がった細い目──吸い込まれるような端正な顔立ちに引き込まれ、ボーイは暫し呆然と彼の顔を見上げ続けていた。
己とはまったく異なる──種が違うのではないか、と素直に信じられるほどに美しい獣に見惚れる。
「──なに?」
彼は、ボーイの状態が解かっていて、敢えて問うた。
ぼんやりを指摘された彼は、慌ててワゴンに手を伸ばすと
「あ…っえ……っと……ごっご注文の品を…っ」
焦るあまりに、スムーズに言葉が続かない。いつも言い馴れた、とちる事など無かったはずの台詞が口から出てこない。
「うん」
慌てふためくボーイの様子を、楽しそうに口元を歪めて眺めていたヒソカは、小さくそう呻づいた。
「こ…っこちら……っ」
「うん。じゃあ、中へ入れてくれるかい?」
すっと体をずらしてワゴンを招き入れる。
ボーイの無垢な瞳が、誰かを彷彿とさせる。部屋の主は、そんなことを思いながら、ボーイがワゴンを部屋の中へ入れるのを眺めていた。
闘技場で彼のために腕を磨き、自分と戦おうとしている、少年。
今ごろどうしているだろう? 90階での試合をつい2日程前にクリアしたところまでは見たけれど、あれから一戦でも負けたりしてしまったろうか。
あのまま順当に勝ち上がってくるのなら、もう2、3日で対面を果たすことが出来るのだが──。
「サインをいただけますか?」
物思いに耽る男へと、小さなレシートとペンを差し出しながら、尋ねる声も可愛い。
少年が育ったら、こんな感じになるのだろうか? などと思いつつ、不躾な視線を浴びせ掛けた。
見られている事を意識して、ボーイは緊張を隠せない。思わず手が震え、男の手にレシートを渡す前に床へと落としてしまった。
「す…すみませっ……っ」
だが、焦りながら、屈んで拾おうとしたボーイの手を、大きな手が止めた。男は、優雅にそれを拾い上げると、サインをする。
「はい。気を付けてね」
小さな手を取りレシートを持たせると、ぼおっと口を半開きにしたままのボーイの頬へ手を当て、すっと顔を近寄らせた。
「?」
抵抗する間もなく、唇を掠め取られる──それがあまりに鮮やかで、一瞬何をされたのか解からなかったボーイは、ゆっくり体を離していくヒソカの薄ら笑いを見──
「!」
遅れて知覚した彼は、湯気が頬から出てくるのではないか、というほど顔を赤らめて、レシートを握り締めた。
「し…失礼しました…っ!」
そう叫ぶと、わたわたと部屋を出ていき、後ろも振りかえらずに廊下を走っていってしまった。


普段なら、足音一つ立てずに歩いていくのだろうボーイが、バタバタと騒々しく走り去っていく後ろ姿を面白そうに眺めた後、ヒソカは扉を閉め、片手でワゴンを押しながら、部屋の中へと戻っていった。
「節操無し」
人の悪い笑いを浮かべて、顎を撫でていたヒソカを詰る声がする。窓際に置かれたソファに身を任せた青年が、呆れた視線を投げつけていた。
「失礼だな。拾ってあげたお礼を貰っただけだろ」
抜け抜けというヒソカに肩を竦めると、彼はソファの背から体を起こした。
黒い髪を豊かに伸ばし、緩く背で縛った彼の顔は、ヒソカとは種類が違うが、やはり負けず劣らず端正で美しい。
大きな瞳は、髪と同じく黒々と光り、だが何を映しているのかよく解からない、得体の知れなさを印象づける。
ノースリ-ブのシャツから生える腕は、その筋肉が存在を誇示する。
座っている状態でも、彼がかなりの大柄で、立ち上がればヒソカと遜色ないほどの体格をしているのは明白だった。
その、彼の傍らまでワゴンを持っていって、ワインのボトルを持った。
きゅ、きゅ、とこ気味よい音がして、ボン、とコルクの抜ける音が響く。
「イルミ。飲む?」
美しいグラスに、赤い液体を注ぎ込みながら、彼に尋ねた。
「要らない」
不機嫌な即答が帰ってくるが、ヒソカは怯まずもう一度勧める。
「そう言わず」
「要らないって」
「………」
イルミは強情に差し出したワイングラスを受け取ろうとしなかった。
一つ溜め息を吐いたヒソカは、諦めてグラスに口をつけたか──
と思いきや、突然彼の髪を掴むと勢いよく引っ張り、不意をつかれたイルミは上向きに顎を上げた。
「ヒソ……!」
その、無防備な唇に、己の唇を押し付ける。僅かに空いた隙間から、口に含んでいた液体を、どろりと流し込んだ。
「ぐ……っ」
開いた喉を、熱い液体が落ちていく。むせはしなかったが、味わう事もできずに胃に流しこまれたそれが、空っぽの胃壁を刺激していた。
もちろんそれだけでは許されず──ヒソカの舌が口内へ侵入してくる。
ワインの味の残る舌で、歯列をなぞられ、口蓋を舐められる。
不快なのか快感を感じているのか──イルミはただ、眉間に皺を寄せたまま、彼の蹂躪を許していた。
「……つまんないな、君は」
反応を示さない相手に飽きたのか、すっと体を離すとヒソカはつまらなそうに言った。
さんざ犯っておいて、よく言う…と、イルミはヒソカをちらりとも見ずにワゴンの上のオードブルをつまみ、口の中へほうり込む。
「どうでもいいけど、オレをこんなとこまで呼び出した理由はなに。セックスなら、他を当たれよ。オレは忙しいんだからな」
不機嫌そうなイルミを見、オードブルの皿を彼の目の前のテーブルへと移動させた。
「ボク、今天空闘技場にいるんだよね」
ワインとグラス2つを手に持って、イルミの向かいのソファに座る。
「それで?」
「……君の弟見ちゃったゥ」
「……あ、そ」
それくらい当然知っております、と驚きもせずに返事をする。リアクションが寂しかった事に残念そうな顔をするが、ヒソカは気を取りなおしてワインを注ぐと一息であけてしまう。
「大変だな、オニーチャンは」
「別に」
やはり即答すると、また一つ、オードブルをとり口の中へほうり込んだ。
「……酒も飲めよ」
食べてばかりなのが気に入らなかったのか、ワインをグラスに注ぐと、彼の目の前に置いた。
要らないといっているのに…とイルミは眉を顰めるが、また無理矢理呑まされて味わえないのもつまらない、と思いなおし、グラスを手に取った。
「連れ戻さないのかい?」
「いい。オヤジ公認の家出なんか、連れ戻したって意味が無い」
「ふぅーん」
ヒソカの含みのある返事に、イルミは視線を向けた。
「連れ戻して欲しいの」
「いや、そうだったら困るな、と思って釘刺しにきたんだけど…心配なかった」
イルミは、釘をさそうという言葉の真意が分からず、しばらく上機嫌でワインを転がしている男の表情を盗み見ていた。
邪魔だから連れ帰れ、とでも言うために呼んだのかと思ったが、彼の思考はそれほど単純でもないらしい。
だが、ヒソカの真意など知ったところで、キルアを連れ帰らないことには変わりないし、こんな変態男の目的などどうでもいいと考え直したイルミは、敢えて追求はせずに尋ね返した。
「で?仲良く友達ごっこしてる?」
「うーん。どっちかっていうと、恋人ごっこ…かな」
闘技場での2人の少年のいちゃくらぶりを思い出しながら、ヒソカは応えた。
「………それでいいの、君は」
「ん?なんで? 可愛いじゃないか。なにか問題が?」
「……取り戻せる、と思ってるんだ」
「何を?」
「ゴンを、だよ」
件の少年の名を口にすると、ぽす、とソファの背に身を預けた。そのまま目の前にグラスを翳すと、中身を通してヒソカを見ながら、彼の記憶を喚起させていく。
「ねぇ、君は誤解してるみたいだけどさ…俺の弟は、割と強情なんだよ。解かってる?」
「さぁ?」
「キルアはゴンを離さないだろうね」
「………」
赤い液体を通して眺めていた男はいつのまにか、今まで絶やさなかった笑みを消していた。
「前も言ったと思うけどさ。執着心の強さは、君以上、かもね。目的のためなら、命以外何を失ったって構わないと思ってる。今ごろ絶対にゴンを手放さない、と誓ってるだろうよ」
「でも殺したいとも思ってる──だろ?」
「そりゃ、そのうち殺しちゃうさ。けど、その時を俺はじっと待たなきゃいけなくなった。君のおかげで」
「おやおや……家へ帰ったからと油断して、キルアを放っておいたのはどこの誰だい?」
互いに痛いところを刺された2人の間で、見えない火花が散る。冷たく表情を強張らせた彼等の間で、バチバチと跳ね返る火の粉に、空気が熱っぽく変化していった。
「ゴンを殺されたくなかったら、キルアからさっさと奪えよ。じゃなきゃ……オレが殺す」
「ボクの獲物だと言ってるだろう。手を出すなと忠告しなかったか?」
「覚えてないな」
「じゃあ、思い出すんだね」
「殺した相手の事を、次の日には忘れてるような奴に言われたくない」
確かに、と首を竦めて苦笑いを浮かべた。
「ところでね──君のほうこそ何か勘違いしているみたいだけど…ボクが気に入ってるのはゴンだけじゃないんだよ」
突然の告白に、イルミが口を噤む。
「ボクは、キルアのことも気に入ってるんだ。──知らなかった?」
「初耳だな」
「じゃあ、これも覚えとくと良い」
酒を注ぐ。ボトルをわしづかみにした腕が、テーブルを挟んで向こう側のイルミのグラスへ伸びる。
「どっちもボクのおもちゃ、だ。そう簡単に持っていかせはしないよ。君が待てなかろうと何だろうと──」
殺気を湛えた瞳で、向かい側の男を見た。
受け止める男も、脅えもせずに剣呑な光がさす視線で応えていた。
揺らめく殺意が充満していく──



「……話はそれだけ?」
ひととき、2人、身じろぎもせず睨み合っていたが、イルミの一言でふっと空気が弛んだ。
「うん」
緊迫していたそれが、途端に霧散し、ヒソカも拍子抜けするほど穏やかな笑顔を浮かべた。
「じゃあ、オレは行くよ。どっちにしたって、今はキルアを連れ帰る気はない。そのうち、自分でゴンを殺して戻ってくるのを待つよ」
(…戻さないって言ってるのに…)
ヒソカは内心ぼやくが、これ以上言葉にする必要も感じられなかったので、首を竦めて話しを流すことにした。
そのまま、ソファから立ち上がり、入り口へと向かうイルミの後ろ姿に声をかけた。
「シてかないの?」
「言ったろ。性欲処理なら、他の奴としろって。さっきのボーイでも引っかけてきたら?」
「死んじゃうって」
「……手加減してやれば。ゴンの時みたいに」
「………」
その言葉の裏側に隠された奇妙な感情を感じ取り、一瞬目を丸くした。
が、すぐに 可笑しそうに喉の奥で笑い始める。
背後でヒソカの含み笑う声を聞きながら、イルミは部屋を出ていった。
 
 
「ばっ…そっちは駄目だ……!」
ギドのコマがゴンを襲ったその瞬間。
柄にもなく青ざめ、握り締めた掌からはじっとりと冷や汗が滲んでいた。
心臓が早打ちし、悪い想像ばかりが脳裏を駆け巡る。
右半身で打撃を受け止めたゴンの体が宙に浮いていた。
ゆっくりと──その身体が地に打ち付けられるまでの間、歪んだ彼の顔から目が離せなかった。
無意識に席を立ち、観客席の一番前まで駆けよっていく。
敵を見失ったコマがゴンの回りでガチガチと凄まじい音を立てぶつかりあっている。
審判の、ジャッジの声が場内に鳴り響き、ギドの勝利を宣言していたがそんなことはどうでもよかった。
「ゴン──!」
キルアは、闘技場と観客席を分ける低い塀にへばりつき、石畳の上でぴくりとも動かない少年の名を呼んだ。動かない指先に、焦りが募る。
だが、この時キルアの心の奥底でなにか安堵に似たものが産まれていたのも事実。
己でも気付かないほど、ずっと深いところで息づいたそれは、やがて少年の身体全体へと広がっていく。
じりじりと──


医務室から手配された医療用のベッドへ横たわったゴンは、医師の指先をじっと見つめながら身じろぎもしなかった。
試合に負けてから数日が経過していた。
医師は、毎日定刻にこの部屋を訪れて怪我の具合を見、幾つかの抗生物質を与えて去って行く。
指先で触れただけで治癒過程が解かる彼も、やはり念の使い手なのだろうか。あるいは医師としての経験から知り得ることなのか。
そんなことを思いながら、キルアは部屋の片隅でいつも彼の診察を黙って眺めていた。
「──もう治った?」
来る度に同じ事を尋ねる少年に、飲み薬を配合して与える医師と看護婦は苦笑いで応えるのみだ。
ゴンにとっては、じっとベッドに括り付けられているこの状況が辛くて仕方が無い。
それは周囲の誰が見てもすぐに解かることだ。
だが、負った傷は全治四ヶ月。
1日や2日で動けるようになる代物ではない。
もちろん、日に日に目に見えるように良くなっていく少年の回復力に、医師は内心舌を巻いているのだが、それは顔にはださない。今日こそベッドから降りてもよいか、と繰り返し尋ねる彼に、毎回「もう少し我慢しなさい」と優しく応えて諌めていた。
「でももう、痛くないよ、ほら!」
ただ身体を動かしたくて仕方の無い少年は、そう言って腕を上げようとする。
屈強な猛者ばかりを相手にする日常の中、あどけない少年の瞳に見上げられると医師の心も和む。いつもは厳しい面持ちの彼も、この部屋を訪れたときだけは自然と顔が弛むものだったが、気の逸る少年に、時には口元を締め、少々きつい口調で叱ることもあった。
医師の「Not Yet」という強い返事を聞くと、大袈裟に溜め息を吐いてゴンは肩を落とした。

その様子をじっと見ていたキルアの頬がほんの少しだけ弛む。もっとも注視していても解からぬほどの些細な変化であり、もちろん部屋にいる誰も気付くものはない。
彼は診察を終えた医師と看護婦を送り出すと、部屋の扉を後ろ手に閉めてベッドの上でつまらなそうにしていたゴンに声をかけた。
「そう簡単には治んねーな♪ ゴン!」
ぶぅ、と頬を膨らませたゴンは、不満そうな視線でにやにやと笑うキルアを軽く睨んだ。
「なんか楽しそうじゃない?」
「んー? 気のせい気のせい…ま、自業自得だよなー。ほんとにさ」
ずるずると、部屋の中心にあった椅子を引き摺って、キルアはベッドの脇へと近寄っていった。
「それはよく解かってるよー」
もう言わないで、と嫌そうに眉を顰めるが、キルアはそんなことを気遣うこともなく軽口を叩き続ける。
「あんなムチャクチャな闘い方で、それくらいで済んだんだからさー…運がよかったと思えよ。死んでても不思議じゃないぜ」
「うー…もぉ…解かってるってば。もうしないよ、あんなこと」
「あはは。嘘嘘。お前、ああいう場面になったら、またどうせ同じ事すんだぜ。ほんと、進歩ないねー」
「しないよ! 絶対!!」
「賭けるか~? 勝敗は見えてっけどな」
ゴンの左隣へ位置した椅子の上でふんぞり返りながら、そんな会話を交わす。
他愛も無い──くだらない言葉の数々。キルアはそんなものですら幸せに感じる自分自身をくすぐったく思う。
賭けを持ち出されて、むーん。と考え込んでいる横顔を見ていれば、なんだか無性に嬉しくなってくる。軽い気持ちで言っただけの自分の言葉をゴンが真剣に捕らえ、悩んでいるのが嬉しいのだ。
ここには 2人しかいない。口出しするものも、ない。
誰も、邪魔するものはないことが、キルアに根拠の無い安心感を与える。
しばらく沈黙していたゴンが、顔を顰めてようやく口を開いた。
「……いい。そんな不利な賭けなんかしないもん」
自分自身に自信が無いのか、キルアならズルをしてでも勝利を得ようとすると考えた故なのか、とにかくゴンは自分にとってこの賭けが不利であることを判断して、相手にしないことにした。
だが、殊勝にもそう申し上げれば、
「お。学んだジャン。ちょっとは頭使ってんだな♪」等とからかわれる訳であり。
「キルア!」
真っ赤になって怒ってるぞ、と主張したが、キルアはにやにやしながらゴンの顔をみるばかりだった。
ゴンの顔色などちっとも気にしていなさそうな様子を見ると、これ以上怒っても無駄なような気がする。そう判断したゴンは、話題を変えることにした。
「続き、する?」
脇机の上に置きっぱなしの、診察のために中断していたゲーム盤を指差し見ながらキルアに尋ねた。
話を反らそうと試みるさまもまた可愛らしい。キルアにしてみれば、どんな些細な言動であってもゴンのしたことなら何だって可愛いし、なんだって愛しいになってしまうのだが。
「ね、どうする?」
「あ──そうだな──」
幸福感を満喫しすぎて応えることを忘れていたキルアは、再度問い掛けられて首を傾げた。
ゲームよりもなんとなく空腹感のほうが気になる。時計に目を走らせると、そろそろ夕食を食べても良い時間だ。
「ん──……・・ 腹空かね?」
遠慮がちに提案をすれば、ゴンも自由になる左手を腹に当て、こくり、と呻づく。
「うん、ちょっと」
「俺も。飯、まだこねーかな。遅いな…」
診察前にちょうど夕食を注文したところだった。
ゴンがまだ外へは出られないために、ここのところデリバリーばかりを利用している──
幸い充実したシステムをもった 200階では、電話一本で下の階のレストランからなんでも届けられるのだ。
だが、注文からすでに 30分以上が過ぎ去っていた。
「量が多いんだもん。仕方ないんじゃないの?」
普通の食事なら、ものの 15分もしないうちに届ける、というのがレストランの自慢だったが、食欲旺盛な子供たちの注文内容は、あまりに品数が多すぎるため、かなりの時間を要していた。
前日も、注文をしたはよかったが、あまりに届くのが遅すぎて、耐え切れなくなったキルアが買いだめていた菓子へと手を出していた。
その経験を生かし、今日は腹が空いてしまう前に注文をかけたのだが。
「うーん…昨日より遅くないか?」
「気のせいだって。昨日もこれくらいだったよ。もうすぐ来るんじゃない?」
「ああ~…腹減ったなー……」
「だね! 早くこないかな──」
2人で大袈裟に溜め息を吐くのと、コンコンと礼儀正しいノックが聞こえてきたのはほぼ同時だった。
「きたよ!~~~~~~っ痛~~~っ!」
ぱっと表情を明るくしたゴンは、思わずベッドから降りようと身体を動かしたが、瞬間全身に走った痛みにその場で言葉も無く蹲ってしまった。
「ばっか。痛いに決まってるジャン。じっとしてろよなー」
ギブスをしていることも忘れて動こうとした怪我人を笑って、キルアは扉へと向かっていった。
「俺がちゃんと用意してやるって。大人しく待ってろ」
軽率な友人に釘をさしてから扉を開ければ、豪勢な料理の数々が乗ったワゴンがそこにある。
空腹な子供たちの鼻に訴えかけるような良い匂いが部屋中に充満していった。  


キルアはワゴンを押してベッドの脇へもってくると、サイドテーブルの上に乗っていたゲーム盤を片づけ始める。ベッドの上にはゴン用の小さなテーブルを置いて彼が食事を出来るように手早く準備をした。
ほんの数日でもう何度も繰り返し、手慣れてしまった一連の作業はあっというまに終わる。 ナイフやフォークをナプキンの上に置き、コップと飲み物を用意し──だが、手際と機嫌の良いキルアの動きを見ながら、ゴンは少し顔を曇らせていた。
「よっし、準備完了! 食べようぜ、ゴン。なにがいい?」
給仕に従事する少年がベッドの隅にポスンと腰掛け、目の前に設置したワゴンの上の料理の数々を示しながらゴンのほうを振り返った。
と、目に入ったのはちょっと困ったような顔。
いつもは明るい太陽のような笑顔ばかりの少年が見せた意外な表情に驚きながら、キルアは目を瞬かせた。
「なんだよ」
「ごめんね…オレが怪我してるばっかりに」
何かと思えばそんな事──キルアは本気で申し訳ない、と思っているのであろう少年の額にでこピンを食らわせ、ばかな奴、と一笑に伏す。
「ばーか。そんなん謝るくらいなら、最初から怪我なんてするなよ。お前らしくないぜ? いーからなに食べる?」
ゴンは、赤くなった額を擦りながら気にするなといってくれる友人に苦笑いを見せた。
キルアが取り分けるから、と皿を持って注文を促す。それに対してゴンはうーん、と指をくわえてワゴンの上を覗き見る。
「そのお肉食べたいな。おいしそう!」
「肉な。待ってな」
キルアは器用に片手で小さな肉片に切りわけ、手にしていた取り皿の上に移動させる。そのうちの一つを自分の口の中へ放り入れ、くるりとゴンのほうを向いてフォークを差し出した。もちろんその先には一口サイズの肉片が刺さっているのであり。
「ほれ。口開けろ」
「……左手はあいてるんだから、自分で食べれるよぉ」
少年の主張は、もごもごと口に肉をほお張りながら大袈裟に肩を竦めたキルアに否定されてしまう。
「そういって、昨日の夜盛大にこぼしてくれたのは誰だよ。大人しく口開けろって。俺の面倒増やすなよなー」
左手の取り皿をゴンの口の下まで持って行き、右手のフォークのフォローをしつつ、前日の失敗を指摘するキルアはやはり嬉しそう、なのだ。
確かに、昨日の夕食時には飲みかけていたスープをひっくり返し、シーツを全て取り替える羽目になってしまったのは事実であり。結局逆らうことが出来ず渋々口を開けるゴンの口に肉を押し入れ、自分ももう一つ同じ肉片を口に入れる。
「で? 次は?」
「だから自分で……」
「却下。じゃ、野菜食べろ、野菜……お、これ美味そうかも」
キルアは、料理を物色しながら聞く耳もたずにどんどんと料理を取り分けては自分の口とゴンの口に放り入れていく。
ゴンも、自分で食べる、といいつつ、原因はさっぱり分からないがやたらと上機嫌なキルアの様子には何も言うことができなくなってしまい、大人しくキルアの手から料理を食べ続けるのであった。


食事が終わり、すっかり軽くなったワゴンは、また部屋の外へと出されて回収を待っていた。
「ああ……よく食べたよなーっ」
「うん、もーお腹イッパイ。美味しかったねー♪」
子供2人で大人5人前以上の量をペロリと食べてしまい、満腹になったキルアは長椅子の上で、ゴンはやはりベッドの上で同時に大きな欠伸をしていた。
満腹感が強烈な眠気を誘発する。
「……もう寝る?」
キルアの問いかけに、こくんと呻づいたゴンの目は、半分閉じてしまっている。
「うん……すっごい眠い…」
「じゃ、寝ちゃう前に身体拭いてやるよ」
そう言って、キルアは椅子から立ち上がった。一方、意識を手放し掛けていたゴンはウトウトと頭を揺らして一度は虚ろな返事を返したが、その発言にハッと正気付いた。
「……うん……えぇっ!?」
眠気が吹っ飛ぶほど大きな声を上げ、発言の主を見た。予想以上に驚かれたことに驚いた主が、呆れたように首を竦める。
「なにびっくりしてんだよ」
「えっ、や、いいよぉっ! 昨日も拭いたジャン!」
「風呂に入れないんだから、拭くしかないだろ? なに言ってんだ」
「そんな毎日しなくても」
「毎日拭かなきゃ不潔だろー。いーから、いーから……任しときなって」
「キルア! だからぁ──っ!」
ゴンの主張は食事の時と変わらず聞かれることはなく、キルアは意気揚々とバスルームへ消えていった。きっと濡らしたタオルと、湯を張った桶をもってくるのだろう。
「ねぇ! 聞いてる、キルア! しなくていいってばーーっ!」
バスルームに向かって大きな声で呼びかけるが、返事はない。
そもそも日がな一日寝たっきりなのだから、動いて汗をかくこともなく、そう毎日毎日身体を拭く必要も無い。なによりキルアにそんなことまでやらせてしまうのにはかなり抵抗があった。
酷く嬉しそうにバスルームから出てきたキルアを見ながら、ゴンは動かせない身体をもどかしく思う。
何から何までキルアに頼らざるを得ないこの状況──
申し訳ない、と心の中で何度謝ったことだろう。もちろん直接口頭でもそう謝り続けているが、頼りきりの状況ではあまりに何度も言わなくてはならずにもう口にすることもままならない。
キルアはここのところ朝起きてから、夜寝るまでの間、ずっとこの部屋にいて甲斐甲斐しく自分の世話をし続けていた。どこへも行かず、やれ食事だなんだと、普段だったら絶対にやらないだろうと思えるようなことまで、率先してやってくれる、のだ。
例えば、一人でトイレに立つこともまだしてはいけないから、そういった手助けまで全て頼らなくちゃいけない。実際これは恥ずかしくて仕方が無くて、ついギリギリまで黙っているのだが、察しの良いキルアにはすぐにバレてしまう。居ない間に済ませようと思ってベッドから降りても、キルアに見つかれば叱られ、治らなくても良いのか等と脅されてしまう始末だ。
今まで奉仕されることはあっても、誰かの世話をするようなことはなかっただろうキルアだって、こんなことして楽しい訳がないのに、と繰り返し思う。
彼がここまで色々としてくれるのは、自分が怪我をしてしまっているせいなのだ。
だから、できるだけ早く治って、手間や迷惑をかけずにすむようになりたい──なのに──
「さ、拭くからボタン外すぞ?」
食事時と同じく、ベッドの隅に腰掛けたキルアは、サイドテーブルに置いた湯桶から濡れたタオルをとって、ゴンの服を脱がせようとボタンに手をかけていた。


だが、裏腹に、キルアはこの状況を心底嬉しく思っていた。
ゴンがどこへも行けない、自由にどこかへ行ってしまったりしない、自分だけのゴンでいてくれる状態。
ここに居る限りは、誰も彼を攫っていったりしないのだ。
そう、それが例え──ヒソカであったとしても。
数日前に再会してしまった、一番会いたくなかった人物を思い出すと顔が曇る。
絶対に渡すものか、と心に誓う。これはもう、自分のものなのだから。
思いを秘め、熱いタオルをしっかりと絞って、ゴンの首筋へ宛てた。
びく、と身体を竦ませたときには熱すぎたかな、と思ったが、そうでも無さそうだ。
目を閉じて大人しく体を拭かれている様子は結構心地よさそうだと思う。
着ている服の前を肌蹴させ、胸や腹を拭き、脇へと手を差し入れる。
「ん…っ」
くすぐったいのか、それとも別のものを感じているのか、ゴンは小さな呻き声を出した。
途端にイタズラ心が湧き起こってくる。
ゴンとは試合前夜も遠慮してしまってSEXしていなかった。
思い出すと、もう1週間以上彼に手出ししていないのだ。いくら性欲旺盛なキルアでも、この状況でゴンにムチャをさせられるほど向こう見ずではない。
だが、やりたい盛りの12歳──始めは"ゴンのために"と思っていた禁欲も続けば飽きてしまう。
熱いタオルが触れることでびくびくと反応するゴンを見ていると、むらむらと気分が高まっていた。
「熱い…?」
尋ねれば、少し顔を赤らめながらゴンは応えた。
「ううん…平気だけど……」
「熱かったら言えよな。気持ち良いか?」
「うん。あの…でも、ホントに適当で良いからさ」
「五月蝿いよ」
脇から背中へと手を回し、タオルを汚れを拭く。と同時にもう一方の手も背中へと這わせた。その感覚から、違う熱さを感じて焦りながらゴンは体をすくめた。
「あ…ッきるあ…っ」
甘さの混じった声で名前を呼ばれる。
知らぬ振りをして背骨を辿って腰のあたりへ掌を伸ばすと、腕の中の身体が小さく刎ねた。
「や……」
「なんで? 拭いてるだけだろ」
他意はないよ、と意地悪く笑ってみせた。
勝手に感じてるだけだと強調されて、ゴンは何も言えずに俯いてしまう。
もちろん、キルアは肌を探る指先に微妙な変化を付けて、ゴンの欲情を引き出そうと試みていたのだが、それは微塵も悟らせない。
後ろから、ズボンの中へと手を差し入れて、尾てい骨あたりを弄る。
「あっも…っそんなとこ拭かなくても!」
「腰、浮かせてよゴン」
「だめ…だめっ!」
ゴンは止めて欲しいとぶんぶん頭を振っていたが、聞く耳を持たないキルアは無理矢理にズボンを脱がそうとする。
それでも協力しようとしないゴンの腰を掴んで持ち上げると、太股まで力任せにおろした。
「やっ!」
慌てて自由になる左手で上着の裾を引っ張って、あるものを隠そうと試みたが、目ざといキルアにはしっかりと目撃されてしまった。
「なに? それ──どうしたんだよ?」
「なっなんでもないよ…!」
だが、イジワルそうに笑うキルアがそんな答えで満足するわけもなく、ゴンの手を取りゆっくりと持ち上げる。
力比べではやはりキルアに歩があり──容易く外れた手の下には、ひっそりと立ち上がりかけたゴン自身が居た。
「身体拭いてるだけなのにそんなに感じた?」
キルアは満足そうに目を細めて、真っ赤になったゴンの顔を見上げた。ゴンがちゃんと彼の顔を見ていれば、それが意図されていたことだと解かっただろうが、恥ずかしさに耐え切れずぎゅっと瞳を閉じてしまい、ただ首を振る。
「違うもんっ」
「動けないから欲求不満になっちゃってる?」
「違うってば…!」
「遠慮すんなよ。シてやるよ…なぁ」
引き剥がしたゴンの手をシーツに縫い止めると、それを指先に絡めとり、軽く握った。
途端にじんわりと先端から露が溢れる。
「や…!」
触れられた部分からじんわりと広がる感触が、ゴンに違う人間の存在を思い起こさせる。
何の気紛れからか、数日前にこの部屋を訪れた──もう想わないはずの彼。
ドクン──と何かが体の中で蠢く感じる。
「もう…っ触っちゃだめだ、キルア…!!」
面影に疼く体に恐れを抱いて、ゴンは大きく叫んでいた。
「ん──……」
制止の言葉を無視して身体を曲げ、なお隠そうとするゴンの股間へと顔を埋めると、優しくそれへ舌を這わせた。
「は……っあ、や…っ」
短い息遣いが聞こえてくる。
心地良い喘ぎがキルアの耳を擽る。口に含んだ途端に、一回り大きくなったそれが、愛撫を待ち望んでいたのを示しているようで、キルアは自分の中の熱も煽られていくのを感じた。
「ふ…あ……っるあ…っ」
銀髪を掴み、染みわたる快楽に涙を浮かべる。切れ切れに零れるのは止めてくれという言葉だけだ。
だが、キルアの愛撫が途絶えることはなく、喉奥に触れるほど深く飲み込まれ、ぎゅっと強く吸われる。
その瞬間、ゴンの全身に痺れるほどの刺激が走った。せっぱ詰まった声が、ゴンの唇から漏れる。
「あ──あっ!」
快楽に正直な少年がびくん、と体を震わせた──瞬間。
「~~~~いっっ!!!」
与えられた快楽よりも、些細な痙攣がもたらす振動が折れた肋骨へと響きわたった。
体の奥でピシッと音が走っていったような錯覚をゴンに与え、同時に高圧電流にでも触れたのではないかというほどの痛みが体の内から生じていた。
「ッ~~~!!!」
これから嬌声をあげるはずの彼が、顔面を蒼白に変え、腹を押さえて声なく体を折る。
尋常でない様子に驚いたキルアがはっと顔を上げると、目に飛び込んできたのは脂汗を滲ませたゴンの顔──
「だ…大丈夫か?」
息が詰まり返事を返すこともできないのか、俯いたままで頭をうんうん、と2~3度振って応えた。
つい気持ちばかりが先走って、ゴンが全治4ヶ月という重傷だったのだ、ということを忘れていたキルアは、ばつの悪い顔でその様子を見る。
こんな僅かな振動が、こんなに痛みを生じさせるなどとは思いも寄らなかった。
痛みの波が引いてくる頃には、すっかりゴンのペニスは萎えきってしまっていた。
「悪ぃ…ふざけすぎた」
気まずそうにキルアは謝ると、ゴンの股あたりに丸まっていた衣服を引き上げてやった。
と、力の無くなった陰茎が股間でヘロン、と情けなさげに横たわっている。
流石にキルアも気恥ずかしくなり、残った脚を拭いてしまおうと手を早めた。
とりあえずゴンの体の全てを拭き終わったキルアは冷たくなったタオルを洗面器に放り入れて、相手の様子を伺うように声をかけた。
「まだ痛い──か?」
痛みのためなのか、悪ふざけに怒っているからなのか、ゴンはあれからずっと、一言も喋らず俯いて、ただタオルが自分の肌の上を動き回るのを見ていた。
キルアもなかなか声をかけるきっかけが見いだせず──参ったなぁ、などと考えつづけている。
「ううん…平気だよ」
ゴンも同じように参ったな、と思いながらようやくそれだけ伝えた。
気まずさはお互い様だった。
「ホント、悪かったよ。でもこんなんじゃ、当分何もできないな……オレもヨッキューフマンになりそ」
場の雰囲気を和ませようとおどけた調子で仕方ない、と首をすくめて笑う。
が、あはは、という乾いた笑いはゴンをますます落ち込ませるばかりだった。
「あの……キルアの…してあげようか?」
突然ゴンが顔を赤らめながら、申し出た。その言葉の意味がよく理解できず、キルアは笑ったままの表情で硬直してしまう。
「は?」
「だからっ…その……キルアがさっきしてくれたみたいに……口…で………」
最後は消え入りそうな声で、つまりはフェラチオをしてあげる、と言いたいらしいのだ。
なんですと? とキルアの表情が強張る。
"フェラチオ"などということは今までゴンから"やる"なんてことを言い出したこともないし、そもそもゴンにしてやることはあっても、自分にしてもらうような機会は無かったのだ。
いったいどういう風の吹き回しか、と驚いてしまう。
「だって…やりかた解るのか?」
「あ、うん…いちおう…」
その言葉にちょっとカチン、と来るものがある。
自分との行為の中で一度だってやらせたことの無い事なのに、一応知っている、と言うことは──つまり自分以外の人物とシたことがある、ということで。
その人物とは他ならぬ、先日再会してしまったあの男だということは、イヤでも察せられて。
「いいよ」
むっとした表情を隠せずにキルアは眉を潜めた。
きっぱり断った言葉の裏には、"あの男"に対する不快感がありありと伺える。
機微に疎いゴンは、不機嫌に至った原因が自分の言動にあるとは気付かない。
キルアが不機嫌になった、ということは顔を見れば解る──だがゴンにはその理由は単純にSEXができない故なのだとしか考えられなかった。
怪我をした自分に遠慮していてくれるのだ、世話もかけている。だからせめて、キルアを気持ちよくしてあげたいと思ったのに断られてしまうなんて。
「でも」
「あのな。だいたいお前、そんな怪我でどうやってオレの咥えんだよ」
キルアは食い下がるゴンに、ベッドの上から身動きとれない状況でコトに至ろうというのは不可能だろうと突っぱねた。
「え…と、それは……キルアにオレの上に乗ってもらって…?」
しどろもどろに方法を模索するゴンを鼻で笑う。
「さっき、オレがしてやった時だって、ちょっと動いたらムチャクチャ痛がってたんだぜ? お前の脚の上に乗ってそんなことしてたら、痛くない訳ないじゃん」
「う…それは…」
返す言葉もなく俯くゴンに、ため息を交えながら療養に専念するよう促す。
もちろん、下心はあるんだから、と付け加えることも忘れずに、だ。
「オレのことは良いから、さっさと怪我治すことだけ考えてろよ。お礼は治ったときにイヤってくらいしてもらうからいーよ」
「え…」
イヤってほど、いったい何をするのかと困惑した顔でキルアの顔を見れば、にやり、とイヤらしい笑いを口元に浮かべている。
まさか…と口を噤んだゴンに対して、期待してるからな。という追い打ちで、キルアは応えた。
「う…そんなぁ……」
情けなさそうな顔で免除を訴える、その反応に満足したのか少し不機嫌さが薄れた。
「そんな、じゃないの──……なぁ、オレちょっと飲み物買ってくる。お前なんか要る?」
「ううん、要らない」
「そうか。じゃ、すぐ戻ってくるから」
堅く絞ったタオルを洗濯かごへ、桶をバスルームへと放り込むと、そのまま部屋から出ていってしまった。


自販機を探して、キルアは闘技場の数十階下のフロアにやってきていた。
最近のお気に入りがどの自販機でも売り切ればかりで──下へ、下へと下ってくる間に100階あたりまで降りてきてしまっていた。
ようやく見つけたその自販機にコインを入れる。
カタタンと音を立てて取り出し口に落ちてきた缶ジュースを手に取ると、その場で蓋を開けた。
だが、そのまま口を付けるわけでもなくただ、飲み口を見つめていた。
自販機に凭れてぼんやりと中空に視線を泳がす。
本当は──本当は、不安で仕方がない。
逃げだしたオレを追いかけてきてくれて、一緒に家を出て、好きだって言って手に入れて──まだ一ヶ月も経っていないのに、そんな自分たちの前にヒソカが姿を現したのだ。
ゴンが揺れないわけがない……それが解っているから、さっきみたいに焦らずにいられない。
抱いて、繋がりを確認したいと何度も思った。
いっそ手ひどく犯して怪我を悪化させて──完治させないようにしてしまおうか、と暗い思考にも耽る。
あの部屋に軟禁し、けして外には出さず──目に触れるのは自分だけ。
そんな夢を何度も見た。
(んなことできるわけねーよ…)
あのゴンを、どんな屈強な鎖でつないだところで徒労に終わるのは見えている。
それに、そんな状態に甘んじる少年ではないと──認めているから、好きなのに。
ヒソカの出現はとにかく予定外のことだった。
ここでは奴に顔面パンチをくれるための修行をするだけのつもりだった──それからヨークシンへ行って、ヒソカを探すはずだった。
──その目標が姿を現してしまったことで、均衡が崩れていく。
(でも、ゴンはオレを好きだって言ってくれたんだから)
ヒソカのことはもう良いのだ、と言ってくれたのだから。
ゴンが軽々しくそういう言葉を口にするとは思えないし、あのときの言葉に偽りがあるとも思えない。
大丈夫──ゴンを、ヒソカのところへ行かせてしまったりなんか、しない。
何度も繰り返して自分にそう言い聞かせる。
それでもいわれのない不安が胸の奥でとごり続けているのだった。

「キルアさん?」
自販機の前に突っ立っていた彼へと声をかけたのは、先日知り合った少年、ズシだった。
修行用の胴着を着、顔に軽い怪我をしている。その怪我はどうやら負ったばかりのものらしく、服にも少し血液が付着していた。
「よ。ズシ。試合か?」
「ウス。なんとか今日は勝たせていただきました!」
元気よく返事をする少年は、キルアを見上げてそう報告する。
いがぐり頭に特徴的な太い眉と大きな瞳──ゴンの目も大きいけど、こいつの目とはちょっと違った雰囲気なんだよな──などと思いながら、キルアは良かったな、と少年をねぎらった。
「ジュース飲むか? おごってやるよ」
「や、いいっす! 自分は──」
「遠慮すんなって。飲めよ」
キルアは勝手に自販機の中へコインを投入すると、何を飲ませようかと思案している。
「あのぅ──できれば自分はお茶が──」
「うっさい。オレが決めるの」
ズシの主張は完全に無視して、適当なジュースのボタンを押す。
おごる、とは聞こえが良いが、自分が飲んでみたかったジュースを味見代わりに飲ませようという魂胆は見え見えだった。
「よっし。これ飲め。ズシ」
「うす……」
いかにも怪しげな柄の缶ジュースを手渡されて(本当に飲めるんだろうか…)と不安に思う。
だが、早く飲んでみろ、と期待いっぱいの視線で見つめられると、そのまま持って帰ることもできない。渋々プルトップを引っ張り上げてみるが、やはり奇妙な香りが漂ってくる。
なんだか意欲を削がれる匂いだが、飲まないわけにはいかない。えいやっと目を瞑って口を付けた。
「うまいか?」
「………」
何も応えず、ただ眉をしかめて口を結んだ顔は明らかにそれが"マズイ"のだと解る。
予想はしていたが、ものも言えないほどかと少し気の毒になったキルアは、笑って誤魔化しながら話題を変えた。
「今日は一人なのか? ウイングは?」
「師範代はまだ観客席のほうにいらっしゃると思います」
よほどまずかったのだろう、涙ぐみながらキルアを見上げたズシは、ウイングは自分が客席まで迎えにいく約束になっているのだと説明した。
「ふぅん……」
「ゴンさんの具合はいかがすか?」
「ああ─…まあ─……」
ゴンのことはあまり尋ねられたくなかった。怪我を酷くして軟禁しよう、なんて考えていた直後だけに、良心が痛む。だが言い渋っていると、よほど具合が悪いのか、と真剣な眼差しで自分を見ているズシと目があってしまう。
その曇りのない瞳で
「よくないんすか!?」
などと詰め寄られると、応えないわけにはいかなかった。
「いやぁ…あはは。良くなってきてるよ。お前は元気そーだよなー」
「おかげさまで、風邪もひかないっす」
えっへん、と胸を張って威張るが、そんなことはキルアだって同じだった。
(そんなん威張ることでも何でもねーよ)
風邪だのナンだのおよそ病と名の付くものなど縁がなかった。怪我をして熱を出すことはあっても、数時間もすればなにもしなくとも平常に戻る。ゾルディック家の特異体質とでも言うのだろう。
訓練の賜物だ、などと説明するズシに気の無い相槌だけを返していると、不意に今まで気にしていなかった人物の名前が耳に飛び込んできて、キルアは眉を上げた。
「師範代が最近元気がないのが心配なんすけど…」
「ウイングが?」
あのおっさんも、病気とは無縁そうなのに意外な話しだ、と首を傾げた。
「はぁ…時々ぼーっとして…窓の外を眺めてるっす」
「そりゃ前からじゃねーの。ボーッとしてるのはさ」
「いやっ違うンす! なんか…物思いに耽ってるっていうか…」
「なんだそりゃ」
そう言えば、ウイングには"礼をする"と言ったきり、約束を反故にしてしまっていた。
すっかり忘れていた──なんだ、ちょうどいいところに憂さ晴らしをする相手がいるではないか。
キルアの中に鬱々とたまっていた欲求不満の矛先が、次第に向きを変えていく。
あの男が内心何を望んでいたか、なんて見れば一発で解る。ほんの些細なキス──それだけであんなに真っ赤になっていたのだ。
誘えば陥落するのは早いと予想できた。
キルアは思いついた名案にちょっと嬉しくなりながら、彼らの予定を聞き出すことにする。
「な、あいつっていつもお前について闘技場まで来てるのか? 試合ない日とか、なにやってんの」
「あいつ…って師範代のコトすか」
ズシは、心から慕うウイングのことを"あいつ"呼ばわりされてあまりいい気がしない。もちろん、キルアは解っていてそう呼称していたが、相手のあまりに不愉快そうな顔に苦笑いを浮かべながら、言い換えて質問を繰り返した。
「そうそ、その師範代もお前もだよ。昼間とかなにやってんの」
「えと…試合のある日は朝からこちらへ来て…無い日は、だいたい朝の修行が終わりましたら昼食を取り、午後の修行の後は自主トレや買い物や…自由時間になってます」
「ふぅーん。午後とかも、いつもウイングと一緒にいるのか?」
「そういうわけでもないっす。だいたい自分は外へ出かけてるっす。食事の支度も自分の役目ですので、買い物にも行かなければならないですし…」
「夜は?」
「まぁ、食事とかは一緒に取ってますが…自分は寝るのが早いんすが、師範代は夜遅くまで色々やって見えますので」
「あっそ。しかしお前の一日って修行バッカなんだな。つっまんなくねー?」
「キルアさんも、ゴンさんの怪我が治ったら一緒に修行なさるンすよね?」
ズシは早く一緒に修行できる日が来ると良い、と嬉しそうに言う。
それに曖昧な返答を返しながら、キルアは別のコトを考え続けていた。

もうウイングを迎えに行かねば心配しているから、とズシが去っていった。もちろん、美味しくなかったジュースの礼も忘れずに言っていく。
気がつくと、"すぐ戻る"と言ってゴンの部屋を出てきてから随分経ってしまっていた。
「いけね……早く戻らねーと」
一人ごちながら飲み残していたジュースを喉に通してしまうと、空になった缶は近くのゴミ箱へと投げ捨てた。


翌日の昼下がり──キルアはウイングの宿泊している宿へと足を運んでいた。

ベッドの上は退屈だ。
ゴンは、ぼんやりと窓の外を流れていく雲を眺めていた。
一日中安静にしてなければならないと体も疲れないし、夜などちっとも眠れやしない。
特にこんな天気の良い日の昼下がりは、拷問のようだった。
外へ出て、駆け回りたい。
つい先ほど回診が終わったが、医者はやはりもうしばらく我慢しろ、とゴンに言った。
別に痛くないし、無理さえしなければ大丈夫だとゴンは感じている。今までも怪我をしたことはあるが、こういう疼くような感覚を感じるようになれば、ほとんど治ったも同然だった。
(センセイは慎重すぎるよなぁ)
はぁ、とため息をついて腕をさすった。
実のところもう普通に動いても構わない程度には治癒できているのだ。だが、医師にとってこの回復期間は経験したことの無いほど短かすぎて、目で見た事実をなかなか受け入れられず、ベッドをおりてよい、という許可が出せなかったのだ。
それほどゴンの回復力が驚異的だと言うことだった。
(キルア…来ないなぁ)
いつもなら午前中からゴンの部屋に入り浸って、ゴロゴロとしている友人の姿が今日はない。
特別何か用事があるとも聞いていなかったが、わざわざキルアの部屋に電話をかけてどうしたんだ、と尋ねるほどのことでもない。
キルアが居るとベッドから一歩だって下りれないし、何から何までやってくれてしまって肩身も狭い。たまには一人でいたいものだ、と思っていたが、実際キルアが姿を現さなければ──退屈で死にそうだ。
そりゃあキルアにだって、やりたいことはあるだろう。いつも一緒にいてくれ、なんてお願いできるわけもない。
時計に目を走らせると、もう4時になろうとしていた。
昼食はやはりデリバリーで済ませたが、夕食はどうするか──まだ空腹、と言うほどではないが食事の時間までにキルアが帰ってくるだろうか?
もしかしたら、一人で食事をすることになるかもしれない。そうしたら、外食しに出かけてもいい──
(よし、とりあえずベッドから降りてみよっと)
ちょっとくらいはバレないだろう──回復の度合いも測ってみたい。
心を決めたゴンは、よいしょ、よいしょと体をずらして大きなベッドを移動し始めた。片腕を吊られている上に、クッションがやわらかすぎてしまいなかなか移動が出来なかった。
「んっしょっと」
ベッドの端に腰掛けて、そっと脚を下ろす。
久々に素足の足の裏に触れる床の感触が、なんとなく心地よかった。

ペタペタペタと部屋の中を歩き回ってみる。
「うん。大丈夫」
特別おかしな感じはしない。飛び跳ねたりもしてみたかったが、もし何かあって後で医者やキルアにばれたらまた怒られてしまうので──とりあえずは我慢する。
(あ──そうだ。キルアの部屋に行ってみよ)
ひょっとしたら、部屋で寝てるのかも。
不意に思いついた名案に、ちょっと嬉しくなる。ノックして、居なかったら戻ってこればいい。
居たら居たで、そのままどこかへ食事に行っても良いわけだ。
とはいっても、キルアの部屋まで行くためには服を着替えねばならなかった。いくらゴンでも寝間着のままで廊下に出られるほど剛胆ではない。
「それが一番問題なんだよなぁ……」
手枷となっているギブスと、それを吊る包帯──上着を脱ごうと思っても、どうにも邪魔でしかたがない。
いつもはキルアが助けてくれるから、支障無く着替えも済んでいた。つまり、キルアが居ないと着替えすらマトモにできないのだ。
「………できるもん。それくらい」
頼りっきりであったことに気付いたゴンは、ぷぅ、と頬を膨らませて一人呟く。
ゴンは小さな衣装ダンスの中から、タンクトップを取り出すと、今身につけている寝間着を脱ごうと試み始めた。




白いシャツを着たままの男が、細い四肢を組み敷く姿が薄暗い部屋の中に浮かび上がる。
男の腕の中で、少年は感極まった声を上げた。
「ぃい…っあ…ぁ………っ!」
小さな唇から漏れる声が、こんなにも扇情的だとは知らなかった。膝を押し広げた男は、衝撃を受け止める少年を見下ろしながらそれに耳を傾ける。
ギシリ、ギシリとベッドが激しく軋む音と重なり、ウイングの理性を奪い取っていく。
「キルア……」
「!」
愛しい名を呼んで足を抱えて高く腰を上げさせ、更に上から叩きつけるように抜き差しを繰り返した。
「んああああああっ──!」
シーツを握りしめる細い指が白く浮き立つ。一瞬、滑らかな腹筋が大きく痙攣したか、と思うとウイングを包み込んでいた内壁がきつく収縮した。
「うぅ…っ」
ウイングがその迸りをキルアの中へとそそぎ込むのと同時に、キルア自身の高ぶりから白濁した粘液が垂れ落ちていった。

手早く服を着込み、「じゃあ」と手を振ってキルアはウイングの部屋から出ていく。
そのまま体の火照りをさますために、のんびり回り道をしながら天空闘技場へと戻ることにした。
手には小さな箱。ゴンへの土産に、とウイングの宿の近くのケーキ屋で買ったものだ。
ウイングのSEXは下手でもなければ、上手でもなかったが、それなりに楽しめたと思う。もともと、ヤられることのほうが多かったのだ──ゴンが相手だからリードする側にいるが、自分が気持ちがよいのなら、キルアにとっては女役も男役もあまり関係がない。
理由はよく解らなかったが、自己嫌悪に陥った様子のウイングは、キルアが「帰る」と告げてもベッドの端に座って頭を抱えたまま反応しなかった。
お互いに気持ちよかったんだから、そんなに考えることもないだろうに。だが、その思い悩む姿もどこかこ気味よく思われて、キルアは不思議な爽快感を覚えていた。
痛がるゴンに無理はさせられないし、人殺しも止めてちょっとストレス感じちゃってるところだったんだ。
オレは気分転換もしたかった。ウイングは自分とSEXしたかっただろうし、相手としては一番後腐れなさそうでよい。だから、彼と寝た。
キルアにとってはそれだけのことだった。
やましいことなど何もない。誰に憚ることもない──キルアは自分の中にある理屈を繰り返す。 時計をみれば、もう4時を回ろうとしていた。
(腹減ってきたなー。そういや今日はまだゴンの顔も見てねンだっけ)
闘技場へ戻ったら、まずゴンの部屋へ行こう。
昼飯とか、ちゃんと喰ったかな? 今日も回診は来ただろうか。まだ動いてもいいって、言われないだろうか……。
暮れていく夕日を眺めながら、しきりにゴンの具合を気にする自分がくすぐったい。
早く戻ろう、とキルアは少し足を早めた。


片手が吊られた状態で服を脱ぐ、というのがこんなにも難しいことだとは思わなかった。
難しい面もちで部屋の隅で座り込んだゴンは、シャツを脱ぐ、というたった一つの行為に、もう何十分も真剣に取り組んでいた。力任せに脱ごうとすると、微妙なところからビッと嫌な音がする。弱い生地はちょっと力を入れ間違えるだけですぐに破れてしまうのだ。
「もーおっ!」
癇癪を起こしたゴンは、なんで脱げないの?! と繰り返しぼやく。
苛立ちながら、裾を引っ張る。が、やはり肘が抜けずにそのままバランスを崩して転がってしまいそうになった。
骨折は初めてじゃない──でも前回も、クラピカやレオリオが居てくれて、何かと世話を焼いてくれてた。着替えるときはさりげなく手伝ってくれて──なんだ、オレっていつも誰かに助けられてバッカリだ。
気がついてしまうとこれほど情けないことはない。せめてシャツ一つくらい、と躍起になればなるほど、解けないパズルは更に複雑にこんがらがっていくのだ。
「ちぇ──っ!」
結局どうにもしようがなくなって、諦めた少年はそのまま後ろへと倒れて大の字になった──とそれを覗き込んだのは、キルアと掲げられたケーキの箱。
「なにやってんの、ゴン」
「キルア!」
いったい何時から居たのか──とゴンが不思議そうな目で見ると、キルアは
「さあな」と笑った。
脅かすつもりでこっそりと入室したのだが、そこで見たのは必死になってシャツを脱ごうとしていたゴン──思わず呆れて声がかけられなかった。
昨日、フェラしようとした時にはあんなに痛がってたくせに、今はもうそんなにドタバタやっても平気なワケか?
人間じゃねーな。一晩寝たら、そんなに飛躍的に治っちゃうもんなのか。
常人とは比べ物にならない、と自身のやはり人並みはずれた治癒力は棚に上げて、そう思う。
「ほら、土産──んだよ、もうベッドから降りても良いって言われたのか?」
むっくり起きあがったゴンの腕の中に箱を渡す。
今日も医者が回診に来ていた気配が残っていた。昨日の様子から言って、とても動いても良いという許可を与えたとは思えないが、とりあえず確認をする。と、「えーっと……」等と呟き、誤魔化す顔つきからけして降りてもいい、と許可をいただいたわけではないことが知れた。
「あのな。ほんっとに治す気あるのか?」
「だって、全然痛くないんだよ? キルアも来ないしー…オレ、暇だったんだよ。だからちょっと部屋まで見に行こーかと思って…」
それで着替えを試みていたのだと主張する。
おまけに、何処へ行っていたの? と尋ね返され、キルアは、ぎく、と顔を引きつらせた。
キルアの今までの動向を知る訳の無いゴンの口調には、けして責める雰囲気は無かった。だが、キルアには、ウイングの処へ行ってSEXに興じていたとは言えずに言葉を濁して話題をすり替える。
「あーまぁ……出かけたかったのか?」
「うん。それで着替えようとしてたンだけど、やっぱ片手じゃうまくいかないなー」
胸の中が後ろめたさでいっぱいのキルアには、その無邪気な笑顔がまぶしい。
でも、別に悪いことをしてるわけじゃないんだし、と自分に言い訳をし、キルアは
「じゃ、着替え手伝ってやるよ」
とゴンの腕を取った。

「お前って器用なようでむちゃくちゃぶきっちょな」
キルアは少し馬鹿にしたような口調でそんなことを言いながら、ゴンの衣服を脱がせていった。
寝間着代わりに着ているノースリーブのシャツの裾をもって、ゆっくり慎重に上へと捲りあげていく。
左腕を抜き、頭をくぐらせて……吊られたままの腕をうまく支えて裸にしてしまう。
ちょっと肌寒そうに身震いしたのを見て笑いを漏らし、すぐ脇に用意してあった少し厚手のタンクトップを着せた。一度立たせて履かせたズボンの留め金をはめた後は、膝上の長い靴下を手にとってゴンの足元にかがんだ。
「もういいよぅ」
呟く少年を無視して、靴下を履かせた。
キルアは着替えを一通り手伝うと、今度はクローゼットの中から靴を持ち出してくる。
動くな、といわれているゴンは、ベッドから立ち上がりはしなかったが、その後ろ姿に訴えた。
「ねぇ…キルア、それくらいオレ自分でできるから」
「んー?」
「靴まで履かせてくれなくて良いってば」
「んー。」
だが、ゴンの主張は完全に無視されてしまう。
数足ある靴──いつも履いているブーツの他、サンダル、スニーカー…ほとんどはキルアが選んで買わせたものばかりだ。
その中から、一番気に入っているショートブーツを手にとってゴンの処へ戻ってきたキルアは、再び足元に座り込んでブーツのひもを解き始めた。
「かがんだら肋骨に悪いかも知れないだろー。お前って案外ドジだから、ひっくり返って腕ぶつけてもんどりうっちゃたりとかさ…」
「しないよっそんなことー!」
あまりな言われようにゴンも少し怒って言い返すが、靴を履かせてくれようというキルアに対してそれ以上抵抗はしない。
甘やかされるのは、とても気分がいい。特に好きな人にされるのは、すごく嬉しい。
ゴンが、心の中でそう思っているのも確かだった。
今までこういう形ではあまり世話を焼かれたりしなかったから、口では自分でするから、とは言いつつも、やはりきっぱりと拒絶する事ができなかった。ミトさんは色々口を出すけど甘えさせてくれた訳じゃない。そうして欲しいと思って居たわけでもないけど──。
ゴンは、求められるままに靴の中に足を滑り込ませていく。キルアの細い指が巧みにブーツのひもを結んでいく様子をただ黙ってみていた。
両足にきゅっと綺麗なちょうちょう結びが作られて、準備完了、とキルアが立ち上がった。
「ン? どした?」
「な…なんでもないよっ」
無意識に、その銀の髪を目で追ってしまっていたゴンは真っ赤になって否定する。
あえて追求もせずに、キルアはぐん、と伸びをすると、
「さって、じゃあ行くかな。何処行きたかったんだ?」
と尋ねた。
「別に何処ってワケでもない──キルアの部屋に行って、一緒にご飯食べに行くつもりだった。もうデリバリーも飽きたし」
「そうだよな──いっつも同じもんばっかだもんな。焼き肉とか喰いたくねぇ?」
「食べたい!」
「美味そうな店、見つけてあるんだ。そこ行こう!」
「うん!」
元気な返答が戻ってくる。
2人は手を取り合って部屋を出ていった。


居住区から闘技場の方へと移動すると、次第に人通りが増えていく。
数日ぶりに部屋の外に出たゴンは嬉しくて仕方が無いのか随分はしゃいでいた。
キルアに引っ張られて歩いている最中も、あちらこちらをきょろきょろ眺めて落ちつき無くしている。いつもは邪魔だとしか思えない人波すら、もまれていると鬱積した気分が洗い流されていくようだった。
人々のざわめきが時折互いの声をかき消すために、2人は自然に寄り添うようにして歩いていった。
「ねぇその焼き肉屋さんはどこにあるの?」
階下へと降りるエレベーターに向かう途中で、ゴンが思い出したように店の所在を尋ねる。
見つけてある、と言ったが、塔内の店なのだろうか。ここへ来て10日ほどになるが、まだ探検し足りないところがあっただろうか? と考え込む。
とくに、100階を越して、街の安宿場から闘技場の居住区へと住まいを移してからというもの、塔内の食べ物屋に関しては、ほとんど網羅したと言っても過言ではないはず。
自室に缶詰になっている間に新しく開店したお店でもあったのかも、とゴンは考えて尋ねた。
だが、キルアは意外な答えを返す。
「街のほうだよ。結構有名らしいぜ…ウマイって評判で。行列とかできるんだって。すげー流行ってんの」
「ふぅん?」
何時の間にそんな店を知ったのかな。
あまり流行りの店には興味を示さないキルアらしからぬ話だと首をかしげる。
グルメ雑誌やテレビ番組でも見ていたのだろうか。でも部屋に寝転んで、雑誌をめくるキルアの姿なんて、とても想像できない。
四六時中一緒にいるのだから、街なんかを出歩く機会はなかっただろうし……。
それとも誰かに教えてもらったのかなァ?
ぼんやり考えこんでしまい口をつぐんだゴンを見て、少々誤解したキルアは心配そうに相手を降りかえった。
「……ちょっと遠いけど…大丈夫か?」
キルアは、突然無口になったのは怪我が痛んだせいではないか、と心配する。
歩調を緩めて、ゴンの様子をうかがった。店を変えようか、とまで言うキルアに、ゴンは苦笑いを返した。
「平気だよ。別に痛くないし」
怪我をしてるといっても、もう自分としてはそう大袈裟にするレベルでもなく、普通に歩くくらい、何の支障も無い。そもそも医者は大事を取り過ぎる、と思っていたゴンは、せっかく出歩ける機会を無駄にしたくないと思っていた。
塔の外にまで出られるのなら、尚更だ。
「でも、医者はまだ動くなっていってたんだろ。見つかんないようにしなきゃなぁ…」
「見つかったら大目玉だね」
悪巧みの相談でもしているような表情で、2人笑いあう。
「そうそう…」
思い出したように、『後、ウイングさんにも見つからないようにしなくちゃね』、とゴンに言われて、キルアは「そうだなぁ」と気まずい返事を返した。
なんとも後ろめたい気分がキルアを襲う。
(ちぇ。べっつに知られなきゃどーだっていいじゃねーか、あんなこと)
ウイングがゴンにバラすほど根性があるとは思えないし、ゴンはかなり鈍いタイプみたいだし。秘密を保持するのは楽勝だ。
大丈夫、知られるわけがない、と自分に言い聞かせる。
と──そのとき。体の一部に奇妙な感触を感じてキルアは立ち止まった。
「あ!」
立ち止まる、などとは思いも寄らなかったゴンは、勢いキルアの背中にぶつかってしまう。
「いたい……なあに? キルア…」
ゴンはぶつけた鼻の頭をさすった。
もうエレベーターは目の前なのに、どうしてこんなところで立ち止まったの…?
「ねぇキルア?」
再度呼びかけられた少年は、酷く顔をしかめて空を睨んでいる。
(何かあったのかなぁ…)
周りを見渡しても、特別なものは何もない。見慣れた闘技場の風景ばかりで、誰か知ってるものがいるわけでも目当たらしものがあるわけでもなかった。理解できずに、ゴンは困り切ってしまっていた。

それは、解るわけもない。
実は、キルアは自分の失策に気付いて不快感も露わに眉を顰めていたのだ。
(しまった……)
心の中で、舌打ちをする。
つい先ほど、遠慮なくそそぎ込まれたウイングの精が、じんわりと漏れだして下着を濡らし始めていた。
行為に慣れたキルアは、その程度で腹を壊すこともなかったが、うっかり始末し忘れるとは我ながら抜けていた。
(むかつく…あのアホメガネ)
よくもやってくれたな、とウイングに対して罵倒を繰り返す。
足へと伝うほどではないが、このままでは他人の体の匂いがキルアから立ち上ることになってしまう。
普通なら、その程度の匂いなど気にする事もないが──人の気持ちに鈍い代わりに、犬並みに鼻の良いゴンなら気付くかもしれない。
「どうしたの?」
何時までも返事をしないキルアに焦れて、ゴンが袖を引っ張った。はっと我に返ったキルアは、相手の方を向き直りぱっと体を離した。
「?」
握っていた手を突然離されて、ゴンは少し驚いたような顔をした。
不審に思われただろうか…と不安に思うが、あまりくっつかれているのも困る。微妙な距離をキープしながらキルアは渋い顔を作る。
「いや……オレちょっと部屋に戻ってくる」
「え? なんで?」
ゴンは、不機嫌さを隠しもしないで部屋に戻ると言い出した相手を不安そうに見上げる。
何か悪い事でもしたのだろうか? 自分では気付かなかったけど…。
「あーいやーあ……ちょっと、な。忘れ物。戻ってくるまでここで待っててくんね?」
「じゃ、一緒にいくよ」
「いいって。待ってろよ。すぐだから」
「キルアすぐだって言って、いっつもすごい待たせるじゃん、一緒に行くよー」
「絶対すぐ帰って来るって」
押し問答をしている間にも「ナンか変な匂いが」などと言われないかとヒヤヒヤしていたキルアは、「じゃあな」の一言で片づけると、ゴンの横をすり抜けて駆け出した。
「キルアー!?」
「座って待ってろって!」
一度だけ振り向いて叫ぶと、全速力で部屋へと向かって走っていってしまった。


バン!と、壊れるのではないかと思えるほどの凄まじい音を立てて自室のドアを開けたキルアは、それが閉まるのを待つ事なく着ていた服を全て脱ぎ捨て、シャワールームへと飛び込んでいった。
すごい勢いでコックを捻り、吹き出したシャワーを被る。
「つっめてっ…っ」
首筋に冷水が落ちてくる。だが、構わずシャワーヘッドを手に取り、バスタブに足をかけ、彼の体の中に残っているウイングのものを掻き出そうと硬く口を結んだ秘所へとそれを当てた。
「……っ」
ほんの数時間前にウイングによってこじあけられ、めくれ上がっていた筈のその部分はすでに充血すらしていない。
「う…」
きつく絞られた襞に水流があたった。遅まきながら動き出した給湯器のおかげで冷水から次第に温水へと変わって行くそれが、硬い肉をほぐしていく。過敏な身体が、その刺激を快楽と読み違えて反応をかえした。
キルアは更なる刺激を求めて蠢くそこへ己の指を捻じ込み、身体の奥深くを探った。二本の指で入り口を開いて体内に湯を入れようと試み、同時に指の先で掻き毟るようにしてその液体を外へ出そうと必死になっていた。
(くそっ……さっさと出てけよなっ…!)
焦りのために、心の中で罵倒を繰り返す。だがしつこいメガネニーサンのSEXとおなじように、彼の精液もしつこく外へは出ようとしなかった。
(ゴンが待ってんだよ…っんとに、あのアホ! 今度はぜってー中に出させねーからなっ)
だが、内壁を刺激する指と、入り口の襞を柔らかにマッサージする水流のため、キルア自身も僅かに兆しを示し始める。
「ん…っあ……もぉっ」
時間が無いというのに、反応の良い自分の体が恨めしい。
苛つき、己の兆しに指を絡めたい衝動を抑えながらも、体内を抉る手は止めなかった。
「あ…っあ……っ」
せっぱ詰まった声を上げながら、乱暴に動くキルアの指を伝ってようやく少しづつそれが滴り落ちてくる。
シャワーの湯水と完全に混じったその液体は、排水溝へと飲み込まれていった。


ゴンはホールの脇に小さなベンチを見つけて、ぼんやりと空を見つめていた。
もう、キルアが走り去ってから数十分が経っていた。
「やっぱついてけば良かったなぁ…」
ゴンは溜め息を吐いて呟く。
忘れ物を取りにいくだけだ、と言っていたけれど、それにしては遅すぎる。今いる場所から居住区のキルアの部屋まで、5分もかからない筈なのに、まだ姿を現す気配も無い。
後を追おうか、とも思ったが、万が一どこかですれ違ったらまた厄介な事になる。おかげで一歩も移動する事もできずに、ゴンは再び溜め息を吐いた。
(なにやってるのかな……お腹空いたな…)
だいたい、朝からフラッとどこかへ行ってしまって、ようやく食事へ出かけるっていうのにまたいきなり姿を消して。
今日のキルアはいつもとは違う感じがする。
(変なの。ひょっとして、なにかナイショのことでもあったりして)
ただの思い付きではあったが、鋭いところをついていた。が、ゴンにはそれ以上の詮索はできない。
そもそも、キルアが自分に対して隠し事をしたり嘘をついたりするなんて考えられなかったし、理由が思い付かなかった。
(まぁ、どーせ財布でも忘れて探してるんだろーけど…)
キルアもオレと一緒でモノ無くしたりするんジャン。オレにばっかり文句言うけどさぁ…。
そうしてゴンがキルアが走り去った理由を想像しても、当の本人が戻ってくる気配はなかった。
考えるのにも飽きて、ぼんやりと目の前を行き交う人の群れを数え始めた。
ゴンの視界に存在するのは一人、二人どころではなく、エレベーターの扉が開く度にドカドカと固まりが吐き出されていく。
(すごい人の数…)
この間にエレベーターホールを通っていった人だけでも、ゴンの生まれ育った村の住人くらいは居るのではないかと思われた。
それでも、この塔の中に今居る人間の何百…いや、何千、何万分の一の数にも満たないかもしれないのだ。
(…よく考えたら、オレこんなに人が一箇所に集中してるの見るのって、始めてかもしんない)
ゴンは、無意識に水の流れのように留まることのない彼らを目で追っていた。
この中に──きっとヒソカも、居る。
ついこの間、ゴンの部屋まで訪れた彼のことを思い出す。
ウイングにさんざん叱られ、誓いの糸をくくりつけられた直後にやってきたヒソカは、ちっとも変わっていなかった。
あの時、彼の残していった火種は、まだこの体の中に燻っている──目を閉じ、意識すると今も熱く脈打っていた。
普段は表面化することもないが、何かの拍子に思い出しては居てもたっていられないような焦燥感に悩まされる。
ゆっくり静かに目を閉じ、ソレを確認してから再び目を開けた。
その視界をゆっくりと横切っていったものが、ある。
「………え…」
存在を確認した瞬間、ゴンは無意識にソファから立ち上がっていた。

計ったようなタイミングだった。
しかも、一瞬のことで普通なら人違いではないか、と疑うほどだ。だが、ゴンの常人離れした視力はそれを"彼"だと認識していた。
(ヒソカ…!)
人と人の頭の間から除いたあの後姿は確かにヒソカだった。
男は、雑多な人間の合間に見え隠れしながら、ゴンの座っていたエレベーターホールの前の十字路を横切っていく。
ゴンに気付いた気配もなく、余所見もせずにただ悠々と歩き去っていってしまう。
「…あ……待って…」
小さく呟いてふらり、と彼を追い始めたゴンの目の前を大柄な男が横切り、視界を遮った。
「……っ」
その、ほんの数秒の間にヒソカの姿が消える。
(どこに……)
慌てて十字路まで走っていくが、やはり彼の姿はない。
(まだ、そんなに遠くに行ってないはずなのに…)
もう居ないなんて。
きゅ、と唇を噛むと雑多な人の群れを睨みつける。
そしてゴンは何かを考えるよりも先に、恐らくヒソカが進んでいっただろうと思われる方向へと走り始めていた。


だが数分後──結局ヒソカを見つけられず、トボトボと戻ってきたゴンは再び同じソファに座りこんでいた。
空いた手で頬杖をつき、視線を落としてブーツの爪先を見る。
二つ先の角まで探しに行ってみた。やはりヒソカの影もなかった。
そこから先は、もうどちらへ進んだかの予測もつかなくて、諦めるしかなかった。
確かにヒソカだったのに──こんなに近くにいたのに、気付いてくれないなんて。
なぜだかそんな思いに苛立ってしまった。
ヒソカはもう──オレのこと、どうでもよくなってるんだろうか。
この間、わざわざ部屋まできたのはなんだったんだろう。
目の前を横切っていったくせに、あれはきっとわざと無視したんだ、だから一瞥もくれなかったんだ……根拠のない予測は、身勝手に膨らんでいきゴンの頭の中を支配していく。
オレを──からかうために。一生懸命追いかけたのに…。
(オレ…追いかけてどうするつもりだったんだろ)
顔を合わせて、何を言うつもりだったんだ?
突然自分自身が問い掛けてくる。
どうしたかった?
これからキルアと食事へ行くのに、もうヒソカとは関係を持たないと誓ったはずなのに、なぜ追いかけてしまったんだろう。
ヒソカの姿を認めた瞬間に、どうしよう、とかじゃなくてただなんとなく脚が動いた。
(…だめジャン、オレ…)
キルアに『もう良いんだ』なんて言いながら…プレートを叩き返すことだけがヒソカを追う目的のはずなのに。
(もう…考えるのは止めたんだろ、ゴン!)
そう自分に言い聞かせて、頭をぶんぶんと振るとヒソカの存在を追い出してしまう。
今は考えない。
とにかく体を治し、1勝をあげられるまではヒソカと闘うことは適わないのだ。
「1勝…かぁ……」
ギド戦の手応えからいって、正直その1勝をいつ得られるかどうかは解らなかった。
自分がまだまだ何も知らないのだ、ということだけを思い知った1戦だった。
避け続けるだけではいつまでたっても勝利は得られない。そのためにも早くウイングの元で修行をしたいのに…
(怒らせちゃったからなー…)
2ヶ月の謹慎は気が遠くなるくらい長い。v ゴンはこの先の時間を思いやって、大きな溜息をついた。

と──ポン、と後ろから頭をこづかれた。
「?」
振り向くと、そこにキルアがいた。
「なぁに溜息ついてんだよ」
ようやく戻ってきた友人は、ニヤニヤ笑いながら呆けた顔を眺めていた。
「あ…ううん、なんでもない。ていうか、キルアが遅いからさぁ…」
ゴンは、つい先ほどまでヒソカのことを考えていた後ろめたさで、本当のことを言えずについ相手のせいにした言い訳を口にしてしまう。
ついで、やっと戻ってきた…遅かったね、何してたの、等と尋ねようとしたゴンは、だがその友人の姿をまじまじとみて、次の瞬間には大声で叫んでいた。
「なんで着替えてんのさ────っ!!」
そう──
ゴンをホールに置き去りにして行き、しかもすぐ戻ってくる、と言いながら数十分もの間待たせた本人は、頭の先から靴までもしっかり着替えてから戻って来ていたのだ。
「いーだろっ お前も着替えてるんだからっ」
怒鳴りつけられたキルアは、まさか"下着が汚れたから"などと答える事ができる訳もなく、お前の着替えを手伝ってやったんだし文句を言うな、などと通らぬ理屈で相手を煙に巻こうとした。 だが、「いこーぜ」とゴンの手を取った瞬間、そのゴンの鼻にふんわりと石鹸の匂いが香る。
「あっ…しかもキルアったらお風呂入ってきてる! しんじらんない!」
人を待たせておいてのんびり風呂にまで入って、着替えて、どういうことだ、とプンスカ怒る相手に
「しょーがねーだろーっ。走ってったから、汗かいたんだよっ」
「なにそれー!!!」
たった5分の距離で、キルアが汗なんかかくものか! と真っ向から噛み付いてくるゴンに辟易しながら、掴んだその手を引っ張り上げた。
「さっさと行くぞっ!腹減った」
「オレだって空いてるよ! もぉっ…キルアがお風呂なんか入ってるからーっ!」
勝手な事ばかりを言う相手に対して、流石にゴンも怒りの声を上げる。
なかなかなか終わる気配のない口論を交わしながら、2人はエレベーターへと乗り込んでいった。
ゴンが、ベッドから降りても良い、という許可を得たのはそれから数日後の事だった。
まだギブスはそのままにと、くどいほど念を押されたが、とにかく絶対安静の札は外され、
外への外出も自由にできる事となった。
「おめでとさん♪」
「ありがとう! 今まで色々とゴメンね? もう大丈夫だから」
ゴンはにっこり笑って、世話になった事に礼を言った。
「でも、ギブスはそのまま、なんだろ? 着替えとかしにくいんじゃないの」
キルアはそれでも彼に構うための口実を見つけようと、ゴンの腕のギブスを指差しながら、着替えくらい手伝ってやるから、と提案してみる。もちろん、ゴンはキルアの気持ちなど察するわけもなく、あっさり腕を上げ下げして見せた。
「うーん? でもほら、腕は上げれるし。前みたいな完全固定じゃないからサー。何とかなりそうだよ」
「そっか」
つまりはそれだけ回復したのだ、という事で──喜ぶべきことなのだろうが、キルアにはちょっと淋しいような気もしてくる。もっとも最後に医師は、週に一度の検査を義務づけて去って行ったのだが。
「そんなに通わないと行けないものなのかなぁ?」
ゴンは、かなり不満そうにキルアの顔を見た。あからさまに"医者のところなんかもう行きたくない"という気持ちが伝わってくる。
「オレが知るかよ…大事を取ってるんだろ」
相変わらずなやつ、と思いながら、ソファに座っているゴンの近くまで行くと、優しく頬を撫ぜた。
「なぁ…もうちょっと位動いても痛くね―んだよな?」
「え? うん、全然痛くないよ?」
「そっか。じゃあさ……」
ゴンの耳に唇を寄せて、ボソボソと囁いた。
それを聞いて、ゴンはかなり戸惑う表情を浮かべた。
「え…それ、今??」
まさか、と確認の意味で問い返したのだが、キルアはにっこり笑うと見事にゴンの期待を裏切ってくれる。
「うん、今」
肯定した後、ゴンの座っているすぐ横に膝をつき、圧し掛かっていく。左腕だけでキルアの身体を押し戻すことを試みながら、ゴンは窓の外を示して抵抗した。
「だ…っだって、まだ昼間だよ?!」
「かんけーねーよ」
「それにっオレずっと風呂だって入ってないしっ」
「いいじゃん、俺が毎日拭いてやってたろ?」
「でも洗うのとは違うし!」
首筋に顔を埋めてキスを繰り返していたキルアは、シャツを捲り上げようとしていた手を止めて哀しそうに装ってゴンを見つめた。
「……なんだよ、ゴン。オレとしたくない…?」
「そ…っそういう…わけじゃ…」
でも、いくら拭いてもらっていたからと言っても、もう何日も体を洗っていないのだ。
それが恥ずかしいのだという事は解かってもらいたい…ゴンは、か細い声でそう訴えると、キルアの服の袖を握って、俯いてしまった。
今にも襲いかからんとしていたキルアは、おそらく顔を真っ赤にしているのだろうゴンを見、仕方ない、と体を離した。
「解かったよ。じゃあ、今ここですんのは止めよ?」 ほっとしたゴンは緊張を弛ませて笑う。
だが、次の瞬間にはすぐに、追い込まれてしまったのだ、ということに気付いて青ざめる事になった。
「かわりに、今から風呂はいろーぜ? 俺がきれーいに洗ってやるよ♪」
「ええっちょ、まってよキルア!」
「俺はここで今すぐ、でもいいけどさ。お前が嫌がるから…風呂入るんだぜ? なんか文句あるの?」
「う……」
「今する?」
「お…お風呂で良い…です……」
その答えに、嬉しそうに笑うと、うな垂れたゴンの髪をくしゃくしゃにかき混ぜて、キルアはシャワールームへと向かっていった。 もちろん、バスタブに湯を張るために、である。
ひょっとして、墓穴を掘ったのではないか。ゴンはそう思ったが、今更前言撤回する事もできず──キルアの後ろ姿に対して、盛大な溜め息を吐くしかなかった。

久しぶりにゆっくりとつかる湯船はとても気持ちが良い。
ビニール袋で覆った腕は外に出して、ギブスが濡れてしまわないように気を付けながら、体を温める。
「洗ってやるから出て来いよ」
素っ裸で、泡の立ったスポンジを持つキルアがゴンに声をかけた。
「……自分でやるよぅ……」
「できねーって言ってんだろ。ギブス濡らすと面倒だって」
「そんなことないって」
「あるんだよっつべこべ言わずに出てこいっ」
洗ってもらうと、またおかしな悪戯をされそうな気がしてゴンはなかなか湯船からでようとはしない。
「…んなら、その中で洗うか?」
痺れを切らしたキルアが、ボディーシャンプーのボトルを持って近づいてくる。
「中でって」
「こうすんだよ」
蓋を開けたボトルを逆さにして、湯船の中にどんどん入れていく。もう一方の手でばしゃばしゃと湯をかき混ぜて、どんどん泡を立てていった。
「わあっ! なにすんのさ!」
「洗ってやるって言ってるのにきかねー奴が悪い!」
「ばかぁっ! ギブス濡れちゃうジャン!」
「ぎゃははは、後で乾かしてやるよ!」
「そーゆんじゃなくてさー!! あぁもうっ!」
文句を言いながらも、ゴンの声はけして怒っているわけではない。浴室には、二人の少年の楽しそうな声が響きつづけていた。



「ギブス、ずいぶん濡れたかもな」
バスルームで思う存分暴れまくった後、そこでの悪戯は止めにしたキルアは素直にゴンの体の泡をシャワーで落としてやった。
「誰のせいさ…」
「誰?」
「キルアでしょ」
「お前だろ?」
責任を擦り付け合いつつも、ゴンは大人しくキルアの手が泡を流していくのを享受していた。
キルアも特別おかしな素振りは見せず、純粋にゴンの体を洗い流していく。
一つ一つ、念入りにチェックでもするようにして。
そうして、足の先までシャワーをかけ終わると、にっこり笑って言ったのだ。
「よし。綺麗になった。これで文句はねーよな」
「え?」
話の展開が掴めないゴンは、何に対する文句のことだ? と首を傾げた。
「とぼけんなよ。次はベッドの上で遊ぶんだろ。約束、だったろ?」
「ええっ…約束なんかしてないよ!」
「したろ。…ああ、そいやイッコ洗い忘れてたっけ」
焦りまくっているゴンは無視して、もう一度湯船の中からきめ細かいシャボンの泡を指先に取る。何をしたいのか、すぐに予想のついたゴンは尻込み、扉のノブを掴もうと手を伸ばした。
だが、キルアにその上からぎゅっと握られて、ノブは回らない。
「どこ行くんだよ」
「もうちゃんと洗ってもらったからさ…」
ゴンは引き攣る笑いを浮かべて、キルアにありがとう~と言うが、キルアも不気味なほどさわやかな笑みを浮かべて
「いいや、忘れてた。ここ、もちゃんと洗わなくっちゃな」と言うと、ゴンの小ぶりな双丘の間に泡のついた指を滑り込ませた。
「ひゃう…!」
柔らかな尻の肉を掻き分けると、目的の場所を簡単に探しあてる。
「ここが洗ってなかったから、とぼけてたんだろ? 悪かったよ。忘れててさ」
耳元で囁いてやりながら、泡で滑る指先を優しく揉み解すように動かせば、
「あ…っち…違…う…っ」と切なそうな声をあげる。
湯船で十二分に温まっていたためか、いつもよりも簡単に襞が開いていく。
つぷ、と爪先を潜り込ませ僅かな力を加えてやると、後は誘われるかのようにして飲み込まれていった。
「ひ…あ…っ」
キルアの指の節が、入り口を通るたびにじんわりと痺れをもたらしてゴンの唇が戦慄いた。
一本がいつの間にか2本になり、ゴンの内側で暴れまわる。
内臓から分泌されてくるのだろう体液が、ぐちゅりぐちゅりと音を立て始めていた。
ノブを支えに浴室の扉にしがみつく腕が震える。
キルアは、仰け反る腰を片手で支えながら、指で犯すその場所をまじまじと見つめていた。
捲れあがった襞が艶かしく、そこへ自分の指を埋め込んでいるのを見るだけで息が上がる。
ゴンのその部分を見ていれば、充血した自分自身も、もちろん目に入る。コレをココに入れて──
そう思ったときには指を抜き、ゴンの耳元で囁いていた。
「なぁ…このまま、ここでしてもいい…?」
自分の熱くなった楔を押し付けながら、何をするのか暗に知らせる。
「や…う…」
無意識に腰を引くが、キルアの腕に押さえつけられて逃れられるわけはない。
「いれちゃうよ。ノブんとこ、しっかり握ってろよ」
「だめ…っう…あ……っ」
首を横に振って抵抗を示すゴンのことは無視して、キルアは強引に体を進めた。
「…っ……」
「い…あ…ぁあっ…」
ゆっくりと、肉を押しのけて中へ入ってくる感覚に肌が粟立つ。
腕の力だけで小さな体を手繰り寄せ、抜き身の根元まで飲み込ませるとキルアは小さく溜息をついた。
「ふぅ…っ」
相変わらず──熱い……。
きつく締め上げるような感覚を味わいながら、軽く揺すって反応を見た。
「あ…あ……」
振動に合わせてゴンが煽るような吐息を漏らす。
自制が利かないかもしれない。数週間ぶりの体に溺れてしまいそうな予感がして、キルアは苦笑いを浮かべた。

音響効果の高い浴室の中で響くゴンの可愛らしい喘ぎが、キルアの耳を擽っていた。
その手に抱いた身体は、ちゃんと己の思う通りに反応し、これ以上ない悦びをもたらしてくれる。小さな熱いそれを貫いて、己を埋め込む度にこれは自分のものなのだ、と確認できるような気がして、胸の奥に沸々と湧き上がる何かを感じる。
まだ完治していない怪我人の脚を持ち上げ、キルアはつい欲のままにゴンの体を求めてしまう。
「キル…ア……っあ…っ痛っ……いよ…っ」
眦に涙を滲ませたゴンの唇から、切れ切れに訴える声が聞こえてきた。
痛い──立ったままの姿勢で突き上げられることで、腕や肋骨に衝撃が響いて、脳天まで痛みが走る。
以前のような悲鳴をあげるほどのものではないが、軋む痛みはゴンを快楽に集中させない。
その声にようやく気付いたキルアは、息を弾ませながら抽送を止めてゴンの腰を掴んでいた手を滑らせてゆっくり上半身を支えてやった。
「あぁ……」
体を支えられたおかげで、少し痛みが和らいだのか緊張の緩んだ溜息が漏れる。キルアはその可愛らしい耳元に唇を寄せると、繋がったまま彼に囁いた。
「…わりぃ。骨、響いたか?」
「う……うん」
「そっか」
力なく頷いたゴンの様子を確認すると、再びゴンの腰に手を当ててゆっくりと体を引く。
「あ…あぁっ………」
入り口まで抜かれた後、またキルアが中へと進入してくる──その瞬間を待ち、ゴンは体を硬くする。
再奥まで突かれると、電流のような痛みがまた骨中に走るのだと身をすくめた。
だが、予想に反してずるり、と抜けていく感覚に驚き、不思議そうに頭を上げてキルアを見た。
「っ…キルア…?」
キルアの楔が抜け落ちた瞬間、ブルリと身震いをして、眉を寄せた。
「どうして…?」
そんな頬を染めた顔で振り返られると、この場に捻じ伏せてしまいたくなるが、その衝動は抑えておいた。
「ん…やっぱちゃんとベッドしようぜ。無理して悪化させられないもんな」
まだ本調子じゃないんだし、と言われてゴンはとても申し訳なさそうに体を小さくした。
「……ごめん…」
自分を思いやってくれているのだ、と思うと、自然にキルアに対して謝罪の言葉がこぼれ出る。
途中で止めてまで場所を変えようと言ってくれることに感謝する。
「お前が誤ることじゃないだろ? 仕方ねーよ」
「でも」
いつだったか、治ったらイヤってくらいする、と言ったのに、と半ば覚悟をしていた分だけ戸惑いを感じてしまう。
だがその話に対しては、キルアは
「……でも、まだ完治はしたわけじゃないし。お楽しみは、そのギブスがとれた時にでもとっとくよ」
「うん」
都合のいい主張に対してあまりに素直に頷かれ、あくまで移動する、と言っただけで、けして『今日は止める』つもりではないキルアは、少々胸が痛む。
いや、本当にゴンの体を思いやるなら、もう止めとくべきなんだろうけど…
とまんねー時ってあるんだよな。
せめてもう少しだけ、楽しませて欲しい。
もう少しだけ、だから。
勝手な理屈で自分を納得させると、ゴンをベッドルームへ急き立てていった。


確かにもう少しだけ、とは言ったものの。
キルアは、ベッドの上で不満そうな顔をして頭をかいていた。
ほんの一回ほど体を味わわせていただいた後、少年はすやすやと眠りについてしまった。
ちょっと揺すったくらいじゃ目を覚ましそうにないゴンの寝顔を眺めて肩をすくめる。
完治さえしていれば──正直、どんなに音を上げて、泣いて許しを請うたとしても、1回で終わらせるつもりなどないのだが、向きを変えるたびに痛がる相手にそう無茶をする気にもなれず。
果てて意識を失ったゴンを叩き起こすことはできなかった。
「あ~あ…つっまんねーの」
中途半端に火照ったままの体をどう始末するべきか。
寝顔でも見て、オナニーしろってか。そんなん絶対イ・ヤ。
時計を見ると、まだ昼を少し過ぎたばかり、だ。
(……今から行けば、ウイングのとこなら2時ごろつくよな)
ちょうどズシが修行と昼飯を終えて出かけた位の時間だ。
まぁ、もし出かけてなかったとしてもメガネ兄さんなら追い出してくれるよな。
寝入っちまったゴンは当分目を覚まさないだろうし、一運動して戻ってきたらちょうど飯時…いいタイミング。
「1週間ぶりだしな~。たまには遊びに行ってやるか」
というと、脱ぎっぱなしの服を手早く着るとゴンの体に掛け布団をかけてやり、そのまま部屋を出て行った。
この時キルアはうっかり忘れていたのだ。
医者からゴンに科せられていた外出禁止令は、すでに解かれていたことを。


ゴンが目を覚ましたのは、それから数時間後のことだ。
「う…ん……キルア…?」
横に眠っているはずの相手を探して右手が動く。
「………?」
何にも当たらないことを不審に思ったゴンは、眠い目を擦りながら体を起こした。
ベッドが冷たい。
きょろきょろと見回したが、部屋のどこにもキルアの姿は認められなかった。
「あれ…?」
サイドテーブルの上に何かメモのようなものが乗っている。
「…キルアの字だ……」
『夕飯時に迎えにくる』
とだけ書かれた紙切れ、だ。
「えぇ~?!」
いったい何所へ行ったというのだろう。
どこかへ出かけたかったのなら、起こしてくれればよかったのに…。
そうしたら、一緒についていったのに。
眠ってしまったのは自分が悪い──が、いったい何時ごろに迎えにくるつもりなのか解りはしないし、食事をする時間まではまだずいぶんあるではないか。
「もぉっ…どうしろっていうんだよ」
この退屈な時間をどうやって潰せばよいものか──点の修行は午前中にやってしまったし、出かけることも──
(出かける?)
「あ、そっか」
もう、ベッドに寝てなければいけないわけではなかった。
この間キルアと焼肉屋へ出かけた時は、まだ安静も解けていなくてかなり罪悪感を感じてしまったが、今日からは誰に気兼ねもせずに堂々と何所へでもいける。
部屋の外でも──闘技場の外へでも。
そう気付いたときには、ゴンは散歩へ出かけるべく、ベッドを飛び降りていた。


自分の部屋を出て居住区をぶらつく。
200階へ上がった翌日には試合で負傷し、完全外出禁止を食らったおかげでフロア内をまだ探検できていなかった。そこでまずはここの散歩から始めることにしたのだ。
さすがに特別クラスというだけはある。今までの居住区に比べると、廊下に敷いてあるカーペットの毛足の長さも、架けてある絵画の類のレベルも、雲泥の差があるのだがそういったことはゴンには解らないようだった。
「…あんまり下のフロアと変わったって感じしないなぁ」
という独り言は、フロア自体の構造を見ての言葉だ。
一部屋毎が大きいためだろう、扉と扉の間はとても離れているが、それも興味を引かないようだ。
ただ単調に廊下に並ぶドアノブを見てゴンは口を尖らせた。
「ちぇ。なんか、もっと面白いところがあると思ったのに」
等と漏らしながら、つまらなそうにぷぅっと頬を膨らませる。
とことこと歩いていき、廊下の端に置かれたビーナス像の前に立ち見上げるが、見上げただけ。
美術品に対する感慨もなくむしろ、一緒に居たのならこの像の前で、振りを真似ただろう少年の姿を思い浮かべて、笑いが漏れた。
(キルアと一緒だったら、もっと面白かっただろうな…)
特別な隠し通路とか、隠し部屋などもないようだし、面白くないことこの上ない。
だんだん先へ進むのも億劫になってきたゴンは、探検はここで取りやめて、居住区以外の散歩へでかけようときびすを返した──途端。

「わ…!?」
どん、と何かに鼻をぶつけて、よろよろと後ろへ数歩よろめいた。
俯いたゴンの視界につま先の尖った靴が入る。誰かにぶつかってしまったのだと気付いて、慌てて相手を見上げた。
「あ……」
だが、誤ろうと思った矢先に言葉を失う。
少年の目の前に立っていたのはまさか出会うとは思いもよらなかった人物であり。
「ヒソカ……!」
名を呼ばれた男はいつもと変わらぬ笑みを浮かべてゴンを見下ろしていた。
「おや、久しぶり。こんなところでどうしたのかな?」
まるで初めてゴンの存在に気が付いた、と言わんばかりに驚いてみせると、君の部屋はもっと向こうのほうだよねぇ、と首を傾げる。
ゴンはヒソカのリアクションは相手にせず、慌てて身構えた。
「…っどうしてここに…!」
「おやおや…ボクもここの住人なんだよ? それにボクの部屋はこのもう少し先なんだ。居たっておかしくないだろ?」
「じゃなくて…」
(今まで気配なかったジャン!)
偶然にしてはできすぎていた。
たまたま振り返ったら後ろに居た、なんて言い訳は、いくらお人好しなゴンでも信じられない。つまり、ずいぶん前から後をついて来ていたのだろう。案の定、
「いつから尾けてたんだ!」
というゴンの言葉に、ヒソカはずっと後ろの方を指差してにっこり笑った。
「別に尾けてたわけじゃあないんだけどね」
(完全に気配を殺して後ろをついてくることの、どこが尾行じゃなかったって?!)
本当に、たまたま同じ方向へと向かっていただけなら、こんな風に気配を殺す必要もなかっただろう。だが、相手の真意が測れないのも真実だった。
何のために尾行していたのか、これから自分に対して何かするつもりなのかそれとも本当に何もするつもりがないのか──ゴンはヒソカの出方を見るためにあからさまに身構えるのは止めたが、警戒心は怠らず正面向かって仁王立ちになった。
一方ヒソカはゴンの緊張など気に求めずにきょろきょろと周りを見回して何かを探しているようなパフォーマンスを見せる。
「?」
不信に思ったゴンが首をかしげるのを見ると、顎を擦りながら尋ねてきた。
「今日はひとりなの?」
「え?」
「99番は居ないんだね。それともどこかに隠れてるの?」
またすぐに周りを見回すヒソカを見、彼の言う99番、が何を指すのか悟ったゴンは眉間を曇らせてそれを訂正するように求める。
「……99番じゃない。キルアだ」
ゴンの言葉は、彼にとってキルアが、けして番号で呼ばれるような存在ではなく、自分の大切な仲間なのだ、と強く主張していた。
「…それは失礼……」
ヒソカは、今まで警戒していたことも忘れて、不快感を顕わに睨みつけてくる瞳に苦笑を浮かべ、口元を抑えた。
(ホントに…面白い……愛すべき存在だ)
大切なものに対する侮辱に過敏に反応し、抱いていたはずの畏怖すら忘れて喧嘩を売ってくるんだから。
後先を考えない猛進振りについ笑いがこみ上げてくる。そう感じた時には、肩を震わせ喉奥を鳴らしていた。
「な…なにか用なの?!」
笑われているのだ、と気付いた少年が顔を真っ赤にして声をひっくり返す。
それがまた、ヒソカのツボにはまり、更に激しく肩を振るわせた男は、ひと時答えることもできずに笑いつづけていた。


あまりに笑われつづけて臍を曲げたゴンは、ぷぅ、っと頬を膨らませて
「オレ、もう行くよ!」
と一言叫んで脚を進めた。
だが、ヒソカはその場を去ろうするゴンの行く手を両手を広げて阻んでしまうと、ようやく笑いを止めた。
「まぁ待ちなよ。君、暇なんだろ?」
「暇じゃないよ!」
きっぱりと言い切って、目を反らす。拗ねたような横顔を嬉しそうに眺め、ヒソカは突然奇妙なことを言い出した。
「ボクの部屋に遊びにこない?」
部屋へおいで──その言葉が、ハンター試験の時のことをゴンに思い出させる。
動揺は隠せなかった。伏せていた瞳をはっと見開くが、やはりヒソカの方は見ずに静かに答えた。
「……いかない」
強い意思を含んだ返答はヒソカが予想していたとおりだった。笑みを崩さずに再度誘う。
「おいでよ」
「イヤ。忙しいもん」
「なんで?」
「なんで…って……忙しいから忙しいの!」
そう叫ぶと、ヒソカの横をすり抜けて歩いていこうとした。が、ぎゅっと手首を掴まれて引き止められる。
「そう急ぐこともないだろ」
掴まれた左手がとてつもなく強い力で引っ張られる。
腰を屈めたヒソカの顔が接近してきていた。
心臓が跳ね上がる──
「離せ!」
「あぁ…すごいね。すごいどきどきしてるね。ボクが怖い?」
ヒソカは指先に感じるゴンの動脈を知って恍惚と身震いをした。
早鐘を打つように脈打つそれは、どんな意味にしてもゴンがヒソカを意識している証拠に他ならなかった。
「怖くなんかない!」
「そう?…じゃあさ、ボクの部屋行こうよ」
「行かないってば!」
「なんで?」
「~~~!」
のんきに"何故"と問えるヒソカの心境が解らなかった。
ヒソカの部屋へ行く、という行為の結果が何を招くか、くらいゴンにも予想することは容易い。そういう関係は、あのホテルを出る時に全部終わらせてきたのに。
今更何を求めようというのか──ゴンには何も言葉を返すことができず、ぎゅっと唇を噛んだ。

不意に掴んでいる握力が緩んだ。
その隙を逃さず、腕を振り解いてヒソカから距離をとる。
「…?」
なぜ突然開放されたのだろうか、と戸惑いながらも、退路を背にしてじりじりと後ずさりし距離をとり始めた。ヒソカは、逃げようとしている少年には構わず口角を歪めて指先に残った脈動を感じていた。
「ねぇ、ドキドキしてるだろ? ボクと会っただけで、そんなにドキドキするんだよ、君は。この間の時だってドキドキしたろう? あの、馬鹿な独楽使いと試合したときよりもボクと会った時のほうがずっとドキドキしてたはずだ。………もっと楽しんだっていいじゃないか」
ヒソカの言うことは確かに当たっていた。
ヒソカが病室までやってきたあの日──どんなに心が高ぶったことだろう。
でもそれを認めることはできなかった。
「…オレは……お前と戦うために、修行してるんだ…」
少年の搾り出すような声に片眉をあげると苦笑を浮かべる。
「うん、知ってるよ」
「遊ぶためじゃない…」
そして、馴れ合うためでもない。
あんな関係に戻ったら、馴れ合い以外のなにものでもない──それは嫌というほど解っていた。
「だから……」
もう、ヒソカと特別な関係にはならない。きっぱりとそう断言しようとしたゴンの言葉はヒソカに攫われてしまう。
「でも、闘うからって、遊んじゃいけないことはないよねぇ」
「それは」
「ドキドキするのは楽しいだろ? なんでそんなに我慢するんだい」
「してないよ…我慢なんかしてない」
「でも苦しそうな顔してる」
ゴンは、図星を指されて青ざめた。この反応が全てを肯定していることに気付きもせずに大声で怒鳴る。
「~~苦しくなんてないよ! ヒソカの馬鹿!!」
くるり、と反転し、ゴンは走り去っていった。
「…馬鹿だって……かわいいねぇ……」
唇をゆがめて笑いながら、ヒソカは少年の去っていった方を眺めていた。



ウイングのところから戻ってきたキルアは、前回の轍を踏まないために一度部屋に立ち寄っていた。
着替えを手早く済ますと、ゴンを迎えに行くべく部屋を出る。
少々遅くなったが、まさかまだ寝てる、なんてことないよなぁ。そう思いながら扉に鍵をかけ、ゴンの部屋のほうへと足を向けると、目の前から歩いてくるものがいる。
「あれ?」
「あ、キルア!」
「なんだ、おまえ…出かけてたの?」
どこへ? と尋ねるキルアに、行き先を告げられずゴンは曖昧な笑いを返した。
「うん、ちょっと散歩……キルアは?」
「あ──あぁ、オレもちょっと散歩してた。なんだよ、顔赤いぞ?」
ゴンの歯切れの悪い反応に違和感を感じたものの、キルア自身もどこへ行っていた、とはっきりいえずにただ、ゴンと同じような笑いで答えを誤魔化してしまう。
「な……なんでもないよ」
互いに、後ろめたいと思う気持ちに流されて、相手が今までどこにいたのか、と気になりはしたが強く追求することはできなかった。
自分のついている嘘だけが気になって、相手の不可思議な様子には気付かない。
とにかく話題を変えなくては、と思ったゴンは、そういえばそろそろ食事の時間だったのだ、と思い出す。
「あ…えと……キルア、おなか空かない?」
「そうだな。じゃ、このまま出かけるか」
追求されたくない話を流してしまうため、階下のレストランへ、と行き先を手早く決めれば彼らの話題はすでに今日何を食べるか、に摩り替わっていた


名前を───


大きなベッドの上でうっすらと目をあけたゴンは、そこに一人きりであることを確かめるために体を起こした。
呼ばれた気がした。
何に──何かに。
ゆっくりと周りを見回すが、やはり部屋には誰もいない。
キルアの姿も──ヒソカも。
「…………」
つい今しがた見ていた夢。
彼を呼んだのは、その夢の中の登場人物…誰だったか、なんてあまり考えたくない。
眉間による皺の数が、ゴンの悩みの度合いを示す。
(あんなとこで、二人で話なんかしちゃったから…)
否が応にも意識してしまう。
そういえば、あの時聞きたかったことがあったのに、結局そのことには触れられなかった。
あの日──キルアと焼肉を食べに出かけたあの日、自分の目の前を横切っていったのはヒソカだったのか。
そんな些細なことがずっと気になって仕方ない。
(だから変な夢見たのかな)
名前を呼ばれる、夢。
(…喉渇いちゃった)
手元の小さなランプを灯し、傍に置いてあった水差しを取る。コップに少し水を移すと、一気に飲み干した。
まだ外は夜──遥か遠い地平の向こうにも太陽が上る気配すらなかった。

このところ、ゴンは朝食をたいてい一人で済ませていた。
闘技場に来る前や怪我が酷かったときは、キルアもいつも一緒に朝食を取っていたのだが、もう起こしにも行かないことが多かった。
どうやらキルアは朝は苦手らしく…というよりも、もともと朝食は取らないタイプらしいのだ。目の前に並んでいるものの大半を残して席を立つことも多く、それに気づいてからは無理に朝ご飯は誘うのを止めている。
一日の始まりをキルアに合わせなくなったゴンの午前中のメニューは比較的規則正しいと言えるだろう。
早い時間に朝食をカフェなどで軽く(と言っても、かなりの量だ)済ませると、一度部屋まで戻ってきて修行をはじめる。もちろん念は使えないので、ウイングに許された点の修行を行うのみだ。
少しだけ窓を開け、外気を取り込みながら集中すると、指先まで力が漲ってくる。
どんな効果があるのかは知れなかったが、何もしないよりは気休めになった。ベッドに括りつけられた日から、それは一日だって欠かしていない。
その後、不自由な片手でバタバタと部屋の中を片付終われば、もう昼に近い時間で──大体これくらいの時間までにキルアがのっそりと顔を出してくるのが常だった。
それから昼の食事をし、外で遊びまわり、夕食を食べ、夜にはまたいずれかの部屋に戻ってくる。
ついでに言うなら、室内でくつろぎつつゲームや何かに興じている途中で、SEXに突入してしまうこともしばしばあった。
だが、この日はいつもの時間に姿を現すどころか、昼時になり、もう食事に出かけようと誘うために架けた電話にも出ない。
「あれ…?」
時計を確認して、首をかしげる。いくら寝汚いキルアでも、もう起きているはずの時間だ。仮に寝ているとしたって、しつこく鳴らしつづけている電話のベルが聞こえないわけがない。だが、いっこうにベルの音が途切れることはなかった。
通算30回目の呼び出し音を聞いた後、ゴンは受話器を置いた。

いないのかな、と思いつつもキルアの部屋の前までやってきたゴンは、コンコン、と何度かノックをしてみる。
もちろん、返事はなく──伝言も何もない状態では、どこへ行ったのか、見当もつかなくてゴンは溜息をついた。
最近こういうことが多いような気がする。
何日前かは忘れたが、今日と同じようにやはりこの部屋の扉を何度も叩いた。
別にキルアを拘束するわけではないが、何故出かける、と一言声をかけてくれないのだろうかと疑問には思う。後で何処へ行っていたのか、と追求してものらりくらりと交わされて、明白な答えを聞いたことはない。
「……お昼…どうしよ」
このまま、いつまで待っていたら部屋の主が戻ってくるのか解らないわけだし、空腹は次第に耐えられなくなってくるし──きっぱりと諦めたゴンは、一人レストランへと向かうべくキルアの部屋の扉に背を向けた。

レストランは既にごった返しの人・人・人で、見上げる頭の群れに圧倒されながら、ゴンは空いてる席を探した。
幸い、ぽつんと店の奥に空いているテーブルがひとつだけ見える。
取られまい、と小走りに駆けてゴンはその席に座った。
ほぼ間髪いれずにウェイトレスが水とメニューを持って現れる。混雑しているから、ひょっとしたら相席をお願いするかも、と注意を促しながら、ゴンの脇で注文を待っていた。
「え…っと……ハンバーグと…それから…スパゲティーと…」
とても子供一人が食べるとは思えないほどの数の品を注文を受け、ウェイトレスは少し驚いた顔をしながらその場を立ち去っていく。
(キルアならきっとここで食事するの嫌がるだろうなぁ)
目の前で騒がしく食事をしている男たち──そう、何故か店の客は男ばかりだった、それもムサイタイプの──の群れを見てそう思う。
『こんなゴリラの群れの中で食う飯なんてウマかねーよ』
とかなんとか、悪態をついていそうな気がする。それを思うと、キルアとは別行動になっていてラッキーだった。一歩入ったところで即効「別の店に行こう」と更に遠くまで引っ張っていかれることは請け合いだったから。
そんな想像をしていると、最初の料理が運ばれてくる。
目の前に置かれた皿からはおいしそうな湯気が立ち上っていた。
「えへへ…いっただっきま~す!」
空いている片手にフォークを持った少年は満面の笑みを浮かべた。

片手だけで器用に肉を切り、ナイフとフォークを持ち替えて断片を口に運ぶとジューシーな肉汁が口の中に広がった。
それを噛み締め、飲み込むと腹の中へ暖かな塊が収められていく。
「ああ、おいしい!」
味に満足の声をあげ、上機嫌で手と口を動かしていたゴンの目の前に、誰かが立った。
てっきり、ウェイトレスに相席を、と言われるのだと思ったゴンは警戒もせずに顔を上げたが、その男の顔を確認し、思わずフォークを取り落としそうになってしまった。
「ホントに美味しそうだねぇ」
ぬっと間近に近寄ってきた顔を見、思わず目を丸くする。
「ヒ…」
相手の名前を呼ぼうと声をあげたが、焦るあまり続きが出てこない。
と、ぽっかり口を開けたままで固まったゴンには構わず、ヒソカはさっさとその前の椅子に腰掛けてしまった。
そして、椅子を引き、落ち着いてしまった後で確認をとる。
「ここ座っても良かったよね。ああ、まったく人が多いなぁ…」
「な…良いなんて言ってないよ!」
大声で否定するが、ヒソカは眉を潜めたゴンの顔を見もせずに周りを見回して、ウェイトレスに向かって手を上げる。店の中を忙しく立ち回るうちの一人がヒソカの合図に気付いて会釈をした。
それから徐に少年のほうへと向き直ると、
「僕も今から食事なんだ」等としれっと言う。
その厚顔な返答に驚き再び絶句するが、ゴンも気を取り直して声を荒げた。
「し…知らないよ、そんなこと…だいたいなんでここに座るのさ! 別の席に座ればいいじゃない!」
「…だって店は混んでるしねぇ。他には席は空いてないんだ」
「ここだって、空いてないよ! オレが座ってる」
「でも一人だろう」
「……キルアは今ちょっと席立ってるだけだよ」
一人だ、ということを強調され、素直に認められないゴンは咄嗟にごまかしの言葉を口にした。もちろんそれが通用するわけもなく、
「でも料理は一人分だよね。ほら、レシートにもそう書いてある」
と、ヒソカはテーブルの片隅にウェイトレスが置いていったレシートを摘み上げ、ヒラヒラちらつかせた。
「!」
今までわざわざ見たことなどなかったから知らなかったが、確かにレシートの一部には客の人数が明記してあった。あまりに簡単に嘘を見破られてしまったゴンは、真っ赤になって訂正する。
「あ…後から来るんだ!」
「ふぅん?」
ヒソカは、そんなゴンの言葉などはまったく信じていない様子で、にこやかに近づいてきたウェイトレスからメニューを受け取り、勝手に注文を始めてしまった。
二言三言交わした後で、彼女はテーブルを離れていった。
どうしてヒソカはこんな風に自分の前に現れるのだろう。
今だって、キルアが何処に行ったのか判らない状況で、テーブルに向かい合わせで。
緊張が高まってきたゴンは、いつしか手を止めて、ぼんやりと皿を眺めていた。
「僕に構わず食べてなよ」
その様子に気付いたヒソカに勧められ、慌てて手にしていたフォークを料理へと突きたてる。口の中に放り入れた肉片の味もわからなくなっていたが。

やがて、ヒソカの前にも幾つかの皿が運ばれてきて、彼は優雅な仕草でそれらを食べ始めた。
特別何か会話を交わすわけではなかった。ただ互いに黙々と食事を続ける。
ゴンは、できるだけ早く席を立とう、と一生懸命食べていたのだが、如何せん注文した量が多すぎた。緊張も手伝って食も進まず、ヒソカの目の前でいつまでも食べつづけなければならなかった。だが、食べ残したまま席を立つ、などと言う事は厳しいミトの教えによってできるわけもない。
(こんなに頼むんじゃなかった…)
往々にして後悔は先に立たないものである。
空気が重いと感じる。食事も先ほどまでのように美味しいとは思えない。それでも必死で味のしない食べ物たちを咀嚼する。一刻も早く、この場から立ち去るために。
──ヒソカが何を考えているのか判らない。
もうこれで3度もヒソカから接触してきているのだ。だけどあの、試験会場からキルアの家へと旅立った日、自分の目の前でキルアの兄と──イルミと共にいるところを見せつけられた。あれは、もうオレのことはどうでも良い、というパフォーマンスではなかったのか。
勝手な理由で勝手に離れていったオレのことを怒って、そうしたんじゃなかったのだろうか。
「まずいの? それ」
ゴンとは対照的に緊張の欠片も感じていないらしい、寧ろ愉しんですらいるヒソカは、ゴンの皿の上の肉を指して尋ねてくる。
まずくない、と言おうとしたが、唇が震えるばかりで声が出なかった。情けない自分の顔を想像してぎゅっとこぶしを握る。答える代わりにもう一切れ肉を口の中に頬張り、モグモグと噛み締めることでヒソカの問いを否定した。
こんなことで跳ね上がってしまった心臓の音が聞こえないと良い。
そんなことばかりを思っていた。
「お待たせしましたぁ」
ようやくすべての皿を平らげて、最後に水を飲んだらさっさとここから逃げ出そう、と思っていたゴンは、ウェイトレスの高らかな声に目を丸くした。
席を立つために腰を浮かせたままの体勢で、まだ何か注文していたっけ、と彼女が手にしている盆を見る。だが、銀の円盤の上に乗っているのは覚えのない品──おそらくパフェのようなものが乗っているのみだ。
「え…た……頼んでませんけど…」
どこか別のテーブルと間違えたのではないか、と戸惑いながらゴンが答えると、ウェイトレスも慌ててレシートを眺めて確認する。 だが、二人がそれ以上の会話を交わす前に、ヒソカが手を上げた。
「いや、ここでいいよ。彼の前に置いてくれる? あと、他のものは下げてくれるかな」
ウェイトレスはヒソカの言葉に一安心した、と笑顔で答え、テーブルの上のものを手早く片付けはじめた。
そして立ち尽くすゴンの目の前に残されたのは、綺麗にデコレーションされた、ラッパ状のガラスの器だけ。溢れそうな生クリームに真っ赤なジャムや、スパンコールのようなチョコの欠片、みずみずしい果物が散らされていた。
「座ったら?」
いつまでもパフェを睨んで立っている少年に声をかける。
視線を上げると、ヒソカも食事を終えたようで、彼の目の前からはティーカップ以外の皿はすっかり下げられていた。
「これ、どういうこと」
ぽかんと開けていた口を引き締め、なんのつもりかと男に尋ねる。
「君ならまだ、デザートくらい食べれるだろ?」
「そりゃ食べれるけど・・・いらないよ」
「あれ? パフェ好きなんじゃなかったっけ? じゃあ、他のものを注文するかい」
きっぱりと断っても全く怯む気配もなく、ヒソカはテーブルの隅にあったメニューを手繰り寄せて他のデザートを品定めしようとする。
相変わらず立ったままのゴンは、何にしようかと迷っている彼の手から、大きなメニューを取り上げて言った。
「そういうことじゃなくて、オレもう部屋に戻るんだ」
「いいじゃないか、まだ『キルア』も来てないんだし。もう少しゆっくりしてれば」
「それは…!」
引きとめようとする彼は、先ほどのゴンの言葉を逆手にとってデザートを食べるよう勧める。
キルアが後から来る、なんて言ってなければ、さっさと立ち去ることもできたのに。
自分の浅はかさにかなり後悔し、苦しそうに言い訳を口にした。
「キルア…なら、多分部屋に戻ってる。だから行かなくちゃ…」
「そう。でもそれ、君が食べなきゃ、無駄になっちゃうな。どうしようか」
どうしようか、なんて聞かれたって、知るもんか。勝手にヒソカが頼んだんじゃん。
押し付けがましい男の態度に、腹が立って仕方が無い。
けれど、自分が食べなければこのパフェはごみ箱行きになってしまうのだ。キルアほどではないが、やはり甘いものの誘惑は強く、捨てられてしまうのはちょっと勿体無い。
「…じゃあ、食べるだけ…だよ」
こんな風に答えてしまう自分の性格をすっかり見抜いての行動だと思うと悔しくなってもくるのだが、ゴンは渋々席についてスプーンを握った。

すくった生クリームを一口頬張る。
(甘い…)
口の中に広がるまろやかな甘味に、先ほどまでとても険しい顔をしていたゴンの顔もやわらかくなっていく。
眉間によっていた皺も、薄く延びていた。
「美味しいかい?」
尋ねると、少年は素直に首を縦に振って答えた。正直なところは、変わらない。
チョコレートでコーティングされたバナナにフォークを刺したとき、固く結んでいた口元が少し綻ぶのが判った。
それを見てそろそろ少年の機嫌も直ったか、とヒソカは性懲りもなく誘いをかけ始める。
「…ね、それを食べ終わったらボクの部屋にこない?」
先日も同じことを言って自分を連れ去ろうとした──きっぱり断ったつもりなのに、また同じように自分を誘おうとしている男を、目を丸くしてみた。
(なんだよ、それ。この間、はっきり断ったのに…)
せっかく伸びた眉間の皺が、また深く刻みこまれた。瞬時に変わったゴンの態度に対して、にこやかな表情のヒソカは首をかしげて返事を求める。
「ね」
「行かないってば!」
「じゃあ、君の部屋でも良いけど」
「だから…っ同じだよ、どっちも行かないの!」
「ううん…仕方ないな。それならどこか遊びに行こう。面白いところがあるんだよ。遊園地とか好きだろう?」
「……っ」
"行かない"という言葉を飲み込み、顔を背けて無言で意思を伝える。
その様子をみたヒソカは、ふぅ、と少し大袈裟な溜息をついて見せてから、肩を竦めた。
「嫌われちゃったかな…」
横を向いていたゴンは、ヒソカの寂しそうな声を聞き──もちろん、ヒソカ自身は本気で寂しいなどと思っていたわけではないが──慌てて違う、と否定してしまう。
「……そういうんじゃなくて…っ…オレ…!」
嫌いとかじゃなくて──でも、自分の心の中でヒソカとは一緒に居られないと決めてしまっていて……いったい自分がどうしたいのかさっぱり判らない。
「違うの? じゃ、少し行ったところにケーキ屋があるんだよ。そこでケーキを食べるとかはどう?」
どうあってもどこかへ誘いたいらしい男は言葉尻を捕らえて再びあれやこれやと楽しそうに提案し始めるが、ゴンはスプーンを握り締めたまま一言も返事を返さなかった。
「困ってるね」
ゴンが黙りこくった状況を、単に答えあぐねているのか、それとも敢えて返事をしないのか──いずれにとったのか、ヒソカはもう一度肩を竦めた。
「判ったよ。今日も諦めるとしよう。ゴンを困らせたいわけじゃないんだからね」
「え…?」
もっと強引に──強制的に連れていかれるかもしれない、と思っていたゴンは、あっさり主張を撤回した男の顔を見て驚く。
本当に残念そうな、でも仕方がない、と諦めたその表情。
(なんでそんな顔するの…)
離別を決めた夜には、冷たい視線でオレのことを見ただけのくせに…あの朝、オレのことは無視して、もう他の人と楽しそうに喋っていたくせに。
今、目の前に居る男は、そんなことはまるでなかったかのように振舞い、本当に辛そうに、寂しそうに微笑んでいる。
「君が気が向きそうな時にでも、もう一度誘ってみよう」
カップを手にすると、ゆっくりと口元へ運んでいく。
一口喉を潤すと、再びゆっくりとテーブル上のソーサーの上へとカップを戻していく。その途中で、不意にヒソカはここに居ない人物のことを再び話題に挙げた。
「けど、キルアも酷いねぇ。ゴンを放って一人でどこかへ遊びに出かけちゃうなんて」
ボクならゴンを一人にするようなことはしないのにねぇ、と首をかしげた。
自分を置いて遊びに出かけてしまった──あまり認めたくなかった現実を突きつけられて、ゴンはまた、ヒソカの台詞を否定する。
「キルアは遊びに行ったわけじゃないよ…ちゃ…ちゃんと後で来るって約束してたんだ」
ヒソカには、全てでまかせであることはバレているのだろう。そう判っていても、撤回することはできなかった。
見透かしたようにヒソカが笑う。
「へぇ? 君はもう食事も終わっちゃったのにねぇ?」
いつになったら来るんだろうね? と尋ねられ、またもや返す言葉がなくなる。
真っ赤になって俯いたゴンに、ヒソカは追い討ちをかけるようにある事実を告げた。
「それにね。言わなかったけどボク、彼を見かけてるんだよ」
「え…?」
「街の方で…どこかへ出かけるところみたいだったな」
「いつ?!」
キルアの姿を見た、と言われて思わず声が大きくなる。
「ここに来る、ほんの…2、30分くらい前かな。塔とはぜんぜん反対向きに歩いていってたっけ」
自分の見てきた事実を告げた男はニヤニヤと薄い笑いを浮かべながら、ゴンの反応を確かめるようにじっと眺めていた。
「反対…って……何処それ…」
ヒソカが見ていた事実によって、本当に置いてけぼりにされていたのだ、ということが判明し、呆然としたゴンは掠れた声でキルアの行方を尋ねる。
「さぁ? ゴンは行き先とか、何も聞いてないの?」
「聞いて…ない」
「おや、珍しい…いつも『一緒』なんだと思っていたよ」
かぁっと顔を紅くする。
揶揄されたのだ、と勘違いでもしたのだろうか。
「何処へ行ったか、気になるかい」
「べ…っ別に…」
「あの、眼鏡の男のところじゃないのかい? この街に、他に知り合いが居るわけでもないんだろう?」
もちろん、ヒソカはキルアの後を尾けていたし、彼の行き先も確認済みだった。
キルアとウイングがおそらくはある関係を持っているだろう、ということも予想に容易い。彼はハンター試験の最中に、暇だ、などというだけの理由で自分とも閨を共にしたことがある。
そも、あれは『イルミの弟』なのだ。ゴンとの生温い恋愛ごっこだけで満足するような性質であるわけがない。
そして、このヒソカの密告はゴンの心に色濃く不安と疑念の影を残す結果となった。
(ウイングさんのところ…? なんで…修行はまだしないって言ってたのに…)
ウイングのところへ行くなら、何も黙っていく必要はないだろうし、自分を誘ってくれたっていいではないか。
キルアとは違って、朝早くから必ず起きていることも知っているはずなのに…それとも、自分には何か隠しておきたいことがあるのだろうか。
このところ、度重なっている不在の原因と同じものなのだろうか──
募っていく不安を、ヒソカの言葉が更に煽る。
「ま、彼だって一人で何かしたいことだってあるだろうしね。いつもベッタリじゃ息が詰まるだろう? そう縛り付けるわけにもいかないよね」
「そんなつもりないもん」
「そう? でも、ゴンが思う以上にキルアは我慢してると思うよ…たまには開放してあげないとねぇ」
「…そんなこと……」
「無い?」
「無いよ…! 多分……」
キルアが窮屈に感じてるとは思わない。そう信じてはいる。
だが今、"絶対に"とは言えなかった。
時計の針がゆっくりと2時を指していた。

良く手入れされた芝生の匂いが心地よかった。
広い空間を走り回り、息を弾ませて倒れこんだ木漏れ日の下で、青々とした地面に頬を擦り付け、猫のように体を伸ばす。
腕にギブスをはめてはいたが、幸せそうにごろつく少年を、ヒソカは眺めていた。二人の傍らでやはりのんびりと身体を伸ばす大型犬が、鼻先でゴンの顔を突付いていた。

「気持ち良いかい?」
尋ねると、彼は目線だけ上げて頷いてみせる。
「こんなとこがあるなんて、知らなかった」
この街では闘技場の中か、あるいは騒がしい下町くらいしか出歩いたことの無いゴンはにっこりと笑った。
「あぁ、ここはね…私有地だから」
少し先には高いブロック塀がある。その塀越しには、遥か高くそびえ立つ闘技場がかなり足元まで見える程で、全てを隔絶していたキルアの家の塀と比べれば、とても低い。そして闘技場との距離もさほど離れていないことを示していた。
誰でもちょっと工夫すれば乗り越えられる位の塀だったが、ここがなにかしら外界と遮蔽されている空間であることの象徴でもあった。
「私有地?」
「知り合いの持ち物なんだよ。一般人には入れない」
「……特別の場所なの?」
「そう」
「その知り合いの人の家なの?」
「別荘だよ。…あそこに建物があるだろう」
ヒソカの示す"別荘"は、数百メートル先にぽつん、と建っていた。つまり、今居るここはその人の家の庭であることが知れる。
「オレ、入っちゃいけないんじゃないの?」
ゴンが感じた不安を、ヒソカはきっぱりと切り捨てる。
「君はボクの特別なんだから、何もいけないことなんかないよ」(砂糖吐きそう…いや、砂か)
(特別…)
彼の言葉の中に微妙なニュアンスを感じ取り、ゴンは戸惑わずにはいられなかった。
レストランで、『キルアが先に無断で遊びに行ってしまったのだから、君もどこかへ遊びにいくのに許可を得る必要も無いだろう』、と強引に決められて、結局ヒソカに連れてこられてしまった。
キルアの居場所を聞く前までならどう誘われたって必ず逃げ出していたし、ヒソカの主張はなんだか屁理屈のようだ、とは思ったが、大切な友人──いや、今は友人以上のつもりの相手が自分に対して何らかの秘密を持っていることに少なからず衝撃を受けていたゴンは、言われるがままにヒソカについてきてしまったのだ。
そうしてこの庭に居る。
門を一歩入ったとたんにまるで別世界としか思えない風景に感嘆をあげた。
久しく触れていなかった自然と大きな犬に大喜びし、その犬──番犬らしく、けっして人懐こいわけではない──を遊び相手にあちらこちらへと転げまわった後に、この大きな木陰へと身を寄せていたのだ。ゴンの様子を満足そうに見守っていたヒソカは、ぱったり倒れた少年の傍らへと歩みより、腰をおろした。
投げ出した小さな指の先と彼の衣服が触れそうなほど近くに。
ゴンがそのことに気付いたときは、心臓が跳ね上がるほど強く打ったが、慌てて手をひいては帰って不自然なような気がしてそのまま寝転がりつづけていた。
「久しぶりに走り回れて楽しかったろう? また連れてきてあげよう」
ヒソカが話し掛けると、断りの返事がすぐさま返ってくる。
「いい」
「遠慮しなくても、ここの持ち主は滅多に戻ってこないから。ボクと一緒なら大丈夫だよ」
「……ヒソカは…」
安心しておいで、と言われて中空を見ながら呟くように彼の名を呼んだ。
「うん?」
「ヒソカはなんでオレを誘うの…?」
ぼそり、と呟かれた問いかけは、ヒソカが予想もしていなかったものだった。
どうやらここ一連の彼に対する干渉は「誘われて」いたのだ、という自覚をしてもらえているらしい。
まぁ、そうでなければ、あんなに拒みはしないだろうし強く警戒したりもしないか…と納得もする。ただ、理由を直接尋ねられるとは思っていなかったヒソカはつい、クククと鳩のように喉を鳴らして笑ってしまった。
これでまた、いつものように必死になって『笑うな』と怒って睨まれる。だからといって耐えるつもりもなく、せっかくだから怒った顔を愉しもう、と思っていたのだが──ゴンからの反応が戻ってこなかった。
「?」
疑問に思って少年の顔を覗き込むと、いつのまにか微かな寝息を立てて眠りに落ち始めていた。
「………」
その無防備さには、流石に笑いも出てこなかった。
触れれば毛を逆立てるほど警戒するくらいだったくせに…。
その矛盾の大きさが愛しいと思う反面、呆れもする。
(このまま隠してしまおうかな…)
そう、強く思う気持ちもある。
同時にそれを拒む気持ちもある。誤って殺してしまわないよう気をつけながら、未熟な果実を育てることは、ヒソカにとっては興味のもてない事だった。
彼にとっては、ただ待つ──収穫の時を待ち、耐えることこそが楽しみなのだ。どのように育ち、どのような成熟を遂げるのか。自分の預かり知らぬところの成長の過程を思えば気分が高騰していく。
ターゲットに関して、二つの矛盾した気持ちが存在するなど、嘗て無いことだ。
逆にいえば、こうした心の葛藤を感じている、自分の現在の状態に新鮮さを感じる。
一連の原因となった少年はただ眠りつづけている。
ヒソカは半ば開いた唇へそっと口付けようと、小さな体に覆い被さった。

目がさめたときには芝生の上からソファの上へと移動していた。
「!」
自分がいつの間に眠ってしまったのか覚えの無いゴンは、慌てて身を起こした。
咄嗟に着衣を確かめて、脱がされていないことを確認する。
体の何処にも痛みもなければ、行為の後の気だるさも残っていない…とりあえず、『何もされていない』のだと納得すると、ほう、と安堵の溜息をついた。
そこでいかにも耐えられない、といった風の笑い声が聞こえてきた。
「~~~!」
きっと睨みつけると押し殺したそれから大爆笑へと変わる。
向かいのソファに座って、ゴンが目覚めてからここまでの所作を全て観察していた男は
「そんなに心配しなくても……もう日も暮れてきたから、家の中へ運んだだけだよ」
と説明した。
改めて見回すと、そこは随分華美な装飾を施された室内であることに気付く。
大きな窓の向こう側は少し薄暗くなりかけていた。
今は何時なのだろう──そろそろお腹も空いてきたし、帰らなくてはならない。
だがゴンの気配を察したヒソカが先制をかける。
「ねぇ夕食も食べていけば? 今日はここ、誰も居ないから、静かに食事ができるよ」
確かに、この家であればあんな喧しいレストランで食事するよりもゆったりと食事ができそうだった。
「でもキルアが…」
そう言いかけて、果たして彼が戻ってきているかどうか判りはしない、とゴンは言葉を飲み込む。
同時に、先ほどヒソカに言われたことが楔となって胸に刺さる。自分を置いて行方をくらましたキルアに対して、何かしら報復したいような気分になる。
(オレ…仕返しなんて…)
そんなことするべきじゃないと判ってはいたが、迷いは生まれる。その僅かな間に、背後のドアが開いた。
はっと振り向くと、そこには執事らしい老人が立っていた。
「お食事の準備が出来上がりました」
嗄れた声が時間切れを告げているようだった。

別室に用意されていたテーブルを見、断りきれなくなってしまったゴンは少し早い夕食をヒソカと済ませることとなった。
大きなテーブルにめいっぱい並べられた料理にどんどん手をつけていくゴンの警戒心が、かなり緩んでいることは誰の目からも明らかだった。昼間にレストランで会った時には、緊張で口に入れたものが喉も通らなかったというのに、だ。
それでも食事が終盤に差し掛かる頃には、ゴンの気持ちもまた少し暗くなる。
フォークを置いた途端に食後のデザートを、とか部屋へ寄ろう等としつこく言われるのではないか、と心配になっていたのだ。どうやって断ったらいいのだろう、と。
だが、意外なことに食事が終わるとヒソカはさっさと席を立ち、ゴンにも早く塔へ戻るように促したのだ。
あまりにあっけなく開放されることに戸惑いながら、ゴンはヒソカに送られて玄関に立つ。
外はすっかり暗くなり、外灯が足元を照らしていた。
ヒソカは、玄関先から離れたところにある門を指差して帰り道を教えた。
「ボクはここに泊まっていくから送ってあげられないけど、良いかい?」
「うん」
寧ろ送られないほうがありがたい…また誘われるのも困るし、第一、一緒のところをキルアに見られたら何を言われるか判ったものではない。
もし、部屋まで着いてくると言われたらどうしようと悩んでいたところだったのだ。
願っても無い申し出に、ゴンが不満をもつわけがなかった。
「塔までの道はわかる? 歩くと20分くらいかかるかもしれない…そうか、車を出したほうが良かったかな」
「いいよ! 歩いて行くから」
「そう……じゃあ気をつけて」
なんだか拍子抜けだった。
絶対に、もっとしつこく引き止められると思っていたのに、あっさり開放されるなんて。
はじめに拒絶を示した自分に対して、怒るわけでもなくただ優しくしてくれる──それを最近のキルアの奇妙な行動と無意識に比べてしまう。
寄り道せずにまっすぐお帰り、と微笑む男の顔を見て、ゴンはすんなりそこを離れることができなかった。
「ゴン」
「?」
考え込んでいた少年が、無防備に顔を上げた瞬間を狙うようにして、ヒソカの頭が覆い被さる。抵抗する間もなく軽いキスを掠め取られていった。
「ん…!」
驚いてぎゅっと目を閉じてしまうが、突き飛ばすことができなかった。
一度唇を離すと震える両肩を鷲掴みにして更に近くに引き寄せる。
硬く閉じた唇をほぐすようについばんでいく。ゆっくりと進入路を確保し、怯えさせないように細心の注意を払う。ヒソカは口内へ舌を差し入れ歯列を舐めると、すぐに唇を外した。
ほんの十数秒後には離れていった熱いそれ──戸惑う少年に
「今日の夕食代♪」とだけ伝えると、もう一度軽くキスをして体を離した。

「ご馳走様」
両手を開放された瞬間に、くるりと背を向けて走り出した少年の背中にそう声がかけられた。もちろん振り返ることなどない。
顔が燃えるように熱かった。
不意をつかれたとはいえ、キスされるなんて思ってもいなかった。自分の油断した心に後悔が募る。
焦りすぎて、なんの挨拶も無く去ってきてしまった──失礼だったかもしれない、と思ったのはもう闘技場も間近になったころだった。


エレベーターが静かに階をあがっていく。
かすかに揺れて扉が開く。その度に、1階でゴンと一緒に乗り込んできた数人の男たちが降りていった。
そこが彼らの居住階なのだが、降りていく誰もが、自分よりも上の階へと上って行く面々の中に小さな少年が居る事に驚きを隠せなかった。
そのゴンは、彼等の視線など気にもならないほどの疲労感に悩まされて溜め息を吐いた。
行動パターンの読めない相手とほぼ半日を過ごしてしまい──もちろん広い庭で遊ばせてくれたり、美味しい食事をご馳走してくれたことには感謝しているが、こと最後のキスがどっと疲れを感じさせる要因となっていた。
(何もしないって言ったくせに…)
やっぱりヒソカは嘘吐きだ、と眉を潜める。
触れられた唇が熱くて、まだ彼の存在感が残っているような錯覚がゴンを惑わしていた。
頬に触れた大きな掌や背中を抱いた逞しい腕は、幼い子供に他のものまで思い出させる。かつて、その両腕に包み込まれていた時間を、行為を、熱を──
ぶるり、と震えた肩を抱く。
何度(もう考えない)と自身に言い聞かせても、彼との接触がそれを許さない。
このまま流されてしまったら、どうなるのだろう。不安が心をよぎった。
「次は200階でございます」
女性の透き通った声が、最後に残った少年に階の案内をする。
「あ、降ります」
ゴンは慌ててそう答えると、扉の近くへと歩み寄っていった。

暗い気持ちで扉を開けると、奥の部屋の明かりが見え、おまけにテレビの声も聞こえてくる。
消し忘れて出かけてしまったのか、と思えば、ソファの上で寝そべっていたキルアがのっそり顔を上げた。
「あ…と、ただいま」
というのも間抜けている。
そう思ったが、相手の不機嫌そうな顔つきを見、咄嗟に他の言葉が出てこなかった。
彼はソファにふんぞり返ったまま、不自然なほど大人しいゴンを一瞥して口を開いた。
「何処行ってたんだよ」
おかえり、ではなく強い口調で詰問するキルアに対して、更に答えに窮する。
「…ちょっと…ご飯食べに…」
部屋の入り口で立ち止まったまま、結局歯切れの悪い返事しか返せなかった。
でも嘘じゃあ、ないし。食事をしたのは確かだ。どこで、誰と、とは言わないが。
言わない──言えない罪悪感がゴンの胸を刺していた。
キルアは、それを聞いてソファから飛び起きる。
「はぁ? なんだよ、オレ待ってたのに!」
一緒に食事に行くつもりで、店まで考えていたのに、と地団太を踏む。
「ごめん」
困り切ったゴンは、素直に頭を下げたが、キルアはそれでは納得しなかった。
「夕方からズーッとここで待ってたんだぜ?! なんで勝手に食っちまうんだよ!」
「おなか空いちゃって…ホント、ゴメンね。今からどこかへ行くなら、付き合うから」
我慢ができなかったから食事に出てしまったのだ、と言い訳をして、キルアの食事にもちゃんと付き合う、と宥める。
しかし、頭に血が上っている少年は、声を張り上げてゴンを責め続けた。
「オレは今でも空いてるよ! 何時からココに居ると思ってんだよ! こんなクソ長い時間、一人でどこ行ってたんだよ!」
空腹と、待たされた長い時間の間に増殖した怒りが一気に吹き出てくる。そして、ゴンが反論しないのを良いことに、罵倒はなかなか止む様子を見せない。
よくまあ、こんなにも悪口雑言を並べられるものだと感心するほどスラスラとキルアの口から出てくる言葉は、ゴンの心をひどく苛んでいった。
「──ったく、怪我も治りきってないくせに、一人でうろついて! なんかあったらどーすんだ、この馬鹿!」
そうは言うけれど、初めに黙って出かけてしまったのはキルアの方ではないか。どうしてこんなに責められなくてはならないのか──だいたい、キルアが居なくなったりしなければ、一人で出かけることも、ヒソカと出会うこともなかったし、彼に誘われたり食事をしたりすることもなかったのに。
そうすればキスされることもなかった。こんなどうしようもない不安を感じることもなかった。何もかも、始まりはキルアではないのか。
ぎゅっと拳を握り締めて、相手の罵声を聞き続けていたゴンの心にも、その理不尽さに対して怒りが生じてくる。それが"馬鹿"と詰られた瞬間、堰を切って溢れてしまう。
「だ…ってっ…っキルアだって朝いなかったジャン!」
「なっ」
「オレ、ちゃんと朝呼びに行ったよ?! キルアの部屋までお昼、食べに行こうって誘いに行ったよ! でも、キルアがいなかったんだよ!」
それほどいうのなら、今日の不在の理由はいったい何なのか、と今度はゴンがキルアを責めた。
もちろん、キルアが、今朝向かった先のことなど口にできるわけがない。必然的に怒りの勢いを失い、言いにくそうに"理由"を説明する。
「それはぁ…オレも用事があったんだよ、しかたねーだろ…」
これじゃあ、言い訳になってない。解っている分気まずさを感じて、キルアは乱暴に頭を掻いた。
「でも、おまえもさぁ…なんも連絡ないって」
夕食を食べに行くなら、一言だけでも部屋の電話にメッセージを残してくれれば、後から追い掛けることもできた。まったく連絡もない、っていうのはどういうつもりだったんだ、とぼやく。
だが、自分が出かけるときには一声もかけてくれなかったのに──と、この時点で既に臨界点に達していたゴンには、キルアの言い訳は追い風にしかならなかった。
「キルアだって…キルアだって連絡くれたりしなかったじゃない! 朝、知らない間に部屋出てって、どっか行っちゃったくせに! それでオレばっかり悪く言わないでヨ!」
下を向いたゴンがヒステリックな声で、相手を怒鳴りつける。
初めて目にするゴンの怒る姿に度肝を抜かれたキルアは、いったいどう反応して良いのか解らなくなる。
「な…なに怒ってんだよ」
「知らないよッキルアのバカ!」
戸惑うキルアの目の前で、ゴンはきっと顔を上げた。大きな瞳の端には僅かに泪が滲んでいた。
ゴンの中でグルグルと渦を巻く想いが、彼を混乱させる。
「キルアが一緒に居てくれないから…っすぐどっかいっちゃうから!」
「───っ」
キルアは、痛いところをを突かれて、言葉を無くしてしまった。
ゴンを傷つけないように、暴走しそうな性衝動を発散させるために、などと都合のよい解釈をし、ウイングと何度も隠れて逢い、刺激を求めてしまった自分が悔やまれる。
ゴンと思うようなSEXが望めないから、って他人を求めるなんてどうかしてた。
どうやら自分とウイングの関係はバレていないようだが、それでも十分に彼を傷つけてしまった後悔がキルアを襲っていた。
「だから…っ!」
ゴンは、その怒りが責任転嫁にすぎないと十分理解しながら、縋ることが止められない。自分ではっきりとヒソカのことを拒絶できない事実を見たくなくて、全てをキルアのせいにしてしまう。
キルアがいないから、ヒソカと出会ってしまう。キルアが自分を置いてどこかへいってしまうから、ヒソカと食事をしてしまう──キルアさえいれば、そんなことにはならないはずなのに、と。
「お願いだよ…どっか行っちゃったりしないで…オレを置いていかないでよ…!」
じゃないと、オレはそのうちヒソカと──
黒い影がゴンの心の中を支配しようと広がっていく。
その重みに耐え切れなくて、キルアの腕に体を預けた。
「ゴン…?」
いつになく弱気な態度を見せる少年の名を読んだが、返事は帰ってこなかった。ただ、よろめくほど強く額を胸を押し付けてくるのみだ。
そんなに不安を感じているなんて──ゴンらしくもない、と思う反面、やはり怪我をしている分だけいつもよりも神経が過敏になってしまったのだろう、と納得もする。
そんな状態だ、と解っていながら放り出していたことを申し訳なく思ったキルアは、服にしがみついて肩を振るわせるゴンをそっと抱き、
「ごめん…勝手に遊びに行って悪かったよ。もう、そんなことしないから」と囁いた。
だが、この時既にゴンの中に忍び込んでいた男の存在に気付くことは無かった。




スプリングが拉ぎ、うたた寝していたゴンの覚醒を促す。
「う…ん……」
微かにうめくと、ベッドを揺らした張本人の姿を探すために、ギブスをした腕を支えに体を起こした。
「どっか行くの?」
床に落ちた服を拾い、着替え始めていたキルアの背中に向かって声をかけた。
少し不安そうな色を含んだそれを聞いて、苦笑いを浮かべたキルアは上着に腕を通し、彼を誘う。
「服取りに部屋に戻るだけだよ。一緒に行くか?」
「うん」
そう答えて、全裸のままベッドから降りてきたゴンに、ソファにかかっていた彼の服を手渡す。
あの喧嘩をした夜から数日──キルアはほとんどの時間をゴンの部屋ですごしていた。朝目覚めてから、夜眠りついた後も、片時も離れる事はない。どこへ行くにも、なにをするにも、常に一緒、だ。服を取りに行く、僅かな間すら離れる事を恐れるようにくっついて来る。
生活のパターンがそうなってきて以来──だんだんキルアの私物もゴンの部屋へと移動して来ていた。こうして時折、足りなくなったものを取りにいく時くらいしかキルアの部屋に人が立ち寄ることはなかった。
「ついでにちょっとブラブラしてこねぇ?」
「良いよ。塔の外まで出てみる? 天気良いし」
会話を交わしながら、部屋を出て行く。
二人の間には穏やかな空気が流れていた。 人だかりの真中に、ダフ屋。

(…高い……)

3ヶ月ぶりの大試合──と騒ぎになっているその中心で、キルアが腕を組んで考え込んでいた。
「おっさん、もうちょっと安くなんないの?」
「そう言われてもね。オレもあんたにゃいろいろ儲けさせてもらったから、特別価格でくれてやるんだよ? 本当なら倍値でも売れてくもんなんだ」
「倍だぁ?!」
チケットを睨み、ううーん、と頭を抱えた。倍、っていくらなんでもボッタクリ過ぎだと思うのだが、他の客たちはそれでも良いから売ってくれ、とダフ屋の周りに寄ってきている。実際提示された値段なら流通価格とほとんど変わらず、ダフ屋にとっても大打撃だというのは解っているのだが──
(それでも高いんだよ…チョコロボ君1000個買えるぞ、このチケット1枚で)
正規のチケットは朝一で売り切れていた。後は、こういったダフ屋経由で手に入れるくらいしか、方法はない。そもそものチケットの値段も高いのだから、仕方がないとも言えるのだが。
「どうすんだい?」
これがヒソカの試合でなかったなら──もっとも、ヒソカが戦うと聞いたからこそチケットを手に入れようと思ったのだけれども──もういいや、とあっさり諦めてしまうところだ。
返事をせかされ、悩んでいるキルアの頭上で声がした。
「なぁ、坊主が買わないんなら、俺が買うよ! 倍…いや、3倍でもいい!」
見上げると、先ほどからキルアの後ろでやきもきとしていた男がダフ屋に交渉をはじめようとしている。
ダフ屋の方も、キルアが買う見込みはない、と判断したのか、3倍と聞いて魅了されてしまったのか真剣に話を聞こうかという態度を示す。
「じゃあ、3倍で…」
あんたに売るよ、という台詞は最後まで言わせなかった。カードをダフ屋の目の前に突きつけて、キルアが大声で叫ぶ。
「ああっもう解ったよ!! おっさん、2枚頂戴!」


その頃ゴンの部屋──
ゴンは、ぼおっと窓の外を飛ぶ雲を眺め、キルアがやってくるのを待っていた。
今朝、『昼飯の前に迎えに行く』、と電話があったが、何時頃くるのだろう。そう思いながら、ベッドの上であぐらを掻いていたゴンは、無意識に右手のギブスを弄る。
(痒い……)
実は、先ほどからギブスの中身が痒くて仕方がない。
腕に力を入れたり、微妙に動かしてみたりするが、その痒みはなかなか収まることもなく、ゴンを苛みつづけている。
左手でギブスを掴み肘を動かすと、ほんの少し外へ出る。腕に貼り付いているギブスが肌を引っ張り、ちょっとだけ気持ちが良い。
そして、もう一度奥へ戻し、また引き抜き──そう、無意識だった。が、それを繰り返しているうちに、反復の幅が少しずつ大きくなっていた。
そうして
「あっ…!」と、突然ゴンが驚きの声をあげたのは僅か数分後。
(やっば…取れちゃった…)
肘を覆っていたはずの石膏から数センチ引き抜けている腕を見て、焦る。
医者にはもう数週間はこのギブスを外さないでおきましょう、と通告されたところだったのだが、こんな安易に抜けてしまうものとは思わず、凝視してしまう。
元に戻そうか、どうしようかと迷ったが、好奇心に負けた。
そろり、そろりと腕を引き抜いていく。
姿をあらわしたのは日にあたらず、二の腕と比べると少し青白いような色をした腕──
「………。」
数秒後、ゴンのベッドの上には腕の抜け殻だけが転がっていた。


薄っぺらなくせに信じられないほど高い値段のチケット──表にはヒソカvsカストロ戦と書いてある──を2枚、手中に収めたキルアがゴンの部屋の扉を開くと、途端にどたん、ばたん、と騒がしい音が聞こえてきた。
(…何だ?)
何か上手く買わされてしまったような、と先ほどの交渉を思い出してチケットを睨んでいたが、その大仰な音に気を引かれて顔を上げれば、そこにはバク転なんぞをかましている少年がいる。
(………へ?)
見間違いか、と目をこする。ここの部屋の主が、こんなにアクロバティックに動けるわけがないと、キルアの脳が訴えている。
だが、やはり彼はギブスで固められていたはずの手で逆立ちをし、部屋中歩き回っていた。
信じられない光景をその目で見、夢や錯覚ではないと確認し、それでも言葉が出なかった。
「あ、キルア。今そっち行こうかと思ってたとこなんだ」
のびのびと運動していたゴンは、戸口で立ちすくんでいた友人に気づいて機嫌よく声をかける。
ぐん、ぐんと体を振り回し、にこやかに笑ってキルアを迎えた。
「おま…」
よくよく見ると、腕にギブスがない。今日は通院日ではないはずなのに、どうやって外したのか、と眩暈がした。
だが、飛んでも跳ねても、どこか痛いというわけでもなさそうで──
怪我は良いのか、と尋ねれば、更に激しく動き回って『もうバッチリ』と証明してみせる。
つまり、全治4ヶ月の怪我を1ヶ月で完治させてしまった、ということで。
「お前、変」
尽く常識を覆してくれるゴンの存在をそれ以外の言葉では言い表せなかった。


んじゃ快気祝いも兼ねて、とバカ高いチケットをゴンに渡してやった。
ただの、ではない。ヒソカの戦うものだ、といえば、彼の顔にも緊張が走る。
「いらなかった?」
「ううん、嬉しいよ。ありがと」
少し高かったんだけど、その笑顔に免じて許してやろう。
キルアは先ほどまで『高すぎる』と怒っていたこともすっかり忘れて、上機嫌でソファに腰掛けた。
「それよりさ、なんだよ、あれ」
ちょうど目線の先に、ベッドの上に置き去りにされていたギブスの抜け殻がある。それを指差して、いったいどうしたのだ、と尋ねれば
「なんか、取れちゃった。あはは」と能天気に笑った。
「あはは…ってな……」
呆れて物も言えなかった。
あはは、とかで済む問題じゃないだろう。どうせ、我慢できずに動かしている間にすっぽ抜けでもしたのだろうが──いや、普通は抜けないし。
「医者に叱られても知らねーぞ」
「そうだよねぇ…怒られるかなぁ。でも、簡単に抜けたんだよ。腕が細くなってたのかな? ほら、色違うの、解る?」
薬臭い腕をキルアの目の前に突き出して、もう一方の腕の色と比べて見せる。
並んだ腕は、片方は健康そうに日に焼け、もう片方はアルビノのように真っ白く、ふやけているようにも見える。
「……なんか…蛙の腹みたい」
「キルア、その例えイヤ」
ぷくぅっと水面にひっくり返った蛙の白い腹が二人の脳裏に横切っていた。
「だってな~そんな感じじゃん。うわー、キショ」
変な例えをするな、と睨まれたが、キルアは構わず指先で白いほうの腕を押して、そのふやけたような柔らかさを確認する。まるで本当に蛙の腹でも突付くようにして、ぷに、ぷにという肌感を楽しんだキルアは腹を抱えて大笑いをした。
「笑ったな!」
ゴンも少し怒った振りをして、ソファにひっくり返って笑っていたキルアの上へ圧し掛かっていった。
両手で肩を押さえつけ、もう笑うな、とキルアの口をふさいだ。
もちろん、そんなことでキルアが笑いをとめるわけはなかったが、ゴンはこんなこともできるようになったんだ、と改めて実感してしまう。
──些細な一動作だったが、"普通"にできることに感動する。
ほんの数日前まで、ごろり、と寝返りを打つ度に、肋骨が痛かったのが嘘のようだ。
「重いって、ゴン」
早く上から退け、と笑いながら口元に置かれていた手を掴む。だが、ゴンはなかなかキルアから離れようとはしなかった。
「オレ、治ったよ」
つかまれた両手を支えに、馬乗りになったまま、キルアの顔をじっと見つめて感慨深げに完治したと繰り返す。
何をしても思う通りになるのが嬉しい。
ゴンのキラキラ光る瞳から伝わってくる気持ちが可愛らしくて、キルアはついからかってしまう。
「うん。そうみたいだな。変だけど」
「変じゃないもん」
ぷぅ、と頬を膨らませ、足の裏に重度の火傷を負ったまま、平気な顔して歩いていた人間に言われたくない、と怒って見せた。
「な、重いよ」
笑って悪かったから、退いてくれないかと頼む。
ゴンを乗せたまま上体を起こし、隣のソファへ移動して、と肩を叩いた。だが、ゴンはなかなかキルアの膝の上から降りようとしない。
「治ったんだ。もう、どこも痛くないよ」
「……よかったじゃん」
間近で震えている唇をじっと見ていると、妙な気分になってしまう──キルアはどうしても上擦ってしまう声を抑えて、そっぽを向いた。
このまま体を密着させていると、襲ってしまいそうな予感がする。
(でも、こんな時間ジャーな。抵抗されるのは解ってるし)
面倒なことは避けたいと思っていた。だから早く移動して欲しかったのだが。
「痛くないんだ」
そうつぶやいたゴンが、ゆっくりと顔を近づけ──熱い唇が、一瞬だけ触れて去っていった。
驚いて、まじまじとゴンの顔を見る。その台詞と、今の行動が意味してるのは、つまり"そういうこと"、なわけかと察して、言葉を失う。
そりゃあオレとしちゃあ、シたいのは山々なんですけど。
だって、真昼間だぜ。いつもは嫌がるのに、どういう風の吹き回しなんだ?
しかも、ゴンから、ときたもんだ……実はソファから落ちたら夢だった、なんて落ちが待っていそうで怖い。
「……あのさ」
長い間目と口を開いたままで反応のないキルアに、我慢しきれなくなってもう一度ゴンが口を開いた。
同時に我に返ったキルアは、ゴンの頬に手を当てて、その火照りの強さを感じる。
「良いの?」
「キルアは…嫌だ?」
据え膳食わぬはなんとやら、だ。ここまで言わせて『NO』なんて応えられるわけが無い。
真っ赤な顔で覗き込まれて、にんまりと口角をあげた。
「なわけないじゃん。覚悟しろよ。も、遠慮しないし♪」
とだけ言うと、右手をゴンの後頭部へ回して引き寄せていた。
すごく、シたい。
体の奥から溢れる衝動みたいなもの、がゴンを突き動かしていた。
口内を縦横していくキルアを、自分から求め絡めていく。熱い塊を吸い、吸われる度に電流が走っていく。
「…ん……」
だがそれだけでは足りない──もっと強い刺激が欲しい。
願うゴンの手がキルアの背中を強く抱いた。
「!」
ぬるり、とした感覚に驚き、キルアが目を見開いた。
突然侵入してきたソレが、キルアの舌を捜して口内を彷徨っている。歯列を辿り、口蓋を舐め──いつもキルアが与えているキスを真似て必死に貪ってくる。
ぎりぎりまで口をあけ、分泌される甘い唾液を啜り──快楽を追うゴンの頬が高潮していた。
これを吸って欲しい、とさし伸ばされた舌を軽く噛む。
「ふ…あ………」
その刺激に負け、痙攣を起こしたゴンの唇はゆっくりと離れていった。
息を荒げた少年の胸が激しく上下する。
(なーんか……いつもより積極的だし)
意外な相手の変貌振りに、少々気圧されてしまう。完全に体の自由を取り戻したことが嬉しいのか、それともヒソカ戦のチケットに触発されているのか──勿論、理由がなんにせよ、中断するつもりはない。
息が整い始めた少年の首筋に、舌を這わせた。
先ほどから暴れまわっていたせいか、微かな独特の体臭としょっぱい味が感じられる。
これもそう、だ。
あれだけ運動した後ならば、必ずシャワーを使ってから、と主張するはずが──
(いきなり、だもんなぁ……ま、いいけどね。どうだって)
まず在り得ない、奇妙な変化に驚きは持つが、やはり他愛も無い理由ゆえであろうと疑いはしない。
それよりも、今はゴンの体を味わうことが先決。キルアはゆっくりとキスを移動させ、逸る少年の官能へ応え始めていた。

肌を這い回る相手の存在に眩暈がした。
「あ、あ……っ」
一糸纏わぬゴンの素肌が呼吸に合わせて波打つ。硬く隆起した胸の突起を嬲られて、ゴンは顔をのけぞらせた。
視線の先には、床に散らばった自分の服や靴、そして先ほどキルアから貰ったチケットが在る。良い"目"を持つゴンには紙の上に書かれた豆のように小さな文字さえ、はっきりと読み取れてしまった。
ヒソカVSカストロ──
珍しく自分から誘ってしまったのはきっとこれのせいだ。
ヒソカという棘が、ちくり、ちくりと胸を刺している。
チケットを手に入れてしまったことで、その痛みが更に明確になってしまう。じくじくと疼くような熱が、小さな体を燃やしてしまう。
熱い……熱い──!
これに応えてくれるものが欲しい。自分を裂いてしまうほど強いものが欲しい。
体の中から、燃え尽きてしまいたい──
「…キ…ル…っ」
「うん…?」
弾む息の下で、自分を繋ぎ止めてくれる人の名を呼んだ。
首筋を這わせる舌は止めずに応えた少年の腕に、必死で縋りつく。
彼の手の先は、ゴンの濡れた陰茎を弄り、小ぶりな双丘の間に潜り込んで入り口を柔らかく刺激しはじめていた。
先走る液を指先に取り、交互に入り口へと塗りたくっていく。触れられる度にもどかしいほどの衝動がゴンの体を跳ねさせる。
入り口じゃあなく、もっと深いところを愛して欲しい──体の奥底を、感じさせて欲しい──
「い…れてっ…」
苦しそうに喘ぎ、快楽を渇望するゴンの口からでた言葉はひどく掠れて聞き取りにくかったが、キルアの耳には十分に届いていた。
「"いれて"って…そりゃ、オレは早く入れたいけどさ」
キルアは、まだ、初めて何分も経ってない。十分に慣らしてもいないのにと苦笑いを返した。
何故か酷く欲情しているのは解るが、そんな無茶苦茶ができるわけはなかった。まだ彼の後門は指の一本を受け入れるのがせいぜいないくらいで──そんなところへキルアのペニスをねじ込めば、ゴンが傷ついてしまうのだから、と言い聞かせる。
「それくらいわかってるだろ」
もうちょっと体が慣れてきたら、すぐに気持ちよくしてやるから、と宥める。
だが、ゴンは激しく首を振り、それを否定した。
「構わな……からっ…」
違う──優しくして欲しいんじゃない。傷ついてもいいから、痛いくらいにして欲しい。
ヒソカのことも、全部考えなくて済むくらいに──
「だからな」
キルアが、お願い、とせがむ相手に困った様子でもう一度説明をしようとすると、その腕を掴んで、懇願するように見つめた。
「かげん…しな…って言った…っ…」
「そーだけどさ」
確かに言ったが、無茶をする、というつもりで言ったのではない。
これでも、一秒でも早くゴンの中を味わいたいのを自制しているというのに──
だが、自分を見上げる瞳の奥が潤んでいた。
其処に在るのは、今すぐに、この体の内で燃え盛る熱をどうにかして欲しいという切望。
「……っ…」
煽られて、キルアの中の熱も一息に上昇してしまう。
限界を感じて、唇を噛んだ。
「どーなってもしらねーから」
足首を掴んで、深く体を折らせてしまうと、既に力強く立ち上がっていた自分自身をゴンの体へ押し付けていた。

高く持ち上げたゴンの腰を何度も何度も打ち据える。
「ひ…ぁあっあ──っ」
刀身が襞や内壁を激しく擦り、切っ先が内臓を抉って深く、深く突き刺さった。
最奥を突く度に、甲高い嬌声をあげ、唇を戦慄かせている姿が扇情的だ。膝裏へ手をかけ、より大きく足を開かせると己の全体重をゴンの体へかける。
肩ですべてを支える少年は、苦しさよりも全身を駆け巡っている快楽の激流に飲み込まれている。
「んぅ…ぅ!」
ゴンの足の間で屹立し、揺れているものへと手を回して、撫でるように触れてやれば、大きな波が訪れたのか、引き締まった臀部が強く痙攣した。
ぎゅっと内壁が締まり、キルア自身へも電流が流れこんでくる。
「…っあ…っゴン…っ」
その快楽の強さに堪らず体を折り、ゴンの肩の脇へと手をついた──とたんに、ミシリ、と奇妙な音がした。
(…ミシ…?)
確かに聞こえた。同時に、ほんの数ミリ手が沈んだようにも感じた。
ゴンから与えられる刺激に夢中になっていた頭の片隅で、その音と感触をはっきりと知覚している。片手で接合した相手の腰を支えたままで、ソファへめりこんでいる感じの手をまじまじと見た。
外見はなんともない──が、もう一度体重をかけると、不自然な沈み方をする。革が、掌を中心に巻き込まれ──
「ふ…ぁ…っルア…キルアっ」
だが疑いは感極まったゴンの声にかき消された。
見上げたその瞳は、キルアが途中で動きを止めてしまったことを責めていた。
「…っもっと…っもっと、して…っ」
キルアの首へと手を伸ばし、獣のように悦楽だけを求めてゴンが縋り付いてくる。
「ン…っそう力いれんなって…」
足の間で透明な涎を垂らすゴンの陰茎の動きに合わせて、キルアを咥えこんだ襞や内壁が顫動する。
キルアもそれに応えて、律動を再開した。
「や…っあ…つああっ…!」
不規則な衝撃に意識を奪われ、互いに互いを求めるだけの時間が続いていった。


いつもより長く続いた情事が終わり、疲れきったゴンはソファの上でぐったりと体を横たえていた。気だるいまどろみの中で、自分の上で折り重なるようにして、やはり目を閉じているキルアの重みを感じる。
暖かな体…いつのまにかキルアも全裸となっていた。滅多にさらさない素肌を密着させて、存在を強く感じる。
静かな呼吸音が耳を擽る。
(……寝ちゃったかな…?)
規則正しく上下していた背中へ手を回し、そうっと抱きしめようとした。
だが、その前にキルアがぱっちりと目を開けた。
「あ…え……と」
突然のことで焦ったゴンは、背中を覆おうとしていた手をぱっと離してしまう。
その奇妙な行動に、どうしたんだ、とからかわれるのではないか、と心配するが、反応が無い。
「……」
キルアは本当に眠っていたのかもしれない。その、ゴンを眺めるぼんやりとした目つきを見てそう思う。
(キルアでも、そういうことあるんだ)
SEXの後で、強烈な眠気に襲われるのは自分だけではないのだと知り、なんだか嬉しくなってくる。
「ごめんね、おこしちゃった?」
にっこりと笑って尋ねてみたが、息がかかるほど間近にある二つの目はゴンをみつめて、じっと動かない。
「……あの…キルア?」
寝ぼけているのか、と思って名前を呼ぶと、返事はせずに体を起こしてしまった。
「?」
そのまま無言でソファを降り、何かを確かめるようにしてゴンの体の脇へと手を潜らせた。
ぎゅ、ぎゅ、と何度か掌で押すような作業を繰り返し、何かを確かめている様子だ。
その後、足元へ跪き、ソファの下を覗き込んだり手を差し入れたりしている。
「……どうしたの?」
尋ねても、丸まった背中はなかなか返事を返さなかった。
「わりぃ、ゴン」
しばらくして、立ち上がって軽くため息をついたキルアががっくり頭を垂れた。
どうやら謝っているらしいが、ゴンには事情がつかめず戸惑うばかり、だ。
「なに?」
腰に手を当て、うつむいたままの相手に、説明を促す。
悪い、って謝る理由はなんなのか、と。
そうして漸く口を開いたキルアは、嫌そうにソファを指差し、こう言ったのだ。
「……それ、壊れた」

ほんの少し眠ってしまったかもしれない。
ゴンの体温が暖かいから。妙に頼られちゃってる感じで快いから…このまま、ソファの上でもう一眠り、もいいかもしれないと思っていた。
ゴンは目覚めているようで、腕をもぞもぞと動かしているようだ。ああ……どうやら、背中へ手がまわしたいのだな、と解る。そんな気配がする。
ここで目を開けてしまったら、きっと照れて止めてしまうだろうから…知らない振りをしておこう。たまにはそういうことも心地よさそう、だ。
だがギシリ、といういやあな音が、すべてを台無しにする。
ゴンの背中の向こう側から聞こえてきた、不快感たっぷりなその音。
「……」
本当に嫌だったのだが、仕方なくゆっくり目を開けると、案の定キルアの背中へと向かっていたゴンの手がぱっと離れていった。
(残念)
ゴンの方から抱きしめようとしてくれる、なんて滅多に無いことなのに。千載一遇のチャンスを逃してしまったような気がする。
「ごめんね、おこしちゃった?」
誤魔化し笑いを茶化す元気も起こらない。返事を返さず、ゴンから体を離してソファを降りた。
ゴンの体の向こう側へと手を潜り込ませて軽く押してみると、やはり情事の最中に感じた"違和感"が掌に残る。
きっとそうなんだろうなぁ、と頭を掻きながらその場に跪いた。ソファの足元を覗けば、他の部分とは明らかに違う、出っ張った部分が目に入る。
キルアの行動がよく解らずに、ゴンは首を傾げていた。
「…どうしたの?」
腕を伸ばして、出っ張りに触れてみた。底の布を突き出して、硬いスプリングの感触が──
「わりぃ、ゴン」
決定的な証拠を指先で確認したキルアは、立ち上がってふい~とため息をついた。
「なに?」
奇妙な態度を訝しみ、ゴンが自分を見つめている。確かにいったい何が"悪い"のか、ちゃんと説明しなくてはとは思う。
だがしかし。
(言い難い…)
がっくりと肩を落としてしまう。もう、頭を抱えて喚きたい気分、だ。
遠慮しない、って言ったけど、こうまでするつもりはなかったのだ…いや、だいたい『もっともっと』と求めてきたのはゴンのほうで。
(オレ、悪くないよなぁ)
心中、言い訳を繰り返す。けれど、はっきり言えないのは罪悪感を感じてしまっているからに他ならない。
黙っていたって、いずれは解ってしまうことなのだ。腹をくくったキルアは、ものすごく気まずそうに顔を歪めて、告白を決意した。
「それ、壊れた」
決意──はしたものの、それだけ言うと、指を刺してそっぽを向いてしまう。
「……え?」
ゴンは壊れたって何が、と不思議そうな顔をする。
ああもう。察しが悪いな、まったく!
イライラしてくるのを抑えて、もう少しだけ詳しい状況説明をしてみたりする。
「………ソファの底が抜けてる」
「うそ」
体を起こしたゴンは、底が抜けている、と聞いて慌てて体をずらした。と、本当に体の下に奇妙な違和感がある。
「下覗いてみろよ…てか、ほら。お前のケツの下、沈んじゃってるジャン」
ずらした場所が、ちょうど破壊してしまった個所の上で──ゴンのかわいいお尻はすっぽり穴にはまってしまって、サイドのクッションよりも一段下がっていた。
指摘されて、それで腰を下ろした瞬間に変な感じがしたのか、と納得してしまったゴンは、感嘆の声をあげた。
「わ、ホントだ、沈んでる~!…って、酷いキルア!!」
そう、喜んでいる場合ではなかった。
一応この部屋は天空闘技場が与えてくれているものなのだが…物品を破損したら、やっぱり何かペナルティーがあるかもしれないではないか。
もしも、何ら咎めがなかったとしても、後何ヶ月ここへ滞在するかもわからないのに、こんな壊れたソファでは不便で仕方が無い。
思わずキルアに向かって叫んでしまっていた。
「オレだけのせいかあ?!」
全面的に自分の責任にされたキルアは、ちょっとまて、と反論してくる。
「だってっ」
「『もっとはげしくして~っ』とか強請ってきたの、お前のほうジャンか!!」
「!!」
確かにキルアの言うとおりだったし、口走ったことを覚えても居るのだが、あの時は少しおかしかったのだ。
素に戻った今言われると、とてつもなく恥ずかしくなってゴンは大きな声で否定する。
「ちがうもんっ 言ってないもんっ!」
「言ったって! だから要望に応えたまで…イテっ」
小さなクッションが頭に命中した。
「んだよ」
嘘は言ってない、と睨みつける。
なんでクッション投げられなきゃならないんだ。強請ってきたのは本当なのに。
むぅっと頬を膨らませ、口を尖らせて見せたが、真っ赤になったゴンはそんなキルアの表情に構いもせず、もうひとつクッションを掴んで投げる体勢だ。
「い…言ったかもしんないけどっ。だからって、こんな風になっちゃうまでしないよ、普通!」
涙目で訴える少年には白旗をあげるしかない。
これが惚れた弱みというのだろうか。キルアは怒るのを止め、がっくりと肩を落とす。
「ああ~もう、解ったよ。明日にでも新しいの、買いに行こうぜ。良いだろ?」
お詫びにプレゼントさせていただきます。
そう言って、キルアはゴンの機嫌をとり始めた。


そして翌日。
新しいソファを手に入れるために買い物へでかけることにした二人は、ホールでエレベーターを待っていた。
「そういえば、この塔の中って土産物屋とかもあるんだぜ。見たことある?」
置いてあるものがおっかしいの、とキルアが笑った。言われてゴンも、店の前を通りかかったことはあった、と思い出す。
「知ってる…でも、誰かにお土産あげるなんて考えてなかったし、ちゃんと見たことないや」
「ミトさんに送ってやれば? 面白がられるんじゃねーの?」
その育ての親、という女性についてはゴンから何度も聞かされていて、キルアにとっても妙に親しみを感じる存在となっていた。
それでというわけではないが、なんとなく彼女のことが脳裏に浮かぶ。
ゴンも指摘をされて、ハンター試験が終わった時に一度電話をかけたっきり、なんの連絡もとっていないことを思い出す。
「あ、そっか。そうしようかな。キルアは?」
お土産を送るというのはいいアイデアだ。
ゴンは音信不通で怒っているかもしれないミトの機嫌も取れるかもしれないし、と即賛成する。
同時にキルアの家のことも気になって、どうするのか、と尋ねた。もっとも、ゴンの頭に浮かんでいたのは、キルアの肉親というよりも、使用人たちのことばかりだったが。
「俺んちはイーよ…」
家の人に土産を送らないのか、と云われたキルアは、でがけにみかけた母親のことを思い出して、かなり嫌な気分に陥ってしまう。
「いいの?」
ゴンは無邪気に問い返してくれるが、あの親兄弟にいったい何をやれと言うんだ。誰ぞの生首でも送り付けてやったんだったら、ババアくらいは泣いて喜ぶだろうけど。
誰も土産なんかが送られてきたって感慨を持つとは思えない面々ばかりで──平和なゴンの家が羨ましい、と笑う。
結局、家具屋へ行くのは"土産物屋"なるものを見た後にすることにし、2人はとりあえず下の階へとエレベーターを降りていくことに決めた。


店先には天空闘技場名物、と銘打ったお菓子がところ狭しと置かれていた。
天井からは同じく"天空闘技場"と書かれている提灯や、暖簾が垂れ下がっていたり、大小の置物が雑多に置いてあったりする。
その店先を歩く少年の、ギブスをしていないほうの手はしっかりキルアに繋がれていた。二人並んで、仲良く土産を眺める。
「あ、ほら。あれ。釣り下がってるやつ。よくねぇ?」
「うーん。オレは、あっちの置物の方がいいかなって思うけど」
「ミトさん、って…ああいうの趣味なのか…?」
「多分」
といって二人で顔を見合わせて笑う。
キルアの指した"釣り下がってる奴"は、色とりどりのガラスでできた壁飾りで、一見綺麗なくせに真中のプレートにはやっぱり"天空闘技場"の文字が入っていてミスマッチなことはこの上ない。
一方、ゴンが指差した"あっちの置物"はやたらにデカイ、天空闘技場の概観を模った安っぽい置物の脇に人間のフィギュアが立っている…まぁ、闘技場がこれくらい大きなものなんですよ、と報せる模型のようなもので、どちらも似たり寄ったりの品物だ。
二人は店の中まで入っていき、その置物に近づいてみた。
「へっぼい人形。ミルキが見たら、卒倒すっぞ」
「ミルキ?」
「あ~ああ、なんでもねー…」
腰に手を当て、置物を突付きながら人形狂いの兄のことを思い出して苦い笑いを浮かべた。
店内には、外からではわからなかった商品も沢山あり、キーホルダーやプリペイドカード、小さなストラップなども並べられている。その一つ一つを眺めて、ゴンはため息をついた。
「色々あるんだねぇ。なににしよう…迷っちゃうよ」
手を繋いだまま、迷いながら店内を歩き回る。中には全く脈絡もないものまで置いてあったりして、2人の笑いを誘った。
店の中ほどまで来たとき、キルアが嫌そうな声をあげた。

「うわ。ヒソカじゃねー? あれ」
耳に飛び込んできた名前に、ゴンは心臓を掴まれていた。

「ヒソカじゃねー? あれ」
嫌そうに顔を顰めてキルアが指差していたのは、壁に貼られている無数のブロマイド写真──戦闘中の闘士たちの姿を映したものから、日常を隠し撮りしたような風のもの、中には専用に撮ったわざとらしいものもある。キルアはその中から、彼の写真を発見してしまったのだ。奇妙なもので、見たくないものに限って、吸い込まれるように視線を奪われた。
(オレってバカ)
思わず、口走ってしまった自分を悔やんでいた。
わざわざゴンに、あいつのこと思い出させてしまった。楽しいデートの最中に、邪魔者の存在を浮上させるなど、愚の骨頂だ。
一方、その名前に、ドキリと胸を弾ませたゴンは、慌てて彼が指さした先へと目を走らせる。
「……ホント、ヒソカ…だね」
確かに、いくつかの写真に、ヒソカが写っている。
もう数日間、ヒソカ本人の顔を見ていない──だが、こうしてキルアと一緒にいても、なかなか忘れることができない男の顔を改めて見て、唇を噛んだ。
一刻も早く借りを返したい。それは絶対に変わらない決意だ。だが、数日前に出会ったヒソカに対して敵意を保持することができない。
あの、大きな庭のある家に、今も彼は滞在しているのだろうか。その家の持ち主とはどんな関係なんだろう?
あの夜、触れられた唇を思い出すと、まだ体が熱くなる。強引なようでいて、優しかったヒソカの存在が重く圧し掛かる。
こんな状態で、闘えるのだろうか。
今度、どこかで出会ったら自分を律することができるのだろうか。求められたら──?
自分に対する不安の雲が、ゴンの心を黒く覆う。
何時の間にか、キルアの手を強く握り締めていた。
「ゴン?」
少年の反応に驚いたキルアは、並んでブロマイドを見上げるゴンの横顔を見る。だが、そこには以前に見たような憧憬の色も、かつての恋人に対する未練のようなものもなく、ただ険しく、厳しい表情だけが浮かんでいた。
それはきっと修行もできず、借りを返せないことに対する焦燥感からくる──寧ろ敵に向けるような視線だと判断したキルアは少し安心する。
思い出させてしまったことは失策だったが、心配するほどのことではなかった──と。
ヒソカの写真は概ね試合中のものばかりだった。
おそらく、彼を汚す血は対戦者のものなのだろう。写真の端には、見慣れた石畳の上に横たわる何者かが写っていた。
いつかその石畳の上で彼と試合をし、プレートをたたき返すことがゴンの当面の目標、としか考えないキルアは、当の本人が他のことを想っているとは想像することもない。
今、ゴンが頼りにしているのは自分だけだと過信して、かつて彼の心が自分だけに向けられているのではない、と悩んだことも、つい1ヶ月ほど前に突如現れたヒソカに対して警戒心を抱いていたことも、過去のこと、にしてしまっていた。
ヒソカのブロマイドからなかなか目を離さないゴンにしても、大方"一日でも早く試合を"と決意も新たにしているのだろうとしか思わなかった。
ヒソカに対する興味を失ったキルアは、貼られた写真を一つ一つ眺めて、自分やゴンの写真がないことを確認していた。
「オレらのはまだ出回ってねーみたいだな」
自分の写真はともかく、ゴンの写真があったら買い占めて歩かなくちゃならない。できればブロマイドなんて、売られないほうが良かった。
(だって、ゴンの写真を他人が持ってる、なんて…冗談じゃないよなぁ)
それをいったい何に使うんだ、と想像したら、なお嫌になった。
「おい、もーいいだろ? ほかのもの見よう」
写真を見ることに飽きたキルアに促され、ゴンもいつまでも写真ばかり眺めても詮無いこと、とようやく写真の前から移動をはじめた。
そこでキルアの顔を見、ふと、ククルーマウンテンへ向かう途中でレオリオから聞かされていた話を思い出す。
「あれ…? キルア、写真なんか売られたらまずいんじゃないの?」
確か、顔写真1枚に、何億という賞金が懸けられている、と言っていたはず。
その割には本名で登録しているし、こそこそと身を隠すようなところを見たこともないのだが、と不思議に思って尋ねた。
「… 別に隠してるわけじゃないし…いいんじゃねぇ? 知ってる奴は、知ってるよ」
「そういうもの?」
「オレを狙おうって奴に限って、だいたいオレより弱いんだよね。顔がバレても関係ないって」
自信たっぷりに言い切る様子がなんだかおかしかった。


ミトへの土産はなかなか決まらなかった。
どれも似たり寄ったりで、実用性もなくこれ、という決め手がないのだ。
土産なんてそんなものじゃないのか、と言うキルアも、ゴンがこれはどうか、と尋ねるたびに『こんなんゴミにしかならない』と、次々に切って捨てていく。呆れるほど、役に立ちそうにないものばかり、だ。
「やっぱりこの変な置物にしようかなぁ」
「こんなにでかいの、持って帰るつもりか?」
「まさか… 送れば良いんじゃない? 1週間くらいで着かないかな?」
「3ヶ月くらいかかったりして」
「それも困る…」
店頭の置物を目の前に、2人で首を傾げる。
後3ヶ月、果たしてこの塔に居るだろうか…8月末にはヨークシンシティへ行かなくてはならない。置物など輸送に時間がかかったって腐るものではないが、ミトの手元に届いた時点で自分たちがこの塔に居ない、というのも妙な気がした。
それでも最終的にはこの置物が土産として送られることになるのだが、ゴンはなかなか決断が下せなかった。隣のキルアも、まるで自分のことのように、置物を睨んでどうしようか、と首を捻っている。
「だいたいさぁ…こんなでかい置物、置く場所なんかあるのか? おまえんち」
およそ自分の身長ほどもある置物は、飾る場所を選びそうだ。そんなことまで考えて、ゴンに確認を取るが本人は至って暢気なもので
「さぁ?」と首を傾げた。
「さぁって」
「あるんじゃないかなぁ。なかったら、屋根にでも飾るんじゃない?」
あまりに楽観的なゴンの返事を聞いて、キルアは当惑する。
(……どういう家なんだ…)
屋根に天空闘技場の置物を飾る家…を頭の中で描いてみると、かなり怖い。いつかゴンの故郷に遊びに行こう、と目論んでいたのだが、もしかしたらものすごい家なのかも──
などとくだらない妄想に頭を悩まされているキルアを余所に、ゴンはずっと先の廊下まで首を揃えて並んでいる同じような店舗へと視線を移していた。
この廊下沿いは小さな店が立ち並んでいる。5~6軒ほど行くと横道があり、一見途切れて見えるが、曲がればまた、その先にも何軒も並んでいるのだ。
ゴンも何度か通ったことのある廊下なので、どんな店があったかなんとなく覚えていた。
「あ…」
その道の先を見ていて、ふ、とゴンの頭の中で思い起こされたことがある。
はじめは、他の土産物が買えそうな店がないか、と考えて、記憶をたどっていたはずが、それを思い出した途端にミトと土産の存在自体があっというまに消去されてしまう。
「ねえキルア。ちょっと待っててくれる?」
土産など後回しでいい──せっかく思い出したのだから、今すぐ行ってこなくては、また忘れてしまいそうだ。
「うん? いいけど…なんだよ。トイレか?」
ゴンの、少し焦ったような様子を勘違いしたキルアは、にんまりと口の端を上げる。ちょうど、ゴンがあっちへ行ってくる、と指差した方向に公衆トイレの表示もされていた。
「もぉっ…そんなんじゃないよー! …いいから待っててね! すぐ戻ってくるからね!」
うんうん、と首を振り、誤魔化さなくってもいいぞ、と笑った。
「ゆっくり行ってこいよ、トイレ!」
握り続けていたキルアの手を離して駆け出すと、背後からしつこくトイレトイレと連発され、思わず顔が真っ赤になってしまう。
(もう…っ 違うって言ってるのに…)
だが足は緩めず、キルアから姿を隠すように角を曲がっていった。

確か記憶ではこのあたりだった、と思い出しながら店を探す。
先ほどまで見ていたものとあまり代わり映えのしない店のうちの、一軒を覗き込み、奥に小さなショーケースがあることを認めて走りこんでいった。
「あった」
ケースに張り付き、小さく叫ぶと店の人を探す。
「おじさん、これ貰える?」
ゴンが指差していたのは、ガラス製のショーケースの中で、一際美しく輝く小さな銀細工のブレスレット──
満面の笑みを浮かべながらショーケースを空ける店主の手元を、じっと見詰めていた。
ここ数日ずっと一緒にいて気付いたのだが、今、自分の部屋のクローゼットの中にある、服も靴も、もともと持ってきたもの以外はほとんどキルアが買い揃えてきたか、これを買ったら、と薦められたものばかりなのだ。
それにソファのことも──壊したことに気づかないほど夢中になってしまった自分があんまり恥ずかしかったので、ついつい責任転嫁してしまったが、本当のところは、キルアだけが悪いんじゃないのに、買わせる約束をさせてしまって申し訳ないと思う。
勿論、服のことに関しては、キルアにしてみれば自分好みの服を着せて満足しているだけだったが、貰ってばかりのゴンは、気付いてしまうと居心地が悪かった。
(何かお返ししたかったんだよね)
「プレゼントかい?」
愛想良く尋ねた男に向かって頷くと、小さな箱に青いオーガンジーのリボンを結んでくれる。
これなら、いっぱしのプレゼント、らしく見えるではないか?
ゴンは満足そうに微笑んだ。
お返し、とは言っても、実際キルアの好きそうなものはなかなか思い当たらなかった。
大抵の物は持っているし、このあたりの土産物屋ではせいぜいさっき見ていた置物が関の山だ。
そういえば、ブレスレットでもしてみようか、なんて言ってなかったっけ──?
定かかどうかは自信が無かったが、置物と睨めっこをしている間に記憶の片隅から浮上してきたキルアの台詞に、いつのまにか囚われていた。
同時にかなり前、このあたりへ一人で来た時に見かけたブレスレットが結びつく。キルアの腕にはまっていたら、きっと綺麗だ、と思った。
こんなところで売られているものだ、あまり高価なものでも、ちゃんとした宝石が使われてるというわけでもない。
もっとも、装飾品の価値など解らない自分にはものの良し悪しなど判断しようがないし、他にいいものを見つけたらその時またプレゼントすれば良いのだから。
そう納得すると大事そうに箱を受け取り店を出て行く。
キルアの元へと戻るゴンの足取りは軽かった。


ゴンはポケットの中の箱を握り締めてキルアのところへと駆け戻っていく。
キルアには、すぐ渡してしまおうか。
それとも、部屋で? ──夜? 
どんな風にして渡そうか、想像が膨らんでくる。
どのキルアの顔も、驚き、照れて赤くなっている。
きっと喜んでくれる…そう思うと、一秒でも早く渡してしまいたくて、ゴンは全速力で走っていった。

だが、ゴンがキルアの元へ戻ってきてみると、何故か人数が増えていた。
初め置物の店先に姿が見えなくて、どこへいったのかと慌てて探した。と、案外簡単に少し離れた柱の影に立っているのが見つかった。
「あ、キルア…」
ゴンに背を向けたキルアに声をかけようとしたが、数歩近づいたところでその彼の目の前にもう一人、立っている人物に気づき、言葉を飲み込んでしまった。
(ウイングさん──?)
キルアは、暗い面持ちのウイングと向き合って、何か話している。
喧騒を掻き分けてゴンの耳へ聞こえてくるのはまるで、言い争いでもしているような、そんな声。
「キルア?」
もう少しだけ近づいて、呼びかけた。どうかしたのか、と心配そうに。
すると、少年の方が跳ね上がるように肩を竦め、会話が途切れた。彼らの会話の内容はよく聞き取れなかったが、本当に喧嘩していたのだろうか…でも何故?
ゴンの中に疑問が湧いたが、ほんの数秒の間を置いてくるりとゴンの方を向き直ったキルアは、いつもと変わらない表情で迎えてくれた。
「早かったな、ゴン。トイレ、空いてたかよ」
「もぉっ…トイレじゃないってば……」
笑顔──というより、にやついた顔でしつこく絡まれて、頬が赤くなる。よりによってウイングさんの前で言わなくてもいいのに、と顔をしかめた。
ゴンはいい加減にして、とキルアを睨みつけながらウイングへ挨拶をなげかけた。
「ウイングさん、こんにちは──」
「……」
ウイングの目はゴンを捕らえていたが、返事は返ってこなかった。
まるで世界中の音が聞こえていないようにぼんやりと、虚ろを見つめているだけだ。
「……どうしちゃったの? ウイングさん…」
「…さぁ…?」
ぼんやりとしたウイングの様子はどうしたことか、とゴンはキルアの顔を見た。
問われたキルアは首を竦めて、判らないと仕草で示す──その上辺は平常を保っていたが、内心は煮え繰り返って仕方が無かった。
むかつく。
なんだってんだ、こいつは。
ゴンには見られないように注意しつつ、早く返事をしろ、と目で合図を送ってみるが、全く気がつかない様子でほうけてしまっている。
(ゴンが不信がるだろー!)
ついさっき揉めていた内容を知られたくないキルアは、焦りを感じてしまう。
「あの──」
心配そうにもう一度声をかけようとしたゴンの台詞を奪って、我慢も限界、とキルアは彼を怒鳴りつけた。

「ウ・イ・ン・グ・さ・ん! ゴンが呼んでるよ!」
棘を含んだ少年の言葉にようやく現実に戻ってきたのか、はっと顔を上げ、慌ててゴンに返事を返した。
「! ──あぁ…こんにちは、ゴン君」
(バカ……)
思わず目を覆いたくなってくる。
その反応は、ギクシャクした態度で返事してんじゃねーよ、と後頭部を殴り倒してやろうかとも思ったくらい、不自然だった。
(まさか気づいてねぇよなぁ)
ウイングも、いい大人のくせして、どうしてこう融通が利かないのか。
冷や汗を掻きながらゴンの様子を伺うと、特別何かを感じているような節は無い。
まぁゴンのことだから疑いを持ったりしないとは思うが、とにかく危険な存在からはさっさと別れてこの場を離れたい。
のほほんとした会話を交わす二人の間に割り込み、
「もうその辺にしとけよ。ウイングさんも急いでるんだろ? 行かなくて良いのかよ」
「え、そうだったの? ごめんなさい。ウイングさん」
キルアの言葉を鵜呑みにしたゴンは、用事があったなんて気づかなかった、とこの場に引き止めてしまったことを謝る。
だが、ウイングにそんな用事などあるわけはなく──
「あ、いや私は別に…」
「"急いでた"ろ。早く行けって」
だが、キルアの強い口調を耳にして、疎いウイングも彼の意思を察することができた。
(つまり、ここに居て欲しくない、ということなんですね)
男は、そうまでして、この少年を守りたいキルアの気持ちを痛感する。
ウイングの中で、これまでのことが空虚に変わっていくことなど、キルアには関係のないことだった。
とにかく、ウイングが取り返しのつかないことを口走ってしまう前に、ゴンとの接触を断ってしまいたい。
「オレたちも、さっきの店に戻ろうぜ。な」
そう言って、ゴンの手を引いて男の前から立ち去っていく。
背中に突き刺さるような、ウイングの視線を感じながら。



店へと戻った二人は、結局候補として残っていた置物を購入すると、輸送してもらう手続きのために奥へと入ってきていた。
「じゃあ、住所をここに」
と、小さな送付表が差し出された。
ホント、どうしてああ融通が利かないのだろう──
キルアは、建て前上右手の使えないゴンの代わりに鯨島の住所を書きながら、さっきのウイングの様子を思い出し、苛ついていた。
もう絶対、何があっても関係なんか持つものか。
深入りしすぎたかも知れない。こなかった、とか言われても──
(オレ、必ず行く、なんて言った覚えないし)
勝手に思い込んでんじゃねーよ、と心でなじる。
ちらり、と外へ視線を向けると、ウイングが未だ可視範囲内にぼーっと突っ立っているのが見えた。
(うっわ。まだ居るよ…)
後腐れないどころか、まるでストーカーだ。
あいつがこんな、うざい存在だとは思わなかった。もうちょっと賢いと思っていた。
厄介な人物を相手に選んでしまったものだ。
とにかく、もう会うのは止そう。そう決めるとキルアは住所を確認するためにゴンを呼んだ。
「なあ、住所これでいいか?」
だが返事が無い。
「…ゴン?」
不審に思って用紙から顔を上げると、少年はぼんやりと俯いていた。
実際キルアの言葉はゴンの耳には届いておらず、左のポケットに入ったままの小さな包みを握り締め、考え込んでしまっていた。
(なんだか渡しそびれちゃった…)
キルアにはすぐ渡してしまうつもりだった──ウイングが居て、なんだか妙な雰囲気だったりしたから、いつのまにかタイミングを逸してしまっていた。
改めて切り出そうと思ったら、なんだか謂れの無い気恥ずかしさを感じてしまって差し出すことができない。
この後、ソファを買いに行って、食事をして…どこかで渡せるような機会があるだろうか。改まって、というのではなく、もっと軽い気持ちで渡したかった。キルアのようにスマートに、さりげなく…そう、あまり大げさにしたくない。
(…さっきウイングさんが居なかったら渡せてたのに)
ウイングが悪いわけではないが、あの場の雰囲気が言い出しにくい原因を作ったのも確かだ。
(変だったよな…なんの話をしてたのかなぁ)
じっと自分に向けられていた、ウイングのなんとも言い表しようのな瞳を思い出す。
"めがねの男のところじゃないの?"
とはヒソカが言ったのだった。突然彼の声が鼓膜に響いた。
あの日、本当にキルアがウイングのところへ行っていた、とすると、その理由はなんなのだろう。ずっと忘れていた疑問が浮かび上がってくる。
今、二人がまるで喧嘩をしていたように見えたのは、気のせいではないのかもしれない。
オレに、隠し事をしてる──?
それが何かは解らないが、このところ続くキルアの不在の理由と深く関係しているような気はする。
修行…じゃないし、他に何か……と考えるが、思い当たることがない。
「うう~ん…」
と思わず唸り声が漏れた。

「なんだよ、ゴン。頭でも痛いのか?」
突然間近でキルアの声がする。はっと驚いて目を開けると、頭を抱えて顔を顰めたゴンを心配そうに覗き込んでいる二つの目と鉢合わせした。
「え…あ、ううん。ごめんね。住所だっけ!?」
今までぼんやりしていたことを誤魔化すように、大きな声で住所、住所と繰り返して用紙を覗き込む。
その背中に向かって、キルアは口を開いた。
「……も、これ終わったら部屋に帰ろうぜ」
最後の番地まで間違っていないことを確認したゴンは、どうして? と首を傾げる。
「ソファは?」
そのために買い物に出かけてきたのではなかったのか。土産を買うのはあくまでついで、だったはずで…突然部屋に戻ろうと言い出したキルアの真意が解らなかった。
だが、キルアは、もしソファを買いに行くとしても一度部屋へ戻って出直したかった。なかなか立ち去ろうとしないウイングを追い払うには他にいい手が思いつかない。
(この後ずっと尾いてこられたら厄介どころじゃないし)
いくらしつこいストーカーでも、部屋の中までは追ってこられないだろう。
それがゴンの部屋なら尚更、だ。
ゴンに少なからず疑われていることも確かで…このままウイングの存在を気にしながら外をうろつくのは良策とは言えなかった。
「ソファは…オレが適当に買ってきとくよ。良いだろ?」
「それは構わないけど。ご飯は?」
「まだ早いって。ゴンも腹空いてねーだろ。オレちょっと疲れたし」
部屋で休んで、食事時になったらまた出かけてこればいい。
有無を言わさず話を押し切ってしまい、二人はゴンの部屋へと舞い戻っていった。
残されたウイングは、その場から動くこともできず──少年たちの後姿をじっと見つめる。
その瞳の奥に悲しい光を湛えて。


ウイングと出かけてくるから。

そう言って、キルアは朝早く塔を出て行った。
郊外の工場までソファを取りに行く、のだそうだ。
『オレも行きたい』
と言うと、ソファを運ぶだけなのだし、ウイングの乗ってくる車はどうせ小さいだろうから、3人も乗っていけない、と却下されてしまった。
ソファ──昨日のお昼に、家具屋へでかけて購入してきた、と言った。
すぐに要ると思ったから、工場まで取りに行くのだ、とも。
何故一緒に行ってはいけないのだろう。
いくらソファが大きいからって、オレとキルアなら助手席とか詰めれば乗れると思うのに。
一人、部屋に残されたゴンはベッドの上で枕を抱いてむぅっと口を尖らせる。
何か変。絶対変。
でも何が変なのか、ぜんぜん解らない。
理解できずにすっきりしない感覚がとても気持ち悪い。
不快感と枕を抱えたまま、ごろん、と体を横たえると壁を見つめた。そこに、一枚のチケットがピンで留めてある。
キルアから貰ったチケット──ヒソカの試合は数日後に迫っていた。
この目で直に試合を見られる、と思うと神経が高ぶってくる。
(こういう状態で、ヒソカには遭いたくないなぁ)
ただでさえ、 何か間違いでも起こしそうで自分に自信が無い。
(……間違いって……何……)
自分で考えたことながら、その言葉の意味に落ち込む。
キルアが戻ってくるまで外出するのは止めよう。
そう決めると、ベッドの中へ潜り込んでいった。


コンコン、と行儀の良いノック音がゴンの覚醒を促していた。
目をあけると、周りはずいぶん暗い。
(一日寝ちゃったのか)
これは今晩眠れないかもしれない…と途方にくれる。
時計を見ると、既に夕方──だが、部屋にキルアが戻ってきた形跡は無かった。
いったい何をしているんだ、と憤慨しそうになったゴンを静止するようにもう一度、扉がノックされた。
「はあ~い…」
扉の向こうに聞こえるわけのない返事をするとベッドからのそのそと這い出し、外してあったギブスを腕にはめると玄関へと向かう。
ノックする、ということはキルアではないはずだ。
ゴンの部屋の扉にはカギがかわれることなど滅多に無い、と解っているキルアはいつも勝手に入ってきてしまうのだから。
パタパタと扉に駆け寄って、やはり無防備に扉を開けた。

戸口に立っていたのは、ソファを肩に担いだウイングだった。
「こんにちは、ゴンくん。ソファをここへ運ぶように頼まれたんですが…中へ入っても?」
にっこり笑う男に奇妙な違和感を感じる。だが、手にしているのは確かにソファで。
ゴンは扉をめいっぱい開くと、どうぞ、と招きいれた。
狭い通路を通るためにソファを抱えなおしたウイングが目の前を通り過ぎていったとき
(あれ…?)
嗅ぎ慣れた匂いが彼の体から漂い、ゴンの鼻腔へ届いていた。何か、はわからないが、ウイングの体臭として認識していた匂いとは異なる──とても、よく知っている匂いだ。
(なんだろ…)
記憶を呼び覚まそうと試みるが、寝起きのせいなのか頭が回らない。何か、大切なことのような気がするのに…。
部屋の奥へと進むウイングの後ろを歩きながら考えたが、一向にそれが何か、はわからない。
「………?」
なんだろう、なんだろうと一生懸命考え込んでいたゴンは、ふと何か声をかけられたような気がして顔を上げた。
振り向いて自分を見ていたウイングと目が合う。
「え…と……」
そのゴンの戸惑う表情を見て、自分の声が少年の耳には届いていなかったことを察したウイングは、怒りもせずにもう一度質問を繰り返した。
「どこへ置きますか。このソファ」
優しく問い掛けられて、ぼんやりしていた自分が恥ずかしくなったゴンは顔を赤くした。
ソファ、どこに置くか、なんて考えていなかった。大きさも聞いていなかったし(しかも思っていたよりも大きかった)まだ古いソファもそのままで、置く場所なんて──焦ったゴンはどう返事をしていいものかわからず
「あ、どこでも…」ととりあえず応えてしまう。
曖昧な返事にもやはり怒らず、ウイングはひょこひょこ部屋の中央へ足を進めていった。
ぐるり、と見回し肩の荷を下ろせる場所を探す。古いソファがまだ廃棄されずに、テーブルの前を占領していたが、広い室内には置く場所はいくらでもあった。
その壊れたソファの横に置くべきか、それともちょうど窓際にソファ一つ分置けるほどのスペースがあるがそこへ置くべきか──
(どこでも、って言われると困っちゃうんですよね)
──ウイングが迷っていると、後ろをついて歩いていたゴンがおずおずと声をかけてきた。
「あの…ウイングさん、キルアは?」
一緒に行ったはずのキルアはどうしたのか、と尋ねるゴンの顔には不安の色が移っていた。
ソファを抱えたまま、少年を見下ろした男の瞳には一瞬で冷たい炎の色が差した。
そう──君のその不安は確かに正しいものだろう。
いったい今日、彼が私と何をしていたのか、を知っても、君は私とそんな風に話すことができるのか。無知とはなんと幸福なことだろう──!
「キルア──くんは──」
言葉を飲む。
ウイングの頭には、別れ間際に『絶対に余計なことを言うな』とキルアにきつく言われたことがはっきりと思い起こされていた。部屋に一度戻ることをゴンに怪しまれないよう、『上手く誤魔化しておいてよ』と命じた様子までまざまざと目の裏に映る。
「部屋に寄ってからくる、と言ってましたよ」
「部屋に…? なんで──?」
生活用品のほとんどがゴンの部屋にあるのに、わざわざ部屋に寄る理由はなんだろう、とゴンは首をかしげていた。
だが何故、なんて問うまでもない。工場へ向かう道で自分と交わした淫行の痕跡を、洗い流してしまうため、だ。ウイングはけしてキスマークを許さないセックスの意味をうんざりしながら考える。
どれもこれも、この少年のため、だ。
彼だけを愛しているはずの少年が、いつも私と何をしているのかを、どんな裏切りを、裏切りとも思わず行っているのかを、ほんの数時間前に私の車の中でどんな風に乱れていたのかを暴露してしまいたい。
『誤魔化しておけ』という少年の命令など、従う必要などないではないか。了承も約束もした覚えは無かった。
そうだ──全て伝えて、何も知らず誰も彼もに対して全幅の信頼を置く少年を傷つけたい──ウイングの中に暗い欲望が生まれる。
だが、それを強く押さえつけてゴンから目を逸らした。
「ソファはここでいいかな」
ゴンの不安をあえてはぐらかし、古いソファの横へ立つと確認も取らずに荷をおろした。
とん、と軽い音がして、美しい曲線に豪奢な彫りの施されたソファがゴンの目の前に置かれた。値の張るものであることは一目でわかる代物だった。ゴンと同じく物の価値にはあまり関心を持たないウイングですら、その張られた錦を見た途端に絶句したほどだ。
だがゴンはその錦一つも目に入らぬようで、さらりと流された質問を追及しようと口を開いた。
「キルアは何か言って」
「これですか、壊したソファ」
もっと情報を得たいと発せられた少年の言葉は、途中で遮られてしまう。くるりと自分に背を向けて、まだ部屋に置きっぱなしになっていたソファをまじまじと眺める男は、ゴンの素朴な疑問に応える気が無いことだけを伝えていた。
ウイングの視線の先にあるそのソファは、どうせ壊れてしまったのだから、と二人でスプリングを引っ張られたり叩かれたりと完全に遊具と化してしまって──最初の壊れ様から更に悪化していた。カバーの上へと破壊されたスプリングが何本も飛び出ていて、とても人が座れる状態には無い。
「……酷いですね」
というウイングの感想は至極まっとうだ。
まるで責められているような気がして慌てたゴンは、しどろもどろに言い訳を始めた。ウイングにはぐらかされたとも気付かず、一生懸命に壊れた状況を話し始める。
「さっ…最初はそうでもなかったんだけど、二人でふざけ過ぎちゃって──叩いたりしてたら、とうとうそんな風になっちゃって、ほんとに」
そんなゴンの説明も、既にそれがどんな行為によって破壊されたかを知っている男の耳には入らない。このソファの上で、キルアが目の前で屈託なく笑う少年と睦まじく重なっていた──その時キルアの瞳に映っているのだろう愛しむような光が容易く想像できてしまい、彼の体に重く染み渡る。
数時間前に味わった、たおやかな肢体を思い出せば、口惜しささえ沸き起こってきた。
口惜しい──悔しい? こんな子供相手に、何を本気になっているのか私は──恋敵のように嫉妬するなんて馬鹿げている。
彼は何も知らないのだ。裏切られているのは、自分だけではない。
「あ、お茶くらい出さなきゃ」
誰も聞いてはいない話を一生懸命続けていたゴンが、気が付いたように冷蔵庫へと駆け寄っていく。その後姿を見て、無知でいることの幸福を羨んだ。
自分も知らなければ──こんな気持ちに苛まれることはなかったろうに。
そしてこの少年が事実を知りえた時、果たしてどんな顔をするのか。私と同じように傷つき悲しむのだろうか──
ウイングのために不自由な片手でコップに冷たいお茶を注ぎ、ねぎらってくれようとしているゴンを見て、しくり、と心が痛んだ。
だが、次の瞬間、その痛んだ心臓が跳ね上がる。
ウイングに背を向けたまま、ゴンはぼそり、と呟くように尋ねたのだ。

「ウイングさん──キルアは、最近ウイングさんのところへよく行ってるの…かな」




早鐘のように鳴り響く鼓動が、耳の近くで聞こえていた。

ゴンはお茶の入ったペットボトルを冷蔵庫に戻し、コップをトレイに乗せるまでけしてウイングを振り向こうとはしなかった。
背を向けたまま、その表情にはどんな感情が映されているのか。
ゴンは、キルアと自分との関係を知った上で、それを聞くのか。
凍りつく体とは裏腹に、脂汗が額に流れる。飲み込んだ唾がやたらに大きな音を立てて聞こえた。
「…どうしたんだい。いきなり」
ようやくのことで平静を繕い、そう尋ね返す。言葉の端に、焦りを悟られはしないかと緊張が走っていた。
だが、トレイを片手に振り向いた少年には、特別何かを疑っている、という気配はなかった。ただ純粋に、友人の動向が気になっただけだ、と話す。
「え、ううん…ただ、最近キルアが時々知らない間にどっか行っちゃうことがあるから──どこ行ってるのかなぁって思って」
彼の表情を見て、けして自分たちの裏切りに気付いているわけではないと判断したウイングは安堵し、勧められたコップを手にした。
「ありがとう」
ゴンは礼を言われて嬉しそうに微笑むと、トレイを戻しに再びウイングに背を向けた。
その後姿をじっと見つめながら、ウイングは頭のどこかが凍りついていくのを感じていた。

今──ここで、キルアが自分の宿へよく来ると告げたら、ゴンは何を思うのだろう?
先ほどから幾度となくウイングを悩ませている誘惑が、また首を擡げはじめていた。
キルアが隠している全てを、告げたい。話してしまいたい。 何もかも、壊したい──



「キルア君……」
乾いた唇から、彼の名が零れ落ちた。
「うん?」
くぐもった声に反応してゴンが振り向く。真っ直ぐな瞳がウイングの神経に障る。
一点の曇りも無い、澄んだソレが火に油を注いだようだった。後押しされるように、つい──告げろという囁きに負けた。
「たまに・・・・・・来ることもありますよ」
だが。口にしてみればこんなにも。

ウイングは怒涛のように襲いくる後悔の念に苛まれていた。じっと自分を凝視する大きな瞳にもたじろぐ。
「そう…なんだ……」
彼の声が、悲しみを帯びたように聞こえるのは気のせいだろうか。ぎゅっと唇を噛み締めているように見えるのは?
彼を傷つける必要などないと判っていたのに──浅はかな自分を恨めしく思う。
何のために、と尋ねられるのを恐れて話を逸らそうと思ったが、ゴンの方が一足早く口を開いた。
「キルアはいつもウイングさんのところで何してるの?」
笑顔が凍る。
真剣そのものの少年に、本当のことなど言えるわけが無い。自分の部屋へ足繁く通う彼と、淫行に興じているなど──
この世に神が居るなら、今までのことを全て懺悔しても良いからこの子の素朴な質問から逃れさせてくれと叫んでみるが、聞き入れられるわけがなかった。
大きく見開かれた瞳が答えを待っていた。
「──ちょっと時間つぶしていくだけだよ。本を読んだりね」
にこり、と頬を引き攣らせながら口にした言葉は、真実からは程遠い。
だがこれで納得してくれ、と心の中では必死に手を合わせていた。
「ほん……?」
ゴンは、ウイングの崖ッぷちな言い訳に、訝しげな顔をする。
そんなこと、あるんだろうか? キルアが本を読む、なんて。
雑誌だって読んでいるところを見たこと無いのに…でも、ウイングが自分に嘘を吐く理由もわからない。
遊びに行ってる場所はこれではっきりした──けど──疑問はますます増えていく。
ヒソカが言った、『あの男のところじゃないの』という言葉は真実だった。
だがヒソカが何故そんなことを知っていたのか、よりもこの間からのウイングの態度や、キルアの動向をどう判断したらいいのか、と戸惑う。
「……オレも本、読みたいな…行ってもいい?」
そう尋ねてしまったのは、この目で、本当にキルアが本を読んでいるところを確認したいと思ったからで。
だが、少年の控えめなお願いはウイングにきっぱりとことわられていしまった。
「いや、持ってきてあげましょう。どうせズシに付き添って塔へは来ますからね。怪我をしているのに、無理は禁物です」
否、これは部屋へこさせないための方便に過ぎない。まじめな顔でゴンを説き伏せてはいるが、決して内心穏やかではなかった。
いつでもどうぞ、などと言ってキルアが居る時に訪問されでもしたら、たまったものではない。
ゴンも、怪我が、と言われると、腕のギブスを医者の許可無く勝手に取り外したのを隠している負い目もあって、それ以上強く主張できなくなってしまう。仕方なく、彼の提案を受け入れた。同時に猜疑心が更に強く、大きくなっていく。
修行をしている、とでも言われればまだ納得できた。けれど読書、というのはあまりにキルアらしくなく。
面持ちを暗くした少年が何を思っているのか不安を感じたウイングは、ゴンの気を引くために口を開いた。
「君は公用語は読めるんですよね?」
「うん、一通り習った。キルアみたいに、色んな国の言葉は判らないけど…」
「じゃあ大丈夫ですね…でも、私の持っている本はあまり面白くないかも」
実際、今回持ち込んだ書籍のたぐいはほとんどが指導書で、普通の子供が見ても面白いものではない。何を貸せば良いのかと思案し、ぽろりと出た言葉だったが、その『面白くない本』を読みに、キルアが通って来ているという矛盾には気付かない。幸いゴンも、その矛盾に気付いてはいないようだったが。
「寝ちゃうかもしれない?」
面白くない、と聞いて昔くじら島でやっていた通信教育のテキストを思い出したゴンは、よく読んでいる途中で居眠りをしたな、と苦笑いを浮かべる。ウイングも、指導書など面白みの欠片も無い本を目の前にして、数分も立たぬうちに眠りについているだろうゴンの姿を思い浮かべて小さく吹き出す。
「そうですねぇ」
「じゃあちょうどいいや。オレ、運動不足で眠れなくって困ってるし」
なんのための読書なのだか、と二人で笑いあった。
そこへ前触れ無く扉が開く気配がし、続いてキルアが室内に姿をあらわした。
「なに笑ってんの」
ウイングとゴンが声を立てて笑っているのを、奇妙なものでもみるように眉を上げる。
「あ、お帰りキルア」
すっかり服も変え、綺麗に全ての証拠を洗い流したキルアは、ゴンの傍へ躊躇することなく寄っていき「どう、いいソファだろ?」と自慢げに言った。
もっともゴンにその価値がわかるわけもなく、「そうなの?」と間の抜けた返事を返されてキルアは酷くがっかりした表情を見せた。
「折角掘り出し物を見つけてきたのに、お前ってばホント物の価値を知らねーな」
ため息をついているキルアも、実際何がどう良いのか、ということはわかっていないのだが。
その仲睦まじい二人の様子を眺めていたウイングは、急に強い疎外感に苛まれる。今、少年たちの視界には自分の姿は全く入っていない。昼間、彼の瞳に移った自分の姿を見出して大きな幸福を感じたはずだったのに。
今はキルアにとって自分はただのオブジェに過ぎないのだという事実に虚しさを感じるのだった。



「おかえり、キルア」
そう言って、いいソファだろう、と得意げなキルアを迎えた。
笑顔は絶やさなかった。
でも、気付いてしまった。
ウイングの体に移っていた、あの、香り。

小さなカフェの店先で、珍しく──いや、最近は珍しくもないのか──ゴンが一人で座っていた。
(一日一緒にいたんだもん。香りくらい移ったっておかしくないんじゃないかなぁ…)
ぼんやりと、そんなことを考えながら外を眺めた。
目の前のホットミルクはどんどん熱を奪われて冷えていく。だが、ゴンはそれには手もつけず、彼にとってはただ無意味なだけの人通りへと目を向ける。
キルアはまだ部屋で寝ている。どうせ朝食は取らないと判っているから──一人で塔の外まで出てきたのだが、食は進まない。
そうしてかじりかけたトーストを持ったまま、あの日のことを思い出していた。

『来ることもありますよ』
ウイングはそう言って、静かに微笑んだ。
オレ、知らなかった。
今まで一度だってウイングさんのところに行ってる、なんてキルアは言わなかった。どうして黙ってどこかへ行ってしまうのだ、と喧嘩した時だって、行き先は明かさなかった。
明らかな故意がそこにあると感じる。
でもそれって、隠さなきゃいけないこと?
オレに内緒だったのは、どうして?
まさか、と思う気持ちが、信じたくない気持ちが考えることを拒む。
ゴールは見えているけど辿り着きたくない。真実に近づきたくない。
思う反面、判ってしまったあの時──感じた違和感の正体。昨日彼の体から漂ってきた香りの意味──
(だから、体臭なんて、さ)
自分の臭覚が人並み以上だからこんな些細なことを気にしてしまっているけれど、実際はごくごく取るに足らない普通のことなのだ。
ウイングの体から、キルアの、とても馴染みのある体臭を感じた、なんてことは──
「………」
ゴンは自分に言い聞かせている途中にもなんだかずんと落ち込んでしまい、咥えていたトーストを皿の上へ下ろした。
キルアは──キルアの体臭って、ホントに微か、だよね。
殺し屋だったからなのか、それともそういう体質なのか、大好きな人の体臭はないに等しく──特別に汗を掻く、といったことでもなければゴンだって気付かない程度なのだ。
その体臭が、移る──
(違、う…ッ)
たった一つの可能性を思い、ぎゅっと目を瞑った。
(違う、絶対に──)
ありえない、から。
キルアがそんなことする理由なんかないんだから。
オレ、なんかヘンなことばかり考えてる──

気分を変えようと、運ばれてきてから一口も口をつけられていないミルクの中へ砂糖を入れ、ぐるぐると掻きまわした。当然冷め切った液体には容易に解けるわけもなく、スプーンの先でザリザリと砂を掻くような音が聞こえてきた。
そういえば、あの時買ったブレスレット、まだ渡せてない。あの箱は、チャンスがあれば、と思って持ち歩いているのだが、ここ数日乱れ続けているゴンの気持ちはプレゼントを渡すどころではなかった。
小さな箱を包む紙が少しずつ汚れ始めている。
例えば──確かめたいのなら、例の如くキルアが姿を消した後、ウイングの宿へ行ってみればいい。
キルアは本を読みに来るのだ、といった。
本当に本を読んでいるだけならば、自分がソコへ現れたって何の問題もないはずだ。彼の言葉を信じるのなら。
(ウイングさんが嘘を吐くなんて、あるわけ──)
無い、と言い切れない自分の迷いが厭になる。
(だから、行って自分の目で見てみれば良いんだ。そんなに気になるのなら)
(信じないの? キルアのことを)
(居ないってことさえ判れば安心できるじゃないか。あるいは本当に読書してるなら。それがいけないことなのか?)
(でも、疑いたくない)
もう疑ってるくせに──
「うるさい…っ」
鼻で笑うもう一人の自分に苛立ち、つい乱暴な声があがる。
周りに居た客やウェイトレスが不思議そうな顔をしていたが、それも気にならなかった。テーブルの上に置かれた握り拳が震えていた。
(オレ、どうしたいんだろう)
自分のしたいことがわからない。
気持ちの行方が、収まるところが、どこにも、ない──

ぼんやりと──
アスファルトに覆われた地面を眺めて頬杖をつく。
通りを忙しなく行き交う人の靴だけが、視界の端に存在していた。
物思いに耽っているゴンは、いつも以上に警戒心が薄れていた。勿論、そのせいだけ、とは言わない。彼の存在が、既に少年にとって危険なものとは認識されなくなっていたからこそ。
ゆっくりとテーブルに近づき、少年の向かい側の席に座り込んだ男が、あまつさえ置き去りにされたカップに手を出し口をつけ──
「ぬるいね」
と声をかけられるまで、そこに居ることすら気付かなかったのは。
「……!」
弾かれたように顔を上げると、小さなテーブルに片肘をつき、笑うヒソカが居た。
「───な」
「冷ましてたの? の割には砂糖が溶けてないねぇ」
叫ぼうとした少年を制し、彼は訝しそうに眉を上げ、カップに刺さったままだったスプーンをぐるぐる回していた。
何故、こう──まるで計ったようなタイミングでやってくるのだろう。何もかもを見透かすような。
ゴンはなんの返事も返すことができず、ただ阿呆のように口をあけ、男の顔を見ていた。


「これじゃぜんぜん美味しくないだろ。何か他のもの、注文しなよ君」
ヒソカはぼんやりと自分を見つめるだけの少年の了承も待たず、通りかかったウェイトレスを勝手に呼び止めてメニューをもってくるように、と告げていた。
その横顔も。
声も。
仕草も。
何もかもが以前のヒソカと変わらず、心が乱れそうになる。
一言も発することができないまま、ヒソカがウェイトレスからメニューを受け取り、ミルクを下げてしまうように指示するのを見つめた。
オレは変わったんだろうか。
数ヶ月前、ヒソカを好きだったオレは、変わってしまっただろうか。
好きな人のことを疑って、そのくせ自分はヒソカを目の前にすればこんなにドキドキして。
ヒソカは、その出現から何も言おうとしない少年ににっこり微笑みかけると
「で、何にする? パフェ?」とオーダーを尋ねてきた。
「! …いらないヨッ」
またもやパフェはどうだ、と揶揄するヒソカに真っ赤になった。確かにパフェは今だって好きだけど──以前、ヒソカに奢ってもらったパフェはとても嬉しかったけど──会うたびにそれを言われるのはいただけない。
本気で怒って言い返すと、ゴンの怒りなど気にもせずにメニューに視線を落とした。
「ん──? そう? ま、お昼も近いことだし。ランチはどう?」
「今、朝食食べてたトコだよっ」
「いいじゃない。君なら食べられるだろ」
大食漢ぶりは自他共に認めるものだ。正直なゴンには否定することもできない。
仕方なく「かっ…帰るんだもんっ」と反論すれば
「でも、キルアは居ないんデショ」などと更に痛いところをつかれてしまった。
居ないのなら、一緒に昼食を取るくらいしてもいいのではないかと。
「───キルアはっ部屋で寝てるだけで…っ」
「ふぅん? 本当に?」
「~~~~~っ」
どうしてそんなこと知ってるの──!
叫びたい言葉を無理矢理飲み込んだ。
どうせ当てずっぽうに決まっているのだ。絶対に、今キルアがドコにいるか、知ってるわけじゃないのだ。
オレの気持ちをぐちゃぐちゃにするために言ってるだけで。
だが、優しく笑っているヒソカの表情は、いつものイジワルさの欠片も無い。
「またすっぽかされた? 置いてイカレタ? 全く酷い子だヨネ、君にこんな顔させて」
するり、と大きな手が頬に触れる。
「ねぇなんでこんな顔してるの? 辛ければ止めちゃえばいいだろう?」
ボクの時みたいに、と暗に指摘する。だが、ゴンは気付かず、ぶん、と首を振った。
「そんなこと──ないもん──っ」
強がる少年の様子に目を細める。
ぎゅっと目を瞑り、眉を寄せ、下を向いた頬が震えている。いまにも泣き出しそうな緊迫感が彼の表情をいっそう悲壮なものに見せていた。
頬をすっぽりと包んだ掌は、それがヒソカのものとは思えないほど優しい温もりを伝えてきて。つい、甘えてしまいたい──なんて誘惑がゴンの心を覆っていく。
大きな親指でゆっくりと丸いラインを撫でながら、ヒソカは同じ話題を繰り返した。
「こんなに不安がってる君を放って、いったいどこで遊んでるんだろうね? キルアは」
「知らない──どこだって良いよ、そんなの…っ」
その、今までとは微妙に変化したゴンの反応にヒソカが気付かぬわけは無かった。
頬に触れていた掌が、すっと引いていった。
止めて、と言っても離れていかないだろうと思っていたのに──どうしたのか、と顔を上げたゴンの目の前に、ぶらり、と小さな携帯電話がぶら下げられた。
「部屋に居るなら、電話してみたらイイよ。貸したげる」
長いヒソカの指がストラップをつまむようにして持っていた。戸惑うゴンは、受け取ることができなかった。
「でも」
電話をするのが怖い。
居ないことを知るのが怖い。
本当に居なくて──ウイングのところに居て──そうしたら自分はどうしたら良いのか──?
だが、そのゴンの気持ちを見透かしたヒソカは、彼の迷いを逆手に取る。
「でも、とか、だって、とか。多いね」
そんなに自信が無いの、と笑われてかっとなったゴンは大きな声をあげる。
「そんなことない!」
売り言葉に買い言葉──勢いのついた少年は、揺れていた電話を奪い取るように握りしめた。
だが、手にしたまではよかったが、なかなかコールすることができず、その手にも余るほどの小さな電話機をじっと見つめ続けていた。
躊躇う様子の少年に苦笑したヒソカが
「押すところ、判らない?」とからかい混じりに尋ねてみると、顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。
「それくらいわかるよっ!」
キルアが居るのは、彼の部屋ではなくゴンの部屋だ。ぐっすり眠っているのを起こさないよう気をつけて出てきたのだから、間違いは無い。
強い視線で携帯を睨み、ともすれば震えてしまいそうな指先で、ボタンを押す。
音階に設定された操作音が、奇妙な曲になって聞こえた。続いてコール音が。
「……いた?」
電話を耳に押し当てているゴンに、誰か電話に出たか、と尋ねる。
「まだ…寝てるのかもしれないしっ」
出たと言えないゴンは、電話を握ったまま本当に泣きそうな顔で唇を噛んだ。
それからまたしばらく、漏れ聞こえるコール音だけが二人の間に流れていく。
1分ほどもそうしていたゴンは、ゆっくりと手を下ろし、借り物をテーブルの上に置いた。
静かにヒソカの方へ押しやると、か細い声でありがとう、と呟いた。


その礼の言葉を聞いた後、ヒソカはゴンから戻ってきた携帯を服の内ポケットにしまいながらどこへかけたのか、と尋ねた。
「……オレの部屋。」
つい先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか──すっかり大人しくなったゴンは素直にどこへかけたのかを白状していた。
「部屋だけ?」
こくり、と頷く。
その問いかけられた声が、意外そうな雰囲気を伝えていた。それだけでよかったの、と──他にかけるとしたらキルアの部屋くらいだな、と思う。だが、ヒソカからもう一度携帯を借りる気にはなれなかった。
それほど消沈したゴンは、それでも目の前の男がじっと見つめているのに気付く──その視線が居心地悪くて眉を顰めた。
「なに…」
言いたいことがあるのなら、早く言って欲しいと顔を上げると、ヒソカは
「あそこにはかけなくてよかったのかい」と尋ねてきた。
「キルアの部屋なら」
もういいんだ、と言いかけたのは、きっぱりと遮られる。
「違うだろ。そこじゃなくて、さ」
他にあるだろう、と示唆され、ゴンの脳裏に一人の男の顔が思い浮かぶ。
それは昨日からずっと疑いを持ちつづけている、男の、顔。
けれどそれを真っ直ぐ認めることはできなくて。
「……どこ…?」
首を傾げた。それに対してヒソカは敢えて名前を言わずに仄めかす。
「あいつのとこ」
「あいつ……って……」
連想できていないわけがないのに、判らない振りをする少年が可愛らしかった。
もっとも、それでやり過ごすつもりなら、もっとはっきりイメージせずにいられないようにするまでだ。
「だから、さ。メガネの」
いただろ? 君たちが200階に上がってきたとき、せっかくボクが待っていたのに水を刺してくれた愚か者が、一人。
「……違うよ!」
今にも泣きそうな表情で少年は大声でそれを否定した。
メガネの誰、とは言っていないのに、何が"違う"のやら──つい苛めたくなって意地の悪い笑みが浮かぶ。
だが、そのどうしようもなく高揚する気持ちは敢えて抑えて、話を続けた。
「何故? どうして違うってわかるんだい?」
何のアクションも起こしていないのに。
冷静に反撃すると、ゴンは一瞬言葉に詰まる。理由をはっきり述べられず、ようやく搾り出した応えは。
「違う、から──っ」
「………」
──それは苦し紛れ、って言わないかな。(いや、琉涅が苦し紛れなんだよ、この展開…)
吹き出しそうになってしまうのを必死で抑えた。あくまで平常を装い、少年の気持ちを更に煽ることにする。
「ふぅん? ボクは違わないと思うんだけどな?」
「キルアは……絶対にそんなとこに居ない、よっ」
僅かに震える声が、言い切る言葉に影を落とす。
既にゴン自身が、キルアのことを疑っているのは明白だった。あとは背中を押してさえやれば、歯車が回り始めるとヒソカは感じていた。
だから、もう一押し。
「居るヨ。ボクの言葉を信じないなら、確かめに行けばイイ」
躊躇するゴンの足が、先へと進むように。
「そんなの……」
案の定、キルアを疑うような真似はできないと言うゴンが、飛びつかずにいられないようなそんな餌を彼の前に差し出そう。
ほんの数メートル、転がしてやれば後は延々と続く下り坂、だ。どこへ辿り着いても、愉しめる。
さあ、一歩を──

「……じゃあ、行って、そこにキルアが居なければ──そうだな、ボクはもう君に付きまとわないってのはどう?」

──踏み出して。

意外な提案に驚いたゴンはしばらく男の顔を穴があくほどに見つめ、硬直していた。
付きまとわない──って言った?
つまり、こんな風に突然声をかけたりとか、どこかに連れて行ったりとか、しないってこと?
キルアがそこに──ウイングのところに居ない、ってことを見てくるだけで──?
「───本当に──?」
騙すつもりじゃないのか、という疑いの目でヒソカを見る。
足をゆっくりと組みなおし、正面からゴンを見据えた男は、至って真面目な面持ちで首を振った。
「うん、本当。ボクは嘘つきだけど、コレだけは守ろう。約束するよ」
何故ヒソカがこんな条件を出すのか──その疑問はほんの一瞬だけゴンの心に浮かんだが、ヒソカの長い小指が目の前に差し出されたことで掻き消えてしまう。
「本当、だね」
居ないに決まっている。
そう、信じてる。
だからこの賭けは絶対に勝てる。
不安定な確信を胸に抱いて、ゴンはヒソカに確認を取った。
「勿論」
誓うよ、と頷いたのを見て、ゴンは静かに席を立った。
ヒソカに背を向け、テーブルを離れていく。
キルアはウイングのところなんかに居ないし、それを確認するだけで二度とヒソカに心を惑わされずに済むならば、なんと都合のよいことか。
ただ、居ないことだけを確認するだけでいい。
歩いていくゴンの後ろ姿を見送りながら、ヒソカの口角がゆっくりとあがる。
目を細め、くつくつと喉で笑った。
(かわいいねぇ…)
相手を信じたいという気持ちを支えに、必死に歩いていく少年のなんと健気なことか。
だが、それら全てが崩れ去るのは必至だ。
後は彼からの反応を待てばよい。仕掛けられた罠に傷ついた彼を掬いあげればよいのだ。
それはヒソカにとっては、容易いゲームにしか過ぎなかった。


ウイングの宿までの道程はそう長くは無いはずなのに、今日は果てしない。歩いても歩いても、辿り着けないのではないか、と不安が過ぎる。
重い足をずるずると引き摺るようにして歩くゴンは、何度も溜め息をついていた。
居ない、居ない、居ない。
一歩を踏み出すたびに、心の中で唱えた。
キルアは、居ない。
ウイングのところに居るわけが、無い。
けれど耳元で、もう一人の自分が囁いていた。
もし居たら、どうするの?
ヒソカのところへいく?
応えを見出せないまま歩きつづければ、もうすぐ目の前に見慣れたあの宿が見えていた。
古ぼけた木の扉を開けて、階段を上って、ウイングの部屋のドアを叩く。
無意識に、手をポケットの中に突っ込み、例の小箱を指先で辿っていた。
ウイングさんが出てきたら、キルア居ますか、ってだけ聞けば良いんだ。
それだけ、だ。
ゴンは細く息を吐くと、そこへ向かうために足を進めた。


安っぽい宿の階段を上がり、廊下を少し進む。一歩進むたびに心臓が跳ね上がって仕方がない。
木製の扉の前に立つ。何度か来た事のある、ウイングの部屋の前に。
中から、人の気配はしていた。だから、誰か、が居るのは確かだ。それも二人分。
こんな時ばかり、他人の気配に敏感になる自分を恨んだ。
(ウイングさんと、ズシ──だよ、絶対に)
どちらもキルアの気配とは違う。そう自分に言い聞かせ、緊張しながらノックしようと手を上げる。
だが、扉を叩く寸前に、ゴンの腕が止まっていた。

『───……』

聞こえてきたのは、聞き覚えのある、声。
凍りついたゴンの体は、硬直したまま動けなくなっていた。だが、聞いたことのない色に染まったその声が、たった一声だけ、聞こえたそれが頭の中で鳴り響く。
よく知っている人の、知らない、声。
いや──違う。自分はこの声を知っている。
こんな風に掠れた、甘えた切ない声を聞いたのは一度だけ──ふざけてキルアを抱かされた時に聞いた。
あの時の声──普段リードする強気な口調とは少し違って、耳を擽る心地よさに驚き、そして昂ぶった。自分もこんな声を出しているのだろうか。キルアも、オレの声に煽られたりするんだろうか。抱いた疑問よりも巻き込まれた波のほうが大きくて、尋ねることもできずに呑みこまれてしまった。

アノ声、本当はもう一度聞いてみたいと思ってた。
同じ声、だ。
膝が震える。

部屋の中からは、あれから一言も、何も聞こえてこなかった。
物音さえも。人の気配、すら。
ゴンは随分長い間、阿呆のようにそこに立っていた。帰ることもできなかった。
これは裏切りなのだろうか。この部屋の中にキルアがいて、何か、をしてる。
間違いだ、と思う気持ちもある。だって自分の目で確かめてない。
声、しか聞いてない。それもたった一声だけ。
キルアだ、と思ったこと自体が間違いだったのかもしれない。仮にキルアだったとしても、偶然、妙な声が出てしまっただけなのかもしれない。ふざけてわざと出したのかもしれない。
仮定の話ばかりで、何も判断できなかった。
心のどこかでそれは無駄な足掻きだ、と囁く自分も居たけれど、やっぱりこの目で見たことしか、信じたくない。
そう結論を出すと、ゴンは再び拳を握り締めた。



こん、こん、と2度叩いた後、大きな声で呼びかけた。
「こんにちはぁっ」
一瞬──嫌な感じがした。
震える声で"こんにちは"と言った瞬間に、扉一枚隔てた部屋の中から、ピリリと肌を刺すような感じが伝わってきた。──だが返事は無い。
喉を鳴らして唾を飲み込んだゴンは、もう一度扉を叩いた。
2度目のノックから、しばらくしてドアノブが回った。
きぃ、と古い蝶番が軋む音がして、扉が開く。引いた戸の向こう側には、ウイングが立っていた。
「やぁ、こんにちは」
そのだらしのないシャツの着方は、普段と変わらないと言えば変わらない──けれど穿った見方をするのなら、まるで慌てて服を引っ掛けて出てきたように見えなくも、無い。
何故、と疑う気持ちがむくむくと大きく膨らむ。
「こんにちは、ウイングさん──キルア、来てないですか?」
否定の言葉を期待しながら、おずおずと尋ねた。だが応えが返ってこない。
「ウイングさん…?」
見上げると、ウイングはぼんやりと空を見たままぴくりとも動かなかった。
気の急いたゴンは男の体からひょい、と顔を覗かせて、部屋の中を確かめようとしたが、視界の届く範囲に誰か居るようには見えなかった。キルアは勿論──ズシも。
(え──誰も居ないんじゃん…)
じゃあ、さっき感じた気配は──?
ひょっとして、オレ、何か間違えたのかも。誰か居るって感じたのは思い違いで──。
途端に重かった胸が軽くなる。
なんだ、やっぱりいないんだ。心配して損しちゃった……考えてみれば、あのキルアがこんなところまで朝早くに来るわけなかった。
だが、安堵したゴンがあからさまにホッとしたという表情を浮かべた時、頭の上からウイングの声が降りてきた。
「──キルア君、いますよ」
緩んだ顔が、一瞬で凍りついた。音を立てて血の気が引いていく。
居る──ってキルアが──でも、小さな宿屋なのに、入ってすぐの部屋と、二人の寝室しかない、本当に小さな部屋なのに。
いったいどこにキルアが隠れてるというのか──ウイングは、蒼ざめたゴンの顔を一瞥すらせず、一歩下がって扉をより大きく開いた。
「はいりますか?」
どうぞ、と招き入れられる。本当は、その場から走って逃げ出したかった

ああでも。
この目でキルアの姿を確認するまでは。

ゴンは、ただその思いにだけ支えられて、促されるままに部屋の中へ入っていった。


だが、闘技場の居住区にある彼らの部屋よりもずっと狭い一室の中に、居ると言われた少年の姿が無い。
いや、それどころか──他のどの部屋にも彼の気配すら、無い。
「……ウイングさん? あの…キルアは?」
混乱したゴンは、後ろに立つ男に、捜し人の所在を尋ねた。
振り仰いだ彼の顔は、やはり困惑した色に満ちていた。
「──あ──いや、もう居ないようですね…すみません。私が気付かないうちに出て行ったみたいですよ」
気付かないうちに──矛盾した言葉に戸惑う。それはいったいどう理解すればよいのだろう。
キルアは居たけれど、ウイングさんは彼に構わず休んでいたってこと──? それともキルアが居たって言うのが嘘だったとか──それとも。
「じゃあ、追いかければ間に合うかな」
呆然としているように見えるウイングに、笑顔を浮かべて問い掛けてみれば、彼も強張る口元を無理矢理に引き上げて笑った。
「あぁ…そうだね」
静かに応えた男の心中はけして穏やかではなかった。心ここにあらず、といった返事をゴンがどう取るか、ということよりもキルアの徹底した態度に絶望する。
彼はこの少年を謀るためにこんなにも必死で気配を消す努力をするというのに、自分のためにはその何百分の一の気遣いもなされないのだ。それほど──と肩を落とす。
落胆したウイングの様子は彼らの関係を疑うに十分だったが、ゴンにそれを慮るだけの余裕はなかった。
キルアが出て行ったというのなら、追いかけて、何故ここにいたのか理由を聞きたい、と気が急く。
「──ありがとう、ウイングさん。オレ追いかけてみるよ」
頭もろくに下げずに、くるりと入り口に向かって反転したゴンを、だが引き止める声がした。
「ゴン君」
「?」
ぐ、っと肩を捕まれた。
あまりに力強い腕の力に驚いて、振り仰いだウイングの表情が、冷たく冷え切っていた。
怖い──
冷たい視線に射貫かれて、ゴンは体を強張らせた。
こんな怖い顔をしたウイングは、はじめて見る。
約束を破って試合をした後に、横っ面を張り飛ばされた時だってこうじゃなかった。確かに怒っていたけど、あれは心配してくれて、のことだってちゃんと判った。
今は──怒り、と言うべきなのか、それとももっと違う感情なのか。だが憤る何かが、捕まれた肩を通してひしひしと伝わってくる。
「………」
何かを言わなければ、とは思うが、言葉が出てこない。
それはウイングも同じ事のようで、ただ拳が小刻みに震える様子だけが目に入る。
そこからは一線を超えてしまえば、後は溢れるばかりの感情が滲み出していて────

だが、その感情の根源、そのものが、重たい静寂を打ち破った。
「ゴン!」
名を呼ばれ、ふ、と二人の間に張り詰めていた緊張の糸が途切れた。
振り向くと、戸口には今やってきたところだとでも言うようにキルアが顔を覗かせていた。ウイングの手も、何時の間にか離れる。
「──キルア──どしたの、今ウイングさんが帰ったって…」
何事もなかったかのように部屋に入り、近づいてくる少年に戸惑いながら尋ねると、逆に質問が帰ってくる。
「お前こそ。なにしにここにきてんだよ」
「うんちょっと──キルア探してたんだ」
部屋に戻ったら居なかったから、と笑いかけたが、頬が引き攣りそうになる。キルアもゴンをほとんど見ようとはせずに、現れた理由を説明した。
「オレさっきここ出たトコでサ、忘れ物思い出して戻ってきたんだ」
「そう…なの?」
本当に? ね、それでここでは何をしていたの?
きょろきょろと部屋の中を見回しているキルアの背中に問い掛ける。けれど言葉にはできなかった。
ぎゅっと唇を噛むと
「……よかった。すれ違わなくて」とだけ言う。
ゴンに腕を絡ませていたキルアは、その言葉を聞いて少し驚いたような視線を向けた。何かを探るような目つきだったが、「ホントだな」とだけ呟くとそのまま扉に向かって歩き始めた。
「さ、帰ろうぜ」
「え、忘れ物は?」
「なかった」
あっさりとここへ現れた理由を放棄して、それで疑われるとは考えていないところが浅はかだ。思いながら、自分のもとから去っていこうとする少年二人をウイングは無気力に見送っていた。
その視線が疲れきっているようだ、とゴンは思う。
休んでいたところを邪魔してしまって、とウイングに謝ってはみたが、本当はキルアがここへ姿を現したとき、疑いは確信へと変わってしまっていた。彼の疲労の原因も、自分がここまで来た訳も──勘違いであって欲しいと願ったあの、声も。
早く来い、とキルアに急かされて、ゴンは彼のところへ駆け寄った。だが、自分に向かって伸ばされた指先が剥き出しの肩に触れ、一瞬ビクリ、と反応してしまう。
「?」
キルアは反応に不思議そうに首を傾げて、もう一度腰へと腕を伸ばすと自分のほうへ有無を言わさず引き寄せた。
「やっ……だめだよぉ…」
「なにが」
「ウイングさん、見てるよ」
顔を真っ赤にしたゴンの主張を聞き、先ほどの拒絶はそういうことか、と納得していた。
「良いよ、別に」
そんなの、もうとっくに知れてることだし。
キルアは勝手にそう思うと、嫌がるゴンの頬に唇をあてた。チュ、と小さな音を立ててそれが離れていく。
「…もぉ・・・っキルア…っ」
ゴンは、更に密着しようとする少年の体を押しのけながら歩いた。




触れ、ないで。

心の中で、叫ぶ。

あの人と、触れ合った手で、触れないで。

けれど、その言葉は笑顔の奥深くに隠されたまま。



闘技場までの道程を、少し離れて歩く。
ほんの2歩分だけ。
聞きたいことがあった。でも、口には出せなかった。
だから少しだけ離れて歩く。キルアにはその意味なんてきっと判らない。
せめて気付いてくれたら、よかったのに。

「なあ、菓子屋ヨらねえ?」
けれど期待した言葉は聞くことができず、キルアは大通りまで出てきたところでそう提案した。
キルアの指の先へ視線を向けた後、ゴンはちょっと嫌そうな顔をする。見れば道の向こう側には小さなコンビニが如何にも寄ってくださいといわんばかりに、彼らを手招きしていた。
「えー…」
「部屋にさ、おやつ、もうないじゃん。な、いいだろ?」
確かに買い置きの菓子は夕べキルアが食べ尽くしてしまっていた。だが今、ゴンは甘いものを食べたいとか、買い物をしたいとかいう気分になれそうなかった。
ともすると、病気なのではないか、と疑ってしまうほど、キルアは甘いものを欲しがる。朝、食事はまともに取らないのに「ケーキ」と聞いた時の反応の変わり方には、目を見張るものがある。以前はなんとかというスナック菓子を手押し車に山にして(文字通り山だった、とゴンは思い出して溜め息をつく)買いこんでみたりもした。
そういう彼にとっては、部屋に菓子が一つも無いことは、耐え難いことなのだろう。
「一人で行っておいでよ。オレ要らないし…ここで待ってる」
「ふぅーん? そう?」
もうどんな菓子を買おうか、ということにしか興味のないキルアは、ゴンの溜め息に気付きもせずに、じゃあ行ってくる、と遠慮なしに店へ向かっていた。
ちょっと歩いたところで振り向いて
「お前の分も買っておいてやるな」等と笑った。
だからいらないって…お前の分、とか言いながら自分の好きなものばっかり買ってくるくせに。
キルアのウキウキした後ろ姿が店の中に入っていくのを見送りつつ、また溜め息を吐いた。ウインドウ越しにきょろきょろと菓子棚を探す様子が見える。そうして何かお目当てを見つけたのか、棚の間にキルアが姿を消した。
いつもなら、無声映画でも見ている感じで愉しめるそんなキルアの姿すら、見るのが辛い。
ゴンは彼に背を向けるようにガードレールに腰をかけ、ポケットの中から小箱を取り出した。
しばらく膝に乗せ、じっと見つめていたが、綺麗に結ばれたそのリボンに手をかける。
しゅる、と微かな音を立てて、青いオーガンジーが解けていった。
リボンも、綺麗な包み紙も、すべてアスファルトの上に落としてしまって、箱の蓋をあけようと手をかけた──その時。

「ゴンさん!」
元気な声で、名前を呼ばれた。
「ズシ・・!」
顔をあげ、呼ばれたほうを見たゴンは少しだけ表情を明るくした。
いつもの道着を身に付けた少年が小走りで駆け寄ってくる。彼の顔を見るのは何週間ぶりだろう? だが、変わらぬズシの笑顔に、ほっとさせられた。
「お久しぶりッス。怪我の調子はいかがすか?」
怪我のことは誰に聞かれてもくすぐったく感じ、ゴンは言葉に詰まる。
そりゃあギブスもしているし、見た目は普通の怪我人なのだが、実は部屋に帰ればこんなギブスなんてポイ、とはずしてしまうような状態で。
「う、うん。まあまあ…かな」
返事のしようがなくて、お茶を濁して話をはぐらかした。
勿論ズシは、それで誤魔化されたと気分を害することもなく、にっこり笑ってゴンの手元の箱を指差した。
「それ、プレゼントッすか?」
「うん」
「どなたから…?」
「ううん、あげようと思って…でももう用なくなっちゃったみたいなんだ」
だから開けちゃったんだ、と言い訳じみた説明を口にしてしまった。
だって今更。何かプレゼントしたい、っていう気持ちは変わらないけど、そうする意味が見出せない。
「キルアさんに・・っすか?」
「そのつもりだったんだけどね」
見事に図星をさされ苦笑いを浮かべたゴンは、躊躇していた手を動かして、蓋を開けてしまった。中から出てきた、華奢な腕輪を見て、ズシも感嘆の声を上げた。
「綺麗ッスね!」
「でしょ」
「きっとキルアさんに似合いますよ」
差し上げたらいいのに、とズシは柔らかく促す。
「……でも、もうホントに用なくなっちゃったし」
「───」
「どうしよっかな。コレ。困っちゃった」
指にひっかけて持ち上げると、重なった銀がしゃらら、と音を立てた。
似合うと思ってたのにな。もう、これを受け取って喜ぶ顔も、あの白い肌に映える様子も思い浮かべられない。
仕方なしに持ち上げた腕輪をズシの方へ差し出して
「……ズシ、いる?」なんて振ってみたが
「いただけません」という即答だけが帰ってきた。
そうだよね、そういうとこ、きっぱりしてるよねズシは。
それに使いまわしなんか失礼だった。
「じゃあ──捨てちゃお──かな?」
冗談っぽく笑ってみせると、何故か真剣な表情で見つめられた。
「なにかあったスカ?」
「……何もないよ。普通。」
大きな目で見つめられるのって、意外と居心地の悪いものだ。
俯いたゴンはズシの視線を浴びながらそう思った。
(キルアも、居心地悪かったのかな)
自分とズシとの類似点、といって目の大きさをあげていたことを思い出し、悪い方へと考えが及ぶ。
が、ふ、とその視線が外れたと感じて顔を上げると、足元に落としてあったリボンや包み紙を少年が拾っていた。
「ズシ…?」
何をしてるのか、と尋ねる前に、ズシは拾い上げたそれらを両手で大切そうに差し出した。
「もしかしたら、また差し上げる機会があるかもしれないっス。捨てたりせずに、持ってた方がいいっすよ」
「……機会、なんてあるのかな」
「ありますよ」
ゴンの不安な口調に対して、ズシは力強く言い切った。
それを聞いていると、少しだけ元気を貰ったような気になって、ゴンは小さく笑った。
「……そうだね」
いつか、渡すことになるかもしれない。一生渡さないかもしれないけど──まあ、捨ててしまうよりはいいよね。渡せなかった記念、にくらいはなるし。
ズシの手の中から、リボンと包み紙を受け取ると、もう一度箱を包んでリボンを結んだ。
はじめよりもずっと不恰好な結び方に、ゴンとズシは目を合わせて笑った。


はじめに見つけたときから、いつものゴンとは違ってどこか危なっかしく見えていた。
ズシは、雑談に気を紛らせて、いつもの笑顔を取り戻しているゴンに密かに安堵を覚え、少しだけ気を緩めた。
まるで何かを思いつめているような──手にした箱を睨みつけている様子なんか、もうその中には親の敵が入っているのではと思わせるほど──厳しい表情だった。
それで慌てて声をかけてしまったのだが、何があったのか、と聞く勇気はなかった。
だって、彼の悩みには自分の師匠が関わっていることはあまりに明白で、どうなんだ、なんて怖くて口にできない。
ズシは、キルアがウイングのところを頻繁に訪れていることに気付いていた。何のためにきているのかは全く判らないが、少なくとも修行が目的ではないのも、それがゴンに対しては秘密にされているのだ、ということも薄々判っていた。
隠し事をされるのは辛い。
ウイングからキルアの訪問を隠されている自分も、キルアからウイングのところへ行っていることを隠されている彼も、同じように辛いに違いない。
いや、友達以上に仲の良い関係の二人なのだ。
きっとゴンは、自分以上に辛いはず。
そう思うと、ズシは心が痛む。せめて、自分の知っていることを告げるべきなのか否か。
誰か、答えを知っているのなら教えて欲しいと心から思っていた。

「そういえば──」
キルアさんは、と思い出したようにズシが聞いた。
我々の共通の悩みの種は、こんな顔をしているゴンを放ってまた宿へ遊びにいっているのでは、と不安が過ぎる。
だが、幸い──というべきか、ゴンは肩をすくめて彼の所在を明らかにしてくれる。
「あの店で、お菓子買ってるよ。どうせ抱えきれないくらい買ってるんでしょ」
ゴンが体を捻じ曲げて指差した先をじっと見つめたズシは、ああ、本当だ、と呟く。
その声色が、微妙な変化を遂げていたことは、ゴンも気付かぬことだった。
キルアはあらかた欲しいものはゲットしたのか、籠を手にしてレジに並んでいる姿が見える。もうすぐ戻って来るんだな、と思ったゴンは、不恰好になったプレゼントの箱をまたポケットの中へ押し込んでガードレールから降りた。
それを切っ掛けにするように、ズシが
「じゃあもう失礼します」と頭を下げた。
「キルア、すぐに来るよ?」
一緒に遊ぼうと誘うつもりで言ったのだが、すっと手を上げた少年はやらなければならないことがあるのだ、と言った。
「いえ…もう戻って、食事の支度をしなきゃならないっす」
「自分で作ってるの!? すごいね…」
ズシだってファイトマネーは貰っているだろうに、と尋ねると、それも修行のうちだ、と誇らしげに言う友人が、眩しく見える。自分たちもミニキッチンなら部屋にあるのだから、たまには自炊くらいしなくちゃいけないかな、と反省した。
でもそれなら引き止めては悪いね、と笑うとゴンは素直に手を振った。
「お料理頑張って」
「ゴンさんも、腕、早く治して一緒に修行しましょう!」
一際元気良く言って、ズシは失礼します、ともう一度会釈するとゴンに背中を向けた。
良くなったって、謹慎期間があるからすぐには修行はできないんだけど、と思いながら、ゴンは買い物袋をぶら下げて、少年を見送った。

人ごみの向こうに少年の姿が消える寸前に、キルアが戻ってきていた。
「お待たせ」
「キルア………また…そんなに買って……」
案の定、両手に抱えた大きな袋の口元から、零れそうなほどのお菓子のパッケージが一片を覗かせていた。
「新発売のがあったんだよ。すっげー楽しみ。早く部屋に帰ろうぜ?」
新発売、ということは、その店にあった分だけ全て買い込んできたのだろう。こと、おまけつき、なら尚更だ。
ゴンにはどうにも価値が見出せない小さな玩具を全種類揃えるまで、買いつづけるに違いない。
「だからって買い過ぎだよ。前見えないんじゃないの」
「大丈夫大丈夫」
「転んでもしらないよ?」
「ゴンじゃないから。ぜんぜんだいじょーぶ」
キルアは横を歩くゴンが、可愛らしく頬を膨らませるのを見て、にっこりと笑った。
その笑顔は以前と何も変わらない。
やはり変わってしまったのは自分なのだろうか──キルアも、ヒソカも、ウイングもズシも、同じように、日々を過ごしている。
彼らに対する見方に変化が生じたから、こんな風に思ってしまうのかもしれない。
キルアに、裏切られた──って。
真偽も理由もどうでもよかった。キルアが嘘を吐いている、それだけで十分だった。
「夕食、食べれなくなっても知らないよ」
「これくらいで?」
全部食べきったって、夕食は別腹だから、と自慢するキルアは呑気なもので、ゴンを騙しきれていると信じていた。
遠くで鳴り響く崩壊の音も警鐘も、幼い子供の耳には届くことは無かった。



それで、あれからどうかなったか、というと自分たちの間には何も変化はなかった。
少なくとも表面上は、とゴンは思う。大勢に変化は無いとでも言えば良いのだろうか。
今までどおり一緒に居たし、変わらず触れ合ったりもした。
体を重ねる日も、あった。
本当は───嫌だと思わなかったわけじゃない。だが拒んでもキルアに強引にその気にさせられたし、それ以上に応じなければキルアはどうするのだろう、と恐れてしまっていたことが流される大きな原因だった。
いったい自分はどうしてしまったのか。
こんなのはらしくない、と判っているのだが。
あれからキルアが黙って姿を消すことはない。つまり、隠れてウイングのところへは行ってない、ということで──けれど、ブレスレットがキルアに渡されることもなく、あの日、ゴンがきていた服のポケットの中に、いつまでも眠りつづける。
日一日、時が過ぎていく。
ゴンの部屋の壁に貼り付けられたチケットの日付けは、もう目前まで迫っていた。



「ダメです」

試合当日──意気揚揚と観戦に出かけようとしていた二人の背後から、突如現れた男に制止された。驚いて振り向くと、それは数日振りに見るウイングだった。
光るメガネに隠れてはっきりとは判らないが、厳しい表情を浮かべていることには違いが無い。
「観戦も念を調べる行為に値します。ダメ、ですからね」
もう一度ダメ、と念を押されてゴンはがっくりと肩を落とす。
ヒソカVSカストロ戦──折角キルアからチケットを貰って、もう何日も前から楽しみにしていたのに。
少なくとも試合会場へ入ってしまえていれば、ウイングにも見つからなかったかもと嘆息する。
だが、この事態を招いたのも自分自身にかわりがなく、ゴンはやりきれない思いで肯いた。
「はい…」
消沈している少年の頭を撫でて、ウイングは困ったように笑った。
「そんなにガッカリしないで…そうだ先日お約束した本を持ってきているんですよ。それで我慢してくれませんか」
そんなものを借りる約束をしていたのか、とキルアが驚いた顔をする。無論、ウイングに向けた視線で余計なことを言うなよ、と念を押しているのは言うまでもない。
「うん。仕方ないもんね」
あーあ、と少し大袈裟な溜め息をついてみせたゴンは、キルアの方を向いて諦めるよ、と肩をすくめた。
「オレは見に行ってもいいんだよな」
ウイングは念のために尋ねたキルアに、かまわない、と観戦を許可する。それから時計を見ながらゴンに予定を告げた。
「私も今からズシの試合ですから、その後でゴン君のお部屋まで伺いますよ」
「え──オレの部屋──?」
どきん、と心臓が跳ねた。
突如ウイングが、自分の──いや、正しくは自分たちの部屋へ入り込むことに妙な嫌悪感が沸き起こってくる。
いや、だ。
入れたくない。
ウイングだけは来て欲しくない。
心の端から滲み出てきた正体不明の感情が、ゴンの表情を強張らせていた。
「どうしました?」
帰ってこない返事を不思議に思って、ウイングがゴンを覗き込むと、少年は弾かれたように目を見開いて慌てて言葉を返した。
「う──ううん。なんでもない」
「そうですか? でも具合が悪いのなら、医務室へ」
ほら、顔色も悪い。手も震えているようだ。
熱でもあるのでは、とウイングが手を延ばした。だが、それから逃れるように、ゴンは数歩後ずさりしていた。
男は空振りした手のひらを見て、少し驚いた顔をした。あまり考えたくない可能性が頭の片隅に浮かぶ。もしかしたら、と不安になった。
二人の少年の間には、なにも変わりなさそうに見えたけれど──
「ほんとになんでもないよ。オレ、部屋で待ってればいいんだよね」
本を届けてくれるんでしょう?
そう見上げる少年の瞳は、普段と変わらず屈託がない。何かを疑っているようにも見えない。
気のせいだったに違いない。こんな無垢な少年が、自分のしている後ろめたい行為を知るわけが無いし、自分の持つどろどろとした感情なんて理解できるわけがない。
自分自身に言い聞かせることで安堵を得たウイングは、硬直していた表情を緩めてゴンに応えた。
「ええ、ズシの試合が終わったらすぐに伺いますよ。午後──少し遅くなってしまっても?」
「うん、平気。それよりもう随分時間経ってるよ? ズシが待ってるんじゃない? 行かなくていいの?」
ゴンに言われて時計を見てみると、ズシの試合時間が迫っていた。
「そうですね…もう行かなくては。ゴン君、くれぐれも試合の観戦はダメですよ」
「うん」
大人しく肯いたゴンに満足すると、ウイングは二人に背中をむけた。

フロアを移動しながら、ウイングは細く息を吐いた。
ゴンの態度に、一瞬何もかもが知られてしまっているのでは、と肝を冷やした。
全身で拒絶されているような、そんな空気を纏っているような気がした。
よくよく考えてみれば、拒絶した相手を軽軽しく部屋へ入れるわけがない。きっと過敏になりすぎているんだろう……知っているのなら、もっと違う反応が返ってきて然り、なのだから。
しかし──ヒソカの試合がある、と聞いて、まさか、とは思っていた。
チケットは即日完売だと聞いていたし、そもそもの値段も法外だ。いくら目標としていても、そう気軽に観戦というレベルの試合ではないと高も括っていた。
だが、ズシの試合の前に立ち寄って正解だった。
あの入手困難なチケットを手に入れる、とは…まあ、賞金は山のように貰っているのだろう。金に糸目をつけなければどうにでもなることか。
彼らが初めて宿へやってきた日から、もう何日経っただろう。
久々に見た二人のオーラは大河を髣髴とさせた。目の前に立つだけで、何か気分が高揚してしかたない。
静かに…おおらかに…けれど、力強く。触れるほどに惹かれてしまう、そんな魅力が滲み出る。
最初は彼らの秘めた才能に心を奪われた。
限られた時間の中で、たった一つの助言から、あれほどまでに能力を開花させることができる人材など、かつて巡りあえたことはない。自分の知っていること全てを与えて、育ててみたい。そう願ったはずだった。
だが今は──
ただあの銀色の少年が再び自分のところを訪れる日が来ぬものか、とばかりを願っている。
踏み外した道は甘く、逃れ難い。ただ、醒めぬ悪夢を見られる夜を、心待ちにしていた。

男の姿が人ごみに紛れて二人の視界から消える。
すると、ウイングが居る間、ほとんど何も喋らなかったキルアが、ストーカーみたいな奴、と肩をすくめた。
「まあ、試合は録画しとくとして。とりあえずオレは見に行ってくる」
ゴンのために買ったものではあるが、安くはないチケット代を2枚分も無駄にする気にはなれない。部屋で待ってなくちゃいけないゴンには悪いけど、と言うとそんなの気にしないで、と笑った。
「ちゃんと俺の分も見てきて後で話聞かせてね」
「ああ、うん。勿論」
横に並んだゴンは、真っ直ぐ前を向いたまま黙々と歩く。
キルアが見つめていると気付いていても、けして視線を向けようとはしなかった。
そのまま部屋へ帰ってしまうのか、と思っていると、ゴンは「行こう」と言ってキルアを闘技場へと促した。
「……オレ、録画上手にできるかな。後で見るならちゃんと最初から録っとかなくちゃ勿体ないよね」
ゴンはキルアに付き合って会場まで見送るつもりらしいが、歩きながらも『どうやって録画するんだったっけ』と頭を悩ませていた。
リモコンのあのボタンを押して、時間を設定して……とシュミレーションする顔は真剣そのものだ。
「なあゴン」
録画云々の話にはまるで興味を示さなかったキルアが、少し暗い口調で少年の名を呼んだ。
ゴンは聞こえなかった振りをして、早口にまくし立て続ける。
「ね、キルアほんっとにちゃんと試合見てきてね。ああもうなんで怪我なんてしちゃったんだろ」
こんなことになるって判ってたら、無理に試合なんてしなかったのに。
今更後悔しても遅いね、と半分口を尖らせて不満を述べる。
キルアはそれに相槌もかえさず、
「ゴン、お前さ」
ともう一度少年に問い掛けようと試みた。だがゴンも、またもやキルアの声を聞き流す。いや、それどころか時計を見てそわそわとし始めてしまう。
「早く戻らないと、焦って録画失敗するかもしんないよね。まずいかな」
三度、呼びかけられた声には応えず、その場でぴたりと足を止めると
「──オレ、もう部屋戻っろっかな」と一方的に告げてキルアに背中を向けようとした。
勿論、キルアも逃がすまい、とその腕をぐっと掴む。
「待てって、お前!」
無視するのも大概にしろよ──!
そう怒鳴りつけたかったのを堪えた。それでもゴンを引き寄せたやり方が多少荒っぽくなってしまい、自己嫌悪に陥る。
小さく舌打ちし、俯いたキルアに、ようやくゴンも相手をする気になったのか、眉を顰めて視線を移した。
「なに?」
キルアは、己を貫く真っ黒な瞳に戸惑いながら、唇を噛んだ。
何──じゃねえだろ。
突然、喉まで出かかっていた言葉が逆流してくる。
気付いてるんだろ、なんか。
オレのしてること、とか──ウイングのこと、とか。
だってそうとしか思えねーじゃん、さっきの態度。ウイングから逃げただろ。
部屋に来る、ってあいつが言ったとき、すげぇ嫌そうな顔したろ。
いったい何時から知ってたんだ、どこまで知ってる──?
オレのこと、ホントはどう思ってるんだよ。
ぐるぐると思考が渦巻いていく。
「………なんか、言いたいこととかあるんじゃねーの? 俺に」
だが全てを直接尋ねる勇気はもてず、辛うじて口にできた言葉はこれだった。
他に、言えることがない。立ち尽くした二人を避けて、人の波が流れていく。長い時間そうしていたように、思えた。
ゴンは、しばらくじっとキルアを見ていたが、すぅ、と視線をおろすとか細い声で囁いた。
「……あるよ」
ある──んだ。
握っていた手の力が抜けてしまう。するりと逃れていったゴンの腕を、追うことすらできなかった。
突然大量に分泌された唾液を、音を立てて飲み下す。
緊張で、脂汗が滲む。震えそうな体を叱咤して、キルアは声を絞り出した。
「言えよ」
本当は聞きたくなかった。ここではっきりさせてしまって良いのかどうか判らなかった。
旨く言い訳して誤魔化せる自信もない。
口火を切ってしまったのは自分だったが、今すぐこの場から走って逃げ出したい。
ゴンの声が届かない、遥か彼方まで──
「……あのね」
ちらり、と上目遣いに自分を見る瞳の中には、何が篭められているのだろう。
判決を下される罪人の気分だ。
死刑を言い渡されるときだって、きっとこんなにも緊張しない──キルアはゴンの唇がゆっくり開かれるのを見つめ、じっとりと汗ばむ掌を握り締めた。
そして彼の耳に届いた、元気の良い声は。
「試合中、絶対居眠りとかしないでね! ちゃんと最初から最後まで見ておいて、ね!」
「へ──」
予想とは大幅に外れた言葉に呆気にとられたキルアが、ぽかん、と口を開けた。
心配そうに覗き込んでくる少年の瞳の中には、確かに他の意図は見受けられない。隠しごとがあるようにも思えない。
「絶対だよ?」
と言う声音にも、疑惑の陰もなく。
「あ──それ──だけ?」
まじで? 他に何もないのか?
心の声が聞こえたのか、ゴンは逆に不思議そうな顔で
「うん? 他に何があるの?」と尋ねてきた。
ぶんぶん、と勢いよく首を横にふる。
ゴンがそれだけだ、というのならあえて薮蛇を突付く必要もない。
なあに? と首を傾げているゴンに、大丈夫居眠りしないから、とキルアは何度も繰り返した。
「しーっかり見て、試合終わったらすぐ部屋に戻るよ。待ってろよな」
そう言った少年は、もういつもどおりの少しイジワルな笑いを浮かべていた。先ほどまでの強張った表情は、どこかへ飛んでいってしまったようだ。
「じゃあオレもう行くね」
じきに試合開始時間になっちゃうから、と言って、くるりと背を向けたゴンを揶揄した。
「録画、間違えるなよー」
「だからぁっ、心配だから戻るんだってば!」
バカっと腕を振り上げて怒ってみせると、そのままエレベーターに向かって走っていってしまう。
片手、塞がれてるんだから慌てるとコケルぞ、とキルアがバランスの悪さを指摘する前に、ゴンが人にぶつかって頭を下げるところが見えた。
「……ばっか」
そそっかしい恋人の姿が、人波の間に消えていくのを見届けるまで、キルアはその場に立ちつづけていた。
ゴン──本当に何も気付いてない、んだろうか。
この間、ウイングのとこまで来たのはなんでだったんだ。
オレを探しに来たんじゃなくて、何してるのか確認しに来たんじゃないのか?
けど気付いてるとしたら────それをはぐらかすようなこと、お前ができるとは思ってない。知ってるんなら、なんで何も言わない? そんなに黙ってられるようなタイプだったか? お前なら、きっと直接聞いてくる、よな。ストレートに。
───やっぱり何も知らないんだ、よな。
「ま、どっちにしてもウイングとはこれっきりだしな」
この先、ばれるということもない。余計な心配ばかりして、墓穴を掘る必要もないだろう。
心の中で結論付けると、キルアは会場へ向かって歩き出した。
強大な恋敵の試合を見届けるために。




部屋の窓を細く開けると、それでも上空の強い風が部屋中を荒らすようにして吹き込んでくる。
ゴンは、心を乱す不穏な風を紛らわすためにも、いっそ全開にして全部吹き飛ばしてしまって欲しい、と思う。だがその後の片付けはこれまた酷く大変だと判っていたから、いつものようにごくごく細く、で我慢する。
ビデオの録画は、つい先ほど終わったようで、記憶ディスクが回る音がぱったりと止んだ。きっともうすぐキルアも戻ってくる。
そして、ああだった、こうだった、と今ひとつ要領を得ない言葉で、試合の様子を利かせてくれるだろう。
ウイングもまだ、尋ねてこない。
見られない試合に想いを馳せて、ざわめく心を静めるために始めた点だったが、今は彼らが──キルアとウイングが、どこにいるのか、と──キルアは真っ直ぐここへ戻ってくるのだろうか、という不安を鎮めようと躍起になってしまう。
考えるな。
そんなことを考えながら点を行ったって、ぜんぜん身にはならない。
判っていても、心は暗く曇っていく。
試合前に、キルアが何かいいたいことは無いか、と聞いた。
あるよ。
いっぱいある。
でも判らないんだ。
なんて聞いたらいいのか、判らない。
ウイングさんはオトナだから──きっとキルアは、オレと居るより愉しいんだろう。オレとセックスするより、満足もさせてもらえると思う。
それをどうして責められるだろう。
オレだって──キルアの知らないところで、ヒソカと会ってしまった。
キルアとエッチしてる時、心の中でヒソカと比べちゃったことだってある。
なのに、キルアに文句言えるのかな。
でも、ウイングさんとキルアが一緒にいるところを思うと、すごく嫌な気分になる──
「気持ち悪い……」
ゴンはビデオが回り始めた当初からずっとベッドの上に座って点を行っていたが、うっすらと目を開いて呟いた。
お腹の中で、熱いどろどろしたものがぐるぐる回ってる感じがして、酷く気分が悪い。
この奇妙な感情の名前など、ゴンは知るわけもなかった。そうなる理由すら、理解に苦しむ。
「ふぅ───」
許された修行をおしまいにして、柔らかなシーツへと体を投げ出すと僅かに開けた唇の間から、黒い塊を外へ出そうと息を吐いた。ゆるり、ゆるりと肺に溜まっていた空気が減っていく。
ウイングさんは、オレたちのこと知ってるのかな。
人の良さそうな笑顔が脳裏に浮かぶ。
この間、部屋へ行ったときとかキルアからキスされたりしたけど。彼もそれを見ているはずだけれど。
それでも、キルアと───してた。
「あ──また」
治まりかけていた気分の悪さがぶり返してくる。
ゴンは横になったまま両膝を丸めると、黒い塊を抱きこむように腕を回した。
誰かが居てくれたらいいのに。
一人出なければ、こんな気持ち悪さなんてすぐに吹き飛ぶはずなんだ。
いっそウイングだって構わない──ゴンは、来訪者の存在を願って瞼を閉じた。

「ただいまあ──」
扉が開く気配と同時にキルアの声が聞こえてきた。
ゴンは、ぱっと飛び上がってベッドを降りると、玄関に向かって走っていった。
部屋への扉を、キルアが開けると同時に反対側の取っ手を握っていたゴンが勢いよく倒れてくる。
「ゴン?」
「どうだった?!」
お帰り、も忘れて試合の様子を聞きたがるゴンに、そんなにも見たかったか、と苦笑する。
確かにとんでもない試合だったけどな。
とにかく部屋に入れてよ、と笑いながら、絡み付いてくるゴンに言って、ソファへ向かった。観戦しているだけでも、あの場の空気に当てられて妙に疲れてしまった。
どっかりとクッションの間に身を埋めるとひらひらと手を舞わせて、キルアは漸く口火を切る。
「あーもーすっげーすっげー。あんなん見せ付けられると、戦闘意欲が削がれるって」
「……そんなにすごかったの?」
ある意味、ヒソカ信奉者のようなゴンは、キルアの向かい側に座ってどきどきしながら話を聞く。
少し乗り出したゴンの顔に、キルアもぐっと近づいてきた。
「何がスゲーって、あいつさ。自分の腕、生腕! 喰っちまいやがんだぜ?」
「喰う………?」
「そー。対戦相手だったカストロってやつにさ、腕千切られても平然としてるのもアレだったけど、それをこう──」
と、手で、何かを持っているかのように握る仕草をすると、その何か、を口で食いちぎるまねをする。ぐぃっと顔を横に振り、
「って食べちまうの。いくらオレでも、生肉喰いたくねー」とまた、クッションの中に埋もれた。
「んで、両腕引きちぎられてるのに平然としてるし。くっつくし」
「くっつく──って腕が?」
「ああ。どーいうトリック使ってんのか、ぜんっぜん判んなかった。あれも念かな」
「念……ってそんなこともできるのかな」
「できるだろ。何でもアリだと思うぜ? 基本的には」
それからも、試合の内容より何より、生肉──しかも自分自身の──を食べたことにばかり終始するキルアの話は非常にわかりにくかったが、どうやらヒソカは勝ったらしい。
そして、対戦相手は命を落としたようだ、ということも判ってきた。
相変わらず容赦のないヒソカの闘い方に、ぞくりと粟立つ感覚を感じる。
しばらく忘れかけていた、スリルに似たあの感覚だった。
「そっかあ……ああやっぱり見たかったな」
罰とはいえ、返す返す悔やまれる。
ゴンはそう肩をすくめてソファに凭れかかった。
「録画は? できたのか?」
キルアはゴンの部屋へ急いで帰ってきた目的を思い出し、TV画面を見る。
録画操作、まさか失敗してないよな、と心配する少年に。ゴンはこくり、と肯いた。
「多分。でも確かめられないよ」
「なんで」
「見ちゃいけないデショ?」
念を調べたりしてはいけないとウイングに言われた、と指摘する。
だから、録画できてるかどうかを見ることもできないのだと。
「撮れてるかどうかくらい、確認するのは構わないだろ」
ちょっと巻き戻して終わりの部分だけ確認すればいいんだし、とキルアが言うと、ぶんぶん、と首を振って答える。
「ダメだよー。見始めちゃったら、絶対全部見たくなる」
そういうことか、とキルアも納得した。
確かに、誘惑に打ち勝つのは並大抵じゃない。
ほんの1分くらい、がもう2分だけ、あと10分、と巻き戻し時間がどんどん延びていきそうだ。
それで、見ちゃいけない、ね。でも本当に録画できてるよな?
正直、ゴンの機械操作能力は信用できない。いつも録画作業は自分がしているから尚更だ。
仕方ない。
「じゃ、オレの部屋で確認してきてやるよ」
撮れてるかな、といつまでも気にされるよりは、面倒でも中身を確認してきてやった方がいい。
「ほんと? やっぱり不安だもんな──お願いしていい?」
ゴンも自分の能力の程度をしっかり自覚していたらしく、録画できているかどうかが心配だったようだ。
嬉しそうな顔で、TVに駆け寄る。
「ああ、んじゃすぐ行ってきてやるよ……ところで、ウイングは?」
「まだ。来てないよ」
ずっと一人で点をしていたのだから、ウイングの訪問があれば気付かぬわけが無い。
だが、一度足りとも扉はノックされなかったし、呼び鈴もならなかった。
「ズシの試合、長引いてんのか。ヒソカ戦が終わってから来たって、意味ないだろーよ」
観戦を禁じる代わりに、本でも読んで過ごせ、と言っていたくせに。
飽きれたやつ、とキルアが顔を顰める。
「でも本は借りたいし。来てくれるんなら何時でもいいよ。持ってきてくれるのって、キルアも読んだ本かな」
他意の無いゴンの質問に、心臓が跳ね上がった。
云われるまで忘れていたが、キルアは『ウイングのところで本を読んでいた』ことになっていたのだ。あの部屋で見たのは、薄暗い灯かりの下の醜悪な男のペニスだけで、活字など1行だってお目にかからなかったが。
「さあ──どうかな」
どう誤魔化すべきか、と一瞬迷うが、明言は避けることにする。
心に生まれた動揺は顔には表さず、キルアはゴンに近づいていった。
取り出したディスクを受け取ると、小物入れに入れてあった自分の部屋の鍵を持つ。
「じゃ、持ってくな」
「お願いします」
ぺこり、と頭を下げる様子が可愛らしかった。
そのまま部屋を出るつもりで入り口へ向かうと、ゴンもひょこひょこついてきた。
「ねえねえ、ご飯どうする?」
まだ夕食の時間までには数時間あった。
キルアは、腹の具合と相談しつつ、そうだな、と首を傾げた。
扉を開けたまま、部屋の敷居を挟んでゴンと向き合う。
「オレ、部屋から持ってきたいものとかあるからさ。戻ってくるのにちょっと時間かかるかも」
「夕飯までには戻ってくるよね」
「うん、それは絶対」
「じゃあ待ってるから。多分、それまでにウイングさんも来るんじゃないかなー」
聞きたくない名前を聞いて、どきん、とまたキルアの心臓が跳ねた。こっそりゴンの表情を伺うが、俯いていてよく判らなかった。
二人きりにするべきじゃないのかもしれない。
唐突にそんな考えが浮かんだ。
試合前にウイングと話していた時もなんだか感じがおかしかったし、今も本を借りると言う割にはあまり嬉しそうに見えない。
あのオトボケ兄さんのことだ、いったい何時にくるつもりだかわかりゃしないが……
「あ──のさ、あいつ来たらサ、呼んでもいいぜ?」
「…なんで?」
ゴンが上目遣いに見上げて、何故呼んで欲しいのだ、と逆に尋ねる。
「なんでって──ま、一応」
二人っきりにしておいたら何かバラサレそうで怖いからだ、とはとても云えず、理由はない、と誤魔化しておく。
「……判った」
ウイングさんがすぐ帰らなくてもよさそうなら呼ぶよ、とゴンは笑ったが、その心中もけして穏やかではなかった。
ウイングが尋ねてきたら呼んでくれ、と言うのは。
それは彼に遭いたいからなのだろうか。
だから呼んで欲しいのだろうか。
それほどに、キルアの心は自分から離れてしまっているのかと悲しくなる。
去っていくキルアの背中を見ていたくなくて、すぐに扉を閉めてしまう。
もう誰もこの部屋に入ってこなければいいのに。
ほんの数時間前、来訪者を心待ちにしていたのは嘘のようだった。
硬い殻に閉じこもるようにして、ゴンはベッドの中に潜り込んでいた。




そして二人の男がその部屋を訪れる。
ほんの少し、重なり合ってしまった時間が災いだった。
僅かな不運が何もかもを狂わせていく──いや、もうずっと前から狂っていたのかもしれない。
掛け違えたボタンも、すれ違った心も。
外れかけた歯車がぎしぎしと軋む嫌な音は、ずっと前から聞こえてる。
大切なものが、ちゃんと判っていなかった。
だから、これはその罰なんだ。
冷たい眼鏡の下で、顔を強張らせている男を見て、ゴンは絶望していた。

「何を──しているんだ…!」

その言葉は何よりも、オレの心を抉っていった──



キルアがゴンの部屋を出て行ったのと、ほぼ入れ違いに同じフロアに降り立った者がいた。
つい先ほどまで試合を行っていたその人物は、だが引きちぎられたはずの腕は傷一つなく、悠然と歩いていく。
目的の部屋までは、目を瞑っても辿り着けた。そこから幽かに漂ってくる少年のオーラが彼を導く。
痛いくらいに神経が昂ぶっている。
もう歯止めは利かないだろう。いや、留めるつもりもない。
男は欲望に身を滾らせて、かの部屋の扉を叩いた。
「はあい」
可愛らしい声が聞こえる。鼓膜を擽るそれが背筋を駆け上ってくる。
ああ。もう耐えられない。君を食べてしまいたい。
男は身体の中心が疼くのを感じて恍惚とした表情を浮かべた。
これから青く薫る果実を摘み取るのだ。
きっと未だ身は硬くて酸っぱいに違いない。だがその酸味を思うだけで、こんなにも興奮する。
ぱちん、と鍵の外れる音が、狂乱の舞台の幕開けを告げていた。


一方、ウイングもまたゴンの部屋へ向かっていた。
その手の中には数冊の文庫が握られている。子供でも読みやすい、簡単な物語と新源流の初歩の教本だ。特別、念については触れておらず──ただ、初心について説いてあるだけの短いもの。
ゴンが読書に興味を持つとは思っていなかったが、知識欲が貪欲なのはよいことだ。それが例え時間潰しに過ぎなくとも──ウイングは単純にそう思っていた。ゴンに何かを知られているかも、などという懸念はすっかり抜け落ちてしまっていたのだ。
早足で彼の部屋へ急ぐ。ズシに試合後の指導と労いをしているうちに、ついつい遅くなってしまった。待ちくたびれているかもしれない。
「まったく私ときたら……」
エレベーターを待ちながら、つい言葉が漏れる。
何かにつけてだらしがなくなってしまうのは、自分の最大の欠点だ。今日だって、とっくにヒソカの試合は終わってしまっているし──本を届けるから我慢しろ、だなんてよく言ったものだ。
とにかく、一刻も早く届けなければ。
なかなか降りてこないエレベーターに対して珍しく焦る男は、無意識にたん、たんと足先で床を鳴らしていた。


ゆっくりと優雅に開く扉の間に身体を割り込ませるようにしてエレベーターから出たウイングは、やはり彼らしくなくバタバタと小走りに廊下を行く。
数日前に訪れた部屋を探して、人気の無いフロアを歩き回った。だらしがないだけでなく方向音痴でもあるのか、ウイングは、しばらくの間ぐるぐると廊下を巡りゴンの部屋を探さなければならなかった。時間が無駄に過ぎていく。
「ゴン君の部屋は……」
いったいどこだっただろう。迷い迷い、同じところを何度か行き着した後、目的の場所に気づいて足を止めた。
同じ扉ばかりだが、確かにここのはずだ。表札でも出ていればいいのに、と溜め息をつくと、その扉を軽くノックをした。
「───?」
だが返事が無い。
不在か──いや、この間も応答までに時間があった、と思い出し、少し待ってみるがやはり扉が開く気配は無かった。
再びノックをし、
「ゴン君? 本を持ってきたのですが…いないんですか?」と声をかける。
随分待たせたとはいえ、約束したのだから必ず居るはずなのだが。
すぐに部屋に戻ると言っていたのだから寄り道をしているとも思えない──もしかしたら眠ってしまっているのかも。
ウイングはしつこく扉を叩いて彼の名を呼んでみた。
「ゴン君」
本当に居ないのか──ウイングが疑い始めたその時。
ぱちん、と小さな音がした。
鍵を回す音に似たそれは、男の耳にもしっかり届く。だが、続いて開くはずの扉は、いつになっても動かなかった。
ウイングは、少し不思議に感じながらも鍵はゆっくりノブを回して扉を、開けた。
「寝てたのかな…? 悪かったね、起こしてしまって」
ズシと話をしていたら遅くなってしまって──本当に悪かったね──色々と謝罪の言葉を述べながら部屋の中へ足を進めた。
だが、顔を上げた途端、顔に浮かべていた笑顔は凍りつく。
考えもしなかった信じられない光景が、彼を迎えていた。
「あ…あ・ああっ…っ」



始めに耳に飛び込んできたのは、感極まった嬌声…そして、細い廊下の向こう側に見えるのは、大柄な男の足の上に抱えあげられた、幼子の肢体。
「な…」
全裸のゴンは、ウイングと目が合った瞬間境地へ達してしまっていた。
ぷるん、と震えた切っ先から、白い液体が勢いよく吹き出ている。
「や…ぅ…」
ぼろぼろと涙を流す少年は、しゃくりあげながらも体を腕で隠そうと必死になっている。
「…何をしているんだ!」
突きつけられた異常な光景に言葉を失っていたウイングも、ゴンの嗚咽に正気づく。
そう、彼を抱いている相手はキルアではなく──つい先ほど、試合をしていたはずのヒソカ──
「きもちいいこと♪」
「気持ち良い──だと?」
平然と言ってのける男に鳥肌が立った。
明らかな体格差があるセックスが少年に与える衝撃は、虐待以外には考えられない。しかも、まだ怪我の癒えていない──ウイングはまだあの腕が完治していることを知らない──ゴンに、暴虐を振るい、快楽を与えているのだと笑うこの男が。
おぞましい。
ウイングは顔を歪ませて二人に近づいていった。
「……ゴン君、こちらへおいで」
「無駄だよ」
「ゴン君」
卑劣な男の腕の中で小さくなって泣き続けている少年の名を呼ぶ。
自分の庇護の下へこれば、手出しなどさせない──必ず守ろう、と約束する。
「さあ……」
だが、少年はウイングの存在を否定した。
ヒソカの胸に顔をうずめたまま、弱弱しく首を横にふる。そちらへはいかない、という意思を示したのだ。
「!」
そう──ウイングのところへは、いけない。ヒソカを望んだのは自分自身で──それに、意地になっている部分もあった。キルアとの関係が、彼の言葉を受け入れることを拒否させる。
「ゴン君」
何故、と問う男に対して、ゴンは強くヒソカの身体に抱きつくことで更に強い拒絶を示した。
ウイングは差し伸べていた手を引いた。
ゴンがどういうつもりでこの男に縋るのか、自分を拒むのか。向けられた背中から、自分を責める声が聞こえるようだった。唐突に、忘れていた背徳を思い出す。
キルアと重ねてきた関係が、重く圧し掛かってきた。
何も言えないではないか。
キルアと寝ている自分は、この目の前の男と同じことをしている。
そして、ゴンはそれを知っているのだ。私が一番彼を傷つけているのに。
「……約束した本を置いていくよ」
一言だけ告げると、ヒソカを一睨みして背を向ける。
「ねぇ、同じ穴のムジナって知ってる?」
笑い声が彼の背中に降りかかってくる。
云われなくとも、とウイングは唇を噛んだ。
屈辱に握りしめた拳が震えそうだ。だが、キルアを求めて止まない自分が、ヒソカを責めることなどできなかった。
愚かだ。
一度踏み外した道は、どこまでも陥ちていくしかない。
背後で部屋の扉が閉まる。異質な空間から脱しても、受けた衝撃は覚めない。
ゴンが、ヒソカと何らかの関わりをもっていることは知っていた。ああいう形で──とは思わなかったが。
では、キルアはゴンにとって何であるのか。
キルアとは、どういう関係を結んでいるのだろう。疑問を抱く。互いに知らぬところで、違う男に抱かれているというのか。
納得ずくのことならばなぜ、キルアは、自分との関係をゴンに知られることを恐れているのだろう。
何もかもが混沌としてくる。
無意識のうちに、歩む足はキルアの部屋へと向かっていた。
突然現れたウイングに対して、バカ高いチケットをわざわざ入手してまで目論んだデートを阻まれた、とあまり良い顔をしない。
「なんだよ」
不機嫌を隠さず尋ねるが、蒼ざめたウイングはただ黙って少年の前に立つ。
「用が無いならさっさと帰れよ。ゴンが待ってんだからさ」
「……っ」
彼は、ヒソカとゴンのことは何も知らないのだ。たった今、裏切られていることすら。
だが、私にはそれを教えることができない。
喉のすぐ入り口まで塊があるのに、言えない。
苦しさを紛らわすために、小さな体を掻き抱いた。
「おい…! こんなとこで…やめろよ!」
こんなところを人に見られたら、と焦ったキルアは、ウイングを蹴飛ばすように部屋の中に入れた。
と、そのままもう一度抱きなおされ、壁に押し付けられる。
「キルア…っ」
「ン…っ」
キルアも名前を呼ばれながら貪るように唇を吸われ、体の奥がうずき始める。今日のウイングのキスは意外なほど巧みで、いつもと違う荒々しさに流される。
「すぐ終われよ、もぉ……っ」
キルアは溜め息とともに諦めの言葉を吐き、だがウイングの好きにさせるため、体の力を壁へ凭せ掛けていた。

このとき──ゴンの部屋に誰がいて、何が行われていたかなど、キルアには知り得る術は無かった。
行為を終え、落ち着いたウイングを追い返した後でゴンの部屋へ戻ってきたが、そこにはすでにヒソカの姿は無かった。




何もかもがウイングに知られてしまった日から、もう何日経っただろう。
始めのうちは、もしウイングがキルアに話してしまったら、と思うと食事も喉に通らなかった。キルアはとても心配してくれたけど、それすら辛かった。
けれど1日経ち、2日経ち──キルアがそれを知った様子はない。一言も、何もいわない。
聞いたけど黙ってるのか、それとも本当にまだ知らないのか。キルアの頭の中を覗けないから、それは判らない。だが、恐らくはウイングは何も告げなかったのだ、と思われた。
ウイングが何を考えているのか──それもまた、不安の種になる。
柔らかなベッドの上で、隣で眠るキルアの横顔を見つめた。包まっているふわふわの布団でさえ、まるで針の筵のようだ。
キルアの顔を見るのがこんなに辛いなんて、今まで思ったことない。
ゴンは揺らさぬようそっと身体を動かしてベッドを降りた。薄い肌掛け毛布を一枚取り、ソファへと向かう。
身体に毛布を巻きつけ、ベッドの中のキルアに背を向けるようにしてソファに横たわると、そっと瞼を閉じた。



「やあ」
「なんの用」
キルアが外へ出た僅かな時間に部屋を抜け出したゴンを、待ち伏せるようにして通りに立っていた男は、警戒に満ちた声に笑みを漏らした。
腕を組み、壁に背を凭せ掛けたままで少年につい数日前の情事を思い出させてやる。
「こないだ、キルアにばれなかった? 喧嘩しなかった?」
「関係ないよ」
少し顔を赤らめ、目を伏せたゴンは、一言でヒソカの存在を拒絶すると真っ直ぐ歩いていこうとする。だが、彼の目の前を通り過ぎようとした時、大きな溜め息が聞こえてきた。
「あんなにボクに抱きついてきたくせに。なんでそんなにそっけなくするの」
すっごく可愛かったのに、とからかう台詞に反応したゴンは、足を止めてヒソカを見上げた。
「あの時は…オレ変だったんだもん…っ!」
キルアのこと、ウイングさんのこと。色んなことが重なってて、オレはおかしかった。
だからヒソカに──ヒソカと……。
まざまざと記憶が甦ってくる。あの時感じた快楽も、その後苛まれた後悔も、綯い交ぜになって心の中に浮かんでくる。
どうしようもない感情の波に流されて、ここに居ることも、キルアのところへ帰ることも辛くなってしまう。
どこかへ行ってしまいたいと何度思っただろう。
それともキルアに何もかも話してしまえたら、どんなにか楽になるだろう。
でも──どちらも、キルアを傷つけてしまうような気がしてできない。
仕舞いこんでいるものの大きさに負けて歪むゴンの頬に、ひんやりとした掌が添えられた。ヒソカが気付かぬうちにしゃがみこみ、自分の顔を覗き込んでいたのだ。慌てて身体を引こうとしたが、彼の手はすばやく肩を掴み逃がさない。
危険を感じたゴンは、捕らえた手から逃れようと腕を振り──だが、続いた優しい声に目を丸くした。
「ねぇ。今日も変になって」
「?」
「面白いところに連れてってあげる」
何もかもが忘れられるように、とヒソカは囁いた。

誘われた。
カーニバルを見に行こうと言うヒソカに手を引かれて、雑踏の中を歩く。
ヒソカの一歩は大きくて、ちょっと小走りにしないとついていけなかった。
振りほどくのは容易かったろう。何故なら、もう既に人ごみに流されて何度か手が離れてしまって──それでも、ヒソカは無理に握りしめようとはしなかった。
離れるのならばそれに任せ、ゴンが慌てて手を差し出すのを待った。人ごみを掻き分けて掬い上げて、と手を伸ばしてくるのを待ちつづけていた。
「もう、キルアが心配してるから」
そういうくせに、なんで自分から手を握るの?
ヒソカは声には出さずに笑っていた。
無意識なのだろうから、教えないでおいてあげる。
だけど、それってボクについてきたい、ってことだろ。
本当はボクと一緒に居たいんだよ、君は。ボクにどうにかされちゃいたいんだ。
キルアを言い訳にして、自分の本心を隠すなんて可愛い事をする。ボクも、君をどうにかしてしまいたいよ? いっそぐちゃぐちゃに壊してしまいたい。
腹の底から沸々と湧きおこる衝動が、ヒソカの血を沸騰させていた。
これからの事へ思いを馳せていたヒソカの手が、くん、と引かれた。
「どこまで行くの…?」
ゴンの声に今までとは少し違うニュアンスを聞き取って、ヒソカは足を止める。
振り返れば、ゴンは厳しく眉を顰めていた。
「もう少し……疲れたかい?」
出店もパレードもとうの昔に通り過ぎてきていた。ここは街の外れだ。
さすがに不安を感じ始めたかと懸念する。逃がしてしまうようなヘマをする気はないが、どちらかといえば同意を得たい気分だ。
だが、ゴンの返事は奇術師ですら予想していなかったもので──
「ううん、平気。まだ大丈夫だよ」
そう言って、ぎゅっと手を握り返してきたのだ。
これが意味するものはなんだ?
ヒソカは自分に問いかけ、ほくそ笑んだ。
青い果実に手が届く、その瞬間を思って。

カーニバルがあるんだってさ。
いっぱい露店が出て、色んなお菓子が売ってたりして、パレードとか、大道芸とか、カーニバルのフィニッシュにはすげー花火大会もあるらしいぜ?
だからさ、一緒にいかねえ?

誘うつもり、だった。
だが、ちょっと食い物調達して戻ってきてみれば、部屋はもぬけの殻で。
「なん…だよ……」
何日か前から、ゴンが妙な感じなのはわかってたけど、そーくる?
オレ、すぐ戻ってくるって云ったよな……実際、出かけた時間は30分足らずで。
こそっと抜け出すような真似なんか、前は絶対しなかったのに。
「どーこいったんだろーね」
かじりかけのリンゴを手の上で弄びながら、部屋の中をぶらぶらと物色する。いや──してるつもりは、なかった。
意識の最下層で、何か手がかりはないか、と思っていたとしても、自覚はなかった。
けれど見つけてしまった、くしゃけた包み紙に包まれた、小さな箱。
一度開けたことがすぐにわかる。
脱ぎ捨てられたゴンの服の間から出てきた、それを手に取った。
「なにかなー」
解かれたリボンが箱の下に丸められていた。包み紙も、きっと元は綺麗だったんだろう。
振ると、中身がカラカラとなった。
プレゼント、だよな。これ。
誰から──誰に?
生まれた小さな疑心は、キルアにそれを開けろと囁く。
中身を確かめろ、と。
逆らえなかった。
人のものを勝手に開けることがよくないことだ、とは感じないが、きっとゴンは怒る──そう思いはしても、紙の合わせ目へ指をかけ、包みを解いていく。
青い紙が足元に落ち、小さな白い小箱が姿を現した。
蓋に手をかけたところで、もう一度躊躇する。本当に開けていいのだろうか? 本人が居ない間にこっそり除き見るような真似をして?
(でも…こっそり抜け出していったのはゴンのほうだ)
居ない方が悪いのだ。心の中で言い訳をする。心臓が激しく鳴り響く中、キルアは蓋を開けた。
「──マジかよ」
柔らかそうな綿の上にそっと置かれている銀のアクセサリー。細い華奢な銀の輪が何連も連なっているそれを摘み上げると、しゃららと綺麗な音を立てた。
咄嗟に脳裏には一人の男の影が映った。
細い目で、舐めるようにゴンを見つめる男。彼が、ゴンへこの小箱を手渡している様子がまざまざと浮かび上がる。
「なんで…こんなもん…」
ぎり、と歯を噛み締める音が聞こえた。
手にしていた腕輪を握り締める。柔らかな銀は、加えられた力に容易く負けて、ひしゃげた。
ヒソカからこれを貰って、オレに隠してた。
違うというなら、今、いったい誰とどこにいるんだよ。云えないから、ナイショで出て行った──そういうことじゃないのか?
大きな誤解がキルアの心をどろりと塗り潰していく。
だが、それを留めるものは居ない。彼の中で確立した方程式は、唯一の真実になる。
ゴンは、ヒソカと遭ってる。
いったい何時から──ざわざわと心の中に闇が増殖する。
「…ざけんなよ…っ!」
キルアは大きく叫ぶと、壁に向かって屑と化した銀の塊を叩きつけた。

200階の窓の外──空が赤く染まり、やがて蒼みがかった闇が全体を支配していく様子をキルアはぼんやりと見ていた。
ソファに身を投げ出し、掌の中には潰れた銀細工が握られている。
ドン──と重厚な音と共に、目の前に大きく火の花が咲いた。
虚ろな瞳の中に、鮮やかな光が煌く。
「一緒に見るつもりだったのに…な……」
呟いたキルアの顔は歪んでいた。
ゴンはまだ帰ってこない。
本当にオレを好きなら、今すぐ戻ってこい。
今、すぐ、に、だ。
唱えても、部屋の扉が開くことはない。
ドン、と暗い夜空に二つ目の花火が上がった。
続いて、次から次へと消える火の粉を追いかけるようにして夜空に花が咲いていく。
この美しい風景を、ゴンと一緒に見てるはずだった。
息苦しいほどのもどかしさにキルアは身体を起こしてうめく。
「う…あ──ああ、もう…っ」
声を出さずには居られなかった。
頭を掻き毟り、息を吐くのと一緒に喉を振るわせる。
なんで連絡もないんだ。
書き置き一つも残さないで──どこに行った──何をしてる。
判らないことが、苛々を増幅させる。いや、判らないんじゃない。気付きたくない、だけ。
一緒にいる人間も、何をしてるのかも、想像できてる。そして、それは間違ってない。
オレのゴンなのに。
「……っ」
キルアは両手で顔を覆い隠し、身体を二つに折る。
オレの、なんだ。
あの小さな身体も、可愛い唇も──なのに、なんで他の奴に触らせる──どうしてオレから逃げるんだ?!
一際大きな音がガラスを振るわせた──
花火の打ち上げ音かと思わせたそれは、キルアが足元に拳を打ちつけた音だった。フローリングの木目に幾つもの裂け目が走り、中心は大きく凹む。
「くそ…っ」
美しく彩られる空を見ていたくなくて、キルアはカーテンを閉めた。だが、窓ガラスを隔てても聞こえる音が、やはり彼の心を騒がせた。
ここには居られない──
居場所を失って部屋を出たキルアは、扉に凭れて溜め息を吐く。
いっそ、オレもウイングのところへでも行ってしまおうか。
けれどその間にゴンが戻ってきたら?
今にもあの廊下の向こう側から、ゴンが姿を現すかもしれない──そう思うと、キルアは一歩も動けなくなってしまう。
『ごめん、キルア。待ってた?』なんて申し訳なさそうに首を傾げるのかも、と。
(情けねぇ…)
一縷の望みに頼る自分が嫌だった。だが、縋る事を止められない。
せめて、一秒でもいい──早く帰ってこい。
そしてオレに言い訳してよ、ゴン。
全部違うんだって──オレが思ってるのは、全部外れてるってさ。
ヒソカなんかしらないって、一寸怒って、そして笑って弾き飛ばしてしまってくれ。
でないと、オレの心臓が破れちまう。
キルアはぎゅっと胸を掴むと、ずるずるとその場に蹲り顔を伏せた。



盛大な花火を最後にカーニバルは終わり、静けさが街へ戻ってくる。
祭りの余韻を引っ張って騒いでいた若者たちも消え、それまでの喧騒が嘘のようで──町は静寂に支配されていた。
その夜更けの通りを、小さな身体を抱えた男が歩いていく。
腕の中の少年は、疲れきった様子で目を伏せ眠りこけていた。
「う……ん…」
冷たい風がふわりと彼の頬を擽り、目覚めを要求する。だが少年は鼻を鳴らしただけで、男の胸にぎゅっとしがみつくとまた寝息を立てた。
その仕草は、とても無防備で──実のところヒソカはほんの少しだけ興ざめしていた。
この闘技場で再会してから、何かにつけては顕著な反応を示す彼をからかうのが面白くて、しばしばちょっかいを出してきた。彼がキルアを気にしながらする、駆け引きめいた接触が、まるでゲームのように思われて、以下に巧みに彼を堕とすか、と夢中になった。
だが、一度陥落してしまうと案外緊迫感がなくなってつまらない。全面的な信頼など、ヒソカは望んでいなかった。
こうなってみると、命を賭して闘りあう方がセックスを愉しむよりもよほど自分を興奮させると判る。
(……壊してしまおうか)
丘の上で、今この道端で。
或いは、これからキルアの目の前で──瞬間を想像するだけでも、血が滾る。
いや、折角ここまで我慢したのだ……壊してしまうにはまだまだ育ちが足りない。熟せば何より甘くなる少年を、無碍に地面に叩き落としてしまうのは勿体無くも思われた。
そうして何度も衝動に駆られては、それを腹の底へ押さえ込む。もどかしさに震えた。
闘技場へ帰りついたヒソカが少年を抱きかかえたまま居住区へのエレベーターへ乗り込むと、不眠不休のエレベーターガールは何も聞かずに200階のボタンを押す。
静かに扉が閉まる。階を示す電光掲示板が動き始めたことを伝えていたが、それ以外は何も動くものがない。
けれど空気が止まったのを感じたのか、ゴンが薄らと目を開けた。
「……ここ…」
掠れた声が聞こえた。
「ああ、目が覚めた? もう部屋へ戻るところだよ」
「……部屋……」
「君の部屋でよかったよね。ちゃんと送るから心配しないで」
「え──あ、う、ううん、下ろして…っ」
狭い箱の中で、他人にヒソカに抱かれているところを見られて慌てたゴンは、バタバタと暴れた。
「いいのに……」
残念そうな顔を作り、ゴンを床に下ろしてやる。
ぱっと離れて距離を取ると、少女を気にしながら礼を言った。
「え…と、ありがとう」
「どういたしまして」
ほぼ同時にベルのなる音がして、扉が開く。
「200階でございます」
少女が高い声で案内をした。
「送ろう」
「い…っいいよ、一人で帰れるからっじゃあまた…っ」
ゆっくり足を進めたヒソカに対して、後ずさりをするようにエレベーターを出たゴンは、言い終わらぬ内にくるりと背を向け走り出した。
ヒソカがエレベーターから出て、少年の去っていった廊下を見る。エレベーターの扉は閉まり、人の気配は消えた。
「……送ってあげるって言ってるのに…」
そうしたらキルアとも遭遇できて、それは愉しい事態に発展しただろう。
娯楽が一つ減ってとても残念だ。
だが、ヒソカはゴンの最後の台詞を思い出しくすくすと笑った。
「『じゃあまた』だってさ。判ってるのかな…彼は……」
再会を期待した別れの台詞だ。
無意識に言った、たった一言の言葉なのに、どうしてこんなにひきつけてくれるんだろう。
ついさっきまで、もう壊してしまってもいいか、などと思っていたはずが、自分まで、次、を期待してしまってるではないか。
また会えることを望んでいる。
「だから面白いんだよね……」
小さく呟くと、ヒソカは自室へと帰っていった。 間と共に冷えていく廊下に座り込んでいたキルアは、一つの気配を感じて顔を上げた。
一つ──いや、二つ、だ。
過敏になっている神経は、知りたくもないものも感じ取ってしまう。
同時に現れた二つの気配のうち、一つがこちらへ向かってくる。もう一つは──そのまま、動かない。
見送っているのか──どんな目で、あいつを見てるのか。
思うだけで目の前が真っ赤に染まる。
こちらへ向かっていた気配も、一度立ち止まったのか動きが止まる。
名残惜しんで…? 振り返り、ヒソカと手でも振り合っているのか。
再び移動を始めるまで、数秒──その間に彼らの間で交わされたものがキルアの神経を逆撫でる。
ぎゅっと拳を握り締めた。
気配が、少しずつ近づいてきていた。角を曲がれば、姿が見える。
キルアが彼を迎えるべく立ち上がった時、名を呼ばれた。
「キルア」

ずっと聞きたかった声だった。
探してた。
だけど、もう。

「……どこ、行ってた、ゴン」
そう尋ねることすら億劫で。
渇いた喉がひりついた。
「──オレ──…」
キルアは言い澱んだ少年を睨みつけていた。
俯き、瞳を合わせない態度が更に気に触る。
「ヒソカと、どこへ行ってたんだよ」
言葉がどんどん鋭くなっていく。
いきなり核心を衝かれたゴンは、驚いて顔を上げていた。
「は…なにそんな顔してんの? オレが気付かないとでも思ったかよ」
「…キルア」
「誤魔化せるとでも?!」
0時を回った静かな廊下に、キルアの声が響き渡る。ゴンはびくん、と肩を竦めた。
「……ごめん…」
他に言える言葉が無い。こんなところで会うなんて、考えてもいなかったから言い訳もできない。
2度の逢瀬はゴンの感覚を麻痺させるには十分だった。警戒心も、罪悪感も──いや、逢瀬だけではない。日々重ねてきたキルアへの疑心が、そうさせていたのだ。
だが、こうしてヒソカと分かれた直後にキルアの顔を見れば、なんてことをしてしまったのだろう、と後悔の念がこみ上げてくる。
キルアは、複雑な表情を浮かべたゴンを見て眉間の皺を更に深くした。
「謝るなよな。ヒソカから、こんなプレゼントなんて貰ってさ、さぞかし嬉しかったんだろ?!」
そう叫んだ後、握りしめていた銀の塊をゴンに投げつける。シャラン、と綺麗な音が響いた。
「貰ったって…何を」
ヒソカから何も受け取った覚えのないゴンは、床に転がったそれを見て、さっと蒼ざめていた。
「ちが…これは…っ」
これはキルアに贈るはずのブレスレット──いつかチャンスも来るから、とズシに言われて捨てるのを思いとどまった──美しかったリングは既に原型を留めてはいなかった。
あんなに綺麗だったのに──キルアに似合うって思ったのに。
ゴンは、そのブレスレットの残骸に何も言えなくなる。
もっとも、本当のところを伝えられたところで、キルアには取ってつけたような出鱈目にしか聞こえなかっただろう。それほど彼の頭には血が上っていた。
「何が違うんだよっ! こそこそ隠しやがって──悪かったなあ? 見つけちまってさ。けど、秘密にするつもりなら、もっと……」
放心しているゴンの胸倉を掴み、引き寄せる──と、鼻腔を擽る、微かな匂い。
ゴンの肌に絡まりつく、奴の気配。
結びつく裏切りの事実に、頭の中は真っ白になっていた。
言葉を失った。
手が震える。ゴンの服を掴んだ手が──小刻みに震えて止まらない。
何も考えられない。ただ、心の中に悲しみに似た怒りがこみ上げてくるのが判った。
それはとうとうと流れ出る泉のように心から溢れて、キルアの全てを支配する。
「……っんだよ………っ」
醜悪なその匂いに吐き気を感じ、強く胸を突き飛ばす。
「やっぱりヒソカと寝てんじゃねぇか……っ!」
口にしたくもない言葉を吐き捨て、目の前の顔が歪んだ。
ゴンはただ、苦しそうに眉を寄せていた。目を見開いて、口を結んで──けれど、否定はしないのだ。
違う、誤解だ、と誤魔化す言葉すらない。
「この…っ裏切り者!」
キルアは衝動的に振り上げた拳で、ゴンの頬を殴っていた。
打ち据えられたゴンは、よろめきもせずその場に立ち続けていた。伏せた顔の表情はキルアからは伺えなかったが、真っ赤になった頬と、切れた唇から赤く滲んだ血が彼を煽る。
「ふざけんなよ、お前…っ何時から…」
拳の震えはゴンを殴っても止まらなかった。それどころか全身に波及したそれは、キルアの声も震わせる。
知らずに居たオレは道化者だ。
相手はゴンだから、何も知らない、できない、なんて思ってたのは、大間違いだったってことだ。素知らぬ振りをして、ヒソカと天秤に掛けられてたとは知らなかった。
違うというなら、何故否定しない──? ゴンは沈黙し身じろぎもしなかった。全てが事実だからこそ、何も言えることがないのだ、とキルアは絶望する。
「くそっ…っ」
裏切られた──真っ白になった頭に、その言葉だけが焼きつく。
初めて信頼した、友達であり仲間であり、恋人だって思ってたのに──
けれど、微かな声が聞こえ、キルアの注意を引く。
「……ア…だって……」
見ると、俯いていたゴンが顔を上げ、真っ直ぐに自分を見つめてていた。黒い双眸からはボロボロと涙が零れ落ちている。
濡れた頬、噛み締められていた唇。
それでもキルアは心動かされることなく、やはりゴンを睨みつづけていた。
次の一言を聞くまでは。
「…っキルアだってウイングさんと遭ってるじゃないか……っオレに隠れてウイングさんと何してるの?!」
「……!」
一瞬、キルアは怯む。
やはり知られていた、と驚き、焦りを隠せなかった。誤魔化すために用意していた台詞が出てこない。
「もう嘘つくのは止めてよ! ホントは、本なんか読んでない。なのにっ…」
感情が昂ぶり、上手く言葉を紡げなくなったゴンは、一瞬口を噤む。
震えて拳を握ると、もう一度キルアを見つめなおして、搾り出すように叫んだ。
「オレだって知ってる…っ知ってるんだよ、キルア!」
秘密を暴かれ、動揺を隠せない──そのせいかキルアの、ゴンを睨む瞳の力が少しだけ弱まる。
だが、怒りに支配されたキルアにとっては自分のことなど些細なことだった。瞳に宿った炎は、直ぐに勢いを取り戻していた。
それよりも、ゴンの裏切りを許せない。開き直ったキルアは、ゴンを口汚なく糾弾していた。
「それが──どうしたよ…っ、だからってお前がヒソカと寝る理由になるのかよ!」
「ならないよ! そんなの判ってる……でもオレは──オレはずっと!」
辛くて──っ
だからいけないって判ってても、ヒソカの手が振り払えなくて。
ヒソカは優しくしてくれた。
もう、一人で待ってるのが嫌だった。
キルアが他の誰かと一緒にいる時間を、耐えられなかったんだ。
けれど、それはキルアまで届かない。声になることもない。
「煩ぇよ、言い訳なんか聞きたくねえ!」
大きな声で叫んだキルアに遮られ、消えてしまう。
しゃくりあげるゴンの泣き声の間で、骨の変形する音が響いた。
「オレから逃げるなら、殺してやる」
「逃げてなんかないっ」
キルアはゴンの肩を掴んで壁へと押し付けていた。そして、凶器と化した手を彼の喉もとに突きつける。
「黙れって云ってるだろ!」
「オレはキルアから逃げたりなんか、しない! 逃げてるのはキルアの方だっ」
「……っ」
首筋に当てた爪の先端を数ミリ引く。
赤い筋が喉を伝った。
それを見た途端、血の気が引いた。
殺せない。
でも、ゴンの顔を見るのが辛い。
裏切られた──その憤りは消えない。なあオヤジ。仲間を裏切らない、って約束したけど、自分が裏切られたときはどうすればいいんだ?
喉へ押し当てていた手をゆっくり離すと、キルアはゴンから一歩退いた。
壁に身体を凭せ掛けた少年へ向けていた、射殺すような視線を引き剥がす。
噛み締めた唇から、やはり赤い血が滴り落ちた。
これ以上、ゴンと共に居るのはムリだ。ここには居られない。
そう、思った──

一人残されたゴンはその場に蹲った。
頭がガンガンする。
割れそうに痛い──殴られた頬よりも。
ゆっくりと腫れた瞼を伏せると、抱えた膝に顔を埋めた。
疲れた。
痛む頭を横たえると、直ぐに眠りのヴェールが降りてくる。
「うそつき…」
小さな呟きを最後に、ゴンはゆっくりと混沌の中へ沈んでいった。




手ぶらの少年がふらりと訪れたのは、小さな宿屋だった。
部屋の借り主が玄関を開けると、まるで殺人鬼然とした顔つきに驚かされた。そして、続いた台詞にも。
「泊めてくれよ」
「キルア君…どうしたんですか、こんな夜中に」
「いいから、泊めてくれんの、くれないの?! どっちだよ」
キルアは、事情が飲み込めず、なかなか返事をしないウイングに焦れる。
入れてくれないのなら、別のところへいくからいい。本当に何も持たずに出てきたから、カードも金もない。だが、ちょっと面倒だが通りで立ってりゃ、誰かが声をかけてくるだろう。
夜の街の歩き方には慣れている。
それよりも、今ここで、好奇の視線に晒されているような気がする方が、我慢ならない。
「……っもう、いいっ」
かっとなったキルアはそう云うと、男から目を逸らして扉から離れようとした。
「待ちたまえ」
だが、ウイングが腕を掴むと少年を引き止めた。
理由はなんにせよ、このまま追い返してしまうのは教育者としての性が許さなかった。例えそれが、自分を窮地に追いやるとしても、だ。
おそらく目の前に立つ少年は災厄以外の何者でもない。ズシの居るこの部屋に泊めることがどんなに危険なことか──それを思うと、彼の申し出を受け入れるのは得策ではなかった。
しかも、キルアの部屋で行為に至ったあの日から数日──既にウイングの中では、重く圧し掛かってくる関係を清算すべく、気持ちの整理が進み始めていた。
どういう理由があってゴンがヒソカと抱き合っていたのかは判らないが、この泥沼に浸かったままではそれを問いただすことも出来ないと思ったのだ。
いや寧ろ──この事態を招いたのは自分なのだ。ならば終わらせる切っ掛けも作り出さねばなるまい。それが、幾晩か、眠れぬ時間で考え続けて得た結論だったのだ。
ここで彼と接触することは、何もかもを振り出しに戻してしまうことと変わりない。
だからといって、彼を追い返してしまっていいのか?
この殺伐とした夜の街の真ん中へ。けして感心できない人種が徘徊する、この街へ。
無理、だ。
ここで放り出せば、彼がどうするのかが容易に予測できるだけに、ウイングは受け入れざるを得なかった。
「今夜はもう遅い──入りなさい」
愚かだと自覚しながらも銀髪の少年を薄暗い部屋の中へ招き入れ、扉を閉めた。

気配に気付いたのかズシが起きだしてきていた。
寝ぼけ眼であった少年も思わぬ訪問者に驚き、戸惑う。
「…どうしたんスか?」
「ゴンくんと喧嘩でもしたんだろう」
心配しないで眠っていなさい、と促す。話を聞いておくから、とズシの肩を持って早く自室へ戻るように誘導した。
その知った風な言い方が、またキルアの気に触る。
善人面しやがって──何が喧嘩でもしたんだろう、だ。誰のせいだと思ってやがる。
お前も地獄に落ちろ。
完全な責任転嫁に顔を歪めた少年は、部屋の真ん中に配置された小さなテーブルの上に腰をかけ、不機嫌に彼らの会話を遮っていた。
「煩いな。グダグダ言ってないで、泊めてくれればいんだよ。オレ、あんたと同じベッドでいいから」
「!」
同じベッドで、と言われてウイングは不覚にもズク、と身体の芯がが疼くのを感じてしまう。
だが部屋へ戻りかけていたズシが最後の言葉を聞きとがめ、振り向いた。キルアとウイングの両方を見るズシの瞳には、不審な影が映っているようでもあり──。
「っ…いや、その…私はソファで寝るから構わないよ、君がベッドを使えばいい」
「師範代…?」
ウイングは、慌てて取り繕うように笑った。
ズシにはキルアの言葉の意図も、ウイングの笑いの意味も判らず、ただ困惑していた。
確かに師範代は優しいけれど、夜中に突然訪れた少年にこんなあっさり自分のベッドを明け渡すなんて、筋が通らない気がする。例えば、自分のベッドで一緒に休んでもらうことだってできるのに。
「あ、そ。じゃあ一人で使わせてもらうし」
だが、キルアもまるで遠慮なく、テーブルから飛び降りてウイングの部屋へと向かっていく。
ズシにはそれを見過ごすことができなかった。
「いえ、キルアさん。ソファには自分が寝るッス。だから、キルアさんは自分の部屋を使ってください」
「……ふぅん?」
それでいいのか、とキルアは視線を上げた。
無論、その先にはウイングが居る。
ズシも、ウイングを見上げて彼の許可を待っていた。
自分を追い詰める二つの視線に、男は脂汗が流れるのを感じた。
ズシの部屋へ泊まらせることで、自分とキルアとの間にズシが存在する──行動の端々に態と淫?な仕草を織り交ぜて自分を誘うキルアとの間に。ズシがいくら純真だとはいっても、気付かれるのは必至だ。それに、もしも行為に及ぶのなら──微かな期待もしてしまっているのも事実だ。
今はキルアを放り出せない。だが、ズシに本当のことを言えるわけもない。これまで彼と犯してきた罪を暴露するだけの勇気は、ウイングにはなかった。そして、結局その罪を償うことも改めることもできないのだ。
部屋の敷居をキルアが跨いだ時から、覚悟はしていた。窮地が、こんなにも早く陥れられるとは思ってもみなかったが──ウイングはこの先を思って眩暈を感じる。
答えないウイングに焦れて、ズシが声を上げた。
「師範代」
「……いいんだよ、ズシ。キルア君とはちょっと話もしたいからね、君は自分の部屋で寝ていなさい」
もしも、ズシと一緒の部屋で寝るように指示できたなら──きっとキルアとの関係も清算できただろう。
だが彼を切り離すことが出来ない。誘惑に弱い自分の心に、呆れた。
ズシは酷く不満そうに言葉を返そうとしている。
「でも」
猶も食い下がろうとしたズシの言葉をキルアは嘲笑い、ウイングの部屋へと歩き出していた。
「おやすみな。ズシ」
「キルアさん!」
引き止める叫びを無視して、キルアは部屋の扉を開けた。
中へ入り込むとき、一度だけ振り向くとにっこり笑う。
「あ、そーだ。明日の朝だけど、オレのことは起こさなくていいから。飯もいらないし。よろしく」
早朝修行には付き合えないから、と言って、キルアは扉を閉める。
どこまでも勝手な言い草に呆れた二人は、リビングに取り残されていた。

不満を申し立てるズシを宥めて、部屋へ戻したウイングは小さく溜め息を吐いた。
真面目なあの子のことだ──キルアの奔放なところに反発を感じているのだろう。
弟子の憤りの原因を、あまり深く考えることなくウイングは結論付けていた。
幼い頃から心源流の門下生として生活してきた少年にとっては、キルアのような存在と関わる機会は無かったはずだ。こと、規範規律に対して、良識の薄そうなタイプとは──
そこまで思って、ウイングは溜め息をついた。
キルアのことを言えるほど、自分の良識が立派なものだろうか? 寧ろ救い所のない愚かな己の行為に、奈落の底に突き落とされているというのに。
自室へ戻ると、彼はベッドの上に横たわっていた。サイドテーブルのランプが薄暗く彼を照らす。
くくく、と声を殺して笑う少年を睨みつけたが、その視線には迫力が無かった。
「センセイってばタイヘーン」
「どういうつもりなんですか」
「さあ?」
この子は、ただ困らせるだけのためにあんなことを言う。
試されているのだ。
ウイングにはそれが判っていても、叱ることさえできなかった。
「話がしたいから、だってさ。おかしいなあ、あんた」
本当はそんなんじゃないくせに、と目を細めている。
他になんと言えばよかったのだ。
ウイングは、嘲笑を止めない少年に憤りを感じて唇を噛んだ。
「見た? ズシの顔。すっげーショック受けてるみたいだったぜ?」
反応を返せば、面白がってエスカレートすると判っていても、無視することができない。
「……君は……何しに来たんですか」
「あんたの相手、しにきてやったんじゃん。久しぶりだしさ。溜まってるだろ?」
身体を起こして、柔らかな指先を撓らせる。
淫らな動きが放つ強い誘惑に晒されて、ウイングはつい手を取ってしまいそうになる──が、泣きそうな顔をしていたズシを思い出し、上げかけた腕を留めた。
深く深呼吸をして、騒ぐ心を押さえつける。
駄目、だ。
夜、話をするのは良くない。闇が彼に力を与えて、惑わされてしまう。
今日はとりあえず、寝かせるだけにしよう、とウイングは話を切り替えた。
「結構です。とにかく今夜は寝なさい。疲れてるでしょう」
「別に。疲れてねぇよ。いいからしようぜ?」
動揺するな、と何度も言い聞かせながら、キルアへ近づき掛け布団を引き上げた。
その手の甲にキルアの指が絡む。
冷たくて細い、愛しい指──
「やめなさい…っ」
キルアはぱん、と弾かれた掌をじっと見つめた。この反応が示すのは──拒絶、だ。
まさかウイングが本気で嫌がるなんて──ゴンだけじゃなく、こいつも、か。
虚しさが広がっていく。
世界でたった一人ぼっちのような。
「ゴン君と喧嘩をしたからって、当て馬にされるつもりはありません」
「………」
「私は本当に君に溺れていますが──そこまで陥ちてもいないのですよ」
傍らに立つ男を見る気にもならなかった。
「──興ざめ。いい、寝るから」
意気地のないウイングを鼻で笑うと、キルアは膝までかけられた布団を掴み、頭から被って身体を横たえる。
もう、何も見たくなかった。
聞きたくもない。
「そうなさい。明日、ゆっくりお話を聞きましょう」
話せることなんて、もっとない。
「うざってぇ」
「そうですか」
ウイングは苦く笑うと、ランプのスイッチを消した。
闇だけが、優しく彼を包み込んでいた。

眠れない。


僅かに感じる浅いまどろみも、すぐに意識がゴンを探し、強烈な、焦燥感にも似た怒りに晒されて頭が冴えた。
何故、と繰り返し叫ぶ心が、引き裂かれる痛みに泣く。
眠ろうと目を閉じると、ゴンの顔が浮かんだ。
笑っている、照れている、ゴン。
喜んでいる、悲しんでいる、ゴン。
振り向いて、驚いて、ぎゅっと抱きしめて──ゴン──泣いていた。
何故、オレを裏切った。
何故ヒソカと──何故。
ヒソカの身体の下で官能に悶えるゴンの顔がまざまざと瞳の奥に映り、キルアは頭から布団を被って膝を抱えた。
物足りなかった? つまらなかった? 本当は初めから、ヒソカの方がよかった?
他に欲しいものがあるのなら、オレなんか迎えに来なければ良かった。今更放り出すなんて、それはとても残酷だ、ゴン──
止まない頭痛に苛まれ、布団に包まっていたキルアの背後で、きぃ、と扉が開く音がした。
「キルアさん」
ズシが呼ぶ声が聞こえる。
だが、キルアは返事をする気にはなれず、ベッドの中で身じろぎもせずにいると小さな手が肩に乗り、緩く身体を揺すった。
「キルアさん、食事ッス──起きてください」
「──いらないって言わなかったか」
たったそれだけのために、わざわざ起こしにきたのかと腹が立った。
夕べ、確かに朝食はいらないから、と釘をさしておいたはずだ。人の話を聞いてないのか、と肩越しにズシを睨みつけると少し困ったような顔をしている。
「んだよ」
「でもキルアさん──もう昼食の時間ッスヨ。だから……」
ズシはさすがに空腹を感じているのではないか、と言った。
昼──そうか。
そういえば、随分前から部屋の外には人の気配があった。そんなにも時間が経っていたとは気付かなかったが──消えない業火の中でその身を焦がしていたキルアには、時間の感覚が薄れていた。言われてみれば、ベッドサイドに置いてある時計の針はどちらも上を向いている。
「……あ、そ……」
気が抜けた少年は、のそりと身体を起こして頭を掻いた。
空腹は感じていない。自分の体は空虚に満たされて、何も受け付けない気がした。
「あぁ──悪いけどオレ、別に」
「お口に合うかどうかは自信ないッス。でも、一生懸命作りましたから!」
食事はいらない、と断る前にズシが大きな声で是非食べてくれ、と叫ぶ。
「お前が作ったわけ?」
「ウス」
「……判った」
ああ、と溜め息を吐きたくなるほど、明るい笑顔が心底恨めしい。
だがズシの、この押しの強さを突っぱねられるだけの気力が起こらない。いらない、とどれだけ言いつづけても、きっと許されないのだ。一口でもいいから、食事をするまでは。
「どうぞ」
部屋から出て、キルアがベッドから降りてくるのを待っているズシは、まるで何かの使命を受けているかのように険しい表情だ。
仕方ない、ともう一度溜め息を吐くと、キルアは渋々と身体を動かした。

テーブルの机の上に用意された二人分の食事を見、首を傾げる。
それから部屋を見渡し、男の存在がない事を確認するとキルアは席についた。
向かいに座ったズシが箸を取り、いただきます、と頭を下げている。つまり、あの男の分は初めから数に入っていなかった、ということで。
そこまで思考をめぐらせて、案外自分は落ち着いていることに気付いた。
永久に沈みつづけてしまうのではないか、と思っていたベッドから出、こうしてテーブルについている。時折、あの焦燥感が腹の中で暴れまわるが、ズシが平和に食事をしているところを見ていると、それも如何にか霧散していくのだ。
「あ、箸はまずかったすか!」
なかなか食事に手をつけようとしないキルアを見て、妙な勘違いをしたズシは慌てて言った。キルアは勘違いをしてフォークかスプーンを、と席を立とうとした友人を目で制し、肩を竦めた。
「別に使えるよ、箸くらい……じゃなくてさ、あいつは?」
箸を手に取り、煮物の一つを摘み上げてみせる。滑る芋を器用に先でキープして、口の中に放り投げた。
「師範代なら、お出かけっす」
「どこへ」
問われたズシは、明確な答えを返さず俯いてしまう。
知らないのか、言えないのか。だがズシの性格を考えれば、ウイングの出かけた先もおのずと知れる。
あいつ、ゴンのとこへ行きやがった。
余計なことを、と腹立たしく思いながら焼いた魚へ箸をつけた。幾切れか口の中へ放り込み、租借を繰り返す。
ゴンと会って、何を話すっていうんだ。
オレのことか? 会って、懺悔する?
そんなこと、あいつはもうとっくに知ってる。
それにきっと、ゴンは部屋になんか居ない。あいつの居るところは──あの小さな身体に絡みつく長い腕の持ち主の──
「!」
不意に心の中に浮かんだヴィジョンに、弾かれたようにキルアは立ち上がっていた。
「キルアさん?」
驚いたズシがじっと彼を見つめたが、それに返事をするだけの余裕もなく、キルアは椅子を蹴倒し、口元を手で押さえてすぐ目の前にある流しへと走った。
腹の底からこみ上げてくる不快な塊が、食道を駆け上がってきていた。焼け付くような痛みが喉を刺す。
銀色の清潔感溢れるシンクへと辿り着いた途端、それは堰を切って溢れ出した。
「ぐ…ゲェエエエッ」
醜い声と共に胃の中に入れたばかりの僅かな食材が、鈍く光るステンレスの上へぶちまけられていた。
「どうしたんすか!」
ズシも狼狽し、駆け寄ってくる。
暖かな掌が、労わるようにキルアの背中を摩る。だが、自分よりも高い体温が、ゴンを思い出させて更にキルアの嘔吐を誘った。
「さわん、な…っ」
添えられた腕を乱暴に叩き落として、吐瀉の切れ間にズシを怒鳴りつける。
昨夜から何も食べていなかったせいか、キルアの体内から溢れ出てくる物は黄色い胃液ばかりだった。それでも押さえきれないむかつきが、新たに嘔吐を催す。
痛い──溶解液がキルアの喉を、粘膜を焼く。
頭の血管が破裂しそうだ。自分の中にある何もかもが唯一の出口を目指して逆流してくる。胃壁と腹の筋肉はいつまでも鋭く痙攣し続けていた。

しばらくして、ようやく吐き気の収まったキルアは、その場にずるずると膝をついた。シンクへしがみつくように手をかけたまま、吐瀉の苦しさから滲み出た涙と、すっぱい胃液のこびりついた口元を拭い、肩で息をする。
声もかけづらく、だがその場から離れることも出来ずに、介抱をも拒絶されたズシは、何もできずにその背中を見つめた。
彼は何か、病気なのだろうか。ならば、すぐに横になった方が良い。いや、自分の作った食事が悪かったのかもしれない。
いずれにしても、医者を呼ばねば。こんな激しく嘔吐するなんて、尋常ではない。
だが、あれこれとしなくてはならないと思うが、動くことができなかった。
妙に緊張した空気に、体が硬直してしまったように感じる。極度のパニックに陥った結果だったが、ズシにはそれも理解できずにただただ、どうしよう、どうしようと頭の中で騒ぎつづけることしかできなかった。
その緊迫した空気の中、ぎぃ、と音を立てて扉が開いた。

ひょっこりと扉の間から姿を現したウイングは、二人の間に何か張り詰めたものを感じて眼を瞬かせた。
「どうしたんですか、二人とも」
「師範代」
彼の纏う和やかな空気に、ズシがほっとした表情を見せ、キルアは眉を顰める。
そのやたらに温い声色を聞くとまた吐き気を催しそうだった。微温湯の中にいる彼らに背を向けたままで、キルアは胃液を吐き出す代わりに毒づく。
「…っどうだったよ、ゴンの部屋は」
「キルア君…?」
キルアの蹲る汚れた台所を一瞥したウイングは、何も言わずにズシの横を通り抜けた。バスルームから小さなタオルを持ってくるとキルアに差し出す。
「シャワーをつかいなさい。気分が悪いだろう?」
「ゴンはどうだったって聞いてんだよ!」
差し出されたタオルを勢いよく叩き捨てたキルアのヒステリックな怒声に、ウイングは眉間の皺を深くした。
なんと答えたらよいものか、と一瞬言葉を捜してしまう。だが、何をどう誤魔化したところで、勘の良いキルアのことだ。何もかも見抜いているだろうと半ば諦めて行き先を告げた。
「会えませんでしたよ。君の部屋も見に行きましたけどね。返事は無かった。どちらも鍵がかかっていたから、部屋の中までは確認していないんですが……」
「そんなとこに居る訳ないだろ。あいつのいるとこなんて、わかりきってるじゃねぇか。そこも見てきたんだろ」
「とにかくシャワーを浴びてきなさい。昨日だって、そのまま寝てしまっただろう?」
「誤魔化すなよ」
執拗に絡むキルアには、何も言っても埒があかない。
彼が引き出したい答えは判っていたし、事実ゴンの居場所は彼が思っている通りの場所だった。けれど、それをズシの居るここで口に出せるほど、ウイングの心臓は強くない。
「誤魔化してはいませんよ」
キルアは偽りを平然とその舌の上に乗せる男を、見た。その瞳からは、次第に力が失われ虚ろに曇っていった。
誤魔化さない、という男が、一番何もかもを混沌の中に押し込めている。そりゃあそうだろう。あんたにしてみりゃ、真実をズシに知られるわけにはいかない。あんたの立場ってのが強くオレを拒ませている。
でも、あんたは止めろ、って言うけど、本当に最後まで拒みきることができるか?
この、意志の弱い男が。ゴンじゃない。あのオレが憧れる、強い瞳の持ち主とは違うのだ、この男は。
捕食者としての本能が疼く。追い詰め、どうしようもなくなって、自分を抱いた時の表情を思い浮かべると、笑いがこみ上げてくる。
貶めたい。
誰かを代わりに傷つけなければ、とても正常では居られない。
く、くく、と喉を引き攣らせたような笑いがウイングの耳に届いた。
「キルア君…?」
俯き、震えている肩に、男の指が触れる。
泣いているのでは──そう思ったのだ。だがそこへ、重ねられた指の冷たさに驚き、思わず手を引いていた。
「……」
離れる瞬間、少年の口が僅かに動いた。それをしっかりと聞き取ったウイングは、汗ばむ掌を握り締める。
「何を…馬鹿な──……」
頻りに後ろを気にしているのは、ズシに声が届かなかったかと憂慮しているせいだ。
馬鹿な、とか言いながら本心では誘惑に乗りたくて仕方ないって顔だぜ、ウイング。
ほんの一動作、ほんの一言で、こんなにも翻弄されている男を大声で嘲笑いたい。
「──ズシ、シャワーを出して浴室を暖めてきてください」
「シャワーすか」
「すぐに、です」
「は──はい」
いつもとは違う強い声に驚き、跳ね上がったズシは慌ててバスルームへと走って行く。
「なんだよ。聞かせらんない? あいつには」
意地悪く口端を歪めて笑うキルアを見、ウイングは唇を噛む。
「君達の喧嘩の原因を作ったことは申し訳なかったと思ってます。だが、もうこれ以上」
「してよ」
「キルア」
「なあ。して」
「……っ」
「それとも、オレは汚いから嫌かよ?」
キルアは目を細め、指先で薄い唇を辿って見せた。
そんなわけがあるものか。
吐瀉物に塗れた今でさえ、君はこんなにも私を惑わし──君の中から排出されたものならば全て受け入れられる。穢れなど感じもしない。
だがバスルームにはズシがいる。すぐにシャワーで湯を張り、ここへ戻ってくる。
「シテ」
ゆっくりと動く唇は、男を誘いそこを奪えと命じている。
そしてウイングは、誘惑に抗う術を持たなかった。
「ん」
熱に浮かされて、キルアの唇を噛み付くように塞いでいた。
いつもの柔らかさ、いつもの温もりに混じって、鼻につく異臭と胃液の味が口内へ広がる。だがウイングは、夢中になってキルアの歯列を割り、熱い粘膜の中へと舌を差し入れて、そこへ残った嘔吐の名残を全て絡めとってしまおうと激しく貪った。
彼にとっては、それすらもキルアの一部で──愛しい。
「ふ…っん…」
甘く鳴る鼻声が、男を昂ぶらせていた。
このまま床へ押し倒し、隅々まで嘗め尽くしてしまいたい欲望に駈られる。
空いた片手でキルアの身体を求め、服の端から滑らかな肌を探した。数日振りの彼の感触が歓喜を呼び起こす。
けれど、意識の端で捕らえた水音が、一瞬でウイングを現実に引き戻した。ズシがバスルームの扉を開け、外へ出てきたのだ。もう何秒もせずにここに現れる。
どん、と少年の胸を押し、身体を離したウイングは蒼ざめていた。
「君は」
その震える唇は怒りか、動揺か。
いずれにしても、この男のこういう顔は胸がすく。
そして今、キルアの浮かべた笑みは、どの笑顔よりも美しいとウイングに感じさせるのだった。

浴室から出てきたズシが、床に座り込んだままの二人の背後から声をかけた。
「師範代、浴室暖まったッス。もう入れますよ」
無知とはなんと幸せなことだろう。
キルアは少年に見下したような視線を向け、立ち上がると不機嫌さを隠しもせずに言った。
「風呂なんか誰が入るっつったよ」
まさか、そんな言葉が聞かれるとは思っていなかったズシは、まるで豆鉄砲を食らったような顔でキルアを見る。
だってそんなに汚れているのに。
そう言いたげな瞳が、逆に自分を蔑んでいるように思えて、キルアには腹立たしい。
「ほっとけ」
くるりと背を向けると水道の蛇口を捻り、冷たい水を出す。
どうせお綺麗なガキには判るわけない。理解できない。
ああ、お前は綺麗で、オレは汚い。けれどお前が一番信頼している男だって、汚れてるじゃねぇか。お前だけが外に居る。
乱暴な仕草で汚れた手を洗い、口元を拭うと一緒にシンクの中の汚物も流れ去っていった。
「関係ないだろ?」
お前は蚊帳の一番外側の人間なんだ。
キルアはそうきっぱりと線をひき、突き放すように言った。
飯を食えなかったのには少しだけ罪悪感を感じたが、そうなるのも当たり前だったのだ。無理強いするヤツが悪い。
心の中でそう割り切り、「オレ、しばらく寝るから」と言って、元居た部屋に戻るため、二人の間をすり抜けようとした。
けれどウイングの強い声が彼を引き止める。
「待ちたまえ」
動揺を抑え、どうにか平静を装ったウイングが立ち上がっていた。
「うっせーな、まだなんかあるの?」
「一度、自分の部屋へ戻りたまえ。そこではなく──闘技場の、君の部屋だ」
キルアは一瞬耳を疑った。
このウイングが、はっきり自分に対してこんな物言いをするとは思いもよらなかったのだ。
数秒後、彼の言葉の意味を理解したキルアは、頬を強張らせて口を動かした。
「は……追い出す…か?」
常に目の前にぶら下がっていた選択肢だった。
同時にこの男に選べられるわけが無いとも思い込んでいた。まあ──少しは人間らしいということか。
当然といえば、当然の展開をあっさりとキルアは受け入れ、肩を竦めた。
「ま、仕方ねえな」
じゃあ、とそのまま爪先の向いている方向を変え、玄関から出て行こうとする。
だが、ウイングは更にそれを引き止めて言う。
「そうじゃない。ここに居たいのなら、話をした後また戻ってきたっていい。出て行けというわけじゃないんだよ」
そう云いながらも、ウイングは眼鏡のブリッジを右の人差し指でしきりに押し上げる。キルアには、その落ち着かない所作が本当の彼の気持ちを表しているように見えていた。
「あ? なんだよソレ」
話をするってどういうことだ。
だいたい、訳わかんねぇよ。出てけっつったり、戻ってこいっつったり。
矛盾する主張と煮え切らない態度に苛つき、キルアは声を荒げた。けれどウイングは、尚も必至で彼に語りかける。
「ちゃんと──ゴン君と話をした方がいいと言ってるんだよ」
「知るかよ」
「君だって何時までも逃げてばかりいられるわけじゃない──判ってるんだろう?」
「ああ?」
「ちゃんと謝れば、彼だって話を聞いてくれる」
もしも君さえ良ければ、私も共に謝りたい。
許されるとは思えないけれど──それが自分の責任を取るということだと、ウイングは信じて言った。
「謝る──? 誰が……?」
説得を続けようとしたウイングは、目の前の少年が一つのキーワードに反応し、ゆうらりと空気を波立たせたことに気付いて息を呑んだ。
「──誰が、誰に、何を、だよ? 謝んのは寧ろ、あいつのほうだろ!」
その声は悲鳴のように悲しみに満ちていて、ウイングは返す言葉を失ってしまう。
彼の主張が、履き違えた事実の上に成り立っているとしてもだ。
「あいつはオレを裏切ったんだ…! ずっと…待ってたのに…っ一緒に花火を見ようって、思ってたのに!」
キルアの勢いに気圧された二人は、二日前のカーニバルを思い出した。
ウイングとズシはパレードを見に行くことはなく、この宿の庭先から派手に上がる花火だけを愉しんだ。ズシは、あんなに盛大な花火を見るのも初めてで、とてもはしゃいで──
ようやく朧げに事の概要が見えてきた男は、なんとか彼を宥めようと試みる。
「だが──彼にも何か事情があったのかもしれないだろう」
「事情だ? なんのだよ。あいつと遭うために姿くらましてたのが事情かよ?」
「それだって確認しなくちゃ判らないだろう?」
「じゃあアイツは今どこに居るんだよ! あんただって知ってるだろ! 言えよ!」
「それは」
「そういうことなんだよ!」
激しく神経を昂ぶらせたキルアの指先が、ビキビキと音を立てて変化し始めていた。意思を伴なわぬ変化を経て、爪がナイフのように尖り──だがキルアはそれと気付かず、両手で胸を掻き毟る。
変貌を始めてみたウイングは、いったい念も使わずにどうやって、と眼を見張る。それが、初動を遅らせた。
「──!」
気が付いた時には、切れ味のよい爪が滑らかな肌を傷つけ赤い血が流れていた。我に返り、蒼ざめたウイングが手を伸ばし、両腕を引き剥がす。
けれどキルアはそのまま手を握りこみ──爪を握りこんだ掌も傷つき、流れ出した血が腕を伝った。それはまるで泣いていないキルアの涙のようで、ウイングの胸を締め付ける。
「キルアくん──キルアっ、止めるんだ!」
必至のウイングの呼びかけも彼にはとどかない。
錯乱し、胸の底に澱んだ想いを吐き出していく。
「なんでだよっ! なんでアイツは居ないんだっずっと一緒に居るって…っオレを好きだと云ったのに!」
「キルア」
裏切られれば、誰だって傷つく。
けれど、それは自分だけではなく相手も傷ついているのだとは、まだ判らないのだ。
始めに裏切ったのは君なのだ、と言えば納得できるのだろうか──?
原因の一端を担っているウイングには、ただ少年を抱きしめるほかにできる術が思い当たらず、腕を伸ばす。
「近よんな…っ」
「…っ」
鋭い切っ先が、ウイングの頬を掠めた。薄らと赤い線が浮かび上がり、だらりと温かい液体が流れ落ちてきた。
「師範代…!」
悲痛なズシの声が聞こえた。
けれど、躊躇せずウイングは彼の腰をひき、胸の中に小さな身体を収めてしまう。
「もう止めるんだ」
「煩ぇ…っはな、せ…っ!」
爪を立て、腕を突っ張り、なんとか遠ざかろうと試みるがびくともしない。
相手が誰であろうと力負けするとは思っていなかったキルアは、躍起になって暴れたが、やはり抜け出ることはできなかった。
(この…っ馬鹿、力…っ)
「んだよ、いったい……っ!」
もがくキルアを見下ろし、静かに口を開いた。
「私が…っ君たちを傷つけてしまった…本当にすまないと思っています。でも私は本当に君が好きだった」
愛している。
それを人前で言うとは考えたことも無かった。しかもズシの前で。
暴れていたキルアも、耳に飛び込んできた思わぬ台詞に一瞬動きを止めた。
「今だって惑わされてる、ただからかわれてるだけだと知っても、なお──」
「おい」
ズシのいる前で、何を言い出すのかと驚いたキルアは、ウイングを制止しようとしていた。急激に混乱していた意識が醒めていく。
けれど、彼は深く抱きしめ、キルアの肩口に顔を埋める。キルアがズシの方へと目を遣ると、その抱擁の意図するところに気付いたのか少し顔を赤らめ動揺しているのが判る。
小声で離れろ、と囁くがウイングは無視して話を続けた。
「君を想う気持ちに偽りなんか無い。けれど──だから、君とはもう関係はもたない。君は、私と関係することで、自分を追い詰めようとしてるんだ。そんな姿は、見たくない──」
毒気の抜かれたキルアの身体を優しく包み込むウイングは、顔を上げて笑った。
「ば…ばっかじゃねえの?」
頭の冷えた少年は、男の愚行をそう詰った。
「落ち着くまで、ここに居なさい。もう、無理にゴン君に会えなんていいませんよ。だから自分を傷つけるのは止めてください」
君の流す血は悲しすぎる。
どういう仕組みになっているのか判らないが、彼の激情が収まると共にビキビキと骨の変形する音をたてて手の形状がもとへ戻っていった。だがその爪先にについた血も、掌についた傷もそのまま──
「手当てをしましょう」
ぽん、ぽんと肩を叩き、薬箱の法へと顔を向けた。
そこで、ウイングは漸く少年の存在に気付き絶句した。
「──ズシ──」
「あ──薬箱なら、自分が──」
動揺しているのだろう──ばたばたと薬箱の場所へ駆け寄る間にも、何度も躓く。
(……バカ……)
キルアは自分に背中を向けているウイングの顔を想像して溜め息を吐いた。

キルアが去り、廊下に蹲ったまま眠ってしまったはずだった。
なのに、目が覚めてみれば柔らかなベッドの上にいる。まだ目は開けていないけれど、このふわふわとした感触は間違えようがない。
(オレ……何時部屋に入ったんだろう……)
疑問符がゴンの頭の中に飛び交っていた。
いつもと変わらぬ柔らかなシーツに柔らかな羽毛の布団。
一瞬、夕べのことは全て夢だったのでは、とも思った。

キルア。

そう呼ぼうとして、声が出ないことに気付く。
薄らと開けた瞼が重い。
そして、自分のものでもキルアのものでもない匂いが彼に完全な覚醒を促した。
「!」
急いで身体を起こして部屋を見回す。
内装は自分の部屋とよく似ていた。けれど、ほんの少し豪華で、塵一つ落ちていないここは、自分の部屋じゃない。
いつも脱ぎ散らかしてある服もない。キルアが買い込んでいるお菓子もない。
そして、ソファが違う──
「起きた?」
気配に気付いたのか、そこに座っていた男が立ち上がった。片手に、大きなカップを持ち、近づいてくる。
「飲むといい……喉、嗄れてるだろ?」
ベッドへ端座するとゴンの手にカップを渡す。
言われるがままに、ゴンは中身を飲み干した。
温いミルクが、喉を潤す。甘さが、このミルクがゴンだけのために用意されていたものだ、と知らせる。
「───ありがとう、ヒソカ」
空になったカップを差し出すと、彼はどういたしまして、と微笑んで受け取った。
夕べ、キルアが去っていってしまった後──廊下で泣き疲れて眠ってしまった後で、空に浮かんで飛ぶ夢を見た。それにはヒソカも出てきて……どうして泣いてるの、って聞かれたんだ。オレは、キルアが行ってしまった、って──それだけしか言えなくて──でも、暖かい雲に包まれて、また直ぐ眠っちゃったんだった。
夢だと思っていたけど……本当だった。
「随分泣いたね。目が腫れてる」
そうっと指先が近づいてくる。優しく目尻をぬぐわれて、ゴンはびくん、と身体を竦ませた。
ヒソカの顔が近づいてくる。
触れられる。
これから唇に与えられる愛撫を予想して、ゴンは瞼を伏せていた。
けれど、暖かな吐息は、触れるほどの距離でぴたりと止まった。
「──?」
ゴンはいつになってもヒソカを感じられないことを不思議に思って、少しだけ瞼を上げた。と、目を伏せたときと一ミリと変わらぬ距離でヒソカが自分を見つめている。
「な──に──」
「なんだかすごく嫌そうだ」
本当にキスしてもいいのかな?
それを聞いて、ゴンはとても不思議そうな顔をして、ヒソカを見上げた。
嫌──って──
そんなつもり、全然ないのに。なんでヒソカはそんなことを言うのだろう。
嫌だと言われれば、無理にでも唇を奪うつもりであった男は、ゴンの頬から顎へかけて指を這わせる。
「いや─じゃないよ──」
そう言って、微かに首を左右に振るがゴンの唇は強く噛み締められて、何かおぞましいものに耐えているような顔をしている。比例するかのように、眉間の皺は更に深く険しくなって──
いやじゃない、だって?
相変わらず君は自分の気持ちにも疎いね。
だからといって、教えてあげるほど親切でもない。ヒソカはゴンからすっと身体を離すと、ベッドからも降りてしまった。
「ヒソカ?」
後ろから不安そうなゴンの声が聞こえる。だが、ヒソカは掌をひらひらと舞わすと
「ああ、いいよ。気にしないで」と彼をあしらう。
「あの、ひそか」
ヒソカは掛けてあった青い上着を取り、袖を通していた。
鮮やかな色が、彼の身体を纏わりつくようにして隠していった。変則的な衿元は、彼の奇抜さを際立たせる。
呼びかけを無視されたゴンは、ただぼんやりとヒソカの着替える様を眺めていた。
いつも脱ぐところはどきどきして見ていたけれど、服を着る時には自分の頭が朦朧としてしまっていて記憶がない。珍しいなと思っていると、不意に振り向いたヒソカと目が合った。
「!」
慌てて目線を逸らした少年を咎めず、ヒソカはまた大きな鏡に向き直って身支度を続けた。髪を手で撫で付け、ゴンに背中を向けたままで言う。
「ボクこれから出かけるんだけど──目覚めたなら、もういいよね。……部屋へ戻るかい?」
それは出て行けってことなのかな……それとも、試されてるのだろうか。
でも、どっちにしたって他に居られる場所なんて──と、ゴンは引き寄せた膝に額をつけた。自分の部屋にもキルアの部屋にも、彼の姿はないのだから。
夕べ、自分を置いて行ってしまったキルアは、きっとあの人のところにいる。
想うだけで胸が引き裂かれそうなほど痛む。
とても戻れない。戻れるわけが無い。
「オレ……もう少し居ちゃいけないかな……」
顔を伏せたままのゴンの口から発せられたその言葉に対しても、ヒソカはあまり気持ちを動かされた様子もなく淡々と返事を返した。
「ここに?」
「あ…うん、でも・……」
もう出かけるのなら迷惑だったと思い直して、ゴンは口篭もってしまった。
ヒソカは否定も肯定もしなかった。ただ、衣服を整え、鏡の中の自分を見ている。
ゴンにはそれが、答えを迷っているようにも見えた。きっとヒソカにとってもオレがこの部屋に居るのは迷惑なのだ。そう思って、少し悲しくなる。
どこに居ても、こんなのばっかりだ──
再びぎゅっと膝を抱き、涙に滲みかけた視界を隠す──が、耳に届いた声はその予想を裏切った。
「──居たければ、居ればいいよ。ボクのことは気にしてくれなくていい」
「…ほんと?」
「用といっても、そう長くかかるわけじゃない。2~3時間で戻ってくるしね。君もまだ眠いだろ? そこでもう少し寝ていなよ」
確かにヒソカに言われたように、まだ身体はだるさを覚えていて温かなベッドを欲している。肉体的疲労もさることながら、心の疲弊がゴンを酷く消耗させていた。
弱々しい瞳で、近づいてきたヒソカを見上げる。彼の大きな右手が目の前にすっと差し出された。
鍵だ──奇術師の軽やかな手腕は、ゴンがそれを見た途端、掌の上から消し去ってしまった。眼を瞬かせると、ヒソカは壁際の小さな電話台を指差す。
「鍵はあそこにおいておくから。もしも出かけるんなら、200階のフロントへ預けておいてよ」
ゴンの肩を支えて、ベッドに横たわらせるとぽんぽんと胸を叩いてそこから離れていった。
部屋を出て行く背中に、ゴンは小さく呼びかける。
「ごめん、ヒソカ」
声が届いたのかどうか──ヒソカは肩越しに手を振って見せると、何も答えず扉の向こうに消えた。

ゴンはシーツに顔を押し付けて、深く息を吸い込んだ。温かいそれからは、ヒソカの匂いがする。昨日までなら、それはゴンにとっては官能を深く揺さ振る匂いだった──けれど、今はただ、混乱した頭と引き裂かれた胸の痛みだけが彼の感覚の全てを支配して、小さな火種すら点らない。
この痛みが、消えることがあるのだろうか。
ゴンは、一人きりで残された部屋の寒さを肌で感じてぶるりと身震いする。
温もりが欲しい──千切れてしまいそうな自分の身体を、抱きとめてくれる腕が欲しい。
もうどんなに探したって、在りはしないけれど──
ゴンは軽い布団を引き上げて頭から被り、膝を抱えると目を閉じる。そうして間もなく訪れる優しい闇を待ち、ただ震えつづけていた。
太陽が落ちきった頃、ヒソカはようやく200階へと戻ってきていた。ゴンに2~3時間で戻ると告げた割には、随分遅い時間だ。
フロントへは立ち寄らずに真っ直ぐ部屋へと向かう。
部屋の鍵は渡してきたけれど、扉は開かないように細工してある。ゴンにはまだ判らない其れが、破られた気配は伝わってこない。
出られないと気付いたゴンが暴れているかもしれない──ああ、そうなら楽しいね。是非、そうあってくれ。
自室の前に立った男は扉に触れ、出掛けに施した仕掛けを解除するとノブを回した。
期待に胸が躍る。この向こう側はどんなに酷い状態になっているだろう。
怒りに満ちた少年を捻じ伏せる──想像するだけでもボクの身体はぞくぞくと悦びに震えている。
早くしろと急かす己の欲望を抑えつけ、ヒソカはゆっくりと扉を開けた。
だが、部屋の中へ一歩脚を踏み入れた彼は、思っていたよりも静かな空気に満ちているのに気付くと酷くガッカリした表情を浮かべた。
そのまま、ゴンの姿を探しもせずに浴室へと脚を運ぶ。
調度品の一つも壊れていないし、窓も割られていなかった。せめて扉をぶち破ろうと椅子でも投げてくれていれば面白かったのに、と嘆息する。
何もかも、出て行ったときと同じく整然とした内装──味気ない。
ベッドには、小さな山が規則正しい上下運動を繰り返していた。生々しい気配を感じるし、目覚めているのは確かなのだが、起きてくる気は無いらしい。
声を掛けることもなく、ヒソカは服を脱ぐ。用意されていた籐籠の中へ次々と服を投げ入れると、全裸になった彼は浴室の中へと消えた。

(気が付いてたくせに……)
声もかけてくれないなんて、と一人拗ねていたゴンは、やがて聞こえてきた水の打つ音を耳にしてぎゅっとシーツを握りしめた。
(知らないふり、された)
震える唇を噛み締める。
声をあげて泣いてしまいそうだ。
置いていかれた子供のように、胸の内で不安がさざめく。
何時の間にかベッドから降り、浴室のスモークガラスの前に立っていた。
それでも浴室の中へ入れてくれそうな気配はない。
「ヒソカ……」
ごつん、とガラス扉へ額をつけ、中の様子を伺った。

シャワーから落ちてくる水滴を全身に浴びていたヒソカも、扉の向こう側に近づいてきている少年の存在に気付いていた。
けれど招きいれることはしない。
「ヒソカ」
聞こえる声は頼りなく、細い。倒れてしまうのでは、と心もとなくなる。だが──
(そういう君の反応は、全然面白くない)
縋られている──そう思えば思うほど、ヒソカは気持ちが冷えるのを感じていた。
立ち止まっている君なんか、何の魅力もない。
君はいつでもキルアを想いながら、ボクに遭っていた。
ずっとそれは判っていたし、キルアと自分の間で迷っているのを見るも一つの楽しみだった。対抗心を利用すれば、彼を抱くのも容易だった。彼を惑わせるためなら、いくらでも優しくできた。そういう駆け引きが、自分を興奮させていた。
だが、彼からただの優しさを求められたって面白くない。弱々しい姿を見ても、慰めようとは思えない。
確かに今なら彼を自分だけの物にできるだろう。キルアを排除し、この塔から連れ去ることも容易だ。
けれどそれに何の意味がある? 自分には、誰かを独占したいなんて気持ちはない。
ないはず──なのだ。
だから、あんな価値の半減した少年などさっさと放り出してしまえばいい。
壊す価値すらないのだから──なのに、まだ彼はこの部屋の中に居る。
矛盾した想いがヒソカの心を二分していた。

シャワーの音が止み、扉に映っていたヒソカの影が大きく動いた。
ノブが回り、中から水を滴らせたヒソカが姿を現す。
浴室の外で待ちつづけていたゴンは、裸体を目にしてさっと目を逸らせていた。
あの体に、抱かれた。
湯気を立てるヒソカの体は、視覚的な衝動を感じさせる。
高鳴る心臓を押さえて俯いていたゴンに、ヒソカは先へ進めと促した。
「……そっち、行かない?」
「あ、ごめん」
部屋へ戻ると、ゴンは窓際へ立つ。
ヒソカは、大きなタオルで髪を拭きながら、部屋の中を歩いた。濡れた体の上にバスローブを一枚羽織っただけで、冷蔵庫を開け、中からビールを取り出す。
「飲む?」
ゴンにもそれを差し出して見せたが、そんなものは飲めないと慌てて首を振っていた。
肌蹴たローブの間から、ヒソカの肌が除く。それを直視できず、ゴンは部屋の外へ視線を逃がした。
窓の外は風が強いのか、雲の欠片がすごいスピードで切れ切れに飛んでいた。少し下を見下ろすと、闘技場の建物自体が雲海に包まれ、地上の様子は伺えなかった。
下はきっと天気が悪いに違いない。
この雲では、キルアが居るだろう場所も見ることはできない。今、何をしているだろう──ウイングと愉しんでいるのだろうか。考えるだけで胸が刺すように痛む。
ふ、とこの部屋の主人のことを思い出した。
オレも、ヒソカのところにいるんだけど──まだ、一指も触れられてない──
「……怒ってる?」
漠然と感じていたことを尋ねてみる。ヒソカは眉一つ動かさず、何故、と問い返した。
「だって……」
帰ってきても知らない振りをした。
浴室に入れてくれなかった。
オレを、抱かない。
ぎゅっと抱きしめて、何もかも考えないようにさせてくれればいいのに。
そしたらキルアのことも忘れていられそうなのに……
「ここにおいで」
ヒソカは考え込んでいたゴンを呼ぶ。
人差し指を上げ、ちょいちょい、と自分の方へ招くように動かした。
ゴンは心臓が跳ね上がるのを感じていた。考えていた事を見透かされたのかとドキドキする。
戸惑いを見せるゴンは、それでも数歩、歩み寄り、ヒソカの座るソファから少しだけ離れたところで立ち止まった。
ヒソカはローブの紐を緩く結んでいたが、半端に露出した胸や脚が彼の身体の全てを想像させ──やはり直視することができずにゴンは横を向いていた。
胸だけでなく、体中がどかんどかんと太鼓を打ち鳴らす。耳元で鳴り響くその音が、ヒソカの声も聞き取りにくくさせる。
「──で──に──?」
「え」
何か尋ねられた。
思ったゴンは、顔を上げる。
「君、なんであんなところで座っていたの?」
何か、違う事を聞かれたはずなのに。ゴンは不思議に思ったが、ヒソカはそれから黙って手の中のビールを口の中に流し込む。
返事を待っているのだ。
そう感じた少年は、聞き取りにくい細い声で答えた。
「…キルア…と……」
「喧嘩した?」
こくり、と頷くと、ヒソカは空になってしまったビールをテーブルへ置き、ふ、と息を吐いた。
「座る?」
腿のあたりをぽんぽん、と叩き、そこへ腰掛けろと暗に促す。
ゴンはまだ躊躇していたが、おいで、と更に招き寄せられてつい脚を勧めてしまう。ここへ、と示す太い腿の筋肉の向こうに、猛々しいものが隠されているのを思って、顔が熱くなった。
「さあ」
真っ赤な頬を優しく撫でて、少年の脇に手を差し入れた。

ヒソカは、小さな身体を軽々と持ち上げると自分の脚の上へ腰掛けさせた。
トマトになった少年の逆立つ髪をゆっくりと梳き、それで、と続ける。
「喧嘩したから帰りたくないの?」
「そういうわけじゃ……」
ヒソカは尋ねては見たが、ゴンとキルアの事情などどうでもよかった。
彼らの諍いの切っ掛けは容易く予想がつく。夕べ、自分がゴンを連れ出したことが引き金になっているのだろう。だが、それもさして興味を引かない。
ゴンを膝に乗せたのにも、深い意図があるわけではなく──単なる習慣で誘ってしまっただけだった。
ヒソカの心中など知る由も無いゴンは、頭を撫でられる心地よさに慰めを感じていた。
「なんで喧嘩したのかな。あいつのせい?」
ヒソカのいうあいつ、がウイングのことを差しているのは判っていた。
「違うよ」
というが、ヒソカにはそれが偽りであるとすぐに判る。
(嘘つきに嘘ついても無駄なのにねぇ)
ゴンの心の中には、キルアとウイングのことも大きく圧し掛かっているはずだ。自分との関係を2度も重ねたのが良い証拠──キルアを裏切る行為だと自覚しながら、身体を委ねてきたのだから。
ヒソカはそれ以上は追求せず、少年が胸の中に倒れこんでくるように頭を引き寄せた。抵抗はなく、すんなりと小さな身体は抱きしめられてしまう。
「オレ……どうしたらいいんだろう……」
ヒソカの鼓動を聞きながら、目を伏せる。
暗闇と、温もりがゴンの気持ちを宥めていた。ヒソカと一緒にいるのに、不思議な感じだ。
いつもヒソカと居る時は、酷くドキドキして──緊張して。
それが、楽しくもあったり、わくわくしたり、してたはずだった。
ヒソカっていう、すごい相手と戦いたくて──どうにかして勝ちたくて。ハンター試験が終わった時、彼とは一緒に行かないって決めたのは、キルアを追いたかったからだし、それに──ちゃんとヒソカと闘いたかったから。
だからこそ、闘技場で修行してる。
なのに、抱きしめられて安心してるなんて変だ。それは判ってた。心の中では、いつもおかしい、おかしいって言う声が聞こえてる。
でもどうしたらいいのか、は判らない。
オレらしくない。こんなの。
キルアからも逃げて、安穏とヒソカの腕の中に収まって。
これでいいのか?
オレはヒソカと、こんな生温い時間を過ごしたかった? 本当は、もっとゾクゾクするものを求めていたんじゃなかったっけ。
キルアとワクワクするような冒険の旅をしたいって思ってたんじゃなかった?
誰かに守られたい、庇護を受けていたいなんて、望んでなかったのに──どうしてこんな風にしてるんだろう。
「……オレは」
「うん?」
「ヒソカとこんな風にしていて、いいのかな」
疑問を口にしてみる。
答えが見つからなかった。始めた人間ならば、何かを知ってるかもしれない。淡い期待をもつけれど、ヒソカは答えなかった。
一言も──その意味をまた考え込んでいると、何時しか眠気が襲ってきた。
何故、どうして、と疑問ばかりが頭の中を飛び交うせいで、痛む頭をヒソカの腕が抱える。優しい彼の体はとても温かくて、このまま眠ってしまいそうだ。
胸の痛みがぼんやりと霞んでいく。
キルアがウイングと寝ていたことも、今、ウイングのところにいるだろうことも、全部深い霧の向こう側に消えていきそうだ。
静かに目を閉じ、何もかもをそれへ委ねる。
忘れたい。
一つだけの願いが、ゴンの意識を闇へ沈めようとしていた。
だが、それを無理矢理に引き上げる声が、聞こえた。

「それで君は、ボクに何を期待してるんだい?」

安穏とした温もりを瓦解させたのはヒソカだった。
思わぬ言葉を聞いたゴンは、驚いて顔を上げた。一瞬で眠気は飛んでいた。
そこに居る男は、薄情な笑いを顔に浮かべ、哀れむような眼で自分を見ている。
何を思って始めたのか、ヒソカの揶揄は次々とゴンの耳に囁かれた。
「優しく、可哀想にって頭でも撫でて欲しいの? それともぎゅっと抱きしめて欲しい?」
悪かったね。でもそんな夢が通用するとでも思っていたのか?
そう言われているようで、ゴンは恥ずかしくて真っ赤になっていた。
「ち…ちが……っ」
「喧嘩したのはボクのせいだった? ごめんね、って言って欲しいかい? そう──ごめんね」
「違う!」
まるで心のうちを全て見透かされているようだった。
ヒソカの言うとおり、期待してるのかもしれない。喧嘩の責任転嫁をしてるのかも。
でも、そんな風に言われるほど、甘えてなんか、ない……っ。
屈辱に居た堪れなくなったゴンは、ヒソカの膝から降りようと身体の向きを変えたが、一瞬早く腕を掴まれる。
「……っヒソカ!」
「安心させてあげるよ。ほら……温めてあげる」
暴れるゴンをぐっと引き寄せ、また肩を抱いた。
熱いヒソカの掌を感じ、ゴンは身体を強張らせていた。
「や」
「よしよし……辛かったね……そう言われたかったんだろ?」
いくらでも言ってあげるよ。
次第に楽しくなってきた男は、嫌がるゴンを胸に抱き、頬擦りしたり、頭を撫でたり、子供をあやすようにゴンの身体に触れる。
馬鹿にされている、と怒りを感じたゴンは、それでもその男の触れる部分から微熱を感じ取ろうとしている自分に驚愕した。
「───ヒソカ……!」
ガッと拳を振り上げてヒソカの手を振り払うと、なんとか彼の腕から逃れてゴンはソファから離れた。無論ヒソカが許すわけがない。ソファから立ち上がり、少年の細い両手首を掴んで引きとめた。
「いた…っ」
握られた骨が軋む。
大きく見開いた目に涙が溜まっていた。
「逃げることないだろ」
優しくしてあげるって言ってるのに。
そうされたかったんだろうと笑われ、ゴンはまた真っ赤になった。
「そんなつもりない!」
「じゃあどういうつもりでここへ? ボクを選んだってことなのかい?」
「えらぶ…って」
「キルアじゃなくて、ボクがイイ。"そういうつもりじゃない"ってことは、"そういうこと"じゃないの?」
ここにいるという事実も、今まで君がしてきたことも。
「君が本当に欲しいのは、ボクだった──そういうことだろ?」
オレが本当に欲しいのは──?
「そんなの判んないよ!」
「へぇ。じゃあ、ボクにしときなよ。あの子はあの眼鏡にやればいい。どうせ君らは喧嘩してるんだし」
「やる…って…! 痛い!」
掴んだ手首をぐい、と引っ張ると、ヒソカはゴンの顔を覗き込んだ。
「このままずっとボクのところに居ればいい。前も一度言ったはずだ。一緒に行こうって。ボクは諦めたわけじゃないよ?」
確かに聞いた──あの、ホテルで。そして、自分は選んだのだ。ヒソカと行かないことを。
「それは」
「キルアだって君と居るんじゃなくて、あの男と一緒にいるほうを選んだんだ。そうだろ」
「……っ」
もう何も言い返せなかった。
ヒソカの言うことは本当だから──オレは、選ばれなかったから。
ぎゅっと唇を噛み、泣き出してしまいそうな瞳で真実を突きつける男を睨む。
だが、一向に怯まぬヒソカの唇はゆっくりと動いた。

「ゴン」

「ボクが愛してあげるよ」
目を細めたヒソカは、ゴンの唇を荒々しく奪っていた。


右手で腕を撮り、左手で腰を抱きよせる。
小さな身体は、それだけでヒソカの拘束から逃れることができなくなっていた。
迂闊にもぽっかり開けていた口の中へ、ヒソカの舌がぬるりと入り込んだ。そのまま口蓋を舐め、逃げ惑うゴンの舌に絡めて強く吸う。
「んん……っ」
眉を顰め、頭を振って逃れようと試みるが、叶わない。
太い男の腕が抱えたゴンの腰を更に上へと引き上げる。ゴンは地面から離れた脚をばたつかせたが、爪先が向こう脛に当たってもヒソカはびくりともしなかった。
「ん…っん!」
腹に押し付けられたヒソカの腰に、硬く当たるものを感じてゴンは身を捩った。
服越しでも熱が伝わってくるそれに、ゾクゾクとしてしまう。
でも、こんな風に馬鹿にされた状態で抱かれるなんて──受け入れられるわけが無かった。
ヒソカの大きな口に噛み付くように口付けられ、開ききった口角からは透明の唾液が流れ落ちる。
「!」
舌を千切れそうなほど噛まれ、ゴンは眦に涙を浮かべた。
ヒソカはゴンを抱えたまま、ゆっくりと身を屈めて少年の身体を絨毯の上へ下ろす。そして、暴れる身体の上に圧し掛かると、襟首へ手を掛けた。
「初めて君を抱いたとき、こうやって服を裂いたね。覚えてるかい」
「や…っ」
ゴンが腕を掴み引きとめようとしたが、ヒソカは軽々と握っていた服を引きちぎり、背後へ捨てた。
ビッと布地の裂ける音を聞き、ずっと忘れていたあの夜の恐怖が蘇えってくる。獣に襲い掛かられて、貪り食われるのだ、と覚悟したあの時。
「ボクはよく覚えているよ。ずっと退屈だったんだ……君をああして抱いて、すごく興奮したよ」
ヒソカが、剥き出しになったゴンの胸元に口づけを落とす。きつく吸えば、そこは赤く腫れ、彼の証しとなっていた。
「あの時、君は初めてだったんだよね? 酷く血が出て──それも、すごくボクを興奮させたんだよね。あのまま引き裂いてしまいたいくらい、愛しいと思ったよ
「でもしなかった──それはね。君がもっと、成熟してボクを愉しませてくれそうだと思ったからね。ボクは美味しいものは、後にとっておくタイプなんだ
「本当に君は貴重な存在だ……色んな顔を見せてくれて、ボクを愉しませてくれて
ゴンの瞳を覗き込む眼に光が点る──暗い、光が。
「君が育つのを見るのは面白かったよ」
「痛い…っやめ、てっヒソカ…っ!」
低く、絶え間なく囁きつづけながら、何時しかヒソカは組み敷いたゴンの身体に噛み付いていた。
幾つもの歯形が柔らかな少年の身体へ残されていく。
肩、胸、腹──肉を食い千切ろうかというほど強く噛み、滲んだ血を旨そうに舐め──痛みと快楽が交互にゴンを襲う。
「でも悪いね。もう面倒になっちゃったんだ、ボク」
君を待つことも、自分の中に妙な感情があることも。
何もかもが、面倒だ。
ヒソカの狂気の度合いを示すかのように、白い肌は次々と浅黒い鬱血や或いは食い破られた傷を増やしていく。
「──痛──!」
一際強く、首筋を噛まれてゴンは悲鳴をあげた。頚動脈に近い部位を強く吸われて、血管を破られるのではと恐怖に駈られる。
そして同時に気が付いてしまう。
(ああ、もしかしたら)
(オレがこうやってはっきりしないのは、ヒソカにとってもいいことじゃあないのかもしれない)
抱いている最中に、こんなにヒソカがおしゃべりをするのは始めてだった。
その姿は、苛ついているようにも見える。
噛み付くばかりで、けして交わろうとはしないところも──ヒソカの苛立ちをぶつけられているように感じた。
(他人に頼って、何か解決できるようなことじゃなかったのに……オレ、馬鹿だ)
キルアと旨く付き合えないからって、ヒソカに逃げてしまったのはただの自分の弱さだ。
もしもキルアとは駄目なのだとしても──ちゃんと自分で決めなくちゃいけなかった。
理解した途端、ゴンはじっとしていられなくなる。
「…っヒソカ…!」
愛咬に夢中になっていた男は、突然変化した少年の声色に気付き、動きを止めた。
何事か、と顔を上げると、上に乗っていたヒソカの胸を押し、ずるずるとそこから這い出してくる。ヒソカも何故か捕らえようとはしなかった。
じっと自分を見詰めるゴンの瞳の色は、声色と同じく変化していた。
「ごめん、ごめん、ね、ヒソカ」
泣いてしまいそうな自分を叱咤し、彼の名を呼ぶと、深く息を吸いゆっくりと吐き出す。
そしてもう一度ヒソカを見つめ、小さく、けれどはっきりと少年は彼に告げた。
「オレ、行くよ」
迷惑かけちゃって、ごめんなさい。
胡座を掻いたヒソカの前で、ぺこり、とゴンは頭を下げた。
「どこ行くの」
何気なく聞く彼に、ゴンはきっぱりと返事を返した。
「戻るんだ」
どこ、と言ったわけではない。だが、もうその声にも瞳にも迷いは感じられなかった。
どういう結論に達したのかは判らないが──いつもの、ボクの気に入っているゴンに戻ってきてる。
ヒソカは値踏みをするように眼を細めて、ゴンを見つめた。
「ふぅん?」
「帰る」
「そういわれて素直に返すと思ってるの?」
その言い方は、とてもヒソカらしいと思ってゴンは笑った。
けれど強い意志を秘めた瞳でヒソカを見、胸のあたりでぎゅっと拳を握ると力強く答える。もう、揺らぐことは無い。
「ダメなら、今ココで闘う」
「闘って勝てるとでも?」
「ダメでも闘う。そんで帰る」
ヒソカも、その無茶苦茶な論理はとてもゴンらしいと嬉しくなる。
そうそう、そうでなくちゃね……弱々しい君よりも、何百倍も魅力的だ。
ゴンの変化に性欲を刺激された男は、ベッドを指差してにやにやと笑った。
「あのベッドの上で? 闘うの? そんな野暮な言い方するなよ…あそこは愛し合うところだろ」
「なっ…うわぁ!」
言葉が終わらぬ内に、ヒソカはゴンの腕を掴み宙へと放り投げていた。
着地した場所がやたらによく弾むベッドの上だと気付いたゴンは、慌てて降りようと身体をずらした。
だが、なにもかも遅かった。すばやく移動してきたヒソカが細い腕を捻じり上げる。
「や、ヒソカっ」
もう上着がぼろぼろになってしまったゴンの身体を倒して上から抑えつけ、ベッドに沈めた。
ゴンはバタバタと両手を振り回し、脚でヒソカの腹を蹴り上げようとしたが逆に足首を掴まれてしまった。
「ふふ…やっぱりね、抵抗された方が愉しい」
ヒソカは掴んだ膝へキスをし、そのまま内腿へ舌を這わせた。半ズボンの隙間からするりと指を滑らせると、下着の中まで侵入しようと蠢かせる。そこから昇ってくる奮えにゴンは身をすくめてなんとか耐えると叫んでいた。
「止めろ!」
「なんで?」
「こんなの違う! オレは帰るの!」
だから離して、と騒ぐ少年を易々と抑えつけ、ヒソカは馬鹿な事を、と笑った。
「逃がすとでも思ってるのかい?」
「だって、居ても良いって言った!」
「でも出て行ってもいい、とは言ってないよ」
「ずるい!」
「ああそう。そうかもね。でも君は? 君もずるいんじゃないの」
自分の都合だけで好きなところへいけるとでも思ってるなんてね。
やっと面白くなったのに、いかせるわけがないじゃないか。
「冗談」
ヒソカはゴンの頤を片手で抑えつけ、罵倒を繰り返す唇を塞ぐ。押し戻そうとする小さな舌の抵抗などまるで意にも介さず奥へ奥へと侵入する。
「ふっんん──!」
口を限界まで開かせ、行き止まるまで舌を伸ばして、垂れ下がった肉を嬲る。嘔吐を引き起こすほどの愛撫が苦しい。強く瞑った眦から涙がまた一筋流れた。
満足するまで口内を犯したヒソカが離れていくと、ゴンはまた彼の束縛から逃れようと必至で抗い始める。だが、それすら嬉々として捻じ伏せ、ヒソカはゴンの身体を弄っていった。
「ぃ…っあぁっ、だめ、だっヒソカ」
身体中を這い回る掌に翻弄され、甘い声をあげるゴンは頻りに首を振って訴えた。
「違うよっ…オレ、こんな風にしたいんじゃないって…っ判ったんだっ」
「ボクはこうしたい」
「だめっあっ──」
ズボンの留め金を外され、するりと服の中に入ってきたヒソカの腕を掴んだが、進入を食い止められるわけも無い。
「つれなくされると、燃えるんだよね」といい、ヒソカは構わず中身を握り締めた。
「ああああ──!」
袋を強く握られて、激痛に身悶える。
脱がせるのも面倒になったヒソカは、上着と同じくズボンも力任せに引きちぎっていた。
濃い色の裂けた布地の間から、覗く白い肌が扇情的だった。少し焼けた脚の色とのコントラストが美しい。
ゴンのズボンは片側だけが引き裂かれ、半分はそのまま身体に残されていた。
その、裂け目へとキスをする。
脚の付け根が艶めかしく動き、ヒソカは溜まらずそこへ噛み付いていた。
「ぃあぁああっ!」
ひ弱な部分へ与えられた痛みに、ゴンは悲鳴をあげた。
だが、感じるのは痛みだけではないのだろう──服の間からちらりと勃ちあがった小枝が見える。
酷くしたくて、たまらない。
溢れる鮮血が見たかった。
凹む筋の間をべろりと舐めて、鼻先を布の間へと突っ込んでいった。
「う、あ、やだ、ヒソカ…」
こんな状態にも関わらず、ゴンは必至でヒソカを留めようと髪を引っ張り、膝を閉じようとする。だが、強い力に押され、そこは難なく全てをヒソカの目の前に晒すことになる。
唇を突き出し、隠れていた小さな珠を口に含んだ。舌と口蓋で転がせば、ゴンはやはり甘やかな声を漏らした。
そんな声が聞きたいわけではなかったヒソカは唇を移動させて小枝に歯を立てる。弾力のあるそれに硬い歯列が食い込み、ゴンは悲鳴をあげた。
「ギャ!」
鋭い痛みが髪の先まで走る。小枝は、一瞬でヒソカの口の中でふにゃりと柔らかく萎えてしまった。
容赦ない暴虐を振るう歯列から逃れたくて、腰が引けた。
だが、それも僅かに動いただけでヒソカの腕に腰骨をきつく握られ、ぴくりともできなくなる。握りつぶすような握力に骨が軋んだ。
ヒソカは半身を起こし、ゴンの腰に申し訳程度に残っていた端布を取り去ると、自らも前を寛げ猛った自身を取り出す。急所に与えられた痛みに声も出せなくなっていたゴンを引き寄せ、ぴたりとそれを押し当てた。
息衝く窄まりを先端に感じる。ゴンも、焼けつく熱を持った肉塊を感じたのだろう、瞬間身を竦ませてヒソカを見た。
慣らされもせずに引き裂かれる痛みが、当てられた熱から想像できてしまう。瞳が恐怖の色で染まった。
だが、ゴンがやめろ、と制止する間もなく、ヒソカは幼い腰を更に引き寄せていた。
尻の肉を握り、左右に割開く。激痛を予想した花弁が怯え、ひくついている。
「先だけでも…ああ、随分貪欲に動かすね…」
そんなに欲しいのか、と薄く笑うとヒソカは先端を花弁の中心に正確に宛がい直し、ゴンの脚と腰を掴んだ。息も吐かせず、固定した肉の間へと身を進める。宛がわれていた杭が乾いた襞を抉じ開け、ゴンに激痛を齎した。
「──ぃイイイイ!」
もう、とうの昔に慣れてしまったはずの行為だった。けれど、痛みと恐怖で身体を強張らせるゴンは、息の抜き方も痛みの逃がし方も忘れてヒソカを拒絶する──それがまた、新たな痛みを生むと判っていても、だ。
シーツの上で背を仰け反らせ、のた打ち回るゴンに構わず、手早く己の剣を収めてしまおうとヒソカは捩れた腰を揺さ振った。己の腰も同時に左右に捻り、引き攣る襞の間へ力任せに捻じ込み──
狭く頑なな入り口も、男に容赦なく貫かれ、ぶつりといやな音を立てた。
「───!」
悲鳴は声にもならなかった。
張り出した亀頭によって限界まで引き伸ばされた襞は、僅かな負担も受けとめれずに醜く裂けていた。
一度堰を切った怒張が一息に狭い腸道も駆け抜けていく。勢いよく最奥を突かれ、裡側から内臓を殴られたような衝撃を受けてゴンは吐き気を催していた。
「うぐぅっ…」
一瞬足りとも内部には留まらず、ヒソカはまた勢いよく自身を引き抜いた。
裂けた襞から流れた血液が滑り、凶器へと塗りたくられる。それが動きを助けることにもなったが、花弁の硬さは変わらずヒソカのものを引きちぎりそうなほど締め付けてくる。
そも、多少の滑りがよくなったところで、ゴンには裂けた部位を眼一杯開かれ、厚い肉塊で擦られる痛みの方が何倍も苦痛であったろう。傷口を刺すような痛みと内壁を抉じ開けられ、裡側から殴打される激痛──そして、押し込められる熱。
「ひぃ、あ、ぁあっ。んく…!」
蒼ざめたゴンは、ヒソカを押し返そうともがいた。
ばたばたと暴れる腕を邪魔臭く思ったヒソカはそれをはたき落とす。
痛みだけに悶える顔は、だがヒソカにとって昂ぶりを増す材料にしかならない。
絶え間ない抽送がゴンの身体を苛む。
そこには快楽の欠片も愛情もなく、一方的な暴力だけが存在していた


穿つ度にゴンの唇から零れる声は、相変わらずとても淫猥だ。それが例え悲鳴であるとしても──だ。
身体の裡側を激しく殴打され、切れた肛門の傷口を容赦なく擦られて──苦痛に歪む顔はなんといやらしいのだろう。
ヒソカは一向に抗う力を失わない少年の手足を力任せに捻り、また彼の奥深くを抉り、肉を食む。細い腕にはくっきりと、浅黒い指の痕がついた。それでも歯を食いしばり、暴虐に耐えるゴンを見て、ヒソカは慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
まだ──か──
こんなにも酷く犯しても、諦めてはいないゴンの意思の強さにヒソカはまた昂ぶりを感じる。加虐がエスカレートしていく予感がした。いや、初めから手を緩めるつもりなどまるで無い。それでゴンが命を落とすのなら、きっと最高の快楽が得られるだろう──想像しただけで、ヒソカは肉に熱が滾るのを感じていた。
それに彼は──痛みの中から快楽を拾い出す能力を持っているから。
ヒソカはそう思い出して、薄く笑った。
ほら、現に彼の兆しはひくつきはじめている。さっきまで萎えていたそれが、膨らみを持ち始めている。
絡み付いてくる腸壁も、次第に色を帯びてくる悲鳴も、何もかもが彼が感じている感覚を如実にあらわしていた。
ふと思いつき、ヒソカは繋がった部分へと指を這わせた。
「ぁあああっ」
延びきった傷口を親指で擦ると、ゴンは髪を振り乱して悶える。
ヒソカは構わずそこへ指を捻じ込んだ。
「ぎ……っ!」
僅かな隙間すらなかった肉環が更なる異物の存在で引き伸ばされ、また新たな傷を作った。
背を仰け反らせたゴンの身体の中心がびくん、と痙攣する。
ヒソカは淫棒と一緒に下肢に含ませた指をぐるり、と回す。すると、ゴンの淫枝もびくん、びくん、と身を震わせた。
その割れた唇から快楽を示す体液が押し出され、小さな珠を作る。
ヒソカは悪戯に挿れた指を添えたままで、また深い律動を始めた。
「うっう…ひぁ…っ」
ゴンの唇から絶え間なく声が漏れる。それはいつしか悲鳴から嬌声へと変わっていた。
ヒソカの激しい突き上げによって齎される殴打の衝撃や引き裂かれる痛みの中から、ゴンはぞくり、と疼くような甘い痺れを感じて身悶える。
(いやだ)
いくら嫌悪や拒絶を口にしてみても、身体は偽りを拒絶した。
ヒソカの目の前に晒した自分自身がひくつき…そして、嬲られないことに焦れている。
もっと、とヒソカの乱暴な行為を求めて止まない。
愛撫を待って涎を垂らす淫棒を──刺激を欲しているそれに、自分の指を絡ませて、激しく擦りたい。
内部から沸き起こった肉欲は、勝手にゴンの身体を動かそうとしていた。
正気を保っている時ならば、ゴンは戸惑いながらも耐えたに違いない。だが、もう彼の意識は麻痺し、正常に働かない。
「んああっ!」
パンパンに張り詰めた小さな淫枝に細い指を絡ませた瞬間、ヒソカを咥えこんだ肉環がぎち、と締まる。ゴンは短い絶叫を上げて全身を痙攣させた。
禁忌は一度冒してしまえば、何を押し留める力もなかった。
絡ませた指を必死で動かし、自らを擦るゴンはヒソカの肉棒を求めて腰を振った。
その貪婪な様子に答えるように、ヒソカは彼の身体へと圧し掛かっていった。
ぐ、ぐ、と何度も内部を抉る。
止め処なく涎を垂らすゴンのペニスはぬらぬらと光っていた。
「やぁっああ、もっ・・っっと…っああ、もっとぉっ…!」
髪を振り乱して自らの陰茎を握り、快楽を追うゴンはきつく深くヒソカの楔を求めて腰を振る。
「あげるよ…こういうのじゃなきゃ、もう満足できないくらい、してあげる」
ヒソカは耳元で囁くと繋がったままゴンの肩を掴んだ。指先が肌に食い込むほど強く掴むと、無理矢理に起こし──剥き出しの首筋に歯を立てていた。
「ぁああああ!」
肉を噛み切られる痛みに、ゴンは激しく頭を振る。
このまま首を食い千切られそうなほどに強く──だがその痛みがゴンを高みへと押し上げていた。
ヒソカの肉棒がゴンの身体を深く貫いては左右に揺らし、鋭い歯列がぶつり、と皮膚を破る。
と、同時にゴンの握りしめていた淫枝からは、熱い迸りが吹き出していた。
「あっあ────っっ!」
体内に快楽が逆流する。
達してしまったゴンは喉が嗄れるほど絶叫を続けたが、ヒソカの歯列は離れては行かない。ぎりぎりと歯軋りをし、肉の間へ犬歯が食い込む。
腰を掴んで揺す振っていた指も──五本の爪先が肌を傷つけ、流れる赤い液体に染まる。
「っあっひっぃいっ」
ゴンの両手が握りしめたものの先端からは、いつまでも体液が溢れつづける──まるで壊れた蛇口のように。
「すごいだろ? ねぇ。本当は君、こういうのがいいだろ?」
肉から離れた唇で、耳朶を噛み、奥へと舌を差し込んで、鼓膜に直接囁く。
奇妙な刺激に、ゴンはまた身体を震わせた。
「いやっあぁっ!」
耐え切れなくなったゴンの拳がヒソカの身体にバシバシと当たる。
けれどお願い、と切れ切れに聞こえる懇願は、虚しく部屋に響き渡る。
ベッドに縫い付けられたゴンは、与えられる痛みと快楽の狭間を行き来し、意識が霞んでいくのを感じていた。

ヒソカは気を失ったゴンの前髪を掴み、顔を上げさせた。
頬に伝う涙の後は痛々しく、蒼ざめた目元に疲労の色は濃い。
同情するつもりもない男は、大きく手を振りかざすと、その横っ面を張り飛ばした。
軽快な音が鳴り響き、ゴンの顔が横を向いた。だが、まだ瞼を上げる気配は無い。
拳ではなく平手で殴ったのは、けして優しさから来る手加減ではなかった。
それは少しでも長く獲物を長持ちさせるための配慮でしかなく、すぐに事切れてしまうようではつまらない──ヒソカはそう思い、拳を使うのを避けたまでだ。言ってみれば、獣が弱った餌を弄ぶのと同じだった。
ばし、ばし、と二度音が重なる。
「う……」
口の中が切れたのか、唇を汚した少年は力なくうめいて、薄らと瞳をあけた。
目の前に立つ男の姿を見て、眉を顰めた。
まだ悪夢から覚めないのか──とでも言いたげな、死んだような瞳がヒソカの神経を逆撫でる。
意識を取り戻したのなら、もう十分だ。
ヒソカは指や歯の痕の残る身体をベッドの上に四つん這いにさせ、後ろから彼を抱え込んでいた。
「く」
前ぶれなくヒソカの高まりがゴンを貫く。
血と精液で濡れた窄まりは、押し込まれる楔を拒絶することもできなかった。
「んあっ」
ぬぬ、と内壁を掻き分けてくる感覚に、拳を握る。
背を丸め、駆け上る快楽に耐えて声を忍ばせる。
だが、犯された瞬間からゴン自身は過剰に反応を示し、大きくその身を反り返らせていた。
「あぁ!」
突然、バシッと乾いた音が響いた。彼の頬を打ったときと同じ、その音は滑らかなゴンの背中から高らかに鳴る。
間を置かず、また仰け反る背中へとヒソカの平手が打ち据えられていた。
「い、た…っやめ…っぁあっ」
腰椎から臀部をバシバシと叩かれ、漫然とした痺れが下半身へと広がっていく。
容赦なく大きな掌がゴンを襲い、響く衝撃が穿たれた内部へ響く。だがそれが奇妙な刺激となってゴンの神経を惑わしていた。
緩んだ肉環は打ち据えられる度に衝撃に反応し、びくんびくんと収縮してヒソカを悦ばせる。
「ひぃっ──」
痛み、痺れ、そして快楽を感じ、ゴンの意識は朦朧と霞む。
身体はとうに限界だった。
抉られつづけた穴は腫れ、赤い媚肉を捲り上げさせている。
緩みきったアナルは巨大なヒソカの楔すら、易々と飲みこみ、だが内部の顫動が強く強くそれを締め付けていく。
掠れた声が泣く。
それが、何時終わるとも知れぬ、饗宴を彩り──


「お。修行ご苦労さん」

キルアは、どこからか手に入れた煙草を弄びながら、庭でトレーニングに勤しむズシの傍へと近づいていった。
咥えていた煙草に火をつけ、煙を吸う。肺に満たされたニコチンは、けれど毒物に慣れきった彼にはなんの刺激にもならない。ただ口寂しさにぷかぷかと無駄に煙草を吹かしながら、塀に寄りかかり、それくらいなら、片手でいけそう…とズシが両手で持ちあげようとしているバーベルを見ていた。
──キルアが彼らのところへ遁走してきてから、3日が経っていた。
彼は最初の日から食事を拒絶する傾向はあまり改善されず、水以外はほとんど何も食べていない。それでも平然を装う同い年の少年に、ズシは複雑な思いを抱えていた。
絶食を続け、夜もあまり眠っていない様子のキルアの顔色はよくよく見ればあまり芳しいとは言えず、体調は大丈夫なのだろうかと心配になる。
その反面、己が師との特別な関係が、やはりあったのだと衝撃を隠しきれない。あの日、ウイングは気まずそうに口篭もってしまったが、自分だって彼らの会話の意味が判らないほど馬鹿でも子供でもないのだ。
だがそのことでキルアとの間に一線を画してしまっている自分も嫌だとも思っていた。だから、ズシは勤めて以前と変わらぬように彼に話し掛けようと努力していた。
煙草は身体によくありませんよ、とか、お出掛けですか、とか。
会話の切っ掛けを探して、ズシはしばらくキルアから視線を逸らしていたが、結局口をついて出たのはずっと抱えていた疑問だった。
「キルアさん…どうしてゴンさんと喧嘩なんか?」
言った本人も少し驚いてはいたが、キルアもそんな問いかけをズシからされるとは思いもよらず、一、二度瞬きをして相手の顔をまじまじと見た。
あれからズシはウイングとのことには触れない。
気を使っているのか、それとも聞きたくもないのか…淡い恋心のようなものをズシがウイングに対して抱いていたのは確かだ、とキルアは予想していた。
そのせいか、ズシに対してだけは少しだけ後ろめたさを感じてしまう。
いくらこいつが無知で腹の立つヤツだからって、自分とウイングの関係をあんな風に知らされたんじゃ立つ瀬が無いよな。
僅かに生じた罪悪感が、つい素直に答える切っ掛けになる。
──いや、キルアの中に誰かに話してしまいたい欲望もあったのかもしれない。ゴンと自分の関係もついでに知られてしまい、もう隠すものも何も無かった。
「……あいつさあ。別の奴からプレゼントなんか貰いやがってさ…隠してたんだぜ」
「プレゼント…?」
何か引っ掛かるものがあったのか、ズシがバーベルを上げる手を止め、塀に背を凭せ掛けた少年を見た。
だが、ズシの様子には気付かず、彼は一度話し始めてしまったら、歯止めがなくなったのか、鬱屈した気持ちを吐き出すように喋り続けた。
「いったい、いつ頃からそいつと付き合ってたのかしらねーけどさ。そんなにオレよりイイなら、こそこそ隠さなくてもいいじゃねぇかよな。さっさとオレなんか見限って、そいつんとこに行っちゃえばよかったんだよ」
どうせオレなんて、と自分を卑下しながらも、愚痴はとうとうと流れでる。その言葉の隙をついて、ズシが口を挟んだ。
「その、プレゼントって、銀の…」
「そうそう、銀の」
「3連のブレスレットじゃなかったすか?」
「……なんで知ってるんだよ」
さてはズシが贈り主だったのか?
一瞬疑ったキルアは顔を歪める。ヒソカじゃなかったとは意外だが、こいつウイングだけでなくゴンにまで懸想してたのか。なんだ、同情する価値ないじゃねぇか。
錯乱した彼は、頭の中でかなり妙な話を作り上げ、ズシを睨みつける眼がきつくなった。
だが、ズシは酷く真剣な顔をして言ったのだ。
「それ、ゴンさんが誰かから貰ったものじゃないっすよ」
「……へ?」
ズシの台詞の意味を理解できずに、キルアはしばらく固まっていた。
こいつ、何言ってんだ……?
あからさまにキルアの態度が変化する。ズシは、自分の知っている情報を少しでも正確に伝えようと、懸命に彼に語りかけた。
「自分、以前見せてもらったことがあるっす。すごく大事そうに持ってて……キルアさんにあげるつもりで買ったんだけどって言って」
「──オレ──に──?」
なんだ、その話。訳判んねぇぞ、全然。
信じられない、とキルアは首を振った。
だって、何時からそんなの用意してたんだ。ずっと一緒にいたんだぜ? くれるつもりがあったんなら、いつだってできたはず。
あの汚れた包み紙──既に開けた痕跡もあった。
自分が握り潰したブレスレットを思い出し、キルアは眉を顰める。
けれどズシは、諦めずに言葉を続けた。
「でも受け取ってもらえそうにないからって、捨てようとなさってたから自分が止めたんッス。ほら、キルアさん、大量にお菓子を買ってた日があったでしょ」
覚えてる。
ゴンが、ウイングの宿までオレを探しにきた日だ。
「すごく辛そうな顔で、ブレスレットを見つめてて──自分、たまたま通りかかって。心配になって声をかけたっすよ」
結局捨てられはしなかったんですが、と説明をするズシは、その時のゴンの気持ちを思って暗く落ち込んだ。あの哀しみを思って、悲しくなる。
いつも眩い光を湛えているはずのゴンの笑顔から、火が消えていた。
そのまま彼の手を取り、一緒に泣き出してしまいそうなくらい、彼の胸の痛みが伝わってきた。きっと今も──そんな顔をしてるのではないだろうか。そう思うと、胸が張り裂けそうだ。
沈んだズシの様子には気付かず、キルアはぼんやりと呟いた。
「ゴンが…そう言ったのか?」
「え?」
「オレに、って…そう言ったのか」
もう一度、今度はズシの顔を見て尋ねる。
こくん、とズシは肯いた。
違う、と叫んでいたのは本当だったってことか。ヒソカから貰ったものなんかじゃなくて──オレに──だったんだ。
それを捨てようとしてた。
じゃああの時、やっぱり気付いてた…?
完璧に誤魔化せた自信があったんだ。絶対に。
でも考えてみれば、あの日からだ。ゴンの様子がおかしかったの。
奇妙に距離を取られてて、でも反対にすごくべったり甘えてきたりして──あれは、気付かれていたからだったのか。
ウイングと、体を重ねていたと──あの時から。
そう、なんだ。
「……ふぅん」
呟いたキルアは、何か、現実感を欠いていた。

後悔を感じることもなく、ただズシの話をああそうか、と単純に理解しただけだった。
やっぱり、と妙にすんなり納得したのも、そのせい。
空を見つめ、目の前には居ない少年を思う。
何もかもを知ってしまった彼と過ごした、長い長い時間を思う。
ゴンが、隠し事をできるなんてな。
ウイングとの秘密を知っていて、よくまあ平気でいられたものだ。
直情型のあいつのことだから。知ってしまったなら、一秒だって我慢できずに必ず何かしらのアクションをとると思っていた。黙っていられたとは驚きだ。
……オレは随分あいつのことを舐めていたらしい。
指で支えた煙草から、灰が落ちていくのを見ていた。
まるで他人事のように感じた。
煙草の灰も、ゴンのことも。
張り裂けるような胸の痛みさえも。


ぼぅっとしていたキルアの耳に、不機嫌な声が飛び込んできた。
「ふぅん…って……それだけ、っすか?」
「あん?」
何事か、と視線をあげると、バーベルを握りしめたズシが自分を睨んでいる。
「ゴンさん、あんなに苦しんでたのに……キルアさんはふぅん、って言うだけなんすか?」
「……なんだよ。お前にそんなに関係あることかよ?」
オレがなんて言おうと、ズシが怒る筋合いなんてないだろう。
そう思ったキルアは引っ込んでろ、とそっぽを向いた。
「関係はないッス!」
だが、ズシは、大きな声でそう叫び、持っていたバーベルを地面へと叩きつけた。
重なった円形の鉛が土へとめり込む。
きっとキルアを睨みつけたズシは、勢い込んで詰め寄ってきた。
「でも…っずっとゴンさんがどんな気持ちでいたか、考えたことはないんすか?!」
「知るかよ、そんなこと!」
「だって、あんな顔して…ゴンさんは!」
あなたのことを想っていたのに。
思い出すほど、悔しくなる。どうして彼は──この人は──あの、痛いほどの想いを判ってあげられないのか。
けれど、押し付けられた気持ちを叩き落とすように、キルアはズシを突き飛ばした。
「うるっせぇな! デバガメすんな、タァーコ!」
「キルアさん!」
「だいたいな? お前、ほんとにゴンのこと心配してんのか? 違うだろ? お前がホントに腹立ててるのは、あいつのことだろ?!」
そうだよ。ズシが本当にむかついてんのは、あいつのことだ。
眼鏡男の。
核心はあった。
指先で鼻をつつき、嘲笑ってやると、ズシは真っ赤になっていた。
「そんなんじゃありません!」
「どうだかな」
ちり、と焼けるような感覚を肌に感じる。
ズシが怒っているのだ。ふつふつと沸き起こってくる感情に流されて、彼のオーラが不安定に揺らめく。
「やんのかよ」
キルアも粗方燃え尽くしてしまった煙草を地面に叩きつけ、塀から背を離した。
特に身構えるわけではないが、彼の体から感じる殺気にズシは息を呑んだ。
「…!」
さっと両手があがる。脇に構えた拳をぎゅっと握った。
キルアも変化させるべき片手を浮かせて、彼との間合いを計っていた。
「いいぜ、あん時ゃ結構不完全燃焼だったからな。今ここではっきり白黒つけてやろうか?」
キルアの脳裏には、この闘技場へやってきた初日の試合が投影されていた。この、目の前で自分を睨みつけているズシが相手だったのだ。
まだ念のことなど欠片も知らず、彼と戦い、苦戦を強いられた。なんとか勝利を手にしたが、あの時の無様な戦い振りを思い出すほど腹立たしい。ここでリベンジしておくのも良いだろう。
ただの肉塊になってしまえ。
判っていないくせに偉そうに自分に意見する同い年の少年を、憎々しげに睨んだ。
一触即発──彼らが拳をつき合わせるのも、時間の問題だった。
──だが。


「ズシ」
緊迫した彼らの対峙に邪魔が入った。
(またかよ…!)
二階の、彼らの部屋の窓から半身を覗かせて、ズシの名を呼んでいる。呑気な男の声を聞き、キルアはまたむかむかと腹の底が澱んだ。
これから思う存分暴れてやるはずだったのに…判ってやってるのだとしたら、とんだ食わせ者だ。
ウイングは、やんわりと微笑んでズシを手招きする。
「時間があったら、少し頼まれて欲しいことがあるのですが」
「あ、はい」
ズシは油汗を握りこんでいた拳を、す、と下ろし、キルアから視線を外した。
途端にキルアから発せられていたオーラも鎮火していた。水を刺されて、気分が削がれたらしい──闘いを避けられたとズシは息を吐いた。どっと吹き出てくる汗が、頬を伝った。
「じゃあ、一度上がってきてください」
よろしく、と言うとウイングは部屋の中へと姿を消す。
落としたバーベルを拾い上げ、ズシはキルアには一目もくれずに宿の中へ走りこんでいった。

一人残されたキルアは、ポケットを探って煙草の箱を取り出した。
解消しきれない不満が燻ってはいたが、ズシを追いかけてまで殴りたいとも思えない。
少し身体を動かせば、すっきりするかもしれないが……相手がゴンならいざ知らず、ズシじゃあな。殺しちまう。
また塀に凭れると、ずるずると腰を下ろした。
火をつけるわけでもなく、細い煙草を指先で弄ぶように回す。
この宿へ転がり込んでから、ずっと続いている頭痛がまた酷くなる。
なあ、あいつ、さっきなんて言ったんだっけ。
そう──あのブレスレットは、オレのためのものだったって。
判らない。それを信じていいんだろうか。
例えばサ。ウイングとオレがねてるって知ったのが、あの──ゴンが、ここへやってきた日だったとするだろ。ていうか…それしかもう、思い当たらないんだけどさ。いや、決定なんだよ、それはやっぱり。判ってる。
でも、あれからだってオレとゴンはエッチしてたぜ?
拒まれた覚えも無いし、寧ろせがまれたりしてたぜ?
そんなんじゃ、いくらオレだって気付かれたこと判らないだろ。
どうしてゴンのくせに、そんなに巧く隠しちまうんだよ。オレがこんなにあっさり、全部バレちまって、どうしようもなくなってるのに。
嘘や隠し事が死ぬほど苦手なくせに、どうして今回に限って黙ってたられんだよ。
そういえば、明け方目を覚ましたら、ベッドじゃなくてソファに寝てたことがあった。
寝ぼけたみたい、と笑っていたけど、あれも考えてみれば"あの後"だった。
ウイングと遭った時だって、オレは少しだけ疑えていた。
落ち着いて思い出せば、ちゃんとシグナルは出ていたんだ。
気が付かなきゃいけなかった。
気が付いたからって、どうにかできてたかどうかは判らないけどな。
ゴン。
カーニバルの夜、"オレだって知ってる"って叫んだ。
逃げてなんかないって。
ああ──そうかもな。オレが逃げてんだよ。確かにな。
でも、じゃあ今更どうしろって?
もう、あのブレスレットは壊しちまった。
「は───」
溜め息が出る。
煙草のフィルターで地面を小突き、空を見上げる。
蒼く、透きとおるような色が視界一杯に広がっていた。


夕食に呼ばれ、キルアは渋々席についていた。
部屋へ戻ってきてからずっとベッドの上に身体を横たえていたが、ウイングに手を引かれて逃げることができなかった。
何かの魚を焼いたものや、温かい煮物が幾つか並んだテーブルの上は賑やかだ。
だが、キルアの前には、粥と野菜のスープが置かれていた。
「ずっと何も食べてないんですからね」
食べられるのなら、身体に負担にならないようなものを、ということらしい。そういえば朝も、昼も手をつけられる事の無い品がテーブルに乗せられていた。
それは、わざわざ自分のためだけに作られたメニューだ。
キルアは、無理矢理握らされたスプーンで粥をぐるぐるとかき回しながら、ギクシャクと食事をする二人を見てこっそりと溜め息を吐いた。
ウイングもズシもただでさえ気まずい状態に陥っているくせに、オレなんかを同席させて、ますますぎこちなくなっている。一目瞭然、だ。
だからいらないって言っているのに……だいたいオレは、食欲も無いのに、どうしてこんな真面目腐ってテーブルに大人しく座ってるんだ。
その状態にものすごく違和感を感じているのに、まるでそうしていることが義務ででもあるように、強く──必然性まで感じている──どうして。
(だって仕方ねーじゃねぇか。じゃないとゴンが)
キルアは、突然脳裏に投影された少年の名にぎょっとして、スープをかき回す手を止めた。
──ゴンが………なんだよ…?
顔を固定したままぎょろぎょろと眼球を動かして、周囲を伺う。まるで、心の中で沸き起こった疑問の答えが、そのあたりにでも落ちているのではないか、というようだ。
だが、必死の捜索も実らずに、代わりにいつも悪態ばかりを吐いている心の中の自分が振り向いて答えを言った。
(ゴンが怒るから)
──そうだ、自分のために作られたものに対して、失礼な態度を取るなと怒るのだ、彼は。もう腹が一杯でパン一枚も入らないくらいな時であっても、無碍に捨てられてしまうよりは食べて腹を壊す方を選ぶ。30分も苦しい、苦しいって言いながら、でもまた同じ状況に陥れば、学習せずに無理矢理腹に収めようとする。そういうヤツだった。
オレは昔──まだ家に居た頃は、好きなものしか食べなかった。好きなときにしか、食べなかった。用意された豪華な食事も、気に入らなければ席にもつかない。料理人がどんなに腕を振るおうと、心を動かされることもなかった。それが、当たり前だったのだ。
なのに、こんな粥一杯のために──
感化されている自分に気付き、キルアは愕然とする。
昨日、ズシの用意した昼食を、食べられないだろうと判っていながらわざわざ口にしたのもそのせいだったのだ。
一つ一つを思い出すと、あの小さな少年が自分に及ぼした影響のなんと大きなことか──気がつけば、自分の意識のそこここにゴンの存在がこびりついている。
何を思うにも、何をするにも、ゴンの言葉や行動を思い出して──だからいつまでもこの胸が痛くて。
(遭いたい)
不意に、流れ込んでくるようにそれは訪れた。
心の底から吹き出してくる。
気が付けば、止め処なく彼の心を支配していく。
(ゴンの声が聞きたい)
また喧嘩になってしまうかもしれない。
それでも、もう一度、ちゃんと顔を見て話をしたい。
あの腕輪のこと、もう一度聞きたい。
お前が、オレよりヒソカが良いって思ってても──それでも──

スプーンがキルアの指を離れて床に落ちた。
小さな音がウイングとズシの耳に入り、どうしたのかとキルアの様子を伺っている。
俯いた彼の表情はよく判らない。
「キルア君?」
泣いているようにも見える。
そう思ったウイングは、肩を揺すろうと手を伸ばした。
だが、ウイングの指が届く前にキルアは腰を上げていた。椅子を倒し、2、3歩よろめきながら立ち上がると、身を屈ませて床に落ちたスプーンを拾った。それをテーブルの上に戻すと、鼻を一啜りして口を大きくへの字に曲げてウイングを見た。
「帰るよ」
喉から搾り出すように声を出す。
ウイングには、彼の気持ちがどのような経緯を経て変化したのかは判らなかったが、何かしらの結論を得たのだろうと感じられた。
ぎゅっと結んだ唇の下が、小刻みに震えて彼の感情が酷く昂ぶっている事を示している。
本当に泣きだしそうで──思わず抱きしめたくなるのを、必死で堪えなければならなかったが。
キルアは、ゆっくりと声を出す。
「ごめん、まぁ色々……あんたにも迷惑かけたよな、たぶん」
そして、ぺこり、と頭を下げた。
ほんの数センチだったが、ズシは信じられない思いでキルアの横顔を見る。
数時間前、自分に対して凄まじい殺気を放って喧嘩を吹っかけてきた彼が、師範代に謝っている。
ウイングを見ると、少しも驚いた様子はなくて、にっこりと柔らかな笑みを浮かべて首をかしげていた。
「いいえ。私こそ、色々」
「じゃお互い様かな」
「そうですね」
ズシは、和んだ様子で言葉を交わす二人に見入っていた。少な目の会話が、何か大切なものを含んでいるようで、疎外感を感じてしまう。
なんだか悲しいと、視線を伏せると
「ズシも──」と声が聞こえてきた。
「悪かったな」
顔を上げると、キルアは短くそう言って、テーブルを離れようとしていた。
「あ…っ食事は…!」
戻る前に、一口だけでも食べていって欲しい。
そう思ったズシが呼び止めると、困ったように首を竦めて見せる。
「ああ、悪ぃ。ほんとは食べてかなくちゃならないんだけどさ……もう、時間ねぇんだよ」
だから行くな。
そう云うと、キルアは、じゃあ、と笑って彼らのもとを去っていった。




キルアは、ゴンの横たわるベッドのすぐ傍らに立たされ、上着を剥がれた。ヒソカは移動させてきたチェアに腰掛けており、ちょうど彼の肩の向こう側にゴンの顔が見える。嫌な位置だとキルアは心の中で毒づいた。
ヒソカの指が、心臓のあるあたりを彷徨う。キルアは快楽よりも命を握られる恐怖に、身体を強張らせていた。
恐らくヒソカのセックスに対しては、ゴンよりもキルアの方が過敏に反応していた。それは、快楽だけでなく強大な力と念に晒されて、彼の本能が畏怖を感じるからだ。
遠慮なく身体を這いまわる──与えられる愛撫に声を出すまいと唇を噛んでいると、か細い声が聞こえた。
「止めて……キルア、そんなの、ダメだ」
まさか意識があるとは思っていなかったキルアは、飛び上がるほど驚いて顔を上げた。
気付いてたのか──。
晴れ上がった瞼を持ち上げ、真っ黒な瞳が真っ直ぐ自分を見つめている。乾いた唇を必死に動かして、止めて、と伝えてくる。
いったいどのあたりから聞いていたのかは判らないが、どうやらヒソカを誘惑しているようには思われていないらしい──そう思うと、キルアは少しだけ安堵できた。
「大丈夫、オレ慣れてるから」
強張る頬を無理矢理上げて、ゴンに微笑む。
その優しい顔を見て、身動きの出来ない少年は眉を顰めた。
──微笑んだキルアの顔が、ずっと一番好きだって想ってた。
でも、今そんなの見たって全然嬉しくない。
どうして──どうしてわかんないんだ、オレはそんなことして欲しいなんて、言ってないよ?
動かない体がもどかしい。
キルアはオレの代わりになろうとしてる。
そうすることで、オレを助けようとしてる。
判るよ。そんなの。でも、駄目だ。
オレもキルアも、そんな風にしてちゃ駄目なんだ。
けれど嗄れた喉では、声を出すことも侭成らない。
投げ出した四肢には力が入らず、彼の腕を掴むこともできない。
その間にも、キルアはヒソカの指先に翻弄され、せっぱ詰まった声をあげ始めた。
「あ…っあ、く…っ」
ヒソカに腕を捕らえられ、引き寄せられる。よろめいて、ヒソカの脚の間に捕らえられたキルアは首筋へ押し付けられた唇に慄いた。舌先で動脈を探し出し、きゅ、と強く吸い付いてくる。噛み破られるか──キルアの体が強張った。
「んん…っ」
捕らえられた腕──指先が音を立てて変化していく。
ゴンはそれを見て、キルアが感じているものが何かを知った。けして抱かれる悦びではない、彼が一番恐れているものを感じさせられているのだ。
キルアは、そのゴンの視線を感じて、自分の体に与えられた快楽だけを追うこともできないでいた。恐怖を切り離して、愛撫の意味も考えずに夢中になれれば──それでもまだマシなのかもしれない。だが、ゴンの視線がそうはさせない。
ベッドの上から真っ直ぐ自分に向けられている視線を避けて目を閉じると、倍増した恐怖がキルアを襲う。
怖い──
死に直面しているこの状況に、あと何分正気で耐えられるだろう。
唇を奪われ、口蓋を荒らされると息が上がる。与えられる愛撫は、キルアの体を興奮状態へ押し上げているのに、頭で感じているのは恐怖ばかりだ。
逃げるなと叱咤しても、脚が震える。
「これも脱いでよ」
ヒソカがキルアのズボンを引っ張った。
キルアの頬は、紅潮するどころか真っ青に血の気を失っていた。
言われるがままにキルアは下肢へと手を移動させ、戒めを解こうと指を動かした──
「もう、やめて…っ」
鋭い声に制されて、キルアはぴたりと動きを止めた。
閉じていた瞼を開けると、もう自力では動く力もないと思われていたゴンが、震える腕で上体を支えて立ち上がろうとしていた。
「ご…ゴン…?」
驚いたのはキルアだけではなかったようだ。
キルアの声に反応し、ヒソカも背後へ視線を遣った。男の視界にも、ゴンが必死で動こうとしている様子が映る。
身体のダメージは大きいのか、何度もがくん、と体が崩れた。咄嗟に彼を捉えていたヒソカの手を払いのけ、駆け寄ろうとしたキルアを、ゴンは掠れた声で制止した。
「来るな!」
まるでキルア自身を拒絶されているような言葉に少年は足を止め、息を飲んだ。
そうして裸のままベッドを降りると、ヒソカの横を通り過ぎ、キルアの方へ歩いてくる。
よろめきながらも、必至で歩くゴンを、キルアも、そしてヒソカも止めることができなかった。彼の瞳は何かを強く心に秘めた光を湛えて、キルアだけを見据えていたからだ。
「──」
なんとか目的のところまで辿り着いたゴンは、そこで大きく深呼吸をした。
キルアは、目の前に立つ全裸の少年の、体中に残るヒソカの痕跡に目を逸らしたくなる。それは愛撫というには余りに酷くて──幾つもの噛み痕からは血が滲み、かさぶたになっているところもある。余程酷く握られたのだろう、大きな指の跡がくっきりと腕にも──首にも、残っている。顔はすっかり腫れあがっており、瞼も鬱血してその視界を遮っている。口元には乾いた血がこびりついていた。
だが、生きている。まだ生気を失っていない少年は、自分の前に仁王立ちしている。その体から感じられるのは──怒り。
「キルア」
帰れと突き放されるか──次に続くゴンの言葉を予想して、キルアは眉を顰めた。
そんな風に扱われても、やっぱりヒソカがいいのか。
情けなく視線を落としていると、もう一度名前を呼ばれた。
「キルア」
こちらを向け、という意味らしい。
なんでわざわざ、三行半を突きつけられるためだけに顔を見なくちゃならない──うんざりしたが、キルアは言われたとおり顔を上げた。
緩慢な動きで、ゴンの顔を見据え──
瞬間、左頬に衝撃を喰らった。
ガッと骨の当たる音が聞こえ、眼から火花が散る。
「な…なにすんだよ…!」
ゴンに拳で殴られたキルアは、かっとなり目の前の少年に怒鳴りつけた。
だが、ゴンもやはり大きな声で叫び返していた。
「オレ、こんなこと頼んでない!」
「何がだよ!」
「余計なことするな!」
「余計ってなんだ、どういう意味だよ!」
ヒソカとラブラブなのを邪魔するなってーなら、殴るんじゃなくて言葉で言えよ。
そのほうがよっぽど効果的だ。もう取り返しもつかないってはっきりするんだから。
だが、ゴンは地団太を踏んでなんだか判らないことを言っている。キルアも始めに殴られたことで頭に血が上り、まるで冷静にゴンの話を聞くことができなかった。
「余計は余計だ…っもうっキルアのバカ!」
「馬鹿だと?! どっちがだよ!」
「キルアだよ!」
「お前だろ、そんな格好で怒鳴ったってなんも迫力ねー!」
「煩いな、服無いんだよ!」
「やっぱお前の方がバカだろ!」
「違う、キルアだ!」
第三者──この場合はヒソカを無視して、子供たちの口喧嘩はどんどんエスカレートしていった。

「お前がバカなんだよ!」
「キルアだよ!」
子供たちは罵りあいに夢中になり、もう、互いに何を怒っているんだか判らなくなってきていた。
口を開いても馬鹿だアホだと詰るばかりで、いったいゴンが何故殴りつけたかの理由もどこかへ行ってしまっている。そのうちにゴンがキルアの胸倉に掴みかかり、左頬を腫らしたキルアもぼかすかと相手の頭を殴り始めた。
ヒソカに身体を提供することも、殺されかけていたことも、彼らの頭からはすっかり消え去っていた。
始めはヒソカも、いったいどういうことになるのだろうと興味深く観察していたが、15分もそれが続くと、退屈してしまった。
「ねぇ──もう、いい加減にしなよ」
進展も後退もしない口論に飽き、欠伸をしながら口を挟んだ。
「何!」
「んだよ!」
水を差された二人は口を揃えてヒソカに怒鳴りつけた。
と、もう既にバスローブ姿から普段着へと姿を変えたヒソカは、呆れた顔で彼らに手を振るとこういったのだ。
「あのね。人の部屋で痴話げんかするの、止めてくれないかな。もういいよ、どっちも要らない。さっさと帰りなよ」
すると今度は対象が摩り替わったのか、キルアはヒソカに食って掛かった。
「要らないってなんだよ、お前ゴンが欲しいんじゃねぇのかよ!」
「あ、それね。まあいいや。とりあえずは」
「なんだ、そのとりあえずって!」
キルアは、オレがこんなに色々苦労したってのに、と憤慨し地団太を踏んだ。
ヒソカはそれを相手にせず、ゴンへと視線を移す。ヒソカの考えていることが判らず、戸惑う少年の視線をやんわりと受け止めた。
「帰っていいよ、ほんとに。君も、それだけ怒鳴れるんだったら別に普通に帰れるよね?」
「ヒソカ」
「まあ愉しかったよ。また遊ぼう」
だが、ヒソカはにっこりと微笑みを浮かべると、折角死んだかなって思ったんだけどねと残念そうに言う。
「だ──!」
「!」
なんてこと言いやがる、と突っかかってくるキルアに向かってヒソカは手をかざした。
途端に強い衝撃を受けて二人とも吹き飛ばされていた。
ばたん、と勝手に開いた扉を抜けて、廊下の壁へと叩きつけられる。
そして開いた時と同じく、誰の手も借りずにヒソカの部屋の扉は閉められていた。



子供たちが去った後の部屋は、とても静かに感じる。
ヒソカはベッドに端座し、頬杖をついていた。
ゴンが居た名残に、ベッドの上には血の跡が残っている。それを指で辿ったヒソカはふ、と首を傾げた。
ここで、彼の首を絞めたとき──そのまま頚骨を握りつぶしてもよかったのに何故そうしなかったのだろう──あの時、自分は確実な死を求めていたはずなのに。
力をこめた途端に掌に残るだろう感触を想像しただけで、達ってしまいそうなほど興奮した──反して、自分の中の不可思議な感情も、彼の存在も、鬱陶しくて仕方なかった。根源ごと消えてしまえばいいと思っていたのだ。
掌を見つめていたヒソカは、そうか、と思い当たる。ゴンがこの腕を──渾身の力を篭めて握りしめていなかったなら、きっとそうなっていた。今ごろは、死体の処理をフロントに依頼していただろう。
だが、あの時の力強さ。あんな状況にも関わらず、諦めてはいないことを示す腕の強さ──それが、彼の瞳の光を思いださせた。鈍く虚ろになっていたけれど、そこにはもっと強い光が差しているのだ。
こんなところで、あの光を消すのはやはり惜しい。どうせなら、戦いの中であれは見たいじゃないか。
だから、無意識に彼の首を捻る力が緩み、彼は生き残っていたのだ。
勿論、その時点ではただ殺し損ねたのだ、と思い、もう一度殺してみようとした──タイミングよくキルアが乱入してきて、わけがわからなくなったけれど──そうそう、彼も良い具合に実ってきてる。
戦闘能力という点では、恐らくゴン以上に育っているし、それにあの子の中にあるジレンマが──内部に隠し持っている傷をざくざくと斬りつけてやることを想像すると、愉しくて仕方が無い。
近い内にずっと待ちつづけていたゴンとまみえることもできそうだ。当分退屈することもないし、収穫を急ぐ必要もない。
それに、今回わかったことがある。
あれは、ゴンだけ、でもなくキルアだけ、でもないのだ。
二粒揃って、一際輝く対の宝石。
どうせ手に入れるのなら、一緒でなければ意味が無い。
チャンスはいくらでもある──彼らが念を身につけ、ハンターである限りは。
これからの展開を思い、ヒソカは一人ほくそえんでいた。

部屋から弾き飛ばされた二人は、向かい側の壁に強かに身体を打ちつけ床へ落ちた。
キルアは息を詰まらせて咽せ、くらくらする頭に手をあてる。
「くっそ……なにしやがんだ、あいつ…」
気まぐれに人を吹き飛ばすんじゃねぇ、とぼやいたが、もうヒソカの部屋の扉は閉まっており、二人を拒絶していた。沸々と怒りが湧いてくる。もう一度殴りこんで、文句の一つも言ってやろうかと扉を睨んだが、拳を半分振り上げただけでやめてしまう。
見逃されたのだ。自分たちは。
何を思ってのことかは判らないが、ヒソカの気分が反対の方へと向いていたなら、自分たちはどうやったってこの部屋から出られなかっただろう。認めるのは悔しいが、力の差は歴然だ。
ラッキーだった、と言い聞かせ、静かに息をついた──と、ふと同じように吹き飛ばされたもう一人の存在を思い出した。
「あ、ゴン……っ」
彼のすぐ傍に倒れていたゴンは、それまでの疲労もあったせいか、全裸で──しかも陵辱の痕跡がはっきり残った体で、廊下にのびていた。
痛々しい躯の傍らに膝をつき、何度か名を呼んでみる。だが、反応は返ってこなかった。
これはもしかしなくても、オレが背負っていかなくちゃならないわけか。
裸のゴンを──自分たちの部屋まで。
そう長い道程ではなかったが、間、誰に会うとも限らない。
「ま、恥かく本人は気を失っているわけだし。恨むならヒソカを恨めよな」
それでも申し訳程度に、とシャツを脱ぎ、ゴンの身体にかけてやる。背中と脚へ腕を回し、たった3日で信じられないほど軽くなった身体を抱きかかえた。

3日ぶりに戻ってきた自分たちの部屋は、鍵が見つからなくて開けるのに苦労しなくてはならなかった。


部屋へ戻ってきても、ゴンは一向に目を覚まさなかった。
キルアは少し心配になったが、以前怪我をした時も、随分長く眠りつづけていたと思い出し、無理に起こすことは避けることにした。きっと、疲弊しきった体が睡眠を欲しているのだろう、こいつは野生児だから、と自分に言い聞かせた。
血や精液で汚れていたゴンの身体は隅から隅まで綺麗に拭いてやったが、まだ全身からヒソカの匂いが漂ってくるように感じる。早く目を覚まして欲しい──頭から水をかけて洗ってやりたい。
結局鍵は見つからなくて、仕方なく(というより癇癪を起こして)蹴破ってしまった扉の鍵の修理を頼んだ。明日の朝にはきっとやってくるだろう。
「ゴン…怒ってるか?」
することもなく、ただベッドの脇に座り込んでいたキルアは、眠ったままのゴンに話し掛けてみる。勿論返事があるわけがなかった。
「早く…目、覚ませよな…」
でないと、悪戯するぞ。デコに、「肉」とか書いちゃうぞ。髭オヤジに変身させるぞ。
色々呟いてみたが、やはり反応はない。
キルアはベッドにうつ伏せて、ゴンの横顔を眺め続けた。
すると、うつらうつらと眠気が忍び寄ってくる。キルアにとって、3日ぶりの穏やかな睡眠だった。


目覚めると、肩から毛布がかかっていた。
慌てて身体を起こす──窓から入り込んできた眩しいほどの朝日に目を刺され、キルアは瞬きをする。
一瞬、真っ白になった視界の中から、ゴンの声が聞こえた。
「おはよう、キルア」
目を細め、光の中を凝視する。ゴンの影がそこに在るのは判るが、彼の表情は見えなかった。
「風邪、引かなかった?」
キルアを気遣うゴンの言葉は、穏やかだ。あまりに平坦すぎて、何を思っているのだろうかと不安を感じるくらいだ。
傷はもういいのだろうか。腫れていた顔は、元通りになった?
聞きたかったが、怖くていえない。彼から問われたものにだけ肯くと、また静かに答えが帰ってきた。
「…ああ」
「そう、よかった。お風呂とか入る?」
「いや、いい…あとで」
「鍵屋さんが来たよ。もう直していった」
矢継ぎ早に言葉を重ねるゴンは、キルアと視線を合わせようとはせず、窓際から動こうともしなかった。
鍵が直っているということは、朝とはいってももう随分遅い時間なのかもしれない。
思いついたキルアが時計を探すと、だがそれがあるべきところにない。ベッドサイドの目覚まし時計がどこかへ行ってしまっていた。
「……どうしたの」
きょろきょろと周りを見回しているキルアの様子を咎めて、ゴンが尋ねた。
無いとなると、その存在が気になって仕方ない。
「なあ、時計しらねぇ?」
眠りに落ちる前、ゴンに言おうと考えていたことの全てを忘れて、こんなことを尋ねていた。
「あぁ、移動したんだ」
ゴンは窓際の立ち位置を守ったままで、淡々とした口調で答えた。
だが、どこにある、とは教えない。そもそも時計を移動する意味が判らず、キルアが
「……なんで」と再び尋ねたが、その返事も
「なんとなく」
何か歯切れの悪い言い方で、気分が悪い。
「今、何時だよ?」
「さあ……」
「なんだよ、いったい……」
納得はいかなかったが、時計の在り処を答える気はないらしいと諦め、自分で探そうと気持ちを切り替えた。
「どこやったんだ? んとによ…」
ブツブツ不平を呟きながら、ベッドの下や積まれた衣服の中を捜して部屋をうろつき始めた。

あまり整頓されていない部屋の中を、あちこち探し回ったが時計は見つからなかった。
まさか、と思いながらベッドへ戻って、脇に置かれたサイドテーブルの後ろを覗いてみる。と、ずっと傍観していたゴンが名を呼んだ。
「キルア」
「ああ、時間が知りたいんだよ。時計探すからちょっと待って」
「――キルア、ねえ…俺の話を聞いてよ」
呼び止めた声は、とても静かで──悲しそうだった。
ごそごそしていたキルアの動きが、ぴたりと止まる。時計にかこつけて、知らぬふりをできないかと思い始めていた部分に触れられて――鼓動が早鐘のように鳴り響いていた。
顔を上げることが出来ずにサイドテーブルの引き出しにかけたままの指をじっとみていると、ゴンが口を開いた。
「昨日の話の続き、なんだけど」
きた、とキルアの拳がきつく握られた。

ゴンと話をするために、戻ってきた。
どんな風に言われても仕方ないと覚悟もした。
でもいざ、突きつけられるだろう言葉を目の前にすると、逃げ出したくなるな。
夕べ、もう逃げない、って決めたんだけど。
ごめん、って……ダメでも言うんだ。こんなことになる引き金を作ったのは、オレだから。(嘘です。あたしです)
渇いた唇を強張らせつつ、なんとか声を出そうと試みた。
「ご…」
「あの、ね、キルア……もう、二度と…っあんなこと、しないで」
キルアの決死の告白を遮ったゴンの声は、掠れていた。
「…しないで……って」
ウイングと寝たことなら、言われるまでも無い。
今更、と思ったキルアは顔を上げて勿論だ、と誓おうとした。だが、それを見ていたゴンは首を振って、眉を顰めた。
「オレの代わりになるなんて、止めてっていってるんだよ…!」
ヒソカに、身体を差し出したことを言ってるのだと気付き、
「……そんなの、オレの勝手だろ」と他所を向いてしまった。
「駄目なんだっそれじゃ」
自分の身代わりなど、二度と許さないと繰り返し言う。
だが、キルアには、ゴンの駄目だ、の意味を理解できない。ただ、ヒソカとの関係に口を挟んだことが気に入らないのだと声を沈ませた。
「お前が怒ることくらい判ってたよ。でもしたかったんだ。それしかなかったから」
「オレはっあんなことして欲しくない!」
「じゃあ…っじゃあ、他に、オレができたことってなんだよ! どうやったらあそこからお前を連れ出せたんだ?! オレには判らないっそれにっ」
あのままじゃお前死んでた。お前が嫌でも、拒絶されても、それで嫌われたとしても、助け出さなきゃって思った――じゃなきゃ、こうして話もできないって。
俯いて怒鳴りつづけるキルアの声が揺れ始めていた。
「お前からヒソカを遠ざけるのに、他に手段なんか思いつかなかった…っ」
「だからって…!」
ゴンは、何時の間にかキルアの傍に立っていた。それに気付かず、キルアは顔を覆ってしまう。本当に、大切なものを失うかもしれなかった、あの一瞬を恐れて身体が震える。
「だって他に思いつかなかった…っほんとなんだ、オレはお前がここから居なくなってしまうことが怖くて…っ」
「キルアが居なくなったってオレはいやだよっ」
「あのままヒソカのところに居させたら、お前死んじまうって思って…!」
「キルア、聞いてよ」
何度も話を遮ろうと試みるが、キルアはただ一方的に叫びつづける。
「お前が居なくなるよりは、オレが代わりになった方がどれほど楽かと思ったんだ!」
「キルア」
「全部オレの我が儘だよ…っでも、…」
強い力で、腕を引かれる。
漸くそこにゴンがいることに気付いたキルアは、隠していた顔をあげて彼を見た。
「……オレはもうダメか? お前の傍にいる資格、ない…?」
弱々しい声が、ゴンの胸を切なく締め付けていた。
駄目だ、なんて一言だって言ってない。そうじゃない、どうして判ってくれないのだろう――憤りに似た哀しみを感じて、ゴンはまた首を振った。
「ダメじゃない…けどっ」
「こんなに汚れてる俺が、お前の傍になんか──」
「だから、そんな風に、何もかも自分で決めちゃわないでよ…っ!」
誰も、キルアが汚れてるなんて言ってない。
全部彼の思い込みが成り立たせている妄想だ。
泣き出してしまいそうなのを必死で堪えて、ゴンはキルアの腕を揺さ振った。
「オレはっ…キルアに守られるだけの存在なの…?!」
「そんなこといってねぇだろ! でも、あの時は!」
オレがどうにかしなくちゃ、とまた続きそうになる言葉を遮った。
「違う…違うんだよ、キルア! それじゃ嫌なんだ! オレはっ」
「お前が嫌でも、オレは何度でも…っ」
「止めろってば!!」
一際大きな声が、部屋中に響き渡った。
キルアが言葉を飲み込み、驚きに眼を見開いている。ようやく、と思ったゴンは、静かに口を開いた。
「聞いて、キルア──オレは、キルアと、対等でいたい」



「キルアに守られるだけなんて、嫌なんだ。オレはそんなに、弱くないよ…?」
いつだって君と、並んでいたい。
対等に、前を見て、競って歩いていきたい。
君に守られなければならないなんて、耐えられない。
言葉を使うのはそんなに上手い方じゃない。だから必死で話した。どうしても判って欲しかったから。
けれど、キルアは首を振るばかりだった。
「でも」
「キルア。オレは、そんなに弱い?」
「いいや――けど」
「庇わなくちゃならないんなら、見捨ててよ。オレを守るためにキルアが傷つくのなんて、駄目なんだ」
キルアには、ゴンの言葉を理解するだけの余裕がない。
今まで友達なんか居なかった。対等なんて、どういうことなのか判らない。
ゴンは俺にとって大切なヒトで、それを命を掛けて護るのは、当たり前じゃないのか? そうすることが、友達なんだと思ってた。愛してるってことだと思った。
そういうのに、憧れてた。
それに、オレはゴンに酷いことをたくさんしてしまったから――償いには、犠牲を払わなくちゃいけないものだろう?
なのに、ゴンが違うという。
「キルアがオレを大事に思ってくれるのは判った。でも、オレだってキルアのことが大事なんだ。オレのために、なんて思うんなら、もう一緒にいられないよ」
いられない、という部分だけを理解して、キルアは傷ついた表情を浮かべる。
「! またヘンなこと考えてる! 違うよ、キルア!」
バチン、と頬を両手で挟まれ、キルアは眼を丸くした。
無理矢理顔を上げさせられて瞳の奥を覗かれた。
澄んだ黒瞳が、心の中まで見通しているみたいだった。
そして力強い声が、彼を縛る。
「ずっと一緒に居たいから! だから、オレのことを庇ったり守ったりなんて、二度としないでって言ってるの!」


数秒の間、ゴンに囚われ固まっていたキルアは、ばちばちっと瞬きをしてから口を開いた。
「それだけ…?」
「それだけ!」
どうやら、本当に『それだけ』を怒っているらしい――きっぱりとゴンは言いきった。
だけど――対等ってそういうことなのか?
むくむくと疑問の雲が大きくなる。
償いはどこへ行ってしまうんだ?
うん、と肯いたら、オレは許されてしまうのだろうか。
なんだか変だ…ゴンは、もっと他に怒るべきことがあるのではないのか――?
けれど、ゴンはそれに触れない。
ただただ、守るな、とか庇うな、とか、延々と繰り返している。
「だから、ねぇ。キルアはオレを、女の子みたいに守ろうなんて、考えないで欲しいんだ」
そうだ。さっきから、何度も同じことばかり聞いているんじゃないか。
漸くそのことに気づいたキルアは、少し落ち着き始めていた。
途端に、話さなきゃ、と思っていたたくさんのことが頭に浮かぶ。償わねばならない、たくさんの――ウイングと浮気したことも、一方的に放っておいたことも、彼ばかりを責めてしまったことも、ブレスレットを潰したことも。
責められて当然の悪行が、ちょっと考えただけでもいくつも思い当たる。
それを全部差し置いて、一つのことだけしか求めないゴンをじぃっと見つめた。
「ウイングのことは?」
一番後ろめたく感じていることを、とりあえず尋ねてみる。
「それは──」
気になる、けど。とゴンは口の中でもごもごとつぶやいた。
それらのことも何もかも、些細な事象に過ぎないと思えるくらい、キルアに庇われたことが嫌だった。
それに、キルアとウイングとのことを責めるなら、自分にだって大きな非がある。
「オレもヒソカと」
色々、と告白しかけて、キルアに止められた。
「……ああ――いい。オレ、それ聞きたくないし」
余計なことを言わないでくれ、とソッポを向いた。
ヒソカと何をした、なんて聞いたが最後、何もかもを比べてしまってドツボに嵌まるのが目に見えている。ゴンにそうさせるように追い詰めたのも、多分自分なのだと判っているから、尚更だ。
ゴンは、告白を拒否されてすまなそうに腕を放す。
「ごめん」
「なんで謝る? オレだろ。悪いのは」
「そんなの。どっちが、なんて判らないよ――オレも、悪い」
互いに、少しずつ興奮が収まってくるのを感じた。
「オレら……馬鹿みたい、な」
「うん。馬鹿みたいだ」
なんでこんなことになっちゃったんだろうね、とゴンが呟いた。
酷い疲労感が襲ってきた。
立ち尽くしたまま、少し俯いているゴンを見る。
オレは許されたのだろうか? そして、ゴンのことを許せたのだろうか。
これからも本当に一緒に居られるのか、或いは道が別れるのか、考えると不安になる。
「ゴン」
でも、一緒に、と言ってくれた。
ゴンが、一緒に居たい、と言ってくれたから。
「ごめん、な」
消えそうな声で告げると、一瞬顔が歪んで、胸の中にゴンが飛び込んできた。
背中へ回った手が、ぎゅううと力強く締めつけてくる。
痛みを伴なうほどの抱擁に、きっとこれが、ゴンが感じつづけていた不安の強さなんだろうとキルアは思う。
(ほんとに――ごめん)
応えるようにゴンの背中を抱くキルアの腕にも、力が入っていた。



どちらからということもなくベッドに座った。

二人分の重みに沈んだ縁に、手をかける。同じようにしていたゴンの小指に触れて、ドキドキした。せめて隣同士に座っているのが救いだ。だって、顔を見なくて済むから、とキルアは胸をなでおろす。そして、重たい口を開いた。
「やっぱりヒソカのことが好きか?」
ずっと気になっていたことだった。尋ねるのは怖かったが、確認しなければ前に進めない気がした。
真っ直ぐ前を見詰めていたゴンは、キルアの視線を感じて重く口を開く。
「……好き…とは違うのは、判ったよ。オレ、ちょっと勘違いしてたみたい」
「ふぅん?」
何をどう、とは言わない。あの男に惹かれていることも否定はしなかったが、好きなのとは違う、とはっきり宣言したようなゴンの言い方に、キルアは半ば納得し、半ばわからないような相槌を打った。
「キルアは? キルアは――ウイングさんのことが好き…なの?」
オレより?
言外にそう尋ねられて、キルアは大きく首を振った。
「あれは!……お前が怪我してて…っ退屈で……てか、憂さ晴らしていうか……」
ワタワタ慌てる様子を横目で見ていたゴンは、ぼそり、と言う。
「キルアって」
「んだよ」
「ひどい」

笑われた。
鈴を鳴らすようにころころと、可愛らしく――少しずつ距離がもとへ戻っていくのだと感じた。
ゴンにつられて笑い、肩や額をぶつけ合う。一頻り笑って落ち着いてから、ずっと気になっていたものの行方を尋ねた。互いに正確無比な体内時計を持っているけれど、もともと在るべきものが見当たらないのは落ち着かない。
「時計、どこにあるんだよ」
「……引き出しの中だよ」
「戻すぜ? いいよな」
答えずにソッポを向いているが、キルアは構わず引き出しを開けた。
だが、そこにあったものは。
「……壊れてるじゃん、これ」
指摘すると、ゴンが真っ赤になって横を向いた。
しばらくして、聞こえるか聞こえないか、というほど小さな声で
「……うん」と返事が返ってくる。
キルアは、ゴンらしからぬ所業に呆れ果ててしまう。
だから、か。
癇癪でも起こしたのか──壁にでも叩きつけられたような壊れ方で、丸かった時計がべこん、と凹んでいる。衝撃で外れかけた針が、申し訳程度にぶら下がっていた。当然、中の機械は壊れてしまっているんだろう。刻むはずの時の音は全く聞こえなかった。
ぷ、と吹き出してしまう。
言いたくなくて、あんなにノラクラ話を誤魔化していたのだ、と思うと可愛くなってくる。
「よし!」
掛け声で勢いをつけて立ち上がった。
「キルア?」
「買いに行こーぜ、時計」
そしたら、二人の時間がまた新しく流れ始めるような気がする。
壊れてしまった目覚ましは部屋の小さなダストボックスへ放り入れ、代わりにゴンの手を握った。
ぎゅっと。
力強く。
その手とキルアの顔をしばらく見比べていたゴンも、満面の笑みを浮かべて頷いていた。
「……うん!」


部屋を出て行く少年たちが、交わす会話が聞こえてくる。

「今度は投げても壊れないのがいいなーっ」
「無理だ、そんなの」
「なんだよ、キルアだってドア壊したくせに」
「ドアも壊れないといいな」
「あはは、それも無理だよ」
「そうかな」


明るい日差しに溢れる歩道は、人でごった返していた。
並んで歩く、二人の少年の肩は時折ぶつかりあう。だが、互いに距離をとることもなく寧ろ触れるたびにぐいぐいと押し合った。
ゴンの手には、小さな紙袋が握られていた。中には、つい先ほど出てきた時計屋で選んだ、小さな目覚まし時計が入っているのだ。
赤くて丸い、少しレトロな感じのする時計を、丈夫そうだといって選んだのはキルアだ。
失礼だ、と怒ることも無く、ゴンはこれをくださいと店員に頼んだ。

ちくたくと、時を刻む音が袋の中から聞こえてくる。


「ブレスレット、ごめんな」

歩きながら、もうひとつ謝らなければならない事を思い出した。
キルアは曲げてしまったブレスレットを想って、素直に頭を下げる。
その言葉は、自分でも驚くほどすんなりと出てくる。ついさっきまで、あんなにも葛藤していたのが嘘のようだ。
すると、ゴンがごそごそポケットを探って何かを取り出した。握った掌をゆっくりあけると――その残骸が、そこにある。
持っていたのか、とキルアは驚いた。
ゴンの掌に乗った銀の輪は大きく歪み、元の美しさの欠片も無い。これでは、真っ白な銀の色はまぶしく輝いていても、屑鉄とさしてかわりがなかった。
改めて自分のしたことを目の当たりにし、キルアの胸の中がすまない気持ちで一杯になる。
ブレスレットをじっと見つめながら、ぽつり、ぽつりと話す声も沈んでいる。
「オレ……まさか、ゴンがオレに何かくれるなんて思いもしなかった。だってお前からはもう、色んなもの貰った気でいたからさ……モノじゃない、ものを…だから、てっきり」
「うん」
お前が誰かから貰ったんだって――ヒソカからの贈り物なんだろうって、思いこんでしまった。
お前は違うって、言いかけてたのにな。
「こんなにしちまった。ほんとにゴメン」
それを聞くと、ゴンはブレスレットを見る目を細めた。
「いいんだ」
短いが、はっきりとした口調でゴンはそう答えた。
掌の上の塊をまた握り直し、くるりとキルアに背を向ける。
「形にしなくてもいいものって、あるんだよね」
物に頼ろうとするから……間違っちゃったのかもしれない。
贈ることが悪いわけじゃないけど、やっぱり気持ちは自分で伝えなくちゃ。
形にするんじゃない。言葉にするんだ。
強く握り締めた銀のエッジを皮膚に感じる。
ゴンはしばらくそうしていたが、やがて何かを決めたように顔を上げた。
「おい」
引き止められる前に、ゴンの手はゆっくりと塊を空へと放っていた。
陽の光を反射する金属の塊は高い木に向かって大きな放物線を描き、太陽の光を反射してきらりと光った後姿が見えなくなった。
「いいのかよ」
直そうと思えばできたかもしれないのに。
キルアが言うと、
「いいんだ」
だが、ゴンは晴れ晴れとした顔をしていた。言葉は少なかったが、何か吹っ切ったものがあるのだと伝わってくる。
それを見たキルアは、何もいえなくなってしまう。
顔を曇らせ、不安そうにしているのに気付いたゴンが、硬く握られた拳を引き寄せ無理矢理開かせていた。
「!」
指の間に指を絡ませて、強く力を入れる。ぎゅっと――繋がった手が暖かかった。
「また、何か贈らせてよ。今度は一緒に選びに行こう」
オレのセンスは悪いんでしょ、と冗談めかして言ってくれるゴンが愛しかった。
「まだ何か贈ってくれる? 俺は許してもらえる…?」
ドキドキしながら尋ねた。キルアは、こんなに緊張したことなんて、今まであっただろうかと思う。
いつのまにか、握り締めた掌に汗が滲む。
「ね、キルア。また最初からやりなおそうよ」
にこり、と笑ったゴンが、最初の言葉を言った。
「オレ、ゴン。君の名前は?」


「──キルア」




向かい合っていた二人の腹が、同時に鳴った。
ゴンがぺこん、と凹んでしまった自分の腹へ手を当てると、
「あ、おなかすいた」と呟いた。
ずっと感じていなかった空腹感が、今突然よみがえってくる。気がつけば、互いに3日間ろくな食事をしていない。
キルアも言われてはじめて思い出したように、自分の腹へ手を当てる。
「オレもだ。なんも食べてねぇ」
「一緒だね」
「何食おう! パフェ食いてぇ」
それはご飯じゃない、と突っ込まれても、キルアはもう決めてしまったようだ。一番近いファミレスに向かってゴンの腕を引いた。
ゴンも苦笑いをしながら、やはり肩を並べて歩き出す。
「そういえば来週からさ、修行再開だね! もう1ヶ月経ったんだ」
早いね、と言うゴンの顔はわくわくと期待に溢れている。キルアも、にやり、と笑うと叫んだ。
「打倒ヒソカ!」
「おう!」
そう叫んで、空に突き出した二本の腕は、硬く握られたままだった――





新しい日々。


大きなベッドの上に寝転がる。
修行が始まって、数日。
ルーキー狙いが妙なちょっかいをかけてきたりしていたけれど、かつて無いほど充実した時間に、子供たちは心地の良い疲れを感じていた。

「……愛されてるとか、もう全然感じて無かったよ。違ったんだ、ってずっとさ……されてる間、思い知らされてるみたいな気がした。オレもね、お互い様みたいで、ヒソカのことを好きっていうのとは違ったんだって、言っちゃってたし。あんまりそれがどうとか思わなかった」
ぼそり、ぼそりと話をするゴンの手は、キルアに繋がっていた。
向き合うようにして、身体を横たえて。静かにゴンの声を聞くキルアは、一つも聞き零さぬように、と耳を傾ける。
「でもね、あのね……オレ、おかしいんだよ。愛じゃなくってもね、オレは感じちゃうんだって……ヒソカにされてて、すごく気持ちよくて、もうどうにかなっちゃいそうだった」
こんなことを言わされるなんて、と真っ赤になり、耐えられなくなって黒い瞳を伏せる。睫毛が影を落とした。
「オレって、めちゃくちゃだ」
「酷くされたい?」
漸くキルアが口を開いて、ゴンは少しほっとしていた。
されたいか、と聞かれて体に問うが、疼いているものとそれが同じなのかは不明だった。
「……わかんない」
素直にそのままを告げると、感情を殺した瞳で覗き込まれた。
「……酷く、してやろうか。したら、判るかもよ」
キルアは、彼の記憶を全て塗り替えてしまいたい衝動に駆られていたが、それは抑えつける。すると、ゴンが首を振った。
「キルアは駄目だよ。だって、オレ、キルアのこと好きだもの。好きだって判ってるもの。だから、気持ちいいのは当たり前でしょ?」
「う? うーん……そうかな。よくわかんねぇけど」
「そうだと思うよ」
「でもさ。オレはお前が気持ちよくなって欲しいし……イイようにやってやりたい」
「ばか」
ごろん、と向こうを向いてしまう。でも、手は離さない――赤くなっているのは、首筋が示していた。
キルアの口元に苦笑が浮かぶ。
こんなことをして、結局身体を合わさないまま夜を過ごす――ゴンと、この部屋に戻ってきてから、ずっと、だ。
触れるのが怖いのもあったが、寧ろ手を繋いで話しているだけで満足して眠ってしまうことが多かった。
ゴンの声を聞いていると、気持ちが落ち着いて眠気が訪れるのだ。
だが、この夜は違った。
しばらくあちらを向いていたゴンが、また振り返って――握っていた手に力を入れたのだ。
「ねぇ、やっぱり酷くしてみてくれないかな」
「……ん?」
少し眠りかけていたキルアは、突然言われて眼を瞬かせた。
「だって、キルアに酷くされても気持ちいいのかなって……思うじゃん」
「…やっぱ酷いのがいいんだ」
にやり、と笑うと、慌てて首を振った。
「っ…そういうわけじゃないけど…」
「でもヒソカの酷いのと、オレがやんのとではきっと違うと思うけど」
「そっか。えと……」
「比べれるわけ?」
「わかんない」
「同じことされたいの」
それなら、詳しく教えてくれればそっくりそのまましてやるよ、という。
聞くのはちょっと辛いのだが、と心の中で思ったが、ゴンには言わなかった。
「そういうわけじゃないよ…と思う。オレ……」
「なに」
「あの……ただしたいだけなのかも。」
「……は?」
「キルアと、したいって…だけなのかも……」
今度こそ、指の先まで真っ赤になって俯いて。


それがあんまり可愛かったから、誘われてるのだ、と気付くのに遅れた。

ゴンの身体をぎゅっと抱きしめてみた。
その感触を思い出してみれば、求めていたことに気付く。
腰を引き、頬に触れ、唇を寄せ――塞ぐ寸前に、またそれが動く。
「あ、そ…そのまえに」
「ああ?」
「もういっこだけ、聞いていい?」
「んだよ、まだあんの?」
ちょっと前まで触れなくとも眠れる、と思っていたキルアだったが、臨戦態勢に入った今はお預けを食らわされたような気がして、つい不機嫌になってしまう。
だが、ゴンはもじもじとなかなか言葉を続けない。促しても、赤くなったまま目を伏せて――漸く聞こえてきたのは、蚊の鳴くほどの小さな声だった。
「…あの…ルアは…ほんとは、されたいの? だからウイングさんと…」
「あ──」
直ぐには答えられなかった。
でも、ゴンが気にするのは当然…か。
隠す意味も誤魔化す意義も見当たらない。
「いや、ウイングとオレとじゃ、オレが下になるだろ? まーさかウイングにヤらせてっとかいえないし」
お前も、ヒソカにやらせて、とか言う? と、かなり状況が違うのも承知で例えてみる。
「そ…そっか」
そうだよね、とゴンはまた俯いてしまう。
「オレ、どっちでもいいしね。ヤるんでヤラレるんでも……それよりさ、ゴンは? そーいうこときくってのは、オレのことヤりたいわけ?」
返事がなかった。シャツを引っ張る指先が強張って。
――それが答えになっていた。
キルアは自然に笑みが漏れるのを止められない。
ま、こいつも男だし? ヤりたいのもあたりまえっつーか。
そういえば、一寸前に試したこともあったっけ。結構ヨさそうだったっけな、と思い出す。オレも、そこそこ気持ちよかった。
(ていうか…ゴンとするなら、ほんとにどっちでも良いんだよね)
上でも下でも、リードするのは自分なのだから――
腕の中で固まっているゴンの頭をぽんぽん、と叩いた。
宥めるような温かみを持っている掌を感じて、ゴンが顔を上げた。それを覗き込むようにすると、キルアは口端を引き上げたまま口付ける。
軽い音がして、柔らかな肉が離れる瞬間、囁いた。
「……また今度な、今度。でも今日は駄目。オレがしたい」


キルアが用意した、少し大きな鏡に二人の姿が映っていた。
「なぁっ…みろ、よっ」
「あ、あっ…やっ…」
ゴンは顔を真っ赤にして俯いた。
胡座を掻いたキルアの膝の上に乗って、脚を大きく開いた中心には、くっきりと反り返ったペニスがあった。
顔を上げれば、それがはっきりと視界に入る。己の姿を認めるのを嫌って、ゴンはぎゅっと眼を瞑っていた。
だが、それが気に入らない。
「誰が、お前の中にいるのかさ…っ言って」
キルアが名前を求めて腰を揺らす。
鏡の中の顔が、苦悶に満ちた。
「んっう……んん…っ」
「ゴン」
後ろから、柔らかな耳朶を口に含むと、肩が震える。そのまま、鼓膜へ響くように低く――
「ミロってば」
「───! っあ、っ…!」
囁いた途端、膝裏へキルアの手が潜り込んでいた。繋がったままでぐっとそれを上へあげると、秘部が更に露になる。
襞を一杯に伸ばしてキルアの怒張を飲み込んだアヌスが、くっきりと映し出された。
「ば、かっ……やめ、て、そんなの…っ」
切れ切れに、嫌だと訴えてくるが、不自然なリズムで挿入を繰り返せば、間もなく甘い吐息と嬌声が聞こえてくる。
「ああっん、はぁ…っ」
体の中心で、天を目指して反り立っている淫棒は、止め処なく涎を垂らし快楽を示していた。伝っていく滴が、つながりを湿らせる。
「お前のこと、よくしてるの、誰だよ…っ」
また、キルアが同じ事を聞いた。
鏡の中で突き上げられるゴンは、開きっぱなしの唇を僅かに動かした。
「あ…っき・・」
「うん?」
キルアが聞き返せば、尚はっきりとそれを口にする。
ずっと――聞きたかった名前を――
「きる・・あ……っ」
一度失った歯止めは、二度と元には戻らない。
堰切るように溢れた名前が、ゴンの口から零れてきた。
「きる、あ、きるあ…っきるあ……っ」
「ゴン」
「キルア──きる、あ、き、きもち、いい・・・ っ」
それを聞いたキルアは、突然揺さ振っていた身体を抱きしめた。動きを止めて、肩口へ顔を埋め、うっとりと眼を細める。いきなり与えられていた律動を止められて、行き場の無くなった快楽に悶えるゴンは、前へ突っ伏してしまいそうな身体をキルアに支えられながら、唇を戦慄かせていた。
「オレも。しんじまうくらい…」

「…!」
瞬間、埋め込んでいた楔がきつく締め付けられるのを感じた。ゴンの体に巻きつけた腕に、爪を立てられて。
「?」
頭を上げ、いったいなんだ、と問いかけようとすると、抱えていたゴンの腕があがり、肩に乗っていたキルアの頬に触れる。振り仰いだゴンは、眉間に深い谷を刻んでいた。
「だめ、だ……っ」
「?」
「死んじゃう、なんて、言うな…っ」
強い瞳で睨まれて、心臓が痛くなる。
呪縛をかけられたようだった。
「……お前はどうなんだよ」
お前こそ、死ぬ事を畏れてもいないじゃないか。
ギリギリのところに何時だって立ちたがってるくせに。
そういうと、ゴンはぶんぶんと首を振った。
「オレのことは良いの…っ」
「なんだよ、それ」
でも苦笑いしかできない。
途端に唇に触れたくなった。
無理な体勢であることは判っていたが、ゴンの身体を左腕で支え少しだけ斜めに倒すと、仰ぎ見ていたゴンの唇へ触れた。
唾液に濡れた肉を互いに食み合い、舌を絡ませて求めた。
「あ……っも・・と…っ」
して、と懇願する声が満たしていく。
空っぽだった躯が、一滴ずつゴンで埋め尽くされていくのを感じ、キルアは幸せだった。

これが、オレのもの。
オレだけの、大切なもの。
何に変えても護り通す――
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