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  • 2014⁄01⁄27(Mon)
  • 01:34

君について

 最近の俺って、自分でも怒りっぽいな、と思う。
 ささいなことで怒りだすし、一度怒りだすと、どうしようもなく怒り続けるんだ。
 弟のワタルがトイレの紙を補充して出なかったのが、ある日突然頭にきて、
「紙ぐらい取り替えられないんだったらお前、もう使う権利ナシだっ!ケツでもクソでも、自分の手でふけよっ!」
 と怒鳴りつけてしまった。
 ワタルは目をひんむいて、
「急にどうしたんだよ、兄ちゃん。いつも替えてないのに、いままで何もいわなかったじゃんか」
 と反論した。
「いままでずっと我慢してたんだ。弟なんて、ホントにうざいな。ちょっとやさしい顔をすればつけあがるし、ろくにありがとうもいわないし、わがままで、自分勝手で、優柔不断で、こんなならいない方が、よっぽどマシなんだよ」
「何怒ってんだよ、トイレット・ペーパーぐらいで」
 ワタルは口をとんがらせながらも、渋々紙を取り替えに行った。
 本当のところ、いままでずっと我慢してたなんてのは嘘で、その朝突然、ワタルのあとにトイレに入って、ムカついただけなんだよな。
 これって、典型的なヒステリーだな。ワタルに、八つ当たりしたんだ。
 それがわかってるから、ますます頭にきて……、そうなると、アリ地獄みたいなもんだ。
 次男のクセに、長男の俺より甘やかされて育った弟のワタルは、トイレから出てきてため息をついた。
「兄ちゃん。中学って、しんどいのか?」
「はあ?」
「だって、この頃、怒ってばっかしだからよ。算数、そんなに難しいのか?」
「中学じゃな、算数なんていわないで、数学っていうんだ」
「兄ちゃん、算数、苦手だからさぁ」
「そんなんじゃねえよ」
「いじめっ子、いるのか?」
「いじめっ子って、あのなあ……」
 俺は思わず口ごもってしまった。
 ワタルはわけ知り顔で、
「オレにいえよ。仕返ししてやっから」
 と力強くいった。
 小学5年生がどうやって中学1年生とケンカする気でいるのか知らないが、ワタルの兄貴思いのやさしさが身にしみて、
「その時は頼む。ちゃんと援護射撃しろよ」
 といっておいた。
 男が可愛くいられるのは小学生までだと、ワタルを見ていてしみじみ思う。
 そうなんだ。
 俺が怒り狂っているのは、クラスの男どもの所為なんだ。
 特にあの、菊地健吾ってヤツ。
 あいつの顔なんか、見るのも嫌だ。
 何かといえば俺の毛深さをバカにして、スキあらば腋の縮れ毛や足のスネ毛をつまんで引っ張るし、露骨に俺を指さして、オヤジオヤジと大声ではやし立てる。
 クラスの男どもの中にも毛深いヤツらは何人かいるが、それでも、俺ほど濃いヤツは見当たらない。たいていは、オンナみたいにツルツルすべすべした発育不全の男子ばかりなのだ。
 そりゃ、確かに菊地健吾は、むきタマゴみたいなツルツルした素肌の持ち主で、外見のどこにも、ムダ毛1本生えていない。顔だって、デビューしたてのジャニ系タレントかと思うほど、ひどく可愛らしい。
 そういえば、小学校以来の友人に風間春彦という男がいるが、彼もまたジャニ系種族のご多分に漏れず、パイパン族のひとりだった。
 だけど、風間は菊地みたいに、決して俺のことをオヤジ呼ばわりしたりしないし、誹謗中傷の暴言も、吐かない。少なくとも菊地のように、
「お前、何食ったらそんなに毛深くなるんだ」
「お前、いまでも弟といっしょに風呂に入ってんだってな。弟もモサモサって聞いたけど、それほんとか」
「お前が陸上部に入ったの、3年生のキャプテンが毛深いからだろ。同類相憐れむの心境で、キャプテンのいうことならなんでもハイハイって聞くんだってな。だっらしねえの」
 なんて具合に、人をコケにすることなど、絶対にしない男なのだ。
 菊地は、そんな風間のことが気にいらないらしくて、ついこの前も、
「おいみんな、風間は矢野とデキてるぞ。デキてるデキてる」
 などと大声でわめき散らした。
 そしたら、菊地にくみするクラスの男どもも一緒になってわめきだして、
「そんなんじゃねえって!」
 と叫ぶ俺の声なんか、ぜんぜん聞こえないほどだった。
 ああ見えて、意外と男気のある風間春彦は、グッとこぶしに力をこめ、
「矢野、もういいよ。ほっとけ。いわせとけって」
 といってこらえていたが、俺の方は悔しくて悔しくて、全身が怒りでブルブル震えるくらいだった。
 なんでなんだ。
 なんで、俺と風間がデキてなきゃならないんだ。仮にそうなりたくても、その可能性は皆無に等しいというのに……。
 菊地健吾も憎たらしいが、それにくみするクラスの男どもも、みんな同罪だ。
 一緒にはやし立てた男の中には、小学校で同じクラスだったヤツらもいて、そいつらは小学校の頃や中学になりたての頃は、そんなふうにからかったりはしなかった。
 生えた、生えないという毛の問題が大問題になりかねない多感な年頃とはいえ、菊地健吾が先導して、みんなを悪の道に引っ張り込んでいるのは間違いなかった。
 この頃じゃ、クラスの男子の大半が、俺と風間の仲のよさをバカにしてからかっている気がする。
 その元凶があいつ、菊地健吾だ。
 しゃらくさい。
 中1にもなって、まったく毛が生えない方が異常なんだよ。


「で、今日はまた何が原因でケンカしたんだ」
 担任の小森センセがのんびりいった。
 俺と菊地は黙ったまま、ソッポを向き合った。
 職員室のセンセたちはみんな、こっちを見て笑ってるみたいだった。
 まあ、確かに笑われるようなカッコではあるよな。
 俺のカラーは外れて詰襟からはみ出てるし、袖口のボタンは取れてるし、顔のあっちこっちに爪の引っかき傷がある。
 だけど、菊地だってかなりのダメージで、金ボタンがふたつすっ飛んで、カラーが折れたし、何より右手の人差し指と中指2本にホータイが巻かれ、社会の窓のチャックが壊れて、赤いTシャツの裾がちらちらのぞいてる。
 へへへ、ざまーみろってんだ。思いっきりシバいてやったもんねー。
「矢野、理由いってみろ。朝っぱらから取っ組み合いのケンカするんだ。理由あるだろ、理由が」
「…………」
 俺は黙っていた。
 とてもいえたもんじゃない。
「菊地。お前はどうだ」
 菊地のヤツも黙ってる。
 いえるわけがない、羞恥心ってものがあるのならな。
 センセはため息をついて、風間春彦を見た。
 風間はぼぅーっとして、突っ立っている。
 さっきの取っ組み合いには混ざらなかったので、まっさらの無傷だ。
 俺と菊地が取っ組み合ってるのを、風間が勇敢に止めているところにセンセが来たので、とりあえず呼ばれたのである。
「風間、お前は知ってるんだろ、うん?」
「あ、あのっ、ノ、ノートを……」
「ノート?……ノートがどうしたんだ」
「ノートを……、あのう、矢野クンのノートを……」
 風間は真っ赤になって、いいにくそうに口ごもった。
 仕方がないな。風間は、ヘーキでセンセに嘘をつけるような男じゃない。
俺は大息を吸って、一歩前に出た。
「俺のノートを菊地が無断で持ち出したんです。それで頭に来て、ケンカになったんです」
「……そうなのか、菊地」
 菊地健吾はちらりと俺を見た。
 いかにも意地悪そうな目だ。
 もしかしたら、ホントのことをいうのかもしれない。
 だったらいえばいいんだ。
 俺は真横から、菊地健吾を睨み返してやった。
 いえるもんならいってみろ。
 そしたら俺、一生お前を許さないからな。心底嫌って、永遠に軽蔑してやる。憎んでやるからな。
 菊地は目をそらして、肩をすくめた。
「まあ、そういうことです」
「そうか」
 センセは、まだ腑に落ちないといったふうに、あいまいに笑った。
「それは菊地が悪い。菊地、矢野に謝れ」
 菊地は渋々、俺に頭を下げた。もっとも、腰を引いて顎をひょいと突き出すのが、頭を下げたことになるのならな。
 センセは何度もうなづいて、
「これでよし、と。……しかしなァ、矢野。何もノートを持ち出されたくらいで、体格に差がある菊地相手に取っ組み合いのケンカを挑むこともないだろ」
「大切なノートだったんです」
「そうかもしれないけどなァ。なんせ、お前はそのガタイだし、やる前から勝負はついてるじゃないか」
 ちぇ、勝ちが目に見えてるケンカだって、やる時はやるんだよ、それがオトコってもんだろ、小森センセよー。
「菊地も、そう矢野をかまうなって。矢野はおっかないぞ。中1なのに、高3みたいなナリしてるからな。よし、じゃ、帰ってよし。ああ、菊地はちょっと残れ。いっとくことがある」
「……はい」
 菊地は神妙な面持ちで返事をした。
 いい気味だ。もう少し怒られてしかるべきヤツだ。
 俺は風間春彦の肩を押して、職員室を出た。
「矢野、俺、うまく嘘いえなくて、ゴメンな」
 風間がポツリといった。
「いいぜ、そんなの。それより、今回のケンカは風間に関係ないのに、一緒に呼ばれて悪かったな」
「それはいいけど……。矢野、あれ、ホントなのか?」
「あれって」
「あのう……、交換ノート、やってるって……。3年生の、柴垣先輩と……」
 風間は自分でいった言葉に真っ赤になって、下をうつむいた。
 俺も我知らず真っ赤になって、その場に立ち止まってしまった。
 やっぱり風間のヤツ、聞いてたのか……。
 菊地のヤツが『交換ノー……』までいいかけた時に飛びかかったから、うまくまぎれて誰にも聞かれてないと思ったんだけどな。
「みんなも、聞いたかな」
「聞こえてないと思う。俺はお前のそばにいたから、聞こえたけどさ」
「そうか、よかった」
 俺はホッとして、
「風間、誰にもいうなよ」
「ああ。けど……」
「なんだよ」
「ほんとにやってんのか?だって柴垣先輩、男なんだぜ?」
「え、いや、まあ……」
 ますます体じゅうが真っ赤になりそうで、困ってしまう。
 だから嫌だったんだ。交換ノートなんて女々しいことは。
 だけど気がついた時には、なぜかやることになってて、ズルズルと2ヶ月近くも続いている。
 お互いの靴箱に不定期に入れておくという約束なので、俺は1週間ほど前に、3年生の靴脱ぎ場に行って、柴垣先輩の靴箱に入れておいた。
 それっきり、俺の靴箱には入ってないし、いつも何を書こうか困ってばかりなので、その方がありがたかった。
 ところが今朝、教室に戻って机の中を見たら、例のノートが入ってるじゃないか。
 3年生がわざわざ1年の教室に来て机の中に入れたのかとも思ったが、とにかく、不意を突かれてビックリした。
 わけがわからずノートを持ってボンヤリ立っていると、菊地健吾と目が合った。
 その途端、ヤツはニヤッと笑って、
「矢野がそんなもんやってたなんてなァ。俺のこと、たくさん書いてあって、ありがとさん」
 とぬけぬけというじゃねえか。
 確かに俺は、他に書くことが見つからないから、『同じクラスの菊地健吾ってヤツが気に入らない。まったく、オトコの風上にも置けないヤツです。根性がねじれてるんだ。柴垣先輩の爪のアカでも煎じて、飲ませてやりたいです』とかなんとか、いろいろ書いてあったんだ。
 ノートを勝手に靴箱から取り出して机の中に入れたのみならず、その内容まで読むとは、どこまで卑劣なオトコなんだと、俺は頭の芯が熱くなりそうなほど怒り狂った。
「俺、柴垣先輩の爪のアカなんか欲しくもないね。お前なんかと、あんな交換ノー……」
 といいかける菊地めがけて飛びかかり、足蹴り、頭突き、平手にパンチ、レスリングの寝技に持ち込んで自由を奪い、ズボンを脱がし、もう思いつく限りのことをしてやった。
 けっ、人をモサモサ呼ばわりしてるくせに、自分はパイパンのガキそのまんまじゃねえか。
 女子もいる前でズボンを脱がしたことなんか、ちいーっとも後悔してないね。
 ざまーみろってんだ。
「風間。当分の間、菊地に近づくんじゃねえぞ。いまあいつも相当頭に来てるはずだから、何されるかわからねえぞ」
「ああ……」
 心配そうにうなづいた風間の手を引いて、俺は教室に戻った。
 男子も女子も、俺たちのケンカを話題にしていたらしくて、俺が戻ると数人の男子が拍手をして迎えた。
「やったな、武則。菊地のヤツ、前々から気に入らなかったんだ。何かっていや俺たちのこと、オヤジ呼ばわりしてよ。けど、あいつ線が細いわりに、めっぽう強いって評判だからな。いままでうかつに手が出せなかったんだよな」
「あースッキリした。菊地がパイパンだってことが、今回のことでハッキリと証明されたな。あいつきっと、それがコンプレックスになってて、俺たちのこと、モサモサなんてバカにしてたんだぜ」
「だけど、何が原因でケンカしたんだよ、矢野」
 男子のひとりが眉を寄せて、不思議そうにいった。
 俺と風間は目配せして、それぞれの席についた。
 女子がひそひそ話をしながら、俺を遠巻きに見てる気がする。
 ちぇ。
 どうせ、人前でズボン脱がして卑劣なヤツだとか、いってるんだろ。
 まったく気に食わねえ種族だよ、オンナってのは。
 一向にかまわねえもんな、そんなの。
 気を取り直して、授業の準備をしようと机の中に手を入れた俺は、ギョッとなった。
 交換ノートがないのだ。
 紺のチェックの大学ノートが、ない。
 菊地に飛びかかる寸前までは確かに手に持っていたのだが、その後の記憶がハッキリしない。
 やべえ、どうしよう。
 あれが他人の手に渡ったら、今度こそ間違いなくからかいの標的にされる。男同士の交換ノートなんて、弁解のしようがないじゃないか!
 俺はガラにもなく青くなって立ち上がり、きょろきょろと辺りを見まわした。
 斜め後ろの風間春彦と、目が合った。
 風間は黙って机の中からノートを取り出して、近寄って来た。
「これ、お前んだろ」
 そういって、机の上に置いた。
 俺はホッとした。
 風間は菊地の舎弟じゃないし、むしろ菊地に批判的な態度を取っている男なのだ。
 だが。
 ノートを風間が持っていたことで、俺はやっぱり気まずかった。
「これ、中、読んだか?」
 恐る恐る尋ねると、風間春彦はビックリしたように口を尖らせた。
「人のノート読んで、何が楽しいんだ」
「……だよな」
 よかった。助かったぜ。
 ま、風間はそういうことするヤツじゃないって、信じてたけどな。
 たとえ交換ノートだとわかっていても、中を見たりからかったりするヤツじゃないんだけど、やっぱり、いろいろとマズイこともある。ノートには、少しだけど風間のことも書いてあるしな。
「お前も変なヤツだな。ノート触られたくらいで、あそこまで逆上するか、ふつう」
「いろいろと事情があるんだよ」
「そのわりに、ノート放り投げてケンカするしよ」
「カッとなったもんで、あと先考えなかったんだ。あったま来たもんな、ほんと」
「相変わらず無骨者だな、お前」
 風間春彦は妙な口調で、ぼそっといった。
 俺はゆっくり顔を動かして、風間の童顔を見つめた。
 何か含みがあるというか、匂わせているというか、なんだか変ないい方だったのだ。
「なんで」
「菊地、手加減してたじゃないか。なのに本気で暴れて」
「手加減?まさか」
「ああ見えても菊地は合気道の達人なんだぞ。去年のジュニア大会で準優勝だったってウワサ、お前知らないのか」
 風間春彦はそれだけいって、自分の席に戻っていった。
 なんだか思わせぶりないい方で、俺は妙な気持ちになった。
 風間のいうように、菊地のヤツ、ほんとに手加減していたのだろうか。
 ノートを読んで、やっぱり悪いことをしたと後悔してて、それでワザにもいまひとつキレがなかったのかもな……。
 マジで悪いと思ってるのなら、許してやってもいいんだが……。
「おおー、菊地。戻ったか」
 また男子の拍手がした。
 振り返ると後ろのドアから、菊地健吾が入って来た。
「センセ、何かいってたか」
「意外とだらしねえなあ、合気道の有段者が、あんなマッチョに負けてよ」
「ケガした指、ちゃんと消毒しとけよ。さもないとオヤジ菌が繁殖して、そこから毛が生えるぞ」
 菊地の仲間の男どもが、いいたい放題いってる。
 当の菊地はブスッとして席につき、隣の男子とボソボソ話し始めた。
「―――――油断しただけだよ」
 といってるのが聞こえた。
 あれが手加減した男のセリフとは、とても思えない。
 俺が見ているのに気がついて、菊地健吾は薄ら笑いを浮かべて、自分のノートを取り上げて顔の前でひらひらさせた。
 交換ノートのこと、まだからかってやがる。
 やっぱり許すには値しないヤツだぜ、あいつは。
 これから先も、いつ、このノートのことを引き合いに出してからかうか知れたもんじゃねえ。
 それならそれでまた取っ組み合うまでだが、ともかく今回のことで、しみじみ交換ノートが嫌になった。
 もともと気乗りしないまま始めたことだし、嫌になったらいつでもやめようといってくれてるから、柴垣先輩に話してみようと思った。
 そうと決めると、なんとなくココロが軽くなった。
 まさに、緊張の糸が切れたという感じだ。
 あんまり身軽になったんで、ここんとこイライラしてたのはこれが原因だったんじゃないかと思ったほどだった。
 そういや、菊地健吾が以前にも増して俺に突っかかって来るようになったのは、この2ヶ月あまり、そう、2学期になってからのような気がする。
 もちろん、その前からいろいろ口論はあったが、俺が菊地をうるさく感じ始めたのは、ここ最近のことだ。
 やっぱり柴垣先輩のことが負担になってて、それでヒステリーっぽくなってたのかな。
 それにしても……。
 俺はそっと、斜め後ろを見た。
 風間春彦にノートを拾ってもらったのが、なんだか、無性に後ろめたかったんだ……。
2ヶ月ほど前、夏休みが終わってすぐ、俺は3年生の柴垣先輩から、手紙をもらった。靴箱の中に、挟み込んであったんだ。
 柴垣先輩は我が向陽中学の生徒会長で、俺も顔と名前くらいは知っていたけど、面識もなければ言葉を交わしたこともなくて、要するに、なんの接点もなかったわけだ。
 だから手紙に、『今日の放課後、武道場で待ってる』と書かれてあるのを読んでも、何がなんだか、わけがわからなかった。
 叱られるのかな。3年生に呼び出されるようなこと、何もしてないんだけど。
 ひょっとすると、校内ですれ違った時にあいさつしないもんだから、そのことを怒っているのかもしれない。いくら生徒会長だからって、そこまで厳しくしなくても……。
 そんな気持ちで武道場に行ったもんだから、
「つきあってくれないか」
 といわれた時はあっけに取られて、すぐには言葉も出なかった。
「見たんだよ。弘文堂で」
「見たって、俺をですか?」
「うん。それも1度じゃなく、2度もね」
「2度も……。まさか」
 俺は唖然としながらも、ちょっと疑うような目で、柴垣先輩を見た。
 弘文堂というのは、名前だけは豪華な駅裏銀座商店街の、そのまた1本裏通りにあるこじんまりした本屋である。
 俺が幼稚園に通っていた頃は、まだそれなりに繁盛していたのだが、いまはぜんぜん流行っていない。いつ行っても、静かなものだった。
 客がいないのをいいことに、俺は弘文堂で、月に1度は立ち読みをしている。
 柴垣先輩が俺を見かけたとしたら、たぶん、その時だ。
 でも、立ち読みをする時はいつも、レジから離れた死角に移動してるし、読んでいる最中も常に周囲に気を配っているから、客が来たら、絶対に気づくはずなのである。
 それを2度も見かけたとは、いったいどういうことなんだろう。
 もしかしたら柴垣先輩は、あてずっぽうでいって、俺にカマをかけてるのかもしれない。でも、いったいなんの為に?
「嘘じゃないよ。ウインドウの鏡に反射して、偶然君の姿が見えたんだ。熱心に本を読んでたみたいだけど、何を読んでたの?」
「…………」
 俺は黙っていた。
 とても答えられる質問じゃなかった。
「君が読んでたの、あれ、メンズ・バディだよね。あの、男同士のいかがわしいヤツ。グラビアとか、文通欄とか、小説なんかがいろいろ載ってる18禁の。違う?」
 俺は思わず、なま唾を飲み込んだ。
 震えまいと思っても、わなわなと唇が震えた。
「君、男に興味、あるの?」
「ち、違います。俺じゃありません。きっと、人違いじゃ……」
「ははは、安心しなよ。君を脅そうってわけじゃないんだ。ただ、つきあって欲しくてさ。俺、君みたいなガッチリした子、タイプなんだ」
 はにかんでいった柴垣先輩の口調は、いたって穏やかだった。彼のいう通り、脅すつもりはないらしい。
 でも、柴垣先輩がそうだったという驚きよりも、見られてしまったショックの方が大きくて、俺はそれどころじゃなかった。
「どうかな、つきあってくれないかな。俺もそろそろ、相手が欲しくってさ。それとももう、そういう相手、いるの?」
「そ、そういう相手っていわれても。俺、そんなの……。あは、あはは……」
「他に好きなヤツ、いるのかな」
「好きって、そりゃ好きなヤツはたくさんいますけど。いえ、あの、そういう好きじゃなくて、その、友だちとか……」
 万事にこんな調子で、何をいわれてもしどろもどろで、あの、その、と口ごもっているので、しまいには柴垣先輩も笑い出してしまって、俺もつられてヘラヘラ笑って、妙な雰囲気になった。
 だって、本当にビックリだったんだ。
 いつからか、俺はオンナよか、男に興味を持つようになっていた。
 でも、それはオンナにモテないからという理由ではなくて、うまくいえないけど、なんとなく、ただ漠然と、気がついたら男に興味がわいていたというだけのことだった。
 そりゃ、街角で、体育会系のいかつい男子が、いかにもジャニ系ヅラしたかわいい子を連れてるのを見るたんびに、くっそー、俺もいつかはボーイ・フレンド見っけて、ああやってふたりで歩くぞーっ!なんてひそかに燃えていたのは事実だが、まさかこの年で、しかも俺よか2つも上の先輩から交際を申し込まれるなんて、思ってもみなかった。
 ぜんぜんココロの準備ができていないというか、まだ何年も先の話だというふうに決め込んでて、とても現実のこととして考えられなかった。
『好きなヤツいるの?』と訊かれても、そりゃ、弟のワタルが好きで、風間春彦も好きで、真壁健一も好きで、嫌いなヤツを数えた方が早いくらいだった。
 なんとか気を落ちつかせてそういったら、柴垣先輩はなんともいえない顔で笑った。
「難しく考えることないさ。初めは、時々会って話すだけでもいいよ」
「話す、んですか」
 話すといっても、相手は中学3年生だ。
 俺ら1年から見れば、3年生はおっかなくて、共通の話題なんかありそうにもない。
 困ったな、と思っていると、柴垣先輩はますます笑って、
「話すのも、嫌?」
「いえ、そんなことないです。だけど、あらたまって話そうっていわれると……」
 いまとなっては、例の交換ノートの一件は柴垣先輩がいい出したのか、話すという行為にビビッた俺がいい出したのか、よく覚えていない。
 結局、俺と柴垣先輩はノートに思いついたことを書く約束をして、別れた。
 最初のうちは俺も気張って、部活のことや、弟のこと、最近読んだ本の感想や、夏休みに観た映画の感想なんかを書いて、そのうちに、感想を書くために映画を観るようになった。
 しかし、それもせいぜい1ヶ月で、最近じゃ、『今日は特に何もない1日でした。受験勉強、ガンバって下さい』だもんな。
 柴垣先輩にしたって受験生で忙しいのに、俺のつまらない落書き読んでも楽しくもないだろうにという雑念が出てきて、なんとなく気が重かった。
 そこに来て、菊地健吾のスッパ抜きだ。
 あいつのしたことは許し難いが、いい潮どきのような気がする。


 俺は昼休みに、3年1組に行った。
 柴垣先輩を呼んでもらう時、ドア近くにいた女子生徒が、妙な顔をした。
 柴垣先輩はビックリした顔でやって来て、うれしそうに笑った。
「どうしたの?君が教室に来るなんて、珍しいじゃないか」
「あの」
 俺は背中に隠していたノートを取り出して、柴垣先輩に押しつけた。
「もう、これ、やめましょう。俺、字が汚いし、国語も苦手だし、菊地にバレちゃったし、風間もノート見たし、だもんで……」
 いってる自分でもわけがわからなくて、これでちゃんと通じるだろうかと柴垣先輩を見ると、ちゃんと通じたみたいだった。
 柴垣先輩はノートを受け取り、難しい顔つきをしていた。
「なんかあったの?」
「……はい。いろいろ」
「じゃ、部活の前に聞くよ。ここじゃ、ナンだから」
 そういわれて気がつくと、廊下を通る3年生がチラチラと見て行くし、1組の教室から男子や女子が何人か、ドア越しにこっちを見ていた。
「武道場は、早い時間は柔道部の後輩たちが使うだろうし、どこがいいかな。池のところの、ベンチでもいい?」
 向陽中学のグラウンドの横手に、昔は貯水池だったというけっこう大きな池があって、周りに木も植えてあったりする。
 隣り合わせの小学校に通っていた頃、池の周りのベンチに腰かけて楽しそうにしゃべっている中学生のカップルを見て、うーん、大人だ、カッコいいなァ、ムードもあるし、などと夢見たものだ。
 そうか。あそこで柴垣先輩と話すのかァ。
「都合、悪い?」
「いいえ。行きます。あ、だけど、今日、学習委員会があるんです。俺、いまクラスの学習委員だから」
「俺も生徒会があるから、じゃ、早く終わった方が先に行って待ってることにしようか」
「……わかりました」
 俺はよろめきながら、自分の教室に戻った。
 待ってまで、柴垣先輩に話さなければならないことって、いったいなんだろう。
 そう思うと、またまた気が重くなってしまった。
 放課後の学習委員会で、3組の真壁健一と隣同士に座った。
 真壁健一とは、小学3年の時に同じクラスになって以来の友人だ。
 中学になってクラスが別々になったので、せめて委員会くらいはいっしょにしようと、口裏を合わせて学習委員に立候補した。
 学習委員会ったって、まともな意見をいったり決議したりする中心は、いつも2、3年生で、1年生なんか添えものに過ぎない。
 それをいいことに、俺は真壁と、こっそりメモを飛ばし合っていた。
“朝の取っ組み合いの件、聞いたぜ。菊地が交換ノートのこと、からかったんだってな”
“うっそだろ。なんでお前が知ってんだよ。ノートのことは、誰にも聞かれなかったはずだぜ”
“バカだな。だから無骨モンっていわれるんだよ。一部の人間は聞いてたんだ。4組のミキオたち、ビックリしてたぜ。柴垣先輩と交換ノートなんて、どうかしちゃったんじゃねえのかァー、ってな”
“何が、どうかしてんのさ”
“よく、わからないけどさ、俺には……”
 真壁は正面を向いたままシャープ・ペンをかじって、あれこれ考えた末に、続けて書いた。
“ほら、矢野ってさ、そーゆータイプに見えないからさ。いつもひとりだし、誰かとつるんだりしないし、なんか堂々としてるじゃん。見た目も男っぽくて、硬派なイメージだしさ。それが柴垣先輩と、だもんなァ。お前、知ってるか?柴垣先輩って、けっこうモテんだぞ。うちのクラスの女子の中にも、ひそかに目をつけて、いい男だなァって思ってる子、いるらしいから”
“カンケーねえよ、そんなの。ノート交換してるだけで、つきあってるわけじゃねえんだし”
“矢野はカンケーなくても、みんなはそう見るんだ。お前、ホントにA型なのかよ。もう少し、世間の目を気にしてもよさそうなもんだけどな”
 世間の目、かあ。
 俺はそれ以上書く気も失せて、シャープ・ペンを転がした。
 真壁健一は銀座商店街の近くにある仕出し屋の長男で、母親と姉と妹の4人で暮らしている。幼い時にガンで父親と死に別れて、人にはいえない苦労もいろいろあったらしくて、いうことがいちいち大人びているのだ。
 俺はただ、手紙をもらって武道場に行って、なんかいろいろいわれて、結局、交換ノートを始めただけなんだ。好きだとか嫌いだとか、そんなことは考えずに、ただ成り行きで始めたに過ぎない。
 それを他人がどう思うかなんて考えなかったし、ヘンに誤解されるなんて、思いもしなかった。
 けど、これでもハタから見るとつきあってることになるんだろうか、俺たち……。
 世間の目なんかどうでもいいようなもんだけど、そんな俺にもただひとり、ヘンに思われたくないヤツがいる。
 そいつの目にも、つきあってるように映るのだろうか。
 それは嫌だ。
 そう思った時、池のベンチで会う約束をしたことが、取り返しのつかない失敗のような気がしてきて、暗い気持ちになった。
 グラウンドからは、池のベンチは丸見えなんだ……。


 委員会が終わってから、俺はカバンを抱えて池に急いだ。
 通りがけの教室では、保体委員会がまだ続いていて、活発に意見の交換をやっているみたいだった。
 1ヶ月ほど前の運動会の反省会をやっているらしくて、当分、終わりそうにないみたいだった。
 その間に、柴垣先輩とどっかにフケちまおうか。
 けど、生徒会も長引いてるらしくて、柴垣先輩はなかなか来なかった。
 30分ほどして、ようやく柴垣先輩が現れた。
「先輩。歩きながら話しませんか?」
 俺はベンチから立ち上がって、少し口ごもり気味にいった。
 2ヶ月も交換ノートをやっていながら、いまだに柴垣先輩とはうまく話せなくて、口ごもったりつっかえたりする。俺って無骨者なんだと、自分でもそう思う。
「校門出たら、方向別々だろ?座って話そうよ」
 柴垣先輩は3年生の貫禄であっさりいって、ベンチに腰かけてしまった。
 俺は仕方なく、腰を下ろした。
「今日さ、君が帰ったあと、クラスの女子にさ、何よ、私からの手紙は平気で突っ返すくせに、1年の男子とだったら、交換ノートもヘっちゃらなわけっ!?なーんてすごまれてさ。まいっちゃったな」
 柴垣先輩はおもしろそうにいった。
 俺は首をすくめた。
 真壁健一に書かれたばっかりの、“もう少し、世間の目を気にしてもよさそうなもんだけどな”ってのを思い出したんだ。
 そうかもしんないな。
 きっとそれが世間の目、というものなんだ。
「すみません。俺、世間の目ってまったく考えたことなくて、先輩に迷惑かけてしまったみたいで……」
「世間の目?」
 柴垣先輩はクスクス笑った。
「なんなのさ、それ。ヘンなこといい出すんだな、武則って」
「ついさっき、友だちに指摘されたばっかだから」
「友だちって、菊地健吾?」
「まぁっさか!」
 俺は怒り狂って叫んだ。
「あんなの友だちじゃない!あんな卑劣なヤツ!」
「ふぅん」
 柴垣先輩はそういったっきり、ボンヤリとグラウンドの方を眺めて、黙り込んだ。
 グラウンドでは、野球部とサッカー部と陸上部がうまくグラウンドを分け合って、それぞれに練習していた。
 陸上部はフィールド競技の選手ばっかりで、トラックはいまのとこ、2、3人しか走っていない。
 黙りこんでふたり、グラウンドを眺めてるのも気まずくて、俺は訊かれもしないのにしゃべりだした。
「今日、菊地健吾と取っ組み合いのケンカしたんです」
「ふぅん」
 柴垣先輩は興味なさそうに、ボンヤリと相槌を打った。
 俺はかまわず、しゃべり続けた。
 菊地健吾が交換ノートを盗み読んで、からかったこと。
 そんなふうにからかわれるのは、好きじゃないこと。
 あいつが、またこのことでケンカを仕掛けてくるかもしれないし、字も汚いし、文章も下手だし、うまくいえないけど……、つまり、もう交換ノートはやめにしたいと、そう告げたのだった。
 柴垣先輩は適当なところで相槌を打って、俺がしゃべり終わるまでちゃんと聞いてくれた。
「まあ、そんなことだろうと思ったよ」
 聞き終わってから、柴垣先輩はゆっくりといった。
 怒ってはいないようなので、少しホッとした。
「武則は成り行きで仕方ナシに始めたようなもんだしね。俺も正直なとこ、ノートなんてダサいと思ってたんだ。だけどヘンなもので、つきあうのも話すのも嫌だとなると、これしかないって感じで、妙にすんなり交換ノートってのが頭に浮かんでさ。冷静に考えたら、ちゃっちいだろ、やっぱり」
「はあ……」
 別に、ちゃっちいとかは、思わなかったけど。
「武則さ、あの時はハッキリいわなかったけど、好きなヤツ、やっぱりいるんじゃないのか?」
 柴垣先輩は静かにいった。
 あんまり静かに訊くもんだから、2ヶ月前の武道場の時みたいな驚き方は、しなくてすんだ。
「好きなヤツはたくさんいますけど、柴垣先輩が訊いているのは、そういうんじゃないんですよね?」
 俺は思い切っていった。
「うん」
 柴垣先輩は苦笑いしながら、答えた。
「そういうんじゃ、ない」
「俺、自分でもまだわからないですよ。好きっていっても……」
「そうだな。まだ中1だし、相手は男だから、なおさらわかんないよな」
 柴垣先輩は難しい顔をして黙り込んだ。
 ずいぶん長いこと黙っているので、居心地が悪くて、俺はもぞもぞと腰を動かした。
「例えばさ、そいつのことが特別になるっていうかさ」
 しばらくして、柴垣先輩はボソッといった。うむむ、さすが3年生って感じだ。
「同じことをいわれても、特別の人からいわれるとすっごくうれしかったり、反対にガックシ来たり、とかさ。よくわかんないんだけどね、俺も」
「特別な人、かァ」
 俺はオウム返しにいってみた。
 特別な人。
 例えば、誰にどんなふうに見られてもいいけど、世間の目なんかどうだっていいけど、その人にだけはヘンに思われたくないっていう感じ。
 その人の目には、とびっきりの自分が映っていて欲しいと思う感じ。
 そんな感じだろうか。
 そんなヤツなら、いる。いるけど……。
「俺、友だちはいるけど、そういうのって、あまり意識したことがなくて」
「だけど、友だちの中には、それじゃすまない子もいるんじゃないの?菊地健吾とか」
「はぁ?」
 どうしてここに、菊地健吾の名前が出てくるんだ。
 やっぱり、ノートに書くことがないもんで、菊地の悪口ばっかし書いたのがまずかったのかな。
 まあな。
 あいつは確かに、モサモサだのオヤジだのと、さんざん俺をコケにした悪ガキには違いないけど。
「武則、この前の運動会で、春彦って子をすごく応援してたね」
 柴垣先輩は、またまたこの場に関係のないことをいった。
 俺は不意を突かれて、黙り込んだ。
 1ヶ月ほど前の運動会に、風間春彦はリレーのアンカーで出た。
 これだって、菊地健吾の差しガネなんだ。
 あいつは毛深いヤツをからかうのに快感を覚えてて、それをかばう春彦のことを憎んでるんだ。
 それで、春彦をわざとリレーのアンカーに推薦した。春彦が陸上部で短距離選手なのを知ってて、嫌がらせしたんだ。春彦以外のメンバー3人に、足の遅い連中を推薦するなんて、姑息な手段を行使してまで。
 春彦はアンカーに選ばれてからというもの、学校の周りをひとりで走り込んでた。
 砲丸投げの練習場所になっているグラウンドの隅からは、ちょうど学校の外周がぐるりと見渡せる。
 練習中、緩急をつけながら外周を走ってる小柄な生徒がいるから、誰だろうって目を凝らしたところが、春彦だったわけだ。
 春彦はサッカー部のインターバル練習みたいに、ダッシュとスローを交互に繰り返し流していた。時にはバトンを受け取る素振りを見せて、何度も何度も、同じ練習を繰り返していた。
 その時、俺は春彦の秘密がわかった気がしたんだ。
 春彦の秘密。
 彼は背が低めだし、顔はオンナの子みたいにヤワで童顔だし、だから勉強はともかく、スポーツは見るからにダメそうだった。
 なのに春彦はマラソン大会でも体育の授業でも、実に悠々とトップ・クラスにいて、俺に、
「だからお前は砲丸なんだよ」
 なんて、エラそうに説教ばかりしている。
 春彦とは小学校時代も同じクラスになったことはなかったが、春彦の幼なじみの真壁と俺が仲がよかったりして、いつの間にか親しくなっていた。
 だけど外見はともかく、なんでもこなす優等生っぽいところが、いまひとつピンと来ない原因だったんだ。
 春彦は陸上部で短距離をやってて、下手すっと上級生よりいいタイムでゴールするもんで、グラウンドの隅でポカンと口あけて見とれるほどだったもんな。
 そういう男が、ひとり隠れて、すっ転びかけながらリレーの練習をやってる。
 もしかしたら彼は、マラソン大会の時だって、家の周りを何度も何度も走り込んだんじゃないだろうか。
 背が低いってことは絶対的にスタミナ不足で歩幅が狭いってわけで、春彦が学年2番、全校生徒の中でも9番で入って来た時、体育のセンセは、
「すごいスタミナだな。ご両親は元オリンピックの選手じゃないのか」
 といったくらいなんだ。
 冗談っぽいセリフだったが、口調はマジで、ほんとに驚いてるようだった。
 そんなに息を切らせもせず、タオルで汗を拭いながら笑っている春彦を、この世にはああいう人種もいるんだよな、なんにでも恵まれてさ、という遠い気持ちで眺めていた。
 クラスのみんなも、春彦はなんでも出来ると信じて疑ってないみたいだ。
 だけど、ホントはあいつ、とてつもない努力をしているんじゃないのかな。
 たまに俺が、飛距離が伸びなくて悩んでいると、
「なんでもっと、ちゃんと遠くに投げれないんだよ」
 って怒鳴って、
「俺だって、一生懸命やってるんだよ」
 っていうと、ますます怒って、
「そんなこと自慢すんな。一生懸命やったって、ちゃんと出来なきゃ意味ないんだよ」
 といっていたのは、なんでもかんでもスマートにこなせる人間のおごりじゃなくて、心底、そう思っていたからじゃないのかな。
 一生懸命やっただけじゃダメだ、ちゃんとやりとげなきゃって、彼はいつも自分にいい聞かせて、誰よりも一生懸命やってたんじゃないだろうか……。
 運動会のリレーの本番で、あいつはなんとなく固くなってるみたいだった。
 前を走るメンバーがのろいので、気持ちばかりが焦ってるみたいだった。
 春彦がバトンを受け取った時、やっぱり俺たちのクラスはドンケツだった。
 だけど俺は春彦に頑張って欲しくて、
「春彦っ!春っ!がんばれ!3人抜きだっ!春っ!ダッシュダッシュ!いけるって!お前なら絶対いけるって!」
 と叫んでいた。
 結局、春彦は400メートルを走る間に2人も抜き去って、2位でゴール・インした。
 菊地健吾は春彦が活躍したのが悔しいのか、珍しくそのことは話題にしなかったけど、他のヤツらがひとしきり、
「春っ!だもんな。矢野は風間と、アヤしいんじゃないのか」
 などと冷やかして、ひどい目にあった。
 春彦もムキになって怒るし、お前が春なんて大声で叫ぶからいけないんだぞ、苗字で呼べよ、苗字で、といわれて、それがほんとに胸にこたえて、あれにはこりごりした。
 俺は、そんなふうにいって欲しくなかったんだ。
 俺は本当に春彦に頑張ってもらいたくて、春彦が1人抜き去るたんびにうれしくて、それだけだったんだ。
「すごい応援だったからな。興奮して身を乗り出して、グラウンドに倒れ込みそうになるし」
 柴垣先輩はあの時を思い出したのか、クスクス笑った。俺は顔を赤らめた。
「興奮症の矢野、とみんなにいわれました」
「当たってるな」
「あのあと、風間にも叱られたんですよ。実は」
「武則はあいつのこと、普段は春彦って、名前で呼ばないんだな」
 柴垣先輩は急に声を落として、いった。
 俺はちょっと顔をしかめた。
 あの運動会のあと、柴垣先輩がノートに『春っ!にはまいりました。いつもそう呼んでるの?』と書いてきた時、『もう呼びません。本人、とても嫌がってるみたいなんで、柴垣先輩も苗字で呼んでやってください』と書いたんだ。
「もともと風間は、俺が春彦って名前で呼ぶのが気に入らないみたいなんですよ。露骨に嫌な顔するし……。そのくせ、親友の真壁がそう呼ぶのは苦にならないみたいなんですけどね。だから俺、あいつが嫌がることは、できるだけしないでおこうと……」
「じゃあ、俺がノートをやめるの嫌がってるっていったら、君、どうする?」
 柴垣先輩が早口に、とても早口にいった。
 俺は絶句してしまって、驚いて柴垣先輩の顔を見た。
「あの……」
「いや、いいんだ。ヘンなこといった」
 柴垣先輩はさっきよりもっと早口でいって、笑った。
「武則は、こういうの苦手なんだよな。こういう話するの……。だからノートにしたんだっけ」
 そういって勢いよく立ち上がった。
「帰ろうか。話も終わったし」
「あ、はい」
 俺も釣られて立ち上がった。
 柴垣先輩は真面目な顔で、俺を見た。
「武則のいう通り、もう、ノートはやめにしよう。だけど、この2ヶ月、わりと楽しかったよ、ほんとに」
 嫌味とか皮肉とかじゃなく、心からそう思ってるみたいだった。
 この時になって初めて、俺は柴垣先輩にひどく不公平な、悪いことをしていたのではないか、という気がした。
 つきあってくれといわれて、それが嫌で、いつの間にかノートが始まり、気のすすまないまま何かを書く。
 それは柴垣先輩にとって、とても失礼なことだったんじゃないだろうか。
 柴垣先輩は楽しかったといってるけど、俺は負担にしか感じていなかった。
「ほら、風間が練習に出てる」
 柴垣先輩が顎でしゃくるように、グラウンドの方を指した。
 見ると、確かに春彦がいた。保体委員会が終わって、練習に出てきたのだ。
 うつむいて地面を蹴りながら、先輩部員のアドバイスにいちいちうなずいている。
 いつからいたのだろう。
 俺たちのこと、気づいてるのかな。
 妙な誤解をしていないだろうか。
「風間、さっきからいたよ」
 俺の思っていることを見透かしたみたいに、柴垣先輩がいった。
 俺はギョッとなって、目を見開いた。
 柴垣先輩は笑って肩をすくめた。
「最後に、少し意地悪をしちゃったな。ごめんな」
 そういって、手をあげて、『じゃあ!』と合図して帰って行った。
 俺はなんだか急に力が抜けて、どかっとベンチに腰を下ろした。
 よっぽど緊張していたのだろう。
 それまで何も聞こえなかった耳に、野球部の怒鳴り声や、カーンという小気味よいバットの音なんかがわっと飛び込んできて、耳鳴りがしそうだった。
 野球部員はボールを追って転がってるし、サッカー部員は走ったり跳んだりしている。
 いつもの風景だ。
 春彦のいる風景だ。
 俺は、これが好きだな。
 春彦が準備運動してスタート・ラインに立ち、前傾姿勢を保ちながら勢いよくトラックに飛び出す。次第に上体を起こし、加速しながら無心でゴールする瞬間を見るのがいちばん好きなんだ。
 とうてい自分には真似のできないことだから、ただもう、ドキドキしながらそれを見ている。
 すごい、すごいと、いつも思う。
 そして春彦が無心でゴールする時、よぉーし、俺もがんばるぞーって思うんだ。
 交換ノートを前にして何を書こうかとウンウンうなっている気まずさも、菊地にからかわれてカッカする自分の大人げなさも、ぜんぶ乗り越えてゴールして、俺だって、絶対カッコいい男になってやるぞーって思うんだ。
 俺はため息をついて立ち上がり、着替えの為、とろとろと陸上部の部室に向かった。
 柴垣先輩は俺に好きなヤツがいると思い込んでて、それは春彦だと勝手に決めてるみたいだった。
 申し訳ない、柴垣先輩。
 俺、いまはまだ、なんだか嫌なんだ。
 …………好きだとか、デキてるとか、世間の目とかつきあうとか、どうしてもそんなふうにいわなきゃならないものなんだろうか。
 春彦の練習風景を横目に見ながら、こめかみの辺りが痛くなるほどドキドキする、そんな気持ちを大事にしたい。
 それだけじゃ、ダメなんだろうか。
「兄ちゃん。顔、青いぞ。病気じゃねえのか」
 その晩、家に帰ってソファーでボンヤリしていると、周りをうろうろしていたワタルが心配そうにいった。
 こいつだけかァ、下品にからかったり、いろいろ問いつめたりしないで心配してくれんのは。
「ワタル。お前、好きな子いるか?」
「いるよ」
 ワタルはあっさりといった。
「1組の佐々木由美子だろ、3組の桂木綾香だろ、あと、うちの組の堀江淳子。佐々木由美子とは、今度いっしょに映画観に行くんだ」
「だよなぁ」
 そう、本当は、とても簡単なことなのだ。
 俺だって、ついこの間までは春彦が好きで、真壁が好きで、菊地健吾も弟のワタルも、みんなひとまとめにしてぜーんぶ好きな連中だった。とても簡単なことだった。
 だのに、いまは、少しも簡単じゃないんだ。
 あの日、武道場になんか行かなければよかった。
 あの時から、何かがズレてしまって、いまもずっと、ズレっぱなしみたいな気がしてならない……。
「なあ、真壁よ。やっぱりイタズラだったんだよ。もう戻ろうぜ」
 俺は真壁健一を振り返って、媚びるようにいった。
 ハードルに座ってる真壁健一は腕時計を見て、
「まだ5分と経ってないじゃないか。少し落ち着いて、お前も座ったらどうなんだ」
 と、のんびりしたものだった。
 俺は仕方なくハードルに腰かけ、ため息をついた。オジンくさいからやめようと思っても、ついつい、深いため息が出てくる。
 ああ、気が重い。なんて1日なんだ。
 ゆうべは柴垣先輩のことや何かでなかなか寝つけなくて、寝不足もいいところなんだ。
 それに、どうも風邪をひいたらしくて頭が痛いし、鼻水やら鼻づまりやらで意識がモウロウとしている。
 そんなふうに体調もいまひとつのまま登校したら、靴箱に白い封筒が入っていた。
 俺は世の校長先生に声を大にしていいたい。
 清く正しい中学生活を送らせるためには、靴箱なんか、全廃すべきだと……。
 靴が入っているだけならいざ知らず、ノートや手紙、メモの類いが入れ放題じゃないか。
 まあ、俺の場合は手紙をもらうなんてめったにないことだからいいにしても、風間や真壁みたいにモテるヤツらは日常茶飯事のことらしい。
 封筒を見て、柴垣先輩からじゃないかとピンときて、胸にずぅんときた。
 いったんはノートをやめることを承諾したものの、やっぱり納得できなくて、それで手紙をよこしたんじゃないかと思ったのだ。
 手紙を学ランのポケットに押し込んで、俺は近くの男子トイレに直行した。
 封を切って中身を取り出してみて、ホッとした。柴垣先輩のゴツゴツした文字じゃなかったんだ。
 だけど、差出人が柴垣先輩じゃないとわかっても、俺は安心するどころじゃなかった。
『話したいことがあります。昼休みに、体育器具庫に来てください。来てくれるまで、昼休みが終わってもずっと待ってます』
 大人のオンナの人が書くような滑らかな書体で、そう書いてあったのだ。
 慌てたり、驚いたりはしなかった。
 けれど、中身を封筒に戻しながら、自分が顔をしかめているのがよくわかった。
 1度目は深く考え込まずにのこのこと武道場に出かけて行ったが、今度はそうあっさりと体育器具庫に行くわけにはいかないじゃないか。
 いろいろ迷った末に、3組の真壁健一に手紙を見せて相談した。
 真壁はひとこと、
「来るまで待つっていうんだし、行くだけいってみれば?」
 なんともあっさりしたものだった。
「柴垣先輩みたいなことになったら困るんだよ。いろいろあって、交換ノートはなかったことにするってことで話がついたんだけど、きのうの今日じゃ、なんか気が重くてな」
「そのデカいナリして、気が重いもヘッタクレもないだろにさ。この、小心者め。よし、じゃ、俺がつき添ってやるよ。状況を見て、途中で消えるからさ」
 真壁健一は顔がとりえといわれるほどの美男子で、この年でさまざまな恋愛問題をかいくぐってきた男である。その真壁と一緒ならば、どんな修羅場もうまく切り抜けられそうな気がした。
 それでもまだ踏ん切りがつかないでいた俺を、真壁は強引に説き伏せてしまった。
 なんでそんなに熱心なのかと訊くと、
「いやぁ、男にしろオンナにしろ、矢野がモテるって事実がいまひとつ信じられないから、この目でハッキリと確認しようと思ってさ」
 などととんでもないことをいう。
 そんなわけでふたりして、昼休みに体育器具庫くんだりまでのこのこと出てきたのだった。
 しかし、呼び出した相手というのが、なかなか現れない。
 俺は腕時計をちらちら見ては、早く昼休みが終わることばかりを願っていた。
「なあ、真壁。やっぱりイタズラじゃないのか、これ。だいたい名前が書いてないしさ。柴垣先輩の時は、ちゃんと書いてあったぜ」
「そうだなぁ」
 真壁は手紙を陽に透かすようにして、読み返した。
「きれいな字だしな。もしかしたら、柴垣先輩を好きな3年生の女子からの呼び出し状ってことも、充分考えられるよな」
「やめてくれよ、おっかねえな。俺たちはつきあってたわけじゃないんだぜ。ただ、フツーに交換ノートやってただけじゃねえか。あいつらの怨み買うようなことなんか、何もしてないんだ」
「まあまあ、そうムキになるなって。でもさ、矢野はそっち方面にあまりにも鈍感すぎるってのは、事実だと思うぜ。ホントに柴垣先輩ってのは、オンナにモテるんだからな。顔見て、ハンサムだと思わなかったのか?」
「顔なんか、ろくに見てねえよ」
 もともと俺は若いのが好きなんで、年上はハナから眼中にないのだ。
「ダメだ、こりゃ」
 真壁は笑いながら、手紙をひらひらさせて、フッとマジな顔つきになった。
「しっかしなァ、なんで中学生になった途端、こーゆーのが飛びかうんだろーなァ」
「真壁んとこにも、やっぱり来るか?」
「手紙ってパターンは、なぜかないけど、電話がガンガンかかってくるよ。ウチは仕出し屋だから営業妨害になるって、母さんがうるさいんだ。鬱陶しくてしょーがないよ」
「真壁は見てくれがいいから、当然っていや、当然の宿命だよな。だけど、なんで俺なんかが……」
「カンケーないみたいだぜ、そーゆーのって。きのう、春彦がいってたな。女子が男を意識し始めた時に目につくのは、勉強かスポーツで飛び抜けてるヤツか、活発で目立つヤツ、さもなくば隣の席の子なんだとさ。ハンサムだの好みのタイプだのって高等な選択眼は、高校生にならなきゃ出来てこないって。だから俺たちの年頃は、お前みたいなのがダークホース的にモテるんだって、いってた。ちなみに俺みたいなのは、15歳以上向けなんだとさ」
「ちぇ、知ったかぶりして。ああいうのをむっつりスケベっていうんだ」
「当たってるな。この前、ふらりと春彦んちに遊びに行ったら、ゴミ箱が濡れ濡れのティッシュでいっぱいでさ、部屋がアレのニオイでプンプンしてるわけ。それを指摘したら、矢野の方が俺の上を行ってるって、笑ってた」
「くっそぉ、あいつめぇー!」
 俺はカーッと赤くなって、地面を蹴飛ばした。
 な、何もな、俺だってやりたくてやってるわけじゃねえんだぞ。
 いまんとこ相手がいねえから、仕方ナシに自分で処理してるだけじゃねえか。
 文句あっか、ての。
「でもまあ、春彦の目は確かだよな」
「う、うん……」
 それはそうかもしれない。
 確かに、春彦のいうことには一理ある。
 なんでこう、俺みたいなのに手紙だのなんだのがくるのか、見当もつかないが、活発で目立つ、という点でいけば、納得もできる。
 なんせ菊地健吾みたいなのと取っ組み合うくらいで、過激に目立ってるとは、自分でも思うんだ。
 あー、なんか虚しいな。
 誰にも目立たなくていいから、なんていうか、春彦の目に、一瞬でもいいから、こう、パアッと光って映らないもんかな。ほんとに、一瞬でいいんだからさ。
 春彦がひとりでリレーの練習してるのを見て、カラダが熱くなるほど感動した、あんなふうな感動を、いつか俺が彼に与えられたら……なんて思ったりする。
 けど、ダメだな。
 春彦の目にだって、俺はノートごときでクラス・メートと取っ組み合いのケンカをする過激な単細胞にしか見えてないんだ、きっと。
 それって、寂しいなあ。
「矢野、何をブツブツいってんだよ」
 真壁がおかしそうにいい、俺は笑ってごまかした。
 と、引き戸を開ける音がした。
 ギクッとばかりに緊張して振り返ると、なんと柴垣先輩が入って来た。
 そんなバカな。
 柴垣先輩の字じゃなかったのに。
「あれ?」
 柴垣先輩も俺に気づいて、ちょっと複雑な表情になった。
「どうしたんだ、こんなところで。友だちと密談?」
 俺と真壁は顔を見合わせた。
 この様子からいって、柴垣先輩、手紙とは無関係みたいだ。
「ええ、まあ、そうです。柴垣先輩は?」
「5時限目でサッカー・ボール使うからね。取りに来たんだ」
 そういいながらも、ボールを取りに行くでもなく、俺と真壁の顔を見比べている。
 真壁が素早く立ち上がった。
「俺、用事があるから戻るな。矢野、お先」
 そういって、ビックリしている俺に、
「柴垣先輩、何かいいたそうだから。この場は遠慮するよ」
 とささやいて、体育器具庫を出て行った。
 仕出し屋という大人ばかりの環境で生活している所為か、気配を察したり気をまわしたりするのが、大人顔負けのヤツなんだよな、真壁ってのは。
 俺は海に放り込まれたカナヅチの人間みたいな心境で、立ち上がった。
「友だちに悪かったな。大切な話、してたんじゃないの?」
「いえ、フツーのおしゃべりだから。柴垣先輩、ほんとにボール取りに来たんですか?」
「そうだけど」
「あのう、手紙は……」
「手紙?手紙がどうかしたの?」
「いえ、なんでもないっす」
 柴垣先輩の口調も表情も、おかしなところはない。
 やっぱり、手紙は柴垣先輩とは無関係なのか。
 なんかもう、泣きたくなってくるな。
 手紙で呼び出しをかけられるわ、柴垣先輩にはきのうの今日でバッタリ出くわすわ、気まずいったらない。
「会えてよかった。きのうのまんまじゃ、悪いなって思ってたんだ」
「悪いって?」
「いろいろ意地の悪いこといったからさ」
「え。いいましたっけ」
「気がつかなかった?」
「はい」
 俺はきのうのことを思い出してみた。
 これといって、意地悪された覚えはないけどな。
 柴垣先輩はあいまいに笑って、ハードルに腰かけた。
「なら、いいや。ただ、家に帰ってあれこれ考えてるうちに、心配になってさ。俺は武則に、2ヶ月も嫌なこと押しつけてたんじゃないかな、とか」
 思いがけない言葉に、俺は驚いて柴垣先輩をまじまじと見た。
 柴垣先輩は照れくさそうに笑った。笑うと左の頬に小さなえくぼができて、えらく童顔に見えるんだ。
 柴垣先輩がそんなふうに笑うってことを、俺はいままで知らなかった。
「だから謝ろうと思ったんだけど、どうやって連絡つけていいかわからないしね。こんなところで会えて、ついてんなあ」
「そんなこと……」
 俺は言葉に詰まって、何をいっていいのかわからなかった。
 あんまり意外だったんだ。
 ノートをやめるっていったら、柴垣先輩は気を悪くして怒るに違いない、もしかしたら書店でのことをクラスのみんなにバラすかもしれないって、俺はそればっかり考えてた。
 まさか、こんなふうに、俺のことを心配してくれるなんて、思ってもみなかった。
 柴垣先輩は大人だ。
 大人で、いい人だ。
 突然、弾けるように、そう思った。
 俺はこれまで、柴垣先輩のどこを見ていたのだろう。
 ノートに何を書こうかって、そればっかりに頭を悩ませて、柴垣先輩がどういう人かなんて、知ろうともしていなかった。
 柴垣先輩が書いたものを熱心に読めば、少しは彼のことがわかったかもしれないのに、そんなことさえしないで、さらっとひと通り読んだだけで、『うーん、3年生は難しい漢字を知ってる』なんてアホみたいに感心してるだけだった。
 俺は子供だった。柴垣先輩に値しないほどの子供だった。
 図体ばかりがデカすぎる、幼稚すぎるガキだった。
 謝らなければならないのは俺の方で、柴垣先輩じゃないんだ。
「柴垣先輩。俺、特別なヤツができかけてるかも、しれないっす」
 どうしても何かを、本当のことをいわなければならない気持ちにかられて、あと先も考えずにいった。
「そいつに妙なふうに思われたくなくて、ノートやめようって気持ちになったのかもしれない。だって、菊地がからかうし、そいつにまでからかわれてヘンな目で見られたら、すごく、すごく嫌だな、そう思って……」
 俺はきのうのことを思い出した。
 春彦がノートを渡してくれた時、菊地たちの手に渡らなくてよかったという気持ちと、春彦に後ろめたい気持ちとがあって、とても複雑だった。
 別に、春彦に義理立てしなきゃならない理由はないんだけど、なんていうか、春彦の前ではいい加減な人間でいたくなかったんだ。
 思いがけない成り行きで上級生のオトコと交換ノートをすることになって、気がすすまないままズルズル続けているのが、とてもいい加減に思えたんだ。
 春彦は自分にとって、特別かもしれない。
 わからない。
 だけど、柴垣先輩にいっておかなければ、いまそうしなければ、いけないんだ。
「それ、まだ最近なんです。いつからっていわれると困るけど、柴垣先輩とノート始めた時は、そうじゃなかったと思う。柴垣先輩に嘘ついたわけじゃなかったんです。でも、悪いこと、しました……。すみません」
 柴垣先輩は眉をひそめるようにして、黙って聞いていた。
「気にしなくていいよ、そんなの」
 しばらくして、ポツリといった。相変わらず、左の頬にえくぼがあった。
「そんなに深刻にならなくていいんだ。武則に迷惑じゃなかったんなら、それでいいからさ」
「迷惑なんかじゃない、でした」
「なら、安心した」
 柴垣先輩は穏やかにいって、サッカー・ボールの入ったカゴに近づいた。
 そして思いついたように振り返って、
「教室に戻らないの?もうすぐ授業が始まるよ」
 どこまでも上級生らしく、いってくれた。
 俺は頭を下げて、戸口に急いだ。
 たとえ手紙の主が現れても、柴垣先輩とこんな話をした直後に、とても平静では話せない。悪いけど、スッポかそうと思った。
 だいたい、こんなに待っても来ないんだ。イタズラかもしれない。
 俺は引き戸を開け、ギクリとして立ちすくんだ。
 なんと戸口には、菊地とヤツの腰ぎんちゃく数人が腰をかがめて座っていて、まさに盗み聞きしてました、という姿そのままでいたのだ。
 あんまり急に戸が開いたので、逃げだす暇がなかったという感じだった。
「お前たち、何してるんだ、こんなとこで」
 ビックリしすぎて、我ながらかすれた声でいった。
 その途端、菊地がプーッと吹きだし、他のヤツらも釣られたように笑いだした。
 俺と菊地の目が合った。
 菊地の目に、意地悪そうな笑みが浮かんでいる。でも、その顔はなぜか、ひどく青ざめていた。
「菊地……」
「み、みんな、逃げろっ!矢野がヒスるぞっ!!」
 菊地が叫んで、子分どもはわっとばかりに走りだした。
 俺はあっけにとられて、追いかけることも考えつかなかった。
「なんだ?どうしたのさ」
 柴垣先輩が不思議そうに近寄ってきた。
 俺は『さぁ……』とつぶやくばかりだった。
 なんで、あいつらがここにいたのだろう。昼休みは中庭か体育館で、ドッヂ・ボールをやってるはずなのに……。
 もしかして、とふと思った。
 菊地があの手紙を書いて、俺を呼び出したのだろうか。
 俺がのこのこ現れたところで、『引っかかった、引っかかった』と手を打ってからかうつもりだったのだろうか。
 なのに、俺は真壁といっしょで、そのうち柴垣先輩まで来たんで、出てこれなくなったのかもしれない。
 まさか、な。
 だって、そこまでする理由がないじゃないか。
 いくら、俺とケンカして負けたからって、そこまでやるはずがない。いくら意地悪だからって、そんな陰湿なイタズラ、……まさかな。
 それにしても、じゃあなんでここにいたんだろう、と思うとわけがわからなくて、俺はボンヤリした気分で教室に戻った。
 だけど、教室に一歩入るなり、水をぶっかけられたように頭がスッキリして、ボンヤリ気分はぶっ飛んだ。
 菊地健吾が春彦の机に座り、春彦の耳に、何事かをこそこそ耳打ちしていた。
「嘘だろ、菊地。ホントにコクられたのか」
 春彦は驚いたようにいって、顔を上げた。
「嘘じゃないって、ホントのことだって。ほんのジョークで、体育器具庫で待ってますって、手紙書いたらよぉ。なあ、佐藤、お前も聞いたよな?」
「えー、何をだよ。俺、何も聞いてねえぞ」
「俺も聞こえなかった。菊地、何を聞いたんだよ。俺たちにも教えろよ」
 菊地健吾も子分衆も、興奮したようにしゃべりまくり、オンナどもも菊地健吾を遠巻きにしながらも、熱心に聞き耳を立てていた。
 俺が教室に入って行くと、気配を感じたのか菊地健吾が振り返った。それに釣られて、みんなも振り返った。
 俺がよほど青ざめて怖い顔をしているらしくて、みんな気味悪そうにピタリと黙り込んだ。
 騒がしかった教室じゅうが、しーんとした。
 俺は菊池健吾を睨みつけたまま、まっすぐに近づいて行った。
「菊地」
 体じゅうが熱くて、声が震えた。
「な、なんだよ」
「あの手紙、お前が書いたのか」
「そうだよ」
 菊地健吾は顎を突き出して、挑戦的にいった。
「簡単に引っかかったもんな。お前、最近色気づいてるから、ゼッタイ引っかかると思ったんだ。給食終わったら、すました顔で教室出てってさ。笑ったぜ」
 俺は何度も唾を飲み込んだ。
 頭がガンガンしてくる。
 菊地は、何をいってるんだ?
 色気づいたとは、どういう意味だ。
 なぜ、そんなことをいうんだ。
 俺、どこかおかしいか?
 そんなこといわれるほど、ヘンか?
 いろいろいい返してやりたいんだけど、何かをいったら、今度こそ間違いなく流血沙汰の大ゲンカになってしまいそうで、声が出せない。
「菊地、謝れ」
 俺は必死になって、それだけ絞り出した。
「謝ったら、許してやる。謝れ」
「なに気取ってんだよ」
 菊地健吾は鼻で笑った。
「だいたいお前、最近、生意気なんだよ。3年生と仲よくなったからって、いい気になってんじゃねえのか」
「あの人とは、そんなんじゃねえ」
「あの人、だってよ。おい、聞いたか、みんなっ!」
 菊地健吾はゲラゲラ笑いながら、大声でいった。
 俺は息を止めて手をあげ、ありったけの力をこめて、思いっきり菊地健吾の頬に打ち下ろした。
 ものすごい音がして、机に腰かけていた菊地健吾は机ごと倒れそうになった 。
「何すんだよ、ヒス男っ!」
「菊地」
 俺は両手を握り締めて、ゆっくりといった。
「てめえとは卒業するまで、2度と口をきかねえからな。ぜってえに、俺に話しかけんな」
 菊地健吾が何かいおうとするのを無視して、俺はクルリと体の向きを変えた。
 そのまま、息が止まりそうになった。
 目の前に、春彦が立っていたのだ。
 あきれたように眉を寄せて、非難するような目で俺を見ている。
 俺は唇を噛んで自分の席にたどりつき、席につくなり机に突っ伏した。
 もうダメだ。
 春彦に知られてしまった。
 柴垣先輩と何かあったと、誤解されてしまった。
 それどころか昼休みに、体育器具庫で3年生と密会するような気色悪い男だと思われてしまった。
 会っていたのは事実だけど、あれはわざとじゃなかったのに。偶然だったのに。
 菊地の野郎にどういわれてもいいけど、あいつの仲間にどう誤解されてもヘッチャラだけど、春彦には妙なふうに思われたくなかったのに。
 色気づいたとかなんとか、あんな卑下たいい方して、春彦はそれも聞いてしまった。
 俺が赤ザルみたいになって、怒って醜い顔して人を殴るところを、いちばん見られたくないヤツに見られてしまった。
 もうダメだ……。
 菊地のことが憎たらしくて、息がつまりそうだった。
 こめかみの辺りがズキズキして、ものすごい吐き気がした。
 風邪だ。風邪の所為だ。
 そういえば、朝から体調がよくなかったんだ。
 なんとなく、熱も出てきたような気がする。
「矢野。気分、悪いのか?」
 誰かの声が、耳元でぽわーんと響いた。
 顔を上げると、春彦だった。そういや春彦は、保体委員だっけ。
「春彦か……」
「保健室、行こう」
 春彦はキッパリいって、俺を抱きかかえるようにしてくれた。
 教室を出る時、誰か、男の声がした。
「急にどうしたんだ、あいつ。どっか悪いのか」
「知らねえ。風間に甘えてるだけだろ」
 そういったのは、菊地健吾だった。独特の、含みがある、嫌な言い方だった。
 俺は春彦の腕を振り切って、最後の力を振り絞って叫んでやろうと息を吸い込んだ。
「よせよ、菊地」
 一瞬、自分がいったのかと思うほどのタイミングで、鋭い声が飛んだ。
 春彦の声だった。
「いい加減にしろよ」
 叫んだり怒鳴ったりするのではなく、とても静かな声だった。だけど怒りのこもった、本気で怒ってる、めったに聞かない春彦の声だった。
 俺は、あっと思った。
 春彦はわかってる。わかってくれてる。
 なんだかよくわからないけど、ハッキリとそう思った。
 ありがとうといおう。いわなければ!
 だけど、口を開いたら吐きそうで、声が出せない。
「暴れるな、ちょっとじっとしてろよ。ただでさえ重量級なんだからさ」
 春彦が叱るようにいって、俺のカラダを背中から包み込むようにして、保健室に連れ込んだ。
「38度?ダメじゃない。風邪ひいてるのに、そんな薄着で学校に来ちゃ」
 気持ち悪くてウンウンうなっている俺のそばで、保健室のセンセはぼやいた。
 解熱剤をもらって飲んでベッドに横になりながら、俺は吐き気と頭痛と脂汗とにまみれつつ、ボンヤリと考えていた。春彦が好きだと。
 俺は春彦が好きだ。きっと、すごく好きなんだ。
 だけど、こんな悲劇的な日にそんなことを思うのが、ひどく似つかわしくない気がして、自分が情けなかった。
 それもこれも菊池健吾の所為だ。絶対に、許すもんか。
 俺は次の日、生まれて初めて、学校を休んだ……。
「珍しいことがあるもんだな。矢野が学校を休むなんてさ」
 学校が終わるや否や家に駆けつけてきた真壁が、驚いたようにいった。
「ほんとに風邪なのか?仮病じゃないんだろうな」
「バカいえ、なんで仮病なんか。まだ熱だってあるんだぜ、7度5分も」
 俺は体温計を真壁に見せつけながら、力なくいった。
「ほとんど鬼のかく乱だな、そうなると」
「ちぇ、いいたいこといって」
「でもまあ、大事にならなくてよかったじゃないか。普段病気しない人が病気すると、重いっていうからな。そういう人って、自覚症状に慣れてないっつーから」
「うん……」
 俺はため息まじりにうなづいた。
 自覚症状に慣れてない、か。確かにそうかもしれない。
 真壁に指摘されて気がついたんだけど、もしかしたら、ここ2、3日特にイライラしていたのは、この風邪が原因だったのかもしれない。
 なんかすぐ怒ってばっかりだったし、ヒステリー気味だったもんな。
 もちろん菊地健吾に関しては、これとは無関係に、腹の底から憎々しいけど。
 きのう、保健室で眠ったのはほんの30分ほどで、目が覚めても、まだ気分が悪かった。
 結局、保健室のセンセと相談して、タクシーを呼んでもらって早退することにした。
 夜遅く帰って来た父ちゃんにこのことを話すと、雪でも降らなきゃいいが、とぶつぶついいながらさっさと風呂に入った。
 今朝になっても熱が引かないので、念のため、俺は学校を休んだのだった。
 小学校以来の輝かしい皆勤記録が、これで途絶えてしまったわけだ。
 それもこれも、あのにっくき菊地健吾の所為だ。
 思い出すだけで、ムカッ腹が立つ。
「明日は、学校に来るんだろ?」
「うん、そのつもりだ。重病じゃないしな。だけど、菊地健吾のこと考えると嫌になる。もう、口きかないからいいけどさ」
「ああ、菊地だったら、転校するってさ」
 マンガをめくっていた真壁があっさりいった。
 俺は吹きだした。
「またまた。お前って、すぐそうやって人を驚かすこというんだから」
「あれ、ホントだよ。だって、4組の国語の時間、担任の小森が授業ぶっ潰してお別れ会やったっていうもん」
「え」
「けど、きのうのことでクラスの一部に反感買ったらしくてさ、てんで盛り上がりにカケたって、4組のミキオたちがいってたぞ」
 俺はむっくりと起き上がった。
 起き上がったって何をするってこともないんだけど、なんだかのんきに寝てる場合じゃないような気がした。
 菊地健吾が転校する?
 じゃあ、明日学校へ行っても、あいつはもう、いないってのか?
 そりゃ、あいつには散々コケにされたし、きのうはきのうであんなイタズラされたし、いまだって許す気持ちはこれっぽっちも起きないけど……。
「だけど、ちょっと急すぎるんじゃないのか?お別れ会ったって、そんなの……。だいたい小森センセもヘンじゃないか。1週間くらい前にいってくれてれば、他の連中ともいろいろ相談して、計画して……」
「事情が事情だからな」
「なんだよ、事情って」
「俺、きのう、プリント取りに職員室に行ったんだ。そしたら、菊地のおっかさんだかなんかが来てて、小森センセと話してたんだ。家の事業が行きづまってどうのこうのって、いってたみたいだった。たぶん、それで転校するんじゃないのかなぁ。これ、オフレコだぜ」
「家の事業って……」
 俺はあっけにとられて、ますます頭が混乱してきた。
 家の事業が行きづまってっていうけど、そんなの、現実にあんのか?
 それはともかくとしても、なんで、それで菊地が転校するんだ。
 ボーっとして真壁の顔を眺めていると、弟のワタルがジュースを3つ持って、部屋に入って来た。
「こんちは、真壁さん」
「こんにちは。なかなかいい男になってきたな、ワタルくん」
「へへへ」
 ワタルは上機嫌で、ジュースを真壁にすすめた。こいつってば、真壁のファンなんだよな。よくわからないけど、面食いらしいんだ。
「兄ちゃん、クラス委員のミキオってのから電話が来てたぞ。大丈夫かって」
「ああ、あいつ、俺といっしょに来たがってたけど、大勢で押しかけてもなんだからって、遠慮させたんだ」
 思い出したように、真壁がいった。
「ナントカってのが転校するって、そう伝えてくれってさ」
「あ、ああ」
「それから、もひとり、知らないヤツからも電話があったけどさ。武則はいま風邪で寝てますっていって、切ってやった」
 ワタルはあからさまに敵意を見せて、いまいましげにいった。
「知らないヤツって、誰だ」
 ……春彦かな。
 まさかな。
 あいつはいま頃、グラウンドを走ってるはずだし。
「そんなの知るかよ。あいつ、不良だぞ。オレ、わかるんだ。クラスにもあんな口きくヤツ、いるしよ……。決着つけるから教室に来い、来るまで待ってる、だってさ」
「菊地だ!」
 俺は思わず叫んだ。
 体育器具庫に来いって呼び出し状にも、そう書いてあった。『来るまで待ってます』と。
 俺は布団をすっ飛ばして、ベッドから降りた。
「いつだ、それ」
「いまさっきだけどさ。兄ちゃん、寝てろって」
「お前、もう出てけよ。うるさいから」
「行くのか?病気だろ?」
「いいから出てけって。ワタルお前、今度からそういうことちゃんと取り次がなきゃダメだぞ」
「だってよぉ。病気の時にケンカしたって負けるぞ、兄ちゃん」
「いいんだよ。こういうのは大人のつきあいってもんなんだから」
 ワタルは渋々、部屋を出た。
 教室で待っているというのなら、俺も制服でなきゃ、校内には入れない。
 俺はバサバサと学ランに着替えた。
「ほんとに行くのか?矢野」
「今日限りで転校するんなら、ハッキリと決着つけとく。お別れ会にも、出れなかったしな」
「けど、風邪は?」
「ちょっとふらつくけど、我慢する。ああ、情けねえな。熱でポーっと耳鳴りがしてるし、視点も定まらない感じだ」
「その感覚は、わかる」
 真壁はしみじみいい、
「俺、自転車で来てるから、学校の近くまで乗せてってやろうか。センセにめっかったらヤバいから、近くで降ろすことにして」
 と申し出た。
「それ、ナイス」
 俺はズボンの尻ポケットに、携帯用のポケット・ティッシュを詰め込んだ。決着つけに行くのに、鼻水垂れてたらカッコ悪いもんな。
「ふたり乗りしたら、叱られるぞ」
 不満顔のワタルに見送られ、俺は学校に急いだ。急いだといっても、急いだのは真壁で、俺はママ・チャリの荷台に乗っかってるだけだったけど。
「おい。お前、何キロあんだよ。ぜんぜんスピードが出ねーじゃんか、重くて」
 昇り坂をヒーヒー大息をつきながら、真壁があえぎあえぎいった。
「考えてみれば、もう帰ったかも知れないな、菊地は。最近、用事のない生徒は早く帰れって、生活指導のセンセもうるさいし」
「いいや。あいつはまだいるぜ、きっとな」
 俺はボンヤリといった。
 理由はないけど、そんな気がしたんだ。
 校門の近くまで奇跡的に誰にも見られずにふたり乗りしてきて、そこで降ろしてもらった。
 みんなが下校して、既にガラ~ンとなった生徒玄関から、校舎に入った。
 廊下もシーンとして、足音がドキッとするほど大きく響いた。
 1年4組のドアを開けた。
 菊地健吾は、いた。
 自分の席に座っていて、ゆっくりと振り返った。
「なんだ、来たのか」
 菊地健吾はどうでもいいことのようにいって、立ち上がった。
「なら、ズル休みだったんだ。やっぱり」
「……」
 俺は黙っていた。
 菊地の意地悪ないい方には慣れてるし、不思議なほど、いつもみたいにカッとはならなかった。
「俺、転校するんだ。父さんが家を売って、母さんの実家で働くっていうからさ。今夜じゅうに、みんなで関西に行くんだ」
「……」
「夏休み前から、うち、ゴタゴタしててさ。きっと転校すると思ってたんだ。だから、友だちなんかいらねえし、嫌われてもいいんだ」
「……」
 俺は黙ったままだった。
 絶対に口をきかないと誓ったのはきのうだ。
 きのう、俺は心の底から菊地を嫌い、憎らしいと思った。絶対、卒業するまで口をきくもんかと決心したばかりだった。
 だけど、菊地健吾は卒業までは学校にいない。転校してしまうんだ。
 転校するとわかっていたから、あんな暴言を吐いて、みんなに嫌われても平気な顔でいられたのだろう。
 そんなふうな気持ち、わかるような気もするけど……、やっぱりわからない。
 だって、俺は転校しないし、ずっとみんなといっしょだし、みんなと仲よくやるのが、すごく好きだし……。
 なんだか急に、鼻の奥がツンとなった。
 バカバカしい。こんなヤツの為に、何しんみりしてんだよ、俺は。
 菊地健吾はポケットをゴソゴソ捜した。ハンカチか何かを捜してくれてるみたいだった。
 よせよ。風邪で、ちょっと鼻水が垂れただけなんだ。
 俺は尻のポケットからティッシュを2枚取り出して、チーンと鼻をかんだ。
「転校するって決まってから、お前にだけはいっておこうと思ったんだけどさ。おととい、靴箱あけたら、ノート、入ってたもんな」
「……」
「きのうはさ。ちゃんといおうと思ったら、3組の真壁も体育器具庫に来ててさ。そのうち3年生も来て、器具庫の前でうろうろしてたら、あいつらが集まって来てさ」
「……」
 俺は手の甲で目をこすって、そばにあった春彦の椅子に座り込んだ。
「俺、きのう風間に嘘いったんだ。お前につきあって欲しいってコクられたって、嘘ついたんだ。ずっと、お前といられる風間のことが、ねたましくてさ、つい」
「……」
「けど、俺が本当にうらやましく思ったのは、お前の方なんだ、矢野。男っぽいし、毛深いし、いい体格してるし。それに比べて俺なんか、まだガキのまんまだもんな……。どうやったらそんなふうになれるのか、知りたくてさ。けど、いざとなると恥ずかしくて、何も訊けなかった。いろいろ意地悪いったけど、ごめんな」
「……」
 知らなかった。
 俺は何も、気づかなかった。
 本当に何ひとつ、わかっていなかった。
 柴垣先輩のやさしさも、交換ノートの意味も、菊地健吾の意地悪も、菊地の両親の事業のことも、転校も、何もかも。菊地が、ほんとはあんなにきれいな字を書くということだって、知らなかったんだ。
 ただ、目に見えて、耳に聞こえることしか、わかっていなかった。
 春彦が、クラスのみんなに隠れてリレーの練習やってるのを、あんなにドキドキしながら見ていたのに、表に見えること以上のことがわかる人間になりたいと思っていたのに、少しもそうなってはいなかった。あまつさえ、そうなる努力すらしていなかった。
 俺は口先だけの、大人ぶってるだけの、なんにもわかってないガキだ。子供なんだ。
「そんなにしんみりした顔すんなよ。あったまくんな。俺、いま、ハンカチ持ってねえからよぉ。貸してやれなくて、ごめんな」
 俺はティッシュを鼻に押し当てて、すすり上げた。
「俺の方こそ、悪かった。みんなの前でズボン、脱がしたりして」
 こらえていたのが我慢しきれなくなって、絶対口をきかないという誓いを破って、俺はしんみりといった。
「カッとなると、見境がなくなるんだ。すまん、許してくれ」
 菊地はいきなり、ぷっと吹き出した。
「許すも許さないも、俺はもう、気にしてないから」
「いいヤツだな、お前って」
 俺はティッシュを丸めて、何度も鼻先をこすった。
「俺だったら、相手のズボンをむりやり引きずり下ろしてでも、その落とし前はつけさせるところなんだけどな。恩にきるぜ」
「……なら、いまここで脱いでくれたって、いいんだぜ」
「え」
「俺も見せたんだ。お前のいう通り、それくらいしてくれてもバチ当たんないよな。そしたらお互いにおあいこってことで、お前の気もすむだろうし」
「俺に、ズボン脱げってか、ここで……。したら、許してくれるのか?」
「もちろん」
「……わかったよ。脱ぐよ。それでおあいこだからな」
 俺はおずおずといって、ゆっくりとベルトをはずしにかかった。深呼吸をひとつして目をつむり、ズボンに手をかけていっきにずり下げた。
 もちろん、下着のトランクスごといっきに。
 菊地の口からかすれたようなため息が漏れ聞こえた。
「……す、すげえ」
 一瞬の間のあと、俺はそっと目をあけてみた。
 菊地が顔を赤くして、食い入るように俺を凝視していた。
 けれど、それほど恥ずかしさとか屈辱といったものは感じなかった。
 風邪の発熱や鼻づまりで頭がぼぅーっとして、そこまで気がまわっていなかったのかもしれない。
 と不意に、菊地の手が股間に伸びてきた。
 思わず腰を引いたけど、菊地の手の方が早かった。
 俺は唾を飲み込んだ。
「ずいぶん、やらかいんだな。こんなに毛が生えて、先っちょもムケかかってるのに。毛は、いつ生えたんだ?」
「小学4年」
 俺は直立不動のまま、渋々答えた。
「ずいぶん早いんだな。これ、ムケるのか?」
「あ、ああ。勃つとな。ぜんぶムケる」
「ふぅん」
 菊地はふーっと吐息しながら、そっとタマを撫でた。
「気持ちいいか?」
 喉にからみつくようなしゃがれた声で、菊地がささやいた。
 俺は喉の奥でうめきながら、そっとうなずいた。
 菊地も興奮しているらしくて、鼻息が荒くなっていた。
「やばいよ。なんか、勃ちそう」
「だったら、勃たせてみろよ」
「えっ」
「遠慮すんなよ、気持ちいいんだろ。なら、勃つのがフツーじゃん」
「けどな」
 俺は首をひねった。
 そりゃ、俺は男が好きだから、同年代の男に対する好奇心も興味も、確かにある。
 だけど、こんなふうな状況で触られるのは、やっぱりちょっと、抵抗があった。
 どうしようかと途方に暮れていると、
「お前さ、ホモなんだろ?」
 菊地が意地悪くほくそ笑んだ。
「バ、バカいえ」
 俺はあわてて否定した。
「この期に及んで、いいよ、嘘いわなくたって。もうとっくに、バレてんだからさ。だって俺、見ちゃったもんな。お前が雑誌読んでるとこ」
「雑誌ってまさか、弘文堂のことか」
「そ」
 菊地はわけ知り顔で、うなずいてみせた。
 俺は目を閉じて、天井を仰いだ。
 いい加減にしてくれよ。菊地にも見られてた、ってか。
「でも、俺も読んだことあるんだよな、あれ」
 菊地は恥ずかしそうにいって、苦笑いした。
「で、1度見てみたかったんだ。お前みたいな男っぽいのが、勃ったとこ」
「そんなこと、いわれてもな……」
 俺は赤面して、思わずいい淀んだ。
 でも、結局のところ、菊地の誘惑には勝てなかったんだ。
 やっぱりなんだかんだいっても、興味があったんだな。チャンスがあったらやってみたいという欲求の方が、理性やプライドなんかより、ずっと強かったんだと思う。
「好きだったんだぜ、矢野のこと」
 菊地がドサクサにまぎれて、またとんでもないことをいった。
「ティッシュ貸せよ。いかせてやるから」
 菊地が俺を順手で握りなおし、いよいよ本格的に往復運動を加えながらいった。
 俺は足を開いて立ったまま、ただ黙って、菊地のするに身を任せていた。
 菊地がこするたび、俺のモノはグイグイ大きくなった。
 そんな気持ちよさは初めてだった。
 これが男にしごかれるということなのか。
 これが……。
 そう思うと、俺の中にいいようのない感動が込み上げてきた。
 世の中には本当にいろんな人がいる。
 そして、自分と同じような趣味を持つ人間も、やっぱりその中には少なからずいるのだ。
 つきあってくれといいながら、ノートを交換するだけで、手も握らずに身を引いた柴垣先輩も、俺に興味を持ちながら、最後の最後になって、ようやく気持ちを伝えてきた菊地健吾も、みんなひそかに、ひとりで悩んでいた。
 男に対する好奇心。
 男が好きだという気持ち。
 俺もいろいろ悩みながら、きっと彼らと同じように、これからも悩み続けていくのだろう。
 天を突いて勃ち上がる俺を手に、菊地は休むことなくしごき続ける。
 勃ち上がった俺の先端に、じわじわと何かが迫ってくる。にじみ出てくる。
 このまま続けられると、さすがにマズイと思う。
「矢野……」
 菊地は、静かに目を閉じた。
 それが未経験の俺でも、彼が何をしようとしているのか、何を求めているのかがハッキリとわかった。
 俺はその場の感情に流されて、そっと菊地を抱き寄せた。
 菊地の気配が俺の上に降りてきた。
 柔らかい感触が、口先で停まった。初めてのキス。
 菊地の吐く息が、俺の口をこじ開けて流れ込んできた。
 お互いがお互いの臆病さを隠しきれずに、カタカタ震える舌先。それが、そっと触れ合った。
 下腹部で、菊地の手の動きがどんどん速まっていく。
 俺はことの成り行きが信じられず、ただ菊地の口の中で、懸命に舌先をうごめかすばかりだった……。


 初めて自分の手以外でイッたあと、突然、菊地の気配が消えた。
「俺、帰るわ」
 ビックリして目を開けた時、菊地はもう、大股に歩いてドアのところに行っていた。俺のティッシュを、大事そうに握り締めていた。
「菊地、お前……」
「いろいろありがと。これ、記念にもらっとくな。……それから、勘だけどな。風間のヤツ、まんざらダメってわけでもなさそうだぜ、オトコも……。いままで、ゴメンな。じゃ、さいなら!」
 ドアが乱暴に閉まった。
 菊地のバカ。
 春彦がまんざらでもないだと?いい加減なことをいうなよ。それがホントなら、俺もメチャメチャうれしいけどさ。
 俺は我に返ってズボンを引き上げ、あわてて自分の机に飛びついた。
 美術のスケッチ・ブックが入れてあるんだ。
 早く何か、手紙かメモか、何か書いて。
 ダメだ、時間がない。手間がかかりすぎる。
 センセのバカ野郎っ!早くいっといてくれたら、手紙の返事くらいちゃんと書けたんだ。
 そうだ、ヒコーキだ。
 俺は鼻水をズルズルすすりながら、ものすごい速さで紙ヒコーキを折った。
 いびつで少し角が破れたけど、なんとか折った。
 ドアに行きかけて、思い直して窓に駆け寄った。
 生徒玄関を出て、歩いて行く菊地健吾が見えた。
「菊地っ!おいっ!」
 聞こえないらしくて、菊地健吾は振り返らなかった。
 俺は窓から、思いっきり遠くに、紙ヒコーキを飛ばした。
 だけど力を入れすぎた所為で、それに破れて妙なカタチになっていた所為か、紙ヒコーキはヘンなふうにひらひら飛んで、花壇のそばの側溝の隙間に落ち込んでしまった。
 菊地健吾が、どんどん小さくなっていった。
 1度だけ振り返って手を振ったみたいだったけど、顔も姿も、もうハッキリ見えなかった。
 ……ゴメンな、菊地。
 意地悪なヤツだって、思って悪かった。
 憎らしいヤツだって、思って悪かったよ。
 卒業まで口きかないっていって、ゴメン。
 俺のこと、好きでいてくれたなんて、ゴメンな……。
 俺ってホントに、どうしようもないガキだよ。ワタルとおんなじくらいのガキだよ。カラダだけムクムク大きくなって、まるで高3みたいなナリしてるけど、ココロなんか、小学5年生のままだったよ。いや、それ以下だったよ……。
 なんだか、急に力が抜けてしまった。
 そばにあった椅子を引いて、ぐったりと座り込んでしまった。
 誰もいない教室はガランとして、ひどく寂しかった。
 今日までは菊地がいた教室。
 だけど、明日にはもういない。
 もう少しあいつと、話し合えばよかった。お互いに理解し合えるまで、ちゃんとしゃべればよかったんだ。
 俺って、いつもこうだ。
 あとで後悔して、そればっかりだ。こんなのは、嫌だ。もう、嫌だ。
 柴垣先輩だって、菊地健吾だって、俺にちゃんと見る目があったら、もっと違ったふうになれたかもしれないのに。
 本当の柴垣先輩、本当の菊地健吾という人間がわかって、それだけ俺の世界も、うんと広がったかもしれないのに。
 俺はなんて小さい人間なんだ。なんてウツワの狭い、人間なんだろう。
 もっと大人になりたい。
 いろんなことがわかって、理解して、ちゃんとしたい。このままじゃ、全然ダメだ……。
「矢野?」
 真壁が遠慮がちに、教室に入って来る音がした。
「菊地、帰ったみたいだな」
「ああ、帰った」
「最後も、やっぱりケンカしたのか?」
「……いいや。ケンカはしなかった」
「じゃあ……」
 俺の隣りの椅子に座って、同じように窓の外を眺めながら、真壁はさらりと訊いた。
「好きだって、いわれたか?」
 俺は窓の外を眺めたままだった。
 不思議と真壁の質問にも驚かず、ただ驚かない自分に、少し驚いていた。
「真壁は、そう思ってたのか?」
「う、うん。まあ、そんなとこ、だろうな、とかね。……俺たちって、自分でもビックリするくらい不安定なとこ、あるしな。別にオトコに恋したって、ヘンじゃないし」
「……俺、好きなの、いるんだ」
「へ、へぇー。矢野みたいなのにもいるのか、そんなのが」
 遠慮も何もあったもんじゃなく、真壁は率直に驚いてみせた。
「矢野って無骨モンだから、そういう色恋にはからっきしウトイのかと思ってた。……菊地にそれ、いったのか?」
「いいや。いわない。俺、誰にもいわないんだ、いまは」
「なんで」
「このままじゃ、あんまり情けなくてさ……」
 俺は尻ポケットのティッシュの残りを、ぎゅっと握り締めた。
 このままじゃあんまり、自分がバカで、いいとこナシだから。
 春彦のことだって、誰も知らない春彦を知ってるつもりになってるけど、本当は、みんなが知ってる春彦を知らないのかもしれない。
 俺、それくらいガキなんだ。
 だから、もう少し待つんだ。もう少し、俺がマシになるまで……。
「真壁。明日から俺、いままでと違う目で、いろんなこと見るぞ。絶対に、そうするんだ」
 そしたら、いままで普通に見えてたことだって、まるで違って見えてくるかもしれない。
 その時、俺は春彦のことを、どう思うだろう。
 いまと同じように、ちゃんと好きでいるだろうか。
 案外、それまで気づかなかった嫌な面が見えてきて、好きじゃなくなってるかも、しれないな。
「矢野。がんばろうな、俺たち」
 赤ん坊をあやすような口調で、真壁はやさしくいった。
「さ、もう帰ろ。家に帰って、少し寝た方がいい」
「ああ、そうする……」
 だけど、俺は腰を上げずに座り続けていた。
 もう少しここにいよう、真壁。
 今日は特別な日、忘れられない日なんだ。
 菊地健吾が転校した日。
 柴垣先輩のやさしさを再認識した日。
 ガキだった俺、少年だった俺に、さよならをする日、なんだからさ。
 俺は教室の窓枠に寄りかかって、沈みゆく夕陽をボンヤリと眺めていた。
 茜色に染まる晩秋の町並みは、どこか寂しげで、いまの俺になんとふさわしい景色なんだろうと思いながら、いつまでも、いつまでも、眺め続けていた……。
「母ちゃん、俺のお守り知らないか?岩戸天満宮の」
 晩メシの時、俺は思い切っていった。
「何よ、お守りって」
 母ちゃんはうわの空でいった。
「お守りつったら、お守りだよ。合格祈願の」
「合格祈願?なあに、武則。あんた、そんなもん持ってたの?」
「決まってるだろ。母ちゃん、忘れてるかもしれないからいわせてもらうけど、あんたの息子は受験生なんだぜ」
「それくらい知ってるわよ。ただあたしは、お守りなんてものにすがるのはよくないと、それをいいたいだけよ」
 平然としていう。
 まったく、自分の子供に関心がないというか、なんというか。
「と、ともかく、お守りがなくて困ってるんだ。この前まで机の引き出しにしまってあったのに、なぜかないんだ。どっかで見なかった?」
「見ないわよ。お父さん、知りません?」
「いや」
 黙々と食べてる父ちゃんが、ボソッといった。
「ワタルは?」
「知らないよ。最近、武則の部屋に入ってねーもん」
「……だって。きっと家のどこかにあるわよ。そう思えば、安心でしょ」
「母ちゃん。明日、高校の下見なんだよ」
「そうよね。それがどうかしたの?」
 ダメだこりゃ。
 明日は下見日で、明後日がいよいよ受験日。
 ここまで押しつまってくれば、いくらノンキな母ちゃんでも息子のこと心配してくれるかと思って訊いたんだけど、甘かったな。
 もう1回、自分でさがすか。
 晩メシが終わって、俺はさっさと部屋に上がった。
 別に、お守りひとつないだけで、不安でおろおろするってことじゃないんだけど、ナイとなると、妙に気になるんだよな。
 おととし4年制の大学を卒業したイトコの矢野隆正クンが、この前久し振りに遊びに来て、お守りを受験する学校のどこかに隠しておくと効果があるなんて冗談っぽくいった。
 じゃあ、公立高校は受験の前日に下見をさせてくれるから、その時に隠してこようと思い立ったんだけど、今日、いよいよ明日が下見だからお守りをポケットに入れておこうとしたら、見当たらない。
 見当たらないと、急に不安になるところが、さすが受験生というもの。やっぱりいろいろ、神経質になっているみたいだ。
 あの岩戸天満宮のお守りは今年の正月に、俺と真壁と春彦の3人が初詣でで電車に乗って、わざわざ隣りの県の岩戸天満宮まで行って、おそろいのを買って来たんだ。
 だからあれがないと、3人のうち、俺ひとりだけが落っこちるんじゃないかと、よからぬことを考えてしまう。
 俺って大ざっぱなわりには、わりと迷信深いというか、細かいことを気にするタイプなんだ。
 お守りは、机の3番目の引き出しに入れといたはずなんだけどな。そこから、絶対に動かしてないはずなんだ。
「武則、みつかったか?」
 ワタルが晩メシを終えて、部屋にのっそりと入って来た。
 最近、ずいぶん背が大きくなったんで、春彦がいやにワタルを意識する。その気持ちも、わからないではないな。
「まだだよ。おっかしいなあ」
「ないと、困るのか?」
「困るってほどのものでもないけど……」
 ワタルの口調には、何か引っかかるものがあった。
 そういや、こいつ、ついこの間までは平気で俺の部屋に入って来てたっけ。
 なんせ親がああだもんで、俺たち兄と弟、小さい時から異常に仲がいいのだ。
 だけど、部屋に入って来ては俺のベッドに寝っ転がってマンガを読まれたりするのって、困るんだよな。正直いうと。
 俺もそろそろ年頃だもんで、ベッドのまわりには見られると都合の悪いものもあるし、人並みにやるべきこともやってるし。
 ところが、一度キッパリ拒絶しないと、と思っているうちに、ぴたりと入って来なくなった。
 さすがにワタルもタメライを覚える年頃になったかと、兄としては複雑な思いを味わっていたのだが……。
「おい、ワタル。そういやさっき、お守り知らないかって訊かれて、部屋に入ってないっていったよな。誰も、部屋に入ったかどうかなんて訊いてないのに、なんでああいう返事をしたんだ」
「あ、いや……」
「子供の頃、母ちゃんが置いといたお菓子を盗み食いした時、母ちゃんに“お前がやったの!?”といわれた途端、“ボク、知らないよ。シュークリームなんか食べてないよ”っていってバレたことあったよな。あれと同じじゃないのか?お前、最近、俺の部屋に入って、お守り持ってったんじゃないのか?」
「ちぇ、すぐそれだ。何かっちゃ、昔のこと持ち出すんだから」
 ワタルはブツブツいいながらも、後ろ手にしていたものを前に出した。
 俺はビックリして、すぐには声も出なかった。
 思ってもみないものを、ワタルが出したのだ。
 紺のチェックの、大学ノートだった。お守りがノートの上に乗っかってる。
「なんだ、これ」
「これ持ち出した時に、お守りも挟まってた。そのうち、武則が気づく前に戻しとこうと思ってたんだけどさ」
 虚勢を張って強気の顔してるわりに、弁解口調で早口にいった。
「2月過ぎたら、やたらと早く帰って来たり自由登校になったりで、いつも部屋ん中で勉強してるしさ。返そうにも返せなくて」
「返すって、お前、これ……」
 俺はちょっとだけ顔を赤らめて、ノートを受け取った。
 それは2年前、中1だった俺が上級生の柴垣先輩と交換ノートに使ってた、由緒あるノートだった。
 さる事情で、つい最近、俺の手元に戻って来たんだけど……。
「お前がなんで、これ持ってたんだよ」
「だって、男の名前で郵便で来てさ。武則、変な顔して、それからメチャクチャ赤くなってさ。何かあるなと思ったのに、見せてくんないから……」
 ワタルはブツブツ口ごもった。
 俺はわざとらしく、深いため息をついた。
「それで気になったんで、部屋に忍び込んで盗んでったわけだ」
「盗むなんて、そーゆーいい方されるとミもフタもないけど、まあ、そういうことになるよな」
「お前というヤツは、まったく!」
「…………怒ってんのか?」
「怒ってないけどさ」
 実際、怒る気にはなれなかった。
 これが交換ノートをやってる頃の俺だったら、ヒス起こして1週間は国交断絶するところだろうな。
 そうしてみると、2年なり3年なりの年月も、さほど無駄ではなかったということか。
 でも、これをワタルに見られた、読まれたとなると、妙に照れくさいものがある。
 昔の自分が、もろ、そこにいますって感じで、怒るとかじゃなく、照れてしまうんだ。気恥ずかしいというか、なんというか。
「お前、これ、読んだか?」
 顔を赤らめながらいうと、ワタルは面白くなさそうにうなずいた。
「武則が交換ノートやってたなんてな。しかもオトコの先輩と。俺、ぜんぜん知らなかったよ。母ちゃんも、父ちゃんだって知らないぞ、きっと」
「当たり前だろ、隠してたんだから」
「そういうのって、よくないよ。受験の前にこんなこというのよそうと思ってたんだけどさ。ふ、ふっ、ふ……」
「なんだよ。“ふ”って」
「ふ、不純だよ」
 ワタルがしかめっ面しくいった途端、俺は思わずプッと笑ってしまった。
「なな、なんだよ。俺をバカにすんのか?」
「バカになんかしてねえよ、するかっての、アホらしい。ただ、なんというか……」
 なんともいえないな、こりゃ。
 ワタルに悪いと思いつつ、ついつい笑いがこみ上げてくる。
 不純かァ……。なるほどな。
 いやいや、笑っちゃいかんのだ。笑っちゃ。
 昔、俺が交換ノートしてるのを知って、クラスの男どもがいろいろからかったじゃないか。どうかしちゃったんじゃないかとか、色気づいてるだとか。
 ワタルはいま、あの頃の男どもと同じ年頃だもんな。まして、いまだに兄ベッタリのオクテな弟だから、こういう反応は、とても自然かもしれない。
「武則、笑うなって」
 ワタルが怒ったように、俺を睨んだ。
 俺は慌てて弁解した。
「いやー、バカにしたわけじゃないんだ。ほんとに。お前の気持ちはよくわかるけどさ、ずいぶん前のことだし。ノート読めばわかるだろ。不純なことなんか、なーんにも書いてねえし。健全なモンじゃねえか。いやな、当時、生徒会長やってた先輩が、受験勉強の気晴らしになるっていうもんだから、相手してやってただけなんだ」
「……ほんとかな、それ。俺はショックだったな。武則がこんなことやってたとわかって。信用できないよ」
「ノート持ち出したくせに、偉そうなことぬかすな」
 笑いながらそういったものの、ふと思い出した。
 そうだ。
 以前にも、交換ノートを持ち出して読んだ、イタズラなヤツがいたな。
 うーむ。
 なんかいろいろ思い出してしまうな。
「ともかく、今回のことは見逃してやるから、ありがたく思え。普通なら、プライバシー侵害で1発ぶちのめすとこだぞ。ましてや、こんな時期だからな」
「それは悪かった、と思ってる。けど……」
「もういい。とっとと部屋に戻って勉強しろ。俺もいまから、最後の暗記するんだから」
 受験生の葵の御紋を振りかざすと、ワタルは渋々部屋から出て行った。
 俺はノートを持って、ベッドにひっくり返った。
 最後の暗記なんか、できっこないんだ。
 これ以上何かやると、せっかくこの1年間詰め込んだことが頭からはみ出しそうで、なーんにもやる気にならない。
 で、どうでもいいことを考える。例えば交換ノートのことなんかを。
 これ、去年の年末に郵便で送られてきたんだ。
 差出人の名前を見ても、すぐにはピンと来なかった。住所も、静岡になってたし。
 中から紺のチェックの大学ノートが出てきて、それでいっきに思い出した。
 いっしょに入っていた手紙は短いもので、
『この間、古いアルバムなんかが入ってるダンボールを整理してたら、出て来ました。懐かしかったな。だけど記念に取っておくという趣味でもないし、こんなのがあったとわかると気恥ずかしくてね。勝手に処分してもよかったんだけど、もしかしたら取っておきたいんじゃないかと思って、一応送ります。住所、変わってないといいけど。
 俺は親父の転勤で、高2の時、こっちに移りました。静岡っていい男が多いよ。武則もいい男になりましたか。ノート送ったお礼に、写真撮って送ってくれなんちゃって。ウソだよ。
 ノート読み返すと、楽しいよ。かわいくて。初々しいんだ――――』
 みたいなことが、書いてあった。
 ノートを読み返してみて、本当に初々しくて、思わず笑ってしまった。
 これでよく交換ノートだといえたもんだなァと、しみじみ思った。まるで学級日誌という感じだもんな。
 いま、中1のワタルが『不純だ』といい張るのも、気持ちとしてはわかるんだ。不純という言葉の古さは、否めようもないが……。
 時間て不思議だ。
 毎日同じことの繰り返しに見えても、ちゃんとそれなりに変化しているところがスゴイ!
 柴垣さんも手紙の様子じゃ、ハッキリ書いてなかったけど、BFがいそうな気配だった。
 俺は俺で、なぜか春彦と、仲よくやっていたりする。
 1年の時は、こうも続くとは思ってもみなかった。
 俺は中2になって、春彦とクラスが分かれた。
 真壁は春彦と同じクラスになったけど、友情にかこつけて春彦たちのクラスに出入りするのは、それこそ“不純”な気がして嫌だった。
 あの時はしみじみ寂しかったし、いろんなことを考えた。
 グラウンドでスタート・ダッシュの練習をしている春彦は、相変わらずの春彦だった。
 つまり、あいつにとっての俺なんてのは、ほんとになんの意味もないんだ。同じクラスの時はクラス・メートとして親しく口もきくけど、クラスが分かれたら、それでおしまいなんだと。
 俺は寂しいと思うけど、あいつは寂しいどころか、俺のことなんか気にもしないんじゃないだろうかと……。
 みじめだなーと思って、中2の頃は暗かった。
 そりゃ、廊下ですれ違った時なんかは軽口もきくし、口ゲンカっぽいやり取りもするけど、それだけだもんな。教室に戻ったら、俺のことなんか思い出しもしないに決まってる。
 それは当然といえば当然なんだが、やっぱり気落ちした。
 だもんで、廊下ですれ違った時や部活で顔あわせた時なんか、その一瞬がものすごく貴重に思えて、いろんなことしゃべりたいもんだから早口になったり、ついつい憎まれ口たたいてケンカになったり、いやもう、散々だった。
 春彦と同じクラスの男子が、
「風間のヤツ、お前のこと幼なじみでも親友でもない、フツーのダチだっていってたぜ」
 と教えてくれた時なんか、目の前が真っ暗になったもんな。
 2年になって成績が落ちた理由はいろいろあるけど、春彦とクラスが分かれたことや、春彦に悪い印象もたれてるというショックの所為もあったんだ。
 おかげで、イトコの矢野隆正クンに家庭教師してもらうことになって、学校で春彦と話せない分、隆正クン相手に春彦のことばっか話してたな。
 ま、隆正クンも高校からの友だちの話をして、俺に対抗してたけども。
 3年になって、俺と真壁と春彦の3人が奇蹟的にいっしょのクラスになって、心底うれしかった。しかも、同じ城北高校を受験するってことで、再び春彦たちとグループっぽくなった。
 グループで勉強会をしようといい出したのは真壁だけど、あれは、俺の為にいい出してくれたんじゃないかと思うんだ。根拠はないけどさ。
 俺はその気持ちがうれしかったな。
 その頃にはもう、春彦が俺をどう思ってるかを考えるのももどかしくて、考えないようにしてたけど、でも、真壁といっしょに、春彦とも単なる友だちでいいから、ずっと仲よくできたら最高だと思うようになっていた。
 ほんとにそんな気持ちだったんだ。
 やっぱ世の中、恋愛より友情だよな――――なーんて、ひとりで納得してさ。
 だけど最近、ふっと思ったりする。
 平和なんてそんなに長続きするはずがないから、あとでドーンと揺り返しが来るかもしれないぞ、なんて。
 いまから、先のこと心配しても仕方がないんだけどさ……。


 翌日、俺たち3人は待ち合わせ場所のモス・バーガーの前に、1時半キッカリに集合した。
 下見に3人で行く約束をしてたんだ。
 城北高校に歩いて行ったんだけど、高校に近づくにつれて、各中学の制服姿の連中と行き合って、うーん、いよいよ明日が受験日か、という気になった。
 高校の校内はあちこちにロープが張ってあって、『関係者以外、立ち入り禁止』と札をかけてるとこがものものしい。
 下見といっても、結局のところ試験会場になる教室とトイレと保健室、これぐらいしか開放されていなかった。
 それでも俺たちは見るものすべてが珍しくて、けっこう楽しく見て歩いた。
「すんごいボロだな、しっかし。文化祭で下見を兼ねて来た時は、お祭り気分で盛り上がっててよく見なかったけど、こうしてじっくり見ると、倒れないのが不思議なオンボロ校舎だ」
 俺がしみじみといえば、真壁も、
「まなびやって表現がピッタリな建物だな。この分じゃ、理科の実験でガス漏れがあっても、どこからともなく換気がゆき届いて、爆発なんかあり得っこないな」
 とキツイことをいう。
 春彦はひたすらグラウンドの広さと、校内の廊下や階段ばかりを気にしていて、
「最近の城北は陸上王国といわれてるけど、ここのグラウンド、球技ばっかりに場所とった設計だよ。どういうんだ、あれ。それに廊下がやたらと狭い。冬場のトレーニングはどうしたって校内で、体育館なんてめったに使えないから、廊下走らなきゃならないのに。なんか不安になってきた。ちゃんと筋トレの器具とか、そろってんだろうな」
 すっかり合格した気分で、入学後の部活を心配してるとこがスゴイ。
 俺はというと、緊張するとトイレが近くなるという絶望的な癖があるので、トイレと試験会場になる教室の位置関係を、しっかり頭の中にたたき込んでいた。
「おっ、そうだ。お前ら、お守りはちゃんと持って来たか?」
 教室をまわってるうちに思い出した。どっかにお守りを隠さなきゃならんのだ。
「だいぶ前だけど、お前らもやるっていってただろ」
「そんなの覚えてるもんか。お前、持って来たのか?」
「あったぼーじゃん。お前らは、持って来なかったのかよ」
 春彦も真壁も、けろりと忘れていたらしい。
 仕方がないので、俺ひとりがお守りを隠しに行くことにして、校舎を出た。
 校内は『関係者以外、立ち入り禁止』のロープが多すぎて、隠し場所がおいそれとは見つからないのだ。
 校舎の周囲のどこかに隠すことにして、あちこち場所を物色した。
 そして、校舎の縁の下にお守りを埋めようと決めた。
 地面にしゃがみ込んで穴を掘りながら、俺はボンヤリと中学2年の頃を思い浮かべた。
 あの頃の俺、一生懸命勉強したなァ。イトコの隆正クンに頼んで、家庭教師もしてもらってたし……。
 ハッキリいって、受験期の3年生の時より、ガリ勉した。
 成績を上げたくて必死だったんだ。
 なぜって、いずれ3年になれば、春彦が城北高校を志望するのはわかっていたし、俺も同じ城北に行きたかったけど、落ちたままの成績じゃヤバかったからだ。
 テストのたびに成績順位が上がるのが快感で、もう、ほとんど身も心も勉強に捧げてたな。
 不純といえば不純な動機だけど、でも、人に隠れて家庭教師についたり、ガリ勉したりするのを少しも恥ずかしいとは思わなかった。
 数学の難問がひとつ解けるたびに、ヤッタネ、これで1歩、また近づいたネ、なんて気になって、ほんとは、何に近づいた気でいたんだろう。
 見ているだけの友人。
 ふたりの間に、どれくらいの距離があるのかも計れない、他人といえばまったくの他人の友人。
 なんだかんだで、しょっちゅう口ゲンカはしているものの、それだけでしかない友人。
 それ以上は望みが大きすぎるから、考えることもしなかった。
 短気で怒りっぽくて、すぐに赤面するあいつ。人目につきにくい学校の周りで、ひとりリレーの練習をしていたあいつ。怒りと悔しさと吐き気の中で意識がモウロウとしていた時、『いい加減にしろよ』といってくれたあいつ。
 走る少年。
 オペラグラスを買いに行った日曜日。市営競技場から帰る時、乗り違えたバス。歯を食いしばり過ぎてカケてしまった奥歯。『よほど悔しいことがあったんですね』とからかった、顔見知りの歯医者……。
 そんなふうな風景。
 たくさんの時間。
 それは俺だけの聖域だから、大切な宝だから、誰にも侵されたくないと思う。これからも、絶対に……。
「ふぅー。足かけ3年かァ。我ながら、よく続いてるよな、春彦とのつきあいも……」
 お守りを埋め終わって、汚れた手を水飲み場で洗いながら、俺はふっとひとりごちった。
「風間春彦か……。俺、やっぱり好きなんだな、春彦のこと。ほんとに、心の底から、春彦のことが好きなんだ」
 そう。
 俺は風間春彦が大好きだ。
 いまはハッキリと、それを実感できる。
 そして突然、それを口にしたくなった。なんの臆面もなく。
 15歳になって、こうしていっしょに高校受験して、うまくすれば合格して、また3年間も春彦といっしょにいられる。その信じられない不思議さに、我ながらジンときて、たぶん、感動していたんだと思う。
 ハンカチをさがして、濡れた手でポケットをさぐっていると、不意に後ろの方から手が伸びてきた。
 ビックリして振り返ると、少年が立っていた。
「ハンカチ、ないみたいだからさ。使う?」
 少年はハンカチを差し出していた。
「あ、どうも」
 ほんとはズボンのどっちかのポケットに入ってるはずなんだけど、親切で貸してくれるのを断わるのも悪いと思って、借りることにした。
「どうも、助かったよ」
 ハンカチを返して、ふと見ると、少年はからかうような、奇妙な表情をしていた。
「向陽中なんだな」
 制服と校章を確かめるようにして、その子はゆっくりいった。
「あ、ああ。そうだけど。君は、えーっと、城南中?」
 反射的に制服を見ていったものの、あとの言葉が続かないので黙っていると、
「おい、矢野」
 すぐ頭の上で、声がした。
 見ると、真壁が2階の窓から身を乗り出すようにして、俺を見下ろしていた。
「何やってんだ。早く戻らないと、春彦にまたバカにされるぞ。くだらないことでいつまでも手間取ってるって」
「あ、ああ。いま行く」
 呼ばれたことにホッとして、その子に笑いかけ、
「明日の試験、お互いに頑張ろうな!」
 と早口にいって、その場から立ち去った。
 いつからいたんだろう、あいつ。なんか嫌なヤツだな、黙って人の後ろに立ってるなんてさ。
 まさかあいつ、俺の独り言を聞いたんじゃないだろうな。なんだか笑ってるみたいだったし……。
 校舎に入る前、気になってチラリと見ると、やっぱりまだ水飲み場にいて、こっちを見ていた。
 遠目の所為か、怒っているような、こわい顔つきに見えた。
 春彦たちのいる教室に行くと、帰りにモス・バーガーに寄ろうという相談がまとまっていた。
 とてもじゃないが、明日が受験とは思えない明るさと気楽さで、俺たちはモスに突撃して、思いっきり注文した。
 テリヤキ・バーガーをかじりながら、俺はふと思いついていった。
「おい、明日の試験が終わったら、俺んちで答え合わせしようぜ。TVで速報番組、やるだろ。もし合格したらお前ら、俺がお守り埋めたおかげだからな。忘れんなよな」
「ちぇ、どこまでもお守りにこだわるんだな、矢野は。いつからそんなに信心深くなったんだよ」
「ま、ま、春彦。いいと思うよ、俺は。ついでにみんなで合格祝いやれると思えばいいさ」
「お前もめでたい男だな。落ちた時のこと考えてないのが立派というか」
「大丈夫だって、ゼッタイ合格するって。中学でフルイにかけてるから、競争率1.1倍だっていうしさ」
「お、真壁。強気に出ましたね。その0.1の中に入ったらどうすんだよ」
「お前なァ、モノ食ってる時に、そういう消化の悪いこというなよな」
 なんだかえらく盛り上がって、店内の人たちから変な目で見られるくらいだった。
 俺たちは、城址公園駅前で解散した。
 春彦と俺は帰る方角が同じなので、俺の家までいっしょに歩いた。
 春先とはいっても陽の落ちるのが早くて、あたりはもう薄暗くなっていた。
「なあ、俺たち、受かるよな」
「うん」
 春彦は屈託なく答えた。
「大丈夫だろ、きっと」
「今日下見に来てたヤツらも、みんな受かるといいな。ぜんぜん知らない連中ばかりだったけど、入学したら同級生だなんて、なんか不思議だよな。あいつら、知らん顔してツッパッてただろ」
「だな。緊張してたんだよ、たぶん」
「そういえば、水飲み場で会ったヤツも、そんなふうだったな。きっと緊張してたんだろうな」
「水飲み場?なんだ、それ」
「ハンカチ借りたんだ。水飲み場で手洗ってる時、そいつが親切に貸してくれたんだよ。なかなか場所を譲らないもんだから、ヒンシュク買ったのかもしんない」
「げっ、ヒンシュクなんて漢字、俺、書けないぞ」
「俺だって書けないよ、そんなもん。だってあれ、当用漢字じゃねえだろ」
「ならいいけどさ。うー、まずい。矢野の所為で、また漢字コンプレックスがブリ返してきた」
「ったくもう、人の所為にすんなよな」
 俺は笑った。
 春彦も笑った。
 そのあとはこれといって話すこともあんまりなくて、黙って歩いた。だけど、俺の心は充分に満たされていて、ひどく幸せな気分だった。
 何ヶ月かして、俺はこの日のことを、ある理由から、たびたび思い出した。
 この日の自分のノンキさ、他愛なさがおかしくて、思い出すたびに苦笑いした。
 予感しなきゃいけなかったとすれば、あの水飲み場でだった。
 だけど俺は何も感じず、春彦と、のんきにヘラヘラ笑い合っていたのだ。
 高校に入って、ある予感を感じた時、彼の目はもう、ほんとうにまっすぐに、春彦だけに向けられていて、そのまなざしの激しさに俺は弾き飛ばされそうだった。
 俺は彼の名前を、入学と同時に知った。
 水飲み場で、いつの間にか、音もなく、俺の後ろに立っていた少年。
 たぶん、俺のひとり言に、じっと耳を傾けていた少年。
 彼は、大崎真二郎という名の、少年だった……。
 そのことがあって4日後は、日曜日だった。
 俺は憂鬱な気分で、正午近くに目を覚ました。
 真壁の家に集まる約束は2時で、行くんなら、そろそろ準備をしなければならなかった。
 おとといの金曜日、真壁が困ったような顔でC組にやって来て、
「春彦のヤツ、まだ怒ってるんだよな。まったく、執念深いヤツだ。なんとかなだめすかして、明日、家に来るのを納得させたよ。最近、俺らのグループもギクシャクしてたし、ここいらで仲直りっていうのもヘンだけどさ、3人でパアーッと盛り上がろうよ」
 と耳打ちした。
 俺はあんまり乗り気じゃなかったので、親戚の人が来るかもしれないので行けないかもしれないといっておいた。
 あーあ。最悪の気分だな。
「あっ、おそよう。武クン」
 のたりくたりと階下に降りて行くと、新婚1ヶ月の隆正クンが来ていた。
「いやに遅いんだね。徹夜かい?」
「隆正クンこそ。さっそく、夫婦ゲンカですか」
「何いってるのよ、この子は」
 母ちゃんが笑いながら、俺をたしなめた。
「だって隆正クン、新居は東町だろ?ずいぶん遠いのに」
 イトコの隆正クンは、つい1ヶ月前、7年以上つきあっていたカノジョと、めでたくゴール・インした。
 俺は単なるイトコの分際で、しかも未成年のクセに、結婚式に出席させてもらった。
 もっとも、結婚式の時期そのものは最悪で、俺にとっては、ツライ結婚式だったけど。
「秋本家にね、ああ、秋本というのは嫁さんの旧姓なんだけど、彼女の実家に行くんだ。結婚式の時のスナップ写真ができたから見に来ないかって、向こうのお姑さんに呼ばれたんだ。断るのも角が立つからね。ものわかりのいいダンナのフリするってのも、楽じゃないよ」
「ふぅん」
「で、よかったら武クンも行かないか?それで寄ったんだ」
「なんで俺が?」
「スナップに、やたらと武クンが写ってるんだって。それにお姑さん、武クンのことが気に入ったみたいなんだ。花束贈呈で、君、号泣しただろ。最近の子にしちゃ心根がやさしいお子さんだって、すっかり感心しちゃってるんだよ」
「花束贈呈かァ……」
 あれで泣いたのは、別に理由があったんだけどな。
「どう、行かない?」
 隆正クンは重ねていった。
 その途端、寝起きの悪い頭でも、これで真壁の家に行かなくて済む正当な理由ができたとひらめいた。
 そうだ。
 これなら、真壁も納得してくれるだろうし、春彦もヘンには思わないだろう。
「行く、行きますよ」
 俺は大急ぎで顔を洗い、身支度をしてから、真壁に断りの電話を入れた。
 真壁はビックリしたようだった。
「イトコとどっかに行くって?そんなの断っちまえよ」
「ダメだよ。隆正クンとはめったに会えなくなるから、こういう時ぐらいつきあっておきたいんだ」
「けどさぁ」
「すまんな。今回だけ、見逃してくれ。そのうち、また集まろうや」
 早口でそういって、電話を切った。
 電話のやり取りを隆正クンは笑いながら聞いていた。
「なんだ。友だちとの約束すっぽかして、こっちを優先するのか?無理することないんだぜ」
「いーんですよ。あんまり行きたくなかったんだから」
「ふふふーん。さては、誰かとケンカしたな」
 隆正クンはニヤニヤしながら、ズバリといった。
 俺は黙秘権を行使して、首をすくめただけだった。
 歩いて行くのもバスで行くのもかったるいというので、タクシーで行くことにして、車を呼んだ。
 だけど車に乗り込んでからも、しきりと『なんだよ。どんなケンカだよ』とおもしろそうに訊きたがるので、かわすのに苦労した。
「ケンカじゃないってば」
「嘘つけ。こう見えても高校生だった頃もあるんだぜ。ピンと来るさ。クラーイ顔しちゃって。さては、例の春彦少年にカノジョがデキたな。友だちに先越されて、おもしろくないんだろ」
 ずぅーん、ときた。
 笑ってごまかそうと思ったけど、ま、当たらずも遠からずといったところなので、俺は苦笑いした。
 隆正クンはちょっと眉をひそめた。
「あ、ごめん。まさか、ズバリとは思わなかった。ほんと、ごめんな」
「いーよ、別に。どうせ結婚した男から見たら、高校生になったばかりのガキのトラブルなんか、アホらしく見えるに決まってる」
「そんなことないよ。僕が嫁さんとつきあい出したのだって、ちょうどいまの武クンくらいの年頃だったし。嫁さんは、卓球部の後輩でさ」
「そいでもって、順当にゴール・イン、なんだよね。めでたしめでたしってわけだ」
「荒れてるなあ、そのいい方。らしくないぜ。気を大きく持てよ。そりゃ、高校生ともなると、中学の時みたいに単純にはいかないから、いろいろ問題も起こるんだろうけどさ」
「誠意のない自論ですよね」
 俺は笑いながら、隆正クンをつついた。
 確かに、中学の頃とは違って、いろいろ起こって、起こりすぎて、ひどいもんだ。
 合格発表見て喜んで、どういうわけか春彦が新入生代表で挨拶するっていうんで大騒ぎになって、入学式当日は自分のことのように緊張して――――それでも、希望に満ちてたあの頃は、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
「元気出せって。春彦クンだけが友だちってわけでもないんだろ?もう少し視野を広くした方がいいよ。例えば部活の先輩とかさ。手近なとこで、涼クンなんか、どうかなぁ」
「涼……?」
 俺はボンヤリとつぶやき、ややあって飛び上がりそうになった。
 秋本涼。
 秋本家に行くということは、あの秋本涼に会うということじゃないか。隆正クンの義理の弟。城北高校の3年生に。
 結婚式の時、控え室で紹介されて以来、1度も顔を合わせていないから、だんだん忘れていたけど、第一印象が最悪のヒトだった。
 2度と会いたくないと思ったくらいだ。
 シマッタ……。
 秋本家に行こうといわれた時、当然思い出すべきだったのに、これで真壁んちにいかなくてすむということしか思い浮かばなかった。
 だいたいが寝起きの直後って、ダメなんだ。頭がボケてて……。
 会いたくないな。
 また何をいわれるか、わかったもんじゃない。
 隆正クンには悪いけど、ここで降ろしてもらおう。
「あのう、隆正クン、俺、急用思い出したんだけど。降ろしてくれる?」
「何、トイレ?ちょうどよかった。もう着くから」
 隆正クンがいい終わるか終わらないかのうちに、車は大きな家の前で停まった。
 俺はため息をついた。
 いつもこうだ、俺って。
 肝心なことはその場で思い出せずに、いちばんまずい時に思い出して後悔する。
 俺は覚悟を決めて車を降りた。
 あんなヤツ、無視してやる。
 秋本家のおばさんは、俺たちを大歓迎してくれた。
「よく来てくれたわね、武則くんも。もう一度会いたいと思ってたのよ。花束贈呈の時、おばさんも感動して泣いちゃったもの」
 居間に通してくれながら、ひとしきりそんなことをいって、その合間にインターフォンで、
「涼、隆正さんたち、見えたわよ。降りてらっしゃい」
 と声をかけた。
 緊張してソファの上で身を固くしていると、ドアが開いて秋本涼が入って来た。
 けっこうな長身、ガッシリした体つきで、外見はその辺の大学生やサラリーマンと変わりない。
 この体躯で黒い礼服をピッチリ着て白いネクタイを締めて、ぬうっと俺の前に立った時は、一瞬ヤクザかと思って、さすがにビビッたもんな。
 隆正クンは義弟に気を遣って、『高橋克典の若い時みたいだろ』なんていってたけど、これのどこが高橋克典だよ。もろ、ヤクザじゃないか。ヤ、ク、ザ。
 涼先輩は(ほんとは先輩づけなんかしたくないけど、一応先輩だからな)、俺なんか目にも留めずに、いきなり隆正クンに、
「いらっしゃいませ。母さんに呼ばれたんでしょう。客好きで、人に来てもらって騒ぐのが好きな人なんだ。ホント、ご苦労サマです」
 と、ミもフタもない挨拶をした。
 こういういわれ方すると、隆正クンもおばさんも立場がなくて、顔を見合わせて苦笑している。
 そのまま2階の自室に引っ込めばいいものを、俺の向かいの椅子に腰を下ろして、テーブルにあった新聞を手に取って読み始めた。
 高3ともなると、そういう大人の男みたいなしぐさがけっこうハマッていて、意外な気がした。
 おばさんは気を取り直して、奥の部屋からドッサリとアルバムを運んで来た。
「ねぇねぇ、これ見てちょうだい。スナップがとてもよく撮れてるの。記念写真は隆正さんも見てるけど、これは初めて見るでしょう?」
 確かに、記念写真の方は隆正クンもお嫁さんもいかつい顔して、いかにも記念写真してるけど、控え室や披露宴のスナップは意外なのが多いし、いきいきした表情をとらえていて、なかなかにおもしろい。
 それにとても鮮明で、よく撮れている。
「きれいですね。これ、本職の人が撮ったんですか?」
「あら、いいえ。涼と、わたしの兄のふたりで撮りまくったのよ。ほら、ちょっと涼、きれいに撮れてるって、誉めて下さったわよ」
「デジカメで撮っただけだよ、それ」
 涼先輩は新聞から目を離さず、面倒くさそうにうなった。
「ほら、これ、武則くんでしょう?けっこう、あちこちに写ってて、もったいないから焼き増ししてあるの。あとであげるわね。ほら、これ、花束贈呈で泣いてるとこよ。涼がシャッター・チャンスとばかりに、連写してるのよ。懐かしいでしょ、武則くん」
 おばさんは人のよさ丸出しで、アルバムをめくっては1枚1枚説明してくれた。
 だけど、俺はだんだん気が重くなってきて、うかつに隆正クンにくっついて来たのをしみじみ後悔し始めていた。
 どの写真も、写真の中の俺は精一杯の笑顔で、これ以上は笑えませんというくらいの元気印だった。
 たぶん、結婚式の間じゅう、俺はそんなふうにあちこちで愛想を振りまいていたのだろう。
 でも、本当はあの時、俺はとてもつらかった。
 結婚式があった日の何日か前、もう思い出したくもないから何日前か正確なことは忘れたけど、風間春彦と大崎真二郎のキス・シーンを見てしまったんだ。思いがけなく。
 ―――――思いがけなく?
 そうかな。
 あれは本当に、“思いがけないこと”だったんだろうか。
 俺はずっと、いつ頃からかはわからないけど、ある程度、予期していたのではないだろうか。
 真二郎と春彦の間にある、緊張した何か。
 俺が立ち入れない何かを感じて、ずっとビクビクしていたんじゃないだろうか。
 だからむしろ、あのキス・シーンを見て、妙に納得しているところがあった。ああ、やっぱりそうか、と。
 根拠もなくあれこれ考えるのとは違って、あの決定的な瞬間はひどく説得力があって、俺を不思議に落ち着かせた。
 もう、あれこれ気をまわしたり詮索したりするような意地汚い真似はしなくてすむのだと、安心しているところさえ、あった。
 だから、大きなショックを受けて、身も世もない悲嘆に沈み込んでしまうということにはならなかった。
 けど、それはとても危険なことだった。
 なぜなら、悲しみもショックも小間切れになって、あとからチビリチビリとブリ返してくるからだ。いつまでも尾を引いて、ことあるごとに胸の中で疼いてしまう。
 結婚式の日はちょうどそんなふうで、月曜日から金曜日まで、学校で春彦や真二郎と顔を合わせるたびに緊張していたから、土・日ともなると気が抜けていた。
 なのに、せっかくの休日に華やかな結婚式があって、暗くなってもいられない状況で、それで一層しんどかった。
 花束贈呈の時、隆正クンがあんまり幸せそうに笑うので、ふっと気が緩んでもらい泣きしてしまったんだ。
 こうしてあらためて写真を見ると、笑っている写真はどれもこれもわざとらしいつくり笑顔の気がして、自分でも空々しい。
 結婚式の日、俺の心を占めていたあの感情、そして、それによく似たいまの感情が急に生々しく思い返されて、俺はちょっと青ざめた。
 どだい、こういう時に因縁のある結婚式の写真なんか見るべきじゃなかった。
 あれこれ理由をひねり出して、帰ってしまおう。
 そう思って顔を上げると、いつの間にか隆正クンもおばさんも台所に行って、何やかやといい合っている。
「そんなお気を遣わないで……」
「いえ、つまらないものですから……」
 といったやり取りをしているところをみると、おみやげに持参した菓子折りを挟んで、ふたりでお茶の用意でもしているらしかった。
 困ったなと居間にボンヤリ目を移すと、新聞の陰から、じっと俺を凝視している涼先輩と目が合った。笑ってるみたいだった。
 また何か意地悪をいわれそうだ。
 涼先輩は立ち上がって、俺の前に立った。
 俺はビクビクして見上げた。
 もし、あの時みたいなことを、いま、ここでいわれたら、今度はただじゃすまさない。
 感情が高ぶってるから、自分でも、何をしでかすかわからない……。まずい……。
「母さん。武則くんを借りるよ。ピンボケした写真も見たいんだってさ」
「え、そうなの?」
 台所で、おばさんが返事をした。
 あっけにとられている俺の腕を引っ張って、涼先輩は俺を2階に連れて行った。
 まさに連れ込まれるといった感じで、俺は涼先輩の部屋らしい場所に引っ張り込まれた。
「なんなんですか。ピンボケの写真なんか見たくないっすよ、別に」
「そうビクビクするなよ。とって食おうっていうんじゃないんだから。むしろ感謝して欲しいくらいだね。泣きそうな顔してたから、連れ出してやったんだぜ。あそこで泣いたら、花束贈呈の時みたいには理由がつかないだろ。それとも、写真見て思い出し泣きしたとでもいうつもりだったのかな?」
 俺はカッとなって、唇をかんだ。
 なんでこの人は、こんなズケズケした意地悪なもののいい方をするんだろう。
「君、気が弱いの?そうじゃないだろ。勝ち気なんだろ」
「そ、それがどうしたんですか」
「なのに俺にビクついてるのは、よっぽどあの時のがこたえたんだな」
「それは……」
「“失恋でもしたのか。フラれたばっかりですって、ヒネたツラしてんだな”」
 涼先輩はあの時いったセリフを、俺の反応を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
 花嫁の控え室に行って新婦におめでとうをいっている時、涼先輩はその場にいた。
 いよいよ式が始まるというので控え室を出ようとした時、彼は初対面の俺に向かって、いきなりそういったのだった。
 俺は顔色が変わるのを感じて、絶句した。
 すると彼は面白そうに目を見ひらき、ますます言葉を鋭くして、
「へぇー、図星なんだ。まさか花婿にってことはないだろうから、相手は花嫁かな。しかし、ともかく失恋したてなわけだ。そういう時に結婚式なんて、しんどいんじゃないの?健気で泣かせるね。無理してはしゃいでさ」
 といってゲラゲラ笑い出したのだった。
 俺は我慢できずに、その場を走り出した。
 うーむ。思い出せば思い出すほど、憎ったらしいヤツだ。
 憎らしいことは確かだったが、その後の花束贈呈でもらい泣きして感情がメチャクチャになった所為で、しつこく覚えていることはなかった。まして、学校は同じ城北でも、3年生と1年生じゃ校内では1度も顔を合わせることもなかったから自然と忘れてやってたのに、なんだってそれを思い出させるんだ。
「君、また顔色が変わってるよ。おもしろいくらい顔に出るんだな。そのくせ隠そうとするとこがせこくて、ついイジメたくなるんだ。すぐムキになるとこもおかしくてさ」
「帰る」
「まあ待ちなって。ホントに写真、見せてやるよ」
 涼先輩は机の引き出しを引っかきまわして、10枚近い写真を出し、俺に放ってよこした。
 俺は渋々ベッドの端に腰かけて、見るフリだけでもすることにした。
 弱みを握られてるような気がして、ヘタに逆らえない感じだった。
 写真はどれも俺のスナップで、だけど階下で見せてもらったアルバムのスナップとは違い、みんな薄ボンヤリとした疲れた顔をしていた。
 笑いながらも時々フッと気が緩んで、つい憂鬱そうな本来の顔をしているところを狙って、盗み撮りされたらしい。
 隠しておきたいこと、秘密にしておきたいものを容赦なく引きずり出しておもしろがる、嫌な人間だ、涼先輩は。
 人の心に土足で入り込むというのは、まさにこういう行為をいうのだろう。
 だけど、俺はもう、怒る気になれなかった。
 涼先輩はどうしてか、たぶん人知を越えた前世の因縁かなんかで、俺に悪意を持っていて、俺をいびるのが快感になっているのだろう。
 勝手にしやがれ、てんだ。
「よく撮れてるだろう」
「将来、カメラマンになるつもり?」
「いや。医学部志望だ」
「ああ、それでか。それでこうやって、受験勉強の合間に、息抜きやってんだ。……けど、悪趣味もいいとこだよな、これって」
「怒ってるの?」
「あたり前だろ。少なくとも、喜んではいないよ」
 俺は力なくいって、小さく笑った。
 不意に、こんなところで俺は何をやってるんだと、自分が情けなくなったのだ。
 俺に悪意を持ってる根っからのサディストなのか、いうことやることすべてが意地悪な3年生の前に引きすえられて、ヘビに睨まれたカエルみたいに身を縮こませて、俺はほんとに、何をやってるんだろう。
 こんなことなら、真壁の家に行けばよかった。
 春彦はこのところ屈託がないから、もしかしたら真二郎のことだって、いろいろ冗談まじりに正直に話してくれたかもしれない。
 少なくとも、嘘はいわないだろう。そう、あいつはいつだって、嘘はいわない。
 でも、結果論からいえば、それでも同じことなんだ。
 何を聞いても、それが俺にとってどんなに都合のいいことでも、いまの俺の中にある感情は、決してゆらがないだろう。ますます醜く、凝り固まっていくだろう。
 それがわかっていたから、今日の集まりには行きたくなかったんだ……。
 …………事実そのものは、ひどく単純なことだった。
 4日前の体育の授業で、俺たちは軟式テニスをやった。
 俺と決勝戦をやっていた真二郎が、急にバランスを崩して転倒した。
 コートを取り囲むように観戦していた集団の中から、春彦が真っ先に駆けて来た。
 俺たちは真二郎を抱きかかえるようにして、保健室に連れて行った。
 それだけのこと、だった……。
 でも、彼が――――大崎真二郎がコートに倒れて、みんなの視線が彼に集中したあの瞬間から、俺は全神経を春彦に傾けていたような気がする。
 春彦が、来るかもしれない。
 真二郎の異変を察して取り乱し、なりふりかまわず駆け寄って来るかもしれない。あの時、みたいに……。着替えのジャージを、放り投げるようにして……――――。
 春彦が中学2年の時、陸上の競技会で事故があった。
 男子100メートルの決勝で、トップだった選手が転倒したのだ。
 春彦は着替えのジャージを放り出して、その選手のもとに走って行った。
 俺は、その一部始終を見ていた。
 あの時、春彦には、その選手のことだけがすべてだった。そんなふうな、走り方だった。
 あの時の中学生は、大崎真二郎かもしれない……。
 高校に入ってしばらくするうちに、俺はそう思うようになっていた。
 だとしたら、今度も春彦は走って来るかもしれない。あの一途な、本当に一途すぎる、風間春彦という少年は……。
 そう思って顔を上げると、やっぱり彼は走り出していた。
 彼の視線は俺を素通りして、真二郎だけに向けられていた。切羽詰まった、厳しい目をしていた。
 ああ、そうか、と俺は思った。そうなんだな、やっぱり、と。
 何が“そう”で、何が“やっぱり”なのか、あとで考えるとよくわからないんだけど、その時は、妙に納得してたな。
 そんなふうに上手に納得してる自分が、なんだかとても嫌だった。
 春彦とふたりで真二郎を保健室に運んでから、俺はあわてて保健室を出た。
 春彦は真二郎のケガの具合をひどく心配して心を奪われてたみたいだし、真二郎は何か考え込んでいるようだった。
 ふたりの間には張りつめたものがあり、そこに俺の立ち入る場所はなかった。
 ふたりの間に何があったにしろ、それはふたりだけの問題だった。
 俺が立ち入っていいものじゃなかった。
 だから、ふたりを残して保健室を出た。
 ……いや、違う。
 逃げ出したんだ。
 バカな男だ、俺は。あのまま居すわってやればよかったんだ。そうすれば、よかったんだ。
 だけど、それはできなかった。俺は逃げ出してしまった。
 そして今回も、真壁の誘いから逃げ出して、うまく逃げ切ったと安心していたら、こんなところでサディストのカメラマンに捕まって、ねちねちイビられ、青ざめてるわけだ。
 滑稽な話だ。
 結局、逃げ切れるものじゃないんだ。
 そろそろ、認めなきゃならない。
 走って来る春彦を見た時から、俺の心を占めていた唯一の感情。2年前に初めて味わった特異な感情。つまり、人を好きになった以上、どうしても避けられないもの、嫉妬ってものを。
「どうした。顔がピンボケってるぞ。いまにも泣きそうだな」
 相変わらす涼先輩の口調は興味本位で、からかい気味で、思いやりのカケラも感じられなかった。
 おかげで俺も心おきなくベッド・カバーをひっぺがして、思いっきり鼻水をすすり上げることができた。
「体格がいいと、内面もダイナミックなんだなァ。あれから1ヶ月も経つってのに、まだ失恋のショックから立ち直ってないのか。よほど手ひどくふられたらしいな。お前、どういう失恋の仕方したんだ」
「聞きたきゃ教えてやるよ。オトコが走って来たんだ。オトコが転んだから」
 初めて、冷静で酷薄で無遠慮なサディストが、ビックリしたらしく口ごもった。
「それが……どうしたっていうんだ」
「どうもしないよ。さっさとカメラの用意して写せよ。俺はそれで、完璧にヘコんだんだ。そのオトコに嫉妬して、半分やけっぱちになって……。涼先輩、嫉妬って、したことありますか」
「え、嫉妬?あ、まあ、少しは……」
「メチャクチャ嫌なもんだよ。夢にまで見るくらい。俺はあれから、ずっと嫉妬し続けてるんだ。そんな自分が嫌で、時々、こんな気持ちを味わうくらいならあきらめてやる、そう、叫びたくなるんだ……」
 春彦は走って来た。
 彼は真剣だった。必死だった。
 俺にはそれが、よくわかった。彼が走る姿を、ずっと見てきたから。
 投げやりに走る時もあったし、疲れて足が重そうな時もあった。
 でも、あの時、彼は真二郎に向かって、懸命に走って来た。
 俺は青ざめて、ガタガタ震えていたと思う。
 近づいて来るはずの彼が、どんどん遠ざかって行くような錯覚に、足がすくんでいた。
 春彦がテニス・コートに駆け込んで来た時、俺は思わず、目をつむった。
 あの時からずっと、俺は大崎真二郎という男に、完璧なまでに嫉妬している……。

 俺が彼を気にとめたのは、入学式の時だった。
 新入生代表で春彦が挨拶をすることになっていて、彼は意気揚々と、壇上に上がった。
 ところが、いざという時になって、顔を真っ赤にして絶句してしまった。
 挨拶の言葉を忘れたのかもしれない。だからカンニング・ペーパーをつくっておけと、あれほど忠告してやったのに。
 俺は自分のことのように、ヤキモキした。
 でも、どうも春彦の視線がヘンなところに行っていて、動かない。
 不思議に思って先をたどると、俺と同じ列に並んだ、ずいぶん前の誰かを見ているみたいだった。
 誰を見ているのか、その時はわからなかったけど、体育館はザワつくし、センセーや来賓席のオッチャンたちもそわそわし始める始末で、俺も生きた心地がしなかった。
 よほど人をかき分けて壇上に駆けのぼり、春彦の代わりに新入生代表の挨拶というのをやってやろうかと思ったほどだった。
 そのうち、春彦が俺の方を見たような気がしたので、“風間!頑張れ!しっかりしろ!”というようなことを、口を大きく開けて伝えた。
 ようやく気を取り戻した春彦は、なんとか挨拶らしいことをひと言ふた言つぶやいて、壇上を降りた。
 何はともあれ無事にすんでホッとした俺は、ふと、列の前方にいる男子生徒を認めた。
 彼は体の向きをねじるようにして、列からはみ出すようにしてこっちを見ていた。ずいぶん離れていたので遠目にしか見えなかったけど、笑っているようだった。
 入学式が終わってすぐ、体育館の男子トイレでバッタリ会った真壁はゲラゲラ笑いながら、
「俺さァ、さっき、春彦じゃなくてお前ばっかり見てたんだよな。矢野ってば、赤くなったり青くなったり、ネクタイつまんで引っ張ったりジダンダ踏んだり、ものすごい百面相してたもんな」
 といった。
「そんなに、おかしかったか?」
「もうサイコーだよ。一生懸命やってる人間を斜めから見るくらいおかしなものはないってのは、ああいうのをいうんだな、きっと。お前が本気で春彦を心配してるのはよくわかったんだけど、それでも笑えた」
 真壁は無遠慮にも、喉をひぃーひぃー鳴らして笑っていた。
 俺はごく自然に、さっきの男子生徒を思い浮かべた。あいつも、俺の様子がおかしくて笑っていたのかもしれない、そう思った。
 ともかく真壁とふたりして、挨拶でしくじった春彦をなぐさめに行こうということになり、新しく発表されたばかりのクラス分けに従って、俺と春彦のクラス、つまりはC組に行った。
「あ、真壁」
 隅っこの席で小さくなって座っていた春彦は、俺たちを見るなり、ふてくされ顔でやって来た。
 先ほどの弁明を、ぶちまけたくて仕方がなかったらしい。
「あったまくんな。もう、だからやりたくなかったんだ、新入生代表の挨拶なんか。しっかし、なんで俺なのかな」
「いいじゃないか。一生に1度の記念なんだから」
「そうそう。センセや新入生に風間春彦って名前と顔をしっかり覚えてもらえたんだし」
「どうせなら、ビデオかなんか持って来ればよかったな。あとで真壁んちで“風間春彦のビデオを観る会”とか、やれたかもしれないのにな。あ、なんかヒワイだな、このいい方」
「しまいにゃ本気で怒るぞっ、お前ら」
 戸口の近くでそうやって話していると、C組の教室内から声がかかった。
「よっ、挨拶でトチった風間ちゃん!さっそく保護者のお出ましか?」
「ぬかせっ!こいつらは中学ん時からの悪友だ。保護者のわけねえだろ、あほっ」
 春彦がまたムキになって反論するもんだから、教室内はどっと大爆笑になった。
 高校に入学したというのに、相変わらず短気な性格してるな、春彦は。向こうは冗談でいってるんだから、そうムキになることはないんだ。
 おかげで、からかいの的は俺たちにまで飛び火して、
「おい、どっちがオヤジで、どっちがおふくろさんなんだよ」
「まさか、3人いっしょに寝てんじゃないだろうなぁ」
 などとヤジを飛ばされて、こっちまで真っ赤になった。
「矢野。いつまでもそんなとこに突っ立ってないで、早く中に入れよ。C組なんだろ、お前。それから真壁も、早く自分の教室に戻れ。あんまし、こっちに顔出しすんなよな」
 小声でそういったかと思うと、春彦はさっさと教室の中に引っ込んだ。
 教室の中でも、周りの男子にいいようにからかわれて、ナンダカンダといい合っている。
「これじゃ中学ん時と変わんないな。風間のヤツ、みんなに可愛がられてさ」
「いやにうれしそうにいうんだな、矢野。まるで自分のことみたいに」
「うん?そりゃそうさ。だって風間は、俺の親友だからな。親友が可愛がられてるのを見て、うれしくないはずないだろ」
「親友ってお前、いつからだよ」
「いつからって、ずっと前からさ。とりあえず今年1年間は、おんなじクラスなんだし」
「……ふ、ふぅん。ま、まあいいや。もうすぐセンセが来るから、あとでな」
「おぅ」
 俺と真壁がそんなことをいいながら戸口を離れかけた時、目の前に、さっきの男子生徒が立っていた。
 そいつは俺と真壁の間をすり抜けるようにして、C組の教室に入って行った。
 ちらりと見えた横顔は、笑っているような怒っているような、奇妙な表情だった。
 これと似た情景を、俺は以前、どこかで経験したような気がした。
 いつだったか、俺が思わず春彦の名前をつぶやいてひとりごちっていた時、ふっと現れた少年。
 焦れたような目で、俺の学ランの校章を見て……。
「なあ、真壁。いまの、試験の時だっけか、いや、違うな、お守り埋めに行った時だから、その前の日だ。そうそう、俺にハンカチ貸してくれたヤツじゃないか?」
「なんだよ、それ」
 真壁は興味がなさそうだった。
 極端に人見知りで、良くいえば個人主義、悪くいえば他人に興味のない真壁は、自分の興味の対象外にはおよそ注意を払わない。
 まして、1度見かけたか見かけないかという男のことなんか、いちいち覚えているはずもなかった。
 俺も自信がなくて、その時はそれっきりだった。
 やがてクラスの担任が来て、お決まりの自己紹介が始まると、さすがに緊張するやら何やらで、彼のことはもう、俺の意識の中から薄らいでしまっていた。
 それから2日後に、初めての体育の授業があった。その日は放課後に、各部活の入部テストが行なわれた日だったから、よく覚えてるんだ。
 準備運動から始まって、柔軟体操に整理と、体操づくしを1時間みっちり、やらされた。
 何しろ高校入学前後の2、3ヶ月はろくな運動もしていなかったので、俺もみんなも、何かひとつやらされるたびに、ひえー、いってえー、げぇー、きっつぅーっとわめき散らしてばかりだった。
 ところが、俺と組んで前身屈をやったり腹筋・背筋運動をやったりしていた例の男子生徒は、終始無言で、黙々と、しかもNHKの体操のお兄さんばりの柔軟さで、みごとにこなしていった。
 どこか、日頃から特別に訓練されでもしたかのような、そんなふうな身のこなし方だった。
「なあ、何か運動でもやってたのか?ずいぶんやらかい体してるんだな」
 あんまりみごとな体操ぶりだったので、思わず訊いてみた。
 だけど、そいつは聞こえていないのか、何も答えなかった。
 え?とか、訊き返すこともしなかった。
 こういうことは2度繰り返して訊くほどのことでもないので、俺も黙った。
 つまり無口なヤツなんだと納得はしたけれど、心のどこかに引っかかるものがあった。
 授業後の更衣室は、授業前とは打って変わってにぎやかなものだった。
 2クラスの合同授業で同じ汗を流した連帯感というのか、いっしょにワイワイいいながら体操したD組のヤツらと、すっかり友だち気分に盛り上がっていた。
「なあ、矢野、だっけ。お前と風間ちゃんって、E組の真壁健一とは、仲がいいんだろ?」
 同じC組の男子が、体の汗をシャツでぬぐいながら訊いた。
 俺は着替えの手を止めて、そいつに向き直った。
「ああ。確かに真壁は、風間と共通のツレだけど、それがどうかしたか」
 近くにいたD組の男子が聞き耳を立てるように、背中越しに俺たちを振り返った。
「実は、俺のカノジョがさ……。E組の桜井って子なんだけど、どうも真壁に、気があるみたいなんだ。入学式の日からこっち、急に態度が冷たくなったんで、きのうの帰りに問いつめたら、そういうんだ。同じクラスの真壁ってヤツのことが、気になってるって」
「なんだよ、ひと目惚れか。新学期早々、えらい災難だな。けど、珍しくないんだぜ、そういうの。真壁はあの通り、ルックスが抜群にいいからな」
「カオがいいってのは、俺も認めるけどさ。だけど、矢野の口からいっといてくれないかな。その桜井って子がコナかけて来ても、相手にしないで欲しいって」
「俺からも頼むよ」
 じっと聞き耳を立てていたD組の男子が、さりげなく話に割り込んできた。
「こいつ、同じ中学のツレなんだけどさ、桜井とは、もう3年も続いてる仲なんだ」
「へえー、3年かぁ。けっこう続いてんだな。……いいよ、わかった。俺も真壁とは長いつきあいだし、俺から釘を刺しとけば、ヘタな真似はしないだろ、あいつも」
 俺は首をすくめた。ま、この場合それしかいいようがないし、それがいちばん良心的だろうと思っていた。
 少なくとも、クラスの他の誰かよりは、俺や春彦の方が真壁と仲がいいのは事実なんだ。
「ありがたい」
「恩に着るぜ、ほんと」
「いいっていいって。それより、風間に関しても似たような問題で悩んでるヤツがいたら、その時は俺にいえよな。相談に乗るから。真壁に限らず、俺は風間のことならなんでも知ってるし、力になれると思うぜ」
 こういう話題の時の常として、いささか軽薄にぶち上げてみせると、そいつらは予想どおり、マジで安堵したみたいだった。
 もちろんホンネをいえば、俺は“風間のことならなんでも知ってる”わけではなかった。それは自分でも、よく承知していた。
 これはどこまでも、ひとつのポーズのようなものだったのだ。
 だから更衣室を出てボンヤリと廊下を歩いていた時、後ろから来た彼が追い越しざまに、
「ほんとに風間のこと、なんでも知ってるのか?ほんとに?」
 とささやいた時は、ビックリした。
「え?」
 と思わず訊き返した時にはもう、彼は俺の前をずんずん歩いて行った。
 一瞬、聞き間違いかとも思ったけど、低い静かな声も言葉も、俺の耳に鮮明に残っていた。
 でも、やっぱり聞き間違いかもしれなかった。
 それ以後、彼は同じクラスでありながら、1度も話しかけては来なかったし、それどころか、放課の時もずっと文庫本を読んでいて、ひとり沈黙を押し通していた。
 俺が人見知りしない性格で、どちらかといえば騒々しく、つまり、誰とでも気兼ねなくしゃべる性格の所為か、まったく口をきかない彼のことがひどく不気味で、かえって気になった。
 彼の沈黙は、無口というよりも、無視に近かった。
 でも、なんかヘンだな、と漠然と感じてはいても、それの根拠を突き詰めるには、あまりにも材料が少なすぎた。
 つまるところ、何がなんだかわけがわからないというのがホンネで、ただ時々折に触れては、気になるというに過ぎなかった。
 それにその頃、いつも元気ハツラツだった春彦が妙に沈んでいて、どうもおかしな様子で、そっちの方が気になっていた。
 もしかしたら5月病かもしれないと、真壁と話していたくらいだった。
 それが、目からウロコが落ちるというのか、目の前がぱあっと開ける感じで、あっけないほど簡単に理解できたのは、ゴールデン・ウィークも過ぎた、5月だった。
 ある日、俺は沈みがちだった春彦を元気づけてやりたいと、彼がひそかにあこがれ、目標にしていた陸上部の3年生、大崎孝一郎先輩を教室に呼んで、いっしょに弁当を食う計画を立てた。もちろん、あとからひがまれても困るので、そのメンバーには真壁健一も加えてやった。
 当日の昼休みは、近くにあった机を寄せ集めて大テーブルをつくって、4人が向き合うようにして座った。
 あこがれの3年生、大崎孝一郎先輩を前に、春彦はひどく緊張していて、ろくにメシも喉を通らないといったふうで、
「やっぱり場違いだったかな、俺がのこのこ入り込んだりして。1年のツレ同士、水入らずでメシ食った方がよかったんじゃねぇのか?」
 と、逆に孝一郎先輩のほうが俺たちに気をまわすほどだった。
「よぉっ、どこに行ってたんだよ」
 ふいに孝一郎先輩が声を張り上げたので、俺も釣られてそっちに目をやった。
 教室の入り口のところに、彼がボンヤリと立っていた。
 彼とこの孝一郎先輩とは実の兄弟で、俺がその事実を知ったのは、陸上部に入部して、しばらく経ってからのことだった。
「何やってんだ。早くこっちに来て、お前も弁当食えよ」
 彼は小さくうなずいて、偶然空いていた春彦の後ろの席に座った。
 春彦はますます口数が減って、凝り固まったように黙り込んでいた。
「どうした風間。俺が隣りにいるのが、そんなに気に入らないのか?」
 孝一郎先輩が弁当箱をつつきながら、春彦の機嫌をうかがうようにしてのぞき込んだ。
「まさか、そんなことは……」
 春彦はうろたえて、もごもごと口ごもった。
 見てられなかった。
 そんな態度は、ぜんぜん春彦らしくなかった。
 そうこうするうちに誰かに呼ばれて、春彦が席を立った。
 春彦が教室を出て行くのを見計らって、
「風間の様子がヘンだってのは、どうやらホントのことらしいな、矢野」
 孝一郎先輩が声のトーンを落として、ポツリといった。
「ええ。あいつ、ここんとこ妙に落ち込んでて、俺にもわけがわからなくて」
「そっか。……でも、まあ、そんなに深刻に考えることもないんじゃないのか?まだあいつは高校に入学したばかりで、新しい環境に慣れてないだけかもしれないし……。とにかく、お前ら3人、これからも仲よくやれよな。こういう時に頼りになるのは、センセイでもセンパイでもない。やっぱ、そばにいる親友だから」
「はい」
「孝一郎先輩。矢野は春彦の親友ってわけじゃ、ないっすよ」
 真壁がいう。
「なんだ、それどういう意味だよ。真壁」
 俺は訊き返した。
「春彦は、そんなふうに思ってないってことさ」
「そうかな。とりあえず俺はいま、お前よりあいつのそばにいるんだけどな。部活だっていっしょだし」
 ふざけて、すまして答えると、真壁はあてつけるようにクスクス笑った。
 実際、こっちがハラハラするほど、真壁は春彦と仲がいい。だからこういう時、自然と俺のほうも、ムキになってしまう。
 と不意に、後ろで、乱暴に椅子を引く音がした。
 何気なく振り返ると、彼が――――孝一郎先輩の弟が、立ち上がったところだった。俺と真壁の目が合った。
 ついさっき、彼の机と椅子を借りたので声をかけたけど、やっぱり無視された。
 みんなとのおしゃべりに気を取られて、彼のことは忘れていたけど、ずっとその席にいたのだろうか。
 そして、もしかしていまの話を聞いていた?
 春彦をめぐっての俺たちのやり取り。
 親友の立場を争うようにする俺たちの会話。
 それを聞いていたのだろうか。
 いつも無口で、無表情で――――というより材料が少なすぎて何を考えているのかいまひとつ読み取れなかった表情が、その時、ハッキリとひとつのことを表していた。
 つまり、敵意、だった。
 その瞬間、俺の中で、パズル・ピースみたいにバラバラだったいくつかの事実が、すべてつながった。
 もしかしたら彼は、水飲み場の近くを歩いていて、俺がつぶやいたひとり言の切れ端に“春彦……”という言葉を聞きつけ、立ち止まったんじゃないだろうか。
 入学式の日、壇上にいる春彦の視線を追った彼は、そこに俺や真壁がいるのを見つけたんじゃないだろうか。
 更衣室で、俺がさも自慢げに“風間のことならなんでも知ってる”といい切ったのを耳にして、黙っていられなかったのではないだろうか……。
 それらは、既にして、ふたつのことを示していた。
 彼が春彦を意識しているということ。
 そしてもうひとつは、それは少なくとも高校に入る前からだということだった。
 試験の前日に、春彦の名前を耳にして立ち止まったからには、その時にはもう、風間春彦の存在を知っていたということになる。
 気がついてみれば、ひどく簡単なことだったのだ。
 2、3日のうちに、俺は彼の目が春彦を追っているのを認めた。
 ところで、見られている春彦の方はどうなんだろう。
 彼は高校に入る前から、風間春彦を知っていたらしい。では、風間春彦は彼のことを知っているのだろうか。
 春彦は俺が知っている限り、中学時代は塾にも行かず、遊ぶか走るか、ほんの少し勉強するかだった。
 違う中学の男子と知り合うような機会があるとは、思えなかった。
 でも、わからない。
 春彦はよく、真壁とふたり、たまには俺もいっしょに、卓球場に通ったりもしている。そこで他校の生徒と知り合う可能性も、ないとはいえなかった。
 ―――――ほんとに風間のこと、なんでも知ってるのか?ほんとに?
 あの言葉が新しい意味を持って、俺の胸によみがえって来たのは、その時からだった。
 あれは、ただ単に俺の軽薄な冗談に反発したのではなくて、お前の知ってる風間春彦はほんの一部分に過ぎない、彼にはもっと、お前の知らないことがあるのだという、忠告だったのかもしれない。
 とすると、春彦が彼を知っているのは、充分にありそうな話だった。
 それにしては、春彦が1度も彼のことを口にしないのがわからない。
 春彦の性格からして、クラスに知ってるヤツがいたら、『あいつ、ちょっと知ってんだ』ぐらいのことはいいそうだった。
 ふたりの間に何かがあって、それでいわないのだろうか……――――。
 なんとなく、なんとなくだが、入学以来、春彦の様子がおかしいのがわかってきたような気がした。
 それは単なる勘といえば勘でしかなかったが、それだけでもなかった。
 ふたりの間には、知ってる者同士の挨拶とか気軽さといったものが、まったくない。むしろ、避け合っているみたいだった。
 それはかえって、ふたりの間にある緊張した何かを感じさせた。
 でも、すべてが俺の思い過ごしといわれれば、反論もできなかった。
 これといった確実なことは、何ひとつなかったのだ。
 だから、なおのこと、俺はどうしていいのかわからずに、ただ傍観するばかりだった。春彦に、訊くこともできなかった。
 ある日、俺はグラウンドの隅のベンチに腰かけている真壁を見つけた。
 真壁は入学早々、駅伝部に入部していて、いつからか休憩がてらにそこに座って、じっとグラウンドを眺めるようになっていた。
 ベンチのある場所からは、トラックを走る春彦の姿がよく見える。
 近頃は、その回数がめっきり増えていた。
「なあ真壁。ものは相談なんだけど」
 遠くに春彦を眺めながら、俺はボソボソといった。
 ひとりであれこれ想像ばかりしていても進展しないので、思いきって真壁の意見を聞こうと思ったのだ。
「なんだよ。いま忙しいんだよ」
「忙しいったって、そこで休んでるだけじゃねえか」
「まあな。で、相談って、なんだ」
「春彦と、あいつって、どういう知り合いだか、お前、知ってるか?」
「え、あいつって?」
 グラウンドを眺めながら、真壁がうわの空でいった。
「まあ、それはあとでいいか。つまりだな……」
 不意に、俺は言葉を切った。
 小指の先ほどの人影だけど、間違いなく彼がグラウンドに出て、顧問のセンセーや陸上部員たちに囲まれているのが目に飛び込んで来たのだ。
 陸上………。
 そういえば、彼の体は訓練されたもののように柔らかく、入学した時から、運動部向きだった。
 もし、あの時の陸上部員が彼だったなら……――――
 春彦は中学の3年間、地区の陸上競技会に400メートルの選手として出場していた。
 俺も砲丸投げで一応出たけど、春彦の試合は、3回とも見に行っていた。
 1年の時は無自覚に、2年3年の時は、いくらかの決意と自覚をもって。
 なぜなら、1年の時の陸上競技会は俺たちフィールドの競技が1日目に行なわれたけど、2年3年の時は2日目で、春彦の試合を見るためには、最後の調整練習をサボらなければならなかったからだ。
 わりと平均的で常識屋の俺が、最終調整をサボるにはけっこう勇気がいった。もっとも、結局はサボってしまったんだけど。
 心にあったのは、ただ、春彦のいちばんカッコいいところが見られるという、わくわくするような思いだった。
 けれど、1年の時は競技場の広さというものに慣れてなくて、トラックを走る選手の顔も見分けがつかないほど、遠くの観客席に陣取ってしまった。だから、翌年の中2の時は前の日にオペラグラスを買いに走って、なるべく前の方の列で観戦するようにした。
 買ったばかりのオペラグラスは、遠くの春彦を拡大して映してくれた。安物だったので少しボヤけていたけど、それでもうれしかった。
 春彦の競技はあっけないくらい早く終わって、俺はそれでもオペラグラスを離さなかった。
 異変が起こったのは、その時だった。
 テントの陰で着替えていた春彦の顔に、奇妙な空白ができた。
 次の瞬間、それは驚きに変わり、春彦は着替えのジャージを放り出して走り出していた。
 俺はビックリして、思わずオペラグラスを離し、背伸びをするようにして、肉眼で何が起こったかを確かめようとした。
 走り出した春彦の顔には、かつて見たことのない切実な表情が浮かんでいて、ただごとではない気がしたのだ。
「事故だ」
 近くのベンチに腰かけていた人が、いった。
 俺はとっさに春彦の身に事故が起こったのだと思って、青ざめた。
 オペラグラスは限られた範囲しか映さないので、レンズの外のことはまるで念頭になかったのだ。
 でも、違っていた。
 トラックで男子100メートルの決勝が行なわれていて、そのうちの誰かが転倒したらしいのだった。
「トップだった子だぜ。むげぇなぁ」
「足、おかしくしたんじゃねぇか。肉ばなれか。いや、足首ひねったから、たぶん骨折かネンザだな。重症かもしれない」
 どこかの高校の陸上部員で、後輩たちのレースを応援に来ている人たちらしくて、あれこれと専門的なことをいい合っていた。
 俺は目を細めて、事故のあった方を見た。
 選手の周りを役員が取り囲み、春彦がその中にまぎれている。
 オペラグラスを取り上げて、もう1度、目に当てた。
 春彦や他の役員の人が少し映ったけど、映像がブレて見にくかった。
 俺の手が少しだけ、震えていた。
 競技中の事故というのはなまなましくて、ちょっとコワイものがある。
 けれど何よりも、春彦がひどく動揺していることに、俺は衝撃を受けていた。
 その事故がどの程度のものなのか、どんな意味をもつものなのか、砲丸投げの俺には見当もつかなかった。
 ただ、春彦の思いつめた表情から、その事故が単なる偶発的な事故ではなく、何か重大な意味をもつ事件だというのは、痛いほどわかった。
 競技会の初日が終わり、中学のグラウンドに戻る帰りのバスにゆられながら、俺はひとり、ようやく落ち着きを取り戻して、あれこれと考えてみた。
 例えば、あの選手は陸上を通じて、春彦の大切な友だちだったのかもしれない。
 陸上部の短距離選手同士の交流があって、以前から親しくしていたヤツなのかもしれない。それは充分に、あり得ることだった。
 そう思って納得した時、『農業試験場まえー』という車内テープが耳に入った。
 俺はあわてて、窓の外を見た。
 バスは市内循環Aコースではなく、Bコースの路線だった。乗り違えてしまったのだ。
 バスを降りるためにボタンを押して、前に進みながら、俺は自分の受けた衝撃の深さに、いまさらながらに驚いていた。バスを乗り違えるほど、混乱していたなんて……。
 春彦に、俺の知らない、違う中学の知り合いがいた。
 春彦はそいつのために、練習中には決して見せたことのないこわばった顔で、なりふりかまわず駆けつけて行った。
 俺はそれを、この目で見てしまった。
 それは中2の4月にクラスが分かれた時の寂しさとは異質の、胸が痛くなるような思いだった。
 不思議なことだ。
 それまで春彦はいつも中学のグラウンドで部員たちに囲まれ、俺も笑いながら率先して話に加わっていたのに。
 みんなといっしょになって春彦と話をしているだけで楽しくて、胸がドキドキしていたのに……。
 けれど、その競技会の帰りに初めて、俺は春彦と“特定のオトコの存在”というものを結びつけて考えたんだ。
 その途端、なんともいいようのない息苦しさが俺を襲い、こめかみの辺りがきゅうっと痛くなるのを感じた。
 その時の感覚はあまりにもなまなましく、とてもツライものだったので、それ以後は、できるだけ考えないようにしていた。
 いまにして思えば、あれはまぎれもなく、俺が味わった初めての嫉妬だったと思う。
 けれど、子供の知恵というものは他愛ないもので、競技会が遠くなればなるほど、事故を起こした男の存在感も徐々に薄らいでいった。
 ただ、校内で春彦を見かけると、あいつにはいろんな友だちがいるんだ、中には俺の知らないヤツ―――とりわけ男がいるんだと思い直して、とても寂しくなり、自然、ますます勉強に熱中することとなった。
 つまり、そんなふうにして、すべてを春彦中心に考えることで、記憶の中から上手にあの選手の存在や、俺の中の嫉妬心を消し去ってしまったのだ。
 でも、いま、彼はまた現れたんじゃないだろうか。今度は記憶の中から消すこともできないほど身近に、風間春彦スレスレに。
 そして、俺にもスレスレのところまで、近づいているのではないだろうか。
 グラウンドで顧問や陸上部員に囲まれている彼は、あの時の短距離選手なんじゃないだろうか。
「矢野。なんだよ、途中までいいかけて、黙ったりして」
 ボンヤリとグラウンドを眺めて、それまで半分うわの空だった真壁が、ようやく振り返った。
 俺の視線があらぬ方に向けられているのに気がついて、ベンチから立ち上がって、隣りに立った。
「なんだ、あれ。中距離の選手が集まってるな。こんな時間にミーティングか?陸上部の顧問といっしょにいるのは、ありゃ孝一郎先輩の弟じゃないか」
 真壁は俺の前で初めて、彼に興味を示した。
「あれ?春彦も呼ばれたみたいだぜ」
 見ると、グラウンドを走っていた春彦が、本当に顧問に呼ばれて走って行くところだった。春彦は高校に入ってから、中距離を走っていたんだ。
「それより、春彦がどうしたって?」
「いや。なんでもない」
 彼が2年前の陸上選手だという想像は、ほとんど確信に近くなっていた。
 そうだとすれば、もう、それを真壁にいって相談する段階ではなかった。
 春彦は以前、彼のために着替えの途中でジャージを投げ出して走った。あの時の春彦は上半身裸で、足には靴も履いてなかった。
 それほど大切に思ってるヤツなんだ。
 俺に、どんな口出しができるというのだろう。
 俺はただ、おろおろしていた。
 ミーティングを終えて、部室に引きあげて行くふたりを追って、春彦と彼がしゃべっているのを窓越しに見た。
 春彦はうつむきがちで、いつものようにぶっきら棒な感じだった。
「気になるのか?」
 やや遅れて、真壁が追いかけて来た。
「いま顧問のセンセに聞いたんだけど、あいつ、中距離に転向するんだってさ。なんかあのふたり、けっこう仲よくやってるよな」
「……ああ」
 わかっていたことを確認するように、俺はボンヤリうなずいた。
 もう、とっくにわかっていることを、ひとつひとつ事実で確認させられていくのは、ツライものだ。
 古傷が痛みだすようなもので、どう対処していいのかわからない。
 そんなある日、
「最近、持久力が伸びなくて悩んでるんだ」
 と春彦が愚痴をもらしたので、日曜日になるのを待って、繁華街の本屋に彼を誘った。図解入りのガイド・ブック、郷ナカヤマの『アスレチックのすすめ』を紹介してやるつもりだったんだ。
 ふたりで繁華街に出るのは本当に久しぶりで、うれしかったけど、本屋にいる間じゅう、春彦は考えごとをして、ため息ばかりついていた。
「3回目だぜ、お前」
「なんだ、3回目って」
「今日、俺と会ってからため息をついた回数だ」
「別に、お前の所為じゃねーんだからいいだろが」
 春彦は肩をそびやかしていい切った。
 入学以来、ずっとそんなふうだった。
 たぶん、彼のことが気にかかっているのだろう。
 それはもう、わかっている。
 だけど、本当のところ、ふたりの間には何があったのだろう。現在、何があるのだろう。
 それがいちばん知りたくて、けど、知るのが怖かった。
 それで、訊くには訊いてみたものの、ひどくあいまいないい方になった。
「あったりめーだ。そんなことじゃなくてだな、俺が気になってんのは、いつまで経ってもお前が以前のお前らしくならねーってことだ。4月からこっち、元気がないのは分かってたけど、この頃は元気がないのを通り越して、ずどーんと悩んでるって感じだぜ……。それってさ、俺じゃ、全然力になれねーことなのかな」
 春彦は肩をすくめた。
「力になれるとかなれないとか、そういう問題じゃねーから」
 たぶん、その通りなんだろう。
 真壁に相談してるのかもしれない。
 その頃、ふたりはいつにも増して、くっついていた。
 そう思って、ボンヤリと店内を見まわすと、当の真壁健一が真っ白のTシャツにひざの抜けたブルー・ジーンズを穿いて立っていたので、目を見張った。
 どこにいても必ず目につくイケメンの真壁は、店内の注目を一身に浴びて、文庫本選びをしていた。
 だけど、俺が本当に驚いたのは、その隣りに彼がいたからだった。
 ふたりは何か小声でしゃべり合っていた。
 特別親しそうでもなかったが、かといって、本棚の前で偶然会ったというわけでもなさそうだった。
 彼が本を持って、レジの方に歩いて行った。
 どういうことなのか、サッパリわからなかった。
 彼は、春彦と真壁の共通の友だちだったのだろうか。
 だけど、春彦が彼のことを黙っているのはともかく、真壁も何もいわないというのは納得できなかった。
 混乱したまま、俺は春彦にいった。
「おい、この棚から3つ先の文庫本のとこに突っ立ってるの、アレ、真壁じゃねーのか?ちょっとこっちに来て、そっと気づかれねーように見てみろ」
 いってしまってから、まずった、と思ったけど遅かった。
 春彦は真壁を見た。続いて、レジの方から戻ってきた彼のことも、見たはずだった。
 春彦が、息を飲むのが聞こえた。
 驚いているのが、ハッキリとわかった。
 俺はますます慌てた。
 春彦が何かいうかもしれない。彼について、何かいうかもしれない。
 聞いてはいけない。
 聞いてしまったら最後、俺はまた、あのツラく醜い感情を味わわなきゃならない。
 春彦の口から、聞いてはいけない。
 俺の方からしゃべり出すんだ。
 なんでもないことのように、いってしまうんだ。
「妙だなあ。あのふたりには、これといって面識はないはずなんだが……」
「そうかな、別に不思議はねーんじゃねーのかな。だって俺ら、同じ学年なんだし」
 春彦はそういって、小さく舌打ちした。こんな時に彼と鉢合わせしたことが、いかにも嫌そうだった。
 でも、俺の心はそれで決まった。
 春彦は知って欲しくないと思っている。俺に知られたくないと思ってるんだ。
 だから、俺は知る必要はない。
 このまま、何も知らないフリを続けた方がいいんだ。ずっと……。
「そうか!ひらめいたぞ!なるほど、へぇー、そうだったのか」
 俺は春彦の気をそらすために、急いでいった。
 なかば強引に話をすりかえることで、話題の矛先を真壁だけに向けさせてしまおうと思った。
「な、何が、どうひらめいたってんだ」
 春彦は心配そうに俺を見た。さぐるような、声だった。
「どうせ説明したって、風間にはわかんねーことだ。けどよ、簡単にいうとだな、真壁が最近やたらとC組に顔を出すその理由の、見当がついたってことだ」
「ふ、ふーん。り、理由ねえ」
 春彦は俺の語調の強さにビックリしたらしくて、黙った。
 そして、引き止める間もなくふたりに近づき、
「おい、真壁」
 と声をかけた。
 俺もできるだけ自然に、真壁と彼に話しかけた。
 奇妙な雰囲気だった。
 春彦は突っ張っていたし、俺はニコニコ笑っていたし、真壁は妙に芝居がかっていたし、彼も俺と対を張るほど朗らかだった。
 ふたりと別れてラーメン屋に入ったあとも、ゆきがかり上、俺は真壁だけに的を絞って、話をすすめていた。
「真壁のヤツ、駅前のミスドで会ったとかいってたけど、案外どっかで待ち合わせでもしたんじゃないのかな」
 春彦は興味なさそうに、ラーメンをすすっていた。
「もしかしたら、あいつのことが気に入ってるんじゃないのか。だから最近、頻繁にC組に来てるんじゃ」
 挙げ句に、ふざけついでに冗談半分で、そんなことをいってみた。
 何をバカなこといってんだ、お前って、いつもそれだな、といって笑う春彦の笑顔が、不意に見たくなったんだ。
 ところが、春彦は渋い顔で、
「うん。まあな」
 とうなずくじゃないか。
 俺はあっけにとられて、ポカンとした。
 真壁があいつを気に入ってるって?
 もしそれがホントなら――――真壁が彼を気に入ってるというのなら、どういうことになるんだろう。しかも春彦がそれを知っていたなんて。
 三角関係か?まさかな。
 自分でいったことながら、すぐには信じることが出来なくて、俺は首をひねった。
「なんかピンとこないな、そんなの……。けど、まあ、あいつも妙に魅力的なとこ、あるからな」
 まだ、よくまとまらない頭で、半分うわの空でいうと、ラーメンをすすっていた春彦がそれを聞きとがめた。
「魅力的、かな」
 どうでもいいような、興味があるような、ないような、曖昧な口ぶりだった。
 瞬間、俺はやり場のない怒りに襲われた。
 なぜそんないい方をする。
 春彦には、魅力的に映っていないのか?
 だからあの時だって、走って行ったんだろ?
 俺は、とても寂しかった。
 春彦が、俺以外の誰かの為にあれほど真剣になるってのをこの目で見て、ご丁寧にもオペラグラスで拡大して見ていて、とてもツラかった。
 あれはみんな、あいつが魅力的だからじゃないのか?
 少なくとも、春彦には大切なヤツなんだろ?
 それなら、『そうだな』といえばいいじゃないか。『そうだな、魅力的かもな。うん』と。
 ごまかすぐらいならまだいいけど、嘘までつかなくてもいいじゃないか。
 俺はあいつのこと、悔しいけど、魅力的だと思ってる。
 張りつめた弦みたいなところがあって、それが時々、鳴る感じがする。
 春彦があいつを好きだとしても、よくわかる気がするんだ。本当に悔しいけど、納得できるところもある。
 だから、嘘だけはつかないで欲しい。
 嘘なんかつかれたら、なんでも気軽に話せるこれまでの俺たちの関係が、ぶち壊しになってしまうじゃないか……。
「風間は、そうは思わないのか?あいつ、すごく意志が強そうで、凛々しいって感じがする。落ち着いて考えてみると、真壁が惚れてしまうのも、わからないでもないな」
 俺はキッパリといった。
 惚れるという俺の言葉に春彦はビックリしたらしく、黙ったままだった。
 さすがに俺も気まずさが押し寄せてきて、そのあとは黙りがちだった。
 その所為で、どっと疲れてしまったけど……。
 でも、たぶん春彦は、ずっとそのことで悩んでいて、だから元気がなかったのだろう。
 真壁があいつを好きで、春彦も大切に思ってて、三角関係みたいになってて、複雑な心境だったに違いない。
「だけど、真壁があいつを好きだとすると、やっぱり、今日はどっかで待ち合わせしたんだろうな」
 しばらくして、俺はいった。
 春彦は相変わらずうつむいてラーメンをすすっていたけど、突然くっと顔を上げて、キッパリと否定した。
「それはないだろ。真壁は待ちの姿勢だし、真二郎が真壁を誘うとも思えない」
「真二郎……?」
 真二郎か。
 そうか、そうだったな。大崎真二郎。
 それが彼の、フル・ネームだった。
 大崎という苗字だけで漠然と彼のイメージを記憶していた俺にとって、彼の名前を印象に残るカタチで最初に口にしたのは、他でもない、春彦ということになるのだった。
「真二郎、か」
 俺は彼の名前を繰り返して、そして笑った。
 さっき春彦は、ごく自然に、彼の名前をつぶやいた。
 春彦よ。
 俺は小学生の頃から、風間春彦っていう人物の人とナリを知ってるんだぜ。少なくとも、性格をな。
 必要以上に照れ屋で突っ張り屋の風間春彦って男は、よほどの間柄でもない限り、誰かを下の名前で呼ぶことなんてしない。
 俺だって、真壁だって、いまだに苗字で呼ばれるくらいだからな。
 つまり、春彦にとって、彼はそういう存在だということだ。
 それはうすうすわかっていたことだけど、やっぱり春彦の口から、いい慣れたもののように彼の名前を聞かされるのは、少し寂しかった。
 春彦は知らん顔で、ラーメンを食べ続けていた。
 俺はちょっとだけ、そんな春彦のことが憎らしくて、泣きたい気分になった……。


 そして翌日の放課後、俺は陸上部の部室で、ふたりのキス・シーンを見てしまった。


 その日の夕方、春彦は自転車に乗って、わざわざウチまで、弁明に来た。
 家の近くの坂道をゆっくりと歩きながら、
「さっきの……、悪い」
 ポツリと、そういった。
 俺はちょっと驚いた。
 春彦が俺に謝るということ、俺に謝られる権利があるということが、不思議だった。
 どうやら春彦は、俺の気持ちに気づいているらしかった。
「大崎真二郎、だったな」
「うん」
「真壁とは、大丈夫なのか?」
「国交断絶をいい渡された」
 春彦はゆっくりいった。
 辺りは薄暗くて、春彦の顔の表情も見分けはつかなくなっていた。
「真二郎のこと、好きなのか?」
 暗がりにまぎれて、いちばん訊いてみたいことをいってみた。
 春彦は言葉に詰まっているようだった。
「嫌いじゃない」
 しばらくして、そういった。
「そうか」
 俺は思わず笑ってしまった。
 それは、春彦の初めての意思表示といえた。
 中学1年の頃、関西に越して行ったイジメっ子の菊地健吾から、『あいつ、まんざらでもなさそうだぜ、オトコも』などと、それらしいことを冗談っぽく匂わされたこともあるにはあったが、こうまであからさまに、疑う余地のないほど直接的ないい方でカミング・アウトされたのは、もちろん、これが初めてだった。
「驚いたな。俺だけかと思ってたけど、風間も真壁も真二郎も、みんなそうだったんだな」
 春彦にそのケがあったという事実は、もちろんうれしくないわけがなくて、俺は心から、神さまに礼をいいたい気分だった。
 だけど、なんの因果か、その対象は俺ではなかった。『そうだ』とカム・アウトされても、いまさら気持ちの持って行き場がなかった。
「そういうことなら、お前もうすうす勘づいてるんだろうけど、実をいうと俺、お前のことが好きだった。大好きだった。子供の時から、ずっと」
「矢野、お前……」
「相手が真二郎じゃ、到底俺には勝ち目はないな。見るからに無骨でマッチョなこの俺と、ジャニ系のイケメンとじゃ、あまりにもタイプが違いすぎる」
 春彦は何も答えなかった。それが答えになっていた。
 春彦の困惑している様子が、手に取るようにわかった。
 ヘンないい方だけど、この時ぐらい、春彦を身近に感じたことはなかった。
 だけど、そこまでだった。
 もう、いままで通りではいられない。
 俺が勝手に真二郎のことを妄想したり、春彦の気持ちを詮索したりしているうちは、まだよかった。知らないフリもしていられた。
 だけど、春彦が真二郎を好きだと知りながら、平気な顔をしていられるほど、俺は強くはなかった。
 あとから思えば、俺は既にこの時に、半分逃げ出していたんだ。
「このままだと、自分がどんどん惨めになってくような気がする。俺もしばらく、国交断絶した方がよさそうだな」
「こっちに、拒否権はないよ」
「じゃ、いまからだ」
 俺は明るくいって、反射的に右手を差し出しかけた。握手をするつもりだったのかもしれない。
 もちろん、すぐに手を引っ込めて、慌てて家の方に走って戻った。
 手を出しかけた時、不意に、陸上部の部室の情景が鮮やかによみがえってきたのだ。
 ドアが開いた瞬間、ふたりはパッと離れて振り向いた。
 真二郎は青ざめ、春彦はうろたえていた。
 ふたりの間には、人ひとりが入るくらいの間隔があった。
 だけど、春彦の右手は忘れられたように、真二郎の短パンに差し込まれたままだった。真二郎の腰を後ろから、そっと支えるようにして。
 俺はボンヤリとその腕を見ながら、男にしてはまったくの無毛で、ずいぶん柔らかそうな肌をしていると思った。
 その手に、俺は触れたことがなかった。中学の運動会や、偶然の一瞬は別にしても。
 俺はずっと、春彦に近づきたいと思ってきた。
 けど、もうダメだと思った。
 いくら俺が近づいたと思っても、それは現実の世界の距離だけのこと。心の距離はいっこうに縮まらず、常に俺の先を行く人がいた。
 真二郎は触れてしまうほど、春彦に近かった。
 俺はほとんど、あきらめかけていた。
 そして、ずるずると1ヶ月が過ぎ、4日前のテニス・コート。
 春彦は真二郎に向かって走って来た。
 真二郎以外の誰も、もちろん真壁だって、春彦にあんな切実な顔はさせられないだろう。
 春彦は真二郎に決めたのだなと、あの瞬間、俺は思った。
 たとえ、春彦が自覚していなくても、春彦と真二郎は深いところで響き合っている。
「真二郎!大丈夫か。立てるか。大丈夫か」
 春彦が真二郎を助け起こすのを、俺は青ざめて、震えながら見ていた。
 息詰まるほど真二郎に嫉妬している自分を、とても気の毒に、惨めに思いながら……。
 ……サドの涼先輩にねちねちイビられるのもガマンの限界に達したので、俺は適当な理由をひねり出して、秋本家を辞去することにした。
 おばさんは意外そうに、
「まあ、涼が、何か意地悪したんじゃない?口の悪い子なの。気にしないでね。また遊びに来て」
 といってくれたので、俺は、
「はい。是非」
 とおばさんに笑い返したけど、心の中ではサディストに向かって舌を出していた。
 腕時計を見ると3時半過ぎだった。
 いまからでも真壁の家に行けば、春彦たちと合流できるんだけど、その気になれなかった。
 スポンサーの隆正クンがいないのでタクシーに乗ることもできず、てくてく歩いて帰りながら、これからどうなるんだろうと、身の処し方をボンヤリと考えた。
 春彦とは、これまで通りやれるのだろうか。
 同じクラスだし、いまの状態が長く続けば、いくら無骨者な俺でも、精神的に限界点に達してしまいそうだった。
 春彦とは、真二郎を保健室に運んだあと、少し話をした。今後の部活のことなんかを含めて、いろいろ。
「真二郎の足の具合、どうだった?」
「ああ、大丈夫みたいだ。ただのネンザらしい」
「そうか、よかった。たいしたことなかったんだな。……なあ風間。1度訊いてみたいと思ってたんだけど、お前にとって真二郎って、どんな存在なんだ。抱き合ってキスするぐらいだから、やっぱり恋人とか、そういうんだろうな」
 単刀直入に切り出した。
 不意を突かれて、春彦は心底ビックリしたみたいで、ものもいわずに、穴のあくほど俺を見ていた。
 あのキス・シーンの直後は春彦も動揺していて、なんとなく俺に気を遣っているようだったけど、いまはその必要はない。
 気なんか遣わなくていいから、『嫌いじゃない』なんてどっちつかずの返事じゃなくて、もう少しハッキリした言葉で答えて欲しかった。
 春彦がハッキリ答えることで、俺の気持ちの踏ん切りもつくような気がした。
 その為に、なるべく陽気に、軽い調子でいった。彼が答え易いように、努めて明るく。
 だけど春彦は気の抜けた声で、
「そんなんじゃないさ」
 ボソボソとつぶやいただけだった。
「じゃ、どういうんだ」
 俺はなおも食い下がった。
「説明できないな、俺の貧しい国語力では」
 春彦はどこまでも、断言しようとはしなかった。
 誰かを好きだという気持ちはとても曖昧で、つかみどころがないというのは、経験から俺もわかっていた。ましてや相手は同性で、フツーでいうところの恋愛感が通用しないことも、よくわかっていた。
 でも、高校に入ってからずっと、いや、もっと前から、俺はその曖昧さの中で、おろおろ、ドキドキし続けてきた。
 それがあまりにしんどくて、くたびれて、いまはもう、耐えられないほどツラくなってる。
 なのに、春彦は答えを保留にしている。
 きっと春彦には春彦なりの答えというものがあるのだろう。迷っていた時のうつむき加減の顔とは違って、どこかスッキリした前向きの表情に変わっている。
 でも、それは卑怯というものだ。
 春彦ひとりで納得できても、俺の気持ちは放り出されたままだ。
 やきもちを妬いて、あれこれ妄想して、おろおろこいて、そればっかりだ。それって、マジで苦しいことなんだぜ、春彦。
 勝手に好きになっておいて、そんなことをいえる立場でないのは、自分でもよくわかっている。だけど、やっぱり限界だった。
「俺なあ。さっき、思いっきり強く打ったんだ。この野郎、俺の風間とキスしやがって、バカ野郎、死んじまえーって。取れそうもないコートの隅ばかり、突いたんだ。なんか、ますます落ち込むなぁ」
 春彦はビックリした顔で、チラリと俺を見た。
「そんなに落ち込むなよ。お前は自分に正直なだけなんだから。正直な人間って、俺、そんなに嫌いじゃないぜ」
 かわしたつもりなのか、それとも心からそう思っているのか、どっちにしても、トンチンカンな返事だった。
 春彦。
 もう、こんな気持ちを味わわせないで欲しい。
 やきもちを妬くのは、嫌なもんだ。
 人間は、自分のものを侵されたと思うから、やきもちを妬くんだ。
 春彦が他人になるというのなら、それでもいい。
 もう、これ以上、曖昧な状態でい続けるのは嫌だ。
 俺は春彦に向き直って、思い切っていった。
「じゃあ、正直にいうけどさ。俺、実は陸上部やめて、2学期から体操部に行くことにしたんだ」
 それは俺の、最後の賭けだった。もし春彦が、『やめるなよ、陸上部』と俺を引き止めてくれたなら、もう少しだけ我慢するつもりだった。
 春彦はほんとにビックリしたらしくて、しばらくはものもいわずに、あっけにとられていたようだった。
 でも、結局、俺を引き止める言葉は、彼の口からは何も聞けなかった。
 俺はむしゃくしゃして、真二郎のことで知っていることを、すべてしゃべってしまった。
 それで自分の気持ちにも、区切りをつけるつもりだった。
「俺、競技会のたびに、練習サボって見に行ってたんだ、お前の試合。2年の時の競技会で、100の決勝を走ってたヤツが足をどうかしたのも、お前が駆けつけるのも、ぜんぶ見てたんだ。……あいつと真二郎が同一人物だってのは思ってもみなかったけど、短距離から中距離に転向したとか、真二郎やお前の態度とか考え合わせると、だんだん、ああ、そうか、あの時の選手か、ってことに気がついてさ」
 それに気づいてからずっと、自分がいろんな想像をしてニッチもサッチも行かなくなってたことは、いわなかった。
 それは春彦には責任のないことで、俺が勝手にやきもちを妬いていただけなんだ。春彦には、ぜんぜん関係ないことだもんな、そんなの。
 だけど、これだけはいいたかった。
「真二郎はお前のことが好きだったな。ずっと前から。風間も、少しは好きだったんだろ」
 春彦は目を見開いて、沈黙を押し通していた。
 結局、答えらしい答えは聞けなかった。
 クラスは同じだけど、初めからそこにいないもんだと思い込めば、それほど苦痛に感じない。陸上部にも退部届を出したので、部活で顔を合わすこともなくなった。
 だから、今日みたいに仲間うちで集まる時なんかは、どう対処していいのかわからない。
 気持ちの整理のつかないまま、真二郎のことを引っかからせたまま、あれからなんとなくズルズル来てるけど、いままで通り、何もなかったみたいにやっていくことはできそうにもなかった。
 さすがの俺も緊張しすぎて、気を張りつめすぎて、もうほとんど、切れそうだった。
「おう、お帰り」
 秋本家から帰り着いて、玄関のドアを開けるなり、ワタルが居間から飛び出て来た。
「ちょうどよかった。お客さん、帰る帰るって聞かないからさ」
「客?」
 見ると、男もののスニーカーがあった。
 春彦だろうか。まさかな。
 真壁はバッシュ党だから、スニーカーは履かない主義だし。
 誰だ?といおうとした時、真二郎が居間から出て来て、ワタルの後ろに立った。
 真二郎、か。
「すぐに戻るっていわれてさ、引き止められてたんだ。けど、もう帰るよ」
「じゃ、そこまで送る」
 真二郎は拒まなかった。
 ワタルがやたらと愛想よく、
「また、どうぞ」
 と呼び込みみたいにいって、へこへこ頭を下げた。
 まったく。そうでない友だちには塩まくくせに、ハンサムだとすぐ手もみするんだよな、こいつは。
 血は争えないというか、なんというか。
「おもしろい弟だな」
「美形に弱いんだよ」
 坂道をゆっくり歩きながら、これが俺たちの初めての会話らしい会話じゃないかと、ふと思った。
 書店で会った時も何かしゃべった気がするけど、ともかくケどられないように陽気にふるまうことだけ考えて、何をしゃべったのかよく覚えていない。
 並んで歩きながら、不思議な気がした。
 あんなに真二郎を意識して、たぶん真二郎も俺のことを意識して(?)、そのくせふたりきりになったことは1度もないのだ。
 実際、真二郎の声だって、耳になじんでないほどだった。
「俺のこと、知ってるか?」
「大崎、真二郎」
「他には?」
「中2の時、陸上競技会でケガをした。風間が、走って行った……」
 脚本か何かを朗読するように、いった。
 思い出してはいけない。
 感情を排して、事務的に処理してしまうのだ。
 あの時の衝撃、寂しさ、嫉妬、悔しさ、それと同じ、つい最近のあの出来事さえ……。
 そうすれば、平静でいられる。
「風間が、そういったのか?」
 真二郎は意外そうだった。
 俺はかぶりを振った。
 春彦は何もいわなかった。いう必要すら、感じてはいなかった。何もいわず、だから俺は想像し続けなければならなかった。
 ……危険だ。
 この男は危険だ。
 悪意はないのだろうけど、この男は俺と春彦のつながりの危うさ、もろさをさらけ出させてしまう。
 思えば、最初からそうだった。
 大崎真二郎の存在は、いつも脅威だった。
 俺の知らない春彦の世界を、この男はいつも思い知らせた。何もせずに、ただ、そこにいるというだけで。
「そうだよな。風間がいうはずないよな。1年の時の競技会で、俺、上級生に吊るし上げ食らってたんだ……。記録が不調だったんで、それを風間が助けてくれて、がんばれって、いってくれた。陸上部、やめちゃダメだ。お前なら勝てる。勝てて当然なんだからな。絶対にやめちゃダメだ。陸上はいいぞ、って……。誰かが自分のやってることを認めてくれて、力づけてくれるのって、うれしいもんさ。部で孤立なんかしてると、特にな」
「…………」
「2年の時だってそうさ。俺、100で優勝したかった。1年の後半でアキレス腱を痛めて、でも、2年に100で優勝したかったから、それをかばって走って、無理したんだな。もう少しで優勝って時に、今度は転んでネンザした。でも、その時も風間が助けてくれて、また来年があるさって、いってくれたんだ。俺の悔しさも、惨めさも、みんなわかってくれてるみたいだった」
「…………」
「おい、聞いてんのか」
 真二郎はイライラしたように、ほとんど叱りつけるように、ピシリといった。
 俺はうなずくばかりだった。
 胸に灼けるような痛みがある。この痛みはもう、どんなことをしても消えない気がした。
 真二郎が俺の前から消滅しない限り、春彦が記憶喪失にでもなって真二郎の記憶を失わない限り、いつまでもこの痛みにつきまとわれそうだった。
 この場から逃げ出して、真二郎の話すことを聞かなくてすむ為なら、俺はどんなことでもしたかった。
「でも、もういいんだ」
 不意に、真二郎が投げ出すようにいった。
「風間は俺のことより、お前らとの友情の方が大事なんだとさ。同じ中学って、得だな。お前らは1000日以上も、あいつといっしょだったんだ。俺なんか、たったの2日だぜ」
「もうわかった。もういわないでくれ」
「ダメだ、聞かなきゃ。それくらいの義務はあるぜ。風間が好きなのはお前らで、俺は特別な人間なんだって。次元が違うそうだ」
「次元が……」
 俺はボンヤリとつぶやいた。
 こんな時、なぜ“好き”という言葉は軽く聞こえるんだろう。
 “特別な人間”というのが、なぜこんなに重く感じるんだろう。
 真二郎はクスクス笑った。
「風間の論理って、ちょっとシャクだな。次元が違うって、お前わかるか?」
「いいや」
「俺にもわからない。きっと風間もわかってないんだ。むりやり、そうやって理屈をつけたんだな」
「そうかもな」
「だから、俺もそうやって自分を納得させることにしたんだ。『安心しろよ。これからは遠くから、あいつとどこまでもわかり合えるのは俺ひとりなんだぞ』と、そう自分にいい聞かせて、それで満足してみようとね……。それはそれで、きっと少しは意味があるんだろうし。……あんまり、俺好みの考え方じゃないけど、まぁ、今日は、それをいいに来たんだ。お前に」
「真二郎って……、嫌なヤツだな」
「ふっ」
 真二郎は吹き出して、肩をすくめた。
「お前だってそうだろ。おあいこで、ちょうどいいよ」
 真二郎はバスの時間が気になるらしくて、腕時計に目を落とした。
 足を速めて2、3歩行きかけ、ふり返った。
「嫌なヤツついでにいうよ。風間は俺のこと、意地悪じゃないっていったけど、あいつ、やさしいんだな。俺って、ほんとはとても、意地悪なんだ」
 そういって、ちょっとつらそうに笑った。
「陸上部の部室でのこと、気にしないほうがいいぜ。あれが初めてってわけじゃないから」
 別に何もいうことはなかった。
 いや、違う。聞かなければ。
「いつだ、それ」
「中2の競技会の時。医務室で。けど、ムードに流されただけなんだ、きっと。お互いに、ツライ話だよな」
 俺はいま、手に何も持ってないのを幸いに思った。もし持っていたら、思いっきり投げつけただろう。
 真二郎はひらひらと手を振って、急ぎ足で坂を降りて行った。
 俺は家に走って戻った。
 門のところまで来て、門柱に手をかけた。
 息が苦しくて仕方なかった。それが走った所為なのか、いま聞いたいろんな話の所為なのか、よくわからなかった。
 春彦は他人のようだった。
 真二郎の口から聞く風間春彦という少年は、俺にはまるで関係のない他人だった。
 1000日と2日。
 でも、それが何になるんだ。
 あいつは特別な人間で、そして、そして――――。
 俺はその場に座り込んだ。
 知りたく、なかった……。
 胸を絞り取られるような思いで、歯ぎしりするような思いで、そうつぶやいていた。
 ――――ほんとに知ってんのか?風間のこと、なんでも知ってんのか?ほんとに?
 真二郎はそういった。ずっと以前。
 それは正しかった。
 俺は風間春彦という男のことなんか、何もわかっちゃいなかった。
 もちろん、春彦だって男だから、ムードに流されりゃ、誰もいない部室で、気に入った相手とキスするぐらいのことは、なんでもないのかもしれない。
 だけど、それは……。
 俺は追いかけて行って、真二郎の胸ぐらをつかんで、激しくなじりたかった。
 それは俺が知りたくなかった、春彦の一面だった……。


 車道をわたって角を曲がると、ちょうど真壁の家の、裏の木戸が開いた。
 春彦が、『お邪魔しました』といいながら出て来て、そのあとから真壁も出て来た。
 真壁は、例の“テニス・コートのめぐり逢い事件”、もしくは“テニス・コート事件”(とC組の男たちが勝手に命名している)ってのを誰かから聞き出して、ある事情から、半分ヤケクソ気味になっていた。
 いまここで出て行って、俺の顔を見たら、またいろいろと問題が起きるかも知れないが、いまはともかく、春彦に会うのが先決だった。
 俺は斜め向かいの家の陰から出て、ふたりに手を振った。
「あ、矢野ぉ。いま頃来たって遅いよぉ。お前って最近、ほんっとにつきあい悪いなぁ」
「親戚づきあいも大変なんだよ」
「八方美人すぎるんだよ」
 真壁は辛らつにいった。
 怒っていて口が悪くなってる所為もあるが、それは当たっている。
 俺はホントに八方美人だ。誰にでも、いい顔をしすぎる。
 理解のあるフリをして、心の中では疑いと嫉妬ばかりだった。ずっと。
 でも、もうこんなのはおしまいにしたい。
 商店街のCDショップに行くという真壁といっしょに、俺たち3人、しばらく並んで歩いたけど、四つ角のところで真壁と別れた。
 春彦が俺の家の方に歩いて行きそうなので、あわてて引き止めた。
「いいよ、今日は、俺が風間の家まで送ってくよ」
「えー、なんだよ、それ。お前んちの方が近くにあるのに」
 春彦は苦笑した。
「たまにはいいじゃんか」
「うーん、なんかヘンだけど、ま、いいっか」
「今日、どんなだった?」
「シラケてたよ、真壁は。さっきはまだいい顔してたけど、お前が急用で来れないって聞いた時は、ブンむくれになるしさ。俺も真壁をまだ許してないから、あいつがひと言、何かいうたびに頭に来てた」
「真二郎を好きだとか、嘘いった例の一件か?」
 俺は思わず吹き出しそうになった。
 真壁が真二郎を好きだという話は、春彦から聞いて知っていた。ずいぶん前に、書店でバッタリ、ふたりを見かけた時に。
 春彦は、なんと真壁本人から直接いわれて、協力を頼まれていたという。要するに、大の親友にカミング・アウトされてたってわけだ。
 ところがだ。それは真っ赤な嘘だったというのだ。
 真相はといえば、春彦のクラスの男子なら誰でもいい、自分がオトコ好きな男だと公表して親友に理解を求め、いつも春彦と行動をともにするのが目的だったという。
 高校に入って春彦とクラスが分かれてしまって、親友としての存在感が薄らいでいると不安になったらしいんだ。
 俺の睨んだところ、自分にそのケがあることを春彦に匂わせ、あわよくば彼とどうにかなってしまおうという魂胆だったに違いない。
 春彦を好きな立場として真壁の気持ちはわからないでもないんだけど、なまじ真壁が真二郎を好きだといったばっかりに、春彦はしなくていい気苦労をしたもんだから、頭にきてるのだ。
「あいつ、子供ん時からいっしょだから、感覚がマヒしてんじゃないのかな。普通じゃ考えられないよ。おかげで俺はえらい迷惑したんだ」
「大変だったな。幼稚園以来の大親友と三角関係だっていうんで、いろいろ悩んだんだろうな」
「まあな。あ、いや……」
 春彦はうっかり相槌を打ってから、あわてて口ごもった。
 俺は笑った。
「さっきな。……真二郎がウチに来たんだ」
 ごく自然に、なんでもないことのように続けられたので、ホッとした。
「え」
「いろいろ話したけど」
「どんな」
「だから、いろいろ」
 何から話そう。
 もったいぶってるわけじゃないけど、まとまらない。
 どういおうかと思っていると、不意に春彦がしゃべりだした。
「矢野さ、真二郎のこと、以前から知ってるっていっただろ。競技会のこととか」
「うん」
「あいつはさ。ちょっとキツイけど、で、うまく人と折り合うのがヘタクソだけど、いいヤツなんだ。一生懸命だし」
「よく、わかるよ」
「俺、いろいろコンプレックスあるだろ、体格のこととか、背とか」
「な、なんだよ。急に」
「思うように走れなかったりとか、持久力のこととか、いろいろあるんだ。ちょっと矢野には、わからないかな。うまくいえないけど」
「…………」
「真二郎は何度も、陸上でつまずいてるだろう。だから、お互い、わかる部分とかあってさ。つまり……」
 春彦は一生懸命、言葉をさがしていた。自分のコンプレックスのことまで持ち出して、俺に真二郎がどういうヤツなのかを、嘘のないように説明しようとしてくれてる。
「……理解者、か」
 俺がいうと、春彦はホッとしたように笑った。
「ああ、そう。そんな感じだな」
 そういって、自分自身に確認するように、『そんな感じなんだ』と小声で繰り返した。
 俺はよくわかるというように、何度も何度もうなずいた。
 だけど、春彦よ。
 それは、俺がなりたかった。
 誰よりも、春彦がわかるヤツに、なりたかった。真二郎よりも、真壁よりも、中学の時から、そう思ってきた。
 きっとそれは、俺のわがままなのだろう。
 俺は独占欲の強い、傲慢な人間なんだ。
 だけどこれから先、いままで通りに、春彦や真壁たちとワイワイやっても、いつまでも仲良くできても、俺はいままでにはない寂しさを味わうだろう。
 何かの拍子に春彦が真二郎を見かけて、あいつは誰よりも俺をわかってくれてる、どこまでも理解し合えるヤツだと思っているのを肌で感じて、とても寂しい思いをするのだろう。
 たとえ春彦がそう思ってなくても、真二郎が近くを通り過ぎるだけで、俺は春彦の表情をうかがって、思い悩んで、真二郎に嫉妬してしまうだろう。
 俺は……。
 そんなふうに人の顔色をうかがって、疑って、悩んで、嫉妬して、憎らしく思うような、そんなふうな人間にはなりたくないんだ。
「風間、嫉妬って字、漢字で書けるか?」
「えっ……。とっ、突然、そういう恐ろしいこというなよ。あれ、当用漢字か?」
 春彦は大袈裟に驚いてみせて、俺に明るく笑いかけた。
 混じりっけのない、屈託のない笑い方だった。
 こいつには、嫉妬なんか似合わないな、やっぱり。
「あれってさ、ものすごいカタチしてんだぜ」
「書けないけど、一応読めるからな、俺だって。どんなカタチしてるかくらいはわかるんだ。ゴチャゴチャしてて、書きづらそうな、やな字だよな」
「俺な、いままでずっと真二郎に嫉妬してたんだ。ヤキモチなんてなまやさしいもんじゃなく、嫉妬をな」
 春彦の顔から笑いが消えて、代わりに疑うような、意外そうな表情が浮かんだ。
「そんなに意外か?」
「あ、ああ。だって、矢野はそういうのとは、まったく無縁の人間だと思ってたから。だいたい似合わないよ。おかしいって、矢野が嫉妬なんて、なんだか」
「ほんとに、そう思ってんのか?」
「ああ」
「無骨者だから、そういうデリケートなことは似合わないって、そういいたいんだろ。でもな、俺だってフツーの人間なんだよ。誰かを好きんなったら……、当然だろ。いまもそうだ。これからもきっと、あるだろな。アレって、突然来るから」
「やめろよ、そんなこというの」
 春彦が不愉快そうにつぶやいた。
「そんなのって、ぜんぜん、矢野らしくないよ。それに真二郎だってかわいそうだ」
「………、かもな」
 俺は大きく息を吸った。
 俺らしくない。
 でも、それがいまの俺なんだ。
 真二郎もかわいそうなヤツさ。
 まったくの部外者の俺に、身に覚えのない逆恨みをされるようなものだ。
 けど、好きなんだからどうしようもないじゃないか。
 いまの俺に、嫉妬する以外、他に何ができるというんだ。
 惨めだ……。
 こんなツライ思いは、もう、したくない。
「だから、このままではいられないと思う」
 春彦が立ち止まった。
 俺はひと息にいった。
「もう……、会わない」
「待てよ。嫉妬って、テニス・コートのことか?だけど、あれは真二郎がケガしたと思って。あいつは足首が弱いから、てっきり……」
 春彦は熱心にいった。
「あれを怒ってるのか?」
 俺は頭を振って、笑った。
「中2の時にさ、競技会で風間が……、春彦が、誰かの方に走って行くのを見ただろ。家に帰ったら、治療したばかりの奥歯のクラウンが、ズレてたんだ」
「なんだ、それ」
「それくらい悔しくて、思いっきり歯を食いしばってたってことだ。あはは……」
 春彦はあきれたように、絶句した。
 わかっただろ。
 俺がどんなに嫉妬深い男か。
 高校に入って真二郎の存在に気づくずっと前から、2年も前から、俺は春彦を独占したくて仕方がなかった。あの時から、真二郎に妬いてたんだ。
 こんなツライ思いは、もう、したくない。
「だから、もう会わない」
 今度は、春彦は何もいわなかった。
 それが承諾のしるしのように思えて、俺は背を向けて走り出した。
「ま、それが当然なんだよ」
 真壁は厳かに、所感を述べた。
 ともかく、“テニス・コートのめぐり逢い”事件で、カヤの外に置かれたうらみは深くて、翌日学校に行くなり、『昼休みに、きのうの事情聴取な』とわざわざいいに来た。
 俺としても、もう隠すべきことはなんにもないので、すんなり同意した。
 昼、購買部の隅のテーブルでコロッケ・パンをかじりながら、春彦について俺が知っていることを供述した。中2の時にも1度だけ、ムードに流されてキスをしたという、例の真二郎の発言を抜きにして。
「なーにが、次元が違うだよ、まったく。要するに、あれこれ理由くっつけて、どっちも好きだっていってるようなもんじゃないか」
「何も、そういうわけじゃねえと思うけど」
「おんなじだよ、結局。それで納得して引っ込んだ真二郎も、いいツラの皮だよ。詭弁もそこまでいけば堂々としたもんだ。ちょっと聞く分には、ちゃんとスジが通ってるところが、スゴイよ」
「真壁って、ミもフタもねえいい方するんだな」
 俺は牛乳を飲みながら、ガックリきた。
 別に慰めてもらおうとか、同情してもらおうとかいうんでしゃべったわけじゃないけど、これじゃ、春彦も浮かばれない。
 真壁はどうも他人に客観的というか、特に男に対しては辛らつで、俺のことは『カオは3流、体力2流、性格だけ1流の重量級八方美人』というし、春彦のことは『救いがたい鈍感で不器用、度しがたい頑固、それを男らしさと勘違いしてる走る時代錯誤』などという。
 まあ、それも愛情の裏返しには違いないんだろうけど、なんせいい方がキツイ。
 普段は無口でやさしいんだけど、怒ると怖いし。
「だいたい、例のキスの一件にしても」
 勢いに乗っていい、さすがに過激な話題だと自覚したのか、ちょっと声をひそめて、
「俺たちに対する一種の冒とくだよ。あの時は頬っぺたの1発もぶん殴ってひと言、この裏切り者っ!と叫んで罵ってやりたいのを、グッとこらえて我慢してたんだぜ、これでも」
「そ、そうなのか」
「そうだよ。要するに、その後の国交断絶だって、真二郎と俺たち2人、固唾を飲んで、じっと春彦少年のご決断を仰いでたってだけじゃないか。ちょっと手ぬるかったよな、いま思うと。そんなことやってるから、春彦も図に乗って、あっちは特別な子で、こっちは大事な友だち、次元が違うなんてバカなこといい出すんだ。いったい何サマのつもりなんだろうな、春彦のヤツ」
「ちょっと真壁よ。お前もう少し、やさしくなれねえのかよ」
「よくいうよ。矢野だって、もう会わないって春彦に大見得切ったんだろ。俺はいまんとこお前に同調してるから、となると、向こうとは当分縁切りもやむなし。それが順当ってもんさ」
 こいつってば、これだから顔がいいわりに恋人のひとりも、出来ないんだよな。
 仕出し屋の環境が環境で、日常的にオジンやオバンを相当数見慣れてる所為か、発想といいなんといい、オトナって感じがする。
 真壁にズバズバいわれると、物事がドライに見えてくるから不思議だ。
「まあな。真壁は普段からオトナに囲まれてるから、俺なんかより、うんと世間のこと知ってるもんな。俺はずっと春彦一辺倒で、ちょっと視野が狭くなってたのかもしれない」
「その通り。中1の時から4年越しに、同じ男ばっかり見てるからおかしくなるんだ。ハッキリいって、矢野は他に目がいってない」
「ああ」
 それはその通りなので、俺も率直に認めた。
 ほんとに真壁のいう通りかもしれない。
 俺はずっと春彦を見続けすぎていたのかもしれない。
 だから、妙な独占欲なんか出して、悶々としていたのかもしれない。
 もっといろんな男に目を向けて、いろんなこと知って、視野ってのを広げてれば、そのうちに、きっと元気バリバリな本来の俺に戻れるだろう。
 中学の時は交換ノートが恥ずかしくて、それを断るのにへどもどして人生最大の危機のように思ってたけど、いまはいい思い出になってる。それと同じように、来年のいま頃は廊下でバッタリと春彦に会っても、おー、なかなかいい男になったじゃねーか、なんて感動してるかもしれないのだ。
 そんなことを想像してボンヤリしてると、真壁に肘でつつかれた。
「なんだよ」
 顔を上げると、手に調理パンの袋を持った春彦が、こっちに向かって来るところだった。
「楽しそうだな、矢野」
 不機嫌そうに、ブスッとしている。
「いいたいこといっといて、よくも笑ってられるよ。あれ、どういうことなんだ、もう会わないって」
「春彦、それはだな」
「真壁は黙ってろ。お前がものいうと、話がヘンに収まっちまう」
 春彦がピシッといったので、さすがの真壁も黙り込んだ。
「あれから真二郎に電話してさ、いろいろ聞いたけど、ヘンなことは何もいってないっていってたぞ。お前、なんか誤解してんじゃないのか」
「誤解とか、そういうんじゃないさ」
「だったら、妙なこというなよ。あれじゃ、なんだか真二郎の所為みたいで、向こうも気にしてるみたいだったぞ」
「おいおい、風間ちゃん。浮気か。せっかく“めぐり逢った”方は、どうすんだよ」
 C組の男子が、通りすがりに春彦の背中をどついた。
「っさいな!めぐり逢ったがどうしたってんだ。真二郎はケガしたんだぞ。助けるのは当然じゃないか」
 短気な性格なので、むかっ腹を立ててやり返している。
 その隙に、俺は立ち上がって購買部を出た。
 春彦はすぐに追って来たものの、人にからかわれた所為もあって、かなりムッとしている。
「連中、いい話のネタにしてるんだ。あんなこと、気にしてるんじゃないんだろ」
「ああ」
「真二郎のことだけどさ」
「真二郎のことは、もういいんだ」
 俺はイライラして、思わずいった。
「もう、春彦の口から真二郎のことは聞きたくないんだ。平気な顔してるのに、疲れたんだ。……だからなんだ」
 春彦の顔に、みるみる怒色が広がった。見慣れた、強情なだだっ子の顔だ。
「じゃあ、どうしろっていうんだ。俺に真二郎を無視して、話もするなっていうのか。いちいちお前の反応見て、友だち選ばなきゃならないってのか」
「やめよう。そんなことじゃねえから」
 俺は急に怖くなって、早口でさえぎった。
 このままでは、ほんとのケンカになっちまう。最低のいい合いになっちまう。
 そのつもりはないんだ。
「わかった、やめよう」
 しばらくして、春彦がキッパリといった。
「俺もこういうのは嫌いだ。オンナの口ゲンカみたいなのは」
 春彦はすたすたと1年生校舎の方に歩いて行った。完全に怒ったみたいだった。
 俺も教室に行きかけたけど、思い直して購買部に戻った。
 真壁はいなかった。春彦にさえぎられて、頭にきて教室にでも戻ったらしい。
 また教室に行くのも、妙に右往左往しているようで情けなくて、ぶらぶらと中庭に出た。
 陽射しはもう真夏のもので、でもありがたいことに、涼やかな風がそよそよと吹き込んでいて、暑いというほどじゃない。
 今年の夏休みは、みんなでどっかに行くってことにはならないだろうな。去年は、受験生にもかかわらず、みんなでプールに行ったりしてたけど。
 真壁とふたりきりでどこかに行くというのも、寂しいな。
 芝生のハゲてない場所を見つけて、ペタンと腰を下ろした。
 たまらないのは、春彦がすっかり自分の答えを見つけたらしくて、その分、平気で真二郎を受け入れていることなんだ。
 俺の方は、なんの準備も整理もできていないのに。
 だもんで、春彦が真二郎を話題にするたびに、余計に容赦なく襲ってくる。嫌な、みにくい嫉妬という感情が。
 そのことをわかって欲しいんだけど、たぶん無理だろうな。あいつは、そういう醜いものとは無縁の男だから。
「やあ」
 誰かが、目の前に立ちふさがった。
 視界が完全に薄暗くなるくらいの重量感だった。
 顔を上げると、メガネをかけた秀才然とした男子生徒が立っていた。
 俺はたっぷり、10秒は見つめた。メガネをかけているので、ちょっと印象が違ってるけど、
「涼さんか」
 ゲンナリして、思わず顔をそむけた。
 同じ高校だけど、1年生教室と3年生教室は反対方向で、校内じゃ職員室とか図書室といった公共の場所でしか、会いそうにもない。
 それで結婚式以後も顔を合わせずにすんでたんだろうけど、きのうの今日だ、きっと俺を見かけて、わざわざ庭に下りて来たに違いない。
 とすると、また、ろくなことをいわないだろう。からかうに違いないんだ。
「きのうはまいったよ。急に部屋飛び出して帰っちゃうし、母さんや隆正さんには何か悪さでもしたんじゃないかって目で見られて」
 ふん。
 口きくもんか。
 俺は立ち上がって、涼さんの前をわざとらしく通り過ぎてやった。
「廊下でボソボソ痴話ゲンカやってたヤツか。失恋した相手ってのは」
「くっ……!」
 俺はカッとなって、ふり返った。
「あんたは、どこまで無遠慮で無神経な人なんですか。俺はあんたが思うほどやさしい人間じゃない。どっちかっていうと根に持つタイプなんだ。いつかあんたが失恋したと聞いたら、そん時ゃ駆けつけて行って、指さしてバカ笑いしてやるからな」
「じゃあ、いま、笑ったら?」
 涼さんは肩をすくめた。
 俺はあっけにとられて、あんぐりと口をあけた。
「なんですか、それ」
「まあ、落ち着いて座れよ。食いつかないから」
 涼さんは芝生に腰を下ろして、座るように身振りした。
 俺は毒気を抜かれて、また座り込んだ。
 涼さんはブレザーの内ポケットから、写真を3枚出して、俺の太腿の上に放った。
「見たくないよ。あんな辛気臭い顔した写真なんか」
「バカ。よく見ろよ。君じゃない」
「えっ……」
 興味もないので、渋々見た。
 披露宴の写真で、円卓について食事をしている男の子たちが数人写っている。
 披露宴には、新婦の久美子さんが数学教師をやっている私立の男子校から、数人の教え子たちが来ていた。
 久美子さんって人は子供の頃から教師になりたくて、でも、公立校の採用には落ちたので、知人の紹介で市内の私立の男子校に勤務したという話だった。
 それぐらい教師に執着している所為か、面倒見もよく、また若くて美人だということもあって、生徒にはすごくウケがいいらしい。
 結婚すると聞いて、生徒有志が絶対出席させてくれとねじ込んだって話だった。
 その子たちの写真だろうか。
「これがどうしたんですか」
「右端の子、君に似てるだろ」
 俺は写真に目をくっつけて、じっと見た。
 似てるも似てないも、顔が小さすぎて判別できない。単に髪形が短髪なだけという気がする。
「その子たち、日曜日ごとにウチに来てたな。秋本センセのファン・クラブです、なんてさ。母さんがまた、客好きで歓迎してた」
「美人でしたもんね、お姉さん」
 結婚式を思い出しながらボンヤリいったものの、実のところ、あまりよく覚えてなかった。
 結婚式については、ろくな記憶がないんだ。落ち込んでて、それどころじゃなかったから。
「母さんが姉貴の結婚を口すべらしたのも、その子たちが来てる時さ。男子校だってんで、姉貴も式が終わるまで隠しとくつもりだったんだけどね。ひでえ騒ぎだったな。ショックで叫び出すヤツ続出だった」
 俺は黙っていた。
 涼さんの口調は、いままでに聞いたことのない穏やかなものだった。もっとも、俺が彼の話すのを聞くのは3度目で、前2回ともひどいことしかいわれてない所為もあるけど。
 なんとなく、感じるものがあった。
「この子も、ショック受けてたんですか?」
「いや。真っ先に手を打って、おめでとうございます!っていったね。だいたい、その子は他の子に比べて普段から騒がしくて、ひょうきん者で、ファン・クラブってのも友だちのつきあいでお遊びでやってるだけみたいだったからね。結婚の話を聞いて、ひとりではしゃいでたよ」
「ああ、そういうとこ、似てるかな。俺もおちゃらけ者だから、そんな話聞いたらひとりで盛り上がって、お祭り騒ぎにしちまうんだ」
「だから、俺は頭にきたのさ。素直じゃないから」
 涼さんは本気で怒ってるようで、なまじ体格のいい成人男子みたいな人だから、俺はセンセに怒られているような気になって、しゅんとした。
「彼らが帰ってから、俺は電車に乗って、その子んちまで行ってみたよ。その子、泣き腫らした真っ赤な目で出て来て、謝った」
「なんで謝るんですか」
「なんでって……」
 涼さんは皮肉な笑顔になった。
「俺たち、つきあっていたからだろうな」
「…………」
 俺は何をいっていいのかわからなかった。
 恋の話って、他の人の場合はなんてわかりやすいんだろう。
 俺が当事者だったら、たぶん感情が入り乱れてわけがわからないだろうけど、こうやって事実だけ聞かされたら、すべてのことが手に取るようにわかってしまう。
 その子、きっと誰よりもお姉さんが好きだったんだ。
 ファン・クラブでお祭り騒ぎしてるだけですって冗談でごまかしながら、久美子センセが大好きだったんだ。
 仲間とセンセの家に遊びに来るのが、とてもうれしかったに違いない。
 そのうちに、涼さんと親しくなった。
 ヘンな下心はなかったと思う。
 ただ、センセの話を聞いたり、その弟と親しくなることで、センセに1歩近づいた気でいただけなんじゃないだろうか。
 結婚の話を聞いて、みんなといっしょに悲しめないほど、そんなもんじゃないほどショックで、涼さんの手前もあって、必死になって命からがら騒いだんじゃないのかな。
「控え室で、姉貴におめでとうだの、キレイですだのと、やたらうるさく騒いでた君を見てたら、その雰囲気があんまりその子にそっくりなんで、ムカムカしたんだ」
「…………」
「無理してるなって感じでね。悲しかったら泣けばいいのさ。慰める隙も与えないってのは、つくづく卑怯だと思うよ」
 そんなこと、俺にいわれても困る。
 けど、あの時、あんな失礼なこといったのは、わかったような気がする。
「ま、俺があの時、ああいうこといったのは、こっちの気分が荒れていた所為だ。きのうはきのうで、君、また突っ張れるだけ突っ張ってたもんだからさ。ああいうの見ると、ついついからかいたくなってね。いま、ヒネてるから」
 涼さんなりの謝罪のつもりらしかった。
 俺はなんとなくうなずいて、写真を返した。
「その子のこと、まだ怒ってる?」
「別に。誤解されちゃ困るけど、つきあうったって、週に1度会ったり、電話するだけの他愛ないもんだった。ただ、その子が顔を引きつらせながら姉貴におめでとうをいってるのを見て、ちょっと驚いて、すぐに納得したさ。それだけのことだよ」
「ふぅん」
 たぶん、その時初めて、彼の本心に気づいたんだろう。本命はあくまでもお姉さんであって、決して涼さんではなかったのだということを。
 恋愛は盲目とはいうけれど、思い込むのも大概にしないと、あとで大ヤケドする。
 なんか、切ない話だな。
「写真、どうも。さっき、ひどいこといって、すみませんでした」
「笑うんじゃなかったの?」
「笑えないっすよ」
 俺は立ち上がって、ズボンについた草を払った。
 涼さんも立ち上がった。
「ところで俺たち、つきあってみないか」
 立ち上がりざまに、なんでもないことのようにそういった。
「は?」
「つきあってみないかっていったんだ。そうだな、期限つきで」
 俺はじっと涼さんを見た。
 また、からかってるのかと思ったけど、そんなふうでもなかった。
「涼さん、俺のこと好きってわけじゃないですよね」
「ああ。それは断言できるよ」
 そのいい方はいかにも自信ありげだったので、俺は吹き出した。
「じゃあ、どうして」
「君も失恋して、ちょっとツライんだろ?俺の方は失恋ってほどでもないが、しんどいことに変わりはない。それに慣れるまで、じっとして、ウジウジしてるのもいいけどね。努力も必要さ」
 思ってもみないところに“努力”なんて言葉が出てきたので、俺はまた笑った。
 そういえば、受験生なんだ。
「努力って、なんの」
「忘れる努力。興味を他に移す努力だ」
「およそ建設的なものの考え方ですね」
 俺はすっかり感心した。
 3年生にもなると、こういうものなんだろうか。
 俺なんか身を縮こませて、いつか平気になる、1年後を見てろ、なんて負け犬の遠吠えみたいに、お題目となえるだけかもしれないのに。
「でも、それって、ふられた者同士でくっつくみたいで、どっか健康的じゃないっすよね」
「くっつくったって、俺は君とくっつくつもりはないよ」
 涼さんは嫌味たらしく、驚いてみせた。
「プライド傷つけるかもしれないけどね。ただ、ひとりで努力するより、ふたりで気晴らししながら協力し合おうってわけだ。ずいぶん健康的だよ。部屋に閉じこもって、ウジウジしてるよりは、ずっとね」
「いつか、平気な自分になるために?」
 俺はちょっと、うわの空でいった。
「そう。気がついたら、すっかり平気になってるってのが理想だな。……俺の場合、たぶん2、3ヶ月で大丈夫だと思う。君は?」
 俺は……。
 俺はどのくらい必要なんだろう。
 中学1年の時から、ずっと見続けてきた友人を他人のように感じるには。
 ふいに襲ってくる嫉妬や寂しさから逃げ切るには、いったいどのくらいの時間が必要なんだろう……。


 涼さんの提案はなかなかユニークで、本当に前向きだったけど、俺はそういう大人の考え方にはついていけないので、丁重に断わった。
 涼さんは別に固執はしなかった。
 どっちにしろ、学期末試験が近づいていて、気晴らしには事欠かなかった。
 俺たち中学以来の3人グループは、事実上の活動停止、解散状態で、いままでのようにいっしょに試験勉強するってことにはならなかった。
 俺と春彦のことがなくても、春彦と真壁の他愛ないケンカ状態がまだ続いていたからだ。
 それに、夏休み中の8月初旬、高校総体地区予選会を兼ねた駅伝レースがあるとかで、真壁も学期末は捨てると公言していて、試験勉強どころじゃなかった。
 俺はひとりで、図書室で勉強していた。
 1度だけ、そこで春彦を見かけた。
 俺が図書室で数学と格闘していると、春彦が入って来たのだ。
 俺を見て足を止めたけど、引き返したりはしなかった。そういうところは強情で、意地っ張りな性格そのものだった。
 俺とずいぶん離れた席について、問題集を開いたようだった。
 俺は数学をやめて、もっと打ち込んでやれる古文に変えた。
 助動詞の種類の多さに手を焼いて、小1時間ほどして顔を上げると、春彦の隣りに真二郎が座っていた。
 数学か何かを教えてもらっているのだろう。春彦は数学の北川センセのお気に入りだった。
 俺はわりと冷静に、ふたりの背中を眺めた。
 遠くから眺めることには慣れていた。
 そら、見たことか。
 俺は自分にいい聞かせた。
 こんなふうにして、いつか必ず平気になるんだ。本当に、なんでもなくなるんだ。
 あいつはごく普通の男子高生で、英雄でも王様でもなく、数学がちょっとデキて、クラス・メートに頼まれれば気軽に教える、気持ちのいいヤツだ。それだけのことだ。
 ふいに、真二郎の肩が揺れた。
 教えてもらった問題が解けたので、満足そうに笑っているようだった。
 俺はゆっくりと、教科書に目を落とした。
 とても苦しかった。
 でも、真二郎の笑い声が聞こえない分だけ、まだマシだといい聞かせた。ふたりが楽しそうに声を上げて笑っているのを聞いたら、きっといたたまれないだろう。
 やっぱり、離れて正解だったのだ。それを想像するだけで、こんなにも胸が苦しいのだから。
 だけど、もう少し時間が必要だった。
 学期末が終わって数日経ったある日、俺は担任を通じて職員室に呼ばれた。
 不思議なことに、俺を呼んだのは見も知らない3年生の担任だった。
「うちのクラスの秋本涼と仲がいいって聞いたんだが」
 村井というセンセはとても穏やかに、単刀直入にいった。
 俺はポカンとして、村井センセを見返した。
 村井センセは3年A組の担任ということだった。
「涼さんは知ってますけど」
 わけがわからなくて口ごもると、センセはなるほどなるほどと、何度もうなずいた。
「学期末で、かなり成績が落ちてね。といっても、いつもトップ・グループだったのが20番外に落ちたって程度だが、この時期に落ちると、あとは地滑り的なんだよ」
 それがどうしたのか、俺は訊いてみようとも思わなかった。
 涼さんの成績が落ちようが上がろうが、俺には無関係なんだけどな。
「ヤツは、医学部志望でね。現役でイケるはずなんだ。私立併願だが、国立で充分イケる。大切な時期だ。わかるね。1年生と遊んでる余裕は、ないんだよ」
「わかります」
 ようやく、わかった。
 なんだ。そうだったのか。
 涼さんとは1度、図書室で会った。
 開いた問題集をちらりと見て、答えが間違ってると手厳しく指摘して、聞きもしないのにあっという間にそのページの問題をすべて解いてしまった。
 そのあと、いっしょに帰った。
 そういったことを問題にしているのだろう。
「涼さんとは、遠縁なんです」
 笑い出さない為に顔を引き締めていたので、ちょっと見には怒って、反抗的に見えたかもしれない。
「イトコの奥さんの弟なんです、涼さんって」
 村井センセはちょっと眉を上げて、何かブツブツとつぶやいた。
 それっきりで帰してくれたけど、当然、こういったことはもれ聞こえるものだ。
 クラスの誰かが、その時、職員室にいたらしくて、俺が3年生との交際をセンセに注意されてた、という話になって、何日かクラスの男子たちの好奇心を刺激した。
 それに、涼さんがある日、授業間の10分の休み時間に我がクラスに飛んで来たことで、いっきに火がついた感じになった。
「今朝、ホーム・ルームのあとでムッチーが、1年の矢野武則というのは本当に遠縁かと訊きやがるんだ。嫌味な感じだったんで問いつめたら、君を呼びつけたんだって?」
「学校期待の星を堕落させたと思われたみたいです」
「君が前に家に来ただろ。あのあと、入れ違いで飯田が来たんだよ」
「飯田って?」
「隣りのクラスのヤツで、俺と競ってる医者の息子だ。やな野郎でさ」
 俺はニンマリと笑ってやった。
 初対面で俺をバカにして、そのあとでもひどいことをいって、ともかく体格といい口調といい考え方といい、これ以上大人っぽい高校生はいないって感じだったけど、成績を競っているライバルのことを憎々しげに口にする涼さんは、こういっちゃなんだけど、とても高校生っぽくて可愛い感じがして、意外だった。
「俺の成績が落ちたの聞きつけて、あることないこと吹いたらしい。殴り合いは趣味じゃないんで、次の実力テストか模試でカタキとってやる。迷惑かけたな」
 俺は背中にクラス・メートの視線を感じていたので、早く帰ってもらおうと気もそぞろだった。
 1年生校舎に3年生がいること自体、目立ってしまう上に、何しろひと目をひく長身なのだ。どちらかといえば俺も立派な体格してるけど、大人のオトコの魅力、とでもいうのだろうか、2つ年上の涼さんとは、どことなく違う。
 休み時間で廊下を走っている1年生も露骨に振り返る始末で、
「いいっすよ、別にカタキなんか取らなくても。失恋して成績が下がるなんて、見た目よりずいぶんデリケートでビックリしてるくらいなんっすから。それより、もう戻った方が……」
 俺は言葉を切った。
 春彦が男子トイレを出て、ゆっくり廊下を歩いて来るのが見えた。
 俺は廊下に面したC組の後ろのドアのところで、涼さんと立ち話をしていた。
 春彦は気づかない様子で、まっすぐに前を見たまま、俺たちの前を通り過ぎた。まるで連隊行進中の兵士のような感じだった。不自然なほど、前を睨んでいた。
 俺はため息をついて、涼さんにいった。
「もう、戻った方がいいっすよ」
 ひどく気の抜けた声だった。
 涼さんは『あっ』と思い出したようにつぶやいて、前のドアからC組に入るところの春彦を振り返った。
「悪かったかな」
「いいっすよ」
 俺はうわの空で笑った。
 涼さんを責めるほどのことでもないし、もう噂になろうが、クラス・メートに疑われようが、どうでもいい気になっていた。
 体育の授業のあとの更衣室で、『お前ら、どんな関係なんだよ』とひとしきりその噂で詮議され、命からがら更衣室を出た時、真二郎に腕をつかまれた。
 真二郎は怒っているのか笑っているのかわからない、奇妙な表情だった。
「馬鹿だな、矢野」
 ゆっくりと、力を込めて、そういった。
「俺、なんとかして納得して、きれいに離れるつもりだったのに、それをぶち壊しにしやがって。……いいんだな」
 ああ、真二郎は怒っているんだな、と思った。
「お前といい真壁といい、そんなんで風間の親友気取ってるかと思うと、胸クソが悪くなる。お前らの鼻をあかしてやる為だけでも、もう1度やってみる価値はあると思うな」
「好きにしろ」
 俺は弱々しく反ばくした。
「そうした方がいい。この際、ハッキリした方がいいんだ。春彦も苦心惨憺して次元が違うとか、特別な人間だとかいい訳する必要もなくなるしな」
「ほんとに馬鹿だな、お前」
 真二郎はもう1度、今度はあざけるように笑っていって、歩いて行った。
 馬鹿だと、自分でも思った。
 でも、徹底した方がいいのだ。
 早く平気になる為には、その方がいいんだ。
 時々、春彦と真二郎がしゃべっているのを見かけて、そのたびにドキドキするくらいなら、いつもふたりいっしょの方がいい。
 春彦を見かけた時には隣りには真二郎が、真二郎を見かけた時には隣りには春彦がいるものなんだと、早く納得した方がいい。
 要は、慣れの問題なんだ。
 俺は自分の性格が、思ったよりかなり過激なのに驚いた。
 夏休みの直前になって、涼さんから、いっしょに隣町の予備校に通ってみないかと誘われた。
 去年のように3人でどこかに行く予定もなく、休み中をボンヤリとひとりで過ごすことを考えてゲンナリしていた俺は、即OKした。
「結局のところ、お互いに協力することになったわけだ」
 失恋の痛手で成績が落ちたのを気にしている涼さんが、感慨深そうにいった。
「学生なんだから、勉学に打ち込むのはいいことっすよ。きっと努力の甲斐もあるってもんさ」
 俺は真面目に答えた。
 ドラマチックな1学期だった。高校生活ってのも大変だ。
 終業式の帰り道、俺はつくづくそう思った。
 長い“努力”の夏休みが、始まろうとしていた。今年の夏は涼しくて、しのぎやすそうだった……。
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とっても続きが気になります!

結構長かったですが一気に読んじゃいました!
是非続きを読みたいです。

  • 2014⁄01⁄28(Tue)
  • 21:28
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