- 2014⁄05⁄11(Sun)
- 01:29
サマー・ホスピタル
その朝、ぼくは目覚める前から知っていた。
あぁ、今日なんだと、わかっていた。
扉の向こうの廊下をパタパタと走り歩くスリッパの足音、頭の上でヒソヒソとささやき交わす人の話し声、そのどれもが、今年16歳になるぼくには聞き覚えがあった。これは気配というやつだと、ぼくは思った。
この気配を知っているんだ、ぼくは。
いよいよ、お祭りが始まるんだ。
それはいつ、と決まっているわけではないのが、とても厄介だった。
ふいに始まる時もあれば、1年も2年も準備に費やして、ようやくやって来る時もあったりして、それはもう小さなぼくなんかの思惑を超えたところで、時にむりやり決められてしまうらしいのだった。
「世の中って、そういうもんさ」
あぁ、今日なんだと、わかっていた。
扉の向こうの廊下をパタパタと走り歩くスリッパの足音、頭の上でヒソヒソとささやき交わす人の話し声、そのどれもが、今年16歳になるぼくには聞き覚えがあった。これは気配というやつだと、ぼくは思った。
この気配を知っているんだ、ぼくは。
いよいよ、お祭りが始まるんだ。
それはいつ、と決まっているわけではないのが、とても厄介だった。
ふいに始まる時もあれば、1年も2年も準備に費やして、ようやくやって来る時もあったりして、それはもう小さなぼくなんかの思惑を超えたところで、時にむりやり決められてしまうらしいのだった。
「世の中って、そういうもんさ」
と、したり顔でいうのは、18歳の悠介だ。
着替えの洋服はたくさん持っているのに、いつも同じ真っ白な開襟シャツを着ている悠介は、ちょっとひねくれた一面があると、ぼくは密かに思っている。
彼は、ここが孤児院だと、いまでもいい張っている。本当は全然、そうじゃないのに……。
それだけでも、どれだけ悠介がひねくれた男の子かがわかるというものだった。
ここは海辺の近くにある伯父さんの別荘だ。毎年、夏休みになるたびに、母親に連れられてやって来る古びた洋館だ。
実は悠介がどういう縁戚関係の人なのか、ぼくには今ひとつつかめていない。ともかく今年の夏は、すべてが変なのだ。
気がついた時には、あの真っ白な開襟シャツの悠介や、ゲートボール小僧の貴明やらがいて、
「さぁ、どうしたんだい。君の大切な仲間じゃないか。仲良くしないといけないよ」
と、最初に伯父さんに紹介された時には、ビックリしたものだ。
今年の夏は、やっぱり少し変なんだ。見知らぬ仲間は出て来るし、海辺には行けないし……とベッドの中でボンヤリとまどろんでいたぼくは、ハッと目を開けた。
ふいに近くで、人の気配がしたのだ。
むっくりと上半身を起こして、扉のほうに目をやった。
扉の前には、いつの間に入って来たのか、貴明が立っていた。
今日の貴明は、中年のほうだった。紺色のスーツにきっちりとネクタイを締めて、茶色の書類カバンを小脇に抱えている40代半ばの貴明だった。
ゴルフ焼けしたブロンズ色の素肌は、夜ごとの接待の暴飲暴食ですっかり荒れていて、顔の毛穴からは脂が浮き上がり、てらてらと光っていた。
薄茶色の瞳はぎらぎらとして、まるでぼくのことなど目に入っていないふうで、扉の前を行ったり来たり、うろうろし始めた。
ぼくはなんだか悲しくなって、ふぅーっと息を漏らしてベッドから降りながら、
「貴明、もう何度もいったと思うけど、ぼくは初めて会った時の君が好きなんだよ」
無理だろうなとは思いながらも、声をかけてみた。
「なんといっても、会長がクモ膜下出血で急死したのが、すべての運命の別れ道だったんだよな。いっちゃあなんだが、こうまで順調にことが運ぶとは思わなかったよ」
思った通り、ぼくの声など聞こえていないふうで、貴明は扉の前を行ったり来たり繰り返しながら、いつもの独り言をつぶやき出した。
「同じ大学の登山部というつながりだけで、気がついたら反主流派の小田切専務に引っ張られてさ。これはもうダメだ、俺の出世もこれまでか、小田切専務と心中するしかないんだと、さっさと腹をくくったのが逆に良かったんだよ。もともと俺は、あきらめばっかりの人生だったからな。け、ざまぁーみろ。会長が急死したあと、“どんな時でもお前だけは不満顔を見せずに、私に忠誠を誓ってくれていたな”と、新社長に就任した小田切さんがおしゃったんだからな!!やったぜ、俺にも運がまわって来たんだぜ。その時のうれしさがわかるかってんだ、この野郎っ!!」
うろうろ歩きまわっていた貴明は、ふいに足をもつれさせて、その場にドシンと尻餅をついた。
ぼくはギョッとして走り寄ろうとしたが、なかなか思うように体が動かない。今年の夏は、どういうわけか、体も変なのだ。
この前も、海辺の岩陰に行こうとして、うっかり砂地に足を取られて転んでしまった。
「ここは山の中の孤児院だ。海なんかどこにもないさ」
といい張る開襟シャツの悠介を黙らせ、へこませるために、悠介を連れてふたりで海に向かったはずなのに……。
結局、海辺には行けずに、それどころか担架に乗せられて、ぼくはこの洋館に戻って来た。
あの時の大人たちの責めるような、憐れむような目つきと、開襟シャツの悠介の、綺麗な黒目がちの瞳の奥でゆらめいていた哀しみの色を思い浮かべただけで、ぼくは悔しくて息がつまってしまう。
「徘徊がいちばん、怖いんですよ。それに比べたらねぇ、いっそ転んでくれたほうが……」
「先生……」
伯父さんが近所の若造や小娘相手に、愚痴っているのを小耳に挟んで、ぼくは悔しがっていいのか、秘密がバレなくてよかったとホッとしていいのか、すぐには判断がつかなかった。
でも、徘徊って、いったいなんのことだ?
皆は、ぼくのことを、男の子らしくないひ弱な少年だと思って、バカにしている。本当は違うんだ。
だって、ぼくは知っている。
海辺の大きな岩の下、波が打ち寄せて砕け散るその岩陰に、人間の死体がふたつあることを知っているんだ。死んだばかりの死体なんだ。
ぼくはそれを見ても泣きもしなかったし、悲鳴も上げなかった。
ぼくはもう大人なんだ。死体なんか全然、平気だった。
触ってみると、死体はまだ温かだった。もしかしたらほんの1分前まで、ふたりは生きていたかもしれないというくらい、新鮮だった。
いいや、男のほうはまだ生きていた。
そうだ。生きていたんだっけ……。
オンナのほうは、首を絞められて、もう息をしていなかった。
男のほうは胸を……、そうだ。半袖のTシャツの胸もとが、血で真っ赤に濡れていた。小型のバタフライ・ナイフで自分の胸を刺したのに、傷が浅すぎて、全然死んでいなかった。
オンナの首を絞める時は容赦なく力を込めたのだろうに、自分の胸を刺す時は、さすがに怖じ気づいたんだ……。卑怯なヤツだ……。
だから、だからぼくは……――――
ぼくはベッドに腰掛けて、ふと涙を流している自分に気がついて、ゴシゴシと頬をぬぐった。
泣いちゃいけない。こんなところを開襟シャツの悠介に見られでもしたら、またバカにされる……と思った時、ふいに窓が開いて、開襟シャツの悠介が顔をのぞかせた。
「悠介、君……」
また何か厭味をいわれるに決まっている。そうタカをくくって身をすくませるぼくを、開襟シャツの悠介はじぃーっと窓から眺めていて、やがて哀しげに首を振った。
そして無言のまま、真っ黒で艶やかなストレートの髪の毛を、指先でゆっくりと梳かし始めた。
それはまるで額縁の中の少年の絵が、ひっそりと動いているかのような、不思議な静けさに満ちたしぐさだった。
どこからか、潮風の匂いまでがするようだった。
「悠介、そんなところにいないで、中に入っておいでよ……」
ぼくの背後から、幼い貴明の声がした。
振り返ると、いつの間にか中年男の貴明は、ハニカミ屋の、人見知りをする13歳になったばかりの少年になっていた。
ほっそりとした体、白い肌、もじもじと膝頭をすり合わせている貴明は、ぼくが思わず見惚れるほど可愛かった。オンナの子に見えるほどだった。
「貴明……。ようやくぼくの大好きな、貴明になったね」
ぼくはホッとして、彼を手招きした。
ついさっき派手な尻餅をついた貴明は、腰の辺りに手を当てて、ゆっくりゆっくりベッドまで歩いて来て、ぼくの隣にのろのろと腰を下ろした。そして、どうしたことか、急にしくしくと泣き始めた。
泣きながら、静かな声で語り出した。
「浩二……、ぼくらは約束をしたよね。お祭りの時には、皆で秘密をしゃべり合おうって……。ぼくはどうしても忘れられないんだ。父さんがオンナの人とどこかに行っちゃって、ぼくらはもう、その家に住めなくなった。長野に行って、母さんの親戚の家の離れに住まわせてもらうことになったのさ。その家には5つも6つも年上の、イトコのアッくんというのがいて、夏休みには時々は東京の家にも遊びに来てたんだ。彼は少し乱暴で、ぼくは……長野の田舎者だと思って、バカにしているところがあった。初めて中学校に行った日のことだった。教室に入ると、皆がぼくを見ていっせいに机をたたいてはやし立てたんだ。やーい、オンナだオンナだって。東京の子は皆オンナだぞって。その日の放課後、ぼくは同じ組の子に呼び出されて、裏山に行った。そしたら、5、6人の男が待ち伏せていて、いっせいにぼくに飛びかって来て……」
貴明はいいよどんで、いっそう激しく泣きむせんだ。
ぼくはなんだか胸がいっぱいになって、貴明の背中を撫でてやった。
「いいんだよ、貴明。秘密なんか、いわなくてもいいんだ。苦しかったら、黙ってるのがいいんだよ」
「ぼくは制服のズボンを脱がされて、パンツまで盗られたんだよ!!」
貴明はおいおい声を上げて泣いた。
「ヤツらは落ちていた木の小枝にぼくのパンツをくくりつけて、それを旗みたいにしてワァーッと叫びながら走り去って行ったんだ。ぼくはチンコを手で隠して、ぼうっと突っ立ってるだけだった。アッくんに……、ぼくの年上のイトコだよ、そのアッくんに気がついたのは、だいぶ経ってからなんだ。アッくんは樹の下に立ってたんだ。腕組みして、ニヤニヤ笑いながら……。ぼくは……、ぼくはその時、わかったんだよ。ヤツらにぼくのパンツを盗らせたのは、親分格のアッくんだって。ぼくがアッくんのことを田舎者だと心の中でバカにしてたのを、アッくんはちゃんと知ってたんだ。だから復讐したんだ……。高校生のアッくんは、自分の学生服を脱いで、ぼくの腰に巻いてくれた。そして、ぼくを背中に負ぶって、家まで連れて帰ってくれたんだけど……、ぼくは知ってるんだ。ぼくを負ぶっている間じゅう、アッくんがうれしくてならないみたいに、笑いをこらえていたのを。だって、背中が震えていたんだよ。ぼくはあの時くらい、人を憎いと思ったことはなかったよ」
「バカだなぁ、貴明」
いつの間に部屋の中に入り込んで来ていたのか、髪を梳かしてサラサラになった開襟シャツの悠介が、泣きじゃくる貴明の前にかがみ込んで、彼の膝頭をやさしくたたいた。
「お前はとっくに気がついてるはずだぜ。アッくんは、お前のことが好きだったのさ。東京のオンナの子みたいに可愛いお前のことを、好きだったんだよ。気がついてたんだろう?」
「わからないよ。アッくんは次の年の春に、就職で名古屋に行ってしまったんだ……。ぼく以外の皆は……、駅まで見送りに行ったのに、ぼくは腹が痛いといって、布団をかぶって寝てたから……。水が飲みたくなって、部屋を出たら……、ドアの外の廊下に、銀の腕時計が置いてあった。それは家出したぼくの父さんのもので、家の離れに住まわせてもらう時に、母さんがお金になりそうなものは全部、長野の親戚の連中に差し出しててさ。その中で、ぼくが最後まで惜しがっていたやつだったんだ。その時計はアッくんが自分のものにして、よく、ぼくに見せびらかしていたんだ。それが……、ドアの外にあったんだよ。きっちりネジが巻いてあって、チクチク、チクチクって音が、今でも耳から離れないんだ。ぼくはなんだか、アッくんが手の届かない遠くに行ってしまうような気がした。アッくんが就職先の名古屋で転落事故で死んだのは、その年の夏だったんだよ、浩二。だけど、ぼくはアッくんに謝りたくて……、でも、アッくんはもう、いないんだ……」
「貴明、もうすぐ会えるよ。今じゃなくても、もうすぐ。きっと……」
「フン、そんなことはどうでもいいのさ」
両手に顔をうずめて泣いていた貴明が、みるみる中年男に姿を変えていくのを眺めながら、ぼくは哀しくてたまらなかった。
華奢で可愛い貴明は弱みを見せたと思ったとたん、まるでそれを取り戻そうとするみたいに、すぐに脂じみた中年男に姿を変えてしまう。そして決まって、威張り散らすのだ。
もうすぐお祭りが始まるという日くらい、貴明の自慢話なんか聞きたくないのに……。
会長が死んだおかげで運がまわって来たといっては、額をてらてらさせる中年の貴明と、銀の腕時計の話をする少年の貴明が、ぼくの中ではどうしても結びつかない。でも、どちらも貴明なのだ。
それを受け入れなくてはいけないと、16歳になるぼくはすぐに思い直した。
大人になるというのは、そういうことかもしれない。
生きるっていうのは……。
ベッドに腰掛けていた中年男の貴明が、ふいに立ち上がった。
ひざまずいていた開襟シャツの悠介も、音もなく立ち上がった。
そしてふたりして、窓に向かって歩き出した。ぼくは急に不安になって、彼らを呼び止めた。
「貴明、悠介、どこへ行くのさ」
「海だよ。お前の代わりに、死体をさがして来てやるのさ。お前はそれが気になっているんだろう?」
2つ年上の兄貴ぶった口振りでいって、悠介はぼくを振り返った。真っ黒でサラサラだった悠介の髪は、いつの間にか艶がなくなり、毛染めで染めたばかりのひどく赤茶けたものになっていた。
ぼくはひどく息苦しくなってきて、胸を押さえながら、悠介の髪の毛を見つめていた。
悠介はその赤茶けた髪の毛を、自分の指先でいとしげに何度も撫でつけた。
「なぁ、浩二……。あの、若い頃に保健体育の先生をやっていたっていう、中嶋さん。ほら、あの何年も前に死んだヤツのことだよ。ボケ防止にいいからって、ゲートボール・クラブをつくっただろう。ゲームの前に名前を呼び合って、点呼してから始めようって、そのほうが頭にもいいからって。ほんとにバカだよな、あいつ……。あいつに、俺が“悠介”と名前を間違って呼ばれた時のこと、お前、覚えてるか?」
「うん」
と、ぼくはあやふやにうなづいた。
そういえば、そういうことがあったのだ。悠介はその時、なぜだかひどく怒ったように、スティックを地面にたたきつけて、
「ちぇっ、面白くねぇ。悠介だとよ!!皆、これからは俺のこと、悠介と呼んでくれよな!!」
と、世界じゅうの人間に宣言するみたいに、大声で叫んだのだった。
名前を呼び間違えられた時に、どうしてすぐに正しい名前を口にせずに、俺はこれから悠介だ!などと叫んだりしたのか、皆から説明を求められても、悠介は絶対にいわなかった。
「悠介だから、悠介でいいんだよ」
と、いい張るだけだった。
それでその時から、悠介は悠介になった。
その前までの本当の彼の名前はというと……、ぼくはよく覚えていなかった。
「さぁ、次は俺の秘密を暴露する番だ、浩二……。悠介ってのはな、俺の体を最初に買った男が、俺のことをそう呼んだんだよ、ケツでアレしてる間じゅう、何回も……。ふられた男に少し似てるんだとさ、顎とか唇とか、目つきなんかが。初めて2丁目に立った夜、ホテルに連れ込まれた時、そいつは強い酒を俺に飲ませたんだ。まだ高校生で酒の味もよく知らなかった俺は、すぐに酔っ払って、どうでもいいような気になった。そしたら、男はまるで人が変わったように乱暴になった。1枚ずつ、俺の体から服をはぎ取るたびに、男の目は異様な光りを帯びてきて、怖くなった俺が力いっぱい蹴っても突き飛ばしても、俺の体から全然離れてくれない。抵抗すればするほど、俺の体に酔いがまわって、全身の力が抜けて、だんだん頭が朦朧としてきた。酒の中に何か入れられたと気がついた時には、俺のケツに男の指が押し込まれていた。俺の背中に覆いかぶさり、毛ジラミのようにしがみついている男をはねのけようとしてもがいた時、俺は思わず悲鳴に近い声を上げていた。ケツの穴にかつてない激痛が押し入って来たんだ。火で真っ赤になった焼きゴテをケツの中いっぱいに挿し込まれたような熱さが弾けた。終わったあと、男は服を着ると財布の中から1万円札を2枚取り出して、俺の手に握らせたよ。初釜をもらったお礼だ、とかいってさ……。2回目にそいつに買われた時に、前に自分をふった男は茶髪だったからといって、俺に髪染めを差し出して、風呂場で染めてみてくれっていうんだよ。俺は先生や家族に叱られるからイヤだっていったのに、ベッドで寝てる間にまだらに染められててさ、片耳にはピアスの穴まであけられて、俺は気が動転したんだ。でも、先生も父さんも弟たちも、この頭やピアスを見ても、なんにもいわなかった。見ても無関心を決め込んでいたんだ。それまでは隠れて遊んでいたのにさ。うすうす勘づいていたのが、これでハッキリしたと思ったんだろうけど、ほんとになんにもいわなかった。どうせ俺はそういう見方をされてたんだ、ずっと……。何年も……。俺が高校を出る頃になると、なんだか皆、俺が鬱陶しいみたいだった。いなくなってくれればいいと思っているみたいだった。世の中って、そういうもんだよな……」
悠介はいつもの口癖をいって、突然、声を押し殺して嗚咽し始めた。
「悠介……」
なんとか慰めの言葉をいいたかったけれど、出て来なかった。ひどく胸が苦しいのだ。何かが本当に喉につまっているみたいだった。
悠介は顔を振り上げて、何もいわずに黙っているぼくを睨みつけた。涙で濡れた目はいつの間にかシワで埋まっていた。
悠介はすっかり、80歳近い老人になっていた。
真っ白だった開襟シャツは茶色く変色して、垢がこびりつき、汗と垢の入り混じった異臭を放っていた。
ぼくは顔をしかめたかったのだけれど、それはまずいと、やっぱり勘が働いて、精一杯まじめな顔で悠介をやさしく見返した。
「俺は平気だよ、浩二……。同情しないでおくれ。ここの費用だって、3人の弟たちが払ってるのさ。家計が苦しかった時、3人とも、俺が稼いだお金で洋服や身のまわりのものを買っていたからな。多少なりとも、恩義を感じているのさ。俺は後悔していないね、全然。この開襟シャツは、最初に間違って俺を悠介って呼んだ男が、俺にいちばん似合うっていってくれた高校の夏服なんだ。俺はこの真っ白な開襟シャツの夏服が大好きだ。すごく似合ってるだろう、浩二」
悠介はそういって、自慢げにその場で1回転して見せた。
開襟シャツの裾がひらりと空気にめくれ上がり、1回転して戻った時、悠介はすっかり、18歳の悠介の姿に戻っていた。気の強そうな黒目がちの瞳で、熱っぽく、まっすぐに人を見つめてくる悠介は、どこか人を惹きつけるものがある。
悠介が長い間、この洋館に集まっている連中の密かなアイドルだったことを、ぼくは懐かしく思い出した。
いつもは中年男の貴明も、悠介がいるところではよく、可愛い人見知りをする少年の貴明になってくれたものだった。
「すごく似合ってるよ、悠介」
と、ぼくは大きくうなづいた。
「本当によく似合ってる」
「よし、さがして来てやるよ、浩二。お前がトドメを刺して、海に流した男の死体が海辺に打ち上がっていないかどうか、確かめて来てやる」
「あぁ、あぁ、頼むよ、悠介」
「浩二、俺はお前のことが好きだったよ。着たきりスズメの俺の開襟シャツ姿を見ても、お前は全然笑わなかったからな。わかるだろう?これは俺の制服なんだ。何も恥ずかしがることなんかないんだ」
「あぁ、わかるよ、悠介。ぼくはずっと、そんな悠介が素敵だと思っていたんだよ。あの恩着せがましい院長のジジィなんかよりも、ずっと」
「あの院長ね、ぼくよりかなり年下なんだよ、浩二。あいつ、まだ50かそこいらだろう?なのに“元重役たって、男もこんなふうになったらおしまいだな”だってさ。いろいろ忘れたり思い出したりすることはあるけど、あのセリフだけは忘れられないよ。くそジジィだ、あいつは!」
いつの間にか少年に戻っていた貴明が、腹立たしげにいった。
悠介はそれを見て、おかしそうに笑い出した。
そして、貴明は白いスベスベした頬を怒りで赤らめながら……、悠介は、引き締まった体をゆらして爽やかに笑いながら……、やがてふたりとも、分厚いコンクリートの壁をすり抜けて、見えなくなっていった。
ぼくは大きく息をして、ベッドにのろのろと横になった。なぜだか、もう立ち上がることは出来ないような気がしていた。
それでもいい。
貴明と悠介が、きっと死体をさがしてくれるだろうから……。
ゲートボール・クラブの仲間も、もうほとんどが死んでしまった。
あのふたりだけが生き残りだった。
生き残り同士は、多少、気が合わないところがあっても、不思議と許し合えるものだ。まるで、人生の最後の、戦友みたいに……。
あぁ、あの夏は本当に綺麗な夏だったと、ぼくは懐かしく思い浮かべた。
あれは、ぼくの最後の、夏だったかもしれない。
株屋の父親は羽振りがよくて、分不相応な海辺の洋館を別荘にと買っていた。
毎年、いい匂いのする母さんと、その洋館に行って遊んだ。
レースの縁飾りが付いた黒いパラソルをさして、しばしば海辺に散歩にゆく母さんと、夏が来るごとに帰省するあの大学生とは、いつ、どうやって知り合ったのだろう。まして、昼日中に人目を忍んで、どうやって逢瀬を重ねていたのだろう。
ふたつの死体、いいや、ひとつはまだ息があった。それを見るまで、ぼくは何も気づいていなかった。けれど、岩場に横たえられた母親の絞殺死体を目にした時、すべてがなんとなくわかった。
潮風の匂いが、なぜかとてもきつい日だった。
浜辺にはいくつもの海草が打ち上げられていた。
空はどこまでも青く、目にしみるほどに晴れ渡っていた。
そばに転がっていたバタフライ・ナイフで大学生の胸をひと突きに刺したのは、憎らしいからじゃなかった。ただ、死ぬべきだと思ったからだった。
それだけだった。
だって、母さんは、その時にはもう、死んでいたのだから……。
ぼくが殺した男を海に流したのは……、死体が血で真っ赤に汚れていたからだった。理由はそれだけだった。
翌日、報せを受けて駆けつけて来た父親は、お酒の匂いをプンプンさせていた。詳しい事情を何も知らずに、父親のあとを追いかけて来た水商売のケバいオンナどものおかげで、小さな村の人たちは皆、母さんだけに同情していた。
行方不明の男を捜すために、いくつもの漁船が城ヶ島の海に出て行ったけれど、見つからなかった。
毎年、涼しげな水のように、静かに流れる夏があった。
何もかもが止まったような、そんな夏の中で、あの夏だけがドクドクと息づいている。
その夏が終わる頃、突然、あの震災があったのだ。すごい地震で、ぼくの町は壊滅したという噂が漁村を駆け巡ったけれど、ひとり洋館に残っていたぼくにはよくわからなかった。
しばらくして、父親が崩れた家の下敷きになって死んだという報せと共に、債権者が洋館に押し寄せて来た……。
ピアノや家具が次々に運び出される音や、壁にかかっていた油絵が外され、カーテンまでもが取り去られるのを、ぼくは階段の手すりに腰掛けて、ボンヤリと眺めていた。それはなんだか、お祭りのように騒々しく、賑やかで、心が浮き立つような光景だった。
余計なものが取り除かれて、部屋の中が伽藍堂になるのは、いいことだと思った。
そこには何か、真実があるような気がした。生まれ変われるような気がした。
あの夏、あの素晴らしい夏。あの夏だけが、今すべてが混沌とした意識の向こうで、光り輝いている。
それ以外は、すべてが夢のようだ……。
遠くで、誰かがすすり泣く声が聞こえたような気がして、ぼくはハッと目を開けた。
すると、そこは海辺だった。
5つか6つくらいの男の子が、砂遊びをしていた。
ぼくは長いことその男の子のそばに立って、砂を集めては城をつくる様子を眺めていた。
やがて、足もとにまで波が打ち寄せて来て、濡れた足が次第に、冷たくなってきた。
「よく飽きないね」
あまりに長い間、男の子が一心不乱に砂の城をつくって遊んでいるので、ぼくは声をかけてみた。
男の子は不思議そうに顔を上げて、ぼくを見上げた。
「飽きるって、何?」
「もういいって、思うことだよ。もう、ほんとにいいって、思うことなんだ」
「ふぅーん……、変なのぉ」
男の子はあやふやにうなって、よくわからないといった顔をして、またせっせと砂遊びを始めた。
途中で邪魔をされて、腹を立てているのかもしれなかった。
怒らないでおくれ。
こんなに綺麗な夏なのに、何を怒ることがある。
すべてが静かに動いている。
君は生きているじゃないか。
そういいたかったが、ぼくは黙って立っていた。
こんなに爽やかな潮風に吹かれて海辺に立つのは、何年ぶり、いいや、何十年ぶりだろうかと思いながら……。
青い波間の向こうから、もくもくと白い入道雲が湧き立って来るのが見えた。
あぁ、雲だ……。
なんて綺麗な雲だろう……。
そしてやがて、ゆっくりと潮風の匂いが薄れてゆき、ぼくの周りがまばゆいばかりに、白く輝き出した。
着替えの洋服はたくさん持っているのに、いつも同じ真っ白な開襟シャツを着ている悠介は、ちょっとひねくれた一面があると、ぼくは密かに思っている。
彼は、ここが孤児院だと、いまでもいい張っている。本当は全然、そうじゃないのに……。
それだけでも、どれだけ悠介がひねくれた男の子かがわかるというものだった。
ここは海辺の近くにある伯父さんの別荘だ。毎年、夏休みになるたびに、母親に連れられてやって来る古びた洋館だ。
実は悠介がどういう縁戚関係の人なのか、ぼくには今ひとつつかめていない。ともかく今年の夏は、すべてが変なのだ。
気がついた時には、あの真っ白な開襟シャツの悠介や、ゲートボール小僧の貴明やらがいて、
「さぁ、どうしたんだい。君の大切な仲間じゃないか。仲良くしないといけないよ」
と、最初に伯父さんに紹介された時には、ビックリしたものだ。
今年の夏は、やっぱり少し変なんだ。見知らぬ仲間は出て来るし、海辺には行けないし……とベッドの中でボンヤリとまどろんでいたぼくは、ハッと目を開けた。
ふいに近くで、人の気配がしたのだ。
むっくりと上半身を起こして、扉のほうに目をやった。
扉の前には、いつの間に入って来たのか、貴明が立っていた。
今日の貴明は、中年のほうだった。紺色のスーツにきっちりとネクタイを締めて、茶色の書類カバンを小脇に抱えている40代半ばの貴明だった。
ゴルフ焼けしたブロンズ色の素肌は、夜ごとの接待の暴飲暴食ですっかり荒れていて、顔の毛穴からは脂が浮き上がり、てらてらと光っていた。
薄茶色の瞳はぎらぎらとして、まるでぼくのことなど目に入っていないふうで、扉の前を行ったり来たり、うろうろし始めた。
ぼくはなんだか悲しくなって、ふぅーっと息を漏らしてベッドから降りながら、
「貴明、もう何度もいったと思うけど、ぼくは初めて会った時の君が好きなんだよ」
無理だろうなとは思いながらも、声をかけてみた。
「なんといっても、会長がクモ膜下出血で急死したのが、すべての運命の別れ道だったんだよな。いっちゃあなんだが、こうまで順調にことが運ぶとは思わなかったよ」
思った通り、ぼくの声など聞こえていないふうで、貴明は扉の前を行ったり来たり繰り返しながら、いつもの独り言をつぶやき出した。
「同じ大学の登山部というつながりだけで、気がついたら反主流派の小田切専務に引っ張られてさ。これはもうダメだ、俺の出世もこれまでか、小田切専務と心中するしかないんだと、さっさと腹をくくったのが逆に良かったんだよ。もともと俺は、あきらめばっかりの人生だったからな。け、ざまぁーみろ。会長が急死したあと、“どんな時でもお前だけは不満顔を見せずに、私に忠誠を誓ってくれていたな”と、新社長に就任した小田切さんがおしゃったんだからな!!やったぜ、俺にも運がまわって来たんだぜ。その時のうれしさがわかるかってんだ、この野郎っ!!」
うろうろ歩きまわっていた貴明は、ふいに足をもつれさせて、その場にドシンと尻餅をついた。
ぼくはギョッとして走り寄ろうとしたが、なかなか思うように体が動かない。今年の夏は、どういうわけか、体も変なのだ。
この前も、海辺の岩陰に行こうとして、うっかり砂地に足を取られて転んでしまった。
「ここは山の中の孤児院だ。海なんかどこにもないさ」
といい張る開襟シャツの悠介を黙らせ、へこませるために、悠介を連れてふたりで海に向かったはずなのに……。
結局、海辺には行けずに、それどころか担架に乗せられて、ぼくはこの洋館に戻って来た。
あの時の大人たちの責めるような、憐れむような目つきと、開襟シャツの悠介の、綺麗な黒目がちの瞳の奥でゆらめいていた哀しみの色を思い浮かべただけで、ぼくは悔しくて息がつまってしまう。
「徘徊がいちばん、怖いんですよ。それに比べたらねぇ、いっそ転んでくれたほうが……」
「先生……」
伯父さんが近所の若造や小娘相手に、愚痴っているのを小耳に挟んで、ぼくは悔しがっていいのか、秘密がバレなくてよかったとホッとしていいのか、すぐには判断がつかなかった。
でも、徘徊って、いったいなんのことだ?
皆は、ぼくのことを、男の子らしくないひ弱な少年だと思って、バカにしている。本当は違うんだ。
だって、ぼくは知っている。
海辺の大きな岩の下、波が打ち寄せて砕け散るその岩陰に、人間の死体がふたつあることを知っているんだ。死んだばかりの死体なんだ。
ぼくはそれを見ても泣きもしなかったし、悲鳴も上げなかった。
ぼくはもう大人なんだ。死体なんか全然、平気だった。
触ってみると、死体はまだ温かだった。もしかしたらほんの1分前まで、ふたりは生きていたかもしれないというくらい、新鮮だった。
いいや、男のほうはまだ生きていた。
そうだ。生きていたんだっけ……。
オンナのほうは、首を絞められて、もう息をしていなかった。
男のほうは胸を……、そうだ。半袖のTシャツの胸もとが、血で真っ赤に濡れていた。小型のバタフライ・ナイフで自分の胸を刺したのに、傷が浅すぎて、全然死んでいなかった。
オンナの首を絞める時は容赦なく力を込めたのだろうに、自分の胸を刺す時は、さすがに怖じ気づいたんだ……。卑怯なヤツだ……。
だから、だからぼくは……――――
ぼくはベッドに腰掛けて、ふと涙を流している自分に気がついて、ゴシゴシと頬をぬぐった。
泣いちゃいけない。こんなところを開襟シャツの悠介に見られでもしたら、またバカにされる……と思った時、ふいに窓が開いて、開襟シャツの悠介が顔をのぞかせた。
「悠介、君……」
また何か厭味をいわれるに決まっている。そうタカをくくって身をすくませるぼくを、開襟シャツの悠介はじぃーっと窓から眺めていて、やがて哀しげに首を振った。
そして無言のまま、真っ黒で艶やかなストレートの髪の毛を、指先でゆっくりと梳かし始めた。
それはまるで額縁の中の少年の絵が、ひっそりと動いているかのような、不思議な静けさに満ちたしぐさだった。
どこからか、潮風の匂いまでがするようだった。
「悠介、そんなところにいないで、中に入っておいでよ……」
ぼくの背後から、幼い貴明の声がした。
振り返ると、いつの間にか中年男の貴明は、ハニカミ屋の、人見知りをする13歳になったばかりの少年になっていた。
ほっそりとした体、白い肌、もじもじと膝頭をすり合わせている貴明は、ぼくが思わず見惚れるほど可愛かった。オンナの子に見えるほどだった。
「貴明……。ようやくぼくの大好きな、貴明になったね」
ぼくはホッとして、彼を手招きした。
ついさっき派手な尻餅をついた貴明は、腰の辺りに手を当てて、ゆっくりゆっくりベッドまで歩いて来て、ぼくの隣にのろのろと腰を下ろした。そして、どうしたことか、急にしくしくと泣き始めた。
泣きながら、静かな声で語り出した。
「浩二……、ぼくらは約束をしたよね。お祭りの時には、皆で秘密をしゃべり合おうって……。ぼくはどうしても忘れられないんだ。父さんがオンナの人とどこかに行っちゃって、ぼくらはもう、その家に住めなくなった。長野に行って、母さんの親戚の家の離れに住まわせてもらうことになったのさ。その家には5つも6つも年上の、イトコのアッくんというのがいて、夏休みには時々は東京の家にも遊びに来てたんだ。彼は少し乱暴で、ぼくは……長野の田舎者だと思って、バカにしているところがあった。初めて中学校に行った日のことだった。教室に入ると、皆がぼくを見ていっせいに机をたたいてはやし立てたんだ。やーい、オンナだオンナだって。東京の子は皆オンナだぞって。その日の放課後、ぼくは同じ組の子に呼び出されて、裏山に行った。そしたら、5、6人の男が待ち伏せていて、いっせいにぼくに飛びかって来て……」
貴明はいいよどんで、いっそう激しく泣きむせんだ。
ぼくはなんだか胸がいっぱいになって、貴明の背中を撫でてやった。
「いいんだよ、貴明。秘密なんか、いわなくてもいいんだ。苦しかったら、黙ってるのがいいんだよ」
「ぼくは制服のズボンを脱がされて、パンツまで盗られたんだよ!!」
貴明はおいおい声を上げて泣いた。
「ヤツらは落ちていた木の小枝にぼくのパンツをくくりつけて、それを旗みたいにしてワァーッと叫びながら走り去って行ったんだ。ぼくはチンコを手で隠して、ぼうっと突っ立ってるだけだった。アッくんに……、ぼくの年上のイトコだよ、そのアッくんに気がついたのは、だいぶ経ってからなんだ。アッくんは樹の下に立ってたんだ。腕組みして、ニヤニヤ笑いながら……。ぼくは……、ぼくはその時、わかったんだよ。ヤツらにぼくのパンツを盗らせたのは、親分格のアッくんだって。ぼくがアッくんのことを田舎者だと心の中でバカにしてたのを、アッくんはちゃんと知ってたんだ。だから復讐したんだ……。高校生のアッくんは、自分の学生服を脱いで、ぼくの腰に巻いてくれた。そして、ぼくを背中に負ぶって、家まで連れて帰ってくれたんだけど……、ぼくは知ってるんだ。ぼくを負ぶっている間じゅう、アッくんがうれしくてならないみたいに、笑いをこらえていたのを。だって、背中が震えていたんだよ。ぼくはあの時くらい、人を憎いと思ったことはなかったよ」
「バカだなぁ、貴明」
いつの間に部屋の中に入り込んで来ていたのか、髪を梳かしてサラサラになった開襟シャツの悠介が、泣きじゃくる貴明の前にかがみ込んで、彼の膝頭をやさしくたたいた。
「お前はとっくに気がついてるはずだぜ。アッくんは、お前のことが好きだったのさ。東京のオンナの子みたいに可愛いお前のことを、好きだったんだよ。気がついてたんだろう?」
「わからないよ。アッくんは次の年の春に、就職で名古屋に行ってしまったんだ……。ぼく以外の皆は……、駅まで見送りに行ったのに、ぼくは腹が痛いといって、布団をかぶって寝てたから……。水が飲みたくなって、部屋を出たら……、ドアの外の廊下に、銀の腕時計が置いてあった。それは家出したぼくの父さんのもので、家の離れに住まわせてもらう時に、母さんがお金になりそうなものは全部、長野の親戚の連中に差し出しててさ。その中で、ぼくが最後まで惜しがっていたやつだったんだ。その時計はアッくんが自分のものにして、よく、ぼくに見せびらかしていたんだ。それが……、ドアの外にあったんだよ。きっちりネジが巻いてあって、チクチク、チクチクって音が、今でも耳から離れないんだ。ぼくはなんだか、アッくんが手の届かない遠くに行ってしまうような気がした。アッくんが就職先の名古屋で転落事故で死んだのは、その年の夏だったんだよ、浩二。だけど、ぼくはアッくんに謝りたくて……、でも、アッくんはもう、いないんだ……」
「貴明、もうすぐ会えるよ。今じゃなくても、もうすぐ。きっと……」
「フン、そんなことはどうでもいいのさ」
両手に顔をうずめて泣いていた貴明が、みるみる中年男に姿を変えていくのを眺めながら、ぼくは哀しくてたまらなかった。
華奢で可愛い貴明は弱みを見せたと思ったとたん、まるでそれを取り戻そうとするみたいに、すぐに脂じみた中年男に姿を変えてしまう。そして決まって、威張り散らすのだ。
もうすぐお祭りが始まるという日くらい、貴明の自慢話なんか聞きたくないのに……。
会長が死んだおかげで運がまわって来たといっては、額をてらてらさせる中年の貴明と、銀の腕時計の話をする少年の貴明が、ぼくの中ではどうしても結びつかない。でも、どちらも貴明なのだ。
それを受け入れなくてはいけないと、16歳になるぼくはすぐに思い直した。
大人になるというのは、そういうことかもしれない。
生きるっていうのは……。
ベッドに腰掛けていた中年男の貴明が、ふいに立ち上がった。
ひざまずいていた開襟シャツの悠介も、音もなく立ち上がった。
そしてふたりして、窓に向かって歩き出した。ぼくは急に不安になって、彼らを呼び止めた。
「貴明、悠介、どこへ行くのさ」
「海だよ。お前の代わりに、死体をさがして来てやるのさ。お前はそれが気になっているんだろう?」
2つ年上の兄貴ぶった口振りでいって、悠介はぼくを振り返った。真っ黒でサラサラだった悠介の髪は、いつの間にか艶がなくなり、毛染めで染めたばかりのひどく赤茶けたものになっていた。
ぼくはひどく息苦しくなってきて、胸を押さえながら、悠介の髪の毛を見つめていた。
悠介はその赤茶けた髪の毛を、自分の指先でいとしげに何度も撫でつけた。
「なぁ、浩二……。あの、若い頃に保健体育の先生をやっていたっていう、中嶋さん。ほら、あの何年も前に死んだヤツのことだよ。ボケ防止にいいからって、ゲートボール・クラブをつくっただろう。ゲームの前に名前を呼び合って、点呼してから始めようって、そのほうが頭にもいいからって。ほんとにバカだよな、あいつ……。あいつに、俺が“悠介”と名前を間違って呼ばれた時のこと、お前、覚えてるか?」
「うん」
と、ぼくはあやふやにうなづいた。
そういえば、そういうことがあったのだ。悠介はその時、なぜだかひどく怒ったように、スティックを地面にたたきつけて、
「ちぇっ、面白くねぇ。悠介だとよ!!皆、これからは俺のこと、悠介と呼んでくれよな!!」
と、世界じゅうの人間に宣言するみたいに、大声で叫んだのだった。
名前を呼び間違えられた時に、どうしてすぐに正しい名前を口にせずに、俺はこれから悠介だ!などと叫んだりしたのか、皆から説明を求められても、悠介は絶対にいわなかった。
「悠介だから、悠介でいいんだよ」
と、いい張るだけだった。
それでその時から、悠介は悠介になった。
その前までの本当の彼の名前はというと……、ぼくはよく覚えていなかった。
「さぁ、次は俺の秘密を暴露する番だ、浩二……。悠介ってのはな、俺の体を最初に買った男が、俺のことをそう呼んだんだよ、ケツでアレしてる間じゅう、何回も……。ふられた男に少し似てるんだとさ、顎とか唇とか、目つきなんかが。初めて2丁目に立った夜、ホテルに連れ込まれた時、そいつは強い酒を俺に飲ませたんだ。まだ高校生で酒の味もよく知らなかった俺は、すぐに酔っ払って、どうでもいいような気になった。そしたら、男はまるで人が変わったように乱暴になった。1枚ずつ、俺の体から服をはぎ取るたびに、男の目は異様な光りを帯びてきて、怖くなった俺が力いっぱい蹴っても突き飛ばしても、俺の体から全然離れてくれない。抵抗すればするほど、俺の体に酔いがまわって、全身の力が抜けて、だんだん頭が朦朧としてきた。酒の中に何か入れられたと気がついた時には、俺のケツに男の指が押し込まれていた。俺の背中に覆いかぶさり、毛ジラミのようにしがみついている男をはねのけようとしてもがいた時、俺は思わず悲鳴に近い声を上げていた。ケツの穴にかつてない激痛が押し入って来たんだ。火で真っ赤になった焼きゴテをケツの中いっぱいに挿し込まれたような熱さが弾けた。終わったあと、男は服を着ると財布の中から1万円札を2枚取り出して、俺の手に握らせたよ。初釜をもらったお礼だ、とかいってさ……。2回目にそいつに買われた時に、前に自分をふった男は茶髪だったからといって、俺に髪染めを差し出して、風呂場で染めてみてくれっていうんだよ。俺は先生や家族に叱られるからイヤだっていったのに、ベッドで寝てる間にまだらに染められててさ、片耳にはピアスの穴まであけられて、俺は気が動転したんだ。でも、先生も父さんも弟たちも、この頭やピアスを見ても、なんにもいわなかった。見ても無関心を決め込んでいたんだ。それまでは隠れて遊んでいたのにさ。うすうす勘づいていたのが、これでハッキリしたと思ったんだろうけど、ほんとになんにもいわなかった。どうせ俺はそういう見方をされてたんだ、ずっと……。何年も……。俺が高校を出る頃になると、なんだか皆、俺が鬱陶しいみたいだった。いなくなってくれればいいと思っているみたいだった。世の中って、そういうもんだよな……」
悠介はいつもの口癖をいって、突然、声を押し殺して嗚咽し始めた。
「悠介……」
なんとか慰めの言葉をいいたかったけれど、出て来なかった。ひどく胸が苦しいのだ。何かが本当に喉につまっているみたいだった。
悠介は顔を振り上げて、何もいわずに黙っているぼくを睨みつけた。涙で濡れた目はいつの間にかシワで埋まっていた。
悠介はすっかり、80歳近い老人になっていた。
真っ白だった開襟シャツは茶色く変色して、垢がこびりつき、汗と垢の入り混じった異臭を放っていた。
ぼくは顔をしかめたかったのだけれど、それはまずいと、やっぱり勘が働いて、精一杯まじめな顔で悠介をやさしく見返した。
「俺は平気だよ、浩二……。同情しないでおくれ。ここの費用だって、3人の弟たちが払ってるのさ。家計が苦しかった時、3人とも、俺が稼いだお金で洋服や身のまわりのものを買っていたからな。多少なりとも、恩義を感じているのさ。俺は後悔していないね、全然。この開襟シャツは、最初に間違って俺を悠介って呼んだ男が、俺にいちばん似合うっていってくれた高校の夏服なんだ。俺はこの真っ白な開襟シャツの夏服が大好きだ。すごく似合ってるだろう、浩二」
悠介はそういって、自慢げにその場で1回転して見せた。
開襟シャツの裾がひらりと空気にめくれ上がり、1回転して戻った時、悠介はすっかり、18歳の悠介の姿に戻っていた。気の強そうな黒目がちの瞳で、熱っぽく、まっすぐに人を見つめてくる悠介は、どこか人を惹きつけるものがある。
悠介が長い間、この洋館に集まっている連中の密かなアイドルだったことを、ぼくは懐かしく思い出した。
いつもは中年男の貴明も、悠介がいるところではよく、可愛い人見知りをする少年の貴明になってくれたものだった。
「すごく似合ってるよ、悠介」
と、ぼくは大きくうなづいた。
「本当によく似合ってる」
「よし、さがして来てやるよ、浩二。お前がトドメを刺して、海に流した男の死体が海辺に打ち上がっていないかどうか、確かめて来てやる」
「あぁ、あぁ、頼むよ、悠介」
「浩二、俺はお前のことが好きだったよ。着たきりスズメの俺の開襟シャツ姿を見ても、お前は全然笑わなかったからな。わかるだろう?これは俺の制服なんだ。何も恥ずかしがることなんかないんだ」
「あぁ、わかるよ、悠介。ぼくはずっと、そんな悠介が素敵だと思っていたんだよ。あの恩着せがましい院長のジジィなんかよりも、ずっと」
「あの院長ね、ぼくよりかなり年下なんだよ、浩二。あいつ、まだ50かそこいらだろう?なのに“元重役たって、男もこんなふうになったらおしまいだな”だってさ。いろいろ忘れたり思い出したりすることはあるけど、あのセリフだけは忘れられないよ。くそジジィだ、あいつは!」
いつの間にか少年に戻っていた貴明が、腹立たしげにいった。
悠介はそれを見て、おかしそうに笑い出した。
そして、貴明は白いスベスベした頬を怒りで赤らめながら……、悠介は、引き締まった体をゆらして爽やかに笑いながら……、やがてふたりとも、分厚いコンクリートの壁をすり抜けて、見えなくなっていった。
ぼくは大きく息をして、ベッドにのろのろと横になった。なぜだか、もう立ち上がることは出来ないような気がしていた。
それでもいい。
貴明と悠介が、きっと死体をさがしてくれるだろうから……。
ゲートボール・クラブの仲間も、もうほとんどが死んでしまった。
あのふたりだけが生き残りだった。
生き残り同士は、多少、気が合わないところがあっても、不思議と許し合えるものだ。まるで、人生の最後の、戦友みたいに……。
あぁ、あの夏は本当に綺麗な夏だったと、ぼくは懐かしく思い浮かべた。
あれは、ぼくの最後の、夏だったかもしれない。
株屋の父親は羽振りがよくて、分不相応な海辺の洋館を別荘にと買っていた。
毎年、いい匂いのする母さんと、その洋館に行って遊んだ。
レースの縁飾りが付いた黒いパラソルをさして、しばしば海辺に散歩にゆく母さんと、夏が来るごとに帰省するあの大学生とは、いつ、どうやって知り合ったのだろう。まして、昼日中に人目を忍んで、どうやって逢瀬を重ねていたのだろう。
ふたつの死体、いいや、ひとつはまだ息があった。それを見るまで、ぼくは何も気づいていなかった。けれど、岩場に横たえられた母親の絞殺死体を目にした時、すべてがなんとなくわかった。
潮風の匂いが、なぜかとてもきつい日だった。
浜辺にはいくつもの海草が打ち上げられていた。
空はどこまでも青く、目にしみるほどに晴れ渡っていた。
そばに転がっていたバタフライ・ナイフで大学生の胸をひと突きに刺したのは、憎らしいからじゃなかった。ただ、死ぬべきだと思ったからだった。
それだけだった。
だって、母さんは、その時にはもう、死んでいたのだから……。
ぼくが殺した男を海に流したのは……、死体が血で真っ赤に汚れていたからだった。理由はそれだけだった。
翌日、報せを受けて駆けつけて来た父親は、お酒の匂いをプンプンさせていた。詳しい事情を何も知らずに、父親のあとを追いかけて来た水商売のケバいオンナどものおかげで、小さな村の人たちは皆、母さんだけに同情していた。
行方不明の男を捜すために、いくつもの漁船が城ヶ島の海に出て行ったけれど、見つからなかった。
毎年、涼しげな水のように、静かに流れる夏があった。
何もかもが止まったような、そんな夏の中で、あの夏だけがドクドクと息づいている。
その夏が終わる頃、突然、あの震災があったのだ。すごい地震で、ぼくの町は壊滅したという噂が漁村を駆け巡ったけれど、ひとり洋館に残っていたぼくにはよくわからなかった。
しばらくして、父親が崩れた家の下敷きになって死んだという報せと共に、債権者が洋館に押し寄せて来た……。
ピアノや家具が次々に運び出される音や、壁にかかっていた油絵が外され、カーテンまでもが取り去られるのを、ぼくは階段の手すりに腰掛けて、ボンヤリと眺めていた。それはなんだか、お祭りのように騒々しく、賑やかで、心が浮き立つような光景だった。
余計なものが取り除かれて、部屋の中が伽藍堂になるのは、いいことだと思った。
そこには何か、真実があるような気がした。生まれ変われるような気がした。
あの夏、あの素晴らしい夏。あの夏だけが、今すべてが混沌とした意識の向こうで、光り輝いている。
それ以外は、すべてが夢のようだ……。
遠くで、誰かがすすり泣く声が聞こえたような気がして、ぼくはハッと目を開けた。
すると、そこは海辺だった。
5つか6つくらいの男の子が、砂遊びをしていた。
ぼくは長いことその男の子のそばに立って、砂を集めては城をつくる様子を眺めていた。
やがて、足もとにまで波が打ち寄せて来て、濡れた足が次第に、冷たくなってきた。
「よく飽きないね」
あまりに長い間、男の子が一心不乱に砂の城をつくって遊んでいるので、ぼくは声をかけてみた。
男の子は不思議そうに顔を上げて、ぼくを見上げた。
「飽きるって、何?」
「もういいって、思うことだよ。もう、ほんとにいいって、思うことなんだ」
「ふぅーん……、変なのぉ」
男の子はあやふやにうなって、よくわからないといった顔をして、またせっせと砂遊びを始めた。
途中で邪魔をされて、腹を立てているのかもしれなかった。
怒らないでおくれ。
こんなに綺麗な夏なのに、何を怒ることがある。
すべてが静かに動いている。
君は生きているじゃないか。
そういいたかったが、ぼくは黙って立っていた。
こんなに爽やかな潮風に吹かれて海辺に立つのは、何年ぶり、いいや、何十年ぶりだろうかと思いながら……。
青い波間の向こうから、もくもくと白い入道雲が湧き立って来るのが見えた。
あぁ、雲だ……。
なんて綺麗な雲だろう……。
そしてやがて、ゆっくりと潮風の匂いが薄れてゆき、ぼくの周りがまばゆいばかりに、白く輝き出した。
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