- 2013⁄04⁄18(Thu)
- 00:59
学ラン陰陽師、北斗
[序]
この国には、「陰陽道」という技術が存在する。
古代中国で発展した陰陽五行説をはじめ、道教・神道・密教など様々な思想、宗教を柔軟に取り入れ独自の発展を遂げた技術の体系。天文学であり、占術であり、祈祷であり、呪詛であり・・・。様々な顔を持った技術の体系である。そうした複雑な技術を縦横に駆使する者たちを、「陰陽師」という。
奈良時代に「陰陽寮」が設置されて以来、彼らは官職として陰陽道を操り、天文を観測し、暦を作成し、時を知らせ、土地や人々の吉凶を占い、人々に祟り災いをもたらす怨霊や物の怪を鎮め、呪詛をかけたり返したりして、人々のニーズに応えてきた。平安時代には、安倍晴明や賀茂保憲といった後世にまで名を残すような陰陽師も登場し、その活動は活発であった。武士が世を治める時代になると彼らの活動はさらに発展した。彼らは影から戦を支え、その存在意義は確固としていた。
しかし、時代が進むにつれて古くからの伝承が失われ、技術は廃退していった。さらに時代が明治に変わり急速に近代化の波が押し寄せると、陰陽師の存在理由は揺らいでいく。陰陽道は科学的根拠のない迷信として否定され、その結果、明治3年、太政官布告により陰陽道は禁止。「陰陽師」は滅んだ。
役職としての「陰陽師」は歴史から姿を消した。しかし陰陽道は消えたわけではなかった。かつての陰陽師たちは、占い師や神職、僧侶、修験者などに姿を変え、またあるいは表向き普通の社会人として、技術を脈々と受け継ぎ、さらには復興・発展させてきた。彼らは科学では解決できない怪奇現象に出会った時、神道や密教の技術に加え、伝承した陰陽道を駆使して事態を解決する。
彼らはいわば「隠れ陰陽師」と称ばれる者達なのである・・・。
この国には、「陰陽道」という技術が存在する。
古代中国で発展した陰陽五行説をはじめ、道教・神道・密教など様々な思想、宗教を柔軟に取り入れ独自の発展を遂げた技術の体系。天文学であり、占術であり、祈祷であり、呪詛であり・・・。様々な顔を持った技術の体系である。そうした複雑な技術を縦横に駆使する者たちを、「陰陽師」という。
奈良時代に「陰陽寮」が設置されて以来、彼らは官職として陰陽道を操り、天文を観測し、暦を作成し、時を知らせ、土地や人々の吉凶を占い、人々に祟り災いをもたらす怨霊や物の怪を鎮め、呪詛をかけたり返したりして、人々のニーズに応えてきた。平安時代には、安倍晴明や賀茂保憲といった後世にまで名を残すような陰陽師も登場し、その活動は活発であった。武士が世を治める時代になると彼らの活動はさらに発展した。彼らは影から戦を支え、その存在意義は確固としていた。
しかし、時代が進むにつれて古くからの伝承が失われ、技術は廃退していった。さらに時代が明治に変わり急速に近代化の波が押し寄せると、陰陽師の存在理由は揺らいでいく。陰陽道は科学的根拠のない迷信として否定され、その結果、明治3年、太政官布告により陰陽道は禁止。「陰陽師」は滅んだ。
役職としての「陰陽師」は歴史から姿を消した。しかし陰陽道は消えたわけではなかった。かつての陰陽師たちは、占い師や神職、僧侶、修験者などに姿を変え、またあるいは表向き普通の社会人として、技術を脈々と受け継ぎ、さらには復興・発展させてきた。彼らは科学では解決できない怪奇現象に出会った時、神道や密教の技術に加え、伝承した陰陽道を駆使して事態を解決する。
彼らはいわば「隠れ陰陽師」と称ばれる者達なのである・・・。
[子の巻]
「・・・科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き掃う事の如く、大津辺に居る大船を舳解き放ち艫解き放ちて大海原に押し放つ事の如く、彼方の繁木が本を焼き鎌の敏鎌を以ちて打ち掃う事の如く・・・」
夕暮れ時、生徒が誰もいなくなった校舎の2階に、聞きなれない言葉を並べる声変わりしていない男の子の声が響いている。大きな声ではないのだが、声変わりしておらず高いのに加え誰もいなくなった静けさで、廊下の西から東まで声が響いてしまう。もし先生が見回りにでも来たら、もしくは忘れ物を取りに来た生徒でもいれば一発で見つかってしまうだろう。平岡中学校の校舎は3棟。学級が入っているのがA棟とB棟でどちらも4階建て。C棟は3階建てで、音楽室や武道場、多目的ホールになっている。声はB棟の2階から聞こえてきた。
「・・・・・・祓え給い清め給う事を天津神国津神八百万の神等共に聞食せと恐み恐みも申す・・・。」
『大祓詞(おおはらいのことば)』を読み終えると、先ほどまで男子トイレの一番奥の個室にわだかまっていた「穢れ」が消えた。トイレの入り口に立って祓いを行っていた秦野北斗は、全ての穢れが消えたのを見計らって、大きく息をついた。
事の発端は2日前。5時間目の休み時間が終わろうとしていた時、北斗のクラスである1年2組の教室に、クラスメートの男子数人が駆け込んできた。既に6時間目の学活のため担任の大石先生が教室に来ており、血相変えて飛び込んできた男子を落ち着かせたり理由を聞いたりで、授業時間が始まっても2組の教室はざわついていた。
彼らの話では、連れション(友人を誘って一緒に小便をすること)をしていると、おもむろに後ろのドアが閉まったのだという。誰も入っていない個室のドアは少し開いているのが普通だったので、最初誰かが入ったと思いさほど気にも留めなかった。ただドアが閉まった1番奥の個室の前の便器で用を足していた谷口は「人通ったかな?」とふと気にかかって何気なく振り返った。その瞬間、「キィィ・・・」と音がして、ドアが少し開いた。誰もいないかのように。
しかし、そこには居たのである。壁と少し開いたドアの隙間から、腐乱し、顔の半分は白骨化した「人」が。谷口はそれを見て声も出ず硬直した。そして、他の男子達も谷口の様子のおかしいことに気付き、その視線を追って「それ」を見た。全員の時が止まった瞬間、その「人」はグズグズの口角を上げてにやりと笑い個室の奥に消えた。そしてそれにあわせたようにドアが大きく開くと、そこには誰も居なかったのだという。廊下はグラウンドから帰ってきた生徒達や立ち話をする生徒達でごった返していたはずだが、不思議とその刹那には全ての音が途絶えたかのようだった。そして男子達は喚きながら教室に駆け込んだのだ。
男子達が血相を変えて飛び込んできたことでざわついていた教室は、彼らが息を切らしながら必至に訴える出来事を聞いて静まり返った。いつもは少々のことなら笑い飛ばす男勝りの大石先生も、ただならぬ彼らの様子に神妙な面持ちで話を聞いている。
結局学活の1時間は、大石先生が男子トイレに行き何もないことを確認して、うやむやのまま終わってしまった。谷口たちに疑いの目を向ける生徒もいたが、彼らの尋常ではない様子を見た者は一言で「ウソ」とか「見間違い」とは断言できず、背筋に薄ら寒いものを感じながらその日の授業を終えることになった。もっとも、この学校では時折こうした怪奇現象が起こるのだが・・・
事はそれだけで終わらなかった。翌日そのトイレを利用した学年主任の山根先生が、彼らと同じ状況で同じ「人」に出会ったというのだ。既に2組の生徒が広めていた所にもたらされた情報に、1年生だけでなく2・3年の間でもそのトイレに「出る」ことが伝わり、その日は学校中が大騒ぎになった。なにせ山根先生は口から泡をふいて失神し救急車で運ばれたのだから。
翌日の放課後、秦野北斗は先生や他の生徒に目撃されないよう薄暗くなるのを待ってからこっそり学校に戻ってきて、誰も寄り付かなくなったトイレの前に立った。一見他のトイレと変わらないが、北斗の目には奥の個室から黒い煙のような邪気が湧き、トイレに充満しているのが見えている。瘴気である。しかし例の「人」は姿を現していない。
北斗は一度目を閉じて、鼻から息を吸って口から吐き出すと、目を開けて胸の前で両手を組み合わせた。右手の人差し指と中指を立て、それを同じく人差し指と中指を立てた左手の親指・薬指・小指で包む。
「ノウマクサンマンダバサラダンセンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン。」
おもむろに不動明王の真言を3遍繰り返し唱える。1遍目は何事もなかった。2遍目の半ばに個室の半開きのドアの隙間から黒い影がのぞき、3遍目にそれが人の頭だと分かる。
腐乱した右半分の表情は、強制的に瘴気を祓おうとする北斗の真言に怒りをにじませている。
「お前はもとからここにおったわけやないな?なんでこのトイレにこもってるんや?」
北斗の声変わりしていないあどけない声がトイレに響く。返答する声はない。しかしその「人」の口は何かを訴えるようにわずかながらカクカク動いていた。北斗の思考にあるイメージが湧き上がる。
「・・・そうか・・・。別にここにおりたくておるわけやないんやな。ここはすぐ後ろに寺があって、しかも学校の敷地の中に池があるから、霊を集めやすいねん。せやから君みたいな無縁仏が、迷い込んだはええけど出られんようになってしまうんや。でも・・・人をおどかすんは良くないで。」
胸の前で印を結んだまま、トイレの奥に向かって北斗が声をかける。その視界には、北斗の言葉に耳を傾ける霊が映っている。不本意ながらここにいる霊なので、説得は早い。今回は力ずくは必要ないだろう。
「じゃあ、『大祓詞』を上げるから、ちゃんといくべき所に行ってな。」
首肯する気配があるのを確認して、北斗は印を結んでいた手を解いて大きく拍手を2回打った。そして制服のズボンのポケットから、漢字で筆記された蛇腹折りの半紙を取り出し、祝詞をあげ始める。
「高天原に神留坐す皇親・・・・・・・」
霊や物の怪、人の恨み・呪い、病などのいわゆる「穢れ」を一掃する祝詞が『大祓詞』である。祝詞が進むと先ほどまで充満していた瘴気が薄れていく。そして北斗が大祓詞を読み終えると、先ほどまで男子トイレの一番奥の個室にわだかまっていた「穢れ」が消えた。
祓いが終わると、北斗は一息入れて祝詞紙をポケットにしまい、かわりに反対のポケットからミミズの這ったような記号が筆記され、朱色のハンコの押された霊符を取り出した。
「東華元君韓君降臨玉府、真命保佑生霊、真気到処、永保長存、急急如律令。」
北斗は霊符に息を吹きかけて呪を唱えると、それをトイレのプレートに挟んだ。いくら清めてもこの学校はすぐ穢れてしまう。それを防ぐための措置だ。もっとも気休め程度ではあるが・・・。北斗が中学に入学してから約5ヶ月。2学期が始まってまだ一週間程度。この半年で北斗が霊符を置いた箇所は6ヶ所ほど。夏休みを除いて1ヶ月に1・2回、こうして人目を忍んで祓いを行っている。しかしもぐら叩きのように、あちらを祓えばこちら、こちらを祓えばあちらときりがない。そのうち学校中霊符だらけになってまうんとちゃうかなぁと、北斗はため息をつきながら日の落ちた家路に着いた。
「ただいま。」
玄関のドアを開けて声をかけると、廊下の右にある部屋の障子が開いて、祖父が顔を出した。
「おぉ、お帰り。えらい遅かったなぁ。遊びに行ってたんかぁ?」
「え・・・、うん。」
腰を悪くしているため顔だけ出して北斗を見つめる祖父、高明に顔を見せないよう足早に2階にある自分の部屋に駆け込む。顔を見られたが最後、確実に嘘はバレる。嘘をついているということだけではなく、高明にかかれば何をしていたのかさえ丸分かりだ。高明の観相術の腕は、プロの占い師達の間でも有名なのだ。
部屋に駆け込みドアを閉めると、北斗はバツの悪そうな顔をしてポケットから祝詞紙と余った霊符を取り出した。それを机の上において、制服を脱ぐ。部屋の隅の鏡にかけてある布を外し、裸の上半身を見る。
北斗は身長145cm、体重38kg。中学1年生の少年としては平均よりやや小柄。少年らしい華奢な体格である。部活動には入らなかったものの山を歩き回っているおかげで無駄な脂肪はないが、筋肉もさほど付いていない。引き締まったおなかはうっすらと6つに分かれているが、光の具合がないと分からない程度だ。入学時に測ったときから身長は1cmしか伸びていない。だから帰ってくると少しでも変化がないかまずこうして体をチェックするのが最近の日課である。髪は耳がやや隠れる程度のミディアムショート。顔立ちは中性的ではあるものの端整で、密かに女子には人気があるのだが、北斗は気付いていない。
ズボンを着替えるついでに白のブリーフの中をのぞき、これまた毛が生え始めていないかチェックする。小学校の時は生えている子をからかっていたくせに、中学生になると途端に生えていない子が標的にされる。結局早すぎず遅すぎず、平均ぐらいのものが得をするのだ。北斗も6年生の時は安心していたが、今は焦っている。
結局今日も失望のため息をつき、部屋着に着替えて鏡に布をかける。鏡は気を反射するので扱いがややこしい。特に寝室で寝ている自分の姿が映ったりすると、健康を損なうのだ。だから北斗は使わない時は布をかけて部屋の隅に置いておく。ちょうどそのとき下から高明が夕飯ができたことを知らせる声がしたので、返事をして下に降りていく。
祖父高明は明治以降ひっそりと陰陽道の技術を継承してきた「隠れ陰陽師」の流れを汲む、現代の陰陽師である。高明の受け継いだ「天一派」の陰陽道は、現在息子、つまり北斗の父の泰に伝授されていた。高明も、その師もそうであったように、天一派3代宗家の泰は普通のサラリーマンをしている。そして人づてに依頼が来ると、占いやお祓いを行う。ちなみに天一派では、子孫に累が及ぶことを避けて呪詛、ならびに呪詛返しの依頼は一切受け付けていない。
そうした環境におかれて育った北斗は、幼い頃から高明や泰に修験道の修行に連れ出され、普通の人には見えないものを見る能力を開花させていった。しかしまだまだ術は未熟で、漢文古文の読解力も年齢相応より上とはいえたかが知れている。父などは祝詞の表記法である宣命体も、漢文の白文もすらすら読んで、自分で祝詞や呪文を作っているが、北斗は高明の『大漢和辞典』や『漢語大詞典』で一字一句調べて、やっと読めたと思ったらダメ出しされてばかりいる。そんなわけだから、北斗はプロの陰陽師には必須の「式神」(陰陽道の使役神)も使えないのだ。
もっとも、高明も泰もそんな北斗に対して全く焦っていない。自分達は20を超えてから本格的にこの道を学び始め、最初は今の北斗と同じ様なものだったのだから。しかし、当の本人は早くまともに術が使えるようになろうと大慌てで、学んでも学んでも身に付かないもどかしさをもてあましている。実は北斗は泰から、祓いを禁止されている。占いは禁止こそされていないが人を看るときには慎重にするよう釘を刺されている。だが北斗は、早く一人前になりたい焦りから、小学校高学年の頃よりこっそりと学校での霊現象に対処してきた。
夕食、入浴を済ませると、北斗は部屋の机に向い、翌日の準備をする。宿題をそれなりに仕上げ、教科書などをカバンに詰める。ここまでは、まあ普通の中学生のすることだが、彼の準備はこれでは終わらない。『大祓詞』をはじめいくつかの祝詞の書かれた祝詞紙と霊符、それに独鈷杵(どっこしょ)という密教の道具をカバンの内ポケットに忍ばせる。今回のように十分準備して臨める祓いばかりではなく、緊急に祓いを行わなければならない場合もあるからだ。ただ、秦野家が陰陽道の技術を継承していることは学校には知られていない。まして北斗が独断で学校でたびたび起こる怪現象に対処していることは知られてはまずい。だから北斗の活動はかなり制限されてしまう。いつも祓いを行うときには目撃されないよう神経をすり減らしているのだ。荷物をしまい終えて、はぁ・・・とため息をつくと北斗は部屋を出て台所に降りていった。寝る前に絶対コップ2杯、牛乳を飲むのだ。[丑の巻]
翌日登校した北斗が教室のあるB棟2階に上がると、相変わらず例のトイレの前は人影がなかった。生徒の中にはわざわざA棟からの渡り廊下を渡ってすぐの入り口から階段を上がってこず、特別学級や図書室のある1階の廊下を通って反対側の階段から2階に上がる者までいる。好都合とばかり昨日の霊符がちゃんとあるか確認し、ついでにオシッコをしに中に入った。それを見ていた生徒が、用を足して出てきた北斗に何もなかったか尋ねてきたので、何も起きなかったと伝えてやった。祓いが完了したことを知らせるために「出た」といわれる場所にいつも率先して出かけていくため、北斗は他の生徒からは、「怪現象など歯牙にもかけないリアリスト」といった印象を持たれているようだった。
その後北斗の行動が波及し、肝試しのように男子達がトイレを使い始めた。もちろん連れションではあるが・・・。
事態が収束し、1年生達が落ち着きを取り戻して数日後、救急車で運ばれた主任の山根先生が復帰した。ベテランではあるが猫背がちで大人しい感じの山根先生は、生徒達から密かに「根暗先生」のあだ名をつけられている。復帰した山根先生はもともと余りよくない顔色がさらに悪くなっていて痛々しかった。声もいつにも増して覇気がなく、社会の授業は死者続出となった。
ウツラウツラしながらも何とか社会の授業を乗り切った北斗は、いつものように異常がないか見回るため教室を出ようとした。教壇でチョークなどを片付けていた山根先生の脇を通った際、ふと北斗は妙なにおいをかいだ気がした。
「ん・・・?」
においは山根先生の方からしたようだったが、見たところ特に変わった様子はない。先生は教科書などをカゴに入れている。
(これが俗に言う「カレイシュウ」か・・・ボクもそのうち、におってくるんかなぁ・・・)
少しへこみながらも、そそくさと教室を後にした北斗。教室を出て行く彼の後姿を、山根先生が横目でジロリと見たことに気付くはずもなかった。
その日の放課後、北斗はA棟に足を向けた。6時間目が終わると日は既にオレンジ色を含んでいる。これからどんどん日は暮れて、運動部が帰る頃にはもう空は紺色だ。A棟は1階に職員室等があり、上は3年生の教室である。かつては全学年がそれぞれ7クラスあり、A、Bにそれぞれ半分ずつクラスが分かれていたが、今ではそれぞれ4クラス。A棟の2階と3階に3年生の教室があり、後は音楽室や被服室などが入っている。B棟は2階に1年生、3階に2年生の教室があり、他に音楽室や木工、金工室などがある。それでも余った教室は文化部の部室や物置にされている。C棟には普通教室の面積では足りない大きな音楽室や武道場が入っている。
下校時刻のためざわついているA棟も、クラスの入っていない4階はひっそりしている。端には第1音楽室があるが今日は特に使用する部活はない。つまり今4階にいるのは北斗だけ。以前ここで北斗は廊下を走り回る上半身だけの霊を祓っている。その際霊符をはって地を鎮めたのだが、一応点検しに来たのである。
第1音楽室の方から廊下の先を見た北斗は、奇妙なことに気付いた。目を凝らすと、廊下全体に微量ではあるが瘴気が漂っている。もし霊符が機能していればこのようなことはない。北斗はゆっくりと歩を進めた。そして、廊下の端、各教室の入り口付近に落ちているものに気付いた。以前祓いを行ったときに北斗が教室のプレートに忍ばせた駆邪の霊符が、破り捨てられている。偶然見つけた誰かがいたずらしたのだろうか。
紙切れと化した霊符の切れ端を指でつまんだそのとき、妙な感触がして北斗は指先を見た。符の切れ端にほこりに混じって茶色の毛のようなものが付いていたのだ。それほどたくさんというわけではない。気にはかかったが、この学校には校則を無視して髪を染めている連中もいる。そういった連中の髪の毛が廊下に落ちていても不思議ではない。それより改めて霊符を貼り直さなければならない。
「東華元君韓君降臨玉府、真命保佑生霊、真気到処、永保長存、急急如律令。」
霊符に気を込め、各教室のプレートに挟んでいく。
「天清浄地清浄浄符通法界・・・・・・・神兵神将火急如律令。」
最後に凝った瘴気を祓う呪を唱え、地を清める。これでとりあえず霊や妖怪の類はこの4階に入ってこられないはずである。
その後A棟をさりげなく見て回ったが、どうやらこれまで貼った符を剥がされていたのは4階だけのようだった。見回りを終えて、教室においていたカバンを取りに、吹奏楽部の女子が練習している1年2組の教室に帰る。練習中の女子と顧問の大石先生に挨拶して教室を出、通りがかりに何気なくトイレを見た北斗は思わず足を止めた。
昨日「男子トイレ」のプレートに挟んでおいた霊符が、破り捨てられ廊下に落ちていた。[寅の巻]
次の日の土曜日、部屋で『大漢和辞典』片手に占術の原書と格闘していた北斗は、泰に呼ばれた。祓いを依頼されたのでついてくるかと誘われたのだ。当然北斗は行くと答え、大急ぎで準備して、遊園地に連れて行ってもらう幼い子どものようにソワソワと玄関で父を待った。
祓いの依頼はそれほど多いものではない。怪現象といわれている出来事の多くは依頼者の勘違いや精神的な問題が生み出したものだ。それでも時折理屈で処理できない事態が起こることはある。泰は口コミで舞い込んだ依頼を査定し、必要であれば仕事の休みを利用して出かけていく。百聞は一見に如かず。書物を百篇読むより実際の祓いを見た方が何倍も勉強になる。北斗は大抵祖父や父の祓いに立ち会ってきた。
現場は一見普通の民家。30代の夫婦と赤ん坊の3人家族だ。引っ越してきてすぐ、家の中を誰かが歩き回る音がしきりに聞こえ出したのだという。音は2階からするが、夫婦はどちらも台所にいるし、赤ん坊は隣のリビングにいる。そのうち眠っていた赤ん坊が突然目を覚まし、リビングの入り口をじっと見つめかと思うと、火がついたように泣き出す。まるで2階から降りてきた誰かに驚いたかのようで気味が悪い。それだけではなく、夜3人で寝室にいると、風呂場からシャワーの音が聞こえる。恐る恐る見に行くと誰かがシャワーを浴びているように、水音がバシャバシャと揺れている。しかし電気はついていない。思い切ってドアを開けると、水は止まっていてシャワーもフックに掛かっているが、先ほどまで誰かが使っていたように風呂場はびしょびしょだった。
その後怪異は続き、隣の奥さんから、昼間に洗濯物を干していたら、ずいぶんたくさんの人たちが2階をうろうろするのが窓越しに見えたが何かあったのか、と聞かれたのが決定打となり、知り合いを通じて陰陽道天一派第3代宗家、秦野泰に祓いを依頼したのだった。
スーツ姿の泰と制服姿の北斗という、中学校の三者面談のような2人は、現場に着くと夫婦に案内されて家にはいった。玄関に一歩踏み入れた瞬間ムワッとした濃厚な瘴気が漂ってくる。
「なかなか大変なことになってますね。」
そうつぶやくと泰は印を結んだ手を口元に持ってきて小さく呪を唱え、印を解いて大きく拍手を2回打った。すると漂っていた瘴気は、換気されたように消えてなくなった。その後リビングに通されると、泰は名刺を渡し、状況について質問していく。その間北斗はキョロキョロとリビングや台所を見渡していく。紙おむつなどが置かれているが、赤ん坊はいない。妻の実家に預けられているそうだ。時折2階から人のいる気配がする。先ほど泰が瘴気を一掃したためこの家にいるモノ達は動揺しているようだ。中には威嚇するような気配を見せるモノもいる。
一通り現状をつかんだ2人は、祓いを行うべく「案」(祭壇)を組み立てる。事前に注文してもらった白木を北斗が組み立て、その間に泰が串と切り折した和紙で「御幣」(神や祓う対象が乗り移る寄り代兼供え物)を作る。出来上がった案に6本の御幣が立てられ、それぞれの御幣の前に果物、酒、水、塩、米といった供え物と香炉が置かれる。隣の部屋で装束に着替えた2人がそれぞれに祓い幣を持って案に向う。背の低い北斗は装束を着ているというより装束に着られているようだ。
「それでは、これより祓いを執り行います。」
案に向う2人の後ろに座った依頼者に泰が声をかけると、夫婦は神妙な顔つきでお願いしますと返答した。再び案に向き合った泰は、まず案に神々を招請する。身を低くして、身を清める呪、場を清める呪、香を焚く呪に続いて、諸神を招く呪を唱える。
邪気魔物を祓う北極星の神である玄天上帝とその眷属の六甲六丁神、それにこの土地の神である産土の神を招き、さらにこの家中にいる死霊や物の怪の類をこの場に集める。泰は装束の袖の中で印を結び、呪を唱えながらこれらの祟りをなすモノ達の気配を探り、祓っていく。北斗は案から離れて脇に退き、袖の中で印を結んで父と依頼者に害をなすモノがない様補佐する。集まってきた霊たちは口々に泰に思いを訴え、聞き入れられると浄化され去っていく。
大方祓い終わったが、まだ去ろうとしないモノがいる。泰は声のボリュームを上げて威嚇する。
「ノウマクサンマンダバサラダンセンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン。」
袖の中の印を結び変えて真言を3遍唱える。さらに印を変える。
「オンシュッチリキャラロハウンケンソワカ。」
玄天上帝の眷属、不動明王、大威徳明王に圧倒され、そのモノはリビングを逃げ惑う。依頼者達には見えていないが、時折戸棚や電気が風もないのに揺れ、「パキッ」とラップ音がするので何か起こっていることはわかるらしく、不安げに周囲を見渡している。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
北斗は九字を切って逃げ惑うモノを弱らせる。
「北斗。『解孤狼霊章』取って。」
北斗が装束の懐から泰の所望の霊符を取り出し泰に渡す。
「夜鳴きする 朝日が岳の 古狐 昼はなくとも 夜はな鳴きそ」
泰が符を捧げて呪歌を詠むと、息も絶え絶えのモノは屈服し、清められて去っていった。全ての祓いが終わった。泰は続いてこの家に邪な者が寄り付かないよう、結界を張る。袖の中で印を結び変え、つぶやく様に神の名を呼ぶ。式神と呼ばれる陰陽師の使役神である。この神に守護を乞うて祓いは終わる。最後に送神の呪を読み上げて招いた神々を送る。
一連の儀が終わるまでざっと3時間程度。空はオレンジ色になっている。泰は、この家にもともと住みついていた霊たちが騒いで新しい居住者を追い出そうとしていたことを伝えた。案を片付け、供え物と御幣、それに使用した霊符の気を抜いて庭で燃やして作業は終了。謝礼の5万円+交通費と北斗はチョコレートをもらって家を後にした。どうやら中学1年生としてはやや小柄な北斗は小学生と間違われたらしい。
夕食のお好み焼きを北斗の母の恵子、妹の有卦(ゆうか)、高明、泰、それに北斗の5人で囲む。それなりに大きなホットプレートも、5枚のお好み焼きを一度に焼くとかなり窮屈だ。
恵子は特に特殊な何かを持っているわけではない。一応秦野家の事情は理解した上で嫁いできたが、有卦には陰陽道を学ばせないよう男どもにきつく釘を刺している。しかしやはり家の雰囲気が伝染するのか、小学3年生の有卦は最近タロットカードに凝っている。
「どないやった?今日の案件は。」
北斗がお好み焼きをご飯に乗せて口に運んでいると、高明が泰に尋ねた。
「まぁ、そない難しい祓いやなかったわ。・・・ただ妙なもんが憑いとったな。例の・・・」
「そうか・・・。」
「?・・・何やのん?」
お好み焼きを飲み込んで北斗は泰に尋ねた。「大人の話」に首を突っ込むのは憚られるが、一応自分も祓いに参加したのだから聞く権利はあるはずだ。
「最後まで粘っとったもんがおったやろ?」
「・・・あぁ・・あの狐?」
「そうや。」
最後まで土地から去ることを拒絶していたのは、狐の霊である。実はあの家の霊たちをあそこまで呼び寄せたのはその狐の霊で、霊達が案に召集された時にも応じようとはせず、仕方なく泰は玄天上帝の眷属神を式神化して遣わし引っ張ってこさせたのである。
「あれに聞いたら、もともとこの土地のもんやないそうや。なんぼ縛り上げても口を割らんから、『解孤狼霊章』で脅してようやく聞き出した。・・・どうも元締のお偉いさんに遣わされたらしい。」
「狐の元締め?・・・お稲荷さんの眷属とか?」
「さぁ・・・そこまでは聞き出せんかった。ただな、お父さんの知り合いの陰陽師も、最近やたら祓いの仕事に狐が絡んでくるってぼやいとってな。ほら、お前も知ってるやろ?立花流の小林さん。」
「うん。」
「あの人も、この前の依頼に狐が一枚噛んでたそうや。それも依頼者に関係があるわけでもなかったんやて。結局そいつは祓い落としたそうやけど・・・。」
「わしの知り合いからも最近ようその手の話を聞いとってな。おかしいなぁってお父さんと話しとったんや・・・。」
「ふぅん・・・。」
狐・・・。ふと何かが頭をよぎった気がしたが、よく思い出せない。そのとき
「いらんの?」
有卦がコテを北斗の食べかけのお好み焼きに伸ばした。
「あほっ!食べるわ!」
急いでお好み焼きを引き寄せがっつくうちに、先ほどの違和感をすっかり忘れてしまった。[卯の巻]
月曜日。友人とともに登校した北斗は正面玄関を入ってすぐに足を止めた。
「何か臭くない・・・?」
友人や他の生徒が辺りにうっすら漂う腐臭のような臭いに顔をしかめる。A棟1階に瘴気が漂っている。いくら陰気が凝りやすいからといってもさすがにこれは異常である。
そして北斗は、以前正面玄関にいた霊を祓った時に貼った霊符が千切られて片隅に捨てられているのを見た。とりあえず友人たちに続いて教室のあるB棟に向う。B棟にもうっすらと瘴気が凝っており、しかも瘴気に引き寄せられて学校の後ろの寺の墓地や付近を漂う浮遊霊達が敷地内に侵入している。北斗は常に護符を携帯しているため無事だが、敏感な生徒の中には瘴気に当てられ気分を悪くするものもいた。明らかに緊急事態ではあるが・・・
(人目につかんと祓うのは・・・無理やって・・・。)
北斗は唇を噛み締めた。それにしても、最近北斗が祓い、貼った霊符が次々に破られていく。最初は偶然見つけた生徒のいたずらかと思っていたが、ここまで来ると誰かが北斗の邪魔をしているとしか思えない。昼休みに例のトイレに行った北斗は、さりげなく洗面台の排水管の後ろをのぞいた。先日の放課後、祓いの後貼った霊符が剥がされたのを見つけた北斗は、他の生徒に見つからないようトイレの中に入って穢れを祓い、ここに見つからないよう小さく畳んだ霊符を貼ったのだ。
「よかった・・・あった。」
しかし、安心したのも束の間、北斗は様子がおかしいことに気付いた。廊下から瘴気が流れ込み、トイレに溜まっている。しかもふと窓を見た北斗は息を呑んだ。窓の外から女性がこちらを見ている。おそらく瘴気に誘われやってきた浮遊霊。霊符が機能していたら、こんなことはないはずなのに・・・。
「まさか・・・」
北斗は張っておいた霊符をそっと剥がして手にとった。霊符はただの紙切れと化していた。これはただ事ではない。陰陽師や行者などの能力者か、或いは強力な穢れが霊符の通力を弾き飛ばしたことを意味するのだ。もはや何者かが、北斗がこの学校の穢れを祓うのを意図的に妨害していることは疑う余地もない。しかし、誰が、何のためにそのようなことをするのか、全く見当がつかない。ただ、1つだけ言えることは、緊急に手を打たなければただでさえ穢れの排出機能の低いこの学校に穢れが充満し、たちの悪い悪霊や下手をすればもっと強力な妖怪までも引きつけてしまう可能性があるということだ。
「・・・やるしかないな!」
北斗はこぶしを握り締めてつぶやいた。
下校すると北斗は、いつものボディチェックも忘れて教科書、ノートをカバンから引っ張り出し、代わりにありったけの霊符類と祝詞紙、祭文、陀羅尼をカバンやポケットに入れた。数珠やいつもは持ち歩かずしまってある七星剣もカバンに入れる。風呂に入って丁寧に体を清め、部屋に入って術の本をおさらいする。学校に人影がなくなり、家族も寝静まる時間にならないと大々的に活動はできない。おそらく出かけるのは深夜になるので、北斗は仮眠をとることにした。
夕食は気分が悪いからと肉類を残し、早めに部屋に戻ると、恵子が心配して上がってきたので早めに眠ることを伝える。これで、家族には北斗が眠っていると思わせることができる。
携帯のバイブで目を覚ました北斗は、時間を確認する。夜11時。今日は泰は出張で帰ってこない。有卦と高明は9時ごろには床に着く。恵子も泰が帰ってこなければ10時頃に床に着くだろう。北斗は一応制服に着替え、祓いの道具を持ってこっそり下に降りた。案の定家中真っ暗で、家族は全員寝静まっていた。そっと玄関の鍵を開け、外に出る。9月も下旬に差し掛かり、最近の熱帯夜は幾分マシになっている。時折吹く風は本格的な秋の気配を伝えている。初めての深夜の登校に、少しワクワクする気持ちを抑えながら、北斗は家を後にし、人気のない通学路を学校に向けて急いだ[辰の巻]
10分ほどで学校に着くと、既に誰も残っていないらしく、電気のついている教室はない。校門の横のレンガを登って難なく校門をクリアする。平岡中学校は古く、セキュリティーはまだ不十分だった。問題は校舎にどうやって侵入するかだ。しかし北斗は迷うことなくA棟の脇に向う。
平岡中学校は、校門を入って少し道を歩くとすぐ左にグラウンドがある。そして右手にA棟が建っており、その奥に二の字のように平行にB棟がある。C棟は校門と校舎を挟んで反対側にある。C棟の隣りにプールと体育館が並んでいる。
北斗はグラウンドに面したA棟の脇を進み、職員室まで来た。職員室にはグラウンドに出られる引き戸がある。北斗は職員室の窓から誰もいないことを確認すると、その引き戸の取っ手を持って、上下左右にカタカタッと揺らし、左に引いた。すると難なく戸が開き、北斗は職員室に侵入することに成功したのである。この戸は建付けが悪く、鍵をかけていても少し揺らすとすぐ戸が開いてしまうのだ。
職員室に忍び込むと、北斗は教頭のマスターキーを調達した。そして内側から鍵を開けて職員室から暗い廊下に出る。非常灯の緑の明かりとと外灯のオレンジの明かりで多少は明るい。それに今日は満月なので、電気をつけなくても大丈夫そうだった。
「くっ・・・」
廊下に出た北斗は顔をしかめた。昼間はまだ微量だった瘴気が、かなりの濃度になっている。おそらく普通の人なら5分程度で昏倒するだろう。北斗でさえも、締め切った空間に大勢で押し込まれているような空気の悪さを感じている。恐らく北斗が以前貼った符は全て効力を奪われたのだろう。
「これは・・・ヤバイな・・・。」
そして、北斗の目の前はまさに百鬼夜行の有様だった。陰気が強くなる夜、穢れに吸い寄せられてきた霊たちがそこかしこをウロウロしている。それどころか、明らかに妖怪であろうと思われるモノも混じっている。そして、彼らの気配が一斉に北斗に向いた。
パンッ!パンッ!
勢いのいい北斗の拍手の音が、A棟1階に響き渡った。
「掛巻くも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓い給いし時に現坐せる祓戸の大神等、諸々の禍事罪穢有らんをば祓い給い清め給えと申す事の由を、天津神国津神八百万の神等共に聞食せと恐み恐み申す。」
北斗の祓詞に、穢れが祓われる。北斗に敵意を向けたモノ達も、祓詞に清められて消えていく。いくらかのモノは祓われずに逃げたが、とりあえず1階は清められた。北斗はカバンから塩を取り出し、1階の廊下に撒いていった。ただの清め塩ではない。駆邪の霊符を焼いた灰を混ぜ、呪をかけた塩だ。符を貼るほどの効果はないが、しばらくは穢れを遠ざけることができる。
そうして3階まで清めていき、北斗は4階に向う階段を上った。ふと北斗は先程までと違った気配を感じた。かつてこれに似た気配を、北斗は何度か感じたことがある。
「妖怪・・・」
霊魂と違い、人や動物の気に自然の気が混じって生じるものから神に近いものまで、妖怪は実に様々。祓うのも容易ではない。北斗は七星剣を片手に4階に上がった。非常に濃い瘴気。霊の姿はない。この階を強力な妖怪が支配しているのだ。しかし、不思議なことに妖怪の姿もない。警戒しながらゆっくり廊下を進んでいく。
そのとき、目の前の施錠してあるはずの教室のドアが勢いよく開いた。そしてその中から、黒い巨大なミミズのようなものが這い出してきたように北斗には見えた。廊下に這い出してきたそれの姿が月光と非常灯に照らされる。
「む・・・ムカデ!?」
光沢のある黒い体にそれぞれが違う動きをする無数の足。瞳のない赤い目が北斗に向けられた。
「吾是天帝所使執持金刀非凡常刀・・・わぁ!?」
七星剣に気を込めようとした瞬間、大ムカデが口から瘴気の霧を吐いた。強烈な穢れに北斗の体の力が抜けた。思わず七星剣を落とす。
「く・・そ・・・」
印を結んで体にまとわりつく瘴気を払おうとしたとき、間近に迫っていた大ムカデが北斗の体に巻きついた。思わず倒れこむ北斗の体をぎりぎりと締め付ける。
「うわぁぁぁっ・・・!」
苦痛の声を上げながらも必至にもがくが、まるで巨大な鎖が体に巻き付いているようでびくともしない。さらにきつく締め上げられ、北斗の意識は薄らいでいく。その中で、感覚がなくなってきた手をポケットの中に入れた北斗は、そこから何かを取り出してムカデの体に突き刺した。
「キィイイイイイイイイイイイイイイ!!」
北斗が刺したところから煙のようなものが上がり、大ムカデは苦しみもだえて北斗を開放した。廊下に転がり、肩で息をする北斗。その手には独鈷杵が握られていた。とっさにポケットに手を突っ込んだ時最初に触れたのがこれだったのだ。ふらつく足を叱咤し立ち上がった北斗は、独鈷杵で空中に梵字を書き、大ムカデに向って独鈷杵を突きつけた。
「オンマユラギランテイソワカ!」
「キィイイ・・・!!」
瘴気が一掃されるとともに、大ムカデの体は徐々に薄くなりやがて消え失せた。何とか倒したものの、大量の瘴気を浴びた北斗はしばらく息を整えなければ歩き出すことができなかった。
まだおぼつかない足取りで、北斗はゆっくりと4階から下に降りた。次に向うのは、A棟2階の渡り廊下からつながっているC棟である。C棟はそれほど大きな建物ではない。1階は剣道場と柔道場、2階は多目的室で、3階は第3音楽室である。
渡り廊下に立った北斗は、まず1階の武道場から祓いにかかった。鍵をあけてそっと中に入ると、そこはあたかも戦場のようだった。竹刀や干してあった柔道着が宙を舞っている。
「ポルターガイストか・・・!」
目を凝らすと、そこかしこに浮遊霊が漂い、竹刀や防具でチャンバラをしているのが見える。北斗が拍手を打つと、騒ぎは静まり返り、視線が一斉に北斗に向けられた。続いて北斗が祓詞を読み始めたそのとき、右横に落ちていた竹刀が北斗めがけて飛んできた。 [巳の巻]
「いった!!」
竹刀は北斗の肩を直撃した。それほどの勢いではないが、かなり痛い。そして、
「うわっ!」
北斗の頭上から柔道着がかぶさってきた。同時に四方八方から竹刀が飛んでくる。
「ぐあぁぁぁっ!!!」
思わずうずくまる北斗に容赦なく竹刀の雨が降り注いだ。
「うっ・・・くそぉ・・・オンキリキリ・・・バザラバジリ・・・ホラマンダマンダウンハッタ・・・!」
亀のように丸くなりながら、北斗は必至に印を結び、真言を唱える。そして、印を結びかえるとタイミングを見計らって一気に立ち上がった。
「オンサラサラバザラハラキャラウンハッタ!!」
北斗が真言を唱えると、降り注いでいた竹刀が弾き飛ばされた。いや、竹刀を持っていた霊たちが吹き飛ばされたのだ。北斗の周りに結界が張られ、霊達は危害を加えることができない。そして、
「ノウボゥバギャバテイタレロキヤハラチィビシシュウダヤ・・・・・・」
全ての邪気を祓う『尊勝陀羅尼』で、北斗は一気に穢れを祓いにかかる。
「・・・・・・キリタヤジシュタンノゥジシュチタマカボダレイソワカ・・・。」
陀羅尼が終わると、先程の騒ぎは嘘のように静まり返り、竹刀や道着が散乱しているだけとなった。きっと明日には大騒ぎになるだろうが、全て一人で片付けていると夜が明けてしまう。北斗は上に向かった。
尊勝陀羅尼の影響か、不思議なことに2階には瘴気が充満しているだけだった。祓詞で清めて塩を振り、3階の第3音楽室に向かう。そっと様子を伺いながら中に入って、北斗は首をかしげた。
「何も・・・おらへん・・・?」
瘴気は漂っているが、何も気配がない。しかし、いくら強力な陀羅尼とはいえ、緊急に唱えたものがそこまで力を持つとは思えない。それで済むなら、こうしていちいち清めて歩かなくても一発で学校全体を祓ってしまえるのだから。と、北斗が考え込んでいたその時、突然目の前のピアノが鳴った。ビクッと身をこわばらせる北斗の前で、ピアノが曲を奏でる。しかし弾いている主の姿はない。北斗は独鈷杵を取り出し、そっと近づいていく。鍵盤が見えるほどの距離まで近付いた時、北斗は息を呑んだ。
「手だけ・・・。」
ピアノを弾いていたのは手首から下だけだったのである。こうした霊は北斗も目にしたことがあった。足だけが歩いているのも見たことはある。
気を取り直して独鈷杵を構えた瞬間、手が演奏を止めた。そして手の平が北斗の方に向く。そこには、目があった。そしてギョロリと北斗をにらんだかと思うと、手が握りこぶしの形になり、ビュンと北斗めがけて飛んできた。
「うおっ・・・!」
とっさにかわす北斗。しかし、
「ぐっ!」
もう片方の手が北斗のボディにアッパーを決めていた。
「うぅっ・・・けほっけほっ・・・」
独鈷杵を落とし、腹を抱えて下を向いた北斗のあごを、さらにこぶしが突き上げた。
「あぁっ!!」
ふらついた北斗は壁にもたれかかる。
「いいぞぉ!」
「やっちまえ!!」
突然先程まで静かだった音楽室が騒がしくなった。北斗が顔を上げると、四方の壁にかかっている音楽家の肖像画が、生きているかのように騒いでいる。
「こいつら・・・なんもおらへんと思ってたら・・・画のなかに・・・隠れてたんか・・・。」
北斗が黙らせようと印を結ぼうとした瞬間、右頬をフックがとらえた。
「うあっ!」
左を向いた北斗の今度は左頬をもうひとつの手が殴る。肖像画たちが割れんばかりの歓声を上げた。
「こいつら・・・!」
北斗も反撃に出るが、宙を自在に舞うこぶしをパンチやキックでとらえるのは至難の業である。しかも北斗は特に格闘技の経験があるわけではない。北斗の攻撃はことごとく空を切り、代わりに2つのこぶしが北斗の小さな身体を痛めつけていく。
「ぐっ・・・うあっ・・・うわぁっ!」
あごをやられた北斗の足は言うことを聞かなくなり、ついに北斗はダウンした。広い音楽室の真ん中で大の字に倒れ、端整な顔を苦痛にゆがめる北斗を見下ろし、肖像画たちが一斉にカウントを始めた。
「ワン!・・・ツー!・・・スリー!・・・・・・」
しかし敵は待ってはくれなかった。手の平の目で何とか起き上がろうとしている北斗を見下ろしていた手が、降りてきて北斗のミディアムショートの髪の毛をわしづかみにし、無理やり立たせた。
「くそぉ・・・とどめ・・・刺す気か・・・。」
もう片方の手が容赦なく薄い腹筋にめり込む。
「ぐっ!」
38kgと軽い北斗は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。ズルズルと崩れ落ちながらも、ボーっとする頭で北斗は何とか策をめぐらせていた。
(・・・そうか・・・この手しかない・・・。)
何事かひらめいた北斗は必至に体を立て直す。そうこうするうちに2つのこぶしが北斗のこめかみめがけて殺到する。直撃すれば死すらあり得る急所である。こぶしが北斗に1メートルと迫ったとき、北斗が両ポケットに手を入れた。そして、こぶしが直撃する瞬間、北斗は勢いよくしゃがみこんだ。直前まで頭があったところに2枚の霊符を残して。
北斗の頭の代わりに駆邪符を殴ったこぶしは、空中で青白い炎に包まれた。座り込んでしまった北斗は、そのままの体勢で印を結ぶ。歯をカツカツカツとかみ合わせ、呪を唱えると、空中で燃えていた炎から火の粉が飛び出し、肖像画に潜んでいた魑魅魍魎たちに降り注いだ。
「ぎゃあっ!」
「熱い!」
聖火に焼かれてそれらのモノ達は蒸発するように消え失せた。全ての邪気が消えるのを見届けると、北斗はグッタリと座り込み、はぁ~・・・と息を吐いた。
何とかC棟の祓いを終えたものの、北斗は体力をかなり消耗していた。何とか足のダメージは抜けたが、息は荒い。妖怪は霊と違い物理的に攻撃してくるのでたちが悪い。身を守る術はあるが、これまでは不意打ちだったので準備する間がなかった。しかし身体が痛んで抵抗力が落ちている以上、ここからはしっかり準備しなければ危険である。北斗は息を止め、目を閉じて印を結んだ。
「我身倚太山太山護我身・・・・・・奉太上老君急急如律令。」
護身の呪を唱え、万全の体制を整えて次の目的地、体育館へ向かう。
重い体育館の扉を何とか開けると、チカチカと体育館のライトが点滅していた。そのライトに照らされ、毛むくじゃらの手足の生えたバスケやバレーのボールが飛び交っている。
「何やねん・・・こいつら・・・。」
そうつぶやいた北斗にボール達が飛びかかってきた。しかし、見えない壁にさえぎられ、ボールは北斗に届かない。先程の護身法が北斗を守っているのだ。
「最初からこうしとけばよかった・・・。」
ため息をつきながら、北斗はカバンの中から七星剣を取り出した。
「吾是天帝所使執持金刀非凡常刀是百錬之刀也一下何鬼不走何病不癒千妖万邪皆悉済除急急如律令。」
今度こそきちんと剣に気を吹き込む。目には見えない霊気の刀身が短い七星剣から生じる。それを縦、横交互に振り、九字を切る。
「朱雀、玄武、白虎、勾陳、帝台、文王、三台、玉女、青龍!」
七星剣の鋭い霊力で、体育館の隅々まで穢れが一掃された。北斗は四隅に塩を盛り、体育館を後にする。
「これで・・・残りはB棟だけか。」[午の巻]
見ればB棟の窓から跳梁跋扈する魑魅魍魎たちの姿が見える。既に北斗の存在がばれているらしく、威嚇する気配がピリピリと北斗の肌を刺す。北斗は鼻から息を吸い、しばらく止めて口から吐き出し、気を充実させてからB棟に向かった。
B棟の横には小さな池がある。これがまずい。ちょうど学校の敷地の「艮」にあたる。学校に入ってきた穢れがこの湿気でせき止められ、この学校に凝ってしまうのだ。これにさらにいくつかの要因が重なって、この学校は「出る」学校になってしまった。特に池の近く、さらには裏の墓地にフェンスひとつ隔てて面しているこのB棟は最も頻繁に学校関係者によって怪現象が目撃されている校舎である。
北斗が鍵を開け、扉を開けようとした時から既に戦いは始まっていた。扉が開かないのだ。左右にスライドさせる扉なのだが、まるで誰かが向こうから押さえているかのように、開きそうで開かない。
「入れたくないんやな・・・。意地でも開けたるぞっ。」
北斗はポケットから12枚の黄色い短冊状の紙を取り出した。それぞれに短い漢字が朱色で書かれており、判が押されている。それを扉の前に並べ、右手の人差し指と中指をピンと立てた。扉の向こうでざわつく気配がある。
「六甲六丁神、霹靂大将、雨伯大将、火光大将、吼風大将、混海大将、各領神兵百万垓、助吾法力・・・客兵入城、他兵敗走、急急如律令攝!」
ザワリと風が起こったかと思うと、扉の向こうにあった気配が逃げ去っていく気配があった。そして扉が自重でゴロゴロと開いていく。北斗は符を回収し、警戒しながら中へと足を踏み入れた。いくら護身法を使っているとはいえ、強力な穢れは時として結界を破ることもある。まして術は術者自身の穢れや精神の揺らぎによってその強度が大きくされる。既にかなりのダメージを受けた北斗の護身法は万全の時に比べかなり強度が落ちているのだ。
北斗が非常灯と外灯に照らされるB棟1階の廊下を見渡したそのとき、背後の扉が勢いよく閉まった。
「逃がさへんつもりか。・・・上等や。誰が逃げ出すかっ。」
強気な言葉で自らを叱咤し、北斗は1階の廊下を進んでいく。1階は特殊学級と、後は教室5つ分の図書室である。特殊学級は瘴気がこもっているだけだったが、図書室からは明らかに強い瘴気が流れ出している。
「妖怪がおるな・・・。」
護身法を整え、図書室のドアを開ける。中は瘴気が充満している。そっと入ろうとした瞬間、突然背中を誰かに勢いよく押され、北斗はつんのめった。背後でピシャッとドアが閉められる。それを振り返って見、再び前に視線を戻した時、北斗は目を見開いた。
巨大な壁が迫ってくる。いや、一瞬壁に見えたそれは、
「津波!?・・・うわあぁっ!!」
天井にまで達する巨大な津波に、逃げるまもなく北斗は飲み込まれた。あまりに突然のことに、息を止めることもできない。水の流れに揉まれ、口からも鼻からも水が入ってくる。
(く・・・苦しい!)
平衡感覚も失い、北斗の身体から一切の力が抜けた。
「うぅ・・・、あれ・・・?」
目を覚ました北斗は、瞬時に記憶をたどり、自分の状況を確認しようと周囲を見渡した。
「え・・・?ちょっ・・何でボクこんなトコに・・・!」
北斗は図書委員の椅子に仰向けで寝そべっていた。頭と手足は椅子からはみ出て投げ出され弓なりになっており、ズボンに入れていたカッターシャツとインナーのTシャツがめくれて形の良いおヘソがのぞいている。
「くぅ・・・腰いってぇ~・・・」
起き上がって服装を正し、北斗は自分が全く濡れていないことに気付いた。
(これって・・・・・・そういうことか・・・!)
そのとき北斗の目の前の大きな机が突然持ち上がった。メキメキと音を立てて机から手足が生え、机の面にものすごい形相の鬼の顔が浮かび上がる。
「お前は、何じゃ!!!!」
机が地響きのような声を上げると、口から猛火が生じ、暗い図書室が昼のようになった。さらに体からも炎が湧き上がり、周囲の本に引火した。
「ワシを怒らせたら、ただではすまんぞ!!!!」
言うが早いか机の鬼はダスダスと炎に包まれた体で北斗に突進してきた。北斗はあわてるそぶりを見せたが、逃げようとしたわけではなかった。殺到してくる鬼の下半身を指差し思い切り叫んだ。
「おいっ、尻尾見えてるって!隠さな!」
「えっ!?ホンマ!?」
北斗の言葉に鬼は急停止し、急いで自分の背後を検分する。そしてそれが嘘である事がわかると、激しい炎を上げ、顔を真っ赤にして北斗を睨んだ。
「だまくらかしおったなぁ・・・!こぞうがぁぁ・・・・!!!」
そして前にもまして勢いよく北斗に迫ってきた。北斗はポケットから符を取り出し、鬼に突きつける。
「夜鳴きする 朝日が岳の 古狐 昼はなくとも 夜はな鳴きそ!」
北斗が勢いよく呪歌を詠むと、走ってくる勢いのまま鬼の姿が掻き消えた。同時にあれだけ燃え盛っていた炎も全て消え、図書室はもとの暗さに戻る。机は元通り、部屋の真ん中に何事もなかったかのようにたたずんでいる。
と、その時、図書室の奥の出口に向かって走り去ろうとするいくつかの影があった。
「逃がすか! オントドマリギャキテイソワカ!!」
北斗が印を結び真言を唱えると、走り去ろうとした影がつまづく様に止まった。4本足の小さな影である。
「やっぱり狐やな。服が濡れてないから幻やって気付いたわ。僕が気失ってる時にトドメ刺しとくべきやったな。」
北斗が一歩踏み出すと、影達はジリジリと出口に向かって距離を縮めていく。それを見た北斗は先程の霊符、『解狐狼霊章』を掲げさらに呪歌を詠む。霊符から霊気が放たれ、狐達を包み込むと、徐々に狐達の姿は薄くなり、やがて煙のように消えていった。
図書室と、1階の廊下を清めた北斗は上の階に足を踏み入れた。跳梁跋扈していた浮遊霊や魑魅魍魎が北斗を威嚇する。それらを祓詞で一掃し、北斗は最後のB棟4階に足を踏み入れた。時刻は午前1時半。ここを祓って、最後にグラウンドで学校全体を清めれば、祓いは終了だ。
しかし北斗には気がかりがあった。まだ北斗の邪魔をしたモノを突き止めてないのだ。これまで祓った悪霊や妖怪達は、確かにかなりの力を持ってはいたものの、瘴気を祓って貼られた霊符の力を吹き飛ばす程では、正直言ってない。あれらは単に呪的に無防備なこの学校に集まってきただけだ。ただ、これまでせいぜい浮遊霊か小さな魑魅魍魎が集まってくる程度だったこの学校に、ここまで強力な妖怪がここ数日で次々集まってくるのも不可解だ。何か黒幕とでも言うべきモノがいて、この学校に妖魔を集めていると考えるのが最も自然である。
緊張しながらゆっくり階段を昇っていく北斗は、あと2,3段で4階というところで足を止めた。強力な妖気が壁のようにのしかかって来て、前に進めないのだ。北斗は七星剣を取り出した。
「朱雀、玄武、白虎、勾陳、帝台、文王、三台、玉女、青龍!」
九字を切ってまとわりつく妖気を払う。ブワリと瘴気が散ったのも束の間、また廊下の方から沸いてくる。後は護身法で退けながら、進むことを拒絶する足を叱咤して北斗は最後の階へ向かった。
瘴気は充満しているものの、魑魅魍魎達がいるわけではない。妖怪が牛耳っているのかとも思ったが、今のところ目に付くモノはいない。そのとき、背後から突然肩に手が置かれた。
「わぁっ!」
ビックリして振り返ると、そこには顔色の悪い男性が立っていた。[未の巻]
「山根・・先生・・・?何でここに・・・。」
「それはこっちの台詞や。何でこんな時間にお前がここにおるんや?」
山根先生は表情ひとつ変えず、ぼそぼそとしゃべる。復帰してすぐよりさらに声に生気がない。
「いや・・・それは・・・。」
なんとか言い訳をしようと口ごもった北斗は、山根先生の体から漂ってくる嫌な臭いに思わず顔を背けた。そして気付いた。
(そうや・・・これ・・・動物の臭い。)
北斗の家には昔雑種犬がいた。北斗が小学生の時に死んでしまったが、よく一緒に遊んでいた。記憶に残るその犬の臭いと、山根先生の臭いは似ているのだ。そういえば以前も山根先生からこの臭いをかいだのを北斗は思い出した。
(そういえば、あの臭いをかいですぐに、ボクの霊符が破られ始めたんやっけ・・・。それに・・・)
なぜ山根先生がこんな所にいる?深夜の学校に、電気もつけず、魑魅魍魎が跳梁跋扈するこの校舎に。今の状態では普通の人間なら、瘴気に当てられ一瞬で昏倒するだろう。下手をすれば命すら失いかねない。護身法で身を守る北斗でさえ、時折意識を持っていかれそうになる程の濃度である。なのになぜ山根先生は、平然とここに立っている?
全ての疑問が一本の筋でつながり、北斗は山根先生を見上げた。
「とにかく、はよ帰り。」
そういった山根先生の視線は自分の真正面を虚ろに見ている。北斗とは20cm以上身長差があるのだから、視線は北斗を捉えてはいない。異変に気付いた北斗は一気に距離を取り、七星剣を構えた。
「おまえ、何者や!?」
山根先生の口がゆがんだ。せせら笑いを浮かべるその背後に、影のような黒い何かが憑いている。
「朱雀、玄武、白虎、勾・・・あっ!!」
先生に取り付いたものを弱らせようと、九字を切ろうとした北斗の腹に、山根先生の膝がめり込んだ。七星剣を落とし、倒れこんだ北斗は腹を抱えて咳き込む。その丸めた背中を山根先生は足蹴にする。
「うぁっ・・・うぁっ・・・」
悶絶しながらも北斗は山根先生の蹴り足を手でつかんだ。そのまま押し返すと、山根先生はよろめき廊下に手を突いた。その隙に何とか立ち上がり、北斗は印を結ぶ。
「ノウマクサンマンダバザラダン、カン!」
不動の炎が山根先生の背後に潜むモノを包んだ。そのとき、
「カカカカカッ・・・!こんな術でわしが祓えると思っているのか!?」
腹の底に響くような声が山根先生の後ろあたりからしたかと思うと、炎が弾き飛ばされた。唖然とする北斗は、次の瞬間には、体勢を立て直した山根先生に殴り飛ばされていた。勢いよくコンクリートの地面に叩きつけられ、北斗は唾液を吐き出す。さらに北斗の上半身を、山根先生が踏みつける。
「ぐぁっ・・ぐぁっ・・あっ・・かはっ・・・!」
何度も何度も大人の体重で踏まれ、最初はガードしようと上がっていた北斗の腕が、だんだん力なく下がってきた。最後にひときわ大きく腹を踏みにじられると、北斗の腕は完全に体の横に投げ出された。力なく横たわっているものの、まだ意識はある。小さく咳き込み苦しむ北斗を見下ろし、山根先生はせせら笑いを浮かべて舌なめずりをする。
「立て。」
そういうと山根先生は戦意を喪失した北斗のすんなりした腕をわしづかみにし、北斗の体を持ち上げた。足が空中に浮き、北斗はグッタリぶら下げられる。そのまま山根先生は北斗の腕を壁に叩きつけると、もう片方に腕とともに壁に押し付け、北斗を「万歳」の格好にさせた。足はかろうじて地面に着く程度である。いくら成人男性と小柄な中学1年生の男の子とはいえ、片腕で約40kgの北斗を軽々持ち上げ、宙に浮かせるのは尋常ではない。まして山根先生は平均的な男性の体格と比べればかなり貧相な部類に入る。
何者かに取り憑かれ操られている山根先生は、腕を固定しているのと反対の手で、パンパンと北斗の頬をはたく。ぼんやりとされるがままになっていた北斗の意識が少しはっきりする。
「う・・・。」
弱弱しく見つめる北斗を、山根先生は愉快そうに見る。
「気分はどうだ?コゾウ。」
「先生を操って・・・どうする・・・つもりや・・・。」
北斗は背後のモノに向かって話しかける。
「さてなぁ・・・。教える必要は、あるまい?」
「・・・どうでもええけど・・・先生を操るのは止めろ・・・。・・・こんな事・・・させるな・・・。」
「カカカカカカッ!!わかっとらんようだなぁ、コゾウ。わしは無理やりこの男に取り憑いたわけではないぞ。この学校にたどり着いたわしはこの男の心の闇に引き寄せられたのよ。この男の心は暗いぞ。寂しいぞ。お前気付かなんだか?」
「・・・・・・?」
「ほれ見ぃ。誰もお前の心なんぞ理解しておらんとよ!」
声が響くと、山根先生の顔がゆがんだ。
「どいつも・・・こいつも・・・俺のこと・・・なめくさりやがって・・・。生徒も・・・他の教員も・・・・・・なんで俺は・・・笑いものにされるんや・・・」
「先生っ・・・しっかりして下さいっ!ボクら先生のこと笑いものになんかしてへんよ!」
北斗は何とか山根先生の意識に向かって話しかけ、憑いているモノを退けさせようとする。しかし、
「ダマレオマエニナニガワカル!!!」
目は虚ろなまま激昂した山根先生は、両手を固定され無防備な北斗の腹に、パンチや膝蹴りを浴びせる。北斗の細い腰が左右に揺れる。
「あっ・・・あぁっ・・・・・・!」
再び北斗はぐったり体の力を抜いた。うつむいた顔を、髪の毛をわしづかみにされて強引に上を向かされる。
「うぅっ・・・」
「分かったか?この男の心がこのわしを求めた。わしもこの男を求めた。利害が一致してこうしているのだ。霊能者かなんだか知らんが、未熟な術者のガキごときに引き剥がせるものではないわ。」
そのとき、北斗がカツンと歯をかみ合わせ、口にためた唾液を山根先生の背後に吹きかけた。
「ギャッ!」
山根先生の拘束が緩み、ストンと北斗が床に座り込む。魑魅魍魎の類は人の唾液を嫌う。これで祓う事などできないが、とりあえず一瞬ひるませることはできる。しかし何とか逃れようと講じた策が火に油を注いだ。
「このクソガキが!!」
うずくまる北斗に山根先生は蹴りを浴びせる。そして地面に倒れこんだ北斗の腹を蹴り飛ばした挙句、顔を踏みにじった。これまで常人なら卒倒ものの瘴気の中を進み、多くの妖怪の攻撃を受けて消耗している北斗にとって、このダメージは決定打だった。
「う・・・」
こわばっていた身体の力がくたっと抜け、北斗は意識を手放した。 [申の巻]
どれくらい時間がたっただろうか。北斗はうっすらと目を開けた。途端にまぶしい光が眼に差し込み、思わず目をつむる。ゆっくりと光に眼を慣らして、辺りを見渡した。
「ここは・・・理科室?」
周囲には水道蛇口付きの白い6人用の机と、背の低い木の椅子が規則正しく並んでいる。北斗はどうやらその机の1つに横たわっているらしい。視界の端には顕微鏡が収められた戸棚がみえる。壁にかかっている時計を見ると午前3時を指している。1時間程気を失っていたことになろうか。電気がついているのは北斗の上の蛍光灯だけ。これはスイッチの構造上普通はありえない。
「目が覚めたかね?」
不意に反対側から声がかかり、北斗はそちらに顔を向けようとして、自分の身体が思うように動かせないことに気付いた。首を何とかめぐらせ、声のした左の方を見ると、そこには山根先生が立っていた。しかし声は山根先生のそれではない。
「くそっ!」
身体を起こそうとするが、手足が思うように動かない。どうやら瘴気に当てられたらしい。しかも身体の周りを今も瘴気が漂い、身体の動きを封じている。山根先生に取り憑いたモノに捕らえられてしまったのだ。
そして、上半身を起こそうと何とか首を起こして、北斗は自分が裸にされていることに気付いた。
全裸ではなくブリーフと白い靴下は穿いたままだ。パンツ一丁にされては制服の中の道具を使うこともできない。北斗は自分の置かれた状況の深刻さに気付いた。若い少年らしいムダな毛ひとつない滑らかな肌と、清潔さを表す真っ白なブリーフが蛍光灯に照らされている。
「ボクをどうするつもりや・・・。」
身体を強張らせながら尋ねた北斗の髪の毛を、山根先生の節くれだった指がサラリとかきあげた。おでこに手が触れた瞬間、毛の生えた動物が触れたような感触がした。
「わしの邪魔をした悪い子には、お仕置きをせんとなぁ。」
「邪魔・・・?お前、この学校で何するつもりやったんや?あの妖怪達もお前が呼んだんやろ・・・?」
「ふん、この期に及んで無駄なことを。まぁいい。勇敢な少年術士の健闘に敬意を表して教えてあげよう。」
山根先生の手が北斗の頭を撫でる。
「この土地は、生駒山の龍穴から生じた気が淀川、大和川という龍に乗って海に流れ込む良地。私は手下どもを気脈に置き、この地の気を集めさせようとしたのだよ。産土の神達の目に触れぬようこっそりとな。そうして、私はこの地を統べる力を得、さらにはここを拠点に全国の妖怪を統べる妖怪たちの神になるつもりだったのだ。・・・・・・しかし、わしが使っておった手下どもは、ことごとく術士どもの手にかかりおった!」
山根先生の顔が悔しげにゆがみ、背後の影が怒りを示すかのようにムワッと広がった。
「密教僧、修験行者、神主、それに陰陽師。人間の分際でわしの邪魔をしおって・・・。挙句わしも、葛城の行者に祓われそうになってこの有様よ。」
自嘲気味にニヤリと笑うと、山根先生は左手で額からあごにかけて、顔を撫でた。すると山根先生の顔が獣のそれに変わった。左目は無残に切り刻まれ、潰れた眼球から今も体液が滴っている。北斗がビクッとしたのを見届けると、左手で今度は下から上へ顔を撫でる。すると顔はもとの山根先生に戻っていた。
「お前・・・妖狐か・・・!」
ようやく合点がいった。霊符についていた茶色の毛、山根先生からした犬に似た臭い、祓いの場にいた狐、泰や高明の話、そして先程図書館で祓った狐。
「そうだ。貴様が先程下の階で祓ったのも我が眷属よ。よくも祓うてくれたなぁ、コゾウ。」
そのとき、横たえられている北斗の周囲にいくつかの気配が降りた。
「ふふ、わしの眷属が戻ってきたわ。見よ。こやつはわしの邪魔をしおった無謀な小僧よ。」
首をめぐらせて北斗が見たのは、机の周りを囲む3匹の狐だった。
「何とか逃れてきたところに、この学校があったのよ。陰気がこもってなんとも住み心地のよい土地だ。ここを基点に勢力を伸ばそうとしたのに、貴様が不愉快な符をばら撒きおる。普段ならこんなものすぐに破り捨てることなど造作もないが、行者に受けた傷で力が落ちておった。そこに都合よく現れたのが・・・」
山根先生が左手で自分を指差す。
「この男よ。なんとも取り付きやすい心の持ち主よのう。こいつの心に忍び寄り、貴様が張った符を剥がさせたのだ。そしてだんだんと弱らせ、折を見て憑依してやった。こいつの働きの優秀さは、貴様が1番よく知っておろう?」
北斗の頭を撫でていた山根先生の右手が北斗の頬をその親指で撫でた。悔し紛れに首を振ってそれを拒絶するが、振りほどくにはいたらない。山根先生に取り憑く妖狐はそんな北斗の様子を愉快そうに眺める。
「さて、話は終わりじゃ。明日にもこの学校はわしらが占拠しよう。貴様が撒いたうっとうしい物はこいつが掃除してくれるだろうしな。貴様はじっくりと嬲ってから妖気に浸して、我が眷属にしてやろう。・・・その前に、コゾウの分際でこのわしの邪魔をしたお仕置きをタップリしてやろうなぁ。」
山根先生の右手が、頬を離れて首筋、うなじを長い襟足の毛を掻き分けて撫で回し始めた。突然身体の敏感な所を触られて、北斗はピクッと身体を震わせた。山根先生は無表情だが、目がらんらんと妖しく輝いている。
「ほう?この男悦んどるぞ、コゾウ。お前の先生は、男色の気があったらしいなぁ。」
一瞬言われた意味が理解できなかった北斗だが、山根先生のズボンの股間部分が大きく起ち上がっているのを見て顔を赤らめた。
「やっ・・・!」
不意に山根先生のもう片方の手が、北斗の胸をさすり始めた。北斗に覆いかぶさるようにして、山根先生は北斗の薄い胸板を揉み解していく。時折手が2つの突起に触れるたびに、ピクッと北斗の身体が震える。オトナに裸の身体を触られる恥ずかしさに頬を赤らめながら、北斗が先生の背後に眼をやると、妖狐がニヤニヤ笑いながらこちらを見ている気配が伝わってくる。手で何とか胸を隠そうとするが、力がうまく伝わらない。
「く・・・くそぉ・・・あっ・・・ぅあぁっ・・・」
だんだん胸全体を揉んでいた手が、突起に集中してくる。うなじを撫でていた右手も加わり、2つのピンク色の小さな突起を指の腹でこねくり回したり、指でつまんだりして弄ぶ。敏感な箇所をいじられて、北斗の呼吸は段々と激しくなる。
「ほぉ。元気になってきたな。」
山根先生の口から妖狐の声で言われ、肩で息をしながら北斗はゆっくり頭を上げ、自分の股間に目をやった。ブリーフのふくらみからは北斗が勃起していることがはっきりと分かる。
「うぅ・・・見るなぁ・・・。・・・あっ・・・」
山根先生はもはや手ではなく、舌を使って北斗の乳首を責め立てる。初めての感覚に、北斗の呼吸が一層激しくなる。
「カカカ、愉快愉快。よし。お前らも手伝ってやれ。ただし一番大事なところはこの男にさせてやれ。」
舌を一旦離し、山根先生の口を借りて妖狐が眷属の狐に命じると、机の下でかしこまっていた3匹の狐達が、机に前足をかけ、顔を北斗の体に寄せて舌で北斗をなめ始めた。北斗の薄い腹筋、その先にある形の良いおヘソ、ムダな毛ひとつない引き締まった太もも。ブリーフのふくらみを除いてありとあらゆる北斗の性感帯を、山根先生と3匹の狐がなめ回す。
「あっ・・・やぁっ・・・あぁっ・・・・・・・」
ピチャピチャという犬が水を飲むような音と、声変わりしていない北斗のボーイソプラノの喘ぎ声が、夜の理科室に響き渡る。
山根先生が北斗の乳首責めを止め、北斗の顔を見た。依然おヘソや太ももを狐達になめ回されている北斗は、ギュッと目をつむって必至に快感に耐えていたが、時折目を開けて山根先生の方を見る。
「そろそろ頃合だな。この男も早く見たいようだ。」
ニヤリと笑うと山根先生は、左手を北斗のブリーフに置いた。そしてじらすようにゆっくりとゴムの方からふくらみの方にかけて手の平を滑らせていく。既にふくらみの先はシットリ濡れて染みができている。
「やっ・・・あかんっ・・・そこは・・・やめろぉっ・・・・・・」
北斗は動かない身体を必至に揺らし拒絶しようとするが、狐達になめられているので力が緩んでしまう。せめて肩幅位に開いた足の太ももだけでも閉じようとするが、無駄な努力だった。
そしてついに山根先生の手が、小ぶりな北斗自身をブリーフ越しに包み込んだ。ビクッと身体を震わせる北斗などお構いなしに、山根先生の手が優しくブリーフのふくらみを上下に擦る。柔らかく肌触りの良いブリーフ越しに擦られて、思春期の少年の初々しい性器はサイズこそ小さいものの元気いっぱいに自己主張する。
「うぅっ・・・あぁっ・・・やめっ・・・やめてくれ・・・・ぅあぁっ・・・」
重い首を左右に振り、北斗は喘ぐ。
「くくっ。いい声を上げるなぁ、コゾウ!この男がほしがるのも、無理はないのう。どれ、そろそろ限界じゃろう。」
山根先生は北斗のブリーフのゴムに手をかけ、ゆっくりとずらしていく。勃ち上がった北斗自身がゴムに擦れ、反動でプルンッと起き上がった。まだ皮は剥けておらず、きれいなピンク色の頭が半分ほど顔をのぞかせている。その頭はとろみのある透明の液でしとどに濡れ、蛍光灯の明かりのもとでいやらしく光っている。零れ落ちた液が細く短い竿を伝って、毛の生えていない根本や薄桃色の嚢を湿らせていた。
「カカカ・・・、ずいぶんとかわいいおチンチンだな、コゾウ。」
山根先生は北斗の性器を軽く指弾する。屈辱的な仕打ちだが、限界寸前まで追いやられ、しかも今なお狐達に嬲られている北斗に強がりを言う余裕はない。
「さて・・・トドメと行くか・・・。」
山根先生の左手が、透明の液を滴らせる北斗の性器をやさしく包み込んだ。初めて他人に触られて、北斗の身体がビクッと震える。山根先生の手はゆっくりと性器の皮を上下にしごき始めた。
「あっ・・・あっ・・・あぁっ・・・・・・・」
リズミカルな山根先生の手つきに合わせて北斗が喘ぎ声をあげる。既に身体への責めとブリーフ越しのマッサージで限界寸前だった北斗の絶頂はあっけなく訪れた。
「・・・ふあぁっ・・・あっ・・・やっ・・・もぅ・・・あか・・んっ・・・でるっ・・・あんっ・・・・あぁっ・・・・・・・・」
ギュッとこぶしを握った北斗が顔をのけぞらせ、腰を上げた。
ビュルルッ!ビュクッ!ビュクッ!ピュッ!・・ピュッ!・・・ピュッ・・・・・・・・
北斗の性器の先から勢いよく白濁色の精液が噴き出した。それを山根先生がことごとくキャッチしていく。若々しい少年の精液を舌の上で堪能し、ゆっくりと飲み下す。辺りに水っぽい独特の臭いが広がった。
「くく・・・なかなか濃いな。若い男の精はわしら妖怪にとっては馳走だ。延命長寿、妖力向上の秘薬ぞ。行者に受けた傷も大分ようなったわ。」
北斗は他人に見られている前で射精してしまった恥ずかしさと丁寧に性感帯を責められて極限まで快感を与えられた果ての射精の気持ちよさとで、弱弱しく目をつむり、耳まで真っ赤に紅潮させて肩で息をしながらぐったりしている。
「よし。我が眷属ども。お前らにも褒美をやろう。なめてかまわぬぞ。」
待ってましたとばかり、3匹の狐が我先にと北斗の、萎え始めている性器に舌を伸ばし、ピチャピチャと残った精液や先走りの液をなめ回す。舌の感触で、再び性器に硬さが戻る。
「うあぁ・・・」
すっかり力尽きた所にさらに刺激を与えられた北斗は苦しそうに声を上げた。
「ふふ。なかなかかわいいコゾウだ。わしの眷属にした暁にはわし専用の秘薬製造用として、毎日絞れるだけ搾り取ってやろうな。そうだ。ここにはまだまだ若い少年がたくさんいるのだ。全員瘴気に浸して、ここを全土統一のための食糧庫にするのも良いかも知れぬ。」
「あほなこと・・・言うな・・・そんなこと・・させへんぞ・・・。」
北斗が呻くようにして言う。
「ふん。お前は大人しくしておればいいのだ。小ざかしい術士め。」
「お前らは・・・ボクが・・・祓うっ。」
北斗は渾身の力を振り絞って両手を胸の前に持ってきた。指を絡めて「仏頂尊勝空印」を結ぶ。
「ノウボゥバギャバテイタレロキヤハラチィビシシュウダヤボウダヤバギャバティタニヤタオンビシュダヤビシュダヤ・・・・・・」
必至に『尊勝陀羅尼』を唱える。しかし・・・
「カカカカッ!無駄じゃ無駄じゃ!」
妖狐や眷属たちが祓えないばかりか、瘴気も全く薄まらない。
「な・・・なんで?・・・・・・くそっ・・・」
印を結び変え、呼吸を整え歯を3度噛み合わせる。
「乾天元亨利貞、兌沢英雄兵、坎水湧波濤、離火駕焔輪、艮山封鬼路、震雷霹靂声、巽風吹山岳、坤地進人門、吾在中宮立諸将護吾身、吾奉太上老君勅神兵火急如律令!」
呪を変えても全く効果がない。まるで祓う力が抜けてしまったようだ。
「カカカ!まだ分からんのか?コゾウ。貴様今何をした?」
「どういうことや?・・・・・・あっ・・・まさか・・・!」
「そうよ。わしの傀儡と眷属にかわいがられてたっぷりと精をもらしたろうが。貴様唱える呪や使っておる符から察するに陰陽師だな?・・・だが、陰陽師だろうが行者だろうが、自らの精で穢れた身体でどんなに術を施そうが、そんなものに神が感応するはずがあるまい。」
「くぅっ・・・」
この拷問がただ山根先生の心の闇と妖狐の復讐心を満足させるためだけでなく、北斗の牙を徹底的に殺ぐものであったことに気付いた北斗は、悔しさで山根先生から顔を背けた。
「つまりお前は・・・」
「あっ・・・!」
山根先生が北斗の髪をつかんで顔をこちらに向きなおさせる。
「毛も生えそろわんただのガキというわけだ。カカカカカ!まだ下らんことを考える余裕があるようだ。我が眷属ども。無駄なことなど考えられんように、絞りつくしてやれ。」
命じられた眷族の狐達が、身軽に机に飛び乗ったかと思うと、北斗の身体の敏感な所を再びなめ回し始めた。
「やめろっ・・・あぁっ・・・うあっ・・・」
もうすっかり萎えたと思ったのに、北斗の身体は反応する。ブリーフをずり下ろされてむき出しになった性器が再びピクンッ、ピクンッと脈を打つ。
「ふふ。なかなかいい身体をしてるじゃないか。これならこの先も期待できそうだな。カカカカカカカ・・・!」
意思とは裏腹に、与えられる刺激によって北斗の身体はどんどん興奮していく。疲労しきった所に初めて他人から与えられる強烈な性的刺激を2度も繰り返され、北斗の意識はボヤケていく。 [酉の巻]
(じいちゃん・・・ゴメン・・・ボク、もう・・・だめや・・・)
自分を見下ろす山根先生の姿が霞み、幼い頃の記憶とダブる。
祖母は北斗がまだ幼稚園に行く前に亡くなった。最愛の妻を亡くした寂しさを癒すためか、高明は北斗を溺愛していた。北斗も高明が大好きで、よく膝の上に乗せてもらい、本を読んでもらっていた。
小学校に上がってもしばらくは高明の膝の上がお気に入りだった。読んでもらう本は段々陰陽道や道教などの本に変わっていったが・・・。陰陽五行や暦の話、霊符の書き方や印の結び方など、高明の膝の上で幼い北斗はこの道の基礎を次々に身につけていった。高明は昔話を聞かせるように、本だけでは決して学べないこの道の根本にある考え方を北斗に伝えていく。
「ええか、北斗。陰陽師は『穢れ』に強うないとあかん。」
「『けがれ』ってなに?」
「うん。『穢れ』いうんは、簡単に言うたら汚いもんのことや。せやけどもっと広い意味で言うたら、北斗が目で見て、イヤやなぁと思うもんのことや。」
「うんことか?」
「そうや。」
「おしっこも?」
「そうやな。他になんかあるかな?」
「うぅ~ん・・・わからへん。まだある?」
「いぃっぱいあるで。例えばな、人が血流してるのみたら、北斗どない思う?」
「絆創膏はったげな・・・。」
「北斗はやさしいなぁ。せやかて、よおさん血が流れてたら、ちょっと怖いやろ?」
「うん。」
「こういうな、汚いわけやないけど、見たらちょっとイヤやなぁと思うもんが『穢れ』や。死んだ人、赤ちゃんが産まれる時に出るいっぱいの血、腐った食べもん、豚さんや牛さんを殺してそのお肉を食べること、・・・こういう『穢れ』って北斗もいっぱい触ってるんやで。」
「うんこするもんな?」
「そうや。せやからおじいちゃんもお父さんも、お祓いの前の日はできるだけきれいにしよるやろ?でも『穢れ』はほっとってもくっついて来よる。・・・でもな、『穢れ』に触れるのを嫌がるんやのうて、その中に入っていっても大丈夫なんが一人前の陰陽師や。」
「ふぅ~ん・・・。」
「穢れたからって、『もうだめぇ~』って潰れてしまうんやのうてな、『穢れ』に触れても平気。祓えばええ。そういう、『七転び八起き』が陰陽道なんやで。せやから北斗ちゃんも頑張って修行して、『穢れ』に負けへん強い男の子になろな?」
「うん。でも、もしどうしても『穢れ』に『もうだめぇ~』って負けそうになったときはどうしたらええのん?」
「ほんなら、北斗に秘密の技を教えたろ。ええか、この国にはな?穢れを洗い流す川があるんや。そこの神さんにお願いして、穢れを流してもらうんや。その祝詞はな・・・・・・」
そうや・・・。「七転び八起き」や。半分失いかけていた意識を何とか引き戻した北斗だったが、状況は悪くなる一方だった。身体中眷属の狐達の唾液でぐっしょりで、意識を失いかけていた間にも北斗の性器は従順に2度目の放出に向けて大きくなっている。意識がはっきりしたがためにその刺激が脳に伝えられ、下半身が痺れて溶けそうな感覚を感じ、思わず喘ぎ声が出そうになる。それを歯を食いしばって耐え、北斗は胸の前に置いたままだった手を必至に組み、印を結んだ。親指、人差し指、中指、小指を突き立て、残った薬指だけを交互に絡ませる。
「まだ何かする気か?」
妖狐の呆れたような声も耳に届かない。北斗の耳には、幼い頃聞かされた高明の声だけがこだましている。
全ての穢れに恐れず向かい合う。どんな穢れも祓い落とす。それが陰陽師。
渾身の声を上げ、北斗は祝詞を上げ始めた。
「高天原に神留坐す皇親神漏岐神漏美の命を以て死穢、産穢、病穢、媱犯穢、月水穢、并穢食雑食穢諸不浄をば科戸風の吹払事の如く焼鎌の敏鎌を以て打払事の如く水を以て火を消すが如く・・・」
北斗が祝詞を上げ始めると、まず群がっていた眷属たちに異変が生じた。猛烈な勢いで彼らを取り巻く瘴気が薄れていく。恐れおののいて北斗の身体から離れようとするが、その姿が段々と薄くなっていく。
「おのれ・・・!何が起こった!?穢れた身体で読んだ呪がなぜこうも強力な力を発揮するのだ!!」
眷属だけではない。山根先生の背後にいた妖狐の影が、徐々に山根先生から引き剥がされ、清められていく。
「・・・一切の穢気不浄をば日向の小戸の檍原の上瀬の太急潮にて滌去て・・・」
「そうか・・・この祝詞・・・死者の国から逃げ帰った伊邪那岐命が身体を清めたという・・筑紫の阿波岐原の上の瀬の・・・流れの太だ(はなはだ)疾き(はやき)・・・急流で・・・・・・全ての・・・穢れを・・・・・・おのれぇ・・・わしがこんな所で・・・こんな・・・・・・・コゾウに・・・・・・・・・」
「・・・・・・祓賜い清賜う事の由を、左男鹿の八の耳を振立て、聞食せと申す・・・・・・。」
不意に窓の開いていないはずの理科室にどこからか風が吹き込み、もはや気配だけとなった妖狐とその眷属、そして山根先生にわだかまっていた瘴気の残滓と北斗を捕らえていた瘴気を吹き払った。
山根先生は、それこそ糸の切れた操り人形のようにばたりと崩れ落ちた。同時に、妖狐の妖力でついていた蛍光灯が消え、理科室は外からの明かりだけになった。[戌の巻]
目が慣れるまでしばらく待ってから、北斗は拷問用の台として使用された机を降りた。机は北斗の流した精液や先走り液、それに汗で濡れている。ずり下ろされたブリーフを上げると、ぐっしょり湿って気持ちが悪い。とにかく服と荷物を探さなければと、1つだけ電機のスイッチを入れる。1番手前の1列だけだが、十分明るい。北斗の制服のズボンやシャツ、靴、カバンなどは、理科室の隅に固めて置いてあった。気を失った北斗を担いできた山根先生がここに北斗をもたれさせて服を脱がせたのだろう。カバンから清めの塩を取り出して体に振り、タオルで丁寧に身体中の唾液や精液をふき取る。
服を着て、北斗はようやく一息入れた。クタクタだったが、まだやることが残っている。まだ少しふらつく足を励まし、まず机の端にもたれている山根先生の所に向かう。
彼の心の闇に触れてしまったのはつらいが、それとて「穢れ」。祓ってしまえばきっとやり直せる。北斗は先生の前に膝を着き、深呼吸して拍手を2回打った。
「高天原に神留坐す皇親神漏岐神漏美の命を以て魂魄は日月の光を和らげ賜うが如く身心は天地の元気に通わしめ賜うが如く身は安く言は美わしく意は和らぎて諸の悪業、煩悩、邪念、猛慮をば日向の小戸の檍原の下瀬の弱く和柔ぎたる潮の如く罪と云う罪咎と云う咎は不在と祓賜い清賜う事の由を左男鹿の八の耳を振立て聞食せと申す・・・・・・。」
人が不意に犯した罪穢れを優しく祓う祝詞を読み上げ、北斗は理科室を後にした。とりあえずアフターケアの事は考えないことにして、今はこの学校の全ての穢れを一掃することに専念する。時刻は午前4時20分頃。早くしなければ夜が明けてしまう。急いで暗いB棟の階段を駆け下りる。北斗の大奮闘のおかげで、今のところ瘴気は感じられない。しかし今日のうちに手を打たねば、明日にはまた瘴気が充満することになってしまう。
さんざん妖怪にボコボコにされた上にこれまでにないほどたっぷり射精して、挙句に猛ダッシュで階段を駆け下りた北斗は肩で息をしながら、まだ真っ暗なグランドに出た。平岡中学校はやや高台にあるため(あまり風水的に良くないが・・・)、とりあえず新聞配達などの通行人に見られる心配はない。
早速北斗は、カバンの中から24枚の霊符を取り出した。それぞれをグラウンドの中央から24方山(八方位に加えて戊己を除く十干を配置した方位)の方角に、土を盛った上に置いていく。そして、「子」の方角から順に、ライターで火をつけていく。ぐるりと一周するとそのまま中央に帰ってきて、北斗はカバンから七星剣を取り出した。北斗の周りでチロチロと火が燃えている。校舎のほうを向いて中央に立った北斗は右手で柄を持ち、左手で剣身を受けて掲げ、深々と一礼した。そしてそのままゆっくりと呪を唱える。唱え終わると、北斗は校舎に向かって大きな動作で七星剣で九字を切った。そして、剣を再び掲げて礼をすると、剣をしまった。この頃には火は全て消え、灰が風に舞ってグラウンドを行ったりきたりしている。[亥の巻]
「ふぅ・・・」
北斗は大きく息を吐いた。祓いの準備が整った。24方山の符を燃やし、七星剣で場を清めた後のグラウンドは、いわば巨大な結界である。ここで最後の術をかけ、学校を穢れから解き放つ。同時に穢れが入り込めないようこの学校に結界を張るのである。
深々と3拝する北斗。
パンッ!・・・パンッ!
そして北斗の鋭い拍手が日の出前の学校に響き渡る。祝詞紙を取り出し、腹の底から頭の先に向かって声を通すイメージで、祝詞を読む。
「集侍親王諸王諸臣百官人等諸聞食と宣る・・・・・・高天原に神留坐す皇親神漏岐神漏美の命を以て八百万神等を神集えに集え賜い・・・」
北斗が唱える『大祓詞』に合わせるかのように、学校全体に風が吹く。祓われきれていなかった穢れがそれに乗って、穢れが行き着くという根の国底の国があるという大海原へと流れていく。
「・・・如此失てば天皇が朝廷に仕奉る官官人等を始て天下四方には今日より始て罪という罪はあらじと高天原に耳振立聞物と馬牽立て今日の夕日の降の大祓に祓給い清給う事を諸聞食と宣る・・・・・・。」
北斗が読み終える頃には、段々と空が紫色に変化し始めていた。爽やかな秋の風に、北斗の声の余韻が運ばれていく。学校内の全ての穢れは祓われ、霊魂や魑魅魍魎は踏み入れることのできない空間となった。これでしばらくは北斗が人目を忍んで祓いをする必要もないだろう。
祝詞紙をしまい、北斗は校舎に向かって、鋭く2度拍手を打った。そして3度、深々と拝礼をする。
祓いの力を借りた全ての神等に、土地の守りを託すこの土地の産土の神に、そして、祓われていった全ての穢れたちに・・・。
長い夜が、終わった。
空に薄っすらオレンジ色がさし始める頃、北斗はこっそり家のドアを開けた。家族が起きている気配はない。抜き足差し足で2階への階段に向かったその時、高明の部屋の障子がそっと開いた。
「おはようさん。」
顔を出した高明が小さな声で挨拶してくる。
「う・・うん・・・、おはよう。」
北斗も小声で挨拶したが、どう考えてもトイレに起きてきた格好ではない。何といわれるかドキドキしながら祖父と見つめ合うことしばし、祖父がニヤリと笑った。
「ちゃんと後でお風呂入りや。おやすみ。」
それだけ言うと、高明は障子を閉めた。
敵わない・・・。北斗は緊張から解き放たれた安堵と、自在に飛び回った後、そこがお釈迦様の手の平の上だったことを知った孫悟空のような脱力感で、大きくため息をついた。
結局その日は前日からの風邪をこじらせたという口実で北斗は学校を休んだ。母の代わりに部屋に入ってきた高明が口裏を合わせてくれたのだ。風呂に入って身体を清めた北斗は泥のように眠った。
翌日、学校に行くと、不思議なことに騒ぎは全く起こっていなかった。一応それとなく柔道部の友人に尋ねてみたが、特に異変はないという。どういうことだ?謎を抱えたまま下校時刻を迎えた北斗は、教室を出て学校を見回った。これまでの陰鬱な雰囲気がどこかすがすがしいものに変わり、瘴気は微塵も見えない。結界と産土の神の力が働いているのだ。
結果オーライでB棟からA棟への渡り廊下を歩いていた北斗の背後に、人の気配があった。何気なく振り返ると、山根先生が後ろを歩いている。思わず急いで前を向き、自然を装うが、歩き方がぎこちなくなる。そのうち先生の足音がどんどん近くなり、すぐ後ろにまで接近した。
不意に、節くれだった手がポンッと北斗の頭に載った。ビックリして手の主の顔を見上げると、まさに憑き物が落ちたような爽やかな笑顔を浮かべる山根先生がいた。北斗の頭を軽く撫でると、目配せをして北斗を追い抜き、職員室のあるA棟へと消えていった。
なるほど。
北斗はなぜあの悲惨な状態の学校が翌日騒ぎにならなかったのか理解した。
山根先生が、少し好きな先生になった。
〈完〉
「・・・科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き掃う事の如く、大津辺に居る大船を舳解き放ち艫解き放ちて大海原に押し放つ事の如く、彼方の繁木が本を焼き鎌の敏鎌を以ちて打ち掃う事の如く・・・」
夕暮れ時、生徒が誰もいなくなった校舎の2階に、聞きなれない言葉を並べる声変わりしていない男の子の声が響いている。大きな声ではないのだが、声変わりしておらず高いのに加え誰もいなくなった静けさで、廊下の西から東まで声が響いてしまう。もし先生が見回りにでも来たら、もしくは忘れ物を取りに来た生徒でもいれば一発で見つかってしまうだろう。平岡中学校の校舎は3棟。学級が入っているのがA棟とB棟でどちらも4階建て。C棟は3階建てで、音楽室や武道場、多目的ホールになっている。声はB棟の2階から聞こえてきた。
「・・・・・・祓え給い清め給う事を天津神国津神八百万の神等共に聞食せと恐み恐みも申す・・・。」
『大祓詞(おおはらいのことば)』を読み終えると、先ほどまで男子トイレの一番奥の個室にわだかまっていた「穢れ」が消えた。トイレの入り口に立って祓いを行っていた秦野北斗は、全ての穢れが消えたのを見計らって、大きく息をついた。
事の発端は2日前。5時間目の休み時間が終わろうとしていた時、北斗のクラスである1年2組の教室に、クラスメートの男子数人が駆け込んできた。既に6時間目の学活のため担任の大石先生が教室に来ており、血相変えて飛び込んできた男子を落ち着かせたり理由を聞いたりで、授業時間が始まっても2組の教室はざわついていた。
彼らの話では、連れション(友人を誘って一緒に小便をすること)をしていると、おもむろに後ろのドアが閉まったのだという。誰も入っていない個室のドアは少し開いているのが普通だったので、最初誰かが入ったと思いさほど気にも留めなかった。ただドアが閉まった1番奥の個室の前の便器で用を足していた谷口は「人通ったかな?」とふと気にかかって何気なく振り返った。その瞬間、「キィィ・・・」と音がして、ドアが少し開いた。誰もいないかのように。
しかし、そこには居たのである。壁と少し開いたドアの隙間から、腐乱し、顔の半分は白骨化した「人」が。谷口はそれを見て声も出ず硬直した。そして、他の男子達も谷口の様子のおかしいことに気付き、その視線を追って「それ」を見た。全員の時が止まった瞬間、その「人」はグズグズの口角を上げてにやりと笑い個室の奥に消えた。そしてそれにあわせたようにドアが大きく開くと、そこには誰も居なかったのだという。廊下はグラウンドから帰ってきた生徒達や立ち話をする生徒達でごった返していたはずだが、不思議とその刹那には全ての音が途絶えたかのようだった。そして男子達は喚きながら教室に駆け込んだのだ。
男子達が血相を変えて飛び込んできたことでざわついていた教室は、彼らが息を切らしながら必至に訴える出来事を聞いて静まり返った。いつもは少々のことなら笑い飛ばす男勝りの大石先生も、ただならぬ彼らの様子に神妙な面持ちで話を聞いている。
結局学活の1時間は、大石先生が男子トイレに行き何もないことを確認して、うやむやのまま終わってしまった。谷口たちに疑いの目を向ける生徒もいたが、彼らの尋常ではない様子を見た者は一言で「ウソ」とか「見間違い」とは断言できず、背筋に薄ら寒いものを感じながらその日の授業を終えることになった。もっとも、この学校では時折こうした怪奇現象が起こるのだが・・・
事はそれだけで終わらなかった。翌日そのトイレを利用した学年主任の山根先生が、彼らと同じ状況で同じ「人」に出会ったというのだ。既に2組の生徒が広めていた所にもたらされた情報に、1年生だけでなく2・3年の間でもそのトイレに「出る」ことが伝わり、その日は学校中が大騒ぎになった。なにせ山根先生は口から泡をふいて失神し救急車で運ばれたのだから。
翌日の放課後、秦野北斗は先生や他の生徒に目撃されないよう薄暗くなるのを待ってからこっそり学校に戻ってきて、誰も寄り付かなくなったトイレの前に立った。一見他のトイレと変わらないが、北斗の目には奥の個室から黒い煙のような邪気が湧き、トイレに充満しているのが見えている。瘴気である。しかし例の「人」は姿を現していない。
北斗は一度目を閉じて、鼻から息を吸って口から吐き出すと、目を開けて胸の前で両手を組み合わせた。右手の人差し指と中指を立て、それを同じく人差し指と中指を立てた左手の親指・薬指・小指で包む。
「ノウマクサンマンダバサラダンセンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン。」
おもむろに不動明王の真言を3遍繰り返し唱える。1遍目は何事もなかった。2遍目の半ばに個室の半開きのドアの隙間から黒い影がのぞき、3遍目にそれが人の頭だと分かる。
腐乱した右半分の表情は、強制的に瘴気を祓おうとする北斗の真言に怒りをにじませている。
「お前はもとからここにおったわけやないな?なんでこのトイレにこもってるんや?」
北斗の声変わりしていないあどけない声がトイレに響く。返答する声はない。しかしその「人」の口は何かを訴えるようにわずかながらカクカク動いていた。北斗の思考にあるイメージが湧き上がる。
「・・・そうか・・・。別にここにおりたくておるわけやないんやな。ここはすぐ後ろに寺があって、しかも学校の敷地の中に池があるから、霊を集めやすいねん。せやから君みたいな無縁仏が、迷い込んだはええけど出られんようになってしまうんや。でも・・・人をおどかすんは良くないで。」
胸の前で印を結んだまま、トイレの奥に向かって北斗が声をかける。その視界には、北斗の言葉に耳を傾ける霊が映っている。不本意ながらここにいる霊なので、説得は早い。今回は力ずくは必要ないだろう。
「じゃあ、『大祓詞』を上げるから、ちゃんといくべき所に行ってな。」
首肯する気配があるのを確認して、北斗は印を結んでいた手を解いて大きく拍手を2回打った。そして制服のズボンのポケットから、漢字で筆記された蛇腹折りの半紙を取り出し、祝詞をあげ始める。
「高天原に神留坐す皇親・・・・・・・」
霊や物の怪、人の恨み・呪い、病などのいわゆる「穢れ」を一掃する祝詞が『大祓詞』である。祝詞が進むと先ほどまで充満していた瘴気が薄れていく。そして北斗が大祓詞を読み終えると、先ほどまで男子トイレの一番奥の個室にわだかまっていた「穢れ」が消えた。
祓いが終わると、北斗は一息入れて祝詞紙をポケットにしまい、かわりに反対のポケットからミミズの這ったような記号が筆記され、朱色のハンコの押された霊符を取り出した。
「東華元君韓君降臨玉府、真命保佑生霊、真気到処、永保長存、急急如律令。」
北斗は霊符に息を吹きかけて呪を唱えると、それをトイレのプレートに挟んだ。いくら清めてもこの学校はすぐ穢れてしまう。それを防ぐための措置だ。もっとも気休め程度ではあるが・・・。北斗が中学に入学してから約5ヶ月。2学期が始まってまだ一週間程度。この半年で北斗が霊符を置いた箇所は6ヶ所ほど。夏休みを除いて1ヶ月に1・2回、こうして人目を忍んで祓いを行っている。しかしもぐら叩きのように、あちらを祓えばこちら、こちらを祓えばあちらときりがない。そのうち学校中霊符だらけになってまうんとちゃうかなぁと、北斗はため息をつきながら日の落ちた家路に着いた。
「ただいま。」
玄関のドアを開けて声をかけると、廊下の右にある部屋の障子が開いて、祖父が顔を出した。
「おぉ、お帰り。えらい遅かったなぁ。遊びに行ってたんかぁ?」
「え・・・、うん。」
腰を悪くしているため顔だけ出して北斗を見つめる祖父、高明に顔を見せないよう足早に2階にある自分の部屋に駆け込む。顔を見られたが最後、確実に嘘はバレる。嘘をついているということだけではなく、高明にかかれば何をしていたのかさえ丸分かりだ。高明の観相術の腕は、プロの占い師達の間でも有名なのだ。
部屋に駆け込みドアを閉めると、北斗はバツの悪そうな顔をしてポケットから祝詞紙と余った霊符を取り出した。それを机の上において、制服を脱ぐ。部屋の隅の鏡にかけてある布を外し、裸の上半身を見る。
北斗は身長145cm、体重38kg。中学1年生の少年としては平均よりやや小柄。少年らしい華奢な体格である。部活動には入らなかったものの山を歩き回っているおかげで無駄な脂肪はないが、筋肉もさほど付いていない。引き締まったおなかはうっすらと6つに分かれているが、光の具合がないと分からない程度だ。入学時に測ったときから身長は1cmしか伸びていない。だから帰ってくると少しでも変化がないかまずこうして体をチェックするのが最近の日課である。髪は耳がやや隠れる程度のミディアムショート。顔立ちは中性的ではあるものの端整で、密かに女子には人気があるのだが、北斗は気付いていない。
ズボンを着替えるついでに白のブリーフの中をのぞき、これまた毛が生え始めていないかチェックする。小学校の時は生えている子をからかっていたくせに、中学生になると途端に生えていない子が標的にされる。結局早すぎず遅すぎず、平均ぐらいのものが得をするのだ。北斗も6年生の時は安心していたが、今は焦っている。
結局今日も失望のため息をつき、部屋着に着替えて鏡に布をかける。鏡は気を反射するので扱いがややこしい。特に寝室で寝ている自分の姿が映ったりすると、健康を損なうのだ。だから北斗は使わない時は布をかけて部屋の隅に置いておく。ちょうどそのとき下から高明が夕飯ができたことを知らせる声がしたので、返事をして下に降りていく。
祖父高明は明治以降ひっそりと陰陽道の技術を継承してきた「隠れ陰陽師」の流れを汲む、現代の陰陽師である。高明の受け継いだ「天一派」の陰陽道は、現在息子、つまり北斗の父の泰に伝授されていた。高明も、その師もそうであったように、天一派3代宗家の泰は普通のサラリーマンをしている。そして人づてに依頼が来ると、占いやお祓いを行う。ちなみに天一派では、子孫に累が及ぶことを避けて呪詛、ならびに呪詛返しの依頼は一切受け付けていない。
そうした環境におかれて育った北斗は、幼い頃から高明や泰に修験道の修行に連れ出され、普通の人には見えないものを見る能力を開花させていった。しかしまだまだ術は未熟で、漢文古文の読解力も年齢相応より上とはいえたかが知れている。父などは祝詞の表記法である宣命体も、漢文の白文もすらすら読んで、自分で祝詞や呪文を作っているが、北斗は高明の『大漢和辞典』や『漢語大詞典』で一字一句調べて、やっと読めたと思ったらダメ出しされてばかりいる。そんなわけだから、北斗はプロの陰陽師には必須の「式神」(陰陽道の使役神)も使えないのだ。
もっとも、高明も泰もそんな北斗に対して全く焦っていない。自分達は20を超えてから本格的にこの道を学び始め、最初は今の北斗と同じ様なものだったのだから。しかし、当の本人は早くまともに術が使えるようになろうと大慌てで、学んでも学んでも身に付かないもどかしさをもてあましている。実は北斗は泰から、祓いを禁止されている。占いは禁止こそされていないが人を看るときには慎重にするよう釘を刺されている。だが北斗は、早く一人前になりたい焦りから、小学校高学年の頃よりこっそりと学校での霊現象に対処してきた。
夕食、入浴を済ませると、北斗は部屋の机に向い、翌日の準備をする。宿題をそれなりに仕上げ、教科書などをカバンに詰める。ここまでは、まあ普通の中学生のすることだが、彼の準備はこれでは終わらない。『大祓詞』をはじめいくつかの祝詞の書かれた祝詞紙と霊符、それに独鈷杵(どっこしょ)という密教の道具をカバンの内ポケットに忍ばせる。今回のように十分準備して臨める祓いばかりではなく、緊急に祓いを行わなければならない場合もあるからだ。ただ、秦野家が陰陽道の技術を継承していることは学校には知られていない。まして北斗が独断で学校でたびたび起こる怪現象に対処していることは知られてはまずい。だから北斗の活動はかなり制限されてしまう。いつも祓いを行うときには目撃されないよう神経をすり減らしているのだ。荷物をしまい終えて、はぁ・・・とため息をつくと北斗は部屋を出て台所に降りていった。寝る前に絶対コップ2杯、牛乳を飲むのだ。[丑の巻]
翌日登校した北斗が教室のあるB棟2階に上がると、相変わらず例のトイレの前は人影がなかった。生徒の中にはわざわざA棟からの渡り廊下を渡ってすぐの入り口から階段を上がってこず、特別学級や図書室のある1階の廊下を通って反対側の階段から2階に上がる者までいる。好都合とばかり昨日の霊符がちゃんとあるか確認し、ついでにオシッコをしに中に入った。それを見ていた生徒が、用を足して出てきた北斗に何もなかったか尋ねてきたので、何も起きなかったと伝えてやった。祓いが完了したことを知らせるために「出た」といわれる場所にいつも率先して出かけていくため、北斗は他の生徒からは、「怪現象など歯牙にもかけないリアリスト」といった印象を持たれているようだった。
その後北斗の行動が波及し、肝試しのように男子達がトイレを使い始めた。もちろん連れションではあるが・・・。
事態が収束し、1年生達が落ち着きを取り戻して数日後、救急車で運ばれた主任の山根先生が復帰した。ベテランではあるが猫背がちで大人しい感じの山根先生は、生徒達から密かに「根暗先生」のあだ名をつけられている。復帰した山根先生はもともと余りよくない顔色がさらに悪くなっていて痛々しかった。声もいつにも増して覇気がなく、社会の授業は死者続出となった。
ウツラウツラしながらも何とか社会の授業を乗り切った北斗は、いつものように異常がないか見回るため教室を出ようとした。教壇でチョークなどを片付けていた山根先生の脇を通った際、ふと北斗は妙なにおいをかいだ気がした。
「ん・・・?」
においは山根先生の方からしたようだったが、見たところ特に変わった様子はない。先生は教科書などをカゴに入れている。
(これが俗に言う「カレイシュウ」か・・・ボクもそのうち、におってくるんかなぁ・・・)
少しへこみながらも、そそくさと教室を後にした北斗。教室を出て行く彼の後姿を、山根先生が横目でジロリと見たことに気付くはずもなかった。
その日の放課後、北斗はA棟に足を向けた。6時間目が終わると日は既にオレンジ色を含んでいる。これからどんどん日は暮れて、運動部が帰る頃にはもう空は紺色だ。A棟は1階に職員室等があり、上は3年生の教室である。かつては全学年がそれぞれ7クラスあり、A、Bにそれぞれ半分ずつクラスが分かれていたが、今ではそれぞれ4クラス。A棟の2階と3階に3年生の教室があり、後は音楽室や被服室などが入っている。B棟は2階に1年生、3階に2年生の教室があり、他に音楽室や木工、金工室などがある。それでも余った教室は文化部の部室や物置にされている。C棟には普通教室の面積では足りない大きな音楽室や武道場が入っている。
下校時刻のためざわついているA棟も、クラスの入っていない4階はひっそりしている。端には第1音楽室があるが今日は特に使用する部活はない。つまり今4階にいるのは北斗だけ。以前ここで北斗は廊下を走り回る上半身だけの霊を祓っている。その際霊符をはって地を鎮めたのだが、一応点検しに来たのである。
第1音楽室の方から廊下の先を見た北斗は、奇妙なことに気付いた。目を凝らすと、廊下全体に微量ではあるが瘴気が漂っている。もし霊符が機能していればこのようなことはない。北斗はゆっくりと歩を進めた。そして、廊下の端、各教室の入り口付近に落ちているものに気付いた。以前祓いを行ったときに北斗が教室のプレートに忍ばせた駆邪の霊符が、破り捨てられている。偶然見つけた誰かがいたずらしたのだろうか。
紙切れと化した霊符の切れ端を指でつまんだそのとき、妙な感触がして北斗は指先を見た。符の切れ端にほこりに混じって茶色の毛のようなものが付いていたのだ。それほどたくさんというわけではない。気にはかかったが、この学校には校則を無視して髪を染めている連中もいる。そういった連中の髪の毛が廊下に落ちていても不思議ではない。それより改めて霊符を貼り直さなければならない。
「東華元君韓君降臨玉府、真命保佑生霊、真気到処、永保長存、急急如律令。」
霊符に気を込め、各教室のプレートに挟んでいく。
「天清浄地清浄浄符通法界・・・・・・・神兵神将火急如律令。」
最後に凝った瘴気を祓う呪を唱え、地を清める。これでとりあえず霊や妖怪の類はこの4階に入ってこられないはずである。
その後A棟をさりげなく見て回ったが、どうやらこれまで貼った符を剥がされていたのは4階だけのようだった。見回りを終えて、教室においていたカバンを取りに、吹奏楽部の女子が練習している1年2組の教室に帰る。練習中の女子と顧問の大石先生に挨拶して教室を出、通りがかりに何気なくトイレを見た北斗は思わず足を止めた。
昨日「男子トイレ」のプレートに挟んでおいた霊符が、破り捨てられ廊下に落ちていた。[寅の巻]
次の日の土曜日、部屋で『大漢和辞典』片手に占術の原書と格闘していた北斗は、泰に呼ばれた。祓いを依頼されたのでついてくるかと誘われたのだ。当然北斗は行くと答え、大急ぎで準備して、遊園地に連れて行ってもらう幼い子どものようにソワソワと玄関で父を待った。
祓いの依頼はそれほど多いものではない。怪現象といわれている出来事の多くは依頼者の勘違いや精神的な問題が生み出したものだ。それでも時折理屈で処理できない事態が起こることはある。泰は口コミで舞い込んだ依頼を査定し、必要であれば仕事の休みを利用して出かけていく。百聞は一見に如かず。書物を百篇読むより実際の祓いを見た方が何倍も勉強になる。北斗は大抵祖父や父の祓いに立ち会ってきた。
現場は一見普通の民家。30代の夫婦と赤ん坊の3人家族だ。引っ越してきてすぐ、家の中を誰かが歩き回る音がしきりに聞こえ出したのだという。音は2階からするが、夫婦はどちらも台所にいるし、赤ん坊は隣のリビングにいる。そのうち眠っていた赤ん坊が突然目を覚まし、リビングの入り口をじっと見つめかと思うと、火がついたように泣き出す。まるで2階から降りてきた誰かに驚いたかのようで気味が悪い。それだけではなく、夜3人で寝室にいると、風呂場からシャワーの音が聞こえる。恐る恐る見に行くと誰かがシャワーを浴びているように、水音がバシャバシャと揺れている。しかし電気はついていない。思い切ってドアを開けると、水は止まっていてシャワーもフックに掛かっているが、先ほどまで誰かが使っていたように風呂場はびしょびしょだった。
その後怪異は続き、隣の奥さんから、昼間に洗濯物を干していたら、ずいぶんたくさんの人たちが2階をうろうろするのが窓越しに見えたが何かあったのか、と聞かれたのが決定打となり、知り合いを通じて陰陽道天一派第3代宗家、秦野泰に祓いを依頼したのだった。
スーツ姿の泰と制服姿の北斗という、中学校の三者面談のような2人は、現場に着くと夫婦に案内されて家にはいった。玄関に一歩踏み入れた瞬間ムワッとした濃厚な瘴気が漂ってくる。
「なかなか大変なことになってますね。」
そうつぶやくと泰は印を結んだ手を口元に持ってきて小さく呪を唱え、印を解いて大きく拍手を2回打った。すると漂っていた瘴気は、換気されたように消えてなくなった。その後リビングに通されると、泰は名刺を渡し、状況について質問していく。その間北斗はキョロキョロとリビングや台所を見渡していく。紙おむつなどが置かれているが、赤ん坊はいない。妻の実家に預けられているそうだ。時折2階から人のいる気配がする。先ほど泰が瘴気を一掃したためこの家にいるモノ達は動揺しているようだ。中には威嚇するような気配を見せるモノもいる。
一通り現状をつかんだ2人は、祓いを行うべく「案」(祭壇)を組み立てる。事前に注文してもらった白木を北斗が組み立て、その間に泰が串と切り折した和紙で「御幣」(神や祓う対象が乗り移る寄り代兼供え物)を作る。出来上がった案に6本の御幣が立てられ、それぞれの御幣の前に果物、酒、水、塩、米といった供え物と香炉が置かれる。隣の部屋で装束に着替えた2人がそれぞれに祓い幣を持って案に向う。背の低い北斗は装束を着ているというより装束に着られているようだ。
「それでは、これより祓いを執り行います。」
案に向う2人の後ろに座った依頼者に泰が声をかけると、夫婦は神妙な顔つきでお願いしますと返答した。再び案に向き合った泰は、まず案に神々を招請する。身を低くして、身を清める呪、場を清める呪、香を焚く呪に続いて、諸神を招く呪を唱える。
邪気魔物を祓う北極星の神である玄天上帝とその眷属の六甲六丁神、それにこの土地の神である産土の神を招き、さらにこの家中にいる死霊や物の怪の類をこの場に集める。泰は装束の袖の中で印を結び、呪を唱えながらこれらの祟りをなすモノ達の気配を探り、祓っていく。北斗は案から離れて脇に退き、袖の中で印を結んで父と依頼者に害をなすモノがない様補佐する。集まってきた霊たちは口々に泰に思いを訴え、聞き入れられると浄化され去っていく。
大方祓い終わったが、まだ去ろうとしないモノがいる。泰は声のボリュームを上げて威嚇する。
「ノウマクサンマンダバサラダンセンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン。」
袖の中の印を結び変えて真言を3遍唱える。さらに印を変える。
「オンシュッチリキャラロハウンケンソワカ。」
玄天上帝の眷属、不動明王、大威徳明王に圧倒され、そのモノはリビングを逃げ惑う。依頼者達には見えていないが、時折戸棚や電気が風もないのに揺れ、「パキッ」とラップ音がするので何か起こっていることはわかるらしく、不安げに周囲を見渡している。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
北斗は九字を切って逃げ惑うモノを弱らせる。
「北斗。『解孤狼霊章』取って。」
北斗が装束の懐から泰の所望の霊符を取り出し泰に渡す。
「夜鳴きする 朝日が岳の 古狐 昼はなくとも 夜はな鳴きそ」
泰が符を捧げて呪歌を詠むと、息も絶え絶えのモノは屈服し、清められて去っていった。全ての祓いが終わった。泰は続いてこの家に邪な者が寄り付かないよう、結界を張る。袖の中で印を結び変え、つぶやく様に神の名を呼ぶ。式神と呼ばれる陰陽師の使役神である。この神に守護を乞うて祓いは終わる。最後に送神の呪を読み上げて招いた神々を送る。
一連の儀が終わるまでざっと3時間程度。空はオレンジ色になっている。泰は、この家にもともと住みついていた霊たちが騒いで新しい居住者を追い出そうとしていたことを伝えた。案を片付け、供え物と御幣、それに使用した霊符の気を抜いて庭で燃やして作業は終了。謝礼の5万円+交通費と北斗はチョコレートをもらって家を後にした。どうやら中学1年生としてはやや小柄な北斗は小学生と間違われたらしい。
夕食のお好み焼きを北斗の母の恵子、妹の有卦(ゆうか)、高明、泰、それに北斗の5人で囲む。それなりに大きなホットプレートも、5枚のお好み焼きを一度に焼くとかなり窮屈だ。
恵子は特に特殊な何かを持っているわけではない。一応秦野家の事情は理解した上で嫁いできたが、有卦には陰陽道を学ばせないよう男どもにきつく釘を刺している。しかしやはり家の雰囲気が伝染するのか、小学3年生の有卦は最近タロットカードに凝っている。
「どないやった?今日の案件は。」
北斗がお好み焼きをご飯に乗せて口に運んでいると、高明が泰に尋ねた。
「まぁ、そない難しい祓いやなかったわ。・・・ただ妙なもんが憑いとったな。例の・・・」
「そうか・・・。」
「?・・・何やのん?」
お好み焼きを飲み込んで北斗は泰に尋ねた。「大人の話」に首を突っ込むのは憚られるが、一応自分も祓いに参加したのだから聞く権利はあるはずだ。
「最後まで粘っとったもんがおったやろ?」
「・・・あぁ・・あの狐?」
「そうや。」
最後まで土地から去ることを拒絶していたのは、狐の霊である。実はあの家の霊たちをあそこまで呼び寄せたのはその狐の霊で、霊達が案に召集された時にも応じようとはせず、仕方なく泰は玄天上帝の眷属神を式神化して遣わし引っ張ってこさせたのである。
「あれに聞いたら、もともとこの土地のもんやないそうや。なんぼ縛り上げても口を割らんから、『解孤狼霊章』で脅してようやく聞き出した。・・・どうも元締のお偉いさんに遣わされたらしい。」
「狐の元締め?・・・お稲荷さんの眷属とか?」
「さぁ・・・そこまでは聞き出せんかった。ただな、お父さんの知り合いの陰陽師も、最近やたら祓いの仕事に狐が絡んでくるってぼやいとってな。ほら、お前も知ってるやろ?立花流の小林さん。」
「うん。」
「あの人も、この前の依頼に狐が一枚噛んでたそうや。それも依頼者に関係があるわけでもなかったんやて。結局そいつは祓い落としたそうやけど・・・。」
「わしの知り合いからも最近ようその手の話を聞いとってな。おかしいなぁってお父さんと話しとったんや・・・。」
「ふぅん・・・。」
狐・・・。ふと何かが頭をよぎった気がしたが、よく思い出せない。そのとき
「いらんの?」
有卦がコテを北斗の食べかけのお好み焼きに伸ばした。
「あほっ!食べるわ!」
急いでお好み焼きを引き寄せがっつくうちに、先ほどの違和感をすっかり忘れてしまった。[卯の巻]
月曜日。友人とともに登校した北斗は正面玄関を入ってすぐに足を止めた。
「何か臭くない・・・?」
友人や他の生徒が辺りにうっすら漂う腐臭のような臭いに顔をしかめる。A棟1階に瘴気が漂っている。いくら陰気が凝りやすいからといってもさすがにこれは異常である。
そして北斗は、以前正面玄関にいた霊を祓った時に貼った霊符が千切られて片隅に捨てられているのを見た。とりあえず友人たちに続いて教室のあるB棟に向う。B棟にもうっすらと瘴気が凝っており、しかも瘴気に引き寄せられて学校の後ろの寺の墓地や付近を漂う浮遊霊達が敷地内に侵入している。北斗は常に護符を携帯しているため無事だが、敏感な生徒の中には瘴気に当てられ気分を悪くするものもいた。明らかに緊急事態ではあるが・・・
(人目につかんと祓うのは・・・無理やって・・・。)
北斗は唇を噛み締めた。それにしても、最近北斗が祓い、貼った霊符が次々に破られていく。最初は偶然見つけた生徒のいたずらかと思っていたが、ここまで来ると誰かが北斗の邪魔をしているとしか思えない。昼休みに例のトイレに行った北斗は、さりげなく洗面台の排水管の後ろをのぞいた。先日の放課後、祓いの後貼った霊符が剥がされたのを見つけた北斗は、他の生徒に見つからないようトイレの中に入って穢れを祓い、ここに見つからないよう小さく畳んだ霊符を貼ったのだ。
「よかった・・・あった。」
しかし、安心したのも束の間、北斗は様子がおかしいことに気付いた。廊下から瘴気が流れ込み、トイレに溜まっている。しかもふと窓を見た北斗は息を呑んだ。窓の外から女性がこちらを見ている。おそらく瘴気に誘われやってきた浮遊霊。霊符が機能していたら、こんなことはないはずなのに・・・。
「まさか・・・」
北斗は張っておいた霊符をそっと剥がして手にとった。霊符はただの紙切れと化していた。これはただ事ではない。陰陽師や行者などの能力者か、或いは強力な穢れが霊符の通力を弾き飛ばしたことを意味するのだ。もはや何者かが、北斗がこの学校の穢れを祓うのを意図的に妨害していることは疑う余地もない。しかし、誰が、何のためにそのようなことをするのか、全く見当がつかない。ただ、1つだけ言えることは、緊急に手を打たなければただでさえ穢れの排出機能の低いこの学校に穢れが充満し、たちの悪い悪霊や下手をすればもっと強力な妖怪までも引きつけてしまう可能性があるということだ。
「・・・やるしかないな!」
北斗はこぶしを握り締めてつぶやいた。
下校すると北斗は、いつものボディチェックも忘れて教科書、ノートをカバンから引っ張り出し、代わりにありったけの霊符類と祝詞紙、祭文、陀羅尼をカバンやポケットに入れた。数珠やいつもは持ち歩かずしまってある七星剣もカバンに入れる。風呂に入って丁寧に体を清め、部屋に入って術の本をおさらいする。学校に人影がなくなり、家族も寝静まる時間にならないと大々的に活動はできない。おそらく出かけるのは深夜になるので、北斗は仮眠をとることにした。
夕食は気分が悪いからと肉類を残し、早めに部屋に戻ると、恵子が心配して上がってきたので早めに眠ることを伝える。これで、家族には北斗が眠っていると思わせることができる。
携帯のバイブで目を覚ました北斗は、時間を確認する。夜11時。今日は泰は出張で帰ってこない。有卦と高明は9時ごろには床に着く。恵子も泰が帰ってこなければ10時頃に床に着くだろう。北斗は一応制服に着替え、祓いの道具を持ってこっそり下に降りた。案の定家中真っ暗で、家族は全員寝静まっていた。そっと玄関の鍵を開け、外に出る。9月も下旬に差し掛かり、最近の熱帯夜は幾分マシになっている。時折吹く風は本格的な秋の気配を伝えている。初めての深夜の登校に、少しワクワクする気持ちを抑えながら、北斗は家を後にし、人気のない通学路を学校に向けて急いだ[辰の巻]
10分ほどで学校に着くと、既に誰も残っていないらしく、電気のついている教室はない。校門の横のレンガを登って難なく校門をクリアする。平岡中学校は古く、セキュリティーはまだ不十分だった。問題は校舎にどうやって侵入するかだ。しかし北斗は迷うことなくA棟の脇に向う。
平岡中学校は、校門を入って少し道を歩くとすぐ左にグラウンドがある。そして右手にA棟が建っており、その奥に二の字のように平行にB棟がある。C棟は校門と校舎を挟んで反対側にある。C棟の隣りにプールと体育館が並んでいる。
北斗はグラウンドに面したA棟の脇を進み、職員室まで来た。職員室にはグラウンドに出られる引き戸がある。北斗は職員室の窓から誰もいないことを確認すると、その引き戸の取っ手を持って、上下左右にカタカタッと揺らし、左に引いた。すると難なく戸が開き、北斗は職員室に侵入することに成功したのである。この戸は建付けが悪く、鍵をかけていても少し揺らすとすぐ戸が開いてしまうのだ。
職員室に忍び込むと、北斗は教頭のマスターキーを調達した。そして内側から鍵を開けて職員室から暗い廊下に出る。非常灯の緑の明かりとと外灯のオレンジの明かりで多少は明るい。それに今日は満月なので、電気をつけなくても大丈夫そうだった。
「くっ・・・」
廊下に出た北斗は顔をしかめた。昼間はまだ微量だった瘴気が、かなりの濃度になっている。おそらく普通の人なら5分程度で昏倒するだろう。北斗でさえも、締め切った空間に大勢で押し込まれているような空気の悪さを感じている。恐らく北斗が以前貼った符は全て効力を奪われたのだろう。
「これは・・・ヤバイな・・・。」
そして、北斗の目の前はまさに百鬼夜行の有様だった。陰気が強くなる夜、穢れに吸い寄せられてきた霊たちがそこかしこをウロウロしている。それどころか、明らかに妖怪であろうと思われるモノも混じっている。そして、彼らの気配が一斉に北斗に向いた。
パンッ!パンッ!
勢いのいい北斗の拍手の音が、A棟1階に響き渡った。
「掛巻くも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓い給いし時に現坐せる祓戸の大神等、諸々の禍事罪穢有らんをば祓い給い清め給えと申す事の由を、天津神国津神八百万の神等共に聞食せと恐み恐み申す。」
北斗の祓詞に、穢れが祓われる。北斗に敵意を向けたモノ達も、祓詞に清められて消えていく。いくらかのモノは祓われずに逃げたが、とりあえず1階は清められた。北斗はカバンから塩を取り出し、1階の廊下に撒いていった。ただの清め塩ではない。駆邪の霊符を焼いた灰を混ぜ、呪をかけた塩だ。符を貼るほどの効果はないが、しばらくは穢れを遠ざけることができる。
そうして3階まで清めていき、北斗は4階に向う階段を上った。ふと北斗は先程までと違った気配を感じた。かつてこれに似た気配を、北斗は何度か感じたことがある。
「妖怪・・・」
霊魂と違い、人や動物の気に自然の気が混じって生じるものから神に近いものまで、妖怪は実に様々。祓うのも容易ではない。北斗は七星剣を片手に4階に上がった。非常に濃い瘴気。霊の姿はない。この階を強力な妖怪が支配しているのだ。しかし、不思議なことに妖怪の姿もない。警戒しながらゆっくり廊下を進んでいく。
そのとき、目の前の施錠してあるはずの教室のドアが勢いよく開いた。そしてその中から、黒い巨大なミミズのようなものが這い出してきたように北斗には見えた。廊下に這い出してきたそれの姿が月光と非常灯に照らされる。
「む・・・ムカデ!?」
光沢のある黒い体にそれぞれが違う動きをする無数の足。瞳のない赤い目が北斗に向けられた。
「吾是天帝所使執持金刀非凡常刀・・・わぁ!?」
七星剣に気を込めようとした瞬間、大ムカデが口から瘴気の霧を吐いた。強烈な穢れに北斗の体の力が抜けた。思わず七星剣を落とす。
「く・・そ・・・」
印を結んで体にまとわりつく瘴気を払おうとしたとき、間近に迫っていた大ムカデが北斗の体に巻きついた。思わず倒れこむ北斗の体をぎりぎりと締め付ける。
「うわぁぁぁっ・・・!」
苦痛の声を上げながらも必至にもがくが、まるで巨大な鎖が体に巻き付いているようでびくともしない。さらにきつく締め上げられ、北斗の意識は薄らいでいく。その中で、感覚がなくなってきた手をポケットの中に入れた北斗は、そこから何かを取り出してムカデの体に突き刺した。
「キィイイイイイイイイイイイイイイ!!」
北斗が刺したところから煙のようなものが上がり、大ムカデは苦しみもだえて北斗を開放した。廊下に転がり、肩で息をする北斗。その手には独鈷杵が握られていた。とっさにポケットに手を突っ込んだ時最初に触れたのがこれだったのだ。ふらつく足を叱咤し立ち上がった北斗は、独鈷杵で空中に梵字を書き、大ムカデに向って独鈷杵を突きつけた。
「オンマユラギランテイソワカ!」
「キィイイ・・・!!」
瘴気が一掃されるとともに、大ムカデの体は徐々に薄くなりやがて消え失せた。何とか倒したものの、大量の瘴気を浴びた北斗はしばらく息を整えなければ歩き出すことができなかった。
まだおぼつかない足取りで、北斗はゆっくりと4階から下に降りた。次に向うのは、A棟2階の渡り廊下からつながっているC棟である。C棟はそれほど大きな建物ではない。1階は剣道場と柔道場、2階は多目的室で、3階は第3音楽室である。
渡り廊下に立った北斗は、まず1階の武道場から祓いにかかった。鍵をあけてそっと中に入ると、そこはあたかも戦場のようだった。竹刀や干してあった柔道着が宙を舞っている。
「ポルターガイストか・・・!」
目を凝らすと、そこかしこに浮遊霊が漂い、竹刀や防具でチャンバラをしているのが見える。北斗が拍手を打つと、騒ぎは静まり返り、視線が一斉に北斗に向けられた。続いて北斗が祓詞を読み始めたそのとき、右横に落ちていた竹刀が北斗めがけて飛んできた。 [巳の巻]
「いった!!」
竹刀は北斗の肩を直撃した。それほどの勢いではないが、かなり痛い。そして、
「うわっ!」
北斗の頭上から柔道着がかぶさってきた。同時に四方八方から竹刀が飛んでくる。
「ぐあぁぁぁっ!!!」
思わずうずくまる北斗に容赦なく竹刀の雨が降り注いだ。
「うっ・・・くそぉ・・・オンキリキリ・・・バザラバジリ・・・ホラマンダマンダウンハッタ・・・!」
亀のように丸くなりながら、北斗は必至に印を結び、真言を唱える。そして、印を結びかえるとタイミングを見計らって一気に立ち上がった。
「オンサラサラバザラハラキャラウンハッタ!!」
北斗が真言を唱えると、降り注いでいた竹刀が弾き飛ばされた。いや、竹刀を持っていた霊たちが吹き飛ばされたのだ。北斗の周りに結界が張られ、霊達は危害を加えることができない。そして、
「ノウボゥバギャバテイタレロキヤハラチィビシシュウダヤ・・・・・・」
全ての邪気を祓う『尊勝陀羅尼』で、北斗は一気に穢れを祓いにかかる。
「・・・・・・キリタヤジシュタンノゥジシュチタマカボダレイソワカ・・・。」
陀羅尼が終わると、先程の騒ぎは嘘のように静まり返り、竹刀や道着が散乱しているだけとなった。きっと明日には大騒ぎになるだろうが、全て一人で片付けていると夜が明けてしまう。北斗は上に向かった。
尊勝陀羅尼の影響か、不思議なことに2階には瘴気が充満しているだけだった。祓詞で清めて塩を振り、3階の第3音楽室に向かう。そっと様子を伺いながら中に入って、北斗は首をかしげた。
「何も・・・おらへん・・・?」
瘴気は漂っているが、何も気配がない。しかし、いくら強力な陀羅尼とはいえ、緊急に唱えたものがそこまで力を持つとは思えない。それで済むなら、こうしていちいち清めて歩かなくても一発で学校全体を祓ってしまえるのだから。と、北斗が考え込んでいたその時、突然目の前のピアノが鳴った。ビクッと身をこわばらせる北斗の前で、ピアノが曲を奏でる。しかし弾いている主の姿はない。北斗は独鈷杵を取り出し、そっと近づいていく。鍵盤が見えるほどの距離まで近付いた時、北斗は息を呑んだ。
「手だけ・・・。」
ピアノを弾いていたのは手首から下だけだったのである。こうした霊は北斗も目にしたことがあった。足だけが歩いているのも見たことはある。
気を取り直して独鈷杵を構えた瞬間、手が演奏を止めた。そして手の平が北斗の方に向く。そこには、目があった。そしてギョロリと北斗をにらんだかと思うと、手が握りこぶしの形になり、ビュンと北斗めがけて飛んできた。
「うおっ・・・!」
とっさにかわす北斗。しかし、
「ぐっ!」
もう片方の手が北斗のボディにアッパーを決めていた。
「うぅっ・・・けほっけほっ・・・」
独鈷杵を落とし、腹を抱えて下を向いた北斗のあごを、さらにこぶしが突き上げた。
「あぁっ!!」
ふらついた北斗は壁にもたれかかる。
「いいぞぉ!」
「やっちまえ!!」
突然先程まで静かだった音楽室が騒がしくなった。北斗が顔を上げると、四方の壁にかかっている音楽家の肖像画が、生きているかのように騒いでいる。
「こいつら・・・なんもおらへんと思ってたら・・・画のなかに・・・隠れてたんか・・・。」
北斗が黙らせようと印を結ぼうとした瞬間、右頬をフックがとらえた。
「うあっ!」
左を向いた北斗の今度は左頬をもうひとつの手が殴る。肖像画たちが割れんばかりの歓声を上げた。
「こいつら・・・!」
北斗も反撃に出るが、宙を自在に舞うこぶしをパンチやキックでとらえるのは至難の業である。しかも北斗は特に格闘技の経験があるわけではない。北斗の攻撃はことごとく空を切り、代わりに2つのこぶしが北斗の小さな身体を痛めつけていく。
「ぐっ・・・うあっ・・・うわぁっ!」
あごをやられた北斗の足は言うことを聞かなくなり、ついに北斗はダウンした。広い音楽室の真ん中で大の字に倒れ、端整な顔を苦痛にゆがめる北斗を見下ろし、肖像画たちが一斉にカウントを始めた。
「ワン!・・・ツー!・・・スリー!・・・・・・」
しかし敵は待ってはくれなかった。手の平の目で何とか起き上がろうとしている北斗を見下ろしていた手が、降りてきて北斗のミディアムショートの髪の毛をわしづかみにし、無理やり立たせた。
「くそぉ・・・とどめ・・・刺す気か・・・。」
もう片方の手が容赦なく薄い腹筋にめり込む。
「ぐっ!」
38kgと軽い北斗は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。ズルズルと崩れ落ちながらも、ボーっとする頭で北斗は何とか策をめぐらせていた。
(・・・そうか・・・この手しかない・・・。)
何事かひらめいた北斗は必至に体を立て直す。そうこうするうちに2つのこぶしが北斗のこめかみめがけて殺到する。直撃すれば死すらあり得る急所である。こぶしが北斗に1メートルと迫ったとき、北斗が両ポケットに手を入れた。そして、こぶしが直撃する瞬間、北斗は勢いよくしゃがみこんだ。直前まで頭があったところに2枚の霊符を残して。
北斗の頭の代わりに駆邪符を殴ったこぶしは、空中で青白い炎に包まれた。座り込んでしまった北斗は、そのままの体勢で印を結ぶ。歯をカツカツカツとかみ合わせ、呪を唱えると、空中で燃えていた炎から火の粉が飛び出し、肖像画に潜んでいた魑魅魍魎たちに降り注いだ。
「ぎゃあっ!」
「熱い!」
聖火に焼かれてそれらのモノ達は蒸発するように消え失せた。全ての邪気が消えるのを見届けると、北斗はグッタリと座り込み、はぁ~・・・と息を吐いた。
何とかC棟の祓いを終えたものの、北斗は体力をかなり消耗していた。何とか足のダメージは抜けたが、息は荒い。妖怪は霊と違い物理的に攻撃してくるのでたちが悪い。身を守る術はあるが、これまでは不意打ちだったので準備する間がなかった。しかし身体が痛んで抵抗力が落ちている以上、ここからはしっかり準備しなければ危険である。北斗は息を止め、目を閉じて印を結んだ。
「我身倚太山太山護我身・・・・・・奉太上老君急急如律令。」
護身の呪を唱え、万全の体制を整えて次の目的地、体育館へ向かう。
重い体育館の扉を何とか開けると、チカチカと体育館のライトが点滅していた。そのライトに照らされ、毛むくじゃらの手足の生えたバスケやバレーのボールが飛び交っている。
「何やねん・・・こいつら・・・。」
そうつぶやいた北斗にボール達が飛びかかってきた。しかし、見えない壁にさえぎられ、ボールは北斗に届かない。先程の護身法が北斗を守っているのだ。
「最初からこうしとけばよかった・・・。」
ため息をつきながら、北斗はカバンの中から七星剣を取り出した。
「吾是天帝所使執持金刀非凡常刀是百錬之刀也一下何鬼不走何病不癒千妖万邪皆悉済除急急如律令。」
今度こそきちんと剣に気を吹き込む。目には見えない霊気の刀身が短い七星剣から生じる。それを縦、横交互に振り、九字を切る。
「朱雀、玄武、白虎、勾陳、帝台、文王、三台、玉女、青龍!」
七星剣の鋭い霊力で、体育館の隅々まで穢れが一掃された。北斗は四隅に塩を盛り、体育館を後にする。
「これで・・・残りはB棟だけか。」[午の巻]
見ればB棟の窓から跳梁跋扈する魑魅魍魎たちの姿が見える。既に北斗の存在がばれているらしく、威嚇する気配がピリピリと北斗の肌を刺す。北斗は鼻から息を吸い、しばらく止めて口から吐き出し、気を充実させてからB棟に向かった。
B棟の横には小さな池がある。これがまずい。ちょうど学校の敷地の「艮」にあたる。学校に入ってきた穢れがこの湿気でせき止められ、この学校に凝ってしまうのだ。これにさらにいくつかの要因が重なって、この学校は「出る」学校になってしまった。特に池の近く、さらには裏の墓地にフェンスひとつ隔てて面しているこのB棟は最も頻繁に学校関係者によって怪現象が目撃されている校舎である。
北斗が鍵を開け、扉を開けようとした時から既に戦いは始まっていた。扉が開かないのだ。左右にスライドさせる扉なのだが、まるで誰かが向こうから押さえているかのように、開きそうで開かない。
「入れたくないんやな・・・。意地でも開けたるぞっ。」
北斗はポケットから12枚の黄色い短冊状の紙を取り出した。それぞれに短い漢字が朱色で書かれており、判が押されている。それを扉の前に並べ、右手の人差し指と中指をピンと立てた。扉の向こうでざわつく気配がある。
「六甲六丁神、霹靂大将、雨伯大将、火光大将、吼風大将、混海大将、各領神兵百万垓、助吾法力・・・客兵入城、他兵敗走、急急如律令攝!」
ザワリと風が起こったかと思うと、扉の向こうにあった気配が逃げ去っていく気配があった。そして扉が自重でゴロゴロと開いていく。北斗は符を回収し、警戒しながら中へと足を踏み入れた。いくら護身法を使っているとはいえ、強力な穢れは時として結界を破ることもある。まして術は術者自身の穢れや精神の揺らぎによってその強度が大きくされる。既にかなりのダメージを受けた北斗の護身法は万全の時に比べかなり強度が落ちているのだ。
北斗が非常灯と外灯に照らされるB棟1階の廊下を見渡したそのとき、背後の扉が勢いよく閉まった。
「逃がさへんつもりか。・・・上等や。誰が逃げ出すかっ。」
強気な言葉で自らを叱咤し、北斗は1階の廊下を進んでいく。1階は特殊学級と、後は教室5つ分の図書室である。特殊学級は瘴気がこもっているだけだったが、図書室からは明らかに強い瘴気が流れ出している。
「妖怪がおるな・・・。」
護身法を整え、図書室のドアを開ける。中は瘴気が充満している。そっと入ろうとした瞬間、突然背中を誰かに勢いよく押され、北斗はつんのめった。背後でピシャッとドアが閉められる。それを振り返って見、再び前に視線を戻した時、北斗は目を見開いた。
巨大な壁が迫ってくる。いや、一瞬壁に見えたそれは、
「津波!?・・・うわあぁっ!!」
天井にまで達する巨大な津波に、逃げるまもなく北斗は飲み込まれた。あまりに突然のことに、息を止めることもできない。水の流れに揉まれ、口からも鼻からも水が入ってくる。
(く・・・苦しい!)
平衡感覚も失い、北斗の身体から一切の力が抜けた。
「うぅ・・・、あれ・・・?」
目を覚ました北斗は、瞬時に記憶をたどり、自分の状況を確認しようと周囲を見渡した。
「え・・・?ちょっ・・何でボクこんなトコに・・・!」
北斗は図書委員の椅子に仰向けで寝そべっていた。頭と手足は椅子からはみ出て投げ出され弓なりになっており、ズボンに入れていたカッターシャツとインナーのTシャツがめくれて形の良いおヘソがのぞいている。
「くぅ・・・腰いってぇ~・・・」
起き上がって服装を正し、北斗は自分が全く濡れていないことに気付いた。
(これって・・・・・・そういうことか・・・!)
そのとき北斗の目の前の大きな机が突然持ち上がった。メキメキと音を立てて机から手足が生え、机の面にものすごい形相の鬼の顔が浮かび上がる。
「お前は、何じゃ!!!!」
机が地響きのような声を上げると、口から猛火が生じ、暗い図書室が昼のようになった。さらに体からも炎が湧き上がり、周囲の本に引火した。
「ワシを怒らせたら、ただではすまんぞ!!!!」
言うが早いか机の鬼はダスダスと炎に包まれた体で北斗に突進してきた。北斗はあわてるそぶりを見せたが、逃げようとしたわけではなかった。殺到してくる鬼の下半身を指差し思い切り叫んだ。
「おいっ、尻尾見えてるって!隠さな!」
「えっ!?ホンマ!?」
北斗の言葉に鬼は急停止し、急いで自分の背後を検分する。そしてそれが嘘である事がわかると、激しい炎を上げ、顔を真っ赤にして北斗を睨んだ。
「だまくらかしおったなぁ・・・!こぞうがぁぁ・・・・!!!」
そして前にもまして勢いよく北斗に迫ってきた。北斗はポケットから符を取り出し、鬼に突きつける。
「夜鳴きする 朝日が岳の 古狐 昼はなくとも 夜はな鳴きそ!」
北斗が勢いよく呪歌を詠むと、走ってくる勢いのまま鬼の姿が掻き消えた。同時にあれだけ燃え盛っていた炎も全て消え、図書室はもとの暗さに戻る。机は元通り、部屋の真ん中に何事もなかったかのようにたたずんでいる。
と、その時、図書室の奥の出口に向かって走り去ろうとするいくつかの影があった。
「逃がすか! オントドマリギャキテイソワカ!!」
北斗が印を結び真言を唱えると、走り去ろうとした影がつまづく様に止まった。4本足の小さな影である。
「やっぱり狐やな。服が濡れてないから幻やって気付いたわ。僕が気失ってる時にトドメ刺しとくべきやったな。」
北斗が一歩踏み出すと、影達はジリジリと出口に向かって距離を縮めていく。それを見た北斗は先程の霊符、『解狐狼霊章』を掲げさらに呪歌を詠む。霊符から霊気が放たれ、狐達を包み込むと、徐々に狐達の姿は薄くなり、やがて煙のように消えていった。
図書室と、1階の廊下を清めた北斗は上の階に足を踏み入れた。跳梁跋扈していた浮遊霊や魑魅魍魎が北斗を威嚇する。それらを祓詞で一掃し、北斗は最後のB棟4階に足を踏み入れた。時刻は午前1時半。ここを祓って、最後にグラウンドで学校全体を清めれば、祓いは終了だ。
しかし北斗には気がかりがあった。まだ北斗の邪魔をしたモノを突き止めてないのだ。これまで祓った悪霊や妖怪達は、確かにかなりの力を持ってはいたものの、瘴気を祓って貼られた霊符の力を吹き飛ばす程では、正直言ってない。あれらは単に呪的に無防備なこの学校に集まってきただけだ。ただ、これまでせいぜい浮遊霊か小さな魑魅魍魎が集まってくる程度だったこの学校に、ここまで強力な妖怪がここ数日で次々集まってくるのも不可解だ。何か黒幕とでも言うべきモノがいて、この学校に妖魔を集めていると考えるのが最も自然である。
緊張しながらゆっくり階段を昇っていく北斗は、あと2,3段で4階というところで足を止めた。強力な妖気が壁のようにのしかかって来て、前に進めないのだ。北斗は七星剣を取り出した。
「朱雀、玄武、白虎、勾陳、帝台、文王、三台、玉女、青龍!」
九字を切ってまとわりつく妖気を払う。ブワリと瘴気が散ったのも束の間、また廊下の方から沸いてくる。後は護身法で退けながら、進むことを拒絶する足を叱咤して北斗は最後の階へ向かった。
瘴気は充満しているものの、魑魅魍魎達がいるわけではない。妖怪が牛耳っているのかとも思ったが、今のところ目に付くモノはいない。そのとき、背後から突然肩に手が置かれた。
「わぁっ!」
ビックリして振り返ると、そこには顔色の悪い男性が立っていた。[未の巻]
「山根・・先生・・・?何でここに・・・。」
「それはこっちの台詞や。何でこんな時間にお前がここにおるんや?」
山根先生は表情ひとつ変えず、ぼそぼそとしゃべる。復帰してすぐよりさらに声に生気がない。
「いや・・・それは・・・。」
なんとか言い訳をしようと口ごもった北斗は、山根先生の体から漂ってくる嫌な臭いに思わず顔を背けた。そして気付いた。
(そうや・・・これ・・・動物の臭い。)
北斗の家には昔雑種犬がいた。北斗が小学生の時に死んでしまったが、よく一緒に遊んでいた。記憶に残るその犬の臭いと、山根先生の臭いは似ているのだ。そういえば以前も山根先生からこの臭いをかいだのを北斗は思い出した。
(そういえば、あの臭いをかいですぐに、ボクの霊符が破られ始めたんやっけ・・・。それに・・・)
なぜ山根先生がこんな所にいる?深夜の学校に、電気もつけず、魑魅魍魎が跳梁跋扈するこの校舎に。今の状態では普通の人間なら、瘴気に当てられ一瞬で昏倒するだろう。下手をすれば命すら失いかねない。護身法で身を守る北斗でさえ、時折意識を持っていかれそうになる程の濃度である。なのになぜ山根先生は、平然とここに立っている?
全ての疑問が一本の筋でつながり、北斗は山根先生を見上げた。
「とにかく、はよ帰り。」
そういった山根先生の視線は自分の真正面を虚ろに見ている。北斗とは20cm以上身長差があるのだから、視線は北斗を捉えてはいない。異変に気付いた北斗は一気に距離を取り、七星剣を構えた。
「おまえ、何者や!?」
山根先生の口がゆがんだ。せせら笑いを浮かべるその背後に、影のような黒い何かが憑いている。
「朱雀、玄武、白虎、勾・・・あっ!!」
先生に取り付いたものを弱らせようと、九字を切ろうとした北斗の腹に、山根先生の膝がめり込んだ。七星剣を落とし、倒れこんだ北斗は腹を抱えて咳き込む。その丸めた背中を山根先生は足蹴にする。
「うぁっ・・・うぁっ・・・」
悶絶しながらも北斗は山根先生の蹴り足を手でつかんだ。そのまま押し返すと、山根先生はよろめき廊下に手を突いた。その隙に何とか立ち上がり、北斗は印を結ぶ。
「ノウマクサンマンダバザラダン、カン!」
不動の炎が山根先生の背後に潜むモノを包んだ。そのとき、
「カカカカカッ・・・!こんな術でわしが祓えると思っているのか!?」
腹の底に響くような声が山根先生の後ろあたりからしたかと思うと、炎が弾き飛ばされた。唖然とする北斗は、次の瞬間には、体勢を立て直した山根先生に殴り飛ばされていた。勢いよくコンクリートの地面に叩きつけられ、北斗は唾液を吐き出す。さらに北斗の上半身を、山根先生が踏みつける。
「ぐぁっ・・ぐぁっ・・あっ・・かはっ・・・!」
何度も何度も大人の体重で踏まれ、最初はガードしようと上がっていた北斗の腕が、だんだん力なく下がってきた。最後にひときわ大きく腹を踏みにじられると、北斗の腕は完全に体の横に投げ出された。力なく横たわっているものの、まだ意識はある。小さく咳き込み苦しむ北斗を見下ろし、山根先生はせせら笑いを浮かべて舌なめずりをする。
「立て。」
そういうと山根先生は戦意を喪失した北斗のすんなりした腕をわしづかみにし、北斗の体を持ち上げた。足が空中に浮き、北斗はグッタリぶら下げられる。そのまま山根先生は北斗の腕を壁に叩きつけると、もう片方に腕とともに壁に押し付け、北斗を「万歳」の格好にさせた。足はかろうじて地面に着く程度である。いくら成人男性と小柄な中学1年生の男の子とはいえ、片腕で約40kgの北斗を軽々持ち上げ、宙に浮かせるのは尋常ではない。まして山根先生は平均的な男性の体格と比べればかなり貧相な部類に入る。
何者かに取り憑かれ操られている山根先生は、腕を固定しているのと反対の手で、パンパンと北斗の頬をはたく。ぼんやりとされるがままになっていた北斗の意識が少しはっきりする。
「う・・・。」
弱弱しく見つめる北斗を、山根先生は愉快そうに見る。
「気分はどうだ?コゾウ。」
「先生を操って・・・どうする・・・つもりや・・・。」
北斗は背後のモノに向かって話しかける。
「さてなぁ・・・。教える必要は、あるまい?」
「・・・どうでもええけど・・・先生を操るのは止めろ・・・。・・・こんな事・・・させるな・・・。」
「カカカカカカッ!!わかっとらんようだなぁ、コゾウ。わしは無理やりこの男に取り憑いたわけではないぞ。この学校にたどり着いたわしはこの男の心の闇に引き寄せられたのよ。この男の心は暗いぞ。寂しいぞ。お前気付かなんだか?」
「・・・・・・?」
「ほれ見ぃ。誰もお前の心なんぞ理解しておらんとよ!」
声が響くと、山根先生の顔がゆがんだ。
「どいつも・・・こいつも・・・俺のこと・・・なめくさりやがって・・・。生徒も・・・他の教員も・・・・・・なんで俺は・・・笑いものにされるんや・・・」
「先生っ・・・しっかりして下さいっ!ボクら先生のこと笑いものになんかしてへんよ!」
北斗は何とか山根先生の意識に向かって話しかけ、憑いているモノを退けさせようとする。しかし、
「ダマレオマエニナニガワカル!!!」
目は虚ろなまま激昂した山根先生は、両手を固定され無防備な北斗の腹に、パンチや膝蹴りを浴びせる。北斗の細い腰が左右に揺れる。
「あっ・・・あぁっ・・・・・・!」
再び北斗はぐったり体の力を抜いた。うつむいた顔を、髪の毛をわしづかみにされて強引に上を向かされる。
「うぅっ・・・」
「分かったか?この男の心がこのわしを求めた。わしもこの男を求めた。利害が一致してこうしているのだ。霊能者かなんだか知らんが、未熟な術者のガキごときに引き剥がせるものではないわ。」
そのとき、北斗がカツンと歯をかみ合わせ、口にためた唾液を山根先生の背後に吹きかけた。
「ギャッ!」
山根先生の拘束が緩み、ストンと北斗が床に座り込む。魑魅魍魎の類は人の唾液を嫌う。これで祓う事などできないが、とりあえず一瞬ひるませることはできる。しかし何とか逃れようと講じた策が火に油を注いだ。
「このクソガキが!!」
うずくまる北斗に山根先生は蹴りを浴びせる。そして地面に倒れこんだ北斗の腹を蹴り飛ばした挙句、顔を踏みにじった。これまで常人なら卒倒ものの瘴気の中を進み、多くの妖怪の攻撃を受けて消耗している北斗にとって、このダメージは決定打だった。
「う・・・」
こわばっていた身体の力がくたっと抜け、北斗は意識を手放した。 [申の巻]
どれくらい時間がたっただろうか。北斗はうっすらと目を開けた。途端にまぶしい光が眼に差し込み、思わず目をつむる。ゆっくりと光に眼を慣らして、辺りを見渡した。
「ここは・・・理科室?」
周囲には水道蛇口付きの白い6人用の机と、背の低い木の椅子が規則正しく並んでいる。北斗はどうやらその机の1つに横たわっているらしい。視界の端には顕微鏡が収められた戸棚がみえる。壁にかかっている時計を見ると午前3時を指している。1時間程気を失っていたことになろうか。電気がついているのは北斗の上の蛍光灯だけ。これはスイッチの構造上普通はありえない。
「目が覚めたかね?」
不意に反対側から声がかかり、北斗はそちらに顔を向けようとして、自分の身体が思うように動かせないことに気付いた。首を何とかめぐらせ、声のした左の方を見ると、そこには山根先生が立っていた。しかし声は山根先生のそれではない。
「くそっ!」
身体を起こそうとするが、手足が思うように動かない。どうやら瘴気に当てられたらしい。しかも身体の周りを今も瘴気が漂い、身体の動きを封じている。山根先生に取り憑いたモノに捕らえられてしまったのだ。
そして、上半身を起こそうと何とか首を起こして、北斗は自分が裸にされていることに気付いた。
全裸ではなくブリーフと白い靴下は穿いたままだ。パンツ一丁にされては制服の中の道具を使うこともできない。北斗は自分の置かれた状況の深刻さに気付いた。若い少年らしいムダな毛ひとつない滑らかな肌と、清潔さを表す真っ白なブリーフが蛍光灯に照らされている。
「ボクをどうするつもりや・・・。」
身体を強張らせながら尋ねた北斗の髪の毛を、山根先生の節くれだった指がサラリとかきあげた。おでこに手が触れた瞬間、毛の生えた動物が触れたような感触がした。
「わしの邪魔をした悪い子には、お仕置きをせんとなぁ。」
「邪魔・・・?お前、この学校で何するつもりやったんや?あの妖怪達もお前が呼んだんやろ・・・?」
「ふん、この期に及んで無駄なことを。まぁいい。勇敢な少年術士の健闘に敬意を表して教えてあげよう。」
山根先生の手が北斗の頭を撫でる。
「この土地は、生駒山の龍穴から生じた気が淀川、大和川という龍に乗って海に流れ込む良地。私は手下どもを気脈に置き、この地の気を集めさせようとしたのだよ。産土の神達の目に触れぬようこっそりとな。そうして、私はこの地を統べる力を得、さらにはここを拠点に全国の妖怪を統べる妖怪たちの神になるつもりだったのだ。・・・・・・しかし、わしが使っておった手下どもは、ことごとく術士どもの手にかかりおった!」
山根先生の顔が悔しげにゆがみ、背後の影が怒りを示すかのようにムワッと広がった。
「密教僧、修験行者、神主、それに陰陽師。人間の分際でわしの邪魔をしおって・・・。挙句わしも、葛城の行者に祓われそうになってこの有様よ。」
自嘲気味にニヤリと笑うと、山根先生は左手で額からあごにかけて、顔を撫でた。すると山根先生の顔が獣のそれに変わった。左目は無残に切り刻まれ、潰れた眼球から今も体液が滴っている。北斗がビクッとしたのを見届けると、左手で今度は下から上へ顔を撫でる。すると顔はもとの山根先生に戻っていた。
「お前・・・妖狐か・・・!」
ようやく合点がいった。霊符についていた茶色の毛、山根先生からした犬に似た臭い、祓いの場にいた狐、泰や高明の話、そして先程図書館で祓った狐。
「そうだ。貴様が先程下の階で祓ったのも我が眷属よ。よくも祓うてくれたなぁ、コゾウ。」
そのとき、横たえられている北斗の周囲にいくつかの気配が降りた。
「ふふ、わしの眷属が戻ってきたわ。見よ。こやつはわしの邪魔をしおった無謀な小僧よ。」
首をめぐらせて北斗が見たのは、机の周りを囲む3匹の狐だった。
「何とか逃れてきたところに、この学校があったのよ。陰気がこもってなんとも住み心地のよい土地だ。ここを基点に勢力を伸ばそうとしたのに、貴様が不愉快な符をばら撒きおる。普段ならこんなものすぐに破り捨てることなど造作もないが、行者に受けた傷で力が落ちておった。そこに都合よく現れたのが・・・」
山根先生が左手で自分を指差す。
「この男よ。なんとも取り付きやすい心の持ち主よのう。こいつの心に忍び寄り、貴様が張った符を剥がさせたのだ。そしてだんだんと弱らせ、折を見て憑依してやった。こいつの働きの優秀さは、貴様が1番よく知っておろう?」
北斗の頭を撫でていた山根先生の右手が北斗の頬をその親指で撫でた。悔し紛れに首を振ってそれを拒絶するが、振りほどくにはいたらない。山根先生に取り憑く妖狐はそんな北斗の様子を愉快そうに眺める。
「さて、話は終わりじゃ。明日にもこの学校はわしらが占拠しよう。貴様が撒いたうっとうしい物はこいつが掃除してくれるだろうしな。貴様はじっくりと嬲ってから妖気に浸して、我が眷属にしてやろう。・・・その前に、コゾウの分際でこのわしの邪魔をしたお仕置きをタップリしてやろうなぁ。」
山根先生の右手が、頬を離れて首筋、うなじを長い襟足の毛を掻き分けて撫で回し始めた。突然身体の敏感な所を触られて、北斗はピクッと身体を震わせた。山根先生は無表情だが、目がらんらんと妖しく輝いている。
「ほう?この男悦んどるぞ、コゾウ。お前の先生は、男色の気があったらしいなぁ。」
一瞬言われた意味が理解できなかった北斗だが、山根先生のズボンの股間部分が大きく起ち上がっているのを見て顔を赤らめた。
「やっ・・・!」
不意に山根先生のもう片方の手が、北斗の胸をさすり始めた。北斗に覆いかぶさるようにして、山根先生は北斗の薄い胸板を揉み解していく。時折手が2つの突起に触れるたびに、ピクッと北斗の身体が震える。オトナに裸の身体を触られる恥ずかしさに頬を赤らめながら、北斗が先生の背後に眼をやると、妖狐がニヤニヤ笑いながらこちらを見ている気配が伝わってくる。手で何とか胸を隠そうとするが、力がうまく伝わらない。
「く・・・くそぉ・・・あっ・・・ぅあぁっ・・・」
だんだん胸全体を揉んでいた手が、突起に集中してくる。うなじを撫でていた右手も加わり、2つのピンク色の小さな突起を指の腹でこねくり回したり、指でつまんだりして弄ぶ。敏感な箇所をいじられて、北斗の呼吸は段々と激しくなる。
「ほぉ。元気になってきたな。」
山根先生の口から妖狐の声で言われ、肩で息をしながら北斗はゆっくり頭を上げ、自分の股間に目をやった。ブリーフのふくらみからは北斗が勃起していることがはっきりと分かる。
「うぅ・・・見るなぁ・・・。・・・あっ・・・」
山根先生はもはや手ではなく、舌を使って北斗の乳首を責め立てる。初めての感覚に、北斗の呼吸が一層激しくなる。
「カカカ、愉快愉快。よし。お前らも手伝ってやれ。ただし一番大事なところはこの男にさせてやれ。」
舌を一旦離し、山根先生の口を借りて妖狐が眷属の狐に命じると、机の下でかしこまっていた3匹の狐達が、机に前足をかけ、顔を北斗の体に寄せて舌で北斗をなめ始めた。北斗の薄い腹筋、その先にある形の良いおヘソ、ムダな毛ひとつない引き締まった太もも。ブリーフのふくらみを除いてありとあらゆる北斗の性感帯を、山根先生と3匹の狐がなめ回す。
「あっ・・・やぁっ・・・あぁっ・・・・・・・」
ピチャピチャという犬が水を飲むような音と、声変わりしていない北斗のボーイソプラノの喘ぎ声が、夜の理科室に響き渡る。
山根先生が北斗の乳首責めを止め、北斗の顔を見た。依然おヘソや太ももを狐達になめ回されている北斗は、ギュッと目をつむって必至に快感に耐えていたが、時折目を開けて山根先生の方を見る。
「そろそろ頃合だな。この男も早く見たいようだ。」
ニヤリと笑うと山根先生は、左手を北斗のブリーフに置いた。そしてじらすようにゆっくりとゴムの方からふくらみの方にかけて手の平を滑らせていく。既にふくらみの先はシットリ濡れて染みができている。
「やっ・・・あかんっ・・・そこは・・・やめろぉっ・・・・・・」
北斗は動かない身体を必至に揺らし拒絶しようとするが、狐達になめられているので力が緩んでしまう。せめて肩幅位に開いた足の太ももだけでも閉じようとするが、無駄な努力だった。
そしてついに山根先生の手が、小ぶりな北斗自身をブリーフ越しに包み込んだ。ビクッと身体を震わせる北斗などお構いなしに、山根先生の手が優しくブリーフのふくらみを上下に擦る。柔らかく肌触りの良いブリーフ越しに擦られて、思春期の少年の初々しい性器はサイズこそ小さいものの元気いっぱいに自己主張する。
「うぅっ・・・あぁっ・・・やめっ・・・やめてくれ・・・・ぅあぁっ・・・」
重い首を左右に振り、北斗は喘ぐ。
「くくっ。いい声を上げるなぁ、コゾウ!この男がほしがるのも、無理はないのう。どれ、そろそろ限界じゃろう。」
山根先生は北斗のブリーフのゴムに手をかけ、ゆっくりとずらしていく。勃ち上がった北斗自身がゴムに擦れ、反動でプルンッと起き上がった。まだ皮は剥けておらず、きれいなピンク色の頭が半分ほど顔をのぞかせている。その頭はとろみのある透明の液でしとどに濡れ、蛍光灯の明かりのもとでいやらしく光っている。零れ落ちた液が細く短い竿を伝って、毛の生えていない根本や薄桃色の嚢を湿らせていた。
「カカカ・・・、ずいぶんとかわいいおチンチンだな、コゾウ。」
山根先生は北斗の性器を軽く指弾する。屈辱的な仕打ちだが、限界寸前まで追いやられ、しかも今なお狐達に嬲られている北斗に強がりを言う余裕はない。
「さて・・・トドメと行くか・・・。」
山根先生の左手が、透明の液を滴らせる北斗の性器をやさしく包み込んだ。初めて他人に触られて、北斗の身体がビクッと震える。山根先生の手はゆっくりと性器の皮を上下にしごき始めた。
「あっ・・・あっ・・・あぁっ・・・・・・・」
リズミカルな山根先生の手つきに合わせて北斗が喘ぎ声をあげる。既に身体への責めとブリーフ越しのマッサージで限界寸前だった北斗の絶頂はあっけなく訪れた。
「・・・ふあぁっ・・・あっ・・・やっ・・・もぅ・・・あか・・んっ・・・でるっ・・・あんっ・・・・あぁっ・・・・・・・・」
ギュッとこぶしを握った北斗が顔をのけぞらせ、腰を上げた。
ビュルルッ!ビュクッ!ビュクッ!ピュッ!・・ピュッ!・・・ピュッ・・・・・・・・
北斗の性器の先から勢いよく白濁色の精液が噴き出した。それを山根先生がことごとくキャッチしていく。若々しい少年の精液を舌の上で堪能し、ゆっくりと飲み下す。辺りに水っぽい独特の臭いが広がった。
「くく・・・なかなか濃いな。若い男の精はわしら妖怪にとっては馳走だ。延命長寿、妖力向上の秘薬ぞ。行者に受けた傷も大分ようなったわ。」
北斗は他人に見られている前で射精してしまった恥ずかしさと丁寧に性感帯を責められて極限まで快感を与えられた果ての射精の気持ちよさとで、弱弱しく目をつむり、耳まで真っ赤に紅潮させて肩で息をしながらぐったりしている。
「よし。我が眷属ども。お前らにも褒美をやろう。なめてかまわぬぞ。」
待ってましたとばかり、3匹の狐が我先にと北斗の、萎え始めている性器に舌を伸ばし、ピチャピチャと残った精液や先走りの液をなめ回す。舌の感触で、再び性器に硬さが戻る。
「うあぁ・・・」
すっかり力尽きた所にさらに刺激を与えられた北斗は苦しそうに声を上げた。
「ふふ。なかなかかわいいコゾウだ。わしの眷属にした暁にはわし専用の秘薬製造用として、毎日絞れるだけ搾り取ってやろうな。そうだ。ここにはまだまだ若い少年がたくさんいるのだ。全員瘴気に浸して、ここを全土統一のための食糧庫にするのも良いかも知れぬ。」
「あほなこと・・・言うな・・・そんなこと・・させへんぞ・・・。」
北斗が呻くようにして言う。
「ふん。お前は大人しくしておればいいのだ。小ざかしい術士め。」
「お前らは・・・ボクが・・・祓うっ。」
北斗は渾身の力を振り絞って両手を胸の前に持ってきた。指を絡めて「仏頂尊勝空印」を結ぶ。
「ノウボゥバギャバテイタレロキヤハラチィビシシュウダヤボウダヤバギャバティタニヤタオンビシュダヤビシュダヤ・・・・・・」
必至に『尊勝陀羅尼』を唱える。しかし・・・
「カカカカッ!無駄じゃ無駄じゃ!」
妖狐や眷属たちが祓えないばかりか、瘴気も全く薄まらない。
「な・・・なんで?・・・・・・くそっ・・・」
印を結び変え、呼吸を整え歯を3度噛み合わせる。
「乾天元亨利貞、兌沢英雄兵、坎水湧波濤、離火駕焔輪、艮山封鬼路、震雷霹靂声、巽風吹山岳、坤地進人門、吾在中宮立諸将護吾身、吾奉太上老君勅神兵火急如律令!」
呪を変えても全く効果がない。まるで祓う力が抜けてしまったようだ。
「カカカ!まだ分からんのか?コゾウ。貴様今何をした?」
「どういうことや?・・・・・・あっ・・・まさか・・・!」
「そうよ。わしの傀儡と眷属にかわいがられてたっぷりと精をもらしたろうが。貴様唱える呪や使っておる符から察するに陰陽師だな?・・・だが、陰陽師だろうが行者だろうが、自らの精で穢れた身体でどんなに術を施そうが、そんなものに神が感応するはずがあるまい。」
「くぅっ・・・」
この拷問がただ山根先生の心の闇と妖狐の復讐心を満足させるためだけでなく、北斗の牙を徹底的に殺ぐものであったことに気付いた北斗は、悔しさで山根先生から顔を背けた。
「つまりお前は・・・」
「あっ・・・!」
山根先生が北斗の髪をつかんで顔をこちらに向きなおさせる。
「毛も生えそろわんただのガキというわけだ。カカカカカ!まだ下らんことを考える余裕があるようだ。我が眷属ども。無駄なことなど考えられんように、絞りつくしてやれ。」
命じられた眷族の狐達が、身軽に机に飛び乗ったかと思うと、北斗の身体の敏感な所を再びなめ回し始めた。
「やめろっ・・・あぁっ・・・うあっ・・・」
もうすっかり萎えたと思ったのに、北斗の身体は反応する。ブリーフをずり下ろされてむき出しになった性器が再びピクンッ、ピクンッと脈を打つ。
「ふふ。なかなかいい身体をしてるじゃないか。これならこの先も期待できそうだな。カカカカカカカ・・・!」
意思とは裏腹に、与えられる刺激によって北斗の身体はどんどん興奮していく。疲労しきった所に初めて他人から与えられる強烈な性的刺激を2度も繰り返され、北斗の意識はボヤケていく。 [酉の巻]
(じいちゃん・・・ゴメン・・・ボク、もう・・・だめや・・・)
自分を見下ろす山根先生の姿が霞み、幼い頃の記憶とダブる。
祖母は北斗がまだ幼稚園に行く前に亡くなった。最愛の妻を亡くした寂しさを癒すためか、高明は北斗を溺愛していた。北斗も高明が大好きで、よく膝の上に乗せてもらい、本を読んでもらっていた。
小学校に上がってもしばらくは高明の膝の上がお気に入りだった。読んでもらう本は段々陰陽道や道教などの本に変わっていったが・・・。陰陽五行や暦の話、霊符の書き方や印の結び方など、高明の膝の上で幼い北斗はこの道の基礎を次々に身につけていった。高明は昔話を聞かせるように、本だけでは決して学べないこの道の根本にある考え方を北斗に伝えていく。
「ええか、北斗。陰陽師は『穢れ』に強うないとあかん。」
「『けがれ』ってなに?」
「うん。『穢れ』いうんは、簡単に言うたら汚いもんのことや。せやけどもっと広い意味で言うたら、北斗が目で見て、イヤやなぁと思うもんのことや。」
「うんことか?」
「そうや。」
「おしっこも?」
「そうやな。他になんかあるかな?」
「うぅ~ん・・・わからへん。まだある?」
「いぃっぱいあるで。例えばな、人が血流してるのみたら、北斗どない思う?」
「絆創膏はったげな・・・。」
「北斗はやさしいなぁ。せやかて、よおさん血が流れてたら、ちょっと怖いやろ?」
「うん。」
「こういうな、汚いわけやないけど、見たらちょっとイヤやなぁと思うもんが『穢れ』や。死んだ人、赤ちゃんが産まれる時に出るいっぱいの血、腐った食べもん、豚さんや牛さんを殺してそのお肉を食べること、・・・こういう『穢れ』って北斗もいっぱい触ってるんやで。」
「うんこするもんな?」
「そうや。せやからおじいちゃんもお父さんも、お祓いの前の日はできるだけきれいにしよるやろ?でも『穢れ』はほっとってもくっついて来よる。・・・でもな、『穢れ』に触れるのを嫌がるんやのうて、その中に入っていっても大丈夫なんが一人前の陰陽師や。」
「ふぅ~ん・・・。」
「穢れたからって、『もうだめぇ~』って潰れてしまうんやのうてな、『穢れ』に触れても平気。祓えばええ。そういう、『七転び八起き』が陰陽道なんやで。せやから北斗ちゃんも頑張って修行して、『穢れ』に負けへん強い男の子になろな?」
「うん。でも、もしどうしても『穢れ』に『もうだめぇ~』って負けそうになったときはどうしたらええのん?」
「ほんなら、北斗に秘密の技を教えたろ。ええか、この国にはな?穢れを洗い流す川があるんや。そこの神さんにお願いして、穢れを流してもらうんや。その祝詞はな・・・・・・」
そうや・・・。「七転び八起き」や。半分失いかけていた意識を何とか引き戻した北斗だったが、状況は悪くなる一方だった。身体中眷属の狐達の唾液でぐっしょりで、意識を失いかけていた間にも北斗の性器は従順に2度目の放出に向けて大きくなっている。意識がはっきりしたがためにその刺激が脳に伝えられ、下半身が痺れて溶けそうな感覚を感じ、思わず喘ぎ声が出そうになる。それを歯を食いしばって耐え、北斗は胸の前に置いたままだった手を必至に組み、印を結んだ。親指、人差し指、中指、小指を突き立て、残った薬指だけを交互に絡ませる。
「まだ何かする気か?」
妖狐の呆れたような声も耳に届かない。北斗の耳には、幼い頃聞かされた高明の声だけがこだましている。
全ての穢れに恐れず向かい合う。どんな穢れも祓い落とす。それが陰陽師。
渾身の声を上げ、北斗は祝詞を上げ始めた。
「高天原に神留坐す皇親神漏岐神漏美の命を以て死穢、産穢、病穢、媱犯穢、月水穢、并穢食雑食穢諸不浄をば科戸風の吹払事の如く焼鎌の敏鎌を以て打払事の如く水を以て火を消すが如く・・・」
北斗が祝詞を上げ始めると、まず群がっていた眷属たちに異変が生じた。猛烈な勢いで彼らを取り巻く瘴気が薄れていく。恐れおののいて北斗の身体から離れようとするが、その姿が段々と薄くなっていく。
「おのれ・・・!何が起こった!?穢れた身体で読んだ呪がなぜこうも強力な力を発揮するのだ!!」
眷属だけではない。山根先生の背後にいた妖狐の影が、徐々に山根先生から引き剥がされ、清められていく。
「・・・一切の穢気不浄をば日向の小戸の檍原の上瀬の太急潮にて滌去て・・・」
「そうか・・・この祝詞・・・死者の国から逃げ帰った伊邪那岐命が身体を清めたという・・筑紫の阿波岐原の上の瀬の・・・流れの太だ(はなはだ)疾き(はやき)・・・急流で・・・・・・全ての・・・穢れを・・・・・・おのれぇ・・・わしがこんな所で・・・こんな・・・・・・・コゾウに・・・・・・・・・」
「・・・・・・祓賜い清賜う事の由を、左男鹿の八の耳を振立て、聞食せと申す・・・・・・。」
不意に窓の開いていないはずの理科室にどこからか風が吹き込み、もはや気配だけとなった妖狐とその眷属、そして山根先生にわだかまっていた瘴気の残滓と北斗を捕らえていた瘴気を吹き払った。
山根先生は、それこそ糸の切れた操り人形のようにばたりと崩れ落ちた。同時に、妖狐の妖力でついていた蛍光灯が消え、理科室は外からの明かりだけになった。[戌の巻]
目が慣れるまでしばらく待ってから、北斗は拷問用の台として使用された机を降りた。机は北斗の流した精液や先走り液、それに汗で濡れている。ずり下ろされたブリーフを上げると、ぐっしょり湿って気持ちが悪い。とにかく服と荷物を探さなければと、1つだけ電機のスイッチを入れる。1番手前の1列だけだが、十分明るい。北斗の制服のズボンやシャツ、靴、カバンなどは、理科室の隅に固めて置いてあった。気を失った北斗を担いできた山根先生がここに北斗をもたれさせて服を脱がせたのだろう。カバンから清めの塩を取り出して体に振り、タオルで丁寧に身体中の唾液や精液をふき取る。
服を着て、北斗はようやく一息入れた。クタクタだったが、まだやることが残っている。まだ少しふらつく足を励まし、まず机の端にもたれている山根先生の所に向かう。
彼の心の闇に触れてしまったのはつらいが、それとて「穢れ」。祓ってしまえばきっとやり直せる。北斗は先生の前に膝を着き、深呼吸して拍手を2回打った。
「高天原に神留坐す皇親神漏岐神漏美の命を以て魂魄は日月の光を和らげ賜うが如く身心は天地の元気に通わしめ賜うが如く身は安く言は美わしく意は和らぎて諸の悪業、煩悩、邪念、猛慮をば日向の小戸の檍原の下瀬の弱く和柔ぎたる潮の如く罪と云う罪咎と云う咎は不在と祓賜い清賜う事の由を左男鹿の八の耳を振立て聞食せと申す・・・・・・。」
人が不意に犯した罪穢れを優しく祓う祝詞を読み上げ、北斗は理科室を後にした。とりあえずアフターケアの事は考えないことにして、今はこの学校の全ての穢れを一掃することに専念する。時刻は午前4時20分頃。早くしなければ夜が明けてしまう。急いで暗いB棟の階段を駆け下りる。北斗の大奮闘のおかげで、今のところ瘴気は感じられない。しかし今日のうちに手を打たねば、明日にはまた瘴気が充満することになってしまう。
さんざん妖怪にボコボコにされた上にこれまでにないほどたっぷり射精して、挙句に猛ダッシュで階段を駆け下りた北斗は肩で息をしながら、まだ真っ暗なグランドに出た。平岡中学校はやや高台にあるため(あまり風水的に良くないが・・・)、とりあえず新聞配達などの通行人に見られる心配はない。
早速北斗は、カバンの中から24枚の霊符を取り出した。それぞれをグラウンドの中央から24方山(八方位に加えて戊己を除く十干を配置した方位)の方角に、土を盛った上に置いていく。そして、「子」の方角から順に、ライターで火をつけていく。ぐるりと一周するとそのまま中央に帰ってきて、北斗はカバンから七星剣を取り出した。北斗の周りでチロチロと火が燃えている。校舎のほうを向いて中央に立った北斗は右手で柄を持ち、左手で剣身を受けて掲げ、深々と一礼した。そしてそのままゆっくりと呪を唱える。唱え終わると、北斗は校舎に向かって大きな動作で七星剣で九字を切った。そして、剣を再び掲げて礼をすると、剣をしまった。この頃には火は全て消え、灰が風に舞ってグラウンドを行ったりきたりしている。[亥の巻]
「ふぅ・・・」
北斗は大きく息を吐いた。祓いの準備が整った。24方山の符を燃やし、七星剣で場を清めた後のグラウンドは、いわば巨大な結界である。ここで最後の術をかけ、学校を穢れから解き放つ。同時に穢れが入り込めないようこの学校に結界を張るのである。
深々と3拝する北斗。
パンッ!・・・パンッ!
そして北斗の鋭い拍手が日の出前の学校に響き渡る。祝詞紙を取り出し、腹の底から頭の先に向かって声を通すイメージで、祝詞を読む。
「集侍親王諸王諸臣百官人等諸聞食と宣る・・・・・・高天原に神留坐す皇親神漏岐神漏美の命を以て八百万神等を神集えに集え賜い・・・」
北斗が唱える『大祓詞』に合わせるかのように、学校全体に風が吹く。祓われきれていなかった穢れがそれに乗って、穢れが行き着くという根の国底の国があるという大海原へと流れていく。
「・・・如此失てば天皇が朝廷に仕奉る官官人等を始て天下四方には今日より始て罪という罪はあらじと高天原に耳振立聞物と馬牽立て今日の夕日の降の大祓に祓給い清給う事を諸聞食と宣る・・・・・・。」
北斗が読み終える頃には、段々と空が紫色に変化し始めていた。爽やかな秋の風に、北斗の声の余韻が運ばれていく。学校内の全ての穢れは祓われ、霊魂や魑魅魍魎は踏み入れることのできない空間となった。これでしばらくは北斗が人目を忍んで祓いをする必要もないだろう。
祝詞紙をしまい、北斗は校舎に向かって、鋭く2度拍手を打った。そして3度、深々と拝礼をする。
祓いの力を借りた全ての神等に、土地の守りを託すこの土地の産土の神に、そして、祓われていった全ての穢れたちに・・・。
長い夜が、終わった。
空に薄っすらオレンジ色がさし始める頃、北斗はこっそり家のドアを開けた。家族が起きている気配はない。抜き足差し足で2階への階段に向かったその時、高明の部屋の障子がそっと開いた。
「おはようさん。」
顔を出した高明が小さな声で挨拶してくる。
「う・・うん・・・、おはよう。」
北斗も小声で挨拶したが、どう考えてもトイレに起きてきた格好ではない。何といわれるかドキドキしながら祖父と見つめ合うことしばし、祖父がニヤリと笑った。
「ちゃんと後でお風呂入りや。おやすみ。」
それだけ言うと、高明は障子を閉めた。
敵わない・・・。北斗は緊張から解き放たれた安堵と、自在に飛び回った後、そこがお釈迦様の手の平の上だったことを知った孫悟空のような脱力感で、大きくため息をついた。
結局その日は前日からの風邪をこじらせたという口実で北斗は学校を休んだ。母の代わりに部屋に入ってきた高明が口裏を合わせてくれたのだ。風呂に入って身体を清めた北斗は泥のように眠った。
翌日、学校に行くと、不思議なことに騒ぎは全く起こっていなかった。一応それとなく柔道部の友人に尋ねてみたが、特に異変はないという。どういうことだ?謎を抱えたまま下校時刻を迎えた北斗は、教室を出て学校を見回った。これまでの陰鬱な雰囲気がどこかすがすがしいものに変わり、瘴気は微塵も見えない。結界と産土の神の力が働いているのだ。
結果オーライでB棟からA棟への渡り廊下を歩いていた北斗の背後に、人の気配があった。何気なく振り返ると、山根先生が後ろを歩いている。思わず急いで前を向き、自然を装うが、歩き方がぎこちなくなる。そのうち先生の足音がどんどん近くなり、すぐ後ろにまで接近した。
不意に、節くれだった手がポンッと北斗の頭に載った。ビックリして手の主の顔を見上げると、まさに憑き物が落ちたような爽やかな笑顔を浮かべる山根先生がいた。北斗の頭を軽く撫でると、目配せをして北斗を追い抜き、職員室のあるA棟へと消えていった。
なるほど。
北斗はなぜあの悲惨な状態の学校が翌日騒ぎにならなかったのか理解した。
山根先生が、少し好きな先生になった。
〈完〉
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