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  • 2014⁄05⁄20(Tue)
  • 01:31

高校性白書

仲のいい、ただの友だちが、ある日突然、特別な存在になる。
 こういうことは、世の中にはよくあることなのだろうか……。

 早川亮輔、リョウがぼくの家に来たのは、5月の最後の日だった。
 その年は、いつにない天候不順だった。5月に入ってからも、少しも初夏らしくなかった。
 空はいつも曇りがちで、ヘンに肌寒い風が吹いたり、そうかと思うと雨が降ったりで、スッキリしない日が続いた。
 それが5月の31日に、突然、温度計が31度にまで跳ね上がった。
 ぼくらの高校の教室には冷房なんてないから、授業にもまるで、身が入らなかった。
 突然訪れた夏に、運動不足の肉体がついていかないという感じだった。
 学校帰りのリョウが、ぼくの家に立ち寄ったのは、そんな日だった。
 帰宅部同然のぼくは、そうそうに家に帰り、しまい込んであった扇風機を引っ張り出して、ベッドの上でへたばっていた。
「隆之、お友だちですよ」
 母さんが、ふすまを開けた。
 その母さんの後ろにリョウが立っているのを見て、ぼくはひどく驚いた。
 もちろんリョウは、中学時代から数え切れないくらい、ぼくの家に遊びに来ていた。
 けれど、それはいつも、友弘や雄太や卓といっしょの時に限られていたのだ。
 ぼくの部屋は、昔の造りの8畳間で、じゅうたんを敷いて洋風にしている。
 天井が高くて、部屋も広々としているので、4、5人が集まるのに、ちょうどいい。
 だからリョウも何かというと、
「笹倉んちに集まろう」
 というのだったが、リョウがひとりで訪ねて来ることは、めったになかった。
 めったにどころか、長いつきあいで初めてじゃないだろうかと、ぼくはボンヤリ考えた。
「隆之、すぐに帰ったんだな。まだ校内にいるんじゃないかと思って、あっちこっち捜したんだぜ。図書室とか、中庭とか」
 つっけんどんにいいながら、リョウは部屋に入って来た。
「ぼくは部活にも入ってないからな。さっさと家に帰って、扇風機出そうと思って、終業のカネが鳴ったと同時に、学校飛び出したんだ」
「軟弱だよな、そういうとこ」
 そうはいっても、やっぱりリョウも暑いみたいで、手に握りしめたタオルで、しきりと額をふいていた。
 母さんがカルピス・ハイを持って来て、テーブル代わりのビデオ・ラックに置いた。
「隆之、お家元がこれ、ですよ」
 母さんはリョウを気にしつつも、両手の人差し指で鬼のツノをつくって、頭の横に立てて見せた。
「オヤジさんが、どうかしたのか?」
 母さんが部屋を出て行ってから、リョウは学習机の前の回転椅子に腰を下ろして、机に頬杖をついて、ぼくを見下ろした。
「さっき玄関でオヤジさんとすれ違った時、ちゃんと挨拶しといたんだけどな」
 リョウは他のやつらよりも、目上の人に対する礼儀や挨拶は、けっこうしっかりしている。
 警察官をやっているリョウの父親が、そういうことには厳しいというのを、いつだったか聞いたような覚えがあった。
「リョウの所為じゃないよ。ここんとこ、オヤジとは冷戦状態なんだ」
 ぼくはカルピス・ハイのひとつを、リョウに手渡した。
「へえー、意外だなあ。隆之みたいなマジメなヤツでも、親とケンカなんかするのかよ」
 リョウは面白そうにいい、カルピス・ハイをひと口飲んだ。
 そして思い出したように、へっへっ、と意味ありげに笑った。その目も、意地悪そうに笑っている。
「そういえばそうだったよな。お前って、ケンカっぱやいんだっけ。今日の昼休みに、同じクラスの塚田と殴りあったくらいだしな。ウワサによると、誰かをかばったとか、かばわないとか」
「リョウ、お前なぁー。誤解もいいとこだぞ、それ。誰が茂をかばって、本気で塚田とケンカなんかするかよ」
「まあ、そうとでもいわなきゃ、お前の立場がないよな」
 リョウは皮肉をいって、ふと顔をしかめ、
「焼酎の量が多いよ、これ。アルコールがキツクて、ちょっとヤバイんとちゃうか」
 ぶつぶつ文句をいいながら、ぼくにグラスを返してよこした。
 そして、ひどくうんざりした調子でため息をついて、そのまま黙り込んだ。なんだか、えらく疲れているみたいだった。
 ぼくはベッドの上に座り込み、膝を抱えて壁にもたれながら、リョウが珍しく、というより初めて、ひとりでぼくの家に来たのは、やはり塚田とケンカした真相を確かめるためなのだろうかと、考えてみた。
 ぼくと塚田が殴りあったことは、ぼくという人間を知っている連中であればあるだけ、意外だったらしい。
 ぼくらが殴りあう寸前に、ぼくが中道茂の名前を口にしていたのを聞いたヤツがいた。そいつは、何かにつけて茂にちょっかいを出していた塚田に、よくぞ一矢報いてやったと、まるでぼくをヒーロー扱いした。
 でも、ぼくと仲のいい同じクラスの雄太は、
「いったい、どういうことなんだよ。お前ほんとに、あの同性ウケしない中道茂をかばったのか?やめろよ。同性に嫌われる男は、どっかに必ず欠陥があるもんなんだ。お前が茂をかばったって、事態は何も変わりっこないと思うぜ」
 教室を飛び出したぼくのあとを追いかけてきて、あからさまに皮肉をいって、面と向かって釈明を求めたほどだった。
「雄太、その考え方は、ちょっとキツイぞ。みんながみんな、茂のこと嫌ってるとは思えないしな」
 話題の矛先を和らげて、軽く雄太をたしなめようとすると、雄太は鼻先でフンと笑って、
「茂を見くびってるな、隆之。見かけが良くて、頭も良くて、それでも同性ウケするヤツはたくさんいるぜ。中道茂みたいなヤツはな、自分から進んで敵をつくるタイプなんだよ。あいつの裏にあるのは、他人を卑下する時の優越感だけなんだ」
「他人を卑下するって、別に茂は、誰もさげすんでないし、特別ガリガリの秀才ってわけでもないぜ」
「勉強のこといってるんじゃないって、ボケ」
 雄太は切り捨てるように、いった。
「誰かにとって、自分がイチバンの存在でいたいとか、そいつにはよく見られたいとか、そういうこともあるだろ。誰だって、特定の人の前ではよく見られたいと思ってるさ。だのに茂は、いっつも自分がトップに立ってないと気がすまない。実際、余裕しゃくしゃくって顔してさ。それが鼻について、俺たちにはウザいんだよ」
 雄太がこういういい方を始めたら最後、ありがたいことに話題はそれてくれるのだが、それにしてもかなり疲れた。
 もっとも、雄太を除けば、友弘も卓もリョウも、ケンカの一件には、これといってアクションを起こすようなヤツらじゃない。クラスも違うし。
 だから、ぼくは安心すると同時に、いつか抜き差しならない時に、友弘かリョウに問いつめられるのではないかと、内心ではビクビクしていた。
「隆之さ、なんで、オヤジさんとケンカしたんだよ」
 黙り込んでいたリョウが、ふいに敏腕刑事みたいな尋問口調よろしく、いった。
 塚田とのケンカの質問ではなかったので、ぼくはホッとして、口がほぐれた。もし中道茂のことだったら、黙秘権を行使するしかないな、と思っていたのだ。
「7月恒例の花展が近づいてるのに、今年からぼくはいっさい、家業に関わらないと宣言したからさ。お家元も母さんも、ヒスってるんだ」
「そういえば、もうそんな時期だよなあ」
 毎年、義理で花会のチケットを買わされているリョウが、おかしそうに首をすくめた。
「隆之さ、もう紋付にハカマ穿いて、お茶汲みしたりしないのか?俺、けっこう楽しみにしてるんだけど」
「お茶汲みって、リョウ、お前ねぇ」
「いやいや、マジだ、マジでいってるんだよ。からかってるわけじゃないんだ」
 リョウは声を上げて、喉をのけぞらせて笑った。
 日に焼けた、小麦色の喉が目の前でアップになって、ぼくは思わず目を伏せて、咳払いしながら説明した。
「あー、つまりその。もうオヤジの趣味で、家業につきあってる場合じゃない、とか思ってさ」
「オヤジの趣味って、何いってんだよ。お前、次期家元だろ、生け花の」
 リョウは意外なほど真面目な顔で、ぼくを見返した。
「隆之、もう受験体勢に入るのか」
「まさか、逆だよ。高2だから、3年生になる前に何かやりたくて、焦ってるんじゃないか」
「そっか」
 安心したようにうなづきながらも、リョウも身に覚えがあるのか、
「そうだよなあ……。もう、3年なんだよなあ……」
 と口の中で噛みしめるように繰り返した。
 3年生の前の、いちばん遊べる時だから、かえって遊んでる場合じゃない、何かしなくては……―――というのは、ぼくや雄太や、他の連中の、共通の気持ちかもしれない。
 特にうちの高校は、男子校ながらもこの地域では受験校だから、
「3年になったら」
 というのが、生徒と教師の間では、暗黙の了解のようになっている。
 3年になれば、ほぼ100%の生徒が、それぞれの受験に立ち向かうという前提があるから、うちの高校は珍しく、校則もわりと自由で、部活にも妙に活気があるのだった。
「遊んでる場合じゃ、ないかぁ」
 リョウはもう一度つぶやいたっきり、目をじゅうたんに落として、また黙り込んだ。
 ヘンに気まずい、沈黙が続いた。
 部屋の隅に置いたスタンド・タイプの扇風機のうなりが、暑苦しく、響いている。
 部屋の中の暑さをかきまわして、わずかに息がつげるほど、涼しい風を送り出してくる。
 胸のボタンをぜんぶ外した夏服姿のリョウとふたりっきりというのは、危険だった。ぼくは落ち着かなかった。
 沈黙がいやに長く感じられたけれど、たぶん、5分くらいのものだろう。
 しばらくして顔を上げたリョウは、意外なほど深刻な顔つきだった。
「隆之……、お前最近、誰かにつきあってくれとか、好きだとかさ、いわれたことあるか?」
「えっ、なんだ、そういう話か。そりゃ、あるよ。ひと月くらい前の話だけど」
「その子と、いま続いてるのか?」
「いいや。2週間前に、ぼくがフッた」
「けど、どうせまたすぐに別のを見つけるんだろ」
「うん」
「お前ってそういうの、困らない男だよな」
「まあ、困らないね。若いお嬢さんたちがお花を習いに来るから、よりどりみどりって感じで」
「ちぇ、イヤミな男だよ、まったく」
 リョウはデキの悪い弟を叱るように、わざとらしくため息をついた。
 そして背中をそらして、回転椅子をぐるぐると回した。
「リョウ、もしかして誰かに、好きだとか、いわれたのか?」
 いつまでたっても何もいわないので、思い切って尋ねると、リョウは椅子を回転させるのをやめた。
 たったひと口飲んだカルピス・ハイの酔いがまわり始めたのか、目の辺りをうっすらと赤くして、リョウはこくんと頼りなげにうなづいた。
 うなづいたとたん、それまで黙っていたのを取り返すように、勢い込んで早口にまくし立て始めた。
「そいつ、めちゃくちゃ強引なんだ」
「強引って、どういうふうに」
 リョウは察しが悪いなとでもいうように、ぼくを睨みつけた。
「だからさ、そういう時、他に好きな子がいるとかいうと、フツーなら引き下がってくれるもんじゃないか。それ以上、恥のうわ塗りみたいに、あーだこーだいわないもんだろ?」
「じゃあそいつは、あーだこーだいってきたわけか」
 からかうようにいうと、リョウは顔をくしゃくしゃにしかめて、気まずそうにうなった。
「まあ、そんなとこだな」
「しつこいオンナは嫌われるぞって、突っぱねればいいじゃんか」
「そういう問題じゃ、ないんだ」
 リョウは笑いながらも、なんだかじれったそうだった。
 そういう問題じゃない、とぼくは心の中で、つぶやいてみた。
 そういう問題じゃないのなら、どういう問題なんだと尋ねれば、リョウもこんなあいまいないい方ではなく、もっとハッキリしたことをいうのだろうか。
 けれどぼくは、出来ることなら、リョウとは、こんな話はしたくなかった。
 リョウとは他愛ない冗談や、どうでもいい軽口や、ちょっとした口ゲンカや、あてこすりなんかで楽しくじゃれあうのが、いちばん安全だと思っていた。
 リョウは、いい男だ。
 ぼくと同じ高校2年生だけど、すごくしっかりしている。
 部活は水泳部で、自由形のエース、タッパはぼくと3センチしか違わない、175センチ近くあった。
 カオもよくて、男らしく、だけど笑うと少し、可愛く見える。ぼく的には、かなり好きなタイプの容姿をしていた。
 性格も穏やかで、かつ情熱的だし、ほんとうに気のいいヤツだった。
 でも、ぼくは少し、鬱陶しくなった。
 どうしてそんなふうに思えたのか、自分でもよくわからなかった。
 それがつい、声に出てしまったかもしれない。
「他のヤツらに相談すればいいじゃないか。いまぼくにいわなくたって」
 なぜそんなことを、いってしまったんだろう。どうしてだか急に、話をするのもウザったくなってしまったのだ。
 リョウはかすかに、眉を上げた。
 そして、ぼくの目をのぞき込むように、じいっと見つめた。
 リョウは、話をする時は相手の目を見て話しなさいという、小学校じこみの教えを、いまもまだ忠実に守っているみたいだった。
「なあ。マンガでもドラマでもなんでも、俺のいちばん嫌いなパターン、知ってるか?」
「知らない」
「主役の男優が、煮え切らない恋人にハッパをかけるために、わざと別のオンナの話をしたり、その気もないのにつきあってみせるパターンだよ。ああいうの、世間の狭い根性の腐った人間のやることみたいで、好きじゃないんだ。ぜんぜんフェアじゃないだろ」
「気持ちはわかるよ、ぼくも」
 ぼくは用心深く、いった。
「けど、そこまで深刻になることなのかよ。誰かに告白されただけでさ。何もケッコンしようとか、そんな極端な話でもないんだろ?」
 他にいいようがなくて、思わず口をついて出てきた言葉をありのままにいうと、リョウは、
「あーあ、ぜんぜんわかってねえんだなぁ」
 椅子の上で背中をそらして、う~んと伸びをした。
 リョウの制服の夏服の袖から、黒くて短い毛が、何本も顔をのぞかせた。
 胸も、腕も、顔も、首も、ほどよく日に焼けて褐色になっていたけど、その部分だけは、うっすらと肌の色が違って見える。
 ぼくはそれがまぶしくて、目をそむけた。
「隆之には、深刻になることがないのか」
「深刻になること?」
 ぼくは少し、言葉に詰まった。
 確かにぼくには、ここ最近、真剣になることも、深刻になることもないような気がしたのだ。
 塚田との殴りあいも、結局のところ、向こうから殴りかかってきたのであって、こっちから仕掛けていったわけじゃない。
 茂の中間試験の結果が良くて、それをネタにイジメられてた茂をかばったのも、ほとんど成り行きみたいなものだった。
 ぼくは確かに、真剣でもないし、深刻さにも欠けていた。
「ヘンなこといったな、悪い、隆之」
 リョウは肩をすくめて、気が抜けたようにあいまいに笑って、勢いをつけて立ち上がった。
「帰るよ。すまなかったな、急に押しかけて来て」
「リョウ、その相手って、誰さ」
 玄関まで送るためにいっしょに立ち上がりながら、ぼくは申し訳なくなって訊いてみた。
 なんとなく聞きたくない、関わりあいになりたくないと思うあまり、少し冷淡だったかもしれない。
 返事がないので、いいたくないのだろうとホッとしていると、ふすまの前まで来たところで、リョウはふいに振り返り、誰かの名前を口にした。
「えっ?誰だって?」
 声が小さくて、よく聞き取れなくて訊き返すと、リョウはハッキリと繰り返した。
「同じ水泳部の、岡本浩だよ」
「岡本って、4組の……!?だってあれ、男だろっ!!」
 最初、リョウはからかっているのだと思った。でも、その表情はどこまでも深刻なもので、冗談めいた素振りもない。
 ぼくは愕然となった。
 舌の根の奥のところが、引きつったみたいに痛く感じた。
「そうさ。岡本浩は、男さ。隆之もあいつのこと、ある程度なら、知ってるだろ」
「……、ああ、知ってる」
「わりと有名人だもんな、うちの学年じゃ。去年のインターハイに、1年生ながら出場して、3位に入ったもんな」
「このこと、誰かに話したのか。例えば、同じ水泳部の、雄太にとか」
「いいや。いえるわけないさ、こんな深刻なこと」
「そう、だよな……」
「でも、勘のいい雄太のことだから、もう気づいてるんじゃないのかな。何もいわないのは、たいしたことじゃないと思ってるからだと思う、たぶん。だけど、いいよ。隆之になぐさめてもらおうと思った、俺が甘かったんだ。このこと、誰にもいうなよな。お前だからしゃべったことなんだし」
 最後には早川亮輔らしい戦闘的な調子を取り戻して、リョウは元気に手を振りながら、俺の家を出て行った。
 リョウを見送ってから、部屋に戻ってベッドに寝転ぶと、急速にカルピス・ハイの酔いがまわってきたようだった。
 心臓がドキドキして、頬の辺りが熱い。
 高い天井がゆったりと、波打っているように見える。
 ぼくは目をつむった。
 いま帰ったばかりのリョウのことが、少し憎らしかった。
 同じ部の雄太や同じクラスの友弘には相談せずに、ぼくにだけこっそりとこういう話をするというのは、やっぱり、どう考えてもフェアじゃない。それこそ、“主役の男優が、煮え切らない恋人にハッパをかけるために、わざと別のオンナの話をしたり、その気もないのにつきあってみせるパターン”じゃないか。
 水泳部の岡本浩が何をいったにしろ、わざわざぼくの家に来て、相談するほどのこととも思えない。
 まして、あんなふうに思いつめた目をして、
「隆之には、深刻になることがないのか」
 などと訊かなくともいいはずなのに。
 リョウは、なんでもマジに受け止めすぎるんだ、とイライラしながら、ぼくは起き上がって、リョウがちょっと口をつけただけで飲み残したカルピス・ハイを、ひと息に飲んだ。
 カルピス・ハイの氷はとっくに溶けて、ひどくまずくて、ますます腹が立ってきた。
 正直なところ、ぼくはリョウの話に、かなり動揺していたのだ。
 岡本浩という男のことを、ぼくはたぶん、リョウ以上に知っていた。
 とてもよく知っていて、ぼくにしては珍しいくらい、彼に好意をもっていたのだ。
「それにしても……」
 とぼくは、もう一度ベッドに転がった。
“他に好きな子がいるとかいうと、フツーなら引き下がってくれるもんじゃないか……”
 あの言葉を、ふいに思い出していたのだ。
“他に好きな子がいる……”とリョウはいったけど、そもそもあれは、本当のことなのだろうか。
 ぼくが岡本浩を知ったのは、いまから2週間ほど前のことだった。
 それをさらにさかのぼること1週間前、ぼくは珍しく風邪をこじらせて、学校を休んでしまった。くしくも、それは中間テストの当日だった。
 だから当然、テストは受けられなかった。
 これでテスト1回分がサボれたと喜んでいたら、振り替え追試というものがあって、ガッカリさせられた。
 各教科で赤点を取った連中は、それぞれの教科の追試を受けることになっている。
 ぼくはそういう連中に混じって、全教科の追試を受けるよう、担任に申し渡された。でないと、成績表がつけられないと脅かされたのだ。
 追試の1日目の放課後、ぼくはいちばん乗りのつもりで、物理準備室に行った。
 ドアを開けると、準備室の真ん中の机に向かって、参考書を読んでいる先客がいた。
「えっ、岡本……?」
 気配を感じて振り返った彼を見て、ぼくは心底、驚いた。
 そいつが、岡本浩だったのだ。
 うちの高校は、試験後に、試験の総合ランキングを上位百番まで貼り出すという、えげつないことをやる。
 あんまり露骨なので、ぼくらはオリコン発表なんて、冗談でいっている。
 しかも課目別のランキングも30番まで貼り出すという念の入れようで、誰が、どの課目の覇者かということまで、一目瞭然になる。
 ほんとうに逃げ場もないくらい、ハッキリとランキングされてしまうのだ。
 総合席次や課目別席次の発表のたびに上位にランキングされる生徒は、ほとんど常連といっていいくらい、おなじみの連中ばかりだった。特にトップ10位くらいは、ほとんど不動といっていいメンツだった。
 1年の時から、試験後に貼り出されるランキング発表のたびに、トップ・リーダーの座に燦然と輝く名前を見ていれば、そいつとつきあいはなくとも、誰だって名前くらいは記憶してしまう。
 たぶん、岡本浩は、誰にとっても、そういう生徒だった。
 ぼくが彼の顔を覚えていたのは、たまたま1年の生徒集会の時、インターハイの水泳競技に出場して優秀な成績を収めた彼が、これまた文部科学省主催の赤い羽根ポスター・コンテストで最優秀に選ばれたぼくと、偶然同じ体育館の舞台に立たされたからに過ぎない。
 もちろん、同じ舞台に立って表彰を受けたとはいっても、まともに口をきいたこともなかった。
 生徒集会中は舞台の上に座らされ、表彰が終わるまでの間じゅう、ひと言も私語が許されなかったからだった。
「お前も、追試なのか」
 たぶん、ぼくはよほど驚いた顔をしていたのだろう。
 岡本は、ちぇっと苦笑いした。
「もう、クラスのみんなに散々コケにされて、うんざりだよ。俺だって、追試くらい受けるさ」
「そうかもしれないけどさ。やっぱり意外だよな。どうしたんだ、スランプなのか」
 ぼくはけっこう、本気の顔をしていたはずだ。
 スランプというのも散々いわれ尽くしているのか、岡本はさして気を悪くするふうでもなかった。
 それどころか、上機嫌といった感じで立ち上がり、ぼくの隣りの席に移ってきた。
「笹倉こそ、物理の追試なんて、珍しいじゃないか。課目別のオリコン・ランキングで、いつも上位に食い込んでるだろ」
 岡本は両肘をついて、ぼくの顔をのぞき込んできた。
 彼の口ぶりには、皮肉もイヤミもなく、むしろ楽しんでいるようなニュアンスさえあった。
「人は見かけによらないもんだぜ。俺は、笹倉みたいな家柄のヤツは、何があっても勉強だけはおろそかにするタイプじゃないと、そう思ってたんだけどな」
「じゃあ、例えばどんなタイプなんだよ、ぼくは」
「ウサン臭い」
 岡本はマジメくさった顔でいった。
「笹倉のこと、なんとなくだけど覚えてたのは、きっとその所為だな。なんか、目障りなヤツがいるなァっと思ってたんだ」
「目障りってか。どうせぼくは、嫌われる運命だよ」
 ぼくはため息まじりにボヤいた。
 万人に好かれたいとは思わないにしても、ほとんど話もしたことがない人間にこんなことをいわれると、自分に何か欠陥があるんじゃないかと、暗い気持ちになってくる。
 正直にそういうと、岡本はとんでもないというように笑った。
「俺が、笹倉を目障りだといったのは、別に深い意味はないよ。ただ、部活もやらずにふわふわ遊んでるように見えて、いざ本気を出したら、スポーツでも勉強でも、俄然いい成績残しそうだからさ。いままで必死に部活と勉強を両立させてきた俺みたいなのは、笹倉みたいなタイプがいちばんダメなんだ」
「へえ。そういうもんかな」
「ああ。それと、いまは勉強そっちのけで、部活オンリーでガンバってるヤツも怖いな。3年になってからの追い上げが、怖い。余力があるからな」
「ハッキリしてて、いっそ気持ちがいいな、そういう考え方」
「結果でしかものを見れないんだよ。人に対しても、つい結果ですべてを判断してしまうようなところがあるし」
 岡本はあっさりといい捨てて、屈託なく、ニッと笑った。
 ぼくは岡本のスポーツ・マン然とした素直さに、すっかり感心してしまった。
 岡本自身、決して勉強一筋のガリ勉じゃない。水泳だってそうだ。他の部員たちの何倍も努力して、インターハイで3位という実績を残している。いや、彼がほんとうに人の何倍も努力したのかどうか、ぼくにはわからない。でも、凛とした底力のようなものが感じられた。
 自分を英雄視せず、何者にも動じない、ゆったりとした度量の広さのようなものがあって、ぼくは少しばかり圧倒された。
「岡本はもう、将来のことなんか、いろいろと考えてるんだろうな」
 ぼくはひどく月並みなことを、もごもごといった。
 岡本はサッパリとしたなかなかいいヤツで、彼と話すのは楽しかったけれど、学年でもトップ・クラスの秀才だと思うと、他に話題も浮かばなかった。
「俺か」
 岡本は笑いだした。ひどくビックリしたような顔だった。
「何も考えてないさ。俺って、いま目の前にあるものしか見えないタイプなんだ」
「そういうの、聞いたことあるよ。考えない才能っていうんだ。出世するのは、そういうタイプだっていうぞ」
「じゃあ、その才能も、そろそろ枯渇してきたかなあ。2年になって、最近、いろいろと思うところがあってな」
「それで、物理の中間、落としたのか」
「ちょっと違うな、それは」
 岡本浩はニヤリと笑って、そうかと思うと、ふいに両手でパッと顔面を覆ったので、ぼくはギョッとなった。
「いててて……」
 岡本はうめきながら、左手で顔を覆ったまま、右手で夏服の胸ポケットをごそごそさせた。
 ポケットから取り出したのは、オンナがよく電車の中でのぞき込んでる、安手のコンパクトのようなプラスチック・ケースだった。
 彼は下をうつむいて、左手で目の辺りを触っていたかと思うと、小さなガラス板みたいなものを、指でつまみ出した。コンタクト・レンズだった。
 ゴツゴツした男の指につままれたコンタクト・レンズは、まるでチリかゴミのようだった。
「お前、コンタクト入れてるのか」
 ぼくは唖然として、彼が不器用そうにプラスチック・ケースに納めるのを見守った。
 岡本の両目は充血して、真っ赤だった。
「いつから使ってんだよ、それ」
 ぼくは1年の時に、岡本がメガネをかけていたのかどうか、思い出そうとした。
 けれど、メガネをかけていたような気もするし、かけていなかったような気もして、よくわからなかった。
「2年になってから、コンタクトにしてみたんだけど、どうも調子がよくなくてさ」
 岡本はしょんぼりといった。
「やめろよ。けっこう夜中まで、勉強してるんだろ。目が疲れて、ますます視力によくないぜ。クラスの連中も、あきれてるだろ」
 ぼくは笑いをかみ殺しながら、岡本の背中を、軽く小突いた。
 岡本は両手の人差し指と中指をそろえて、 瞼の付け根をくりくりと揉みながら、
「水泳部の連中はともかく、クラスのヤツらは誰も、俺がメガネからコンタクトに変えたの、気づいてないんだろ。男子校ってのは孤独だ、くそっ。男子校なんかで優等生になったって、なんの得もないんだぞ、笹倉」
 面白くなさそうにブツブツいったかと思うと、パッと指をはなして、目を開けた。
 その目がイタズラっぽく笑っているのを見て、ぼくはいっぺんに、岡本が好きになった。
 秀才のわりに、さすがにガッシリとした体格をしていて、しかも秀才というだけでは惜しいほどの整った顔立ちをしている。そのくせ、充血して腫れ上がった目は頼りないガキのようにも見えて、そのアンバランスなところが妙に魅力的なのだった。
 物理の追試のあと、生徒玄関で靴に履き替えていると、
「おい」
 岡本が追って来た。
「そこまでいっしょに行こうや。俺、バスだから、バス停まで」
「おう」
 岡本も、ぼくと気が合ったようだった。ぼくらは肩を並べて、玄関を出た。
「俺、好きな子がいるんだよな」
 グラウンドで練習している野球部員たちをボンヤリ眺めながら、校門に向かっていると、ふいに隣りを歩いていた岡本が、ぼそりといった。
「笹倉は、どうなんだよ。いるのか」
「うーん、まあ、そうだな」
 岡本の口ぶりがあんまり自然なので、気がつくと、ぼくは釣られたように相槌を打っていた。
 相槌を打ってから、ぼくはかなり強引に、中道茂の気丈そうな横顔を思い浮かべた。
 すると、ひどく緊張して、顔が赤らむのがわかった。
 岡本は笑いだした。
「笹倉って、純情なのな。見かけによらず」
「お前こそ、コンタクトに変えたのは、色気づいたからなんだろ」
「いや、まあ、それはそうだけど。これはまあ、ものは試しってヤツだ。追試のほうだな、どっちかっていうと」
「追試がどうしたんだ」
 岡本は照れたように笑って、ナイショ話をするように声をひそめた。
「そいつに打ち明けたんだけど、ぜんぜん本気にしないんだ。『きゃー、犯されるぅ~!岡本みたいなデカチンにそんなこといわれたら、アソコが濡れてきちゃう~!』だとさ」
 ぼくは思わず吹きだした。
「ひでえオンナだなあ、そりゃ」
 その子が無神経だとはいわないけれど、いうかよフツー、女の子がそこまで。
 まるで本気にされなかった岡本の茫然とする顔が思い浮かぶようで、たまらなくおかしかった。
「い、いや、オンナっていうか、その……。まあ、……なんだよなァ」
 ちぇっ、と岡本は、小さくうなった。
「笹倉はいいよな。好きだとひと言いえば、話がすぐに進展するんだろ。何しろ名のある華道の家柄なんだし。俺の場合、冗談なんかじゃないってこと、まず証明して見せなきゃならないんだからな。世の中ってほんとに、不公平に出来てるよ」
「ふぅん。秀才は秀才なりに、いろいろと苦労があるもんなんだな」
「ああ」
 岡本は真面目な顔で、こくりとうなづいた。
「で、その場の勢いで、『俺は本気だぜ、得意の物理で赤点ラインの29点取って見せるから、そしたら俺の誠意と努力を認めて、信じてくれ』と口走ったんだけど、ツライ話だよな。この時期に、赤点取るのは。うちの担任も物理のセンコーも、ノイローゼ寸前なんだとさ」
 ぼくはあきれて、笑いも引っ込んでしまって、思わず岡本の横顔をうかがった。
「お前、それで追試組に入ってたのか」
「ああ。よく考えれば、軽率だった。だけど、他にないだろ、証明する方法なんか」
 岡本は渋い顔でうなったかと思うと、自分でもおかしくなったのか、ひとりでゲラゲラと笑いだした。
 ぼくはもう言葉もなく、ただただ感心して、黙り込んだ。
 勉強やスポーツに一途なヤツは、そういうことにも一途になれるものなのだろうか。わからない。学年一の、秀才の考えることは。
 それにしても、告白の決め文句に赤点ラインの30点を1点だけ下まわる29点に設定したところに、彼の並々ならぬ根性と自信というものが感じられた。
 どこかで凡ミスをして、29点のはずが28点になるかもしれないという不安はなかったのか。
 テストの点数なんか、1点に至るまで自由自在に操作できるという自信がなければ、とても出てこない発想だった。
 コンタクト・レンズなんかでダマされてしまったけれど、岡本はやっぱり学年でもトップ・クラスの秀才だし、それにふさわしい自信をもっているのだと、ぼくは感じ入った。
 しかも、それほどの隠れた自信家でありながら、ちっともイヤミに感じさせないところが、岡本浩の、ほんとうにスゴイところかもしれない。
 ――――その子に証明する必要があった……。
 バス停の所で別れて、ひとりで家に向かいながら、岡本がこともなげにそういってのけたのを、ぼくは何度も心の中で繰り返した。
 ひどくインパクトのある言葉だった。
 もっとも、中道茂にはどんな証明も通用しないような気がしたし、ぼくには証明できるような器量もなかった。
 ぼくみたいな中途半端なヤツは、実は誰に対しても、何も証明できずに終わってしまうのかもしれない。
 中道茂にも、そして、リョウにも……。
 それに比べて、メガネからコンタクトにしたのを誰にも気づかれないような、貼り出された漢字の字体で名前を覚えられる岡本みたいなヤツが、実は粘り強く波状攻撃を繰り返して、好きな子も、受験も、何もかもを征服していくのかもしれないと、ぼくはその時、ぼんやりと考えた。
 たぶん、岡本のことが気に入って、とても好きになっていたのだろう。
 根拠などは何もなかったけれど、岡本浩はきっと、物理の追試を賭けた子を、うまく落とすだろうと予感して、岡本の健闘を密かに祈ったりもした。
 追試を賭けた相手がうちの高校の生徒で、まさかリョウ、早川亮輔だったとは、この時のぼくは、思ってもみなかった。
リョウがぼくの家に来て、ひどくあやふやな相談の仕方をしたことで、ぼくはすっかり混乱していた。
 リョウは自分では気づかずに、ぼくを厄介な立場に追い込んでしまったのだ。
 なんの根拠もないけれど、ぼくは、たぶん、かなり以前から、リョウのことが好きだった。
 高校に入ってからは、中道茂のことも、気になっていた。
 そして、岡本のことも、好きになりかけていたのだと思う。
 岡本とは、どこか、気の合うところがあった。
 ガラじゃないコンタクトも、物理の29点も、何もかもが、ぼくの中の何かを刺激した。岡本のおっとりした落ち着きは、彼がトップ・クラスのスイマーだという事実さえ、忘れさせた。
 たぶんぼくは、自分のいい加減さや小心さに、ひどくうんざりしているのだろう。
 だから岡本のような、ものに動じない個性みたいなものに惹かれてしまったのだろう。
 あの追試以来、ぼくらは廊下ですれ違うと、
「おう」
「やあ」
 と声を掛け合ったりするようになった。
 そういう時、彼は自分の目を指差して、ニヤッと笑う。
 クラスの誰もが気づかなかったコンタクトを知っているぼくに、敬意を表しているらしかった。
 そんなふうにして、雄太や友弘やリョウたちとは違ったつきあいが、岡本とは出来るように思っていた。
 その岡本と、リョウのことが原因で、モメたくはなかった。
 まったく、世の中はどうしてこう、厄介に出来ているのだろう。
 ぼくみたいな人間は、大いなる世の中の流れの前には、なすすべもないのだろうか……。

 リョウがぼくの家に来た翌日は、もう6月だった。
 朝起きると、母さんが玄関の石だたみに打ち水をしていた。
 濡れている石は涼しげだったけれど、昼前にはすっかり乾いてしまうだろう。
 暑さは相変わらずで、梅雨を前に、気の早い夏が始まろうとしていた。
 最悪の気分で学校に行ったぼくは、午前中の授業の時間をすべて費やして、あれこれ考え続けた。そして、昼休みになってから、覚悟を決めて岡本浩に会いに行った。
 岡本は、ぼくらの1組と同じ並びの、4組だった。
 開けっ放しの窓からのぞくと、彼は自分の席で、ひっそりと購買部の調理パンを食べていた。
「おい、岡本」
 声を張り上げると、彼は顔を上げて、
「おっ」
 というように口をすぼめ、席を立ってきた。
「よ、どうした」
 廊下に出て来た岡本は、メガネの端を右手で押さえて、ぼくを見た。
 その時になって、彼が黒ブチのボストン型メガネをしているのに気がついた。
「コンタクト、やめたのか」
「ああ。笹倉のいうとおり、目に合わないんだよ。目を、酷使してるからな」
 ぼくはわざとらしく、頭を後ろに引きぎみにして、じろじろと岡本の顔を見てやった。
「やっぱり、メガネが似合うな、お前は。利口そうに見える」
 確かにコンタクトの時よりも、メガネのほうが、岡本の顔をスッキリと見せていた。
 いかにも理工系に進みそうな、賢くて、ハンサムな、けれどスノッブには見えない、超俗的な秀才に見えた。
 ぼくはなんとなく、岡本から受けるイメージから、彼は法学部をめざすのではないかと思っていたのだけれど、何日かして、理工系が希望だというのをたまたま聞いていた。
「で、なんだよ。教室まで来るなんて、なんかあるのか」
 岡本はいやに、のんびりといった。
「ちょっとな。今日、放課後あたり、時間あるかな」
 岡本は、ちょっと眉を寄せた。
「放課後はマズイ。歯医者のアポがあるんだ。いまじゃ、ダメか?」
「うーん」
 ぼくはうなった。
 岡本に何をいうつもりなのか、まだ順序だてて考えていたわけでもなかったので、いますぐといわれると、なんとも返事のしようがない。
 ぼくが口ごもっているのを、どう受け取ったのか、
「暗そうな顔してんな。こんなんで放課後まで、お預け食らうのもいやだから、いま聞くよ」
 岡本は顎をしゃくるようにして、4組の教室の斜め向かいにある講堂に、さっさと歩いて行った。
 講堂は、校舎の2階にあった。
 講堂の真下は職員の駐車場になっていて、校舎が建てられた十数年前は、確かに講堂として使われていたはずだった。
 けれど時代も変わってきて、新しい体育館が出来たいまでは、ひどくあいまいなフリー・スペースになっている。例えば、新入生の部活動勧誘とか、身体測定とか、そういった各種行事に使われる時以外は、いつも空いているスペースなので、昼休みは2年生専用のたまり場みたいになっている。
 放課後には、各部の争奪戦の末に、いくつかの部に分割使用されているらしい。
 いつだったか放課後に講堂の前を通りかかった時、卓球部とレスリング部が、仲よく半分っこして使っているのを見たことがある。
 かつてはマイクやパイプ椅子なんかをしまっておいた用具室は、いまでは軽音楽部の連中が占拠して、放課後になると2階じゅうに電気音をまき散らしている。
 昼休みのいまも、卓球台を引っ張り出してきて、腹ごなしにひと勝負やっているのが数人いた。
 あとは、なぜかバレーボールをやっている健全グループと、それに何をやっているのかわからない連中もうろうろして、かなりの盛況だった。
 ただし、当たり前の話だけれど、いるのは男ばかりで、ひどく殺バツとして見えた。
「みんな、ウソみたいに元気だな。男子校って、どこもこんなもんかな」
「受験校の悲しささ。溜まってんだろ、いろんな鬱憤がさ」
 ぼくらはぶつぶついいながら、演壇のほうに歩いて行った。
 なぜかというと、そこだけ、空いていたからだ。
 岡本はヨイショッと声をかけて演壇に上がり、幕が下りている隅っこのところに、じかに腰を下ろした。
 ぼくも同じことをして岡本の隣りにすわり、ふたりはなんとなく、幕の陰から講堂じゅうを見渡すことになった。
 窓を開け放していても、天井の低い講堂には熱気がこもり、夏服の下はうっすらと汗をかき始めていた。
「なんだか、いいづらそうなことらしいな。なんだよ」
 岡本が、前を見たままで催促した。
 気持ちの切り替えが早いのは、頭のいい人間の特徴かもしれない。岡本はすっかり、話を聞く態勢になっていた。
「岡本はさ、あの物理の追試の時、ぼくのこと知ってたのか」
 ぼくは咳払いをして、いった。
「なんだよ、それ。どういうことだ」
 思ってもみなかった質問らしく、岡本はわけがわからないというように、首をねじって、ぼくの顔をのぞき込んだ。
「お前の名前とカオは、1年の時から知っていたけど、それがどうかしたのか」
「つまり、ぼくが2組の早川亮輔の、中学ん時からの、その……友だちだってことを知っていたのかってことだよ」
「えっ……」
 岡本が答えなくとも、ぼくはすぐ、それが初耳であることを悟った。
 彼はほんとうに驚いたらしく、すぐには声も出ないといった感じだった。
 でも、ぼくは心底、ホッとした。
 もし岡本が、ぼくがリョウの友人だと知っていて、それでぼくに気安く話しかけてきたのだったら、困ると。
 ダシにされたと怒るつもりはないけれど、ぼくは岡本に、どんな種類の協力も、手助けも出来そうにない。期待されては、困るのだ。
 彼が、ぼくに期待していないのなら、それでいい。
 ぼくは、岡本の反応だけで、満足だった。
 しかし、当然ながら岡本のほうは、そうはいかないようだった。
 彼は前髪をかき上げて、ぼくを眺めた。
「お前、そうなのか」
「うん。リョウとは同じ中学で、ずっとグループでつるんでた。いまでもたまにいっしょに帰ったりするから、もしかしたら、お前も知ってたんじゃないかと思ってさ」
 知らなかったのならいいんだ、という含みをもたせたつもりだったが、岡本は気がつかないのか、気がついていても、ぼくのペースに乗るつもりはないのか、まだ、ぼくを見ていた。
 しばらくして、岡本はちぇっと舌打ちして、笑った。
「俺、この学校で、水泳部員以外、友だちってのがいないんだよ。勉強と水泳が第一で、2年になってからも、まだクラスの連中の名前とカオが、一致しないヤツもいるし。こんなふうに話すの、笹倉が初めてなんだ、ほんとに」
 岡本は熱心にいった。
 ぼくはうなずきながら、なんだか女の子に口説かれているような気がして、落ち着かなかった。
「だから、早川が、水泳部以外で誰と仲がいいのかなんてのも、ぜんぜん知らないんだよ」
「うん」
 いかにも岡本らしくて、ぼくは素直にうなずいた。
「お前のことだから、そうじゃないかとは思ってたんだけどさ。ただ、常識で考えると、まあ、好きなヤツの情報収集ってのを、多かれ少なかれ、誰でもやるもんだし、もしかしたら知ってたのかなと思ってさ」
「好きなヤツってか。どこまで知ってんだよ、お前」
「どこまでってほどじゃないけど、リョウから、聞いたんだ」
「驚いたな」
 岡本は心底、面食らったように、ぼくを眺めた。そして、“お前らどういう関係なんだよ”とでもいうように、小さく目をしばたいて、深いため息をついた。
「知られたんなら、仕方がない。俺の場合、情報提供者ってのが、ひとりもいないんだよ」
 岡本は屈託なく、笑いだした。
 なんとなくつられて、ぼくも笑った。
 まったく、岡本というヤツは、どこか気に入るところがある。ぼくに、リョウとのことを知られても、驚きこそすれ、顔色ひとつ変えようとしない。
 そんな正々堂々としたところが、ぼくの岡本への信頼度を、いっそう強めた。
「まあ、くだらないこといったよな。忘れてくれ」
 ぼくは用件をいい終えて、その場に立ち上がろうとした。
「ちょっと待てよ、笹倉」
 床についたぼくの手を、岡本がグイッとつかんだ。
「そういう重大なこと、一方的にしゃべっといて、さっさと帰るってか」
「知らなかったんなら、それでいいんだよ。これまでどおりだからさ」
「そうはいかないよ」
 岡本はふいに体を横にいざらせて、ぼくに近づいた。
「いろいろ聞かせろよ。こっちも確かめたいこと、あるし」
「確かめたいこと?」
「ああ。早川は、好きなヤツがいるっていったんだ。もう、好きな人がいる、とかなんとか」
「……うん」
「それ、もしかしてお前か、笹倉」
 岡本は単刀直入に切り込んできた。
 そのくせ、彼らしい穏やかな訊き方で、あせったり、感情ムキだしというのとは違う、和やかな態度だった。
 そういう態度のヤツには、ノー・コメントで押し切るのはいかにも子供じみていて、イヤだった。
「それは、ぼくじゃないと思う」
「なぜ、そう思うんだ」
 そういった岡本の目は、真剣そのものだった。ウソを見透かす、鋭い目をしていた。
 ぼくは息を吸い込んで、いった。
「いまんとこ、ぼくがリョウに……同性に、興味がないからさ」
「それ、証明できるか、俺に」
「証明?どうやって」
「簡単だ。笹倉……」
 ふいに、岡本はメガネを外した。
 ごつごつした彼の手が、ぼくの肩をガシッとつかんだ。
「お前のいうことが本当かどうか、確かめてやる」
 そういい終えたとたん、ぼくはものすごい力で、演壇の床に押し倒された。
「な、何をする気だ、岡本」
 ぼくが叫んだのと、彼が上にのしかかってきたのとは、ほとんど同時だった。
 上背のある岡本は、水泳で鍛え上げたその太い腕でぼくの体を緊縛すると、演壇の上をごろごろと2、3回横転して転がり、一瞬ののちには、ぼくらは演壇の垂れ幕の裏側に来ていた。そしてそこは、ちょうど講堂にいる連中からは、死角になる場所だった。
 さすがに、ちょっとヤバイな――――
 ぼくは危険を感じて、とっさに身をよじった。
 床に足を踏ん張って、なんとかして岡本の腕をふりほどこうと頑張ったのだけれど、やっぱりダメだった。力に差が、ありすぎる。
 所詮、ぼくは帰宅部だ。帰宅部ごときが何をしようと、本気をだしたトップ・スイマーに、かなうはずがない。
 ぼくはただ茫然と目を見開いて、全身を硬直させるばかりだ。
「逃がさないぜ、笹倉。同性に興味がないというんなら、それをここで証明して見せろよ」
 岡本は額が触れるくらいに顔を近づけて、ぼくの顔をじっとのぞき込んでいた。
「バカな、どうやって証明するんだ、そんなもん」
「こうするのさ」
 いきなり、岡本の顔が上から降ってきた。
 やべっ!と思った時には遅くて、ぼくの唇は無情にも、岡本によって奪われたあとだった。
 ……一瞬、時間が止まったように感じた。
 それまで騒がしかった講堂じゅうの音がぜんぶ消えて、トクトクと、心臓の音だけが聞こえていた。
 いったい何が起きたのか、それを理解するのに、しばらく時間が必要なほど、頭の中が混乱していた。
 目の前にいるのは、岡本浩だ。
 学年でもトップ・クラスの秀才で、ハンサムで、泳ぎが上手くて、リョウに好きだと打ち明けた、あの岡本浩だ。
 その岡本が、ぼくを抱きしめ、ぼくの唇を奪っている。
 ぼくは、必死に考えた。これは、夢ではないだろうか。夢なら、すぐに醒めて欲しかった。
 でも、しっとりと濡れた岡本の唇は、やけになまなましく、そしてリアルだった。
 いったい、どれくらいの時間、そうしていたのだろう。
 ふいに、岡本が口を離した。
「勃たないんだな、笹倉」
 岡本の手が、ごそごそとぼくのズボンの前をまさぐっている。
「勃つわけ、ないだろ。男にキスされて、なんでソコが勃つんだ」
 ぼくは喉の奥から声を絞り出すようにして、やっと、それだけをいった。
 でも、ぼくは本当は、自分の股間が少しだけ勃ち始めているのを悟っていた。
 そんなふうにして、他人の手で触れられるのはめったにないので、どうにも体が、反応しかけてしまったらしい。
 そのままではヤバそうなので、彼の手を払おうと思った刹那、
「どうやら、同性に興味がないってのは、本当のことらしいな」
 タイミングよく、彼の手がズボンから離れたので、ぼくは心底、ホッとした。
 胸が苦しくて、ぼくが少し身じろぎすると、岡本のシャツの内側から、汗ばんだ彼の体臭がした。
 真夏のプール・サイドを思わせる、塩素のようなニオイだった。
「おい、岡本、どうでもいいけど、ぼくの上から降りてくれないか。胸が窮屈で、息苦しいんだよ」
「あ……すまん」
 岡本は急いで起き上がり、ぼくを見下ろした。
 ぼくはなんとなく、彼と目を合わせる気になれなくて、ずっと横を向いていた。
「どうして、キスなんかしたんだ。リョウじゃなくても、よかったのか」
「キスくらい、誰とでも出来るさ」
 ぼくは驚いて、岡本を見上げた。
「相手が男でも、平気なのか」
「それは、自分でもわからないって」
 岡本は、本当にわからないらしくて、頭をブルブルと横に振った。
「でも、これだけはいえるな。俺は早川が好きだけど、笹倉も嫌いじゃない。それだけじゃ、理由になってないかな」
 ぼくの唇には、まだ彼の余熱が残っていた。
 ぼくのことが嫌いじゃなくて、リョウのことも好き、か。なんて優柔不断ないい方なんだ。そんなあやふやな気持ちで、リョウに好きだと、告白したのだろうか。
 だけど……――――。
 だけど、その気持ちは、なんとなくわかる気がした。
 ぼくはいま、リョウのことが好きで、中道茂のことも、気になっている。
 それこそいまの岡本と、似たような心境にあるのではないのか。
 岡本のように、実際に相手に告白したり、キスしたりする勇気がないだけで、ほんとうは彼と同じ立場にあるのではないだろうかと、ぼくはふいに、考え込んでしまった。
 いつも堂々としている岡本と、何事にも真剣になれずにいるぼくとの違いは、そういった積極性のあるなしや、正直さ、素直さにあるように思える。
「怒ってるのか、笹倉」
 心配そうな声でいうので、ぼくはちらりと、彼を見上げた。
 ポケットのメガネに右手をやりながら、岡本は、ちょっと困ったような顔をしていた。
「許してくれ、なんていえる立場じゃないけど、許して欲しい。笹倉のこと、失いたくないんだ」
 岡本は、すまなさそうにいった。ぼくが何も答えないので、ますます心配になってきたらしい。
 ぼくは意地悪そうに、じろじろと彼を眺めた。
 男ばかりの環境で、年頃の男ばかりが棲息する男子校だ。こんなことのひとつやふたつ、あっても不思議じゃないのかもしれない。
 本来なら、絶交してしかるべきところだけれど、こちらとしても、こんなことで彼を失いたくはなかった。
「別に……いいよ、忘れるから。なかったことに、してやるよ」
 キッパリとぼくがいうと、
「そうか、ありがたい」
 岡本はその時だけ、いかにも安心したらしく、ホッとした表情を見せた。
 ぼくはひと息ついてから、起き上がり、岡本に向き直った。
「リョウが好きだって相手のこと、そんなに気になるのか」
「ああ。気になるね、すごく」
「マジで疑ったのか。ぼくと、リョウのこと」
「早川は、普通じゃとても話せないようなこと、お前にしゃべったからな」
「ひとつ、いっとくけどな。リョウとは、長いつきあいでな。長くつきあってると、ルールってのが出来るだろ」
「なんだよ、ルールって」
「リョウとは、いい友だちでいたいからさ。ウソ隠しごとなく、なんでも話すようにしてるんだ。でも、話すだけで、それ以上のことには、絶対にかかわらないようにしてる」
「相談はしても、恋愛問題にはタッチしない、ってことか」
 岡本はさすがに察しが早くて、打てば響くように返していた。
 普通の人間も“恋愛問題”くらいの言葉は使うが、岡本がいうと“試験問題”とか“証明問題”といったニュアンスがあって、ぼくはなんとなく笑いだした。
 岡本は本当に、どこか、ぼくの気に入るものがあった。
「まあ、そういうことだよ。リョウが過去につきあってたヤツとか、知ってるけど、いま誰が好きなのかは、ほんとうに知らない。でも、知ってたとしても、リョウがいわないんなら、ぼくもいえないな。ついでにいうと、お前とリョウと、どっちを取るといわれたら、無条件で、リョウのほうなんだ。ぼくは案外、微妙な立場ってわけだよ。これがいちばん、頭が痛いんだ。お前のことで、リョウとモメたくないんだよ」
「なんだ、そうか。それが心配で、わざわざ来たのかよ」
 岡本はわかったわかったというように、おかしそうに口元をゆるめた。
「けっこう、神経が細かいんだな」
「ぼくは恋愛沙汰ごときで、リョウと気まずくなりたくないんだよ。岡本ともそうだけど、リョウとは、もっとこじれたくないんだ」
「経験ありげじゃないかよ」
 岡本はイヤミっぽくからかったものの、すぐに察して、それを口にした。
「つまり、俺とお前の間に、早川亮輔のことを持ち込むなってわけか」
「秀才ってのは、普通、こういうことには鈍感なはずなのにな。助かるよ」
 わざとらしく重々しくいうと、岡本は歯を見せて笑い、ぼくらは演壇から滑り降りた。
「けど、意外だったな」
 4組の教室の前で立ち止まって、岡本はズボンのポケットに両手を突っ込みながら、ぼくを振り返った。彼は少し、うれしそうだった。
「笹倉が、あんなにキスが上手いとは、思わなかった。お前、けっこう吸い込んできたもんな」
「バカいえ。吸い込んできたのはお前のほうだろ」
 ちょっとした軽口のつもりで、そういったのだけれど、口にしたとたん、たぶん、その通りだろうという気がした。
 少なくとも岡本は、積極的にぼくの唇を責め、ぼくも、それに応えようとしていたのかもしれない。
 そう思うぼくの気持ちを見透かすように、岡本はうなずいた。
「そうだな。夏休みに入ったら、俺の家に遊びに来いよ。早川を好きになったキッカケとか、そういうの、ノロケさせろよな。意外なところで会ってるんだ、これが」
 岡本が楽しそうにいうのを受け流して、ぼくは1組の教室に戻った。
 リョウとの“意外な出会い”なんか、聞きたくもなかった。
 リョウは、なんだかんだいっても、ぼくが初めていいなと思った、ナイショの“♂”なのだから。
教室に戻って、自分の席に腰を下ろすと、なんだか、どっと疲れが出てきて、ぼくはグリグリと首をまわした。
 岡本とは和やかに話していたはずなのに、やっぱり、気疲れしたみたいだった。
 キスされた時の感触が、まだいくらか、口の周りに残っている。それがくすぐったくて、指で唇をなぞっていると、目の前に、人の立つ気配がした。
 顔を上げると、すらりとタッパのある、中道茂が立っていた。
「ほらよ。これ、2組の早川亮輔が、さっき返しに来たんだ。お前が教室にいねぇから、代わりに預かっといてやったんだぞ」
「ああ、サンキュ」
 それは何日か前に、リョウに貸した英単語のノートだった。
 岡本のところに行っている間に、隠れた主役のリョウが来ていたというのも、偶然とはいえ奇妙な気がして、ぼくは肩をすくめた。
 中道茂は両肘を抱くようなかっこうで、まだぼくを見下ろしていた。
 立ち去る気配がなく、かといって話があるふうでもない様子で、ぼんやり立っている。
「突っ立ってるなら、座ったらどうなんだ」
 見下ろされるのは、あまりいい気分じゃないので、おざなりに声をかけた。
 意外にも茂は、
「おぅ」
 とうなづいて、素直にぼくの前の席に腰をおろした。
 そんな素直な茂は珍しくて、少し面食らった。
 きのう、彼をかばって塚田に反論した時も、
「誰が頼んだよ。よけいなことすんなよ」
 と、お礼のひと言もいわずに無愛想にしていたのに、どういう風の吹きまわしだろう。
「なんだか、落ち込んでるみてぇだな」
 それがうれしくてたまらないといった感じで、茂はぼくの顔をのぞき込んだ。
 そういうなれなれしい態度も珍しくて、わけがわからずにいると、
「なぁ、笹倉。4組の、岡本浩を、知ってっか?」
 唐突に、秘密めかしていった。
 ぼくはドキッとして、思わず茂を見返した。
 どうして中道茂が、岡本の名前を出すんだ。
 中道茂から岡本の名前を聞かされるとは思わなかったので、ぼくは返事をするのも忘れて、ポカンと口をあけて茂を眺めた。
 茂は値踏みするように、ぼくをじろじろ見たあげく、わざとらしく首をすくめた。
「その様子じゃ、とうに知ってるみてぇだな。なんだ、面白くねぇ。脅かしてやろうと思ったのによ」
「どうして、脅かそうと思ったんだ」
「ゴールデンウィークに、あの大秀才が、お前のまぶダチの早川を誘って映画を観た話とか、誘って断られた話とか、他にもいろいろ、耳にしたからな」
「いろいろって、なんだよ。リョウと岡本は同じ水泳部だし、いっしょに映画を観たり誘ったりするくらい、フツーじゃないか」
「けどな、岡本が早川を誘ったのは、1度や2度じゃねぇらしいぜ。それこそ、フツーならそこまで固執しないはずだろ」
「ふぅん、ヤケに詳しいじゃないか。いつ、どこで仕入れたんだよ、そんな噂」
「水泳部の顧問の滝沢から、プールの水質を調べるってんで、試験薬を持ってプールに来いって、頼まれた時にだ。俺、科学部に入ってるだろ。そん時に、早川と岡本がしゃべってんのを、聞いたんだ。更衣室んとこでな」
「水泳部の、更衣室か」
 ぼくはうなった。
 そんな噂は初耳だったが、放課後の、水泳部の更衣室という限られた場所の話題となると、ぼくの耳に入ってくる可能性は薄い。
 しかし、偶然にしろ、話を聞いて、ぼくにチャチャを入れに来るあたり、なかなか勘が鋭くて、ぼくは内心、平伏する思いだった。
「それで?その話とぼくと、どんな関係があるんだよ」
「そうだな。早川は最初、ふざけて、“もっと岡本と仲良くなって、勉強教えてもらって、学年トップの仲間入りでもしようかな~”とかなんとか、うれしそうに返してたみてぇだけど、映画の話題が出ると、とたんに暗い顔んなって、断わる口実、ブーたれてたみてぇだったな」
「へえー、あのリョウがね」
 あいまいに相槌を打ちながら、これはただならぬことだぞ、という気がして、ぼくは黙り込んだ。
 あのリョウが、ふざけるのを通り越して沈んでいるとなると、事態はまぎれもなく深刻なようだった。
 ふと、きのうのリョウを思い浮かべた。
 きのうのリョウは確かに、ブスッとしてるのを通り越して、何か悩んでいるようだった。
 あんなリョウを見るのは、初めてだった。
 ぼくは急に、不安になってきた。
 きのうリョウが相談に来た時、ぼくはちゃんと親身になって、きちんと話を聞くべきだったんじゃないだろうか。
 リョウのプライベートには関わり合いたくないと思うあまり、リョウの深刻さを茶化してしまったのは、間違っていたんじゃないか。
 リョウは本当に、岡本のことで悩んでいて、深刻にならざるを得ないような心境だったんじゃないのか。
 考えてみれば、ぼくは単純に、岡本がリョウのために赤点を取ってみせた度胸のよさに感心してしまったけれど、自分のために学年1、2の秀才が、わざと赤点を取るなどというのは、当の本人であるリョウにとっては、気が重いだけかもしれないのだ。
 しかし、リョウは、岡本に強引に押されたくらいでうじうじと悩む男ではないはずだ……。
 迷惑なら迷惑だと、その気がないならその気がないと、ハッキリいえる性格のはずなんだけど……と思うにつけて、岡本のことが気にかかってきた。
 何しろ彼は、愛を証明するためには、手段を選ばない男だ。
 ぼくがリョウとデキているのではないかと疑い、平気でキスまでやってのけるような男なのだ。
 もしかして岡本は、ぼくとリョウにとって、とてつもなく厄介な存在になっていくんじゃないだろうか。
 中学からなんとなく続いてきたぼくらの関係が、彼の出現によって、あらたな局面へと変えられてしまうんじゃないだろうか。
 だとしたら、ぼくは岡本を気に入っているなどと悠長なことをいっている場合じゃなく、実はぼくもリョウが好きなんだと告げて、断固として、彼にクギを刺しておくべきではなかったのか。
「心配そうだな、笹倉」
 あれこれと考えていると、茂の声がひどく近くで聞こえた。
 目を上げると、驚くほど近くに茂の顔があり、ギョッとなった。
 茂は額が触れるくらいに顔を寄せて、ぼくの顔を、意地悪そうにのぞき込んでいる。それは唐突に、先ほどの岡本を連想させて、ぼくは、ひどく気まずい感じになった。
「お前ってやっぱ、どっか、“早川の親衛隊やってます”って感じがするよな。“ぼくのリョウに何かあったら一大事”みてぇにな。そんなに、早川のことが大切なのか?」
「そんなこと、ないよ。それより、今日の放課後、時間あるのか?」
 ひと呼吸おいて、ぼくは用心深くいった。
 いいながら、さっき岡本を誘った時のセリフと同じだと、自分でもおかしかった。
 急の誘い言葉というと、これしか出てこない。
 茂はビックリしたように黙り、それから、にやにやと意味ありげに笑った。
「時間はあるぜ、たくさん」
「マックかなんか、食いに行かないか?」
「マックか。けど俺、ロッテのほうが、好みなんだけどな」
「ロッテリアでも、いいけどさ」
 うんざりして口ごもると、茂はすぐに、声をひそめて鼻で笑った。
「笹倉さ、なんで、俺を誘うんだよ」
「なんでって、ぼくはいちおう、お前をかばって塚田とケンカしたことになってるし、放課後にバーガーくらい、いいと思うんだけど」
 茂は頬杖をついて、ぼくに目を当てたまま、ゆっくりと首を振った。
「それは違うな、笹倉。なんで俺を誘う気になったか、当ててやろうか。ズバリ、笹倉は、岡本っていうダーク・ホースが現れたんで、こわがってるんだ」
「こわい?」
「早川亮輔を岡本に取られそうになって、あせってんだ。このままじゃ、自分に自信がもてねぇ、隠してる自分の気持ちを、ひょんなことから岡本か早川のどっちかにぶちまけそうで、それがこわいもんで、手っ取り早く、俺で手を打とうとしてんのさ」
「……どういう意味だよ、それ」
「ぜんぶいわなきゃ、わかんねぇかな。それとも、わかんねぇフリしてるだけなのか」
「なんだよ、ハッキリいえよ」
「お前は、早川亮輔を意識してる。お前は、早川亮輔のことが、好きなんだ。それは、たぶん、ツレとか、まぶダチとかいった領域を、超えてのことだな」
 それは、爆弾発言といってよかった。
 ぼくはビックリして、すぐには返す言葉が出なかった。
 それに得意になったかのように、茂は続けた。
「けど、なんでだか知らねえけど、笹倉は、早川亮輔にその気持ちを悟られたくねぇみてぇだな。いま、なんとなく、気がついちまったことだけどな」
 たたきつけるようにそういって、茂は乱暴な音を立てて、椅子から立ち上がった。
 ぼくを見下ろす茂の目は、怒りを含んで、とても凛としていた。
 ぼくはいままで、それほどまでに凛々しいカオの茂を見たことがないような気がした。
 どうしてだか中道茂は、怒ったり、感情的になったりした時に限って、ドキドキするほどいい男になる。
 隠し持った光源が、にわかに輝きだすように、ある時突然、カッコよくなる。
 中道茂は、ぼくのまわりにはひとりもいない、そういう特殊なタイプの男だった。
 そして、ぼくはこの時も、不謹慎にもドキドキしながら、中道茂を見返していた。
「笹倉は、早川亮輔が気に入ってるんだ」
 茂はモノ覚えの悪い弟に、決まりきった数学の定理を教え込むように、もう1度繰り返した。
 ぼくはようやく反論しなければならないことに気がついて、口ごもりながら、いった。
「それはちょっと、考えすぎだな。ぼくはリョウじゃなく、いまは、お前のほうに興味があるんだから」
 こういうケンカ腰みたいな場で、こんな決めのセリフを口にしなければならない自分の運命を、ぼくはつくづく、恨みたくなった。
「リョウは、関係ないよ」
「そうじゃねえだろ。それともマジで、俺に興味もってんのか?」
「うん」
「やっぱウソだな。お前は、口から出まかせいってんだ」
 茂はあっさりと、はねつけた。
「笹倉が俺に興味をもったんだとしたら、それは、自分が出来ないことをする俺が、うらやましいだけなんじゃねぇのか?」
 興味があるといわれても、茂は少しも感動した様子がなく、それどころか、ますますの怒りで、目元の辺りがぽぅーっと赤くなっていた。
 その迫力にのまれてしまって、ぼくは反論する気力を失いかけてしまった。
「俺は好きなヤツと嫌いなヤツがハッキリしてっからな。逆にお前は、どっちかってぇと、好きも嫌いもハッキリいえねぇタイプの人種だろ。笹倉は、俺がうらやましいんだ。だから、興味があるのさ。あげくにいまは、早川亮輔への気持ちを遠ざけるためだけに、俺を利用しようとしてる。まったく、腐った根性してやがる」
「―――腐った根性?」
「俺をかばって、塚田とケンカしたって?あれだっておんなじことじゃねぇか。俺に恩を着せといて、気を惹こうとしたに決まってる。本当に、計算高くて、イヤなヤツだぜ。俺のいちばん、嫌いなタイプだ」
 茂はいいたいことだけいってしまうと、くるりと背を向けて、さっさと自分の席に戻っていった。
 そして何事もなかったみたいに、机の中から日本史の教科書を取り出して、読み始めた。
 ぼくは唖然として、落ち着き払って本を読んでいる茂を、遠目に眺めた。
 茂のいったことは、あまりにも馬鹿げていた。
 バカバカしすぎて反論する気にもなれず、だから当然、反論しなかった。
 もちろん、ぼくはただちに、茂のところに駆けつけて行って、教科書を取り上げて、ふざけるなよと、その場で反論すべきだったのだ。
 なのに、ぼくはそうせずに、ただボンヤリと、怒りに満ちてひどく凛々しく見える茂に、見惚れていただけだったのだ。
 おかげで、この夏の間じゅう、ぼくはひどく後悔した。
 なぜなら、この時、茂が投げつけた言葉の数々が、いまでも耳の奥に残って、ずっと、ぼくを悩ませたからだ。
 ―――お前は、早川亮輔を意識してる。早川亮輔のことが、好きなんだ。けど、なんでだか知らねえけど、早川亮輔にその気持ちを悟られたくねぇみてぇだな。笹倉は、岡本っていうダーク・ホースが現れたんで、こわがってるんだ。早川亮輔を岡本に取られそうになって、あせってんだ。このままじゃ、自分に自信がもてねぇ、隠してる自分の気持ちを、ひょんなことから岡本か早川のどっちかにぶちまけそうで、それがこわいもんで、手っ取り早く、俺で手を打とうとしてんのさ。本当に、計算高くて、イヤなヤツだぜ。俺のいちばん、嫌いなタイプだ。
 茂の爆弾発言は、二重の意味で、ぼくに瀕死の重傷を負わせた。
 そうではないんだと、ぼくはリョウのことなんか、友だち以上にはなんとも思っていないのだと反論するには、何かが足りなかった。ごまかし切るだけの勇気が、なかった。
 そして中道茂は、さらに断言した。
 イヤなヤツだと。いちばん、嫌いなタイプだと。腐った根性をしている、と……―――。
 救いは、どこにもなかった。
 ぼくは夏休みまでの残る日々を、絶望的な気持ちで、なるべく中道茂と顔を合わせないようにして、教室の隅で、息をひそめて棲息していた。
 いまのぼくにとって、誰かを好きになるのは、そう重要なことじゃない。物理のテストの30点以下、29点の価値ほどしかないのだと、自分自身にいい聞かせながら、ひっそりと棲息していた。
 それでもやっぱり、ぼくは瀕死のダメージを受けていた……。
 ぼくは本当に、リョウのことが好きで、中道茂のことが好きだった。
 そして、あの岡本浩のことも……。
 それらのことを証明するためには、もう少し、時間が必要なのだと、自分にいい聞かせた。

同じクラスの遠藤雄太から、突然呼び出しを受けたのは、夏休みに入った翌日だった。
「ちょっと話があるんだ。俺んちまで来れないか?」
 朝の8時過ぎに電話でたたき起こされて、不機嫌だったぼくは、眠気も吹き飛んだ思いで訊き返した。
「来れないって、今日、これから?」
「当たり前だろ。1年後に来いって電話を、今日かけると思うのかよ」
 雄太は、けんもほろろにいった。
 いかにも雄太らしいいい方だったけれど、ぼくにとっては、あんまりいい徴候とはいえなかった。
 ぼくは用心深くいった。
「いいよ。いつ頃がいい?」
「お前、午前中はいつもボーッとしてて、まったく役に立たないからな。昼からでもいいぜ。2時くらいなら、どうだ?」
「うん」
 とぼくが返事をするかしないかのうちに、雄太はブチッ、と電話を切った。
 相変わらずの切り方だった。
 雄太の電話の切り方については、かなり前に、少し問題になったことがある。
 中学の頃、緊急電話連絡網というのがあった。
 例えば、遠足とか体育大会とかの当日、雨天中止の連絡なんかを、クラスの出席番号1番か、班の班長に連絡する。すると、あとは順ぐりに、伝言ゲームの要領で、生徒同士で電話をかけつないでいくあれだ。
 遠藤雄太というのは、実はぼくの父方の“イトコ”にあたる同級生で、スポーツはわりとなんでもこなすし、肌は色黒で、顔立ちも男っぽいワイルド系なので、クラスのほとんどの女子のあこがれだった。だから、同じ班で雄太の家に連絡する順番の女の子は、連絡事項が出来るのを、ひそかに心待ちにしていたらしい。
 ところが、雄太は、電話連絡があると、
「おぅ、わかった。じゃ」
 という、とてつもなく短い会話で用を済ませてしまい、期待にうちふるえている女子の耳元にブチッ、と無情な音を響かせるのだった。
 受話器をたたきつけるとまではいわないが、それに近い切り方をする。
 それは、電話で雄太に交際を申し込む勇気ある連中にも、同じだったらしい。
 ぼくにはまったく関係ないのに、
「笹倉くんのイトコだけどね。何よ、あれ。ちょっと冷た過ぎるんじゃない?」
 と傷ついた少女たちに、恨みがましく文句をいわれたりした。
 しかし、それこそ八つ当たりというものだ。雄太は自分にいい寄る女の子だけに冷たいのではなく、イトコのぼくにも、同じ仕打ちをするのだ。
 雄太はめったに、ぼく自身に用事があって電話をかけてくることはないし、かけてきたとしても、たいていは母さんやお家元(父親)への用事で電話してくるのだが、
「じゃ、あとよろしく」
 というが早いか、ブチッ、とくる。
 いつだったか、そういう無情な電話の切り方について、恐る恐る善処を申し入れたことがあった。
 雄太はあっさりと、
「くだらないな」
 言下にいった。
「俺は、電話は基本的に通信手段としか思ってないんだ。用件をいう。相手が受ける。それでいいじゃないか」
「でも、普通は相手が切るのを待つというか、少し呼吸をおいてから切るとか、そういうこと、したほうがいいんじゃないのかな。世間的なエチケットからすると」
「その論理は、メビウスの輪だな。双方が切るのを待ってたら、いつまで経っても、切れないじゃないか。それに、電話のあっちとこっちで、いち、にの、さん、で電話を切ることに、どういう意味があるんだ。俺はな、赤信号、みんなで渡れば怖くないってのが嫌いなんだ。渡りたいヤツは、赤だろうが黄色だろうが、車にひかれるのを覚悟で渡ればいいんだし、ルールを守りたいヤツは、青になるまで待ってりゃいいんだ」
 電話の切り方を話題にしている時に、どうして突如として“あるべき信号の渡り方”に話が及ぶのかが、ぼくには永遠の謎なんだが、ともかく、雄太はそういった。
 ぼくが不服そうな顔をしているのを見て、雄太はまたも、いった。
「あのな、隆之。常識で、俺にうだうだいうのは、やめてくれ。自分の意見をいうのに、“常識だから”で逃げるのは、卑怯というもんだぜ。“ぼくは、お前の電話の切り方が気に入らない”といったほうが、よほどスッキリする」
「で、もしぼくがそういったら、お前はなんといい返すつもりなんだよ」
 さすがにムッとして睨みつけると、雄太は唇の端を少しだけ吊り上げて、ニヤっと笑った。
「“男が自分の好みを押しつけていいのは、寝室で楽しんだ相手だけだぜ”。そういってやるのさ、隆之」
 それで、この件に関してはおしまいだった。
 つまり、ぼくの負けだったのだ。
 イトコの雄太とは、いつもこの調子だった。
 別にケンカするとか、そういうことではない。
 これは、ケンカとは違う次元の問題だった。
 ぼくはたいてい雄太にいい負かされるけれど、かといって、いい負かされて怒りのあまり眠れなくなる、というようなことはない。
 なぜなら、とにもかくにも、雄太はぼくに愛情をもって接してくれているわけだから。
 なぜ愛情をもっているのがわかるかというと、ちゃんとぼくに口をきいてくれるからだ。
 文章にすれば、2行以上はしゃべっている計算になる。それは、無口を男の美学と信じている雄太にとっては、スゴイことなのだ。奇跡といってもいい。
 それにしても、いったいどこから出てくるのだろう。“寝室で楽しんだ相手だけだ”なんてセリフは。
 もしかしたら雄太は、ぼくはもちろん、同じ水泳部のまぶダチであるリョウでさえ知らないところで、女子大生か人妻あたりと援交でもやっているのではないかという疑問を、ぼくはひそかに抱いている。
 さらにいえば、彼のあのふてぶてしいほどの自信や落ち着きは、既にもう、ドーテーを捨ててしまっているのではないかという疑問もまた、完全には打ち消すことが出来ないでいる。
 奇特な相手は、誰だろう。
 願わくば、ぼくの知らない人であって欲しい。
 でないと、ぼくは生涯、その人に尊敬と、コンプレックスを抱き続けるだろうから。
 ともかく、つまり雄太はそういうヤツで、ぼくは彼が苦手だった。
 彼の言葉は弾丸のように、ひとつもあやまたずに、ぼくの心臓をグイグイ直撃する。
 心臓に悪いというのなら、今回の急の呼び出しも、そうだった。
 雄太は学校にいる限り、一線を越えて、ぼくに近づいては来ない。
「隆之の坊ちゃんヅラ見てると、こっちまで情けなくなるんだ。イロ男、カネと力はなかりけり、の生き見本みたいなもんだからな、お前は」
 そういうことで、あるらしい。
 まことに、過不足のない説明のように思われる。
 学校では他人ヅラをしているものだから、ぼくらがイトコ同士だと知っているヤツらは、
「おい。あんまり親戚づきあい、してないのかよ」
 といぶかしげにさぐりを入れてくるほどだった。
 ところが、学校では他人顔のクセに、家に戻ってイトコ関係になるや否や、彼は遠慮会釈なく、ぼくに襲いかかってくる。2行以上の、言葉の弾丸で。
 それが愛情からとはいえ、ツライことには変わりない。
 ぼくはなるべくなら、学校以外では雄太に会いたくない。雄太とつきあう時は、リョウや他の友人たちといっしょの時のほうがいい。
 たぶん遠藤雄太は、中学時代の一部のオンナどもの間で、悔しまぎれにささやかれていたように、ホンモノの“オンナ嫌い”か、あるいは“人間嫌い”なのだろう。
 なのに、その雄太に呼び出されて、1対1で会わなきゃならないというのは、それだけで恐怖だった。
 ぼくはとっくに切れた受話器を置いて、のろのろと部屋に戻った。
 そもそも雄太は、よほどのことがない限り、ぼくを自宅に呼びつけたりはしないのだ。ということは、つまり、よほどのことがあるのだろう。
 せっかくの夏休みが、こういう始まり方をするなんて、あまり歓迎できない。
 ぜんぜん、愉快じゃない。
 ぼくはベッドに腰を下ろしたものの、突然、わけのわからない怒りに襲われて、思わずベッドにひっくり返ってしまった。
 歓迎できないことが、この夏は多すぎる。まったく、中道茂も、遠藤雄太も……。


 雄太の家は、街の中心に近い住宅街にあった。
 街の中心といっても、街そのものが小さいから、銀行や商店が並ぶ通りをひょいと脇に入ると、もう、普通の住宅が並んでいる。
 ぼくは自転車で雄太の家にゆき、2時少し前に、門をくぐった。
 門から玄関まではゆったりとした飛び石が続き、そこを歩いていると、庭の植木のトンネルをくぐることになって、真夏でもヒンヤリとする。
 玄関の前に立ったまま腕時計を睨んで、2時ジャストに、玄関のベルを押した。
 しばらくして、雄太が仏頂ヅラで、ドアを開けた。
「イヤミなくらい、ジャストじゃないか」
「うん。叔母さんは?」
「いない。茶の湯の会で、出かけてる」
 ぼくはがっかりした。
 叔母さんは、実家が華道小笠原流の分家のクセに、そういう水商売にはまるで興味のない健全な主婦をやっている。
 せいぜい趣味のお茶とか日舞のおケイコで、実家の職業とのバランスをつけているつもりらしい。
 わりと話好きなおばさんで、ぼくが遊びに来ると、親戚の悪口やら、趣味で通っているカルチャー教室の講師のうわさ話やらを、とめどなく、しゃべりだす癖がある。
 いつもは内心うんざりしながらも、ぼくは八方美人の優等生だから、ついつい話し相手にさせられてしまうのだ。
 だけど、今日という今日は、叔母さんに期待していた。
 叔母さんの話し相手になっていれば、それだけ雄太と対峙する時間が減るじゃないか。
 それを期待していたのに、叔母さんがいないとなると、すぐにも雄太とふたりっきりにならなくてはならない。
 それを思うと、叔母さんを恨みたくなるのだった。
「オヤジはいるぜ。挨拶したけりゃ、書斎な」
 雄太はニヤリとイヤミに笑って、さっさと2階に上がって行った。
 彼はぼくの如才のなさ、つまり、よその家に来た時に、その家の人にきちんと挨拶をするとか、そういうことにこだわるぼくを、たぶんバカにしているに違いなかった。
 叔父さんは、お家元――つまりはぼくの父親の一番下の弟で、遠藤家に養子として婿入りした人だった。遠藤家は昔から女系家族らしく、婿養子を迎えることにはなんら抵抗はないようで、雄太の母親の一番上の姉もまた、婿養子を迎えているのだった。
 その叔父さんに挨拶に行こうかと思ったものの、雄太にバカにされてまで書斎に顔を出すのもシャクなので、さっさと雄太のあとについて2階に行った。
 雄太の部屋のドアを開けて、ぼくは例によって、ちょっと立ち止まった。
 相変わらず、怖いくらいきれいに整理整頓されている。
 ぼくたちの年頃の部屋にはありがちな、青臭いニオイすら全然しない。
 でも、雄太の部屋もぼくの部屋とおんなじで、和室にじゅうたんを敷いて、洋室にしている。
 昔の6畳間なので、わりと広い。
 しかも雄太の性格を反映していて、余計な装飾品がない。
 敷いてあるじゅうたんが、派手で高価な天津段通で、それが唯一の装飾品といってよいほどだった。
 部屋の隅のガラス・ケースに、白銀色した豪奢なトロフィーが、ある。
 小学生の頃、駅裏にある水泳教室に通って、地区大会小学高学年の部で優勝したリョウと、永遠の友情の絆を誓ったという、いわく因縁のある準優勝トロフィーだった。
 その由緒あるトロフィーを納めたガラス・ケースは、いまでは物置台と化し、湯沸しポットやインスタントのカップめん、簡単なお茶のセットなんかが置かれている。
 ぼくが雄太の部屋に入ることは、1年に、そう何度もあるわけではない。
 たぶん、3、4回といったところだけど、そのたびに、なんだかハッとする。
 それは単純にいえば、ガラス・ケースの上の湯沸しポットの所為だった。
 雄太が自分の部屋に湯沸しポットを持ち込んだのは、確か中学に入って、試験勉強をしなければならなくなってからだったと思う。
 試験前の一夜づけで、ねむけ覚ましのコーヒーや紅茶を、わざわざ階下に入れに行くというのは面倒だし、それなら自分の部屋に、ちょっとしたお茶の用意をしておいたほうがいい、という程度だったらしい。
 ところが、あれは中学2年くらいだったか、たまたま遊びに来たぼくに、叔母さんはグチをこぼした。
「雄太ったら、部屋にコーヒー・ミルや紅茶のティー・バッグまで持ち込んで、それだと用事が足りちゃうから、日曜日でも、あんまり居間に降りて来ないのよ。もともとテレビも、あんまり観ない子だったし」
 言外に、さびしいという雰囲気があった。
 雄太に注意して欲しい、という含みがあるようにも思えた。
 それで如才のないぼくは、叔母さんの意を汲んで、雄太にそれとなく注意した。
 すると、雄太は黙って立ち上がり、押入れを開けた。
 押入れには、ポテトチップやクッキーのたぐい、ペット・ボトルのドリンクや、要するに、ちょっとした食料が、小さなダンボールひとつ分くらい、ごっそり入っていた。
「なんなんだ、それ」
「立てこもる時にも、便利だろ。ミネラル・ウォーターやサトウのご飯、サバのみそ煮缶もあるぞ」
「立てこもるって……ふぅ~……。で、立てこもって、登校拒否でも、するつもりなのか」
「これは、いざって時のためだ」
「いざって、どういう時さ」
「お前、親とケンカした時なんか、旅行カバンに家出用の荷物を詰め込んで、覚悟を決めるってことしないのか」
「え……」
 ぼくはその時、ほんとうに絶句したのだった。
 ぼくだって、生活力溢れた母さんや、お家元に囲まれて、時々口ゲンカくらいはする。
 だけど、それで家出用のカバンを用意するというような、過激なまねはしたことがないし、考えたこともなかった。
 けれど、ぼくが絶句しているのを見て、雄太もまた、絶句した。
「そうか。隆之は、そういうことしないのか」
「誰だって、そんな準備しないぜ。フツー」
「俺は“フツー”を訊いてるんじゃない。お前はどうかと、訊いてるんだ」
「ぼくは、しない。家出用のカバンも、立てこもる用意も」
「そうか」
 雄太は、お前という人間がよくわかった、というように、大きくため息をついた。
「お前の親ばなれが遅いのか、俺の親ばなれが早いのか、どっちかだな。リョウは、気持ちはよくわかる、そういってくれたぞ。自分でする勇気はないとも、いったけどな」
 雄太は、あっけらかんといった。
 たぶん、ぼくの根強い雄太崇拝、というより内心の雄太に対する恐怖は、こういうディテールの積み重ねがあるからだと思う。
 雄太みたいなエキセントリックなヤツならともかく、リョウみたいな、つまり、かなり平均的な少年にしてからが、家出用のカバンを用意するのにやぶさかでないというのは、中学生のボンボンのぼくには、かなり衝撃的なことだった。
「雄太。叔母さんたちと、すごいケンカでもしたのか?それで、ロウジョウする気になったんだろ」
「お前って、アホだな」
 心配になって恐る恐る訊いてみたぼくを、雄太はあからさまに軽蔑した。
「これは儀式みたいなもんだ」
「どういう儀式だよ」
「自分以外のすべてを、敵にまわす覚悟がいる時もあるだろ。その、決意の儀式だ」
 雄太は顔を紅潮させて、キッパリといった。
 たぶん、その時、雄太はささいなことで、叔母さんたちと対立していたのだろう。
 叔母さんたちはたいしたことと思ってないのに、雄太はその対立を、かなり深刻に受け止めていたに違いない。
「部屋に立てこもるのもやむなしだ」
 とまで、思いつめていたのだろう。
 だけど、それが“いざという時”のために食料を溜めこむという現実的な行動に結びつくところが、現実ばなれしていて、当時のぼくには恐ろしかった。
 中学時代はそれくらいだったけれど、高2のいまでは、雄太は天下御免で食料を部屋に備えているばかりか、机の一番下の引き出しを抜いた奥の空洞に、ウイスキーまで隠し持っている。
 どうしてそれを知っているのかというと、以前、部屋に遊びに来た時に、雄太が秘蔵のウイスキーを出してくれたからだ。
 そうして雄太は、ほとんど居間で家族と過ごすこともなく、学校から帰ると自分の部屋で、自分だけの時間を過ごすらしい。時々は、ウイスキーで一杯やりながら。
 そうやって、刻一刻と自分の城を固めている孤独な戦士の雄太が、一方の学校では、“人間嫌い”だの“硬派”だのと噂されているにしろ、フツーの男子高生をやっているというのが、やっぱり、ぼくには恐怖だった。
 しかるに、世の男子高生たるもの、一見おとなしそうに見えて、その実、どこでどんな覚悟を決めて、どんな武器を準備してるか、知れたもんじゃないという気がする。
 雄太の部屋を訪れるたびに目につく湯沸しポットは、
“俺さまをナメんなよ”
 という仮想敵国に向けての―――とりわけそれは軟弱男の代表選手みたいなぼくに向けての、遠藤雄太の宣戦布告のように思える。
 だから、雄太の部屋に足を踏み入れて、湯沸しポットを目にするたびに、ぼくはギョッとして、ハッとなってしまう。
 ぼくは、遠藤雄太が苦手だ。
 好きとか嫌いとか、そういう次元の、問題じゃなく。
 だけど、常にぼくに何かを意識させる点においては、リョウや、中道茂や、岡本浩と、たいした違いはないのかもしれない。


「ところで、話ってなんだよ」
 雄太がミルで挽いたコーヒーを出すや否や、ぼくは覚悟を決めて、いった。
 最後には必ず、雄太にいい負かされるんだから、それならさっさと負けて、ここを退散したほうがいい。
 ぼくは、そう考えた。
「お前、岡本浩を、知ってるな」
 雄太は、あぐらを組んでいるぼくの真向かいにあぐらして、ぼくをじいっと眺めながら、唐突にいった。
「……ああ、岡本浩か」
 岡本浩の名前が出て、ぼくは一瞬にして、呼び出された理由がわかった。
 わかってみれば、なんのことはないのだ。
 しかし、何しろ朝の8時過ぎにたたき起こされて、呼び出しをくらい、すっかり震え上がってしまって、とても岡本のことまでは考えつかなかった。
 それくらい、雄太はぼくにとっては、ある意味で恐怖のマトではあるのだ。
「知ってるよ。物理の追試でいっしょになったし」
「学年1、2の秀才だな。そのクセ、わりとカオがいいだろ」
「他人に興味ないふうの雄太でも、やっぱり気になるのか」
「オリコン発表で、イヤでも名前が目につくだろ。もっとも、あいつが俺と同じ水泳部員であること以外には、いまでもよくは知らないんだけどな」
「うん」
 ぼくはあいまいに相槌を打った。
「その岡本が、どうかしたのか?」
「あいつ、きのうの帰り道で、リョウを待ちぶせしてたんだ」
 雄太はゆっくりと、自分のコーヒーを飲んだ。
「ふぅーん」
 ぼくは危うく吹きだしそうになるのを、精一杯、マジメな顔をしてこらえた。
 17歳やそこらで、めいっぱいアナクロな男というのは、やっぱりいるのだ。
 いま時、待ち伏せしているというのが信じられない気がするけれど、まあ、あの岡本浩なら、そういうこともやるかもしれない。
「それが、どうかした?」
「まったく、バカバカしい」
 雄太はマジメな顔つきで、カンカンに怒りながら説明した。
 雄太の説明によると、きのう、部活後のいつもの帰り道をリョウとふたりで歩いていたら、ふいに角の家の塀の陰から、のっそりと岡本が出て来た。
 岡本はリョウに向かって、ちょっと話がしたいといったという。
「ここんとこ、リョウの様子がヘンだったから、俺も気にはしてたんだ。お前、気づいてたか?」
「気づいてましたよ」
 ぼくは胸の動悸を押さえながら、平然といった。
「ゴールデンウィークあたりに、映画に誘われたとか誘われないとか、そういう話だろ」
「最初は、たまたま映画館の前でバッタリ会って、いっしょに観ようってことになったらしいけど、でも、そういう場面を見てるヤツが、同じ学年にひとりやふたり、いるんだよな。不思議と」
「うん」
「リョウたちの場合、いっしょに観た映画ってのが、悪かった。あの頃、駅前の映画館でリバイバル上映されてた『ある愛の詩』だったんだ」
「『ある愛の詩』?あの、不滅のラブ・ストーリーの」
「ああ。男同士がふたりで並んで観るような内容じゃねえだろ、ああいうの。それで、いつの間にか尾ひれ背ひれが付いて、噂が広がって、水泳部内でも密かに話題になってたんだ、リョウたちのことは」
「……なるほど」
 雄太はすましているけれど、実は遠藤雄太というヤツは、内心では誰よりも、そういう噂話が好きで、なおかつ、誰よりも詳しい―――という恐るべき闇の顔をもっている。
 きっと水泳部の更衣室では、噂なんかには目もくれない無関心を装いつつ、誰よりも耳をそばだてているに違いない。
 もっとも、部のみんなにからかわれてもリョウは笑っていたので、雄太としては、まあ、バッタリ出会って、その場の成り行きで映画を観たんだろうくらいに思っていたという。
 ところが、明日から夏休みになるという日の帰り道、岡本がわざわざふたりの前に現れて、なかんずく、リョウに、
「話がある」
 と、アヤもそっけもないようないい方で迫って来たので、雄太としても、チラッとふたりの関係を疑ってはみたものの、しばらくはあっけに取られて言葉もなかったという。
「なんといっても、お前、向こうはあの岡本浩だぜ」
 そういう雄太は、いつになく息を弾ませているように見えた。
「噂は噂として、マジに受け止めていなかったということもあるけど、まさかあの岡本が校外で待ち伏せまでして話しかけてくるとは思わなかったさ」
「うん」
 ぼくは素直にうなづいた。
 同じ水泳部の雄太でさえも、岡本がリョウに……という図式には冷静でいられないらしいのがわかって、密かにうれしかった。
 ぼくも、それを知った時は、たいそう驚いたのだから。
 彼はほんとうに、単なるスポーツ・マンとか、単なるガリ勉秀才とかいうレッテルでは語れないヤツなのだ。
『受験生予備軍』としての2年生全員の良心の結晶というか、少なくともぼくにとっては、侵すべからざる威厳に満ちた存在だった。
 どこの学校にも、そういう普通の生徒の俗事―――それは当然、恋愛がらみのスキャンダル沙汰なんかのことだが、そういうこととは無縁のところで、燦然と輝く高僧のごとき優秀な生徒が、ひとりやふたりはいる。
 みんなはそいつのことを、心から尊敬するし、
「勉強ばかりしやがって」
 というような、ひがみ根性まるだしのかげ口はきかない。
 既にして、そういう次元の優等生ではないのだ。
 だから、その岡本浩がリョウに対して、興味まるだしで本気でどうのこうのしているとは、さすがの雄太も、考えてもいなかったらしい。
「岡本、わざわざ待ち伏せまでして、リョウに何をいったのさ」
 好奇心をそそられて尋ねると、雄太はあっさりと首を横に振った。
「いきなり目の前に現れて、リョウに、話がしたいんだけど、とかなんとかいっただけだ」
 ところがリョウは露骨にイヤな顔をして、
「話なんか、いまじゃなくたっていつでも出来るだろ。例えば、部のみんながいる更衣室でだって」
 とむっつりして、断ったという。
「その時点で、リョウが岡本とふたりになりたくないらしいのがハッキリしたんで、そこはそれ、俺がきっちり対処しといたんだけどな」
 雄太はカップに口をつけてコーヒーをすすりながら、当然のようにいった。
「ふぅん」
 ぼくは密かに、岡本に同情した。
 リョウとは腹心の友関係にある雄太のことだから、たぶん、
「ツラ洗って、出直して来な」
 というような意味合いのことを、少しは丁寧にいったのだろう。
 岡本が立ち去ってから、雄太はリョウに率直な事情説明を要求した。
 そして、リョウがいつかぼくに打ち明けたのと同じこと、つまりは、岡本が以前からリョウに入れあげていること、他に好きなヤツがいるといっても、まったく効果がないことなどを、リョウ本人の口から聞き出したらしかった。
 事態がそこまで進展し、深刻化しているのに、親友の自分が何も知らされずに圏外に放置されていたのがよほど悔しかったらしく、思わず雄太が責めると、リョウは、
「冗談めかしく、部内で噂になってたし、きっと過激な雄太のことだから、こういうスキャンダラスな問題は自分自身で決着つけろよと、見て見ぬフリを決め込んでると思ってたんだ」
 といったという。
「部で噂になってたといっても、ほんのジョークでからかってただけで、誰も本気にしちゃいないだろ。まさか、あの大秀才の岡本がホモ……、あ、いや、その、お前に本気で興味があるなんて、誰も思うわけないじゃないか」
「それはそうだけど。なんか、こういうことで男同士が相談するってのは、あまり気色のいいもんじゃないだろ。好きじゃないんだ、マジで」
 リョウがぼそぼそとそういった挙げ句に、同じ部の雄太にはいいにくいので、ぼくに相談に行ったとうっかり口を滑らせたらしい。
 それを聞いて、雄太は怒りでめまいがするほど憤慨したと説明した。
 雄太は、なまじ人見知りする性格だけに、気を許した人間を、とことん溺愛するところがある。
 リョウは雄太のお気に入りの親友だから、そのリョウが自分を通り越して、ぼくに相談に行ったというのが、えらくショックだったに違いなかった。
「リョウはさ、雄太が無関心を装ってるんで、ワラにもすがる思いで、ぼくのとこに来たんだよ、きっと。ぼくは雄太に比べたら、ワラにも等しい存在だからさ」
 ここはへりくだった態度をとるに限ると思い、急いで笑顔をつくっていうと、
「―――アホ」
 雄太はぼくをじろっと見据えて、顔色ひとつ変えずに、口先だけで切り捨てた。
「お前って、やっぱりどっか抜けてんのな。俺が怒ってんのは、リョウが思いつめて隆之んちに相談に行ったのに、ろくなアドバイスもせずにおちゃらけてたお前が、あんまりにも情けないからじゃないか」
「おちゃらけてたって、雄太、お前なあ」
 どうしてこう、キツイことをさも平然といえるんだろう、この遠藤雄太という人間は。
「リョウが、そういったのか?ぼくがその、おちゃらけてたって」
「本気で相手にしてくれなかったと、いっただけだ。だけど、俺はお前という人間がどういう気質の男かをよぉーく知ってるつもりだからな。お前がどんな態度で接したかくらい、容易に想像つくのさ。お前、のらりくらりと目の前の災難をかわしてる時の自分が、他人の目にどういうふうに映ってるか、知ってんのか?」
「い、いいや……」
「こっちが真剣なら真剣な分だけ、お前のいい加減さに傷つくんだよ」
 これには、さすがのぼくもムッとなって、身分も省みずに、雄太にいい返した。
「ぼくはあの時、暑くて、少しボンヤリしてたんだ。リョウがそこに来て、思いつめた顔して、わけのわからないこといい出してさ。『隆之には真剣になるものがないのか』とかナントカ訊かれたって、答えようがないじゃないかよ。そうだろ?」
 そりゃあ雄太にしてみれば、いざという時のために食料まで備蓄するほどの人間だから、いつ、何があっても用意周到な対応が出来る自信があるのかもしれないけれど、こっちはなんの準備もしていない。
 そういう、のほほんとした人間の前に、ふいに現れて、隠し持ったナイフを突きつけるみたいなことをされても、こっちは茫然とするばかりなのだ。
 雄太は、そこがわかっていない。
「お前、ほんっとにアホだな」
 雄太はぼくの必死の弁明なんか、てんから耳に入っていない様子で、決めつけるようにいった。
「俺が怒ってんのはだな、お前のだらしなさじゃないか。お前、せっかくの失恋のチャンスを、またしてもダメにしちまったんだぜ。そこんとこ、気づいてんのかよ」
 雄太は容赦のないいい方をした。
「リョウが、大秀才の岡本から迫られてさ。それを相談しに来た時に、お前はなんで、いうべきことをいわなかったのかと、俺はそれを怒ってるんじゃないか」
「……いうべきことって、なんだよ」
「『いまだから打ち明けるけど、ぼくはリョウのことがずっと好きだったんだ。男同士でそんなのってヘンだから、いままで何もいわずにあきらめてたんだ。岡本とどうこうするっていうんなら、ぼくだって考える余地はあるぞ』とか、つまり、そういうことさ」
 雄太はご丁寧に、声音をつくって、芝居じみた口調でいった。
 そういうところを、なおざりにしないヤツなのだ、雄太は。
 なまじ、そのセリフがマジメなものだけに、雄太もまじめにいい、それを拝聴するぼくも、ひどく真面目な顔になってしまった。
「俺のいおうとしてること、わかったか?」
 雄太はずずずっと音を立ててコーヒーをすすりながら、なんか文句あるかという表情で睨んだ。
 やっぱり、心臓に悪いことをいわれたな、とぼくはげっそりした。
 朝に呼び出しの電話を受けた時から、何か、このテのことをいわれるだろうなと思っていたのだ。
 きつい表情でぼくを睨んでいる雄太をボンヤリ眺めているうちに、当然のように、中道茂を思い出した。
 中道茂は、雄太と違うことをいった。
 ―――お前は、早川亮輔を意識してる。早川亮輔のことが、好きなんだ。岡本っていうダーク・ホースが現れたんで、こわがってるんだ。早川亮輔を岡本に取られそうになって、あせってんだ。このままじゃ、隠してる自分の気持ちを岡本か早川のどっちかにぶちまけそうで、それがこわいもんで、手っ取り早く、俺で手を打とうとしてんのさ。
 確か、そんなようなことをいったような気がする。
 ぼくはあっけにとられて、ビックリして、訊き返すことも、否定することも出来なかった。
 ほんとうに、感情的になった人間というのは、何をいい出すか知れたもんじゃない。
 こっちの気持ちなんかおかまいなしに、まくしたてて、そして涼しい顔をして、すいっと背中を見せて立ち去ってしまう。
 中道茂はあれ以降、夏休みに入るまで、ぼくに近寄りもしなかった。
 とはいえ、同じクラスだから、いやでも視界には入ってくる。
 そうすると中道茂のいったことが、パブロフの犬の条件反射みたいに、よみがえってくるのだ。
 ぼくは確かに、リョウのことが好きだった。
 それは偶然に、中道茂が見抜いたとおりだった。
 でも、ぼくはほんとうに、リョウが好きなんだろうか。
 男同士だからというただそれだけの理由で、あきらめられる、その程度の感情しか抱いていないのだろうか。
 岡本浩という、ぼくにとって容易ならざらぬ強敵が現れたことで、リョウと岡本の間にゴタゴタが起きるのを、ぼくは恐れているのだろうか。
 万が一にも、リョウが岡本とどうにかなってしまったら、ぼくはひどく動揺するのだろうか……。
 どれもこれも、ヒスった男の妄想で、考えれば考えるだけ、話にもならないという感じだったけれど、それでもやっぱり、少しは気にかかった。
 そういう時にタイミングよく夏休みに入ってくれたものだから、ぼくはほんとうに、ホッとしていたのだ。
 教室で中道茂と顔を合わせなければ、条件反射的に茂のいったことを思い出して、不愉快になることもないだろうと。
 それが、なんだってまた、中道茂とは違った意味で雄太に呼びつけられて、またも確信に迫った事実を突きつけられなければならないのだろう。
 どうしてこいつらは、当の本人が触れて欲しくないようなことをこねくりまわして、
「お前はそうなんだろ」
 と決めつけるようにいうのだろう。
 しかも、タチの悪いことに、雄太は中道茂以上に、ぼくという人間を知っていた。
 中道茂のいったことが正しいのかどうか、正直なところ、ぼく自身にもわからないところがある。
 けれど間違いなく、いま、雄太がいったことは、正しいような気がした。
 雄太がいったように、
「いまだから打ち明けるけど、ぼくはリョウが好きなんだ。でも、男同士でそんなのはヘンだと思うから、あきらめてたんだ。お前が岡本とどうにかなるっていうのなら、ぼくにだって考えがあるぞ」
 とでも冗談にまぎれていえば、ぼくは確実に、失恋できたかもしれない。
 たぶんリョウは少しだけ目を見開いて、お前マジかよ、というような顔をして、やがてやれやれと笑いだすんだ。
「なんだよ隆之。人が真剣に相談してる時に、お前、そういう冗談がよくいえるなぁ」
 とでもいっただろう。
 どさくさにまぎれて告白したぼくは、リョウの屈託のなさに救われる思いで、ずいぶんと気がラクなまま、完全なる失恋を期すことが出来たかもしれないのだ。
 雄太に知られることもなく、リョウが気づくこともなく、何よりもぼく自身が、さほど傷つくこともなく。
「雄太は、なんでわかったのかなぁ。ぼくが時々その、リョウを、いいなと思ってるのをさ」
 ぼくはほんとうにビックリしていたし、慌ててもいたので、気がつくと、しみじみとつぶやいていた。
「その、ぼくは別に、隠してたわけじゃないよ。つまりなんというか、隠さなきゃならないほど大袈裟な感情じゃなかったし、いうべきようなことでもなかっただけのことで……」
 おそるおそる、全面降伏の心情で、おうかがいを立てると、
「アホだなぁ、隆之は」
 雄太は今日、ぼくに会って、何回いったかわからない“アホ”を、またも繰り出した。
 とはいえ、今回のは少し手加減していて、聞きようによっては、やさしく聞こえないこともなかった。
「隆之、お前、自分のクセ、知らないだろ」
「クセ?どんなクセさ」
「お前が本気の時は、どうしようもなくて、怒りだすんだ。昔からだぜ、そのクセ。それもブーブー怒る明るいもんじゃなく、じめじめ怒る、暗い怒り方するんだ。性格が陰湿だからな。暗いんだよ、お前は」
 さすが、だてに長年イトコをやってるわけじゃないなと、ぼくは感心した。
 いわれてみれば、確かに雄太のいうとおり、ぼくが本気の時は、だいたいにおいて、怒るという感情がついてまわっていた。
「リョウがいってたぜ。相談に行ったけど、隆之は怒ってるみたいだった、こういうバカな相談したから、あきれられたかなといっていたから、この賢い雄太さまには、ピンときたのさ。それまでにもしばしば、怪しいと思うことは多々、あったしな」
「多々、か」
「でも、お前は意外に道徳的なとこがあるからな。リョウにそんな気持ちを抱いてることを、自分で認めたくなかった。あくまでもリョウは親友に過ぎない。そう思い込むように努めてたんだろ。よくあるからな、そうゆうパターン」
「考えすぎだよ、雄太」
 さすがのぼくも、感極まって笑いだしてしまった。
「そんな深刻なものじゃないさ。ぼくがリョウをいいなと思うのはだな、もっとこう……」
 現代国語が苦手なので、意味がわかっているのに単語が浮かばず、ぼくはうーんとうなった。
「もっと即物的なものなんだ、きっと」
 ようやく思い出して、勇んでいったものの、よく考えたらあまりほめられたセリフでもなかった。それで、気まずくなって、黙り込んだ。
「コーヒー、もう1杯、どうだ」
 雄太は聞かなかったことにしてやるよとでもいうように、平然として、話をそらした。
 さすがに、いざとなったらロウジョウを覚悟して食料を溜め込んでいる男は違うと、ぼくは感服して、発作的に、雄太に忠誠を誓いたくなった。
 忠誠を誓うから、このことをネタに、あまりいじめないで下さいよ、と。

遠藤雄太の家を出たのは、午後の3時過ぎだった。
 3時を過ぎたのに、少しも涼しくならずに、ぼくは少し、めまいがした。
 自転車を押して街中をふらついているうちに、なんだか急に、岡本浩の顔が見たくなった。
 雄太が家にいたということは、たぶん、今日は水泳部の練習は休みなのだろう。
 ぼくは、岡本浩の家を知っていた。
 夏休みに入る前、たまたま帰り道でいっしょになって、家に誘われて、遊びに行ったことがあるのだ。
 岡本の家は、街の東側にある本町にあった。
 市内でも古い木造のお屋敷やお蔵なんかがある由緒正しい地区で、地区の名前が本町というのからして、その歴史を物語っている。
 どんな街にも、本町とか元町という名前の地区があるけれど、あれはみんな、その街のモトになっている町という意味なのだ。
 岡本の家は、2代続いた弁護士とかで、こんな狭い街にも弁護士がいたのかと驚いたものの、家業についていえば、ぼくだってほめられたものではない。
 事務所が別棟になっている自宅は、総レンガ造りの完全洋風住宅で、かなりの豪邸だった。
 岡本に引っ張られるようにして、家に入ると、岡本の母親が出てきて、ビックリしたようにぼくを眺めた。
「息子の勉強の邪魔をする悪友とでも、思ったんじゃないのかな」
 岡本の部屋に通されたものの、母親のことが気になって、そういうと、
「俺が学校の友だちを連れてくるのは、これが初めてだからさ。中学の頃から、そういうことなかったから」
 彼は照れくさそうに顔をしかめた。
 それはその通りだったみたいで、しばらくして、アイス・コーヒーとポテトチップスを持って部屋に来た母親は、
「浩が学校の友だちを連れてくるなんて、ほんと、珍しいのよ。まあ、笹倉くんっていうの。そう。お宅はどちらのほう?あら、まあ、華道の宗家の、息子さんなの。まあ、私も少し、習ったことがあるのよ。ほら、嵯峨御流というの、ありますでしょ。お知り合いの奥さまに、師範代教授というのかしら、そういう方がいらしてね」
 といった調子で、息子が初めて連れてきた友人の身元調査をしたあとは、すっかり安心したのか、満足そうに出て行った。
 ぼくの八方美人的な優等生ヅラも、こういう時は役に立つのだ。
 岡本は母親が出て行くのを用心深く見守ってから、おもむろに、ポケットの中から、携帯電話を取り出した。
「笹倉、これ、見ろよ」
 さも得意そうに開いて出したのは、1枚の画像だった。
 なにげなく目を落とすと、リョウの写真だった。
 まずいものを見せられたなと思った時には、もう遅くて、ぼくはまじまじと眺めてしまっていた。
 写っている場所が、よくわからなかったのだ。
 ちょっと見には、水泳部の更衣室のようでもあり、近くのコンビニのようでもあって、ひとりで棚のようなものをのぞき込んでいるリョウの横顔なのだが、ちらりと写っている照明なんかは、ぼくが知っているタイプのものではなかった。
「今年の冬休みは、ずっと勉強してたんだ。正月3日の夜、さすがに疲れたんでテレビでもと思ったんだけど、ろくなのやってなくてさ。気分転換に映画でも観ようと、ビデオ・レンタに行ったんだ」
 その時、店の中で偶然リョウを見かけて、何を借りるのか興味本位にながめていたら、すいすいとアダルト・コーナーに入って行った。
 リョウと岡本は同じ水泳部だけど、そんな時に声をかけるのはさすがに気まずくて、商品棚越しに、遠くから眺めていた。
 そのうち、1枚、2枚とDVDのパッケージを手に取り、何食わぬ顔でレジの前に進んだ。
 この写真は、その時にケータイで撮ったものだと、岡本は説明した。
「いかにも爽やかな感じの早川が、ああいったものを平気な顔して借りてるってのが、俺には意外でさ。何を借りるのか興味があったんで、ずっと見てたんだけど、あいつ、けっこう興奮してたな。ジーパンの前をデカくさせて、ひと目でそれとわかったんだぜ。熱っぽい目をしてさぁ……。真剣にビデオを選んでるあいつを見てたら、なんだかこっちまで、妙な気持ちになってきてさ」
「おい、岡本、リョウのことは……」
 ぼくはムッとなって、危うくムキになりかけたけれど、やめにした。
 本当は、
「リョウのことは、持ち出さないって約束したじゃないか」
 といいたかったのだけれど、聞いてしまったものはしょうがない。
 それにしても、なんでもないビデオ・レンタル屋が、岡本がリョウを意識するキッカケの場所だったとは、虚を突かれたような感じがあった。
 本町のビデオ・レンタといえば、うちの高校を卒業した先輩たちが、毎年何人かアルバイトをするというチェーン店である。
 そこへ行けば、18禁のアダルトものなんかも、店長のいない間にこっそりレンタルしてくれるという噂も聞いてはいた。
 だけど、ぼくはそういったシロモノに頼るほどマセてもいないし、いまのところは、映像よりかは実物のほうが、なんぼか興味があった。
 映画も、ビデオやDVDを借りて観るよりも、映画館の巨大なスクリーンで、迫力あるサウンドで聴くほうが、よほど好みだった。
 だから、ぼくは、とんと本町のビデオ・レンタへは、出向くこともなかった。
「で、いったい、どんなヤツ借りたんだよ、リョウは」
 ぼくは半分、ヤケクソで尋ねた。
 どんどん岡本とリョウの問題にはまっていくような気がして、もう、どうにでもなれという心境でいたのは確かだ。
「別に、これといって特徴のない、セーラー服ものだったな」
 そういいながらも、岡本はどこか、神妙な顔をしていた。
「で、俺も観てみたいと思ってさ。早川が観たヤツを、俺も」
「観たのか、岡本」
「ああ。1週間くらいあとに、借りたんだ」
 ふいに岡本がぼくに背中を向けて、引き出しの奥をごそごそとやった。
 振り返りざまに、ぼくに1枚のDVDを差し出して、
「これ、コピーしといたんだ。観てみるか、笹倉も」
 ぼくの意思を問うように、しげしげと見つめた。
 なんの臆面もなく、こうした話題をすんなりいえてしまう岡本が、平凡すぎるぼくなどにはいまだにわからない部分なのだけれど、気がついた時にはぼくは、
「うん」
 とうなづいていた。
 普通の洋画やアニメなら、もう少し気安く返事も出来ただろう。
 でも、こうしたエロの場合は、ちょっと違う感じがする。
 自分の知っている特定の誰かが、これを観て興奮して、そして同じ男の立場で、おそらくは行き着くところに達したであろう画像を観るのは、どこか、その人の隠れた内面をこっそりのぞき見するような気もしないでもない。
 なんとなくリョウに申し訳ない気もしたけれど、それ以上にぼくは、リョウが借りたというDVDの中身に、興味があった。
 リョウは、いったいどんなエロが好みなんだろう。
 
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