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  • 2010⁄08⁄14(Sat)
  • 18:49

原体験

大人になってからも尻を叩いたり叩かれたりすることに興味を持っている人は、たいてい子供時代に尻を叩かれたことがあって、それが原体験になっている。ザッヒェル・マゾッホだって、恐ろしい叔母さんから鞭で尻を打たれたのが原体験だ。だけど私の場合、こんなことに興味を持ったのはもっと後で、しかも叩かれたことはない。

通っていた大学の学生係で家庭教師の仕事を見つけたのは大学一年の夏休み明けだった。その大学は、学園町とちょっと良い住宅地を兼ねたような町の中にあったのだけど、同じ町の中に、私立の小学校があって、そこの5年生の少年の家庭教師だった。その小学校は、中学以降に進めないために、中学受験をすることが前提になっており、その子も随分と早くから塾に通わせられていたようだ。しかし良くあることだけれども、親が必死になればなるほど、子供の方はいまいち乗り気にならないらしく、塾の方も成績は下がり気味で、これは家庭教師でも付けてフォローしてもらおう、ということになったらしい。

電話をして、最初にその家を訪問した日は、母親がそんな状況を色々と説明して、まあ塾の予習復習を手伝ってくれ、というのが表向き、ようは手を抜かないように見張ってくれ、という感じだった。少年はその日はまだ学校から帰ってきていなかったが、そろそろ話も終わって、では今度の何曜日から、という話をしていたところへ帰宅した。母親は少年が帰ってくるなり、私への挨拶を無理矢理させると、いきなり学校のテストを見せるよう命じた。少年は口数も少なく、体つきは5年生にしては少し大人びていて、母親に命じられたことに不満なのは目にありありと現れていたが、それでも言われた通りに鞄からテストを取り出した。何点だったか忘れたが、とにかく母親はいきなりその子を叱りつけた。そして当然のように、「お尻を出しなさい」と言ったのだ。私が唖然として客間のソファーにいる目の前で、少年は向かい側のソファーによじ登ると、ズボンを膝まで下げ、体を肘掛けから乗り出して手を床に着いた。少年のパンツは、所謂ボクサーブリーフで、白の無地だったが、その尻の丸みがソファーの肘掛けに乗り上げていることで際立っていた。「うちでは成績が悪い時は必ず罰があるものと教えています」と、母親は気まずい顔一つせずに私に説明すると、平手で少年の尻を叩き始めた。少年は泣くでもなく、声を出すでもなく、ぐっと姿勢を保って堪えていた。
何回叩いたかは覚えていないけれども、とにかく罰が終わると少年は黙って起きあがって、荒っぽくズボンを引っ張り上げた。その時、反抗的に母親を睨んだ目の中に、微かに涙が光っていた。

「ほら、罰の後は何を言うんですか」と母親は少年に言ったが、少年は無言のまま、ぷいと顔を背け、鞄を持って自室に行ってしまった。
「ちゃんと『ありがとうございました』くらいは言わせていたんですけどねえ。最近はあの調子で」と母親は言った。
私はあっけにとられていたが、今まで知らなかった世界の一端をかいま見たことで、急に興味を引かれてもいた。少年の学校の制服は、紺の半ズボンに、グレーのワイシャツ、紺のソックス、それにかなり個性的な紺の上着だった。ズボンは最近の形で少し長めにカットされていた。小学生がボクサーブリーフを穿くなどと言うのは私が子供の頃にはあまりなかった気がするが、最近は珍しくないのだろうか。とにかくその制服の紺色と、無地の白いパンツと、それにすべすべの少年の脚と、痩せ形の体にしては豊かな尻の膨らみとが、一緒くたになって、私は何か視覚的衝撃を受けたのだ。

家庭教師の仕事を始めてじきに、彼の尻を叩くのは私の役目になった。最初は、塾のテストの結果が悪い時は私が叩き、それ以外の時は母親が叩いていたようだ。私は遠慮もあったので、少年のズボンは下げさせなかった。制服の半ズボンの上から叩いていたのだが、そのズボンの生地もあまり厚くないし、制服にしては良い生地が使われているのか、柔らかくてパンツの裾のラインがはっきり浮き出していた。私はいつも少年を膝に載せて叩いた。少年も私が叩く時は、ちょっと恥ずかしそうな顔をしながらも、「お願いします」と言って素直に私の膝にまたがったし、終わった後は「ありがとうございました」と言っていた。もっともそれは少年の居室で、母親が見ていないところで叩く時に限られていたが、私はすぐそのことに気づいたので、母親の前で罰を加えることはしないように気を配っていた。

だがじきに、母親が言うところでは、少年が「家庭教師の先生に叩いてもらう方がいい」と言うようになったということで、どんな時も、少年を叩くのは私の役目になった。そこで、それまでは学校のテストについては、母親が少年のズボンを下ろして叩き、塾のテストについては私がズボンの上から叩いていたのだけど、母親の代わりもするようになったという口実もあって、私も少年のズボンを下げるようになった。
最初、少年は「ええー」と言っていたが、「じゃあお母さんに頼もうか」というと渋々ズボンを下げた。私は少年を左膝に跨らせ、上体を左脇に抱えるようにして叩いた。
私はいつもあまり強く叩かなかったし、少年も幼い頃から慣れていたので、泣いたりはしなかったが、やはり5年生になって、他人の目の前でズボンを下げさせられるというのは少し屈辱だったのか、少し涙ぐんでいた。
しかしこのころ、少年の勉強の方は明らかに上向きになっていた。元々頭が悪い方ではなかったし、とにかく母親にうるさく言われるのだけが嫌になっていた年齢なのだろう。その分がすべて、男の家庭教師に代わったことで、少年にしてみれば鬱屈していたものが一気に晴れたかのようだった。塾の勉強を手伝うと言っても、軌道に乗ってしまえば予習や復習など自分で出来る。だから私は、少年のテストをチェックしてはちょっと仕置きをするだけの役回りになってしまっていた。
男の子のお尻を叩くだけでお金をもらうアルバイトなどというのは、客観的に考えればずいぶんアブノーマルのなのだが、この時はそういう雰囲気ではなかった。現に成績も上がっていたし。

6年生になると、少年の制服が少し変わった。相変わらずほっそりしていたけれども、それなりの身長にもなって、ズボンがワンサイズ上がったのだそうだ。ところがそのサイズは、まだ長めのものが作られていなくて、その小学校の従来の型どおりの、短めのものになった。その結果、少年に言わせれば「パンツがはみ出すよ!」という事態になったために、ボクサーブリーフをやめて、これまた白無地の、ノーマルなブリーフを穿くようになった。ブリーフの尻を叩くのも悪くはなかった。いつも驚いていたのは、いつ見ても少年の下着が非常に新しいことだった。前のボクサーブリーフの時はワコールのものだったし、今度は違うようだったが、生地も良くて、良いものを穿かせられていた。ブリーフになったことの一番の違いは、尻を叩く時に、私の脚に少年の性器が前よりもじかに当たるようになったことだ。パンツの中の性器の向きが多少違うせいだろうか。生地が薄めで、性器の形をはっきり浮き出させるパンツだと、尻を叩いている間、少年も少なからず刺激を受けるようだった。よく、小学校の登り棒で覚えた快感、などと言うことを言う人がいるけれど、彼の場合は、私の膝で覚えた快感ではなかっただろうか。度々、罰の後に少年のパンツが突っ張っているのを目にするようになった。

次に変化が起きたのは、6年生になって、6月頃のことだっただろうか。
少年の家は、私の大学や少年の通うK学園小学校から、電車で二駅ほどのところにあった。ある日、母親が偶々買い物に出かけて、その小学校のそばを歩いていると、ちょうど反対側の歩道を、小学生たちが駅に向かって下校するところで、その中に少年もいた。少年は母親には気づかずに歩いていたが、どうやらその中の一人の子をからかっているらしく、突然思い切りその子の尻を蹴飛ばした。母親があっけにとられている前で子供達はわいわい騒ぎながら駅の方へ行ってしまったのだという。
この時も、少年に体罰を与えるのは私の仕事になった。だがいつもとは種類が少し違う。テストで悪い点数を取った時の罰と同じというのは、少し不自然に思えた。
私はいつも通り少年を叩いた後、少年が「ありがとうございました」と投げやりに言ってズボンを穿こうとするのを止め、「今日はパンツも脱ぎなさい」と言った。
前に母親から、低学年のうちはパンツも下げていた、という話を聞いていたのだ。
少年は一瞬びっくりした顔をした後、少し泣き顔になって、「え……それは……」と言った。だが少年の方も、いつもとは違う理由で罰を受けていることはわかっているので、しばらくするともじもじとパンツを下げた。辛うじて尻が出るくらいに。私は一気にそれを引き掴んで足首まで下げてしまった。少年の裸を見たのはこれが初めてだったが、座っている私の目の前に少年の性器があった。それは上の縁に、うっすらと産毛を持ち始めていた。私は先ほどと同じく、少年を膝にまたがらせると、その剥きだしの尻を何度も何度も叩いた。いつもパンツの上から叩く時には、丸みの一番ふっくらとしたところを叩くのだったが、この時は違った。少年は私の膝にまたがっているせいで、尻が開き気味になり、肛門まで私の目の下にさらけ出していた。私は肛門の少し下の、通常は割れ目に隠れて見えない敏感なところを、内側から叩くようにした。さすがに散々尻を叩かれて育ってきた少年も、この時は一回ごとに両脚がびくっびくっと動いた。
叩いているうちに、私は手が痛くなった。その前にパンツの上からも随分叩いていたのだから、自然なことである。そこで私はベルトを抜き取って、それを束ねて少年の尻を打つことにした。だがさすがにその姿勢ではベルトは使いにくい。そこで少年を一度起きあがらせた。その時私の目に入ったのは、すっかり硬くなった少年のペニスだった。そしてそれはびくんびくんと脈打っていた。少年の顔を見ると、少年は声を出さずに泣いていた。そして少年がワイシャツの袖で目を拭った瞬間、もくもくと白い粘液が少年のペニスの先端から流れ出していた。おそらく初めての射精だっただろう。噴き出すような感じではなかった。
私は焦った。下半身を剥きだしにした少年と、大学生の男が二人で寝室にいて、少年が射精しているという図は素敵なものではない。慌ててそばにあったティッシュでそれを拭ってやった。何と言ったのか、正確に覚えていないけれども、恥ずかしがらなくても良いとかなんとか、そんなことだったと思う。小学生と言ってもそれなりに性教育も受けていて、まあまあの知識もあるのだろう。少年は黙って頷いた。始末をしてしまうと、私は落ち着きを取り戻した。そして少年に、脚を開いて床に手を着くように、と残酷な命令をした。少年が何も言わずに従うと、ベルトを外してそれで少年の尻を打ったのだった。ベルトの先端が肛門を直接打ったりすると、少年は「いっ」と声を上げて尻をすぼませたが、すぐにまた突き出した。私は少年の尻に真っ赤な痕を残して、その日の体刑を終わりにした。

この後、少年にベルトが必要になることはなかったが、これをきっかけに、たびたびパンツを脱がせて叩くことはあるようになった。もう、少年が勃起してしまうのは毎回のことだった。だから、私の方は、ズボンを汚されないようにということだけを気にしていたと思う。一度受験の直前に、少年が滑り止めに受けた学校の合格に浮かれて落ち着きを失っていることに気づいたので、私は真冬の窓を開け放ち、凍えるような寒さの中で、少年の裸の尻を叩いた。それが、私の最後の仕事だった。数日後から入試の本番が始まって、少年は受験した学校全てに合格した。最難関と言われる国立にも合格していたが、自宅からもうすこし離れた、私立の進学校の方に、少年は進学した。

少年が中学校に入って、夏休みの直前だったと思う。少年の頼みで、彼が私のマンションに遊びに来た。学校帰りで、少年は成績表を持っていた。成績は悪くなかったが、一科目、あまりぱっとしないものを見つけると、私はそれを理由に、お尻を叩く、と宣告した。少年は「はい、お願いします」と言って、立ち上がって、制服の黒い長ズボンを下げた。少年は相変わらず白無地のブリーフを穿いていたが(この時確認したのが、国産の大手下着メーカーが出している、KGという高めのシリーズだった)、私は少年を目の前に立たせ、ワイシャツをめくってパンツを剥きだしにさせると、以前のように膝を跨がせ、幾度も平手で少年を打った。また少し背が伸びていっそうすらりとした少年の肉体は、尻の形をも、やや面長にしたようだった。頃合いを見て起きあがらせ、パンツを剥いてみると、案の定、少年のペニスははち切れんばかりになっていた。私は自分の家にいるという安心感も手伝って、いくぶん性教育じみたことを話し、マスターベーションを教えてやったのだった。

それからも少年からは度々連絡が来ていたが、次に会ったのはつい最近、少年が高校2年になった頃だった。私は彼がすぐにはわからなかった。少年の方から「お久しぶりです」と声をかけられ、私は初めてそれが、自分が手淫を施した少年であることに気づいたのだ。私はその日、有給休暇だった。夕方だったが、少年は今日は部活帰りで塾はない、と言い、暇ならと、私は家に誘った。
少年はあれからほとんど背は伸びていなかったが、さすがに体は引き締まっていて、テニス部で頑張っていますと言った。もう母親に圧迫されて鬱々としていた頃の面影はなく、溌剌とした美少年だった。彼は、懐かしいな、などと言いながら、私の前でズボンを下げてパンツを見せた。ボディーは白だったが、ウエストゴムの赤いローライズが見事に似合っていた。その日、私は初めて少年の思いを知ったのである。
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